to 日記と感想 2007年01月
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将来日記

    将来日記

    XXXXXXXXXXX    終末、復活、永遠の生命、再会(父、母、妻、
              子供、親戚、友人、集会の方々)
              復活と再会の確信はイエスの有体的復活の事実
    291103       結婚60年記念、ダイヤモンド婚
    261016       イカ成人
    251009       コフ成人
    250809       タワ成人
    241103       結婚55年記念。エメラルド婚
    230110       イハ20歳成人
    230713       タテ満80歳
    220728       KM成人
    200713       タテ誕生日満77歳喜寿
    191103       結婚50年記念。金婚
    18秋ごろ 木曜日 阿伎留病院森先生に胃カメラ申し込み
    171229    TM誕生日
    171220     KK誕生日
    171115    TM誕生日
    171016     IK誕生日
    171009     KH誕生日
    1709頃      聖路加約センターに2018年のMRI予約3か月前に聖路加に行く
    170831     芝浦工業会年会費支払締切
    170824(木)12:10キララホールエントランスコンサート、マリンバ
    170822     KS命日
    170817(木)11:30 キリスト教性教育研究会、ナザレ修道会、富永國比古
    170813     KT命日
    170813(日)10:30ナザレン教会浦和教会
    170813(日)14:00比企紀和君
    170812(土)14:00お江戸こらりあーず演奏会、文京シビックホール
    170809     TW誕生日
    170809(水)17:16初音吹奏楽、府中の森芸術劇場ドリームホール
    170808(火)0930池谷医院
    170801     TH誕生日
    170728     TI誕生日 KM誕生日
    170723      IK誕生日
    170713      TT誕生日
    170708(土)14:00在宅医療説明会(キララホール)
    170707(金)10:00池谷医院
    170706      TM誕生日
    170702(日) 集会感話
    170701      TT誕生日
    170630(金)12:20キララホールエントランスコンサート
    170628      IY誕生日
    170627(火)11:00 能城牧師来訪
    170625)日)10:10トミ子集会感話
    170625(日)14:00茅ヶ崎金子邸
    170618(日)15:00今井館総会
    170611(日)14:00武蔵野室内アンサンブル。ブラームス3番他。キララホール


隠れた祈りの効き目 ++++++++ 所感

2007/01/31 07:04

070131(水)4時45分目覚め。朝の閃き。「隠れた祈りの効き目」●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。最終回。「温故知新が『過去を訪ねて指針を得よ』というのであれば、筑波研究学園都市にいるわれわれは『未来を訪ねて指針を得よ』と言いたい」「未来を訪ねる唯一有効な手段がサイエンスの探求である」。・・・・・これには目を洗われる。江崎氏は自分の子供たち教育にも「自由を尊重」しているようだ。最後の最後に言葉少なに真佐子夫人に感謝の意を表している。夫人の内助の功が大きかったことが偲ばれる。江崎玲於奈がつくば大学に新風を吹き込んだのは民間企業での経験があったからである。官公庁に身をおいていた人間であったらこうはいかなかった。文化勲章も受章したと思い出すように言っているのがその表れ。文化勲章にはそんなに価値を置いていない。「現場に神宿る」「世俗職業に神宿る」「下積みの目立たない仕事に神宿る」「小さいものに光るものがある」●隠れた祈りは効き目があることを学ぶ。これ5次元人間でなければわからない。復活は5次元世界のこと。この世は4次元。だから4次元世界の人間には復活がどうしてもわからない。大脳皮質では分からないこと。同じく「隠れた祈りが聴かれる」ということも4次元人間には理解できない。「十字架の言葉は愚か」なことに過ぎない●隠れた祈りをすべきことで連想するのは次の箇所。


塚本訳 マタ 6:6
6:6 あなたが祈る時には、『奥座敷に入り、部屋をしめきった上で、』隠れた所においでになるあなたの父上に『祈れ。』そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。


塚本訳 マタ 6:3-4
6:3 あなたは施しをするときに、右の手のすることを左に悟られてはならない。
6:4 これは施しを隠しておくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。


塚本訳 マタ 14:23
14:23 そして群衆を解散させると、祈りのため自分だけ山に上られた。暗くなってもひとりそこにおられた。


塚本訳 ルカ 6:12
6:12 このころのこと、イエスは祈りのため山に行って、神に祈りながら夜をあかされた。


塚本訳  ヨハ 6:15
6:15 イエスは人々が来て、自分を(エルサレムに)攫って王にしようと計画しているのを知り、自分ひとり、またも山に引っ込まれた。


塚本訳 ルカ 22:31-32
22:31 (そしてペテロに向かって言われた、)「シモン、シモン、見なさい、悪魔はあなた達を麦のように篩にかけることを(神に)願って聞き届けられた。
22:32 しかしわたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈っておいた。(だから一度信仰を失っても、またもどってくる。)もどってきたら、あなたが兄弟たちを強めてやってほしい。」


塚本訳  ルカ 6:28
6:28 呪う者に(神の)祝福を求め、いじめる者のために祈れ。


塚本訳  ルカ 19:41
19:41 いよいよ(エルサレムが)近くなって(はじめて)都が見えると、イエスは都(に臨もうとしている裁き)を思い、声をあげて泣きだされた。


塚本訳 ルカ 23:34ab
23:34 するとイエスは言われた、「お父様、あの人たちを赦してやってください、何をしているか知らずにいるのです。」


塚本訳  ロマ 8:26
8:26 しかし(創造物やわたし達神の子が苦しんでいると)同じように、御霊も、弱いわたし達を助けてくださる。すなわち、(神のみ心にかなうには)どう何を祈るべきかわからないので、御霊自身が、無言の呻きをもって(わたし達の祈りを神に)執り成してくださるのである。 


●このうち、マタイ6:6(隠れた祈り)を三種の神器で勉強する。まずBbB。


 口語訳 ピリ 4:6


4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。


 口語訳 ロマ 8:15


8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。


  口語訳 ロマ 8:26-27


8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。


8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。


 口語訳 コロ 3:13


3:13 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。


 口語訳 ヤコ 2:13


2:13 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。



●次にマタイ6:6(隠れた祈り)をTSK日本語ヴァージョンでピンポイントで探る。


Matthew 14:23:
そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。


Matthew 26:36:
それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。


Acts 10:9:
翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。


Acts 10:30:
これに対してコルネリオが答えた、「四日前、ちょうどこの時刻に、わたしが自宅で午後三時の祈をしていますと、突然、輝いた衣を着た人が、前に立って申しました、


Isaiah 65:24:
彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。


●次にロマ8:26-27をTSK日本語ヴァージョンでピンポイントで探る。


Romans 15:1:
わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。


Hebrews 4:15:
この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。


Hebrews 5:2:
彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、


Luke 11:1:
また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。


James 4:3:
求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。


Psalms 6:3:
主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。


Psalms 6:9:
すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた。


Psalms 55:2:
神よ、わたしの祈に耳を傾けてください。わたしの願いを避けて身を隠さないでください。


Psalms 69:3:
わたしは足がかりもない深い泥の中に沈みました。わたしは深い水に陥り、大水がわたしの上を流れ過ぎました。


Psalms 102:5:
わたしの心は草のように撃たれて、しおれました。わたしはパンを食べることを忘れました。


Psalms 119:82:
わが魂はあなたの救を慕って絶えいるばかりです。わたしはみ言葉によって望みをいだきます。


Psalms 143:4:
敵はわたしをせめ、わがいのちを地に踏みにじり、死んで久しく時を経た者のように/わたしを暗い所に住まわせました。


Luke 22:44:
イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。


II Corinthians 5:2:
そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。


II Corinthians 5:4:
この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。


II Corinthians 12:8:
このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。


Matthew 6:8:
だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。


Acts 15:8:
そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、


I Thessalonians 2:4:
かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。


Hebrews 4:13:
そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。


Revelation of John 2:23:
また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。


Psalms 38:9:
わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。


Psalms 66:19:
もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。


James 5:16:
だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。


Romans 8:34:
だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。


Ephesians 2:18:
というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。


Jeremiah 29:12:
その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。


John 14:13:
わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。


James 1:5:
あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。


James 1:6:
ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。


I John 3:22:
そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである。


I John 5:14:
わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。


I John 5:15:
そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。


●次の聖日の準備「永遠の命を得るにはどうしたらよいのか」●弟の靖男に電話。●三男の恵から自ら作ったキムチの広告チラシがきたので批評した。市場経済の世界では広告のキャッチコピーが大切。広告も大切な分野●トミ子は今井館ウィークデーの集い「企画会議」●歯医者


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秋留台公園の月。図書館に行く途中で。2007.1.31 
今日聴いたチャイコフスキー交響曲第一番「冬の日の幻想」を思う。この曲はあまりよくなかった。





 


 


 


 


 


 


 


 

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自由にやらせておけ ++++++++ 所感

2007/01/30 05:55

070130(火)4時半目覚め。朝のひらめき。イエスの言葉や行動は復活のイエスに接したときにわかる。下記聖句●永遠の生命を得るには律法を全うせよとイエスは言う。「できそうにもないこと」をイエスが言った意味がわかった。「神の義はその福音のうちに顯れ」である。●よきサマリや人とはイエスのこと。財産を捨てた金持ちの青年とは命を捨てたイエスのこと。これがわかった。万歳。早起きは三文の得。


新共同 マタ 5:18
5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。


塚本訳 ヨハ 13:7
13:7 イエスが答えて言われた、「わたしが何をしているのか、いまはあなたにわからない。(わたしがいなくなった)あとでさとるだろう。」


John 12:16:
弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。


John 14:26:
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。


新改訳 ヤコ 5:7-11
5:7 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
5:8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
5:9 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。
5:10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
5:11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。


文語訳  ロマ 1:16-17
1:16 我は福音を恥とせず、この福音はユダヤ人を始めギリシヤ人にも、凡て信ずる者に救を得さする神の力たればなり。
1:17 神の義はその福音のうちに顯れ、信仰より出でて信仰に進ましむ。録して『義人は信仰によりて生くべし』とある如し。


新改訳 ロマ 1:16-17
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。


●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。1998年筑波大学学長を退官、1992年に就任したので6年間。筑波に新風をもたらした。その精神は伝統や慣習にとらわれずに「自由にやらせておく精神。しかし高度なことの刺激を与えることが大切。高度なことを示しながら若い人に自由にやらせておく。「指導」とはこのようなものだ。●高度なものの刺激と自由にやらせておくこの二面で優れた指導をした例は次のとおり。①、指揮者のカラヤンはカデンツァの箇所では棒を振らないで独奏者の自由に任せておく。(例・ドボルザーク「新世界」交響曲第二楽章の家路、イングリッシュホルン)すると独奏者は「今は俺がオーケストラを引っ張っているのだ」と得意になり音楽がよくなるという。しかしオケがぐらつくとあのつぶっている目をカッと開く。②旧約学の泰斗であられた関根正雄先生は、新進学徒の研究を常に尊重した。あの田川建三さえもその毒舌は関根先生には吐かなかった。先生は若い人を大切にされたのである。私が関根先生に「塚本虎二先生25周年記念会」の講師を要請したときの丁重な応答ぶりが忘れられない。③私が35歳のときから20年間勤務した連合設計社市谷建築事務所の気風は「自由」であった。経営者たちが若手の発想を尊重した。しかし経営者自身は常に最高のものに身を置いて研鑽していた●何故「自由にやらせておく」のがよいのか。それは若い者のうえに神の手が働いていると感知すべきだからだ。●神の手は「乳飲み子」にも働いている。それは次の通り。


新共同 マタ 21:16
21:16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」


塚本訳  マタ 21:16
21:16 イエスに言った、「あの子供たちがなんと言っているのか、聞えているのか。」イエスは言われた、「聞えている。あなた達は『(神よ、)あなたは幼児と乳飲み子との口によって、(御自分のために)賛美をお備えになった』と詩篇にあるのを、まだ読んだことがないのか。(大人が黙っているから、子供が叫ぶのだ。)」


●自由と言っても高度なものに触れる刺激を与えなければならない。「自由にやらせておく」のは「放任」ではない。それには指導者自身が常に最高のものに首を突っ込んでいなければならない。その姿勢と背中を見せなければならない。家庭教育また同じ。酒を飲んで遊んでばかりいては子供が真似をする。これ心理的にそうなることは間違いない。子供の非行は親の真似●イエスの周囲に対する態度、それは答えを自由に任せた。「お前が神の子キリストか」という大祭司の質問に、「スー・エイパス」(ご意見に任せる・・塚本訳)と答えた。(マタイ26:63-64)これ答えを自由にさせているのである。教会のドグマを押し付ける態度はそこに見られない。●次の聖日の話の為に「永遠の命を得るにはどうしたらよいか」を執筆。自分の頭の整理になる●二階の妻のコーナーに本棚を作る。日曜大工大好き●韓国の方から「ホームページを見て同感、感動した」と言って電話がかかってきた。日韓の交流はこのように個人レベルの交流から。主にある交わりに国境はない。


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夕暮れの奥多摩連山。讃美歌39を口ずさむ。  2007.1.30


「日くれて四方(よも)はくらく わがたまはいとさびし」。


いやだ、いやだ。さびしいのはいやだ。復活、永遠の生命。証拠は?。イエスの復活。


 


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夕暮れの富士山。梅のつぼみがほころぶ。「冬来たりなば春遠からじ」。復活の春。


親しい人が天国に多くなった。この世が実在か、来世が実在か。重いが交錯する。


                  2007.1.30


 


 


 

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人格の完成を目的にしてはならない ++++++++ 所感

2007/01/29 07:30

070129(月)休み、3時半目覚め、再度睡眠。6時起床。大きないびきをかいていたそうだ。時間に間に合わないという苦しい夢を見ていた。悪い夢を見るjことは人生でよくないことの一つだ●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。2000年、教育改革国民会議の座長になる。教育は欧米並みの30人以下の人数クラスとし、坪井栄の24の瞳のような生徒一人一人の心を捉えるものにしなければならないという。至言。●昨日「若者の聖書研究会」で聞いた話。江戸時代わが国の寺子屋は全国で4万、そこに行く生徒の数は国民の4割。そのころ英国では教育を受けるのは国民の2割。●教育は寺子屋式の塾がよい。先生が生徒の名前や状態を覚えていられる範囲がよい●昨日集会でのこと。某夫人「先日主人の所に来た客は5時間もいました。帰ってくださいとも言えず、困りました」。私「ソファーは体が沈み込むふかふかのものだと、骨が湾曲して体が痛くなり、客は居ずらくなって長居しません。」●親切とおもって環境をふかふかに暖かくすると人間は居ずらくなるものだ。「ほっといてくれ」と思うものだ。これ教会(集会)に警告。はじめて来た人に親切にすると逃げられる。かまわないでくれと思うから●教会(集会)にはじめて来た人にはきわめて「冷たく」したほうがよい。これは神ではなく人間的ぬくもりを期待してきた人を排除する方法でもある●そういう人間は聖書の勉強を第一にしないで、教会(集会)に人間的な交わり、遊びを期待する人間。俗的教会(集会)に堕落する。●福音は牧師や伝道者の人格の高さで伝わるものではない。人間は不思議な力が複合的に作用して、つまりすべてのこと相働きて8ロマ8:28)救いが実現する。しかし教会(集会)は「十字架と復活」という正統信仰の核を持たなければならない。●ヒルティは晩年になって、自己の人格的完成」という人生目標を放棄した。私も次第に清められていってよくなると思っていたときもあったが、現実は違う。全然変わらない。よくなっていかない。この事実は何ともしがたい。●いわゆる人格はなくてよいのではないか。破れ人格でもよいのではないか。不完全人間でよいのではないのか。ではマタイ5章48節はどのように解釈したらよいのか。やはり人間、神のごとくならなければならないのではないのか。ゲーテも「それ大いなるものは人格なり」と言っているではないか。


文語訳 マタ 5:48
5:48 さらば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ。


塚本訳  マタ 5:48
5:48 だからあなた達は、天の父上が完全であられるように『完全になれ。』


新共同 マタ 5:48
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」


NKJV マタ 5:48
5:48 "Therefore you shall be perfect, just as your Father in heaven is perfect.


TEV マタ 5:48
5:48 You must be perfect-just as your Father in heaven is perfect.


●ここをTSK日本語ヴァージョンでピンポイントで探る。三種の神器の第三番目の武器。


Genesis 17:1:
アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、/「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。


Leviticus 11:44:
わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。


Leviticus 19:2:
「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。


Leviticus 20:26:
あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。


Deuteronomy 18:13:
あなたの神、主の前にあなたは全き者でなければならない。


Job 1:1:
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。


Luke 6:36:
あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。


II Corinthians 7:1:
愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。


II Corinthians 13:9:
わたしたちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ、それを喜ぶ。わたしたちが特に祈るのは、あなたがたが完全に良くなってくれることである。


II Corinthians 13:11:
最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。


Colossians 1:28:
わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。


Colossians 4:12:
あなたがたのうちのひとり、キリスト・イエスの僕エパフラスから、よろしく。彼はいつも、祈のうちであなたがたを覚え、あなたがたが全き人となり、神の御旨をことごとく確信して立つようにと、熱心に祈っている。


Matthew 5:16:
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。


Matthew 5:45:
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。


Ephesians 5:1:
こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。


Ephesians 5:2:
また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。


I John 3:3:
彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。


●ナルホド、ナルホド。旧約は「聖なる者となれ」,新約は「愛の人間になれ」である。しかしこの両方とも自分には無理。到達できない。努力目標としてもほど遠い。高くて届かない。●こんなときイエスとパウロは慰めである。


文語訳  Ⅱコリ12:9
12:9 言ひたまふ『わが恩惠なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』さればキリストの能力の我を庇はんために、寧ろ大に喜びて我が微弱を誇らん。


塚本訳  Ⅱコリ12:9
12:9 主は(その都度)言われた、「わたしの恩恵はあなたに十分だ。力は弱さの中に完成されるのだから。」、それでわたしはキリストの力がわたしに住みついてくださるように、大喜びで、むしろ(自分の)弱いことを自慢しよう。


新共同 Ⅱコリ12:9
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。


塚本訳  ルカ 23:39-43
23:39 磔にされている罪人の一人がイエスを冒涜した、「お前は救世主じゃないか。自分とおれ達を救ってみろ。」
23:40 するともう一人の者が彼をたしなめて言った、「貴様は(このお方と)同じ(恐ろしい)罰を受けていながら、それでも(まだ)神様がこわくないのか。
23:41 おれ達は自分でしたことの報いを受けるのだから当り前だが、このお方は何一つ、道にはずれたことをなさらなかったのだ。」
23:42 それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください。
23:43 「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽にはいることができる。」


塚本訳 Ⅱコリ13:4
13:4 ほんとうに、彼は弱さのゆえに十字架をつけられ(て死なれ)たけれども、神の力によって、いま生きておられるからである。同様に、わたし達も彼と結びついているので弱いけれども、彼と共に、神の力により、あなた達に対して(強く)生きるだろうからである。


●いわゆる人格は儒教的な概念。聖書の人格は神が着せてくださる人格。それは自らの努力ではなく、神がこの破れの人格を通して放つ光。さらば何を嘆こう。人格。それはこの破れを通して光が放たれる器なのだ。●私につまずいた人間は、私の人間的失敗や破れを見て離れ去った人。つまずかれて当然。しかし神が何とかしてくださる ●Y氏からFEBNの番組が送られてきた。米国宣教師ダビデ・マーチン氏の半生。宣教は第一に「復活」だというところが同感。Y氏への感謝のメールを書いたが、内容は公的なことなので秘密にすることが忍びず、一部省略改変して公表する。


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Y様


このたびは素晴らしい番組をお送りくださり衷心より御礼申し上げます。


拝聴させていただいた感想を述べさせていただきます。


 


1・憎くてしょうがなかった日本人に神から「伝道」命令を受けた米国人の話はこれで二度目です。・・・・・・憎い相手へ「伝道」せざるを得なくなった人生、これはパウロと同じです。また台湾の高砂族に父上を殺された井上伊之助氏は後に台湾高砂族伝道に身を投じました。キリスト教的仇討ちです。ダビデ・マーチン宣教師も憎い日本への伝道に身を捧げたわけです。それに日本の孤児を二人も引き取って育てたことは言葉だけではなかったわけです。このような米国人に頭が下がります。


 


2・マーチン氏の所属する同盟基督教団は未開拓地に伝道したとキリスト教年鑑にありました。内村鑑三が鈴木弼美らに日本で一番の僻地に行けと言って独立学園が誕生したのと精神が似ています。誰からも福音を説かれたことのないいわば僻地の人間に向かって伝道しなければならないと思いました。祈らなければならないと思いました。マーチン氏は自分の住む北陸の町の90人の名前を全部覚えていて祈っているとは驚異です。


 


3・神学校の生徒が「もっと高度な教育をしてください」と言った事に、人生の方針を変えて神学校の教師をやめた事は、考えさせられます。イエスも自分が受け入れられないとわかるとさっさと別方向へ行きました。組織や集会を維持しようという心は宣教とは若干異なるのではないかと考えます。


 


4・宣教では復活を第一に説くということは、私が「有体的復活」を第一に話そうとしていることと一致です。特に「エマオ」の話を引用するのも同じです。私は「空の墓」のところで「胸が熱くなって」以来、有体的復活を説いています。このたびの放送で、私の方向が誤りでないと自信を持ちました。


 


5・・・・・・・・


 


6・復活を第一に説くのは人間にとって最大の問題は「死」であり、その恐怖であるからというのは同感です。復活はキリスト教だけのものです。死の克服は人間の最も深い欲求です。福音はそのためにあると解します。


 


・・・・・以下略


 


ありがとうございました。


 


2007.1.29


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●妻はウィーン世界合唱祭のための練習。文京シビックホール





 


 深夜帰宅。


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寒い夜のあきる台公園。寒い夜は淋しい。光が欲しい、暖がほしい。人間にとって孤独は辛い。愛が必要。


          2007.1.29 17:30


 


 


 

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不幸やハンディはなぜ幸いか ++++++++ 所感

2007/01/28 07:46

070128(日)6時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。つくば大学学長6年で学内に新しい気風を作る。過去のしがらみのない外部からの人間だったからできたことだ。●サンフランシスコが世界一きれいな町になったのは100年前の大地震で、町が壊滅したのですべてを新しくしなければならなくなったkらである。●都市も組織も古いものを改造しようとするのはうまくいかない。一旦すべてを捨てなければならない●人生で「自慢できない」「恥の」「忌まわしいハンディ」「悩みの種」を持った方が幸いであると聖書にあるが、それはなぜか。その悩みで「本当の幸福とは何か」を真剣に求めるようになるからか。それもある。「求めよさらば与えられん」だからである。しかし聖書の言うところはどうそうではない。聖書は奮励努力をすすめない。この世で不幸やハンディを負った人はそのことだけで天国が約束されるというのが真理。その根拠を見よう。


塚本訳 ルカ 16:25-26
16:25 しかしアブラハムは言った、『子よ、考えてごらん、あなたは生きていた時に善いものを貰い、ラザロは反対に悪いものを貰ったではないか。だから今ここで、彼は慰められ、あなたはもだえ苦しむのだ。
16:26 そればかりではない、わたし達とあなた達との間には大きな(深い)裂け目があって、ここからあなた達の所へ渡ろうと思っても出来ず、そこからわたし達の所へ越えてくることもない。』


●これは恐ろしい言葉だ。この世とあの世は反対の境遇になると言うのだ。そんなことは不公平だ。努力が報いられないのはよくないともも思う。●しかしこの事は「人の子の親」になってみれば分かることだ。不幸やハンディは本人の努力が欠けていたから襲ってきたことではないのだ。たまたま不幸な星の下に生まれてきたり、思わぬ事件にぶつかったからなのだ。望まぬ病気にかかってしまったからなのだ●そこで「親心」としては、来世では「楽にしてやろう」、「恥をすすいでやろう」、「元気にしてやろう」、と思うものだ。●「幸いなるかな貧しきもの。マタイ5章の「七福」はすべて「断定」である。だろうとか「多分」と言うことではない。決定である。無条件の断定である。音楽会のチケット、しかも指定席券を無料で頂いたのだ。「喜び喜べ」である。


文語訳 マタ 5:3-12
5:3 『幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。
5:4 幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。
5:5 幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。
5:6 幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。
5:7 幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。
5:8 幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。
5:9 幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。
5:10 幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。
5:11 我がために、人なんぢらを罵り、また責め、詐りて各様の惡しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。
5:12 喜びよろこべ、天にて汝らの報は大なり。汝等より前にありし預言者たちをも、斯く責めたりき。


●自分の所属する勤務先が「犯罪」を犯してしまったというのも「望まぬ不幸、ハンディ」である。「犯罪企業として」世に知られ有名になってしまった。世間は冷たい。「あれは身から出た錆だ」「やっぱりなー」と陰口えおいう。いたたまれない。人生のハンディだ。●今の皇太子妃を選考するときのこと。建設関係者の家庭からは選考するなという指針があttらしい。建設関係企業は何かとグレーだと言うのがそのt理由。「クソッ」。だれが皇室なんぞに行ってやるものか。不幸になるだけだ。焼き芋なんか自由に食べられないのだ。●集会は長島、土肥、小寺●昼食会、●13:00若者の聖書勉強会マルコ15章。杉崎孝、小寺利男、小寺七重、高橋照男、高橋トミ子、伊勢愛子(司会)、伊勢初音、伊勢かなほ。高橋新一は所用で欠席。愛子が司会。司会者から重大なよい質問。


司会者の問題提起。第一。


「イエスはどうして十字架から降りようとしなかったか。飛び降りていたらどうなったのだろう。」


次の聖書の箇所を根拠に話し合い。


塚本訳 マコ 15:30-32
15:30 自分を救ってみろ、十字架から下りてきて!」
15:31 同じように大祭司連も、聖書学者と一しょに、こう言って(イエスを)なぶり合った、「あの男、人は救ったが、自分は救えない。
15:32 救世主、イスラエルの王様が!今すぐ十字架から下りてくるがよい。見たら信じてやるのに!」一しょに十字架につけられた二人(の強盗)も、イエスを罵った。


塚本訳 マタ 4:5-7
4:5 そこで悪魔はイエスを聖なる都(エルサレム)に連れてゆき、宮の屋根の上に立たせて
4:6 言った、「神の子なら、下へ飛びおりたらどうです。『神は天使たちに命じて、手にてあなたを支えさせ、足を石に打ち当てないようにしてくださる。』と(聖書に)書いてあります。(人々はそれを見て信じ、たちどころにあなたの国が出来ます。)」
4:7 イエスは言われた、「ところが、『あなたの神なる主を試みてはならない』とも書いてある。」


塚本訳 マタ 26:38-40
26:38 それから彼らに言われる、「『心がめいって』『死にたいくらいだ。』ここをはなれずに、わたしと一しょに目を覚ましていてくれ。」
26:39 そしてなお少し(奥に)進んでいって、俯けに倒れ、祈って言われた、「お父様、出来ることなら、どうかこの杯がわたしの前を通りすぎますように。しかし、わたしの願いどおりでなく、お心のとおりになればよいのです。」
26:40 やがて弟子たちの所に来て、彼らが眠っているのを見ると、ペテロに言われる、「あなた達、そんなに、たった一時間もわたしと一しょに目を覚ましておられないのか。


塚本訳マタ 16:21-23
16:21 この時から、イエスは自分が(神の計画どおり)エルサレムに行って、長老、大祭司連、聖書学者たちから多くの苦しみをうけ、殺され、そして三日目に復活せねばならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロはイエスをわきへ引っ張っていって、「主よ、とんでもない。そんなことは絶対にいけません!」と言って忠告を始めた。(救世主が死ぬなどとは考えられなかったのである。)
16:23 イエスは振り返って、ペテロに言われた、「引っ込んでろ、悪魔、この邪魔者!お前は神様のことを考えずに、人間のことを考えている!」


塚本訳 マタ 26:51-53
26:51 すると、見よ、イエスと一しょにいた一人の人が手をのばして剣を抜き、大祭司の下男に切りかかって片耳をそぎ落してしまった。
26:52 その時イエスが言われる、「剣を鞘におさめよ。剣による者は皆、剣によって滅びる。
26:53 それとも、父上にお願いして十二軍団以上の天使を今すぐ送っていただくことが、わたしに出来ないと思うのか。


司会者の問題提起、第二。


イエスはそれまで神のことを父上と言っていたのに、十字架上では「私の神様」と言ったのはなぜか。


これについては「アバ」という呼びかけについて話し合い。


人間、心細くなるとなりふりかまわず本音を吐く。イエスがゲッセマネの祈りで心細く弱くなったとき「アバ、お父様」と叫んだ。このアバはアラミ語で「トーちゃーん」という幼児語。イエスは心細くなったのだ。


杉崎孝さんから下記の違いについて説明。


アラミ語、ヘブライ語の違いについて。


エロイ エロイ ラマ サバクタニ」(塚本 マルコ15:34)


「エロイ エロイ レマ サバクタニ」(新共同 マルコ15:34)


「エリ エリ レマ サバクタニ」(塚本 新共同 マタイ27:46)


93歳の杉崎さんからこの違いの詳しいご説明を頂き、奮起の気持ちが湧く。


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      若者の聖書勉強会 2007.1.28 千駄ヶ谷社会教育会館


左より 高橋照男 高橋トミ子 杉崎孝 伊勢初音 伊勢愛子 小寺七重 小寺利男


伊勢かなほは別室で睡眠。この後伊勢喜明氏が仕事が済んだので伊勢愛子と子供を車で迎えに来た。




 





 

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第一線を去る淋しさ ++++++++ 所感

2007/01/27 08:14

070127(土)5時起床。昨日から「第一線を去る淋しさ」が充満●10年前に立ち上げたコストスクールの講師を退くことになった。スクールが一人立ちして一人歩きし始めた証拠であるがそれでも淋しい●また20年間のロングセラーであった拙著鹿島出版会の「コストプランニングの知識」が来月2月の増し刷り1000部で終わりとなる。改定、増補改定、増し刷りを繰り返すこと7回、累計1万1000部になった。技術書で20年間の命脈を保つのは異例とのことだが、これも第一線を退く淋しさがある。売れ残りは裁断処分すると言う。愛児が切り裂かれる痛みがある。●塚本先生があるとき、教文館の洋書部にどんどん入ってくる第一線の聖書学の本を見て、「モーダメダー、モーダメだー、読みきれない。第一線を保てない」と嘆かれたことがあった。1950年までは信仰の深さと聖書学の学問的水準の高さにおいて塚本虎二先生は一頭地を抜いていたことは誰でもが認めることであった。塚本先生の男の意地とともに第一線であることができなくなった悲哀を感じる●過日勤務先のITの部署にいる若い人に建築設計の第一線は半年間仕事を離れるとデザイン感覚が鈍るものだ」と言ったら「我々(IT)の世界では半年仕事を離れたら『浦島太郎』です」と言われた。この世界でも「現場に神宿る」である●ベルリンフィルハーモニーを手塩にかけて育てた指揮者のフルトヴェングラーは後任にカラヤンが決まったと言うことを聞くと顔面蒼白となったと言う。カラヤンのことを好いていなかったからである●親はいつか「親の座」を去らなければならない宿命がある。そのときは「娘を取られたー、息子を取られたー」という淋しさと嘆きがあるものだ。●塚本先生の愛弟子の植木静江さんはご主人に先立たれ、ご自身が結核になって一人息子を道連れに心中寸前。塚本先生の呼びかけでその一人息子の信太郎君が親切な人が引き取られていくことになった。その別れのときに詠んだ歌。「真理(まこと)知る、人となりませ母にして母にあらざる母の祈りを」。その静江さんが亡くなられたとき、信太郎氏(引き取られて名前が梅太郎になっていた)は、「母は最期まで私に対して『母であろう、母であろう』という思いがありました」と感話。皆が泣いた。その梅太郎氏とは昨年「南原シンポジウム」で会った。栃木県庁を定年退職、今は獣医の教授として大学で教鞭を執っておられる。人生は短い●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。米国滞在32年。筑波大学の学長になるために帰国。学長に招かれるためには大学内で多くの人の準備工作があった。人間の地位は周囲にお膳立てされるものだ。自ら勝ち取るものではない。●企業内での地位は部下に押し上げられるもの。人事部長がある人の地位を決めるときは社内の評判を聞く。これ最大の判断基準となり、大体において間違いはない。●図書館に2回言ってCDを借りる●バッハのカンタータ156番「墓に片足を入れ」の第一曲シンフォニアのオーボエ部分をリコーダーで練習するも3小節で挫折、断念。「いいやいいや」やはり残る生涯、音楽は聴くことに徹しよう。この面でも淋しいことにぶつかった。もっとやるべきことをやらなければならない。●妻は愛子のところに行き、それからウィーン世界合唱祭のための練習に池袋。その後はもう一つの合唱団の練習が夜まで。


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土曜日のあきる台公園。子供連れの家族がくつろいでいる。


               2007.1.27


好きな絵画、コローの「モルトフォンテーヌの思い出」を思う


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冬の林。チャイコフスキーの「四季」を思う。 2007.1.27


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 我が家を北から見る。昭和女子大の生徒が見学に来る。棲むなら日本家屋と説明する。我が家は7年前に一度焼かれた。この家は「頂いたもの」という感じがしてしょうがない。


             2007.1.27





  
 
     

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聖書学の土俵に上がるな ++++++++ 所感

2007/01/26 08:10

070126(金)3時45分起床。●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。「素晴らしい発明、発見が生まれるのはどのような研究環境か」の質問に対する答え。「組織化された混沌がよい」。そして「公然の秘密」「急がば回れ」などの二律背反がよいのだそうだ。苦労人の言葉●某氏から無教会雑誌が送られてきたので御礼の激烈批判を書く。ことは公的なことなので、さしさわりのあるところを削除改変して「公然と」公開する。


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○○ 様


○○を拝読させて頂きました。


長年、御交誼を頂きましての感謝からまた率直な感想を述べさせていただきます。


今回のような聖書の読み方は、内村塚本黒崎が理想とした「素人の聖書勉強」の典型であります。日本の信者がすべてこのように自分で聖書に取り組んで格闘することが重要なことであると思います。今回のマタイ6章「思いわずらうな」の御研究については特にその「格闘の気迫」に感じ入りました。・・・・・・・・・・・・これには藤沢武義氏の思い出があります。氏が東京聖書読者会で講演されたとき、『生涯で一番辛かったのは、夫人(華子さん)に向かって「神様が何とかしてくださる」と言ったとき、夫人が「では今ここにすぐ食べ物を出してください」と詰め寄られたことである。』そして引き続き、「独立伝道者出よ!、神が生きておいでなら、餓死することはない」と持っておられた聖書を机にバンと叩きつけられたました。・・・・・今回のような御研究をするのは、研究する人間の生活の背景が問題です。年金受給者がこれを説いても効き目はありません。もう10年ぐらいも前の不況の時のことです。某教会の礼拝に出席しました。そこの牧師は会社運営に困窮している教会員たちを前にして「イエスは暴風雨でも船の中で眠っていた」などと涼しい顔で説教しました。私は「何と失礼な。何と効き目のない説教か」と思いました。その牧師はその教会員から謝儀という給料をもらっているのです。名古屋に行った時の事です。私の論考を読まれたそこの某長老(名前失念)が私のところにつかつかと来られて、「この論考は、奥さんが出してくれるお茶を飲みながら書いたものだ」と激烈批判されました。氏は夫人が車椅子の重病人であり、夫人の食事や身の回りの世話を何年もされておられた方です。今回の御研究で、これはいかがかと思いましたのは、「だろう」などという推測で書かれている「聖書学」の分野に踏み込んでおられ部分のことです。P○○○行、P○○○行、P○○○行、など。


聖書学に素人である無教会者は徹底的に素人的に読むべきであると解します。うっかり「聖書学の分野」に足を踏み入れると、「職業宗教家、職業聖書学者」の土俵に引き入れられて墓穴を掘るものと解します。その道の職業専門家に批判されて「無教会はだからいけない」と言われます。塚本先生が教会批判を激しく行っていたとき、プロテスタント教会が沈黙していたのを見かねたカトリックの岩下壮一神父が立ち上がり、「塚本は、近代聖書学の成果を利用しながらマタイ16章18節の部分で教会主義を批判するが、一方その他の部分の解釈は同じ近代聖書学に頼っているのは論理の矛盾ではないか」と批判されました。すると塚本先生は「こと面倒」とお考えになられて沈黙し「聖霊の黙示の道」一本に逃げられました。カトリックの土俵に上がると負けるのは当然と思われたからです。無教会はあくまでも「聖書の素人読み」「生活実態に根ざしたヤケクソ読み」「聖霊による自己流読み」に徹すべきであると解します。つまり聖書の素人は「聖書学の土俵」に上らないで、我流で読むべきだと解します。それが強みです。聖書は我流読みが


正ししいと解します。なぜなら我流が多いと全体が正しい方向に行くと解します。神ご自身が働くからです。


それから、いつものように天下国家や社会悪への言及がありますが、これは蛇足という感じがいたします。やたらと紙幅を増すばかりです。


このたびはまた「インスパイア」されました。私も素人として聖書それ自身に取り組んで格闘する生き方をしたいと思います。ありがとうございました。


 


2007.1.26


高橋照男



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●銀座ヤマハ(仮店舗)の楽譜売り場に行き、バッハ、カンタータ156番の楽譜を購入、元岡さん(女性)が親切に内容をレクチャーしてくれた。石黒さん(女性)にも挨拶。この二人、「メロディー」を歌うとすぐ曲名を教えてくれる達人。今まで何度かお世話になっている。またリコーダー売り場に行って安いリコーダーを購入、このバッハの曲に挑戦しようと考える。うまく吹けるようになれるか。楽器担当は秋山さん。●聖書図書館で聖書協会翻訳部の高橋裕子さんと懇親懇談。復活論、空虚な墓論、宗教体験なくとも信仰はありうること。などなど。「スタディバイブル」の原本を見せていただく。●先日、NHKの「ためしてガッテン」で「カツ丼を食べると『幸福感』が湧くと説明していたので、夕食はカツ丼。ナルホド、少し幸福な気持ちになれた!!??。しかしこれは健康であるからこそだ。●16:30日本建築積算協会コストスクール第10期卒業式。卒業者18名。日本の建築界の将来を担う精鋭。学校は私塾が最高。イエスの弟子は12人。懇親会の始まりに挨拶した。久米設計の宮田氏が10期生をよくまとめてくれている。●藤上校長、清水ディレクターと第12期以降のことを検討。次の第11期限りで校長の藤上先生と副校長の私は講師陣から退くことになった。第一線を去ることに一抹の淋しさがあるが、人間は引き際が大切。●日本占領時の米国の総司令官であったマッカーサー元帥は「朝鮮戦争」をめぐって時の大統領トルーマンと意見が衝突して更迭された。そのときの退任演説は「老兵は死なず。消え去るのみ」。この言葉を思う。

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絶えざる心の傷み ++++++++ 所感

2007/01/25 07:56

070125(木)5時起床。「心の絶えざる痛み」(パウロ、ロマ9章2節)を黙想●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。ノーベル賞授賞式の謝辞演説。自然の仕組みの発見に国境はないという内容。ニュートンの「私の発見は大海の一滴にすぎない」という言葉を思った●親切は人の目に隠れるからノーベル賞の対象にはならない。それは天国のノーベル賞。


文語訳 マタ 6:3-4
6:3 汝は施濟をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな。
6:4 是はその施濟の隱れん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。


塚本訳 マタ 6:3-4
6:3 あなたは施しをするときに、右の手のすることを左に悟られてはならない。
6:4 これは施しを隠しておくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。


TEV マタ 6:3-4
6:3 But when you help a needy person, do it in such a way that even your closest friend will not know about it.
6:4 Then it will be a private matter. And your Father, who sees what you do in private, will reward you.


●このTEVの「even your closest friend 」は意訳だが名訳。「親しい友にも漏らすな」ということ。「妻にも言うな」ということ。これには思い出がある。内村の弟子に土木工学の権威者である広井勇がいた。その伝記のことである。広井がある冬の寒い夜に散歩に行くとき、夫人は手作りで新調の羽織を肩にかけた。戻るとその羽織を着ていない。夫人「羽織はどうされたのですか」。広井「そんなこと聞くものではない」。この不思議なことを夫人は広井の死後にも考えた。そしてこう推測した。「きっと寒い夜道の道端に乞食がいて寒がっていたので羽織をかけてやったのではないか」。こういう話を聞くと、これが絶対に神に覚えられることなのだなーと思う。崇高な話である。


●パウロの「耐えざる心の痛み」(ロマ9:1)について考察。いつものように「三種の神器」を利用する。人間に聞かない。


三種の神器の第一はJバイブル。これでまず翻訳比較をする。


口語訳 ロマ 9:2
9:2 すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。


新改訳 ロマ 9:2
9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。


新共同 ロマ 9:2
9:2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。


文語訳 ロマ 9:2
9:2 我に大いなる憂あることと心に絶えざる痛あることを、我が良心も聖靈によりて證す。


塚本訳  ロマ 9:2
9:2 (わたしが急にこんなことを言い出したら信じてくれないかも知れないが、)わたしに大きな悲しみと、心に絶えざる痛みとがあるのである。


NKJV ロマ 9:2
9:2 that I have great sorrow and continual grief in my heart.


TEV ロマ 9:2
9:2 when I say how great is my sorrow, how endless the pain in my heart


●翻訳比較は外国語が目を洗われる。この場合は「great sorrow 」と「how endless 」が心に染み入る。●この悲しみと痛みの原因は何か。次の3節と4節である。つまり、自分は救われて感謝だが(ロマ8章で喜びが爆発)、自分の親兄弟子供夫妻実家はどうなるのか。ということである●聖書の分からないところはまずその前後を読めばよい。それからそれは誰に向けて話したことなのかを見ればよい。


塚本訳  ロマ 9:3-4
9:3 ほんとうに、兄弟すなわち血を分けた同胞の(救われる)ためならば、このわたしは呪われて、救世主(の救い)から離れ落ちてもよいと、幾たび(神に)願ったことであろう。
9:4 (言うまでもなく、)それはイスラエル人のことである。(彼らは神の)子たる身分(を与えられ、神の)栄光(はその中に住み、)かずかずの契約(は神との間に結ばれ、比類のない)律法、(荘厳な)礼拝、多くの(恩恵の)約束は、(ことごとく)彼らのものである。


●偉大なるかなパウロ。自分の周囲の親しい人(夫、妻、親、子供、)が救われるならこの自分の命と引き換えでもよいと言うのだ。クリスチャンたるもの一生で一度はこういう気持ちになることがある。●子供が病気になると「できるものなら変わってやりたい」と思うものである●私は一度こう思って懸命に祈ったことがある。「私はもう長く生きました。もしこの人に救いを示して下さったら、この命と引き換えてもいいです」と。●私の場合は一回限りのことであったが、パウロは「 幾たび(神に)願ったことであろう」とあって、何度も何度もということである。偉大なるかなパウロ。人類として第一級だ。人生は何事かにこれほど一生懸命になれるものがなければならない。そうでなければ生きているという意味はないのかもしれない●次にこのフレーズ(ロマ9:1-5)をBbBで調べてみよう。私のHPのBbBを利用。心に響くものをピックアップコピー


 (英・米)THE NEW TREASURY OF SCRIPTURE KNOWLEDGE 1982 の引照


口語訳 ロマ 1:9


1:9 わたしは、祈のたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である。  


口語訳 ロマ 10:1


10:1 兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。


 口語訳 ピリ 3:18


3:18 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。


 口語訳 ガラ 3:13


 3:13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。


 口語訳 ピリ 2:6-11


 2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、


2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、


2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。


2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。


2:10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、


2:11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 


 (日)新共同訳1987の引照 


 新共同 ロマ 1:9


1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、


 新共同 ロマ 11:14


11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。


 新共同 Ⅰコリ16:22


16:22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。


 新共同 ガラ 1:8-9


1:8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。


1:9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。


(仏)THE NEW JERUSALEM BIBLE 1985 の引照


口語訳 Ⅱコリ12:7


12:7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。


 口語訳 エペ 2:12


2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。


●「人の為に命を捧げる」 ということがいかに崇高なことであるか。新約聖書には次のように言う。


文語訳 1 ヨハ 15:13
15:13 人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし。


口語訳 ヨハ 15:13
15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。


NKJV ヨハ 15:13
15:13 "Greater love has no one than this, than to lay down one's life for his friends.


TEV ヨハ 15:13
15:13 The greatest love you can have for your friends is to give your life for them.


文語訳  エペ 5:25
5:25 夫たる者よ、キリストの教會を愛し、之がために己を捨て給ひしごとく、汝らも妻を愛せよ。


塚本訳 エペ 5:25
5:25 夫達よ、妻を愛せよ、キリストが教会を愛し、そのために自分を棄て給うたように。──


●次に「TSK日本語ヴァージョン」でロマ9章2節だけをピンポイントで見て見よう。「絶えざる痛み」についてである。


Romans 10:1:
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。


Lamentations 3:48:
わが民の娘の滅びによって、わたしの目には涙の川が流れています。


Lamentations 3:49:
わが目は絶えず涙を注ぎ出して、やむことなく、


Lamentations 3:51:
わが目はわが町のすべての娘の最期のゆえに、わたしを痛ませます。


Luke 19:41:
いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、


Philippians 3:18:
わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。


Revelation of John 11:3:
そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。


●人生にはしばしば、否、常に「あの人は悩みの種」だということがあるものだ。しかしそれが十字架だ。次の言葉はいわゆる第二パウロのもの。アレキサンデルとはどういう者だったのだろう。興味がある。


新改訳 Ⅱテモ4:14
4:14 銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。



●さらに「TSK日本語ヴァージョン」でロマ9章3節だけをピンポイントで見て見よう。「この身がのろわれてもよい」tろいう心意気についてである。


Exodus 32:30-35
32:30 あくる日、モーセは民に言った、「あなたがたは大いなる罪を犯した。それで今、わたしは主のもとに上って行く。あなたがたの罪を償うことが、できるかも知れない」。
32:31 モーセは主のもとに帰って、そして言った、「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。
32:32 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば――。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。
32:33 主はモーセに言われた、「すべてわたしに罪を犯した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう。
32:34 しかし、今あなたは行って、わたしがあなたに告げたところに民を導きなさい。見よ、わたしの使はあなたに先立って行くであろう。ただし刑罰の日に、わたしは彼らの罪を罰するであろう」。
32:35 そして主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのである。


Galatians 3:10:
いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。


Galatians 3:13:
キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。


 Esther 8:6:
どうしてわたしは、わたしの民に臨もうとする災を、だまって見ていることができましょうか。どうしてわたしの同族の滅びるのを、だまって見ていることができましょうか」。


Acts 7:23:
四十歳になった時、モーセは自分の兄弟であるイスラエル人たちのために尽すことを、思い立った。


●手すりの腰に竹すだれをつける工事、昨日の続き●BK、郵便局、図書館、徒歩有酸素歩行4300歩。●床の隙間にコーキングを打ったあとのサンダー掛け。うまくいかなかった。建物も老化現象する。


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工事中のあきる野図書館の外観が見え始めた。岡田新一の設計。左はキララホール。よく調和している。 2007.1.25


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もうすぐで夕暮れ。太陽の力はすごいものだなー。 あきる野市役所の屋上から


詩篇19編を思う。2007.1.25 


口語訳 詩  19:5-6
19:5 日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
19:6 それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。







 







 


 

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永遠の生命を得るには ++++++++ 所感

2007/01/24 06:12

070124(水)5時目覚め、「永遠の生命を得るには?」を黙想●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。48歳でノーベル物理学賞受賞。同時受賞の他の二人の物理学賞受賞者の年齢は44歳と33歳。物理学賞の受賞者は若い人であることが特徴なのであるという。●悔しいから言うのではないが、この世の賞という賞はは仲間内の誉めあいか順番。その功績はこの世の生命の「延命」「便利」「楽」に対するもの。人類の全員に恩恵を及ぼすものは少ない。●出世というのも、上司が「自分の延命に有利な人物」を引き上げるだけのこと。これも仲間内の誉めあいの一種。絶対的真理に照らし合わせての判断ではない。●新約聖書には「永遠の生命を得るには?}という著しい質問がある。●人間の深い要求として「永遠の生命」ほどのものはない。その下位に、老いたくない、病気になりたくない、苦しい目に遭いたくないという要求がある。さらにその下位に頭がよくなりたい、美人になりたい、痩せたい(!)というのがある。さらにその下位にお金が欲しい、豊になりたい、家庭を持ちたい、子孫を残したいというのがある。さらにその下位によい学校に入りたい、安定企業に入りたい、会社や組織を存続させたい、教会(集会)を存続させたい。戦争に遭遇したくない、悠々自適の老年期間でありたい、などということがある。●であるから、イエスに向かって「永遠の生命を得るのはどうしたらよいのでしょうか」と質問した人はすばらしい人である。人間として最も大切な質問である。なぜか。昔から「死んでも命のありますように」と言うのが本音だからである。●これに対してのイエスの答えはどうか。その答えは聖書に二箇所ある。この二人は人類を代表してよい質問をしてくれたものだ。


塚本訳  ルカ 10:25-28
10:25 するとそこに、ひとりの律法学者があらわれて、イエスを試そうとして言った、「先生、何をすれば永遠の命がいただけるのでしょうか。」
10:26 イエスは言われた、「律法[聖書]に何と書いてあるか。解釈はいかに。」
10:27 学者が答えた、「『心のかぎり、精神のかぎり、力のかぎり、』思いのかぎり、『あなたの神なる主を愛せよ。』また『隣の人を自分のように愛せよ』です。」
10:28 彼に言われた、「その答は正しい。『それを実行しなさい。そうすれば(永遠に)生きられる。』」


塚本訳 マタ 19:16-22
19:16 するとそこに、ひとりの人がイエスの所に来て言った、「先生、永遠の命を得るには、どんなよいことをすればよいでしょうか。」
19:17 イエスは言われた、「なぜ善いことについってわたしに尋ねるのか。善いお方はただ一人(神)である。(永遠の)命に入りたければ、(神の)掟を守りなさい。」
19:18 「どの掟を」と彼が言う。イエスはこたえられた、「『殺してはならない、姦淫をしてはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてはならない、
19:19 父と母とを敬え、』また『隣の人を自分のように愛せよ。』」
19:20 青年が言う、「それならみんな守っております。まだ何か足りないでしょうか。」
19:21 イエスは言われた、「完全になりたければ、家に帰って持ち物を売って、(その金を)貧乏な人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しそうにして立ち去った。大資産家であったのである。


●イエスの答えは二つとも「何かを実行せよ」と言うことである。「どうすればよいのでしょうか」と尋ねてきたので「これこれをせよ」と答えたのだ。冷たい牧師が「聖霊をいただかなければ救われません」とか「救われる人は神によって決められます」というような、トンチンカンなことは言わない。この点イエスはさすが神の子、うまく誘導している。そして誰でもが知っている聖書を持ち出した



口語訳 申  6:5
6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。


口語訳 レビ 19:18
19:18 あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。



●しかし、その答えは人間にとっては「とても実行できないこと」なのだ。実行できそうもないことをイエスはまず言った。イエスの誘導的な対話である。●この二人の質問者は「それはとても実行できない」と思ったのである。これが人間の自然の姿である。だから一人は「照れ隠しに」(塚本訳)、「自らを義としたいので」(岩波佐藤訳)「では私の隣人とは誰ですか」という質問をしてイエスから逃げた。金持ちの青年は悲しそうに立ち去った。●ではイエスは人間に実行できないことを言ったのか。それを実行すれば本当に永遠の生命が得られると思って言われたのか。それとも人を見て「こいつはダメだ」と考えてわざと答えをはぐらかしたのか。不明。●ここでパウロが解説してくれる。聖書のわからないところは聖書に聞かなければならない。ましてや聖書以外の人間の本ばかり読んでいたら道を誤ったり教派分裂を生み出すだけである。とんでもないことになる。パウロは次のように言う。


塚本訳  ロマ 5:20-21
5:20 (それなら律法は人を義として永遠の命を与えるためには役立たないのか。その通り。)律法は、過ちを増し強めるために第二義的に来たのである。しかし(神に感謝する、人の犯す)罪が増し強まれば、恩恵は豊かにあふれる。
5:21 これは罪が死を持って支配したように、恩恵も義をもって支配し、わたし達の主イエス・キリストによって、(わたし達を)永遠の命に入れるためである。


塚本訳  ロマ 6:20-23
6:20 なぜなら、あなた達が罪の奴隷であった時には、義に対して自由(の身)であって(勝手放題な生活をしてい)たが、
6:21 その時いったいどんな実を得たのであったか。今なら恥ずかしいものではないか。それらのものの最後は死だからである。
6:22 しかし今は、罪から自由にされて神の奴隷にしていただき、一つの実を得ている。この実はあなた達を聖め、最後は永遠の命に至らせるのである。
6:23 なぜなら、罪が(奴隷に)払ってくれる給料は死であり、(従う者に与えられる)神の賜物は、わたし達の主イエス・キリストにおいての永遠の命だからである。


 ●イエスに突っ込んで聞いても「実行せよ」「財産を捨てよ」と言うことばかり。行為主義のユダヤ教の域を出ていない。●ここに偉大なパウロが出てくれた。「これこれを実行せよ」言ったイエスの命令は人間には実行できない。実行できないのが人間としての自然の姿。だから人類は全員が永遠の生命を得ることができない。しかしそれを言った当のイエス自身が罪の購いのために死んでくださって、行いがなくとも、実行できなくとも、愛の人でなくとも「絶対恩恵の無条件の罪の赦し」で永遠の生命が「得られる」「与えられる」道が開かれたと説いてくれた。新約聖書はこれほとんどこのパウロの思想の影響下にある。これは思想ではなく、後代の人間の実験的宗教体験的真理。動かしがたい事実●ユダヤ教の律法の命令を実行できない人類に対して、イエスはご自分の「死の実行」によって永遠の生命を与えてくださる道を開いてくださった。ご自身の「愛の実行」によって。 ●ただパウロが認識して説いたようなこの救いの原理を当のイエス自身がその通りに認識していたかどうかは難しい問題。これを新約聖書学で「イエスの尊厳意識」の問題という。「イエスの尊厳意識」とは後代の信者がイエスをあがめて「イエスの死は贖罪のためであった」信じたようにはイエスご自身では思っていなかったのではないかという問題である。これは塚本虎二著作集第一巻の月報に荒井献先生が「イエスのいわゆる『尊厳意識』」という論考に書かれた。1979年。これは無教会陣営に対する爆弾投下であった。●しかし私はイエスにはその「尊厳意識」のことを自ら口で言わなくても意識はあったと信じる。百歩ゆずってイエスにその自覚、つまり「尊厳意識」がなかったとしても、神にその意識があればそれで十分。心が満たされる。それは次の箇所が暗示している。


塚本訳 マコ 10:17-18
10:17 旅行に出ようとされると、ひとりの人が駆けてきて、ひざまずいて尋ねた、「善い先生、永遠の命をいただくには、何をすればよいでしょうか。」
10:18 イエスは言われた、「なぜわたしを『善い』と言うのか。神お一人のほかに、だれも善い者はない。


 ●この「イエスの尊厳意識」についての問題は非常に興味があったので、かって「内村鑑三研究」第28号(1991年)に拙論を書いた。その結論はイエス自身はご自分のことを「神の子、その死は罪の購いのため」とは自らの口には上らせなかったが意識はあったというもの。●イエスが「尊厳意識」(神の子、贖罪の死)を自らの口に上らせている部分はどうも後代の加筆ではないかとは素人の私でもそういう感じがする。つまりイエスの口に入れたのであると思われる。●しかし聖書学の成果はここまでで終わり。「だろう」という推測で終わる。●先の拙論の結論は次の通り。「イエスに神の子の自覚があったかどうかは、イエスの発言の有無にかかわらず、垂直の上からの力、示しで分かるのであります。イエスにその発言があったとしてもそれで信仰が分かったとは言えないのであります。分かるというのは、霊眼が開けられる事だからでございます。霊眼が開けられて、はじめてイエスの真の姿が見えてくるのであります」(P34)●こういうまともな正統信仰に固く立つ無教会の集団を荒井氏は一目置いておられる●親の言いつけで人の家に届け物のお使いをする子供には、届け物を命じた親の心の意味を知らないこともある。イエスにとって十字架は神に命じられた「お使い」の業。●イエスの十字架は神の「親心」である。●パウロはその神の親心を深く理解した。これが全パウロ書簡●人間は真に隣人を愛することはできないが、それでも神は救ってくださる。ダメ人間でも救ってくださる。それが親心●人間が「私は隣人をこんなに愛することができた」と慢心しても、それで永遠の生命を得られるというわけではない。●人間は「愛の業」「律法の業」を実行できなくても救われる●ここがユダヤ教とキリスト教の分かれ目。またキリスト教においても洗礼聖餐という儀式(サクラメント)を行ってもそれで救われるわけではない●ただし無条件で救われた者は親を甘く見て「愛の業をしなくてもよい」ということは聖書には書いてない。「赦されたのだから赦せ」とある。●あなた達は「無条件で救われたのだから」愛の実行をせよというのが新約聖書、イエス、パウロの心。プロテスタンティズムの本質。●集会に熱心に来られていて長く聖書の講義もされていた方が、ある人につまずいて集会を離れた。ずっと以前のことだが何人かでお尋ねしたら、しきりにイスラム教を説かれた。集会を離れるとこういうことになるのかと「暗然」とした。地上のエクレシアは貧しく不完全で破れていて人いきれのする俗的なところになっても、これを離れて「ひとりよがりの」隠れ無教会になるよりは我慢して繋がっていたほうがよい。なぜならそれは僅かでも使徒伝承というものに連鎖するものだから。それがいかに不完全で俗化して穢れていてもである。●ヒルティは言う。「それを壊すな。まだ祝福が残っている」と。●地上のエクレシアで完全に満足のいくところはない。満足のいく「牧師」はいない。あると言ったらおかしい。なぜか。それは人間だから。●エクレシアの定義=破れかぶれの俗的集団。ヤケクソ集会。片端で不自由な不完全集会●塚本先生は結婚後間もなくご夫人を震災で失い、男手一つで二人のお子様を育てておられた。そんなあるとき、某婦人に「私の家は片端だー。片端だー」と嘆きを漏らされたという。●人間は誰でも不完全な片端なのだ。何かしら「不足」を抱えているものだ。その裂け目を目指して神は永遠の生命の水を注ぎ込むのだ。裂け目結構、破れ目結構、不足結構。失敗結構。悔やみ結構。それは永遠の生命を頂く条件だ。●図書館にCDを借りに行く。●田中三郎さんの野菜の店に行く。


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 田中三郎氏(元建設省→建設物価調査会)は定年退職後、あきる野市で野菜作り。ときどき新鮮な野菜を届けてくださる。2007.1.24


●風呂場の壁と天井の木部にカビが発生したので、薬品でとる●手すりの壁に竹すだれえを貼り付ける●ヤマハの楽譜係りの「モトオカ」さんにバッハカンタータ156番の楽譜を注文。確認の為にCDを流して聞いてもらった。●NHKTV「ためしてガッテン」で「カツ丼」のおいしい作り方。カツ丼を食べると「幸福感」が増大するという統計。ななぜか。かきこんで食べるから「ハイ」になり、それは山登りのとき「ハイ」になるのと同じ現象。「幸福論」のヒルティが聞いたらどんな感想を持つか。●NHKTV「その時歴史は動いた」は「島原の乱」。幕府がこれを鎮圧したのは背後にあったカトリック教会の日本植民地化を恐れたことにある。日本のキリスト教は「メイド・イン・ジャパン」でなければならない。●かって日本のキリスト教は、ドル系、マルク系、フラン系、ポンド系であった。これではいけない。「武士道」の精神で聖書に対峙しなければならない。


 

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「狭き門」とは何か ++++++++ 所感

2007/01/23 08:10

070123(火)5時15分起床。●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。IBMでの研究チームでは中国系の人物が優秀であることを知る。米国も中国も成績を公表するという厳しい育ち方をしているという●よい競争必ずしも悪くはない。競争社会を斜めに見る人間、変に嫌う人間、必ずしも正常な精神ではない。よい競争は「自分を打ち叩く」励みになるのだ。パウロは次のように言う。


塚本訳 Ⅰコリ9:26-27
9:26 わたしはそれゆえに、目標があいまいでないように走る。空を打たないように拳闘をする。
9:27 いや、自分の体を打ちたたいて征服する。人には(福音を)説きながら、自分では失格するようなことのないためである。


塚本訳 ピリ 3:12-14
3:12 しかしこれは(何も)既に(それを)捉えたとか、既に完成されているとか言うのでは(もちろん)ない。ただもしや私も(それを)捉えることが出来はしないかと、走っているまでである。私もキリスト・イエスに捉えられたのだから。
3:13 兄弟達よ、私はまだ自分で(それを)捉えたなどとは考えていない。しかし(ただ)一つの事──後ろのものを忘れ、前のものを追い求めながら、
3:14 (或る)目標に向かって、すなわち神がキリスト・イエスにおいて天上に招き給う褒美に向かって(ひた走りに)走っているのである。


●無教会主義集会に所属する者は、他の集会員に負けないように聖書勉強の自己鍛錬をするものだ。しかしそれは「信仰の深さにおいて自分が置いていかれない様に」ということがその目的である。学校と同じ勉強による方法で人を蹴落としたり押しのけたり優越感をもつためではない。雑学知識の広さだけではなく信仰を深くするためである。●昨今は大学入試のシーズンである。日本語になった聖書の言葉に「狭き門」がある。神を信じない4次元人間にとっては人生これすべての道で「狭き門」である。人を押しのけ、蹴飛ばし、排除し、追い抜き、争って先を急ぐのである。少ないポストめがけて殺到するのがその「業」である。なぜか、そこに「幸福」があると思っているからである。教育ママ、教育パパという人種すでのその元凶●ではイエスの言う「狭き門より入れ」の真意は何か。


マタ   7: 13 [文語訳


狹き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。


マタ   7: 13 [塚本訳


狭い門から入りなさい。滅びに至る道は大きく、かつ広く、ここから入る者が多いのだから。


マタ   7: 14 [文語訳


生命にいたる門は狹く、その路は細く、之を見出す者すくなし。


マタ   7: 14 [塚本訳


命にいたる門はなんと狭く、道は細く、それを見つける者の少ないことであろう!


ルカ   13: 24 [文語訳


イエス人々に言ひたまふ『力を盡して狭き門より入れ。我なんぢらに告ぐ、入らん事を求めて入り能はぬ者おほからん。


ルカ   13: 24 [塚本訳


「全力を尽くして(今すぐ)狭い戸口から入りなさい。あなた達に言う、(あとになって)入ろうとしても、入れない者が多いのだから。


●ルカ13:24の「力を尽くして」がぴったり来る。「頑張れ、頑張れ」ということなのである。ではどういう風に「頑張るのか。狭い門にひしめく人間を全力で押しのけるのか。ノー。「見つけにくい」狭い門、細い道を見出せと言うのである。この緒人間が歩こうとすす広い楽な道を歩かないよぷに「癌アbれ」というのだ。●ここのところ各国引照をBbBで調べる。


口語訳 Ⅱコリ6:17


6:17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。


 口語訳 ガラ 5:24


5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。


 口語訳 Ⅱコリ4:4


4:4 彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。


  口語訳 ロマ 8:13


8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。


 口語訳 ロマ 12:2


12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。


●ナルホドナルホド。この世的人間に習ったり、妥協したり、仲間になってはいけないのだ。「付き合いの悪い人間」になることが「狭き門」なのだ。嫌われる人間になる道なのだ●さらにTSK日本語ヴァージョンでピンポイントでマタイ7:13.14とルカ13:24を見てみよう。ぴったりと来るものだけを厳選ピックアップでコピー。


Luke 9:33:
このふたりがイエスを離れ去ろうとしたとき、ペテロは自分が何を言っているのかわからないで、イエスに言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。


Luke 13:25:
家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。


Luke 14:33:
それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。


John 10:9:
わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。


John 14:6:
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。


II Corinthians 6:17:
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。


Genesis 6:5:
主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。


Genesis 6:12:
神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。


Psalms 14:2:
愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。


II Corinthians 4:4:
彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。


Ephesians 2:2:
かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。


Ephesians 2:3:
また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。


Proverbs 16:25:
人が見て自分で正しいとする道があり、その終りはついに死にいたる道となるものがある。


Philippians 3:19:
彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。


II Thessalonians 1:8:
その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、


II Thessalonians 1:9:
そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。


I Peter 4:17:
さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。


I Peter 4:18:
また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。


Revelation of John 20:15:
このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。


Matthew 16:24:
それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 


Matthew 16:25:
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。


Proverbs 4:26:
あなたの足の道に気をつけよ、そうすれば、あなたのすべての道は安全である。


Proverbs 4:27:
右にも左にも迷い出てはならない、あなたの足を悪から離れさせよ。


Proverbs 8:20-21
8:20 わたしは正義の道、公正な道筋の中を歩み、
8:21 わたしを愛する者に宝を得させ、またその倉を満ちさせる。 


Isaiah 30:21:
また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。


Isaiah 35:8:
そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。


Jeremiah 6:16:
主はこう言われる、「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ。しかし彼らは答えて、『われわれはその道に歩まない』と言った。


Mark 8:34:
それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。


John 15:18:
もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。


John 16:2:
人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。


John 16:33:
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。


Acts 14:22:
弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った。


口語訳 Ⅰテサ3:2-5
3:2 わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテをつかわした。それは、あなたがたの信仰を強め、
3:3 このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められているのである。
3:4 そして、あなたがたの所にいたとき、わたしたちがやがて患難に会うことをあらかじめ言っておいたが、あなたがたの知っているように、今そのとおりになったのである。
3:5 そこで、わたしはこれ以上耐えられなくなって、もしや「試みる者」があなたがたを試み、そのためにわたしたちの労苦がむだになりはしないかと気づかって、あなたがたの信仰を知るために、彼をつかわしたのである。


Matthew 20:16:
このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。


Matthew 22:14:
招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。


Matthew 25:1:
そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。


Luke 12:32:
恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。


Luke 13:23:
すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。


Romans 9:32:
なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。


Romans 11:5:
それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。


Romans 11:6:
しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。


Romans 12:2:
あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。


Ephesians 2:2:
かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。


Ephesians 2:3:
また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。


Luke 21:36:
これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。


 Matthew 11:12:
バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。


John 6:27:
朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。


I Corinthians 9:24:
あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。


Philippians 2:12:
わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。


Philippians 2:13:
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。


Colossians 1:29:
わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。


Hebrews 4:11:
したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。


II Peter 1:10:
兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。


Proverbs 1:24:
わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、


Proverbs 14:6:
あざける者は知恵を求めても得られない、さとき者は知識を得ることがたやすい。


Proverbs 21:25:
なまけ者の欲望は自分の身を殺す、これはその手を働かせないからである。


Ecclesiastes 10:15:
愚者の労苦はその身を疲れさせる、彼は町にはいる道をさえ知らない。


Isaiah 1:15:
あなたがたが手を伸べるとき、わたしは目をおおって、あなたがたを見ない。たとい多くの祈をささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである。


Isaiah 58:2:
彼らは日々わたしを尋ね求め、義を行い、神のおきてを捨てない国民のように、わが道を知ることを喜ぶ。彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを喜ぶ。


Ezekiel 33:31:
彼らは民が来るようにあなたの所に来、わたしの民のようにあなたの前に座して、あなたの言葉を聞く。しかし彼らはそれを行わない。彼等は口先では多くの愛を現すが、その心は利におもむいている。


Mark 6:18:
それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。


John 7:34:
あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」。


John 8:21:
さて、また彼らに言われた、「わたしは去って行く。あなたがたはわたしを捜し求めるであろう。そして自分の罪のうちに死ぬであろう。わたしの行く所には、あなたがたは来ることができない」。


John 13:33:
子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。


Romans 9:31:
しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。


Romans 10:3:
なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。


 ●これだけ読むと、聖書の精神がトータルに見えてくる。やはり信仰の道は「狭い」。クリスチャンになるにはこの険しさ、厳しさを覚悟しなければならない。清濁合わせ飲むようなこの世的信者は神に罰される。「パソコン三種の神器」による聖書勉強は面白くてやめられない。●15:00昭和女子大大学院生活機構研究科長伊藤セツさんの「クラーラ・ツェトキーンの生活」の講義を聴く。ドイツ人。女性解放運動に貢献した人●昭和女子大今期最終授業。リポートテスト内容提示●今期の最終ギャグ。・・・・外人がカウンターで寿司を食べ終わったので英語で「ハウマッチ?」と聞いたらハマチが出てきてしまった。そこで今度は日本語で「いくら?」と聞いたら「イクラ」が出てきてしまった。・・・・・しかしサッパリ受けず、笑ってくれたのは僅か2-3人。がっくり。どういう人が笑ってくれるかというと普段から「気持ちが通じている人」。この生徒は見込みがありそうだと目をかけている生徒。それがわかっただけでもよいとしよう。教師は生徒を可愛がらなければならない。可愛がっていればオヤジギャグでも(無理してでも?)笑ってくれる。●これ実生活での真理。上に立つものは部下のいいところを見て可愛がらなければならない。生徒、子供、妻、また同じ●牧師は教会員の悪口を言ってはならない。また教会員は同じ教会員の悪口を言ってはならない。教会員は牧師に不平不満を抱いてはいけない●教会員が牧師に不満を持ったらその教会にいる意味はない。心がコンクリートのようであるから牧師としてもやりにくい。話がその教会員に入っていかない●設計事務所の所員は所長を心で批判したらオシマイ。生命が途切れるので技術的向上がなくなる。●最終授業の締めくくりの言葉「では皆さんお幸せに。皆さんがシアワセの道を歩めるようにお祈りしております。サヨウナラ」。するとみんなが「さようなら」と言ってくれた。今年は涙を流す人がいなかった。「学校では話せない『課外授業』をあきる野の家で開く」と言ったら、すぐ10名程度の申し込みがあった●歳をとると顔を見ただけでこの人はどの道に進むと「生きがいが得られそうか」がすぐ分かる。そこで尋ねてくる人間にはズバズバ言う。今日は「あなたは工務店のオカミさんになって会社を取り仕切るとよい」「あなたは建築をやらないで福祉の現場で障害者や老人や子供を相手の仕事をするとよい」などなどをアドバイスした。パッと見ただけで分かるから不思議。歳はとるものだ。


 


 


 

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親父(オヤジ)困ったことになった ++++++++ 所感

2007/01/22 06:48

070122(月)5時起床。「最も短い祈り」もついて黙想●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。エサキダイオードを作り出したことで次々と「賞」を受賞。氏を生んだ神戸工業とソニーは偉かった。1965年には学士院賞。これには八木アンテナで有名な八木秀次教授の推挙による。人間の真の価値はそれを見出す人によって決まる。何故米国IBMに32年間も滞在したかについては、米国では自然科学者がいつでも自然淘汰されるからだという。年功や経歴にとらわれずに実力のあるものが常によいポジションにつけるからだという。これに比べて日本の官僚機構や大企業は逆だから組織が「よどむ」「生きない」●私が転職した35歳と55歳のときのこと。新しい職場に私を推挙してくださった方に共通のことは、私が「祈ることができる人」という信仰者といおうところに目をかけてくださったのである。私が最も大切なことと思っていたその中心的なところを見て推挙してくださった。人生は自分の最もよいところに目をつけてくれる人に出会うことが幸福の条件sである。就職、結婚、また然りである●初めの会社では「人事評価」をしなければならない「嫌なこと」があったが、「祈りができるか」などという項目はない。すべて成果主義的判断。企業が「落ち目」になると唯物的成果主義方式を導入し始める。それでさらに業績が悪化して失敗したのは「富士通」と「ソニー」。●ヒルティは最もよい祈りは短いものであると言っている。否、口に出ない祈りである。どう祈ってよいか分からないときの「うめき」である。


文語訳  ロマ 8:26
8:26 斯くのごとく御靈も我らの弱を助けたまふ。我らは如何に祈るべきかを知らざれども、御靈みづから言ひ難き歎きをもて執成し給ふ。


塚本訳 ロマ 8:26
8:26 しかし(創造物やわたし達神の子が苦しんでいると)同じように、御霊も、弱いわたし達を助けてくださる。すなわち、(神のみ心にかなうには)どう何を祈るべきかわからないので、御霊自身が、無言の呻きをもって(わたし達の祈りを神に)執り成してくださるのである。


●イエスは言う、本当に大切なことは「祈る前に」神はご存知だと。


文語訳 マタ 6:7-8
6:7 また祈るとき、異邦人のごとくいたづらに言を反復すな。彼らは言多きによりて聽かれんと思ふなり。
6:8 さらば彼らに效ふな、汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ。


塚本訳 マタ 6:7-8
6:7 また祈るとき、異教人のようにベラベラしゃべるな。彼らは口数が多ければ、聞いてもらえるものと思っている。
6:8 彼らの真似をしてはならない。神はあなた達の父上である。求める前から、あなた達に必要なものをよく御承知である。


 ●次に短い祈りは「アバ」である。これはJ・エレミヤスの有名な小論考(論考も短い方がよい)である「アッバー」が印象的である。それによればイエスが祈るときの呼びかけの言葉「アッバー」は「トーちゃん」という意味だという。イエスはその人生で最も苦しかったゲッセマネの祈りでこの「アッバー」と言っている。つまり「父ちゃん。苦しいよー。助けてくれよー」という心境である。●人生、ピンチのときは神に向かってただ「親父(オヤジ)、困ったことになった」と祈ればよい。


文語訳 マコ 14:36
14:36 『アバ父よ、父には能はぬ事なし、此の酒杯を我より取り去り給へ。されど我が意のままを成さんとにあらず、御意のままを成し給へ』


塚本訳  マコ 14:36
14:36 言われた、「アバ、お父様、あなたはなんでもお出来になります。どうかこの杯をわたしに差さないでください。しかし、わたしの願いでなく、お心がなればよいのです。」


●パウロも神を「アバ」(父ちゃん)と呼んでいたらしい。


文語訳 ロマ 8:15-16
8:15 汝らは再び懼を懐くために僕たる靈を受けしにあらず、子とせられたる者の靈を受けたり、之によりて我らはアバ父と呼ぶなり。
8:16 御靈みづから我らの靈とともに我らが神の子たることを證す。


塚本訳 ロマ 8:15-16
8:15 なぜなら、あなた達が(神から)戴いた霊は、(あなた達を)もう一度(律法の支配の下に置いて)びくびくさせる奴隷の霊でなく、(神の)子の霊である。(その証拠には、)わたし達は(祈るとき、)その霊によって「アバ(お父様)、お父様」と大声で呼ぶではないか。
8:16 御霊自身が、今すでにわたし達が神の子供であることを、わたし達の霊に保証してくださるのである。


●ところが人生では「聴かれざる祈祷」というものがある。内村鑑三のこれまた有名な小論考に「聴かれざる祈祷」がある。内村の生涯を重ね合わせてみると涙なくしては読めないものである。イエスは人に対して「神はお父さんのようなものだから祈りは何でも聴かれる」と教えておきながら、肝心の自分の切なるゲッセマネの祈りは聴かれなかった。このとき一番辛かったのは「父なる神」ご自身であった。人類の罪を全部イエスに負わせるためには、イエスの祈りを退けなければならなかったのだ。目と耳をふさいで心を冷たくしなければならなかったのだ●子供の願いを全部聴かないところに神の「父たる」ところがあるのではないのか。父なる神の苦悩もそこにある。イエスが神を「オフクロ」「おっかさーん」(母よ)と呼ばせなかったところに意味があるのではないのか●全能の父なる神というとき、神はすべての祈りを聞いて下さらないという意味で「全能」なのかもしれない●すでに逝去した私の知人は幼くして「父」を亡くした。彼の母親は「細腕」で彼を育てたが、一番の苦労は家庭に「父性」が欠如していたことであった。そこでたびたび「父親代わり」になってくれる人を訪ねて彼に対しての「父性」を頼んだ。富士を見るたびに一緒に昇った彼のことを思う。彼なきあとその未亡人はその母親に仕えている。●成功の人生は祈りが聴かれないところにある。それはその人間が神の経綸に組み込まれた証拠なのだ。イエスの十字架の苦悩は父なる神の苦悩の見える形。何でも願いを聞き届ける親はダメオヤジ。サタンと手を組んで子供を堕落させるだけ。●銀座まで歩く。高層ビル建築ラッシュ


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日本橋COREDO 日本設計の設計 2007.1.22


外壁の曲面デザインは船を思わせる。


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東京駅八重洲口開発計画北棟 地上43階 観光会館跡地


日研設計の設計 施工はスーパー大手(鹿島 清水 大林 大成)ほかのJV


2007.1.22 無機質なあまりに無機質な。


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東京駅八重洲口開発計画南棟 地上43階 観光会館跡地


日研設計の設計 オールガラス張りのカーテンウォールは立派。しかし心が凍る


2007.1.22


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つかの間の空間 息をつける。後方は日本銀行


都市にはこのように息抜きの空間が必要だ。潤いが必要。


2007.1.22 


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東京タワーと高層マンション。人間は高いところを好む。


高い地位、高収入、高学歴、身長、高い山、高層マンションなどなど。しかしその高さの優越感という喜びは人間を真に満足させるものではない。真の喜びは「生命」との出会い、永遠の生命との出会い。神との出会い。 神との出会いを経験すると「低いところ」に行きたくなるものだ。


2007.1.22


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こういう曲面デザインは大抵外国人の設計。日本人がこういう設計をすると潰される。日本人の西洋人崇拝。 芝. 2007.1.22


●銀座山野で楽譜購入。バッハBWV156 シンフォニア。楽譜売り場の持木さんがよく探してくれた●14:00日本建築積算協会コストスクール評議員会。東京大学名誉教授の内田祥哉先生や青山学院大学名誉教授の鵜澤昌和教授、建築技術教育普及センターの片山正夫理事長などと突っ込んだ意見交換ができて有益であった●私はプロジェクトマネジャーの社会的位置づけについて英国の解説書を説明した。白板で図解説明。よく分かってもらえた。


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 我が家の「家の光」。夕飯が待っている。やはり木造の家がよい。落ちつく。


2007.1.22


 


 



 


 


 


 


 

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貧しき者はなぜ幸いか ++++++++ 所感

2007/01/21 06:55

070121(日)3時半目覚め、床の中で黙想「貧しきものはなぜ幸いか」。5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。ソニーを辞してIBMに移籍。給料は15倍。江崎玲於奈を手放したソニーの偉さが目立つ。●昨日妻が日比谷公会堂の前を通ったとき思い出したということ。長男を身ごもったとき、給料が低かった私の家に集会の長老が高価なチーズを下さった。日比谷公会堂にはその長老が下さった「メサイア」を二人で聴きに行ったのである。集会(エクレシア)は神の愛の具現化である。●「貧しきものは幸いなり」とあるが。それはなぜか。●お金があれば満たされたであろう「この世の欲」「肉の欲」が十分に満たされないからであろう。堕落への防波堤ではないのか。垣根ではないのか。お金があれば得られるものは神に敵対するものではないのか。お金で得られる喜びは肉の喜びだからではないのか。


塚本訳 ロマ 6:19-21
6:19 (奴隷の例でこんな)人間的の言い方をするのは、あなた達の理解力が(まだ)弱いからである。(わたしはこう言いたい。──かつて)あなた達が奴隷になって肢体を汚れと不法とにまかせて不法を行ったように、今度は(神の)奴隷になって肢体を義にまかせて聖くなれと。
6:20 なぜなら、あなた達が罪の奴隷であった時には、義に対して自由(の身)であって(勝手放題な生活をしてい)たが、
6:21 その時いったいどんな実を得たのであったか。今なら恥ずかしいものではないか。それらのものの最後は死だからである。


 ●お金がないために得られないものはパウロの言う「糞土」のようなものではないのか。パウロはそれを負け惜しみではなく実感としてそう思ったのだ。事実、有体的復活や永遠の生命をいただくと、これはお金では買えないことがよく分かるのだ。これ負け惜しみではない。4次元人間は5次元世界のことがまったくわからないから、こういう話は負け惜しみに聞こえるのだ。


口語訳 ピリ 3:8
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、


文語訳 ピリ 3:8
3:8 然り、我はわが主キリスト・イエスを知ることの優れたるために、凡ての物を損なりと思ひ、彼のために既に凡ての物を損せしが、之を塵芥のごとく思ふ。


塚本訳  ピリ 3:8
3:8 否、ただにそれ(らの特権)ばかりでなく、わが主キリスト・イエス(を知る)の知識が(余りにも尊く)優れているために、本当は(今は)一切合切のものを損だと思っている。(実際)彼のために何もかも損してしまったのだが、(そんなものは皆)塵芥と思っている。これはキリスト・イエスを自分の有とし、


●しかし、貧困を子供に味合わせることは親としては辛いことだ。息子の一人が「○○チャンのお小使いは○○円だってよ」と言われたときは、悲しくグッときたものだ●私の父は生涯病弱で三人の子供たちをそれぞれの希望の道に進めることができずにそれを最後まで悔やんでいた●ある時わたしは父に言った「そのことはモーいいよ。僕はそのおかげで『幸いなるかな貧しきもの』の意味がわかったんsだから」と慰めた●A・シュヴァイツァーは牧師の子供であったが、協会員の子供より自分の方が豊かであったことに疑問をもち、長じて全財産を投げ出してアフリカに身を捧げた。●人は貧しくなって聖書がわかる。ヘブライ語では貧しいと言う言葉と信仰が深いというのはシノニム(同義語)。●千駄ヶ谷から集会の会場まで妻と新一と話しながら歩く●集会は藤巻、横田、望月●帰途高木さんと新宿まで懇談。自浄作用という働きが大切であることを学ぶ●妻は合唱の練習、今日からヘンデルの「メサイア」。「メサイア大好き人間」の私にとっては楽しみだ。●妻と夕食食前の祈り、集会のこと、子供たちのこと、残りの生涯のこと。語らいは「神がすべてをなしてくださるということ」。集会にしばらく見えない方の消息、ご病気の方のこと。●藤林益三先生がご高齢の為に聖書講義の講壇を降りられたのは2001年5月27日。もう6年にもなった。私が新築の家に引っ越した頃だ。


 

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胸のしこりがとれるとき ++++++++ 所感

2007/01/20 09:06

070120(土)5時起床。「胸のしこり」について黙想●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。エサキダイオードが評判になり始める。ノーベル賞ものだといううわさが立ち始める。しかし全人類においてそれはある一部の世界のこと。真に尊いことは人の目に隠れる。人に知られないよいことが最も尊いことである。ノーベル賞なんかは「人に知られる」ことの最たるもの。その賞は天国では通用しない。一流校卒の肩書きも天国では通用しない。


文語訳  マタ 6:3
6:3 汝は施濟をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな。


塚本訳 マタ 6:3
6:3 あなたは施しをするときに、右の手のすることを左に悟られてはならない。


NKJV マタ 6:3
6:3 "But when you do a charitable deed, do not let your left hand know what your right hand is doing,


TEV マタ 6:3
6:3 But when you help a needy person, do it in such a way that even your closest friend will not know about it.


●実人生は「修道院」である。これヒルティが強く説くところ。家庭内、職場内、仕事の世界、得意先との関係、現場作業者とのこと、営業対現場、経営者対労働者、上役対部下、金銭問題,病気、老人問題、などなどこれすべて修道院内の修行よりも厳しい。●実人生で起る「胸のしこりや重荷」からどう逃れるか、これ実際的の大問題。宗教が必要。このためにキリスト教があると言っても過言ではない。胸にしこりや重荷があるのは辛い●教会の看板で最も多いのは次の言葉。これ実人生の最大問題、最深のニーズ。


 文語訳  マタ 11:28-29
11:28 凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。
11:29 我は柔和にして心卑ければ、我が軛を負ひて我に學べ、さらば靈魂に休息を得ん。


塚本訳 マタ 11:28-29
11:28 さあ、疲れている者、重荷を負っている者はだれでも、わたしの所に来なさい、休ませてあげよう。
11:29 わたしは心がやさしく、高ぶらないから、わたしの軛を負ってわたしの弟子になりなさい、そうすれば『魂の休息が得られよう。』


NKJV マタ 11:28-29
11:28 "Come to Me, all you who labor and are heavy laden, and I will give you rest.
11:29 "Take My yoke upon you and learn from Me, for I am gentle and lowly in heart, and you will find rest for your souls.


TEV マタ 11:28-29
11:28 "Come to me, all of you who are tired from carrying heavy loads, and I will give you rest.
11:29 Take my yoke and put it on you, and learn from me, because I am gentle and humble in spirit; and you will find rest.


●胸のしこり、心の重荷は深刻。なにをしてもどうやっても下ろすことができない。できると言う道があったら「お教えいただきたい」。キリスト教はこの「しこりと重荷」をとってくれる。超自然的な宗教体験でこのしこりと重荷がとれる。それは不思議なこと。この不思議の存在がキリスト教が存続してきた原因。キリスト教が滅びない原因。それは「今に働く」十字架の啓示による罪の赦し。●その超自然的な体験で「胸のしこりと重荷」が降りた人の気持ちは讃美歌529番の3節である。これがあって人生は「安らかに」歩める。このようにして「楽になる」ことが幸福。


讃美歌529番3節


3. むね の なみ おさまり,


   こころ いと しずけし,


   われ も なく, 世 も なく,


   ただ 主 のみ いませり.


●この不思議な宗教体験はカトリックの修道院ではなく厳しい実人生でのほうが得られやすい。なぜか。罪と汚濁の渦中に生きるから。人間はその暗闇から神の力によって購いだされるのである。清められるのである。修道院内でのゴタゴタよりも純粋である。●ルターは自分の影響で修道院を離れた「脱走修道女」たちを次々に結婚させたが最後に残ってしまったカタリーナを自分の妻にした。一昨年そのルターの住まいを訪ねてカタリーナの像をみたがなるほどあまり美人ではなかった。しかし信仰的に優れていて、ルターをして「全ドイツともこのカタリーナと取り替えられない」と言わしめた。カタリーナにとっては実人生の方がより優れた修道院であったのだ。


塚本訳 ガラ 1:3-5
1:3 わたし達の父なる神と主イエス・キリストからの恩恵と平安、あなた達にあらんことを。
1:4 キリストはわたし達の父なる神の御心にしたがい、わたし達を悪い現在の世から救いだそうとして、わたし達の罪のために自分を与え(て十字架につけ)られたのである。
1:5 栄光は永遠より永遠に神のものであれ、アーメン。


新改訳 ガラ 1:3-5
1:3 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
1:5 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。


●イマドキのワカイモンに「宗教の必要は?」と聞かれたら、「胸のしこり、心の重荷が取り除かれるためだ」といえば正解。それ以外のことでは宗教はあまり必要ない。●それほど「胸のしこりと心の重荷」は辛く厳しく懊悩するものである。もしその苦しみを感じないで、その苦しみから解放されたいと思わない「オメデタイ」人間には宗教、キリスト教、信仰、聖書なぞは縁がない。●第二次世界大戦のとき米国は兵士の士気をあおるために「ネバーパールハーバー」と言って復讐心を煽った。戦争は復讐に始まる。●私の知る九州の川野正七(医学博士)氏は自らが原爆の被爆者であるが、米国を恨めないという。なぜなら自分の罪を知り、神によって救われたからだという。これ「復讐の終り」である。戦争は「復讐心」という「胸の波、胸のしこり、心の重荷」から解放させられて終結する。それには平和運動、ヒューマニズム、憲法9条の維持、だけでは無理。神による平和をいただかなければダメである●米国のブッシュは復讐心に「正義」の衣をかぶせてイラク戦争を始めた。表向きは「イラクを民主主義化することによってイラク人に自由を」というスローガンだが、人間は民主主義では救われない、「胸のしこりや復讐の心」から自由になれない。●復讐心の「心の刃」から救われた人の讃美歌は次の通り。



 讃美歌261番2節。

 2. 十字架 の うえ にて かぎり も なく


   主を 苦しめし は なに の わざ ぞ.


   み旨に そむきし かみ の 子ら の


   数えも えがたき つみ の やいば.



●自分の醜さを神に示されたときの歌は次の通り。


讃美歌333番1節


1. 主よ, われ お ば とらえ たまえ,



   さらば わが 霊(たま )は 解き 放(はな)たれん.


   わが やいば を くだき たまえ,


   さらば わが 仇 に 打ち勝つをえん.


●教会に来る婦人の多くは「夫の浮気」の悩みが原因であるという。これ実人生の最大の修羅場、婦人の十字架である。胸のしこり、胸の重荷である。この地獄の苦悩から救われるためにはまず自分が「罪赦されなければならない」。するとマカ不思議に相手を赦せるようになる。これぞ奇跡。すると夫も回心、家庭に平和が戻る。●そうでない場合は復讐心はメラメラと激しいから殺してもまだ気が済まずに最近の事件のように、バラバラにもしたくなる。人間に憎しみがあるときは何をするかわからない。とんでもないことをする。●ドコモ秋川店で携帯電話通話料の多いことを尋ねる。I(あい)モードの使いすぎ。●13:30日の出が丘病院「日の出会」。11名。沖医師から癌の最新情報を伺う。現在年間32万人が癌で死亡、その数は年間8000人ずつ増加。将来死因の5割は癌ということになる。緩和医療が進んで断末魔の痛みは回避されるようになった。巨額を投じても癌治療薬は開発できてない。将来とも無理かもしれない。なぜなら癌は細胞の老化現象。丸山ワクチンが話題にあがった。●癌の予防薬はない。癌の予防に関係があるのは「心の問題」。心が明るい人は暗い人に比べて癌に効き目があることは確かだという。●妻はハンガリー友好協会の親善コーラスで日本の歌を歌う。イイノホール。終了後松本楼。

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十字架を負うとはどういうことか ++++++++ 所感

2007/01/19 05:52

070119(金)4時半起床。寝床で「十字架を負うとはどういうことか」を黙想●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。1958年、ベルギーのブリュッセルにおける国際学会でエサキダイオードの発表。その頃は欧州へ行くのに30時間もかかった。これらはみなソニーという母体があって可能になったもの。人間は庇護のもとに活動しているとき、「これは自分の手柄」だと思う人間は小人。大した人物ではない。そういう不遜な人間はいついか足をさらわれる●自分達の行動や運動で勝ち取ったものだと慢心するとき、それはサタンに目をくらまされている証拠。人間の思いが通るとき、神の栄光はあがらない。神としても「不快」●「自分を捨てて、自分の十字架を負って私に従え」とはクリスチャンに課せられた至上命令であるが、この意味はどういうことだろう。三種の神器を利用して学ぼう。


●まず、これがどこにあるかは「Jバイブル」を使用するのが便利。これで検索と翻訳比較をする。


文語訳  ルカ 9:23
9:23 また一同の者に言ひたまふ『人もし我に從ひ來らんと思はば、己をすて、日々おのが十字架を負ひて我に從へ。


塚本訳 ルカ 9:23
9:23 それから今度は皆に話された、「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、(まず)己れをすてて、毎日自分の十字架を負い、それからわたしに従え。


●次にこれを含む段落の引照をBbBで調べる。


新共同 Ⅱテサ1:7


1:7 また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。


 新共同 Ⅰヨハ2:28


2:28 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。


●十字架を負わされていてもいつかは「休息」が得られる。「楽」にさせられる。これは希望だ。



新共同 Ⅱテモ4:14


4:14 銅細工人アレクサンドロがわたしをひどく苦しめました。主は、その仕業に応じて彼にお報いになります。


●パウロの「自分の十字架」。実名を挙げている。



口語訳 Ⅱコリ4:10-11


4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。


4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。


●「たえず死に渡されている」というのがルカ9章23節の「毎日十字架を負う」という言葉にに通じる。クリスチャンは十字架の重荷という肩の荷が下りることは一生ない。


 口語訳 ロマ 8:17-18


8:17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。


8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。


●ロマ8:18 これは亡くなった父の口癖、耳にタコができるほど聞かされた。臨終の床で耳元で大声で叫んだ。



口語訳 Ⅰコリ15:31


15:31 兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。


●これもルカ9章23節の「毎日自分の十字架を負え」という言葉に通じる。


 口語訳 Ⅱコリ4:17


4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。


●艱難は「しばらく」の間だけというのは慰め。いつか「休息」が与えられる。「再臨のときにはすべてがわかる」と言うのも父の口癖であった。 





新共同 ヘブ 10:34


10:34 実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。


●十字架を負うということの具体的なことは「財産を失うこと」。これはイエスが富める青年に「財産を捨てて来い」と言った言葉に通じる。クリスチャンの道は「儲からない」。しかし満足度は120%。金持ちより満足。幸福。 


●以上だけで「アーソウカ」と思って心一杯になるが、さらにピンポイントでマタイ16:24、マルコ8:34、ルカ9:23 をTSK日本語ヴァージョンで調べる。すべて口語。


Acts 14:22:
弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った。


●「持ち続ける」という言葉の意味は深い。洗礼を受けて信仰が続く人間は5割以下。


Colossians 1:24:
今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。


●これ難解の箇所。キリストの十字架は完全であったが、復活のイエスとともに「今」の救いを信者はキリストともに負って神の業を継続するのである。


I Thessalonians 3:3:
このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められているのである。


●信者は「艱難に会うように定められている」とはまた厳粛な宿命。 福徳円満で誰からも愛される人間は有体的復活の使徒伝承の信仰に立っているのだろうか。


II Timothy 3:12:
いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。



●信仰が深くなると肉の人間に嫌われる。「あの人は宗教に凝っている」「人生観が狭い」「信仰だけの人間」「世間的常識知らず」「清濁併せ呑むことができない人間」。こんな批判はくそ食らえだ。


Luke 23:26:
彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。


●イエスは十字架が重くて負えなかった。われわれも十字架は負えない。負えないで崩れ落ちるときに十字架が負えたのである。それは負わされた十字架である。 


I Peter 4:1:
このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。


I Peter 4:2:
それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。


●「残りの生涯」というのは余命のこと。この世的安泰の生活はありえないということ。


Mark 9:43:
もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。


●「両手がそろったまま」というのは健康も経済も家族も安泰だということにつながる。それがそろうと神を忘れる。


Luke 14:27:
自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。


●「できない」とはまた断定的な厳しい言葉。


Romans 15:1:
わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。


I Corinthians 8:13:
だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。


I Corinthians 9:19:
わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。


●信仰とか靈とかは5次元の世界のこと。それを4次元の人間に語っても通じない。それは「愚かなこと」といわれるだけ。靈のことは靈でなければわからない。ここが難しいところ。信仰は人間良識ではわからないことだ。


Philippians 3:7:
しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。


●財産、地位、名声、名誉、これらが満たされると神を必要としなくなる。病気のときに神を求めても直ると忘れる。結婚前に教会で聖書を学んでも結婚式が終わるとさっさと縁を切るのが9割以上。イマドキのワカイモン結婚式をキリスト教式で行うのは5割。しかしそれは信仰抜きの単なるムード。


Mark 10:21:
イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。


●後半の「私に従え」とルカ9章23節の「十字架を負え」とは同じ思想。すると自分を捨てるということは具体的には「財産放棄」。


Acts 14:22:
弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った。


●天国へは感嘆には入れそうもない。余命で「多くの艱難を経なければ」ならなそうだ。


Romans 6:6:
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。


Romans 8:17:
もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。


●苦難はキリストが友に負ってくださっているとは大いなる「慰め」。 


I Peter 4:13:
むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。


●信者は生涯楽になることはない。「苦しみにあずかればあずかるほど」という言葉がそれを暗示する。


Revelation of John 2:10:
あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。


●人生の最後には光があって「楽」になると思うのは誤り。楽になるのは「来世」でだ。 


Luke 14:26:
「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。


●これだ。これが十字架を負うことの具体的なこと。肉親に「ノー」と言うのはつらい。儒教の精神やヒューマニズムからできない。しかし神にあるとき、言わざるをえない。これが十字架。 。


John 12:25:
自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。


●自分の家族を捨てるのは自分を捨てるよりつらいのが儒教国の人間の心。親に、子供に、妻に、夫に対して「ノー」というとき世の中が「敵」になる。 


●以上でTSK日本語ヴァージョンで心に響いたもののピックアップは終了。結論として思うこと。クリスチャンは日々十字架を負わされて死んでいかなかればならない。信者は艱難を受けるように定められている。それは「狭き門」「狭き道」「損の道」「恥の道」「キリストの苦しみの継承。これが今に生きるエクレシア」「苦しむことが使徒伝承に連なること」●パソコンによる聖書勉強のツールとしての三種の神器の威力はたいしたものだ。●「十字架を負う」という言葉の正しい使い方。「原監督は巨人軍の不振で十字架を負った」は誤り。「姉歯事件で建築界は十字架を負った」「歯科医の息子が妹を殺したことにより父は十字架を負った」は正しい。●「自分の十字架とは」具体的には家族のこと。妻が夫の、夫が妻の、親が子供の、子供が親の九時かを負うということが多い。●新宿武蔵野館で映画「敬愛なるベートーベン」を鑑賞。ベートーヴェンには有能な女性写譜師がいて、耳の聞こえないベートーヴェンを助けたというフィクション。粗野なベートーヴェンのことは嫌いであったが、その音楽には惹かれた女性の物語。男は仕事そのもに打ち込まなければならないと思った。


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出勤途中、振り返ると冬の奥多摩連山。冬の景色はきれいだ。2007.1.19




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良いものは偶然に与えられる ++++++++ 所感

2007/01/18 07:14

070118(木)5時10分起床●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。後にノーベル賞の対象となるトンネル効果の偶然的な発見。偶然といっても暗中模索中のこと。求めていなければ偶然にも目がいかない。前ノーベル賞の津上製作所の田中氏の発見も「偶然」。ノーベル賞は「偶然」が多いのではないか●よい人間との出会いも「偶然」。自分の力で探すとか、自分が選んだ人とか、自力で開発したものとか、国旗奮励自分の努力で得たものであるとかいうものは禍。なぜか、神の栄光があがらないからである。良いものは神から与えられる。人間はそれを「偶然」のように思えるが、あとで振り返るとそこに神の摂理があることが分かる●不幸や災難も偶然のように見えるが、多くは罰でなく神の鞭。愛の導きの糸。●神を信じない人間は、不幸や災難は偶然か、よくて天罰に思えてしまうから気の毒。そして不幸や災難を「恐怖」に感じるからそうならないように必死に「人間的努力」に邁進する。


塚本訳 Ⅰコリ1:19-25
1:19 (聖書に)こう書いてあるではないか、『知恵者の知恵をわたしは滅ぼし、賢い者の賢さをわたしは無にする』と。
1:20 『どこに知恵者が』、『どこに聖書学者が、どこに』この世の議論家がいるのか。神は(この)世の『知恵を馬鹿なものにされた』ではないか。
1:21 なぜなら、(この)世(の人)が自分の知恵により(判断し)、神の知恵(の現われである御業)において神を認めることをしないので、神は馬鹿な(ことと見える十字架の)説教によって信ずる者(だけ)を救おうと、お決めになったからである。
1:22 実際、ユダヤ人は(信ずるための証拠に神からの不思議な)徴を乞い、異教人は(真理を知るために)知恵を求めるが、
1:23 わたし達は十字架につけられたキリストのこと(だけ)を説く。すなわち、ユダヤ人にはつまづき、異教人には馬鹿なことであるけれども、
1:24 (神に)召された者だけには、ユダヤ人、異教人の別なく、(これこそ)神の力、また神の知恵なるキリストを(説くのである)。
1:25 というのは、神の(業はどんなに)馬鹿なこと(に見えても、それ)は人よりも知恵があり、神の(業はどんなに)無力(に見えても、それ)は人よりも力があるからである。


●070114のブログ日記に「教会(集会)難民」のことを書いたが、では「教会(集会)難民」の救いはあるのか。ある。神のところに救いと真の教会(集会)はあって、地上の歴史的伝統の教会を相対化するところに救いがある。その教会(集会)には神が招く。地上の歴史的教会にはどこにも安らぎはない。人いきれがして人間臭くてしょうがない。


塚本訳 使  7:48-50
7:48 しかし(それは御心にそむいたことで、)いと高きお方は(偶像とちがい、人間の)手で造ったものの中にはお住みにならない。預言者(イザヤ)が言うとおりである。
7:49 『主は言われる、『天はわたしの御座、地はわたしの足台であるのに、どんな家をわたしに建ててくれるのか、どこがわたしの憩いの場所か。
7:50 これらは何もかもわたしの手で造ったもの』ではないのか。』


新共同 黙  21:22-23
21:22 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。
21:23 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。


●人間の信用度について考える。銀行が人に資金を融資するときはその人間が団体や企業に所属しているのかどうかを判断基準にする。家庭もなく一匹狼で仕事をしている人間には金を貸さない。高飛びされる恐れがあるからである●これと同じくクリスチャンもどこの教会(集会)に所属しているかによって信用度が決定する。「無教会ですからどこの集会にも属していません」という人間に限って「ひとりよがり」の信仰になり、危うい。こういうのを「隠れ無教会」という。「隠れ無教会人間」の信仰の信用度は低い。使徒伝承に繋がっていない「独りよがり」が多いからである。


塚本訳 ヘブ 10:25
10:25 (また、)ある人々がするように、集会を怠けず、むしろ互に勧め(合って出席す)るようにしなくてはいけない。その日が近づいていることをあなた達は知っているから、いよいよそうしなくては!


塚本訳  コロ 2:20-23
2:20 もし君達が、(今言ったように洗礼によって)キリストと共に死に、此世の元素の霊(の支配)から離れたのなら、何故(なお)この世に生きている者のように、
2:21 「手をつけるな、味わうな、触るな」という規則に縛られるのか。
2:22 これら(禁断の物)は皆使えば消え失せるように出来ていて、『人間の訓戒と教え』によるものである(から、少しの心配もない)。
2:23 そして(また)これら(の訓戒や教え)はお手製礼拝と(いわゆる)謙遜と禁欲とで(如何にも)知恵があるように思われているが、(実は)ただ肉の(感情の)満足に役立つだけである。


●この2章23節の塚本訳は「お手製礼拝」であるが、他の翻訳では「ひとりよがりの礼拝」(口語・新共同)人間の好き勝手な礼拝」(新改訳)である。自分の腹を拝んでいるのである。●かって「集まり」に属していて、今は「隠れ無教会」の人をお尋ねしたら盛んにイスラム教の話をされた。集会を離れるとどうしてこうも変わってしまうのだろうと思い、「フーッ」とため息がでた。信仰というものは毎日神に与え続けられるものなのだ。●「神の掟を守ることが神を愛すること」というのは律法への逆もどりではない。キリストの十字架で救われたものは「人間関係において誠実忠実」になるということだ。人間関係が常識的になり、評判がよくなることである。「平気で嘘をつく」ことはできなくなる。相手を無視しs手「すぐ返事をしなかったり」「約束をスッポカス」人間は神の戒めを守っていない。なぜなら相手を不快にするということで「人を愛する」ことをしてないからである


塚本訳 Ⅰヨハ5:2-3
5:2 神を愛し、その掟を行う時、そのことによって、わたし達は神の子(なる兄弟)たちを愛していることがわかるのである。
5:3 神の掟を守ること、それが神を愛することだからである。そしてその掟は、むずかしいものではない。


●夕方散歩。9900歩、内有酸素歩行は6900歩、消費カロリー738Kカロリー●アイシーエスで土地建物の相場を聞く。西田隆史氏。●妻とどちらかが一人になった場合の生き方について相談。


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パステルカラーのきれいな空。雲も一瞬、人生も一瞬。形はなくなる。人には忘れられる。しかし神には覚えられる。なぜか。この私を母の胎内で形作ってくださった「生みの親」だから。


             2007.1.18 16:00


塚本訳  ガラ 1:15
1:15 しかし『わたしが母の胎内にいる時から』(すでに)わたしを聖別し、また恩恵によって『召された』お方[神]が、






 


 

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喧嘩別れも神の摂理 ++++++++ 所感

2007/01/17 08:14

070117(水)5時15分起床。寝床で「あなたたちの体を聖なる捧げ物とせよ」というパウロの言葉を黙想●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。自由に研究できる道はソニーにあると考えて神戸工業を退職。しかし一悶着あって事実上の「喧嘩別れ」。この人にして痛ましい応酬があった。どんな世界でも「新しい芽」が出るときは涙の喧嘩別れがあるのは宿命。芸術の世界の師弟関係、宗教の世界の師弟関係、学問の世界の師弟関係、親子関係、夫婦関係。●塚本先生が内村先生と別れるときに武士の家系の内村鑑三は「塚本は町人だ」と暴言罵倒した。これ日記に公然と書いた。内村はそれほど塚本を深く愛していたのだ。深く愛している人間との別れには「暴言罵倒」が飛びかうものだ。その喧嘩別れは神の摂理であった。その喧嘩別れがあって日本に「無教会主義」が定着した。塚本虎二の内村鑑三からの「独立戦争」であった。塚本先生は涙という血が流れた。●人間の分離のときは普通では起らないような実に非常識な惨めな醜く酷いそして些細だがとんでもない事件がおきるものだ。それをお互い通し相手が悪いといがみ合うアものだ。そういう事件を通して二人は無理に引き裂かれることになっているらしい。それが神の摂理らしい。●塚本先生は尊敬して愛しておられた内村先生と分離するときには「生木を裂かれるような」辛いことであったと言っておられます。神に無理に裂かれたのである●旧約聖書の泰斗関根正雄先生がお元気な頃、ある集まり(忘れた)においてフロアーから一人が質問した。すると関根先生はその愛弟子に向かって「バカだねー君は」とおっしゃられたのでびっくりした。愛弟子を愛するのあまりの「暴言」であった。●気になること悪いこと間違っていることを「バカだねー、君は」と言えないような教師、牧師、伝道者、親、夫は無能で真の愛情がない人物。注意することは「逆ギレ」されて血が流されること、返り血を浴びること、去られることを覚悟しなければならない。人生は愛があれば真剣勝負になる●人間は「バカだねー君は」と言ってくれる人がいるうちは成長する。それを言われなくなったら、見込みがないと思われている証拠、飼い主のない野良犬のような生涯になる●先生や親に指導されることを嫌って「自由だ独立だ」と言っている人間は「自分がやったのだ」という慢心という罪悪のとりこになっている。それで出来上がった作品は意外にちんちくりんなものだ。建築設計者はそのバチルスにかかっている人間が多い●「喧嘩別れ」すべてが神の摂理ではない。大抵は人間のエゴが原因●独立というのは周囲に円満に押し出されるのが理想だが、それが難しい。大抵は「喧嘩別れ」が多い●この世の惰眠から目覚めた人間の第一声は決まって「我ら何をなすべきか」である。すると凡人は「何か勉強して人とは違うヒトカドの者になろう」と思う。習い事をしよう、資格を取ろう、神学校行って職業宗教家になろうなどということである。誤り。今までの自分の仕事を一生懸命やって「人に仕える」べきである。目立とうとせず小さく生きることである。教師は教師らしく、会社員は会社員らしく、主婦は主婦らしく、妻はつまらしく、夫は夫らしく、親は親らしく、医者は医者たしく生きるべきである。自分の職分ををそっちのけで天下国家や社会悪を批判する人間は誤り。自分の仕事に邁進せよ。それが自分の体を聖なるものとして感謝のしるしとして神に捧げること。「キリスト教」の冠の着く仕事や企業に就くのは誤り。現在のその場にあってまず自分の身も心を清めることが先決。


塚本訳  ロマ 12:1
12:1 (このように、神は偉大な計画によって人類を一人のこらず救おうとしておられるのであって、救いは確かである。)だから、兄弟たちよ、わたしは神のこの慈悲を指してあなた達に勧める。あなた達の体を(感謝のしるしとして神に)捧げよ。この生きた聖なる犠牲こそ、神のお気に入るものであり、(霊なる神を拝むにふさわしい、)あなた達の霊的な礼拝である。(あなた達の礼拝は動物を供えるような不合理なものでなく、全心全霊をささげる合理的な礼拝でなければならならない)


●具合が悪いので妻が医者に薬を取りに言ってくれた。感謝。「人一人でいるはよくない」。最低でもあと3年は生きたい。いろいろ見とどけたい。


口語訳 創  2:18
2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。


新改訳 創  2:18
2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」


新共同 創  2:18
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」


TEV 創  2:18
2:18 Then the Lord God said, "It is not good for the man to live alone. I will make a suitable companion to help him."


●上記創世記にあるように、女性は男性の「助け手」であることが創造の目的である。それが創造の秩序である。男尊女卑と言うことではない。男性たるものはしっかりしなければならない。 なんでもかんでも男性が女性に「どうしましょうか」と聞くのはよくない。中国の故事に女性が主導権を握る家庭や国家はうまくいかない」という。これは男性が弱体の家庭や国家はうまくいかないという意味である。●エペソ書は世の男性に発破をかける。聖書は男尊女卑でなく平等であるが、秩序として男が常にリードしなければならない。それが創造の秩序。女性としても自分をしっかりリードしてくれる頼もしい男性とでなければ結婚してはいけない。


新改訳 エペ 5:22-24
5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。


新共同 エペ 5:22-24
5:22 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
5:23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
5:24 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。


塚本訳 エペ 5:22-24
5:22 妻達よ、主に対するように自分の夫に服従せよ。
5:23 キリストが教会の頭であり給うように、夫は妻の頭であるから──しかも彼は(同時に)その体(なる教会)の救い主であり給う。(この点においてキリストと夫とはもちろん異なる。)──
5:24 しかし教会がキリストに服従するように、妻もまた何事によらず夫に服従せよ。


エペ   5: 28 [塚本訳


これと同様に夫【もまた】自分の妻を自分の体のように愛すべき義務がある。自分の妻を愛する者は自分自身を愛するのである。


エペ   5: 33 [塚本訳


何れにせよ、君達も一人一人自分の妻を自分自身のように愛せよ。そして妻は夫を畏れよ。


●私が死んだ後の妻の生き方について妻と懇談。私としても人生最後の大計画。妻の経済と住む場所。妻は自分が先かも分からないという。私は妻より一日だけ早く死にたいものだ●図書館でカルロスクライバー指揮の「椿姫」と「トリスタンとイゾルデ」を借りた。●建設中のあきるの図書館の外壁足場がとれて外観が現れ始めた。向かいのキララホールを意識した対話的なデザインはすばらしいデザイン。岡田新一の設計。図書館にいる建設担当者に感想を述べた。タイルは岡田夫人の決定だと言う。タイルの目地施工に若干不満があるが手遅れ。

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ひとりでに実を結ぶ ++++++++ 所感

2007/01/16 06:38

070116(火)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。トランジスタの研究に打ち込む。ノーベル賞受賞までの道のりには多くの人の協力があったことを一人一人実名を挙げているのは美しい。勤務先の神戸工業は研究費を出せなかったので思い悩む。こういうことも発表することで江崎玲於奈はソニーでなく神戸工業に土台が合ったことがわかり、同社の顔が立った。自分の過去を隠すことはよくない。プライバシーの侵害とか個人情報の保護などを一生懸命振り回す人間にロクなヤツはいない。隠す動機は「罪人の恐怖心」●「ひとりでに実を結ぶ」ということと「わが名によりて」ということの研究。なぜなら「教会(集会)難民」のことを思うからである。彼らは「どこに真理があるか、どこに本物があるか、どこにぴったりしっくりするものがあるか」を懸命に探しているからである。


塚本訳 マコ 4:28
4:28 (すなわち)地はひとりでに実を結ぶので、初めに茎、次に穂、次に穂の中に熟しきった粒ができる。


新共同 マコ 4:28
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。


●この箇所の翻訳、新改訳は「人手によらず」とある。名訳。


新改訳 マコ 4:28
4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。


●これは全く真理。植物は人間が寝ている間にも成長する。


新改訳 マコ 4:26-27
4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。


塚本訳 マコ 4:26-27
4:26 また言われた、「神の国はこんなものだ。──ある人が地に種を蒔き、
4:27 夜昼、寝起きしていると、種は芽生えて育ってゆくが、本人はその訳を(すら)知らない。


●ものの見分け方で簡単な方法は「よく売れているもの」「実が多くなっている樹」「客が集まる店」に注目すべきである。そこには何かがある、本物がある。本物は「ひとりでに」実を結ぶ。市場経済は「神の手」。無理に宣伝しなくても「口コミ」で広がる●ただしこと信仰の世界に関して言えば多数に必ずしも真理はない。逆に小さいものに真理がある。「二三人わが名によりて集る所には、我もその中に在るなり」という。たった二人か三人である。


 文語訳 マタ 18:18-20
18:18 まことに汝らに告ぐ、すべて汝らが地にて縛ぐ所は天にても縛ぎ、地にて解く所は天にても解くなり。
18:19 また誠に汝らに告ぐ、もし汝等のうち二人、何にても求むる事につき地にて心を一つにせば、天にいます我が父は之を成し給ふべし。
18:20 二三人わが名によりて集る所には、我もその中に在るなり』


塚本訳 マタ 18:18-20
18:18 アーメン、わたしは言う、あなた達が地上で結ぶことはみな天でも結ばれ、地上で解くことはみな天でも解かれるであろう。
18:19 なお、アーメン、わたしは言う、何事によらず、もしあなた達のうちの二人が心を一つにして地上で祈るならば、わたしの天の父上は(きっとその願いを)かなえてくださるだろう。
18:20 二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」


●ここのところのポイントは人数にはない。「わが名によりて」である。世の中にはあらぬもので結びつくキリスト教がある。牧師、先生、思想、教派信条、建物、音楽、人間、趣味雑学、御奉仕、訪問、慰問、社会批判、出身校、血縁、・・・・・こういうものは「実を結ばない」で枯れる。憤慨しなくても「ひとりでに」枯れる。●「教会(集会)難民」の若者に次ぐ。自分にぴんと来るところを捜し求めるべきである。評判だけではない。自分がピンと来るところである。「処女降誕と十字架と有体的復活」という使徒伝承に連なれ。そこにピンとこないようでは探しても無駄。それにピンとこないようでは自分が悪い。ぴたっとくるものが「この世のもの」である場合は禍である。そのこの世のものは「そのうちに」なくなるので 実を結ばずに枯れる。●「有体的復活」を言うと時々「胸が熱くなりました」と「ひとりでに」名乗り出てくる人がいるから不思議である。「ひとりでに」現れる。こういうとき「わが名によりて集る所には、我もその中に在るなり」が心からアーメンと思う。そういう時は眼を見詰め合って固く握手することにしている。少数であるが「真理だなー」と思う。ビリビリッとくる。そういう人たちに看取られて死にたい。天国に送り出してもらいもらいたい。●地上に「完全な教会」はない。「わが名によりて集まる少人数のところに本物がある。イエスが二三人といったところに深い意味がある。二人でもよいのだ。●組織工学という学問分野がある。組織は大きくなると「癌」ができるという。宗教団体宗教組織また同じ。大きいところに「癌的腐れ」が生じる。組織そのものに真理はない。●どこに真理があるか。若き「教会(集会)難民」に告ぐ。それは求めていれば必ず「しっくり」するところが「与えられる」「見出せる」。ただし地上の「ある特定の教会(集会・先生)」には見出せない。


文語訳  マタ 7:7-11
7:7 求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。
7:8 すべて求むる者は得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。
7:9 汝等のうち、誰かその子パンを求めんに石を與へ、
7:10 魚を求めんに蛇を與へんや。
7:11 さらば、汝ら惡しき者ながら、善き賜物をその子らに與ふるを知る。まして天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜はざらんや。


●女子大で教えていると若い女性は自分にぴったりの人を探し求めていることがわかる。そういう人と一緒にいると「楽」なのでそこにそこにこそ「シアワセ」というものがあると思っている。しかし現実はそうではない。特定の人間のもとに「シアワセ」はない。だから相手は相対化しなければならない。まず神と自分の二人の間での平和、そこに「シアワセ」の基本がある●バッハ・カンタータ156番のシンフォニアはオーボエソロがすごい。「わが片足墓穴に入りぬ」。アーノンクール+ウィーンコンツェントス・ムジクスの名演奏で鑑賞。●13:10昭和女子大建築講義、昨年に続き私の家を訪問したいという人がまた出た●風邪気味で保健室に行く。藤原さんと懇談



 


 


 

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憎む心がある悩み ++++++++ 所感

2007/01/15 07:14

070115(月)4時20分起床、睡眠6時間半●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。1947年東大卒業の時にアメリカのベル研究所で半導体トランジスタが誕生。真空管をいくら研究してもトランジスタは生まれてこないことを認識。「変革の時代には、今までにない革新的なものが誕生し、将来は創(つく)られるといえるのである。ここでは創造力が決定的な役割を演ずることはいうまでもない」と言う。●日本の科学技術に「独創的」なものが欠けるのは絶対者、一神教に対する帰依がないからであることは多くの識者の指摘するところである。企業の方針、上司に忠実ということを美徳としているからイマドキノワカイモンには清く気高く崇高な「発想」がない。なぜか、その企業のトップや上司は組織維持のために金(マモン)の増大が目的。あるのはただ、組織の経済的維持発展の目標のみ。企業全体を神に帰依するように導き指導する人物が少ない。これだから逆にジリ貧になる。組織は基本的にはエゴである。●弟が妹を、妻が夫を殺してバラバラに切断。そうとう憎しみが深かったのだ。しかし「汝らのうち罪なきものまず石をなげ打て」(ヨハネ8:8)。そこで「憎しみ」についてとヨハネ8:8について聖書を読む。三種の神器のうち、まず「Jバイブル」で「憎」を検索。


塚本訳 マタ 5:43-44
5:43 あなた達は(昔の人がモーセから、)『隣の人を愛し、』敵を憎まねばならない、と命じられたことを聞いたであろう。
5:44 しかしわたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈れ。


 



マタ   24: 10 [塚本訳

 


するとその時、『多くの人が信仰から離れて、』互に裏切り、互に憎むであろう。


ルカ   1: 71 [塚本訳


その角こそ、われらの『敵から、』『また』すべてわたし達を『憎む者の手から、』すくう救いである。


ルカ   6: 27 [塚本訳


しかし(今わたしの話を)聞いているあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を憎む者に親切をつくし、


ルカ   14: 26 [塚本訳


わたしの所に来て、その父と母と妻と子と兄弟と姉妹と、なおその上に、自分の命までも憎まない者は、だれもわたしの弟子になることは出来ない。


ルカ   16: 13 [塚本訳


しかし(この世のことはみな準備のためであるから、それに心を奪われてはならない。)いかなる僕も(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。」


 



ヨハ   3: 20 [塚本訳

 


悪いことをしている者は皆、光を憎んで光に来ない。自分の行いが明るみに出されたくないのである。


 



ヨハ   12: 25 [塚本訳

 


[(この世の)命をかわいがる者は(永遠の)命を失い、この世で命を憎む者は、命を守って永遠の命にはいるであろう。


ヨハ   15: 18 [塚本訳


(しかしわたしに愛される時、あなた達はこの世から憎まれる。だが)もしこの世があなた達を憎んだら、あなた達よりも先にわたしを憎んだと思え。


ヨハ   15: 19 [塚本訳


もしあなた達がこの世のものであったら、この世は自分のもの(であるあなた達を)愛するはずである。しかしあなた達は(もはや)この世のものではなく、わたしがこの世から選び出したのだから、この世はあなた達を憎むのである。


ヨハ   15: 21 [塚本訳


ところが、彼らはあなた達がわたしの弟子であるために、(憎み、迫害など)すべてこれらのことを、あなた達にするであろう。わたしを遣わされた方を知らないからである。


ヨハ   15: 24 [塚本訳


もしわたしがほかのだれもしたことのない業を彼らの間でしなかったら、彼らに罪はなかった。しかし今彼らは(わたしの言葉と業とによって)わたしをも父上をも見て、しかも憎んだのである。


ヨハ   15: 25 [塚本訳


しかしこれは、彼らの律法[聖書]に〃彼らはゆえなくわたしを憎んだ〃と書いてある言葉が成就するためである。


ロマ   9: 13 [塚本訳


(そして預言どおりにヤコブが選ばれた。)『わたしはヤコブを愛したが、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりである。


テト   3: 3 [塚本訳


私達とてもかつては無智で、不従順で、(道に)迷い、様々な慾と快楽の奴隷となり、悪意と妬みとに(日を)過ごし、(人に)嫌われ、(また)互いに憎み合っていたのである。


Ⅰヨハ  2: 9 [塚本訳


(暗闇は憎み、光は愛である。だから)光におると言いながら、兄弟を憎む者は、いまも(なお)暗闇におるのである。


Ⅰヨハ  2: 11 [塚本訳


これに反して、その兄弟を憎む者は暗闇におり、かつ暗闇を歩く。そしてどこへ行くのかわからない。暗闇がその目を見えなくしたからである。


Ⅰヨハ  3: 13 [塚本訳


世があなた達を憎むことを、兄弟たちよ、驚くに及ばない。


Ⅰヨハ  3: 14 [塚本訳


わたし達は(神の子を信ずると同時に、もといた悪魔の支配する)死(と憎みとの世界)から、命(と愛との世界)に移っていることを知っている。なぜなら、わたし達は兄弟を愛するからである。愛しない者は(今もなお)死に留っている。


Ⅰヨハ  3: 15 [塚本訳


兄弟を憎む者は皆、人殺しである。そして、すべて人殺しには、永遠の命が留っていないことを、あなた達は知っている。


Ⅰヨハ  4: 20 [塚本訳


もし「神を愛する」と言いながら、兄弟を憎む者があったら、(その人は)嘘つきである。見た兄弟を愛さない者は、見たことのない神を愛することは出来ないから。


●次にヨハネ8:8を「TSK日本語ヴァージョン」で調べる。これは口語


Proverbs 12:18:
つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす。


Colossians 4:6:
いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。


Hebrews 4:13:
そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。


Revelation of John 2:16:
だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。


Revelation of John 2:16:
だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。


Matthew 7:1:
人をさばくな。自分がさばかれないためである。


Matthew 23:25:
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。


Romans 2:1:
だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。


Romans 2:21:
なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。


●では人間は人を憎む心からどうしたら救われるか。自らが神に「ガン」とやられて粉々にさせられ、相手より先にこの「自分が救われて」初めて相手を憎めなくなる。憎しみから解放される。憎しみがある不自由さ、重圧から自由になれる。これ以外に「楽になれる」道はない。あったら教えていただきたい。人間の道徳教育、修身教育、つまり「教育」では無理。●国家間の戦争の原因は「憎しみ」。人間が憎しみから救われるのは「教育」「道徳」「思想」「運動」「警醒運動」「躾」「しきたり」「習慣」「格言金言」「世界観」「人生観」「教養」「歴史認識」「宗教」では絶対に無理。個の「十字架による砕け」でなければ憎しみは消えない。個が十字架の砕けに預かるときに初めて「報復」「復讐」はやむ。●妹を殺した青年、夫を殺した妻の行いは不幸な出来事であったが、この二人だけが裁かれるのではない。人類はみな罪人である。しかしこの暗闇から救われる道が開かれた。


"450323","ローマ 3:23","なぜか。すべての人が罪を犯したため、いまだれ一人、(かつて
持っていた)神の栄光をもたない。"
"450324","ローマ 3:24","(さりとて失った栄光を回復する力はないので、何一つ)代価を
払わず、(ただ)神の恩恵によって、キリスト・イエスによるあがないの力で、(神に)義
とされる(道が設けられた)のである。"


●昼休みに近くの細井建築設計へ行き、ご夫妻と昼食。お嬢様がカトリックの洗礼を受けられてからというもの、きつかった態度が柔和になり、ご両親をも敬うようになったといって喜んでおられた。さすが伝統のカトリックである。しっかりしている。それに比べると無教会の社会派集会へ娘をやるとすぐ天下国家社会悪を批判する「トッポイ娘」になりかねない。街角で「一席ぶつ」ようになるとも限らない。そんな無教会集会には安心して子弟を預けられない。


 


 

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教会(集会)難民が続出 ++++++++ 所感

2007/01/14 07:53

010714(日)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。量子力学を現実の工学に応用する道を選ぶ。「現場に神宿る」の真理。東大卒業のとき南原繁総長の「社会に出て只酒を飲むな」を聞く。今日の天下り役人にはこの只酒を飲む精神の人間が多い。●嫁の一人から贈られたバッハBWV508「わがかたわらにいたまいて」の楽譜を見ながらCDを繰り返し4回鑑賞。この曲にとりつかれた。私の葬式のときにはこの曲を演奏してくれるようにメール。その歌詞も贈られてきたので読むと、目頭があつくなった。


御身が共にあるならば 


喜び行こう 死の安らぎへ


ああわが最後の時は 


どんなに楽しいだろう


御身の美わしい手が


わが忠実な眼を閉ざすなら


●そうだ、死も神の御心、神に支えられ、知られつつ導かれて死ぬのだ。


召されるとは知られて神の意志により文字通り召されるのだ。


塚本訳 マタ 10:29
10:29 雀は二羽一アサリオン(三十円)で売っているではないか。しかしその一羽でも、あなた達の父上のお許しなしには地に落ちないのである。


TEV マタ 10:29
10:29 For only a penny you can buy two sparrows, yet not one sparrow falls to the ground without your Father's consent.


●落ちるとき、神はご存知。死ぬときは神がご存知。否、神がその手で私の眼を閉じるのだ。


 ●最近、若い人が「教会(集会)破り」と称して自分にしっくりするところを探していることが多いのを知った。●では探し方を言おう。「十字架と復活」を中心的に説いている教会(集会)や人物でなければならない。それが基準である。そこにピンと来るようでなければならない。つまらないこと(建物、音楽、信者数、場所、古さ、有名牧師、有名先生、信者の社会的偉さ、などなど)に惹かれてはならない。それは必ず色あせるか裏切られる。人間の場合は時の経過によっていなくなる●私の知っている人で「建物」に惹かれてそこの教会に所属した人がいる。気持ち悪く感ずるのはなぜか。偶像礼拝だから●まてまて、無教会は人間たる先生にべったりという姿である。これまた偶像礼拝、必ずや天罰が下る。今年の「内村鑑三記念会の会場は遂に収容人員100人の今井館にまで縮小。この記念会は将来はなくなるであろう。先生記念会の類は消えるのが宿命。またそうでなければならない。いつまでも継続してはならない。人間記念会は救い」をもたらすことに効果は少ない。●歴史的順序としては十字架のあとに復活であるが、人間の出会いは先に復活のイエス。その結果として十字架の意味の認識。●そうでないとき、十字架の解釈論争で分裂する。信条論争、神学論争、行動論争となる。●集会は宮崎、村上、山本、小寺さんの報告●小寺夫妻、望月、山口で昼食●山口さんから大熊好子さんの容態を伺う●午後、上野の東京国立博物館に行き、改修なった「表慶館」を見学。渾身の設計、入魂の施工。心のこもった建築は壊しにくい。結果的に長持ちする●本館も見学。国宝を中心に鑑賞。大英博物館に劣らないと感じた。日本人は東洋文化に注目しなければならない。あまりにも西洋かぶれだ。


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改修なった東京国立博物館の表慶館。明治42年(1909年)。後の大正天皇のご成婚を祝して建築されたもの。片山東熊の設計。ヴェルサイユ宮殿の最初はトイレがなかったが、この建物は今でもトイレがない。外部に設置。   2007.1.14


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表慶館、螺旋階段の手すりがすごいデザインだ。


現代の手すりの10倍以上の設計時間とコストがかかりそう


        2007.1.14


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表慶館、中央ロビーが見せ場となっている。丸天井がなかなかのデザインだ。          2007.1.14


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国立博物館の裏手にある茶室。なぜかしっくりして落ち着く。日本的なるもの。日本人にはやはり日本の建物がしっくりする。2007.1.14


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東京国立博物館本館。昭和13年開館。国粋主義のデザイン。いろいろ批判もあったが、今回は「これはこれ」だと言う感じがした。建築はその時代の思想を反映するものだ。渡辺仁の設計。   2007.1.14


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東京文化会館 前川国男入魂の傑作。設計時間は延べ5万時間。男性的な力強さにあふれている. 1961年(昭和36年)開館。     2007.1.14

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人生って、けっこういいこともあるじゃないか ++++++++ 所感

2007/01/13 08:49

070113(土)5時目覚め。隣に妻がいない。そうか妻はおとといから福島に帰省しているのだ。しかし「あっ妻がいない。そうか先に逝ってしまったのか」という悲しい日も来るのかもしれない。●私はなぜか時々「大病」を患う。12年以上も前のこと。腎臓結石の摘出手術で立川病院に入院していたときのことである。わき腹に穴を明けられ、体に何本ものチューブを差し込まれてベッドで身動きができないでいたとき、ラジオからルイ・アームスストロングの歌う「What A Wonderful World」が流れて来た。それは「人生って、けっこういいこともあるじゃないか」という意味にとれ、滂沱の涙があふれて止まらなかった●人生には悲しいことも辛いこともある。いや、その方が多いのかもしれない。でも「人生って、けっこういいこともあるじゃないか」と思える日もあるものだ。「それでいいんだ、それでいいんだ」とパウロは慰めてくれる。パウロにも辛い辛い「刺」があったのだ。私の「刺」など「何のこれしき」だ。 


塚本訳 Ⅱコリ12:7-10
12:7 そしてこれらの素晴らしい啓示があるので、わたしが高慢にならないようにと、わたしの肉に一つの刺が与えられた。悪魔の使いであって、これはわたしが高慢にならないようにと、わたしをうつものである。
12:8 この使について、それがわたしから手を引くようにと、三度まで主に願ったが、
12:9 主は(その都度)言われた、「わたしの恩恵はあなたに十分だ。力は弱さの中に完成されるのだから。」、それでわたしはキリストの力がわたしに住みついてくださるように、大喜びで、むしろ(自分の)弱いことを自慢しよう。
12:10 それゆえわたしは弱いことを、虐待、艱難、また迫害と苦悩をうけることを、キリストの故に喜ぶ。わたしは弱い時には、(彼の力によってかえって)強いのであるから。


●14:00 町田の武集会に。妻とそこで会う。「私はなぜ聖礼典(サクラメント)を重視しないか」。●後半の懇談における私の発言。①サクラメントは異端排除のために出来上がったが、それが次第に変質して職業宗教家の地位保全の為にあるようになった。②ところが聖礼典(サクラメント)を行わない無教会の内部に問題がおきている。「イエスの遺体が墓に残っていたとしても復活信仰はありうる」とか「イエスは処女から生まれたのではない」ということを「平気」で言う自称クリスチャンが跋扈(ばっこ)しはじめた。私はこういう人とは袂を分けた。③バルトの聖礼典の考えは無教会と同じ④J・エレミヤスの「イエスの聖餐のことば」はどうしても読みきれなかった●帰途、大津昌源氏から「イエスの処女降誕と有体的復活」について同感の言葉をいただく。そこで眼を合わせて固く握手。いるいる。ここにもいる。同信の人が。●妻と立川で夕食。回転寿司ではなく回転中華という店があったので入ってみた。●妻は合唱の練習



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負い目と赦し ++++++++ 所感

2007/01/12 06:21

070112(金)5時20分起床。「負い目と赦し」が浮かぶ●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。父亡き後に心の支えになってくれていた兄は25歳のときに結核で母に抱かれながら死んだ。最愛の子を失った母の悲嘆は想像に絶するものであった。そのとき母に書いた手紙「僕は母ちゃんの気持ちは理科できます。・・・・・しかし僕は学問と云うものを持ち、それは僕の生命でありまた力であります。そしてそれは大自然、宇宙、神と繋がります」・・・・偉くなる人は違うなー。若き日から神認識を持つ。神を尊敬している。ノーベル賞は兄と母との共同受賞のようなものだ。また神を信じるものにとっては災難や死は「よいものをもたらす」ものだ。●これに比べてイマドキノワカイモンは目先の享楽や遊びや金儲けに一生懸命になっていて神や宇宙の真理を探求する気概にかける。こういう人間がのさばるようでは日本に明日はない。


文語訳 ロマ 8:28
8:28 神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る。


塚本訳 Ⅱコリ7:10
7:10 なぜなら、神の御心に沿った悲しみは、(人を)救いに入れる悔いのない悔改めをもたらすけれども、この世(的)の悲しみは、(絶望と)死をもたらすからである。


●過日、某氏からユダの自殺は彼が人一倍に心傷(トラウマ)が大きかったからではないか。見解を聞かせて欲しいと言われたので、考えをまとめた。キーワードは「負い目と赦し」。●人間は誰でも「負い目」というものに深く悩まされる。これ本能に備わっている尊いことである。良心の痛みとも言える。ユダには知らないと嘘をついた。パウロはキリスト信者を迫害した。全員負い目があった。心に傷があった。良心の咎めがあった。●これに対してイエスは3人を必死に赦そうとした。まずユダに対しては最後の晩餐の席でイエスはユダに対してそのたくらみを翻意させようと必死であった。ペテロが三度イエスを知らないと言って鶏が鳴いたときペテロを「じっと」見つめた。これ赦しの目。神の子の目。パウロに対しては復活のイエスが「何故迫害するのか。無駄なことはするな」と声をかけた。この口調は赦しの雰囲気●これに対して三人の態度が違った。ユダはイエスの赦しを察知しながら拒否した。結果的に悔いて自殺した。ペテロは鶏が泣いたとき激しく泣いて悔いた。パウロは「まだ罪人であったとき自分の為に死んでくださった」という認識に至った。ロマ書7章のあの厳しい慙愧の告白はキリスト信者への迫害という負い目があったのではないかと言われている●すべては「赦し」が先行した。しかしその赦しに対する態度は各人各様である。赦しを拒否したユダだけは自殺の道を選んだ。素直に悔いて泣けばよかったものを。神の子イエスにしてもユダのたくらみを翻意できなかった。だから「あーかわいそうだ。彼は生まれてこなかったほうがよかった」とまで漏らした顕現は神の赦しの宣言。結果的にこの二人がキリスト教の土台となった。もしユダが悔いて赦しを受け入れていれば多分ペテロやパウロより大なる働きをしたのではあるまいか。●赦しを受け入れないとき神の怒りは激しい。それは「「王子の結婚披露の譬」(マタイ22章1~14)にでている。ブログ日記070110参照。●人間は誰にでも「負い目」がある。心傷(トラウマ)がある。神はその深刻な悩みを救おうとしてイエスの復活を通して我々に「今も働く」。問題は我々がそれを素直に受け入れるかどうかである。●しかし受け入れない者はたとえ復活のイエスに出会っても受け入れない。ルカ16:31.イエスのため息が聞こえる。●10:40 高木博義氏から福田歓一先生が召され、その密葬で「告別の辞」を述べられたとその内容の御報告があった。福田先生とはつい最近[南原繁シンポジウムでお会いしたばかりであった。061108ブログ日記に写真あり。人生は短い、はかない。●ヴィオリストの和田睦夫氏と音楽懇親。指揮者と合わなくて勝手に弾く演奏者もいるらしい。楽員たちから総スカンを食う指揮者もいるらしい。オーケストラは人生の縮図だ


 

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生命の実在に触れると思想が変えられる ++++++++ 所感

2007/01/11 07:11

070111(木)5時半起床。某氏と口論しているところで夢が覚める。夢でよかった。ヒルティは見る夢も「清められなければならない」と言っているから。わたしはマダマダである●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。東京大空襲下でも東大の田中務教授の「物理学実験第一」の講義。「東大アカデミズムの存在感が身に伝わったときであった」という。福沢諭吉、塚本虎二、南原繁を思う。世の中が戦争でも「真理」を説き続けた●昨日、昭和女子大建築学の試験問題を作成したが、これが信仰の問題であったらどうするか考えた。


設問・マタ 14:25-31の記事で、イエスは湖の上からペテロに「こちらに来なさい」と言いましたが、あなただったらどうしますか。正直に述べなさい。


塚本訳 マタ 14:25-31
14:25 第四夜回りのころ(すなわち夜明けの三時ごろ、)イエスは湖の上を歩いて彼らの所に来られた。
14:26 弟子たちはイエスが湖の上を歩いておられるのを見ると、幽霊だと思って肝をつぶし、恐ろしさのあまり叫んだ。
14:27 しかしイエスはすぐ彼らに話しかけて言われた、「安心せよ、わたしだ。こわがることはない。」
14:28 ペテロが答えた、「主よ、あなたでしたら、どうかわたしに命令して、水の上を歩いてあなたの所へ行かせてください。」
14:29 「こちらに来なさい」とイエスが言われた。ペテロは舟から下り、水の上を歩いてイエスの所へ行った。
14:30 しかし(いま一足という所で)強い風を見たため、おじけがつき、沈みかけたので、「主よ、お助けください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐ手をのばし、ペテロをつかまえて言われる、「信仰の小さい人よ!なぜ疑うのか。」


●これに対する回答の想定は次の通り。


無神論者・不信者・宗教学者・・・・・こういう奇跡は宗教一般によくあることである。だから自分は歩いていかない。それは愚かなことだ。


戦後教育で唯物的人生観の者・・・・比重が違うから沈むのは当然。歩いていくのはバカだ。


神学者・聖書学者・牧師・神学者・・・・この記事は復活後のイエスの記事(ヨハネ21:1-14)の反響であるから、事実ではない。だから自分は歩いていかない。


●かって妻にこの質問をしたら、「誰が呼んだかにによっては私は歩いていく」と応えた。ご立派。信仰は女性である。だから妻は仲人さんの「言葉を信じて」私に一度も会うことなく私のところに来てくれたのだ。


文語訳 ルカ 1:45
1:45 信ぜし者は幸福なるかな、主の語り給ふことは必ず成就すべければなり』


塚本訳 ルカ 1:45
1:45 主の仰せられたことはきっと成就すると信じたこの人は、なんと仕合わせでしょう。」



TEV ルカ 1:45
1:45 How happy you are to believe that the Lord's message to you will come true!"


 ●かくいう私の場合は「私の体重では無理」という不安が浮かぶ。(笑)。アー信仰の薄いもの「汝の名は男なり」。●正月に来た孫の見時はときどき「(有体的)お化け」を見ると言う。そしてその母親からお化けは聖書では何と言っているかと質問された。それ以来このことを考えて非常に有益であった。イエスの復活に出くわした人は「お化け」か「幽霊」だと思った。しかしその後、そのお化けが「この私に出たことの意味」がわかってきた。それはこの私を「赦すためにに」出てきたのであることを。「罪の赦しの宣言」に現れたのである。これがイエスの復活の真の意味である。今日、我々の種々なる「宗教体験」もこの意味である。体験によって「何かを教えられるのである」


岩波翻訳委員会訳1995


401425すると夜の第四刻に、彼は海の上を歩みながら彼らのところにやって来た。


 401426そこで、彼が海の上を歩んでいるのを見た弟子たちは、動転して言った、「化け物だ」。そして恐怖のあまり、叫んだ。


新共同 マタ 14:25-26
14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。


●イエスを裏切ったペテロにイエスは現れた。キリスト教徒をいじめていたパウロにイエスは現れた。歴史的にはこの二人がキリスト教の土台となった。そしてこの二人は復活を語るとき、必ず「罪の赦しのために」と語るようになった。イエスの復活は「意味を教えるため」であった。


ペテロは言う


塚本訳 使  5:30-32
5:30 わたし達の先祖の神は、あなた方が(十字架の)『木にかけて』殺害したイエスを復活させられました。
5:31 この方を神は、イスラエルに悔改めと罪の赦しとを与えるために、(命の)先達また救い主として御自分の右に挙げられたのです。
5:32 わたし達はこれらの事柄の証人であります。神が御命令に従う者にお与えになる聖霊も、同じくその証人であります。」


パウロは言う


塚本訳 Ⅰコリ15:3-5
15:3 まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、
15:4 葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること、
15:5 またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。


●私の余命も少ない。孫に現れた「(有体的)お化け」がイエスの復活に見える日の必ずや来ることを信じて死にたい。


文語訳 ルカ 1:45
1:45 信ぜし者は幸福なるかな、主の語り給ふことは必ず成就すべければなり』


●人間は生命の実在に触れると思想が変革する。心配事が氷解する。復活のイエスの出会うと思想が変革する。信じられなかったものが信じられるようになる。赦せなかった人を赦せるようになる。思想闘争理論闘争に明け暮れていたマルキストがキリスト教に帰依する。身内の死を嘆いていたマルタはイエスと言う実在の命に触れて安心した。イエスは言う。


文語訳 ヨハ 11:25-27
11:25 イエス言ひ給ふ『我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。
11:26 凡そ生きて我を信ずる者は、永遠に死なざるべし。汝これを信ずるか』
11:27 彼いふ『主よ然り、我なんぢは世に來るべきキリスト、神の子なりと信ず』


律法や常識や儒教道徳に凝り固まっていた人間は生命の実在に触れるとやわらかくなる。反対していた結婚が孫という生命の実在に触れると「神に承認された子」だと認識して結婚を認められるようになる。


塚本訳 マタ 21:16
21:16 イエスに言った、「あの子供たちがなんと言っているのか、聞えているのか。」イエスは言われた、「聞えている。あなた達は『(神よ、)あなたは幼児と乳飲み子との口によって、(御自分のために)賛美をお備えになった』と詩篇にあるのを、まだ読んだことがないのか。(大人が黙っているから、子供が叫ぶのだ。)」


●イエスは改宗した異教人という命の実在に触れて、あの有名な言葉を語った。


塚本訳  ヨハ 12:20-25
12:20 この祭にお参りするため上ってきた人たちの中に、数人の(改宗した)異教人があった。
12:21 ガリラヤのベッサイダの人ピリポの所に来て、こう言って頼んだ、「君、イエスにお会いしたいのですが。」
12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレはピリポと行ってイエスに話した。
12:23 するとイエスは(非常に感動して)二人に答えられる、「人の子(わたし)が栄光を受ける時がついに来た。
12:24 アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)
12:25 [(この世の)命をかわいがる者は(永遠の)命を失い、この世で命を憎む者は、命を守って永遠の命にはいるであろう。


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 窓を開けると朝焼け 2007.1.11 6:25 アーすごい色彩だ


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 郡山の富永國比古先生を訪問 2007.1.11 13:40


先生には一家中がお世話になっている。先生とはイエスの有体的復活の信仰と「空虚な墓」の認識で一致。主にある琴線に触れる不思議な交わり。


左から富永國比古先生、高橋照男、富永久美子様 高橋トミ子


 


 

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着ていくものがないという悩み ++++++++ 所感

2007/01/10 05:09

070110(水)3時15分起床●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。米軍の空襲下に東大の物理学科で勉強。清水武雄教授と小平邦彦教授に出会う。人生はよき師との出会いで決まる。しかしそれはなにも東大にいかなくてもいる。接することができる。被造物に神の手を見ることができるかできないかはそれを見る人間の心の眼による。


新共同 ロマ 1:20
1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。


●最近「何を着て行けばよいのでしょうか」という問いと悩みにぶつかった。そこで「何を」という悩みはどういうことなのかを考える。問題は次の有名な箇所である。


文語訳 マタ 6:25-34
6:25 この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飮まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと體のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや。
6:26 空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遥に優るる者ならずや。
6:27 汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや。
6:28 又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。
6:29 されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服装この花の一つにも及かざりき。
6:30 今日ありて明日、爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。
6:31 さらば何を食ひ、何を飮み、何を著んとて思ひ煩ふな。
6:32 是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。
6:33 まづ神の國と神の義とを求めよ、さらば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。
6:34 この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。


●イエスの言わんとすることは、食べるものにも着る物にもことかく貧困の人、明日どうやって食べて行こうかという心配をしている人に向けられている。それがイエスの周りに群がった「生活の心配をしている人たち」であった。●6年前に家が焼けたとき、妻の友人が叫ぶように「着るものある?。寝るところある?」と言ったという。実に多くの方々から着るものや布団が届けられた。今は亡き母は、「どうしてよー、どうしてよー」と泣いた。しばらくは母のところにやっかいになった。ご近所の方々は火事の日に炊き出しをしてくれて食べるものにもこと欠かなかった。こんな体験をしたので、イエスの「さらば何を食ひ、何を飮み、何を著んとて思ひ煩ふな。」は心から「その通りだ」と読めるようになった。●問題は平常時の「何を着ようか」の言葉の意味である。その心配のことである。この言葉の解明は聖書にある。しかもその次の節である32節にある。「聖書で聖書を読む」意義はここにある。


是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。


●ナルホド、「何を」の心配の多くは異教人の悩みなのだ。この世的人間の心配なのだ。かっこいいものを着ようとする心、かっこいい学校やかっこいい会社に入ろうとする心なのだ。かっこいい人物(イケメン)と結婚しようとする心なのだ。また何を食べようかとの心配も「神が養ってくださる」というところに力点を置けば理解できる。●かっこいい着物がなくてもよい。かっこいい一流校でなくてもよい。かっこいい一流会社でなくてもよい。かっこいいものを食べなくてもよい。ただし建築士として言う。建物はかっこいいものでなくてはならない。お金がなくてもかっこいい建物はできる。お金がなくても美しい建物は設計できる。●米国シェーカー教徒の家具、カトリックのシスター達の労働着などは清楚で機能的で美しい。かっこいい●塚本先生は「サンデーベスト」と言って、日曜日に神の前に出るときは、自分の持っているものの中で「ベスト」のものを着なさいと言われた。●バッハのカンタータ180番は「装いせよ、おおわが魂よ」である。それは「王子の結婚披露の譬」(マタイ22章1~14)が典拠である。


塚本訳 マタ 22:1-14
22:1 イエスは言葉をつづけ、また譬をもって(パリサイ人たちに)話された、
22:2 「天の国は、王子のために結婚披露の宴会を催す王にたとえられる。
22:3 家来たちをやって宴会に招いた人たちを呼ばせたけれども、だれも来ようとはしなかった。
22:4 王は、招いた人たちにこう言え、と言って、重ねてほかの家来たちをやった、『いよいよ食事の用意ができました。牛と肥し飼いの家畜とを屠って、すっかり用意ができています。さあ、宴会においでください。』
22:5 しかし彼らはそれに構わず、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22:6 ほかの者は家来たちを捕らえてひどい目にあわせた上、殺してしまった。
22:7 王は憤り、軍隊をやってその人殺しどもをうち滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8 それから家来たちに言う、『宴会の用意はできているが、招いた人は(客たる)資格のない者(ばかり)だ。
22:9 だから町の出口の所に行って、出会った者をだれでもよいから宴会に呼んでこい。』
22:10 家来たちは道に出ていって、出会った者を悪人でも善人でも皆集めてきたので、宴会場は客で一ぱいになった。
22:11 王は客を見ようとして入ってきたが、そこに礼服を着けていない者が一人いるのを見て
22:12 その人に言った、『君、礼服も着ずに、なんでここに入ってきたのか。』その人が黙っていると、
22:13 王は家来たちに言った、『あの者の手足を縛って、外の真暗闇に放り出せ。そこでわめき、歯ぎしりするであろう。』
22:14 ──招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないのだから。」


●ここでイエスが言わんとするのは11~14節の不思議な言葉である。招いておきながら放り出すとは酷い主人ではないか。結婚式の入り口で「あなたはかっこいい着物でないから入らないでください」というようなものである。あまりではないか。●聖書は難しいところに「宝」がある。これは当時の習慣では宴会などに招く人には礼服を貸す習慣があったのだ。この追い出された客は、「貸してくれる」という申し出を断って自分の汚い着物のままで出席したのだ。主人が「貸してあげる」というのに「断ったのだ」。その傲慢さを主人が烈火のごとく怒った●私達が救われるのは汚い過去を神がきれいな服で隠して下さるのだ。十字架の血で過去を洗い清めて下さるのだ。それを拒否してはいけない●ここまで考えるとマタイ6章33節の意味が見えてくる。ただし翻訳の違いでこの福音の真理が分かりもし不明のままでもある。


意味不明の翻訳の数々は次のとおり。


岩波翻訳委員会訳1995



400633むしろまず、[神の]王国とその義を求めよ。そうすれば、これらすべてのものはあなたたちに付け加えられるであろう。

新共同訳1987



6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

前田訳1978


 6:33 まず彼の国と義を求めよ。そうすればこれらすべてがあなた方につけたされよう。



新改訳1970

 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。


 口語訳1955


 6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。


 文語訳1917


"400633","まづ神の國と神の義とを求めよ、さらば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし


●以上の翻訳は全部「能動」である。そうではないのだ。「求める」という人間的努力ではないのだ。ここは次のような翻訳でなければならないのだ。


 塚本訳1963




6:33 あなた達は何よりも、御国と、神に義とされることとを求めよ。そうすれば(食べ物や着物など)こんなものは皆、(求めずとも)つけたして与えられるであろう。


●塚本訳だけが「神に義とされる」である。かっこいい着物は神から着せられるのだ。その深いことを読まないから「信仰の展開は社会改造だ」などという社会派人間が跋扈(ばっこ)するのである。聖書を深く読んでいない証拠である。自力で自己も社会もよくしよう、とりつくろおうとする心である。あの主人が列火のごとく怒った対象人物である。まずい翻訳は人生を誤らせる。●社会派人間達は私に向かって言う。「手をこまねいているよりは何か少しでもやった方がよいのではないでしょうか」と。彼らは決まって信仰の浅い人間達である。行動が信仰に取って代わっているのだ。信仰者の匂いがしない●神が心配して下さることは、論より証拠。私の場合、火災で家も財産(着物も含む)も土地もそして3ヵ月後の脳出血では一旦意識不明、しかし家も土地も財産も命も回復された。しかも家も土地も大きくなった。脳の回復で口数も増えた(笑い)。これらはすべて神が与えて下さったもの「着せて」下さったものだ。全く「頂いたもの」だというのが妻共々の実感である●この世の命が終わるとき、神はキリストの十字架の血で我々の生涯を洗い清めて、新しい着物を着せてくださるのだ。「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」なのだ。そうでなければこの私は神の裁きに耐えられないのだ。追い出されるのだ。


塚本訳  ロマ 13:14
13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉をいたわるのはよいが、情欲に陥らないように。


塚本訳 ガラ 3:27
3:27 すなわちキリストへと洗礼を受け(て彼のものとなっ)たあなた達はみな、キリストを着たからである。


●着物と建物は同じ概念である。それは次の通り。家が焼けたとき思ったことは「天国の家は焼けない」であった。


塚本訳  Ⅱコリ5:1-5
5:1 なぜ(こんな希望に生きることができるの)であろうか。もし地上の家であるわたし達のこのテント、(この肉体)がこわれるならば、天に、神の建てられた建物、(人間の)手で造らない永遠の家をいただいていることを、わたし達は知っているからである。
5:2 どうしてであろうか。わたし達はこのテントにいて、天の住いを上に着たくてたまらずに呻いているからである。(この憧れと呻きこそ、永遠の住いのある証拠ではないか。)
5:3 ほんとうにもしこれを着たならば、裸(の恥しい姿)であることはないであろう!
5:4 それで、わたし達のこのテントにいる者は、重荷に呻いている。これを脱ぎたい(つまり死にたい)のではなく、(天の住いを)上に着たいからである。これは死ぬべきものが命に飲み込まれるためである。
5:5 このことがわたし達に出来るようにされたお方は神であり、このお方がその手付けとして御霊を下さったのである。






 ●昭和女子大2007年度建築学のシラバス作成。今期の試験問題設問4題作成。どんな応答がくるか楽しみ。●庭木の剪定2時間●あきる野市と八王子の境の「七曲り峠」と「中央霊園」に散歩。中央霊園には武者小路実篤の墓があった。杏林大学が近くにあったのでキャンパスを見学。自然環境のよいキャンパスだ。その裏から山の中をあるいて切欠にでて帰宅。夕暮れになった。本日は有酸素歩行14293歩、消費カロリー1575Kカロリー●妻は「読書会」のあと渋谷で映画、「合唱のできるまで」。この映画の主役は指揮者のクレール・マルシャンが主役。この女性なかなか魅力的である。


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七曲り峠の頂上からあきる野市をながめる。手前は七曲りの道路     2007.1.10


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杏林大学キャンパス。山を切り開いた広大なキャンパス。環境がよい。2007.1.10


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夕暮れの奥多摩連山。手前を流れる川は秋川。東秋留橋より 2007.1.10




 

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隠す人、隠せない人 ++++++++ 所感

2007/01/09 11:58

070109(火)4時45分起床●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。三高に受かるが学徒動員などの混乱で東大に入学。しかし心は「京都」。ノーベル賞受賞者に「京都」出身者が多いのは、そこに「自由」の気風があるかららしい。●聖書研究も教会の「ドグマ」から自由になるところに見るべきものがでる。信者にドグマの枠をはめることは「親切なようで不親切」。神がいませば信仰は曲がることはない。人間を儒教や教会のドグマで縛ろうとするのは神の力を信じない不信者のすること●「石の中の魚」の本をめぐってプライバシー侵害の裁判が起こっている。全くこの世の争い。罪人はとにかくプライバシーを「隠そう」とする。罪の世界。法律を盾にとって隠すことが正義だと思っている。暗い世界。罪人の性質。かって「平気でウソをつく人」という本がでたが、まさにその通り。根本は罪の生活、罪の性質。だから恥ずかしいから隠そうとする。日本の企業がそのことを「平気で」行っている●それに比べて「神の国」の喜ばしいことは「隠しておけない」。だからすぐ公表する。公表しても文句はでない。公表すると文句を言ってくるのは暗い罪の生活にうごめいている罪人。法律をもって正義ぶるから困った人間達だ。●ということで、昨日の日記の「天に宝を積むとは人を赦すこと」に対する応答がまた来た。これまた珠玉の文章なのでどうしても「隠しておけない」ことなので、本人に断りなく公表する。ことは神の国のことで「真剣勝負」である。何事も汚染されたこの世の企業常識やこの世の法律できりものを考えられない「聞く耳を持たない人間」に用はない。もっともこのブログ応答は私が下記に公表するまでもなく誰でも自由に閲覧できるシステムになっている。ブログは人間のコミュニケーションのツールとして優れている。


以下来信、点線内


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 「攻めるが勝ち」から三十六計「逃げるが勝ち」へ。さらにそこから「赦すが勝ち」へ。そしてついには「受け入れるが勝ち」。
「ノアの洪水」は神に反逆した人間への神の「攻め」、「神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた」(ロマ1:28 口語訳)は神の「逃げ」(神が全く手を引かれた世界は地獄)、「主の十字架」は神の「赦し」(この世的には敗北に見える)、そして主の「復活」は神の「受け入れ」の初穂。

詩篇130:3-4 口語訳
主よ、あなたがもし、もろもろの不義に/目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。

同 新共同訳
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。


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●神の国の喜ばしい「光は隠しておけないものだ」。その聖書的根拠は次の通り。


塚本訳  マタ 5:14
5:14 あなた達は世の光である。山の上にある町は隠れていることは出来ない。


TEV マタ 5:14
5:14 "You are like light for the whole world. A city built on a hill cannot be hid.


●この箇所で重要なのは「出来ない」「cannot 」である。人間が隠そうと思っても光はどうしても漏れてしまうというのである。夕闇の中を帰宅するとき随分遠くの御岳山の山頂の光がポツンと見える。山の上にある光はなぜか遠くまで見える。そのときいつもこの句を思い出す。


塚本訳 ルカ 11:33
11:33 だれも明りをつけて片隅に置いたり、枡をかぶせたりする者はない。(部屋に)入ってくる者にその光が見えるように、かならず燭台の上に置くのである。(そのように人の子が来たのも世を照らすためである。それを見わけられないのは、見る人の心が暗いからである。)


●この言葉、この世の企業の人事部長の心得にするとよい。人間の評価はその人に人格の「光」が」あるかどうかで見分けるべきである。過去のキャリヤや、金儲けの数値や、出身校や、出勤の程度や、忠誠度で人を見てはならない。それは人を見分けられない部長である。「見る人の心が暗い」。具体的な判定は部下の評判である。家族の評判である。


塚本訳 マタ 13:44
13:44 天の国は畑に隠されていた宝に似ている。人がそれを見つけると、(またそこに)隠しておいて喜んで立ち去り、持っているものをみな売って、その畑を買うのである。


●この句で思い出すのは二つ。かって塚本先生の雑誌である「聖書知識」を読んだ人が「この雑誌は誰にも見せたくない」と思ったという。その内容のあまりのすばらしさに感心したからである。また神田の「友愛書房」というキリスト教の古書店では、塚本先生の「聖書知識」の合本に群を抜いて高い値がついている。消費者はホンモノを知っている。世の雑誌伝道者に告ぐ。一回読んだら年末に捨てられるような雑誌は書くな。発行するな。 それは資源と労力の無駄というものだ。また私は高校生のときに、その友愛書房でなけなしの「小遣い」をはたいて塚本先生の雑誌を少しずつ買ったものである。


塚本訳  ピリ 2:15
2:15 これは君達が非難すべき所でなく、純真であって、『曲ったねじくれた(この)時代』の真中にあって『瑕なき神の子』とならんためである。(まことに)君達はこの時代にあって、生命の言を堅く守りながら、この(暗い)世に星のように輝いているのである。


●「この(暗い)世に星のように輝いているのである」。これは印象的な言葉。信者の人生目標はここにある。かって某大銀行の重鎮の方が若き日の求道の経験を話された。「仏教はキリスト教に比べて何となく暗かった」と。キリスト信者達は何はなくとも「暗い世に星のごとき存在」でなければならない。それにはキリストの教会や集会が、ヒューマニズムやサロンやお交わりの遊び場であってはならない。自分の世俗の職業内で輝かなければならない。ただし信仰をもって出世することではない。


使    10: 22 [塚本訳


彼らが言った、「百卒長コルネリオは正しい人で敬神家で、ユダヤ国民全体に評判のよい人ですが、聖なる天使から、あなたを家に招いて御言葉を聞けとのお告げを受けたのです。」


使    16: 2 [塚本訳


ルステラやイコニオムの兄弟たちの間に評判がよかった。


使    22: 12 [塚本訳


すると(ダマスコに)アナニヤという人がいた。律法的に信心深く、そこに住むユダヤ人全体に評判がよかったが、


 新改訳 Ⅰテモ3:7
3:7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。


●「光の子」は教会の外の人にも「評判」がよくなければならない。「やっぱりクリスチャンだなー」「クリスチャンは違うなー」と言われるときキリストの顔が立つ。それに反して「だからクリスチャンは嫌いなんだよなー」と言われるときはキリストの顔に泥を塗ることになる。●クリスチャンは信者である前にまずこの世的にも「評判のよい人」でなければならない。といって内村門下から出たこの世的に立派な人を真似することではない。そんなこの世的に偉大な人を見習うことではない。小さいことに評判がよくなければならない。●かって「聖書ソフト」を急いで購入しなければならなかったとき、「無教会の人はたしかだから、代金後払いで送品を先に送ります」と言われた。無教会の先輩の「評判」のよさが世に中に染み付いている証拠。しかし今はどうか。やたらと天下国歌を批判する人間の仕事振りはイマイチである。またYWCA の電話嬢の人を疑う「慇懃無礼な」態度はキリスト教の評判を落としている。この世の一般大企業の電話嬢の姿勢に学べ。


 


 

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「天に宝を積む」とは人を赦すこと ++++++++ 所感

2007/01/08 07:34

070108(月)成人の日。4時半起床。「一流の信仰」ということがひらめく●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。今日のタイトルは「キリスト教から刺激・科学に通じる探求心学ぶ」。「一神教のキリスト教の気骨なしには、ルネサンスにおけるサイエンスの開花は見られなかったであろう」「同志社(中学)時代に習った絶対的真理への探求精神が、やがて後に、私が研究において、一応見るべき成果を挙げ得た根源の一つであるとしてもよい」と言う。●サイエンスと宗教は相容れないと思っている人間、現実と信仰は関係がないと思っている人間は江崎玲於奈の言葉を聞け●聖書とか信仰とかキリスト教に対する姿勢でその人物の程度が測られる。その人間の書棚に聖書がなかったら、その人物は何をやっても成功せず、実を結ばないと思って間違いはない。●自分の接する教会とかクリスチャンに躓いて聖書やキリスト教を嫌う人間は視野が狭い●あいつはバカだなあ。役員や社長になりたがっている。そんなに地位や金が欲しいのかなー。たといそれを得ても満足はしないのだがナー。事実役員や社長になっても「喜び」の生活にはほど遠い●「この世の名誉はどこ吹く風よ。こちらと思えばまたあちら。あちらと思えばまたこちら」(ダンテ)。」。世にある「賞」という賞は仲間内の誉め合いでそれは順番。建築学会賞はダブル受賞は禁止となっている。


口語訳 マタ 16:26
16:26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。


TEV マタ 16:26
16:26 Will you gain anything if you win the whole world but lose your life? Of course not! There is nothing you can give to regain your life.


●年収250万円の農業労働者は年収500万円の都会生活者に匹敵するという記事を読んだ。至言。 ●イエスは「ああ信仰の薄いものよ」と言った。するとイエスは信仰は深くなければならない。一流でなければならないと人間に要求している。●世の中に一流というものがある。一流校、一流企業、一流の技術、一流の画家、音楽家、オーケストラ、一流の人物、一流の家庭、一流の聖書学者、一流の教会、一流の伝道者などなど。人間はそれに到達するところに「幸福」があると思うからである。「幸福」あるかどうかは一応試して見る必要がある。これらの一流は偶然とか運とかタイミングで得られる。しかしイエスはそれを目指せとは言わない。何を目指せと言うのか。然りそれは「一流の信仰」「深い信仰」。


マタ   6: 30 文語訳


今日ありて明日、爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。


マタ   8: 26 文語訳


彼らに言ひ給ふ『なにゆゑ臆するか、信仰うすき者よ』乃ち起きて、風と海とを禁め給へば、大なる凪となりぬ。


マタ   14: 31 文語訳


イエス直ちに御手を伸べ、これを捉へて言ひ給ふ『ああ信仰うすき者よ、何ぞ疑ふか』


マタ   16: 8 文語訳


イエス之を知りて言ひ給ふ『ああ信仰うすき者よ、何ぞパン無きことを語り合ふか。


マタ   17: 20 [文語訳


彼らに言ひ給ふ『なんぢら信仰うすき故なり。まことに汝らに告ぐ、もし芥種一粒ほどの信仰あらば、この山に「此處より彼處に移れ」と言ふとも移らん、かくて汝ら能はぬこと無かるべし』


ルカ   12: 28 文語訳


今日ありて、明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神は斯く装ひ給へば、況て汝らをや、ああ信仰うすき者よ。


●最近の問答で「天に宝を積むとはどういうことか」との話し合いが行われた。キリスト教の宣教は「問答」で行われる。考えさせられたが、「天に宝を積むとは人を赦すこと」だとひらめいた。そういえば、イエスの我々に期待するところはその一点に絞られる。復讐をしないこと。仕返しをしないこと。報復をしないこと。逆襲をしないこと。儒教倫理の基準で人を裁かないこと。相手の不幸を願わないこと。●ところがこれが難しいのだ。生まれつきの本能では復讐が自然の感情。恩知らずのあいつのことはどうしても赦せない。非礼なことをいうあいつのことはどうしても赦せない。酷いことをするあいつのことは赦せない。私を追い出そうとするあいつのことはどうしても赦せない。酷い天罰が下ればよいと想ってしまう。私のことを無き者としようとしているあいつのことはどうしても赦せない。早くどこかに行ってしまえばよいと思う。お礼の言葉も返事もない非礼な態度はとうてい赦せない。●私ははたして彼らを赦せるだろうか。精進努力では無理。不可能的に無理。復讐こそ正義で本能だ。


マタ   18: 21 塚本訳


その時ペテロが進み寄ってたずねた、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したとき、何度赦してやらねばなりませんか。七度まででしょうか。」


マタ   18: 22 塚本訳


イエスがこたえられた、「いや、あなたに言う、七度までどころか、七十七度まで!


ルカ   17: 4 塚本訳


あなたに対して一日に七度罪を犯しても、七度『すまなかった』と言って、あなたの所へもどってきたら、七度赦してやらねばならない。」


 塚本訳 マタ 9:6
9:6 では、人の子(わたし)は地上で罪を赦す全権を持っていることを知らせてやろう」と言っておいて、中風の者に言われる、「起きて寝床をかついで、家に帰りなさい。」


塚本訳  ルカ 18:21-22
18:21 その人が言った、「それならみんな若い時から守っております。」
18:22 イエスは聞いて言われた、「もう一つ欠けている。持っているものをことごとく売って、(その金を)貧乏な人に分けてやりなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」


マタ   6: 12 塚本訳


罪を赦してください、わたしたちも罪を犯した人を赦しましたから。


マタ   6: 14 塚本訳


(祈る前に、まず人の罪を許さねばならない。)あなた達が人の過ちを赦してやれば、天の父上もあなた達を赦してくださるが、


マタ   6: 15 塚本訳


人を赦さないならば、父上もあなた達の過ちを赦してくださらないであろう。


マタ   9: 2 塚本訳


するとそこに、人々が寝床にねている一人の中風の者をつれて来た。イエスはその人たちの信仰を見て(驚き)、中風の者に言われた、「子よ、安心せよ、いまあなたの罪は赦された。」


マタ   9: 5 塚本訳


あなたの罪は赦された、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、いったいどちらがたやすい(と思う)か。


マタ   9: 6 塚本訳


では、人の子(わたし)は地上で罪を赦す全権を持っていることを知らせてやろう」と言っておいて、中風の者に言われる、「起きて寝床をかついで、家に帰りなさい。」


マタ   12: 31 塚本訳


(あなた達はわたしをもって働く神の霊の働きをベルゼブルの働きと罵った。)だからわたしは言う、人の(犯す)いかなる罪も冒涜も赦していただけるが、御霊の冒涜は赦されない。


マタ   12: 32 塚本訳


人の子(わたし)を冒涜する者ですら赦していただけるが、聖霊を冒涜する者は、この世でも来るべき世でも(決して)赦されない。


マタ   18: 35 塚本訳


わたしの天の父上も、もしあなた達ひとりびとりが心から兄弟を赦さないならば、同じようにあなた達になさるであろう。」


マタ   26: 28 塚本訳


これは多くの人の罪を赦されるために流す、わたしの『約束の血』であるから。


マコ   2: 5 塚本訳


イエスはその人たちの信仰を見て(驚き)、中風の者に言われる、「子よ、いまあなたの罪は赦された。」


マコ   2: 7 塚本訳


「この人はなぜあんなことを言うのだろう。冒涜だ。神お一人のほか、だれが罪を赦せよう。」


マコ   2: 9 塚本訳


この中風の者に、あなたの罪は赦された、と言うのと、起きて担架をかついで歩け、と言うのと、どちらがたやすい(と思う)か。


塚本訳  ルカ 7:49
7:49 同席の者が(憤慨して)ひそかに考えた、「罪さえ赦す(という)この人はいったい何人だろう。」


塚本訳 ヨハ 20:23
20:23 人の罪は、あなた達が赦してやれば赦されて消え、赦してやらねば赦されずに残る。」


塚本訳  マタ 6:19-20
6:19 (このように、何事も天の父上相手でなければならない。たとえば)あなたたちは衣魚や虫が食い、また泥坊が忍び込んで盗むこの地上に宝を積まず、
6:20 衣魚も虫も食わない、また泥坊が忍び込むことも盗むこともない天に、宝を積んでおきなさい。(そうでないと、心が天に向かないであろう。)


塚本訳 マタ 13:44
13:44 天の国は畑に隠されていた宝に似ている。人がそれを見つけると、(またそこに)隠しておいて喜んで立ち去り、持っているものをみな売って、その畑を買うのである。


塚本訳  マタ 19:21-22
19:21 イエスは言われた、「完全になりたければ、家に帰って持ち物を売って、(その金を)貧乏な人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しそうにして立ち去った。大資産家であったのである。


 塚本訳 マコ 10:22
10:22 彼はこの言葉に顔をくもらせ、悲しそうにして立ち去った。大資産家であったのである。


塚本訳  ルカ 12:33
12:33 (ただ御国のために働けばよろしい。)持ち物を売って施しをしなさい。(すなわちそれによって)自分のために古び(て破れ)ることのない財布をつくり、泥坊が近づくことも、衣魚が食うこともない天に、使いつくすことのない宝をつんでおきなさい。


 塚本訳 ルカ 18:22
18:22 イエスは聞いて言われた、「もう一つ欠けている。持っているものをことごとく売って、(その金を)貧乏な人に分けてやりなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」


 塚本訳 ヘブ 11:26
11:26 彼は『キリストの(受けられる)罵りを(受けることは)』、エジプトの宝にまさる大なる富と考えたのである。(来るべき天からの)報いに目を向けていたからである。


●今日のブログ日記の応答に次のような珠玉の文章をいただいた。思わず落涙。とても隠しておけないので下記に公表させていただく。


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本年もHPと「日記と感想」と日毎に楽しみに開きます。

「天に宝を積むとは人を赦すこと」にアーメン。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マタイ16:24 口語訳)

「自分の十字架を負う」とは、「人を赦すこと」、「人を赦そうとする」ではないでしょうか。そして、これこそが主が(そして聖書が)私たちに求めて言われる「愛」では
ないでしょうか。私たちが「人を赦す」ということは、この世的には「損」であり「マイナス」、「自分を捨てる」ことになりますね。私たちが神の栄光を少しなりともあらわすことができるとすれば、まさにこのこと、すなわち「人を赦す」においてではないかと思っています。そして、「赦されざる自分が相手(人間)から赦されなくとも、赦すべからざる人を自分が赦す」ことができたとき、この地上での旅路における本当の喜びと平安が与えられるのでないかと思います。そしてこれができるのは、主が私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかってくださったからであり、実際に「人を赦す」ことができるかどうかは、ただ聖霊なる神なさるわざだと思っています。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。(マタイ6:12 新改訳)


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●上記の応答などはとても隠して置けない。「隠しておけない」気持ちで次の聖句を思い出した。


マタ   5: 14 [塚本訳


あなた達は世の光である。山の上にある町は隠れていることは出来ない。


マタ   10: 26 [塚本訳


だから彼らを恐れるな、(すべてはじきに明らかになるであろう。)覆われているものであらわされないものはなく、隠れているもので(人に)知られないものはないからである。


マタ   13: 44 [塚本訳


天の国は畑に隠されていた宝に似ている。人がそれを見つけると、(またそこに)隠しておいて喜んで立ち去り、持っているものをみな売って、その畑を買うのである。


マコ   4: 21 [塚本訳


また彼らに言われた、「(しかし外の人たちに神の国の秘密が隠されるのは、ただしばらくである。)明りを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためであろうか。燭台の上に置くためではあるまいか。


マコ   4: 22 [塚本訳


隠れているもので現わされるためでないものはなく、隠されているもので現われるためでないものもないからである。


マコ   7: 24 [塚本訳


そこを立って、ツロ地方に行かれた。ある家に入って、だれにも知られたくないと思っておられた。しかし隠れていることが出来ず、


ルカ   2: 35 [塚本訳


(母人よ、)あなたも劔で胸を刺しつらぬかれ(る苦しみをせ)ねばなりますまい。──これは多くの人の心の(隠れた)考えを外に出させるためなのです。」


ルカ   8: 16 [塚本訳


(しかし外の人たちに神の国の秘密が隠されるのは、)だれも明りをつけて器でおおい隠したり、寝台の下に置いたりする者はない。(部屋に)入ってくる者にその光が見えるように、かならず燭台の上に置くのである。


ルカ   8: 17 [塚本訳


隠れているものであらわにならぬものはなく、隠されているもので(人に)知られず、また現われないものもないからである。


ルカ   10: 21 [塚本訳


この時イエスは聖霊にみたされ、感激にあふれて言われた、「天地の主なるお父様、(神の国の秘密に関する)これらのことを(この世の)賢い人、知恵者に隠して、幼児(のような人たち)にあらわされたことを、讃美いたします。ほんとうに、お父様、そうなるのがあなたの御心でした。


ルカ   12: 2 [塚本訳


覆われているものであらわされないものはなく、隠れているもので(人に)知られないものはない。


ヨハ   18: 20 [塚本訳


イエスは答えられた、「わたしは世間にむかって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる礼拝堂や宮で教えて、何一つ隠れて話したことはない。


ヨハ   19: 38 [塚本訳


そのあとで、アリマタヤ生まれのヨセフが、──この人はユダヤ人(の役人たち)を恐れて、隠れてイエスの弟子になっていた人である──ピラトに、イエスの体を取りおろしたいと願い出た。ピラトが許すと、彼は行って体を取りおろした。


●神の国のうれしいこと喜ばしいことは「隠して」おけない。それに比べて「この世的人間」は恐怖心から何事も「隠そう隠そう」とする。これ「罪人の恐怖」という。法律を盾にして隠そうとするからなおまずい。暗い世界、イヤーな世界の人間だ。救われなければならない人間だ。自己の暗さに嫌気がさして耐え切れずに光を求めるようになることを願う。




 

 


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イエスの復活はお化けだったのか ++++++++ 所感

2007/01/07 05:55

070107(日)4時40分起床●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。中学の受験に失敗。家計が傾き貧しさを体験。貧しさが活路を切り開く想像力を養うという。至言。次のように言う。「エサキダイオードを発見した1957年当時のソニーには多くの研究費はなく、32歳の無名の研究者には公的資金の支給もなかった。だが、貧しさのなかでの生き方を知っていたおかげで金のないときには金のかからぬ研究のやり方を会得していた」。エサキダイオードの内容は分からないが、この精神こそがノーベル賞ものなのだ。そうすると多くの人が天のノーベル賞をいただけるのだ●4歳半の孫の見時は両親には見えない「お化け」がよく見えるという。スワ大使徒の片鱗かと喜んだ。ぬか喜びかも知れないが、イエスの復活は一般のお化け(?)とはどう違うのかの研究を聖書に探る。●イエスの復活に出会った人は「お化け」だと思った。●恵の一家と共に家庭礼拝。「イエスの復活はお化けだったのか」。孫達が復活のイエスに出会う日の来ることを願うと話した。讃美歌第二編95と96番を華子さんの解説とピアノ伴奏によって歌う。最後に「あまつましみず」●4歳半の見時が「ギャーッ」と悲鳴。まだ歩けない1歳2ヶ月の風人に手を噛み付かれたのである。見ると歯型が残るほど。復讐であったらしい。こんな幼児にも激しい復讐心があることにびっくり●13時半、恵一家が福島に向けて出発。孫5人が帰って火が消えたようになった。


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1歳2ヶ月の風人(ふーと)。3歳上の兄に復讐で噛み付くまでに成長した。「復讐心」というのは本能として人間に備わっているものだということを目の当たりに見て感慨にふけった。


            2007.1.7


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子育ては並大抵の苦労ではない。母親というのは身も心も子育てに精力を傾ける。左は近藤風人(ふうと)。右は近藤華子。聖書には父は出てくるが母の愛ということが出てこないのはなぜだろう。


                2007.1.7


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恵が福島の地に出発するときに置いていったオリーブの樹の隣に見時を立たせて撮影。見時は4歳半。 2007.1.7



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 5人の孫が全員帰っていった日の日没。我々の人生も使命の終わりが近づいた。左は富士。


                     2007.1.7


 


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      イエスの復活はお化けだったのか。


         孫のお化け体験に学ぶ


岩波翻訳委員会訳 マコ 6:48-50


410648そして弟子たちが〔舟を〕漕ぐのに苦しんでいるのを見ると ――というのも、彼らにとっては逆風だったからである ――、夜の第四刻頃、彼は海の上を歩みながら彼らのところにやって来る。そして彼らのかたわらを通り過ぎようとした。


410649そこで、彼が海の上を歩んでいるのを見た彼らは、「化け物だ」と思い、大声を挙げた。


410650というのも、皆が彼を目にし、動転してしまつたのである。しかし彼はすぐに彼らに語りかけた。そして彼らに言う、「しつかりしろ。私だ。恐れるな」。 


口語訳 マコ 6:48-50
6:48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。
6:49 彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。


文語訳 マコ 6:48-50
6:48 風逆ふに因りて、弟子たちの漕ぎ煩ふを見て、夜明の四時ごろ、海の上を歩み、その許に到りて、往き過ぎんとし給ふ。
6:49 弟子たち其の海の上を歩み給ふを見、變化の者ならんと思ひて叫ぶ。
6:50 皆これを見て心騷ぎたるに因る。イエス直ちに彼らに語りて言ひ給ふ『心安かれ、我なり、懼るな』


塚本訳  マコ 6:48-50
6:48 そして向い風のために弟子たちが漕ぎなやんでいるのを見ると、第四夜回りのころ(すなわち夜明けの三時ごろ)、湖の上を歩いて彼らの所に来て、(舟のわきを)通りすぎようとされた。
6:49 弟子たちはイエスが湖の上を歩いておられるのを見ると、幽霊だと思って声をあげて叫んだ。
6:50 イエスを見て、皆肝をつぶしたのである。しかしイエスはすぐ彼らに話しかけ、「安心せよ、わたしだ。こわがることはない」と言われる。


●この「湖上歩行」の奇跡は、聖書学的には次のヨハネの記事である復活後のイエスの行動が土台になっているといわれる。その反響があるという。特に14節に注目。とにかく復活のイエスは「一般のお化け」と変わらないものであってそれに接した人間に「恐怖感」を与えるものであった。


塚本訳  ヨハ 21:1-14
21:1 そのあとで、イエスはテベリヤ湖のほとりで、かさねて弟子たちに現わされた。現わされ方はこうであった。──
21:2 シモン・ペテロと、トマスすなわちデドモと、ガリラヤのカナ生まれのナタナエルとゼベダイの子たち二人と、ほかの二人の弟子とが一緒にいた。
21:3 シモン・ペテロが「わたしは漁にゆく」と言うと、「わたし達も一しょに行く」と彼らが言う。みんなが出ていって舟に乗った。しかしその晩は何も捕れなかった。
21:4 もう夜も明けたころに、イエスが(どこからともなく)岸に出てこられた。それでも、弟子たちはイエスだと気づかなかった。
21:5 イエスが彼らに言われる、「子どもたち、何も肴があるまい。」「ありません」と彼らが答えた。
21:6 イエスが言われた、「舟の右側に網を打って御覧、獲物があるから。」網を打つと、(はたして捕れた)魚が多く、もはや網を引き上げることが出来なかった。
21:7 するとイエスの愛しておられた弟子が気づいて、ペテロに「主だ!」と言う。主だと聞くと、シモン・ペトロは裸だったので(急いで)上っ張をひっかけ、湖に飛び込んだ。
21:8 ほかの弟子たちは、魚の(はいっている)網を引っ張りながら舟で来た。陸から遠くなく、二百ペキュン(百メートル)ばかりしか離れていなかった。
21:9 彼らが陸に上がって見ると、炭火がおこしてあって、上に魚が一匹のっており、またパンがあった。
21:10 イエスが彼らに言われる、「今捕った魚をすこし持ってきなさい。」
21:11 シモン・ペテロが(舟の)上にあがって網を陸へ引き上げると、百五十三匹もの大きな魚で一ぱいであった。こんなに大漁であったが、網は裂けなかった。
21:12 イエスが彼らに言われる、「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子のうちだれ一人、「あなたはどなたですか」と敢えて尋ねる者はなかった。主だと気づいた(が、何となく変だった)からである。
21:13 イエスは来て、パンを(手に)取って彼らに渡された。魚も同じようにされた。
21:14 イエスは死人の中から復活されたのち、弟子たちに自分を現わされたのは、これですでに三度目である。


塚本訳  ルカ 24:35-40
24:35 それで二人も、(エマオへの)道であったことや、また、どうしてパンを裂かれたことで(主と)わかったかを物語った。
24:36 二人がこう話しているところに、(突然)御自身でみなの真中に出ておいでになった。
24:37 ぞっとして震えあがり、幽霊でも見ているように思っていると、
24:38 彼らに言われた、「なにをうろたえるのか。なぜ心に疑いを起すのか。
24:39 わたしの手と足とを見てごらん。だれでもない、わたしだよ!さわってごらん、幽霊には肉も骨もないが、わたしには、それがあるのがわかるから。」
24:40 [無シ]


●しかし歴史的に少し時間が下ると、弟子達にはその「イエスのお化は」何かを教えるために現れたのであることが分かってくる。その何かとは「十字架の死は罪の贖罪のためであった」ということ。これが分かる。そのお化けに接したほどの人はなぜか不思議にその「十字架の死の意味の認識」にいたる。するとその後はイエスの復活は「イエスの十字架の死の意味」とセットになって宣べ伝えられるようになる、。ただお化けが出たというのとは違う。


●まずペテロをはじめとする直弟子達の認識変化。


塚本訳  使  5:29-32
5:29 ペテロを始め使徒たちが答えて言った、「人は人間(の命令)よりも神(の命令)の方に従うべきであります(から、神の命令にわたし達は従っているのです)。
5:30 わたし達の先祖の神は、あなた方が(十字架の)『木にかけて』殺害したイエスを復活させられました。
5:31 この方を神は、イスラエルに悔改めと罪の赦しとを与えるために、(命の)先達また救い主として御自分の右に挙げられたのです。
5:32 わたし達はこれらの事柄の証人であります。神が御命令に従う者にお与えになる聖霊も、同じくその証人であります。」


●次にペテロの説教第6。これが福音書成立の土台。福音書の成立はペテロの伝道説教が土台であると指摘したのは英国の聖書学者のドッド。なるほど、この説教には福音書の4っの柱である①洗礼者ヨハネの出現②イエスの病気治療の奇跡③十字架④復活。がある●そしてペテロの従者のマルコが、マルコ福音書を執筆した。


塚本訳 使  10:36-43
10:36 『神は御言葉をイスラエルの』子孫に『おくり、』イエス・キリストをもって、『(御自分との間の)平和の福音を伝えられました。』──イエスは万人の主であります。──
10:37 あなた達は(洗礼者)ヨハネが洗礼を説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ中にゆきわたった出来事を知っておられる。
10:38 すなわち、『神が』いかに聖『霊』と(大いなる)力と『をもって』ナザレのイエスに『油を注がれ(て聖別され)た』か、このイエスが(あちらこちらを)巡回しながら、恩愛を施し、悪魔におさえつけられている者を皆直されたかを。神がご一緒におられたからです。
10:39 ──(使徒たる)わたし達は、イエスがユダヤ人の地、ことにエルサレムでされた一切のことの証人です。──このイエスを人々は『(十字架の)木にかけて』処刑した。
10:40 (しかし)神はこの方を三日目に復活させ、(人の目にも)見えるようにされた。
10:41 (ただし)国民全体でなく、神からあらかじめ選ばれていた証人であるわたし達、すなわちイエスが死人の中から復活されたあとで、一緒に飲み食いした者(だけ)に見えたのです。
10:42 そして神はわたし達に命じて、この方こそ神に定められた、生きている者と死んだ者との審判者であると、国民に説きまた証しさせられるのです。
10:43 預言者たちは皆、彼を信ずる者はことごとく、その名のゆえに罪の赦しを受けることを、彼について証明しています。」


●次にパウロ


塚本訳 Ⅰコリ15:1-5
15:1 また、わたしが思い出してもらいたいのは、兄弟たちよ、(以前)あなた達に伝え、あなた達が(喜んで)受けいれてくれて、(今日まで)それに立っている、あの(死人の復活についての)福音である。
15:2 どんな言葉でわたしがその福音を伝えたにせよ、あなた達がそれを守っていさえすれば、軽々しく信仰に入ったのではない限りは、あなた達もその福音で救われる。
15:3 まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、
15:4 葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること、
15:5 またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。


塚本訳  Ⅰコリ1:18-25
1:18 なぜか。この十字架についての言葉は、滅びゆく者には馬鹿なことであるが、わたし達救われる者には、神の力(の現われ)であるから。
1:19 (聖書に)こう書いてあるではないか、『知恵者の知恵をわたしは滅ぼし、賢い者の賢さをわたしは無にする』と。
1:20 『どこに知恵者が』、『どこに聖書学者が、どこに』この世の議論家がいるのか。神は(この)世の『知恵を馬鹿なものにされた』ではないか。
1:21 なぜなら、(この)世(の人)が自分の知恵により(判断し)、神の知恵(の現われである御業)において神を認めることをしないので、神は馬鹿な(ことと見える十字架の)説教によって信ずる者(だけ)を救おうと、お決めになったからである。
1:22 実際、ユダヤ人は(信ずるための証拠に神からの不思議な)徴を乞い、異教人は(真理を知るために)知恵を求めるが、
1:23 わたし達は十字架につけられたキリストのこと(だけ)を説く。すなわち、ユダヤ人にはつまづき、異教人には馬鹿なことであるけれども、
1:24 (神に)召された者だけには、ユダヤ人、異教人の別なく、(これこそ)神の力、また神の知恵なるキリストを(説くのである)。
1:25 というのは、神の(業はどんなに)馬鹿なこと(に見えても、それ)は人よりも知恵があり、神の(業はどんなに)無力(に見えても、それ)は人よりも力があるからである。


●次はヨハネ。ヨハネは生前のイエスの行動の意味は弟子達にとって復活後にすべて氷解したのだという。


塚本訳  ヨハ 14:25-26
14:25 わたしはこれだけのことを、(まだ)あなた達と一しょにおるあいだに話した。(これ以上のことは話してもわからないからだ。)
14:26 (わたしが去ったあとで、)父上がわたしの名で遣わされる弁護者、すなわち聖霊が、あなた達にすべてのことを教え、またわたしが言ったことをすべて思い出させるであろう。


塚本訳  ヨハ 17:6
17:6 わたしは、あなたがこの世から(選び出して)わたしに下さったこの人たち((弟子たち))に、あなたの名を──(あなたについての一切のことを)──知らせてやりました。彼らはもとあなたのものであったのに、わたしに下さったのです。彼らは(わたしが教えた)あなたの言葉を守りました。


●かくしてキリストの教会は復活とそれ故の十字架の意味の認識の上に立つものとして誕生した。使徒伝承というのは「復活の事実と十字架の意味の伝承」。ここがイエスの復活が「一般のお化け」とは違うところ。何かを教えてくれる。その何かとは「イエスの死の意味」。罪の贖罪。


●お化けは「今、この私の前にわかるように出る」ところに意味がある。それは『この私に』意味を教えてくれる」ことである。「この私の罪を、今赦してくださる」という宣言である。パウロが復活のイエスに出会った体験がそれを示す。「ほかならぬあなたの罪を赦す」という意味で復活のイエスが個人的に現れる。復活のイエスは各人に個人的に現れる。そして「罪の赦しの認識」とペアになっている。


塚本訳  使  26:12-18
26:12 こんな次第で、わたしは大祭司連から全権と委任とを受け、(迫害のため)ダマスコに進んでゆくと、
26:13 王よ、昼に、途中で、天から輝く太陽にもまさる光がさして、わたしと、同行の者たちとのまわりを照らすのを見ました。
26:14 わたし達が皆地上に倒れると、ヘブライ語で、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。刺の棒は蹴っても無駄だ』とわたしに言う声を聞きました。
26:15 わたしは言った、『主よ、あなたはどなたですか。』主が言われた、『わたしだ、君が迫害しているイエスだ。
26:16 さあ、起きて、『自分の足で立て。』わたしが(今)現われたのは、君を選んで、わたしを見たことと、(今からも)君に現われて示すこととの証人として、わたしに仕えさせるためである。
26:17 (かずかずの迫害や危険がのぞむが心配するな。)わたしは君をこの(イスラエルの)民(の手)から、また』異教人(の手)から』『(かならず)救い出してやる。』『彼らの中にわたしが君を遣わすのは、』
26:18 彼らの『目をあけて』彼らが『暗闇から光に、』悪魔の権力から神に帰るため、そうして彼らがわたしに対する信仰によって罪の赦しを得、きよめられた人たちの仲間に入れていただくためである』と。


●こういう体験は不思議なこと、個人的なこと。だから体験しない人間にとっては全く信じがたいことである。また復活に出会っても信じない人は信じない。


塚本訳ルカ 16:19-31
16:19 (つぎに、利巧な番頭と反対に、神の国の準備をしなかった人の話を聞け。)一人の金持があった。紫(の上着)と細糸の亜麻布(の下着)を着て、毎日華やかに楽しく暮していた。
16:20 またその金持の門の前に、ラザロという出来物だらけの乞食がねていた。
16:21 せめて金持の食卓から落ちる物で満腹できたらと思った。それどころか、犬まで来て出来物をねぶっていた。
16:22 やがて乞食は死んで、天使たちからアブラハムの懐につれて行かれ、金持も死んで葬られた。
16:23 金持は黄泉で苦しみながら、(ふと)目をあげると、はるか向こうにアブラハムとその懐にいるラザロとが見えたので、
16:24 声をあげて言った、『父アブラハムよ、どうかわたしをあわれと思ってラザロをよこし、指先を水にひたしてわたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの焔の中でもだえ苦しんでおります。』
16:25 しかしアブラハムは言った、『子よ、考えてごらん、あなたは生きていた時に善いものを貰い、ラザロは反対に悪いものを貰ったではないか。だから今ここで、彼は慰められ、あなたはもだえ苦しむのだ。
16:26 そればかりではない、わたし達とあなた達との間には大きな(深い)裂け目があって、ここからあなた達の所へ渡ろうと思っても出来ず、そこからわたし達の所へ越えてくることもない。』
16:27 金持が言った、『父よ、それではお願いですから、ラザロをわたしの父の家にやってください。
16:28 わたしに五人の兄弟があります。彼らまでがこの苦しみの場所に来ないように、よく言って聞かせてください。』
16:29 しかしアブラハムは言う、『(その必要はない。)彼らにはモーセ(律法)と預言書と[聖書]がある。その教えに従えばよろしい。』
16:30 彼が言った、『いいえ、父アブラハムよ、もしだれかが死人の中から行ってやれば、きっと悔改めます。』
16:31 しかしアブラハムは答えた、『モーセと預言書との教えに従わないようでは、たとえ死人の中から生き返る者があっても、その言うことを聞かないであろう。』」


●このことをヨハネは次のように言う。


塚本訳 ヨハ 14:21-24
14:21 わたしの掟をたもち、これを守る者、それがわたしを愛する者である。わたしを愛する者はわたしの父上に愛され、わたしもその人を愛して、その人に自分を現わすであろう。(だからわたしを愛する者だけが、わたしを見ることができるのだ。)」
14:22 イスカリオテでない方のユダが言う、「主よ、いったいどういうわけで、わたし達だけに御自分を現わし、この世(の人)にはそうしようとされないのですか。」
14:23 イエスは答えられた、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。するとわたしの父上はその人を愛され、わたし達は(父上もわたしも)、その人のところに行って、同居するであろう。
14:24 (しかし)わたしを愛しない者は、わたしの言葉を守らない。(だからわたしを見ることができない。)あなた達が(わたしから)聞く言葉はわたしの言葉ではない、わたしを遣わされた父上の言葉である。


塚本訳 ヨハ 13:18-20
13:18 (幸いであると言っても、)あなた達みんながそうだと言うのではない。どんな人を(弟子に)選んだか、わたしは(始めから)知っている。(中には不心得な者もあるようだ。)しかしそれは、〃(いつも一しょに)わたしのパンを食べる(親しい)者が、踵をあげてわたしを蹴飛ばした〃という聖書の言葉が成就するためである。
13:19 事のおこらない先に、いまから言っておく。事がおこった時に、わたしがそれ(救世主)であることをあなた達が信ずるためである。
13:20 アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしが遣わす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのであり、わたしを受けいれる者は、わたしを遣わされた方を受けいれるのである。」


●だからパウロは宣教ということの困難さを次のように言う。救いは神次第だからでsる。


文語訳  Ⅰコリ1:18
1:18 それ十字架の言は亡ぶる者には愚なれど、救はるる我らには神の能力なり。


口語訳 Ⅰコリ15:58
15:58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。


口語訳 Ⅱコリ2:14-15
2:14 しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。
2:15 わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。


●母親は子供の不思議な行動を生涯忘れないものである。


塚本訳  ルカ 1:36-38
1:36 実はあなたの親類のエリザベツも、あの老年で、男の子をさずかったのだ。石女と言われていた女が、今月はもう六月になっている。
1:37 『神には何一つ出来ないことはない』のだから。」
1:38 マリヤは言った、「かしこまりました。わたしは主の召使、お言葉のとおりに成りますように。」天使はマリヤをはなれ去った。


塚本訳 ルカ 1:66
1:66 聞いた者は皆これを胸におさめ、「この幼児はいったい何になるのだろう」と考えた。主の(恵みの)御手もまたたしかにこの幼児に働いていたのである。


塚本訳  ルカ 2:27-35
2:27 (この日)御霊に感じて宮に行くと、ちょうど両親が、律法の仕来りどおり幼児イエスに行おうとして彼をつれて入ってきたので、
2:28 シメオンは幼児を両腕に抱き、こう言って神を讃美した。──
2:29 今こそ、主よ、あなたはこの僕をしてお言葉のとおり安らかに(この世に)暇乞いをさせてくださいます、
2:30 わたしの目が『もうあなたの救いを拝見しました』からです。
2:31 この救いこそ、あなたが『全人類の(ため、その)目の前で』用意されたもの、
2:32 『異教人には啓示を、』あなたの民『イスラエルには栄光をあたえる』『光』であります。
2:33 幼児のことをこのように言うのを父と母とが不思議に思っていると、
2:34 シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った、「驚きなさるなよ、この幼児はイスラエルの多くの人を、(この方に対する態度によって)倒されたり立たせたりする、また、一つの目印となって(この世の烈しい)反対をうける、使命を負わされているのです。──
2:35 (母人よ、)あなたも劔(けん)で胸を刺しつらぬかれ(る苦しみをせ)ねばなりますまい。──これは多くの人の心の(隠れた)考えを外に出させるためなのです。」


塚本訳 ルカ 2:42-52
2:42 イエスが十二歳になった時、両親は(その)祭の習わしに従って、(彼を連れて都へ)上った。
2:43 (祭の)日が終って帰る時、イエス少年はエルサレムにのこったのに、両親はそれを知らなかった。
2:44 道連れの中にいるとばかり思って、一日路を行ったのち、(はじめてそれに気づき、)親類、知人の中を捜したけれども、
2:45 見つからないので、捜しながらエルサレムに引き返した。
2:46 そして(都を出て)三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中に坐って、話を聞いたり尋ねたりしているのを見つけた。
2:47 彼の話を聞いている人々は皆、その賢いうけこたえぶりに舌をまいていた。
2:48 両親はこれを見て驚き、母が言った、「坊や、どうしてこんなことをしましたか。ごらん、お父さまもわたしも(こんなに)心配して、あなたをさがしているではありませんか。」
2:49 彼らに答えられた、「なぜおさがしになったのです。わたしが(天の)お父さまの家に居るのは当り前でしょう。御存知なかったのですか。」
2:50 両親にはこう言われた言葉(の意味)がわからなかった。
2:51 それからイエスは一しょに(エルサレムから)下ってナザレに帰り、両親につかえられた。母(マリヤ)はこのことを皆胸に秘めていた。
2:52 イエスは知恵も身の丈も、『また神と人との寵愛も、いやましに増していった。』


●神は子供の唇を通して語る


塚本訳 マタ 11:25
11:25 その時イエスは声をはげまして言われた、「天地の主なるお父様、(神の国の秘密に関する)これらのことを(この世の)賢い人、知恵者に隠して、幼児(のような人たち)にあらわされたことを、讃美いたします。


塚本訳 マタ 21:16
21:16 イエスに言った、「あの子供たちがなんと言っているのか、聞えているのか。」イエスは言われた、「聞えている。あなた達は『(神よ、)あなたは幼児と乳飲み子との口によって、(御自分のために)賛美をお備えになった』と詩篇にあるのを、まだ読んだことがないのか。(大人が黙っているから、子供が叫ぶのだ。)」



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

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お化けはいるか ++++++++ 所感

2007/01/06 20:34

070106(土)5時半起床●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。中学の受験に失敗。●小中学校で成績優秀だった人でもその後の運命に翻弄されて人生が挫折し、堕落した男を知っている。家庭がメチャクチャ。その子供たちも暗い家庭。人生観の土台ができていないからこうなった。


塚本訳 マタ 7:24-27
7:24 だから、以上のわたしの話を聞いてそれを行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている。
7:25 雨が降って、大水が出て、風が吹いて、その家に襲いかかったが、倒れなかった。岩の上に土台があったからである。
7:26 また、わたしの話を聞くだけでそれを行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
7:27 雨が降って、大水が出て、風が吹いて、その家にうちつけると、倒れてしまった。ひどい倒れ方であった。」


TEV マタ 7:24-27
7:24 "So then, anyone who hears these words of mine and obeys them is like a wise man who built his house on rock.
7:25 The rain poured down, the rivers flooded over, and the wind blew hard against that house. But it did not fall, because it was built on rock.
7:26 "But anyone who hears these words of mine and does not obey them is like a foolish man who built his house on sand.
7:27 The rain poured down, the rivers flooded over, the wind blew hard against that house, and it fell. And what a terrible fall that was!"


●こういう堕落人間は救われないか。こういう人間は堕落する動機が「甘え」。悔い改めということがないと福音も効果なし。●恵は「つくば」へ。八田先生宅新年会●妻は世界合唱祭出演のための練習。豊島公会堂●華子さんと長話。音楽談義。孫の見時がよくお化けを見るというが聖書でお化けはどう扱われているか。死後の話。信仰者との付き合いについて。男女の関係について。家庭経済について。


 

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ディズニーの力は偉大 ++++++++ 所感

2007/01/05 22:18

070105(金)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。小学校のときは事故でドモリニなる。ドモリのハンディで「人とあまり話さなくてもよい」サイエンスの道を選ぶ。江崎のノーベル賞はドモリがきっかけであったとは。人生は万事が益になる。●初仕事●教文館、銀座三越で背広●妻と恵一家は御岳山に行く。●4歳5ヶ月の見時がDVDでディズニーのピノキオに声を上げてケラケラ笑うのを見てディズニーの力は偉大なものだと思った●過日、ディズニーランドに39回行ったという若い女性にのことを聞いた。何の魔力か。動きと色彩のすばらしさだと思う●恵からホームページアップ方法のレクチャーを受ける。●1年2ヶ月の風人はようやく慣れて、抱いても泣かなくなった。




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   近藤風人1歳2ヶ月。ようやく慣れて、名付け親の私が抱く。 


             2007.1.5



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近藤見時4歳5ヶ月 デズニーの「ピノキオ」を見て声を上げてケラケラ笑う。ディズニーの力は偉大だ。


                  2007.1.5



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   妻のピアノに孫の見時と風人がまつわりつく。 2007.1.5


 

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皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ ++++++++ 所感

2007/01/04 22:51

070104(木)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。玲於奈の名前は父親がレオ(ライオンの意味)のようになれとの願いから。親の願いは子供の名前に現れる●新年の御挨拶に妻と新浦安に行く。海の見えるマンションの9階でご挨拶。ヒルトンホテルで会食歓談。ここはデズニーランドの町。町の雰囲気が日本離れしている●あきるの家には恵一家が待っていた。●恵夫妻と歓談。神によりていつくしめる心の交わりいともたのし。●華子さんに教えられたバッハ/ロングハースト編のBWV508「わが傍らにいましたまえ」(「アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳」第25曲アリア)に魅せられとり付かれ何度も聴く。●この一曲を弾く為にオルガンを習いたいと思ったが、華子さんに「毎日練習して2年間はかかる」と言われて、平均余命18年の身としてはあきらめざるをえない。いいやいいや●アルベルトシュヴァイツヴァーは「芸術家には二種類ある。演奏する者と鑑賞する者。そしてこの両者には優劣はない」と言った。これ慰めの言葉。●人生にはあきらめざるを得ないもの、失うものが多いものだ。●バッハには24人の子供が与えられたがその半分の12人は夭折した●私の希望は孫12人。現在5人だからあと7人。根拠は4家族×3人=合計12人。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ!」(明治38年5月27日。日本海海戦における東郷平八郎. 元帥海軍大将の激文Z旗)

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14人が泊る ++++++++ 所感

2007/01/03 10:49

070103(水)6時起床●日経「私の履歴書」物理学者の江崎玲於奈。今月の履歴書は知的興味が湧く。古典的物理学を超える分かりやすい解説。江崎のトンネル効果理論が分かりやすく解説されている。粒子としての電子は壁を通らないが、波としての電子は通る。これがトンネル効果●イエスがドアを通ってきたというのも物理学者にとってはなんでもないこと。復活のイエスは5次元の存在だったのだ。


塚本訳 ヨハ 20:19-20
20:19 その日すなわち週の初めの日の晩であった。ユダヤ人を恐れて、弟子たちのおる部屋の戸には(皆)鍵がかけてあったのに、イエスが(どこからともなく)はいって来て(彼らの)真中に進み出て、「平安あれ」と言われた。
20:20 そしてそう言いながら、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。


●昨夜は狭い我が家に全5家族計14名が泊る。超過密、人口密度7.6㎡/人。しかしこれまた楽し。私としてもこんなに子孫が増えるとは夢にも思わなかった。6年前に脳内出血で一時意識不明になったときは孫の一人もいなかった。あのとき一度死んだから新しい生命が与えられたのか。


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       高橋家新年会 全5家族14名 2007.1.3 8:30


    後列左から高橋照男 高橋新一 近藤見時 近藤恵 


           高橋守 高橋トミ子 伊勢初音 伊勢喜明


    中列左から伊勢愛子 高橋穂澄  近藤華子 


    前列左から伊勢かなほ  高橋和歌 近藤風人


●9時。一挙に3家族8名が帰り、潮が引いたように静かになる。●今年いただいた年賀状で最高にうれしかったもの。「信仰を通してのお近づきが一番いいですね。心の平安が守られますように」。これは多くの趣味を持たれている女性からのものだけに重みがある。讃美歌403番を想う。


讃美歌403番


1. かみ に よりて いつく しめる


   こころ の 交わり いと も たのし.


 2. ちち の まえ に せつ に 祈らん,


   望み も恐れも とも に おなじ.


 3. とも に しのぶ うき なやみ も,


   ゆたけき 恵み に やがて消えなん.


 4. わかるる とき かなし けれど,


   ふたたび 相見る  さち や いかに.


 5. つみ と うれい なき みくに の


   つきせぬ 睦び をよろこび 待たん.


 


 

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高橋家新年会 ++++++++ 所感

2007/01/02 08:12

070102(火)3時半起床●朝風呂、新聞なしで黙想。神は親、ダメ人間をこそ救う。


文語訳 マタ 21:31
21:31 この二人のうち孰か父の意を爲しし』彼ら言ふ『後の者なり』イエス言ひ給ふ『まことに汝ら告ぐ、取税人と遊女とは汝らに先だちて神の國に入るなり。


塚本訳 マタ 21:31
21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう。


新共同 マタ 21:31
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。


●11:30 2007年高橋家新年会。総勢14名となった。今年の司会は守。プレゼント交換、クイズ、家族川柳大会。私の作品は「子孫増え、孫の名前が混乱し(63歳、孫5人)」。秀作として「孫見せに北へ南へ500キロ」●讃美歌の合唱「あまつましみず」「またきあいたもうかみよ」「かみともにいまして」の3曲。●新一からの報告と各人のスピーチ


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   新年会 指揮 高橋守 ピアノ近藤華子 で讃美歌合唱


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      近藤恵 近藤風人(一歳二ヶ月)


 

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