to 日記と感想 2007年05月
Top | RSS | Admin

2007.04 « 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 » 2007.06


将来日記

    将来日記

    XXXXXXXXXXX    終末、復活、永遠の生命、再会(父、母、妻、
              子供、親戚、友人、集会の方々)
              復活と再会の確信はイエスの有体的復活の事実
    291103       結婚60年記念、ダイヤモンド婚
    261016       イカ成人
    251009       コフ成人
    250809       タワ成人
    241103       結婚55年記念。エメラルド婚
    230110       イハ20歳成人
    230713       タテ満80歳
    220728       KM成人
    200713       タテ誕生日満77歳喜寿
    191103       結婚50年記念。金婚
    18秋ごろ 木曜日 阿伎留病院森先生に胃カメラ申し込み
    171229    TM誕生日
    171220     KK誕生日
    171115    TM誕生日
    171016     IK誕生日
    171009     KH誕生日
    1709頃      聖路加約センターに2018年のMRI予約3か月前に聖路加に行く
    170831     芝浦工業会年会費支払締切
    170822     KS命日
    170817(木)11:30 キリスト教性教育研究会、ナザレ修道会、富永國比古
    170813     KT命日
    170812(土)14:00お江戸こらりあーず演奏会、文京シビックホール
    170821(土)15:00お江戸コラリアーズ定期演奏会、文京公会堂
    170809     TW誕生日
    170801     TH誕生日
    170728     TI誕生日 KM誕生日
    170723      IK誕生日
    170713      TT誕生日
    170708(土)14:00在宅医療説明会(キララホール)
    170707(金)10:00池谷医院
    170706      TM誕生日
    170702(日) 集会感話
    170701      TT誕生日
    170630(金)12:20キララホールエントランスコンサート
    170628      IY誕生日
    170627(火)11:00 能城牧師来訪
    170625)日)10:10トミ子集会感話
    170625(日)14:00茅ヶ崎金子邸
    170618(日)15:00今井館総会
    170611(日)14:00武蔵野室内アンサンブル。ブラームス3番他。キララホール
    170610(土)14:00内村鑑三セミナー、立教大学12号館。矢田部、椚」山
    170609(金)   TS命日
    170608(木)12:15ボリショイ「白鳥の湖」、東京文化会館
    170707(水)10:00池谷医院
    170604(日)10:00集会感話、
    170604(日)16:30近藤恵邸起工式、福島市。
    170530(火)14:00田岡氏来訪
    170527(土)14:00今井館ピアノコンサート
    170521(日)14:00新宿フィル、ブラームス1番、レスピーギ「鳥」「ローマの松」。和田睦夫
    170425       TN)誕生日
    150420(木)09:30阿伎留センター泌尿器科)
    170416(日)14:00武蔵野室内合奏団、杉並公会堂(大坪満子)


神からの勲章を求めよ ++++++++ 所感

2007/05/31 10:06

070531(木)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。最終回。文化勲章を受章したというが、その人生はななんとなく淋しそう。社会派の映画を作ったが、人間は社会的に救われても真の喜びは得られない。人間はもっと高度なものなのだ。神に知られ、神に覚えられ、神の応答する人間になって初めて霊魂の安らぎを得ることができるのだ。そこに真の喜びがあるのだ●クリスチャンは人間からの勲章ではなく、神からの勲章をいただけるように生きるべきなのだ。ただし神からの勲章は人間には評価されない●NHKホットモーニング。過労による自殺の問題。企業の成果主義に踊らされて2時3時まで働いてた。年収が250万円アップして念願の富士が見えるマンションを購入したが、過労のストレスでそのマンションから飛び降り自殺。これでは富士も泣いている。●冷たい言い方かもしれないが、成果主義に踊らされて収入がアップすることに喜びを感じてめちゃくちゃに働いた本人が悪い。金が第一のそういう人生観が低かった。「あなた。お金なんかいりませんから体を大切にしてください」と言ってくれる奥さんがいたらこういうことにはならなかったのになー。●成果主義を取り入れた大企業はことごとく失敗。当たり前だ。本当の成果はすぐには出てこないうえに人の目には見えないからだ。日本の企業も程度が低い●世の中で夫の出世と収入アップを「祈る」夫人は悪妻。●ある母親と、ご子息のことで電話。「母の祈り」というのはこの世で最も尊く、効き目がある。「妻の祈り」また同じ。●隠れた祈りは尊い。主人の病が癒えますようにとの妻の祈り、妻の病がいえますようにという夫の祈り、母の病がいえますようにという子供の祈り、父の病がいえますようにとの子供の祈り、子供の病気が言えますようにという親の祈り。そして子供が救われますようにちとの親の祈り。隠れた祈りは聴かれる。


s2007_0531_143524AA.jpg


図書館に行く途中で、よいデザインの家を見た。私の家はあきる野市で最も美しい家二つのうちの一つと言われているが、この家もなかなかよいなー。どうせ家を設計するなら美くしいものを造らなければならない。2007.5.31


s2007_0531_154239AA.jpg


図書館の帰り道。奥多摩連山に黒い雲。雷鳴。強い風。雨が降りそうなので急いで帰る。ベートーヴェン交響曲第6番「田園」の第4楽章を思う。故郷浦和の母教会で歌った「聖歌」に「輝く陽(ひ)仰ぐとき、雷(いかずち)鳴り渡るとき、わが霊(たま)いざ称えよ、大いなる御神を」というのがあったなー。稲光を写真に撮ってみたいが難しいらしい。2007.5.31 15:42


s2007_0531_235601AA.jpg


夜中に一度起きたら、この窓にこの月。「月が打つ」という言葉がある。月はなんとなく怖い。


2007.5.31 23:56


口語訳 詩  121:5-6
121:5 主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。
121:6 昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。


 


スポンサーサイト
トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


神を信じない者に黄泉がある ++++++++ 所感

2007/05/30 10:00

070530(水)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。乙羽信子との不倫の関係。これはいただけない。どんなによい作品を作っても私生活が乱れていては何となく薄暗い●まてまて、建築家でも不倫人生を歩む人間がいる。しかしそういう人間の作品はなんとなくひっかかる。すっきりしない。真に良い作品とはいえない。霊魂の喜びがない。薄暗い。なぜか。悔い改めがないからだ●ラスキンは建築は神への捧げものだといった。清い生活から良い建築が生まれる●新藤兼人は次のように言う「私は宗教を信仰していない。したがって霊というものも信じていない。しかし何処からか、センセイ、と呼ばれそうな気がするのが、わたしの宗教かもしれない」。●情けない人生観、情けない宗教観よ●失敗の人生も可。その方がよいのだ。その方が神に喜ばれるのだ。しかし失敗を居直ってそれを正当化するところがいけないのだ。不倫を美化する態度がいけないのだ●黄泉(よみ)について勉強。今まで疑問に思っていたところが解けた。地平が広がった。次の聖日に話す内容が固まった。題名は「神を信じない者はどうなるのか・・・黄泉がある」●小寺利男さんが来訪拙著「信仰者藤林益三先生を追悼する」の製本が出来上がったのでお届けくださる。感謝。神の言葉は自然に広まる。これを運ぶ人がいて広まる真理を体験する。「黄泉」について懇談●妻は新宿から、上野へ。ウィーン世界合唱祭の練習。●津上、相澤両氏と「藤林益三記念講演会」のチラシの件でやり取り


s2007_0530_054124AA.jpg


東の窓を開ける。今日は曇りだ。大熊好子さんの言葉を思い出した。「曇りの日でも太陽はあるわ」。そうだ人生の曇りの日でも太陽は輝いているのだ。 2007.5.30 朝

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


政治で社会は良くならない ++++++++ 所感

2007/05/29 08:06

070529(火)4時50分起床●松岡農相自殺。白か黒か。気の毒だが次の聖書の言葉を思い出した。


口語訳 箴  28:1
28:1 悪しき者は追う人もないのに逃げる、正しい人はししのように勇ましい。


新共同 箴  28:1
28:1 神に逆らう者は追う者もないのに逃げる。神に従う人は若獅子のように自信がある。


●松岡農相が自殺に追い込んだのは松岡氏を妬むか恨んでいる人の仕業。イエスも人気が出てくると宗教家たちから妬まれた。


s2007_0529_221037AA.jpg


南の窓に月が見えた。ドビュッシーの「月の光」、ベートーヴぇンの「月光」。月は淋しい。太陽ではない。歓喜ではない。喜びではない。命ではない。亡くなった鈴木忠昭君の家も窓から月が見える設計であった。2007.5.29 22:10


トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


聖書の言葉を引用する者の孤独 ++++++++ 所感

2007/05/28 06:51

070528(月)3時半に目覚めてそのまま寝付けず●聖書の言葉を引用する人間は常に孤独である。その聖書の言葉を聞いた人は「自分のことを言われているのではないだろうか」「自分が責められているのではないだろうか」「ヤバイ」と誤解するのか、全く心当たりのない人や親しい人から私が嫌われる。クソッ。「こんな私に誰がした」。●預言者は常に孤独である。牧師伝道者は常に孤独である。「この世」から嫌われるからである。新約聖書はその孤独の悲しみのために書かれた。


塚本訳 マタ 5:10-12
5:10 ああ幸いだ、信仰のために迫害される人たち、天の国はその人たちのものとなるのだから。
5:11 わたしゆえに罵られたり、迫害されたり、あらん限りの根も葉もない悪口を言われたりする時、あなた達は幸いである。
5:12 小躍りして喜びなさい、褒美がどっさり天であなた達を待っているのだから。あなた達より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。


●世の中には「聖なる集まり」と「俗なる集まり」がある。聖なる集まりの代表的な言葉は次の通り。


新改訳 マタ 18:20
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」


新共同 マタ 18:20
18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」


塚本訳 マタ 18:20
18:20 二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」


●「俗なる集まり」にどっぷりの人は「聖なる集まり」の人間は「心が狭い」のでその集まりを窮屈と思う。ところがそれは次元の違いからくる見当違い。そのことをパウロは次のように言う。 


文語訳Ⅰコリ1:25
1:25 神の愚は人よりも智く、神の弱は人よりも強ければなり。


塚本訳Ⅰコリ1:25
1:25 というのは、神の(業はどんなに)馬鹿なこと(に見えても、それ)は人よりも知恵があり、神の(業はどんなに)無力(に見えても、それ)は人よりも力があるからである。


●こういう風に書くから「自分は俗なる集まりにいる」と思う人たちから敬遠されるのだ。嫌われるのだ。しかし私が言っているのではない。パウロが言っているのだ。聖書が言っているのだ。勝手に考えてくれ。「ご意見に任せる」。


s2007_0528_082021AA.jpg


労働出勤日、駅への道で奇麗な雲を映す。あー雲はきれいだなー2007.5.28


s2007_0528_082635AA.jpg


 出勤日、坂の途中にある妻の友人の家、花が好きな人だ。花が好きな人に悪い人はいない。2007.5.28

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


黄泉とは救いの場所 ++++++++ 所感

2007/05/27 06:25

070527(日)5時目覚め、5時15分起床●朝のひらめき。


●「この世的なるもの」との対決は自分がしっかりした信仰に立ち続けること。真理に従うこと。裁きは神ご自身がなさる。ほおっておけばよい。


口語訳 Ⅱコリ13:8
13:8 わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。


文語訳Ⅱコリ13:8
13:8 我らは眞理に逆ひて能力なく、眞理のためには能力あり。


塚本訳Ⅱコリ13:8
13:8 というのはわたし達は神の真理に逆らっては何も出来ないが、真理のためには何でも出来るからである。


●黄泉とは苦しいところだがそれは救いの場所、神の手の届くところ


塚本訳 ルカ 16:23
16:23 金持は黄泉で苦しみながら、(ふと)目をあげると、はるか向こうにアブラハムとその懐にいるラザロとが見えたので、


塚本訳  使  2:27
2:27 あなたはわたしの魂を黄泉に捨ておくことはなく、あなたの聖者(救世主)を朽ち果てさせることもないから。


塚本訳  使  2:31
2:31 これは救世主の復活のことであると前から知っていて、こう語ったのです、『彼は黄泉に捨ておかれもせず、』彼の肉体の『朽ち果てることもない』と。


●神は黄泉の苦しみから人間を救い出す。


塚本訳 ルカ 15:1-4
15:1 さて、イエスの話を聞こうとして、(いつものとおり)税金取りや罪人が皆近寄ってきた。
15:2 パリサイ人と聖書学者たちがぶつぶつ呟いて言った、「この人は罪人を歓迎するし、また(招かれていって)食事までも一しょにする。」
15:3 そこで彼らにつぎの譬を話された。
15:4 「あなた達のうちのだれかが羊を百匹持っていて、その一匹がいなくなったとき、その人は九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を、見つけ出すまではさがし歩くのではないだろうか。


●迷い出た羊が一匹で心細い状態が黄泉だ。崖の下に落ちて身動きできなかったのかもしれない。羊にとってそれは黄泉だ。


塚本訳  ルカ 15:11-16
15:11 また話された、「ある人に二人の息子があった。
15:12 『お父さん、財産の分け前を下さい』と弟が父に言った。父は身代を二人に分けてやった。
15:13 幾日もたたないうちに、弟は(分け前)全部をまとめて(金にかえ、)遠い国に行き、そこで放蕩に財産をまき散らした。
15:14 すべてを使いはたしたとき、その国にひどい飢饉があって、食べるにも困り果てた。
15:15 そこでその国のある人のところに行ってすがりつくと、畑にやって、豚を飼わせた。
15:16 彼はせめて豚の食う蝗豆で腹をふくらしたいと思ったが、(それすら)呉れようとする人はなかった。


●放蕩息子は父の家から家出して」異国で「食うに困った」。これが彼にとっては黄泉の苦しみだ。しかし神はその彼を赦して救う。●神を信じない者の苦難はそのまま「黄泉の苦しみ」だ。しかしそれは救いの場所、救いの時。


●集会は、茂木、小寺、横田●昼食会は7人。今度製本される「信仰者藤林益三先生を追悼する」の内容訂正要求が出たので修正することにした。●急いで帰宅して修正して小寺さんに宅急便で送る。製本寸前間一髪であった。




トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


死んだらどこに行くのか ++++++++ 所感

2007/05/26 08:30

070526(土)4時目覚め。寝床で黙想。朝にはこんこんとひらめきと聖句が浮かぶ。イエスは朝早く起きたという。夜遅くまで仕事をしていると朝によい発想が浮かばない。夜業や残業は時間の単なる延長にすぎない。清いよい発想は深夜には浮かばない。●プロテスタントは夜遅くまで議論するが、カトリックの修道院は19時就寝、3時起床と側聞する。マケソー。


口語訳 ルカ 4:42
4:42 夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。


新共同 ルカ 4:42
4:42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。


塚本訳 ルカ 4:42
4:42 朝になると、人のいない所に出て行かれた。人々は捜しまわった末イエスのところに来て、自分たちをはなれて行かれないようにと、しきりに引き留めた。


s2007_0526_051549AA.jpg


久しぶりの太陽。この太陽の光のような神は人間の罪であるねたみや恨みを焼き尽くしてくれる。そのエネルギーで吹き払ってくれる。 2007.5.26 5:15


●不信者の救いと黄泉について考える


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


●人間、死んだらどうなるか。どこへ行くのか。どうしたら安心立命を得られるか。これ人類の最大の疑問かつ課題。王も僕もみな死ぬ。この世的に偉い人も偉くない人も死ぬ時は同じ。死ぬときは全員裸。そこに差別はない。上下はない。物理的現象としては灰と骨と煙になる●でも「まだその先に何かありそうだ」と述懐したのは母がなくなったホスピスの担当医。彼はクリスチャンではない。年間100人以上をも看取る。●死んだあとのことは「行って見てきて報告した人」がない。●末期の肺がんで肩で息をして苦しんでいた母に、「天国へ行けば楽になる」と言ったら、「照男さん行って見てきたの?」と真剣な顔つきをして聞かれた。「聖書にそう書いてある」というと、「あんたは見ないものを信じて喜んでいる」と、苦笑した。返す言葉がなかった●来世のこと、永世のことで安心立命するには二つの方法がある。その第一は「知」である。第二は「靈」である。


「知による安心立命」の道・・・しかし効果がない


●まず第一の「知」による安心立命の道●来世の様子を仔細に知れば安心というものである。天国の様子、黄泉の様子、地獄の様子、そしてどうすれば黄泉や地獄ではなく一足飛びに天国に行けるか。その方法は?●この人間の究極の不安、地獄の苦しみの恐怖を救うために商売としての宗教が成り立つ。金を巻き上げる。カトリックの免罪符、水子地蔵、「坊主、見てきたような嘘を言い」という言葉がある。職業宗教家が生まれる。宗教を商売にする。職業にして飯のタネにする。誤り。●身内の死に遭遇した時の人間の嘆きは大きい。このとき「知」の慰めは効き目がない。二つの例を知っている。●まず第一、子供を失った母親の嘆き悲しみは大きく、誰からも慰められようとしない例。塚本先生がこの母親を慰めようとしてこれに失敗、反省した。


塚本訳 マタ 2:16-18
2:16 あとでヘロデは、博士たちに出し抜かれたことを知って非常に怒り、ベツレヘムをはじめ、その地方全体にいる男の子のうち、(前に)博士たちに確かめておいた時間で計算して、二歳以下の者を、一人のこらず殺させた。
2:17 その時、預言者エレミヤをもって言われた言葉が成就したのである。──
2:18 『声がラマに聞えた、──(ラケルの)』はげしい『わめきと、なげきの声である。ラケルはその子らのために泣くばかりで、慰められようとしない、子らがもういないので。』


●次は私の親友の死。彼は57歳の若さで急死した。一人息子であった。そのご母堂の嘆きは大きく。私に取りすがって慟哭された。御親戚からの慰めの電話にも首を横に振って出ようとはしなかった。


●「靈の臨在による安心立命」の道・・・これが真の安心立命


●病人ラザロが死んだとき、その兄弟マリヤとマルタの嘆きは大きかった。そのときマルタはイエスに言う。「最後の日の復活の時に生き返ることは、知っています」と。つまり終末の時の復活を頭で知っていても慰めにはならなかった。●このことは何を教えるか。死後どうなるかを深く聖書を調べてもそれは「知」の満足はできても霊魂の満足は得られない。●このときイエスはマルタに「私が復活だ、命だ」(エゴーエイミ)と霊の風を吹かせて、人格の臨在でせまった。


塚本訳ヨハ 11:23-25
11:23 イエスは言われる、「あなたの兄弟は生き返る。」
11:24 マルタが言う、「最後の日の復活の時に生き返ることは、知っています。」
11:25 イエスがマルタに言われた、「わたしが復活だ、命だ。(だから)私を信じている者は、死んでも生きている。


●この霊の人格の圧倒に打たれたマルタは言う。


塚本訳  ヨハ 11:27
11:27 イエスに言う、「はい、主よ、(信じます。)あなたが救世主で、神の子で、世に来るべき方であると、私は信じています。」


●マルタは靈の臨在で安心した。これが本当の安心立命の道


信じないで死んだ人はどうなるか。・・この悩みに安心立命の道はあるか


●問題は信じないで死んだ人のことである。それは我々の身内に大勢いる。それに今生きていても死ぬまでには信じそうない人、どんな苦難にあっても信じそうにない人も周囲にはたくさんいる。あの人たちは一体どうなってしまうのだろう。死んだら即地獄行きだろうか。あに親切な良い人も地獄行きなのだろうか●親が、また両親が熱心なクリスチャンでも子供はクリスチャンではない例がほとんど。子供がクリスチャンでも親兄弟がクリスチャンにはならない例がほとんど。こういう場合のクリスチャンの悩みは深い。「一体あの人たちはどうなってしまうのだろう」という疑問に陥る。悩みは深刻である。


ハデス=陰府、黄泉の存在は救い


●このようなとき、聖書でいう「黄泉」という存在を知ることは、「知」であるが、慰めと力になる。つまり信じないで死んだ人も「黄泉」の世界で神の導きと救いにあずかることができるのだ。●神を信じキリストの十字架による救いを生きているうちに与えられた人の霊魂は、死ぬと神の懐に安らうことができるが、信じないで死んだ人は黄泉に行って、そこでまた救いの機会を与えられる。これが聖書的、かつ「使徒信条」の伝えるところである。


 塚本訳 Ⅰペテ3:18-20
3:18 というのはキリスト(御自身)すら罪の(贖いの)ために、義しい人でありながら義しからぬ人々のために、ただ一度死に給うたのである。これは君達を神に連れ行くためで、彼は肉では殺され給うたが、霊では活かされ、
3:19 且つ霊で行って、(陰府の)獄に閉じ込められていた(悪)霊達に(救いの福音を)宣べ給うた。
3:20 彼らはかつてノアの日に、箱船が造られる間神が寛容をもって(悔い改めを)待ち給うた時不従順で、(ただ)小数の者、すなわち(ノアとその家族)八人(だけ)がこの箱船に入り水を通って救われた。


 使徒信条(賛美歌566所載)・・・中間部分・・・


主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)ナリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、


●陰府(よみ)とは旧約聖書に68回、新約聖書に10回(いずれも新共同訳)出てくるので、キリスト信者としてはなじみ深い言葉。神を信じないで死んだ者が終末の時まで居るところ。いわば卒業保留状態。落第としての地獄ではない。中間状態。●これ単に人間の願望が作り出した教理ではなさそうである。なぜか。イエス自身の死生観に黄泉がある。●しかしその黄泉というところは苦しいところらしい。しかしどんなに苦しくても神の目の届く範囲にあるらしい。


塚本訳ルカ16:23-24


"421623","金持は黄泉で苦しみながら、(ふと)目をあげると、はるか向こうにアブラハム
とその懐にいるラザロとが見えたので、"
"421624","声をあげて言った、『父アブラハムよ、どうかわたしをあわれと思ってラザロを
よこし、指先を水にひたしてわたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの焔の中でも
だえ苦しんでおります。』"



●神はその黄泉にいる人へも救いの手を伸べるというのがキリスト教の思想。教理。生きているうちに不幸にも福音を信ずるに至らなかった人にもチャンスがある。追試である。卒業の保留である。●99匹の健常な羊を残してでも迷い出た一匹を救う神、健康な者には医者はいらない、病人(罪人)を救いに来たという神。そういう父なる神は陰府にいる人間を救う。●否、地獄に行った人間をも救う。神は地獄の三丁目にまで追いかけて行く。それがキリスト教の父なる神だ。絶対恩恵の無条件の罪の赦しを実行する愛の神だ。●死んでも救われるチャンスはある。救いにラストチャンスというものはない。救いのチャンスはこの世でもあの世でもエンドレスだ●万人救済説と予定説は矛盾しない。聖書はそのどちらか一方の薄っぺらな思想ではない。生きておられる神である。人格神である。●三年前に亡くなった母はキリスト教の神を信じなかった。今頃あるいは陰府にいるのかもしれない。しかしそこで神に導かれて救いを受け入れるかもしれない。否、そこでも救いを受け入れなくて、たとえ地獄に落ちたとしても神はそこへも追いかけて行ってくださると信じる


神は黄泉の苦しみから人間を救い出す。




塚本訳  使  2:27
2:27 あなたはわたしの魂を黄泉に捨ておくことはなく、あなたの聖者(救世主)を朽ち果てさせることもないから。


 


塚本訳  使  2:31
2:31 これは救世主の復活のことであると前から知っていて、こう語ったのです、『彼は黄泉に捨ておかれもせず、』彼の肉体の『朽ち果てることもない』と。




 





塚本訳 ルカ 15:1-4
15:1
さて、イエスの話を聞こうとして、(いつものとおり)税金取りや罪人が皆近寄ってきた。
15:2
パリサイ人と聖書学者たちがぶつぶつ呟いて言った、「この人は罪人を歓迎するし、また(招かれていって)食事までも一しょにする。」
15:3
そこで彼らにつぎの譬を話された。
15:4
「あなた達のうちのだれかが羊を百匹持っていて、その一匹がいなくなったとき、その人は九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を、見つけ出すまではさがし歩くのではないだろうか。


迷い出た羊が一匹で心細い状態が黄泉だ。崖の下に落ちて身動きできなかったのかもしれない。羊にとってそれは黄泉だ。


塚本訳  ルカ 15:11-16
15:11
また話された、「ある人に二人の息子があった。
15:12
『お父さん、財産の分け前を下さい』と弟が父に言った。父は身代を二人に分けてやった。
15:13
幾日もたたないうちに、弟は(分け前)全部をまとめて(金にかえ、)遠い国に行き、そこで放蕩に財産をまき散らした。
15:14
すべてを使いはたしたとき、その国にひどい飢饉があって、食べるにも困り果てた。
15:15
そこでその国のある人のところに行ってすがりつくと、畑にやって、豚を飼わせた。
15:16
彼はせめて豚の食う蝗豆で腹をふくらしたいと思ったが、(それすら)呉れようとする人はなかった。


放蕩息子は父の家から家出して」異国で「食うに困った」。これが彼にとっては黄泉の苦しみだ。しかし神はその彼を赦して救う。神を信じない者の苦難はそのまま「黄泉の苦しみ」だ。しかしそれは救いの場所、救いの時。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




●妻は故郷いわき市の学校の同期会が東京八重洲であるので出かける。その後ウィーン世界合唱祭の練習、その後メサイアの練習●7月16日「藤林益三記念講演会」の準備。●某氏にメール。頭脳と心霊的疲労。霊魂の重荷を負うとはこのことか●「信仰者藤林益三先生を追悼する」にまたミスプリ。ミスは無限に出てくる●図書館でCD●電話、小寺利男、津上毅一、新一、恵●無教会主義集会は「会」ではなく一回ごとに解散の理念をもたなければならない。それが風通しがよい集会であることの原因となる●「会」となると規則や代表ができて、この世的になる。無教会集会は組織になったら教会主義と同じ。無教会主義集会は「主の集まり」。「祈りの集まり」。


 


 


 




 

トラックバック(1) | コメント(0) | top▲


悩む時の聖書の慰め ++++++++ 所感

2007/05/25 06:17

070525(金)目覚め。朝のひらめき。聖書3か所。


ひらめきの第一


塚本訳ルカ 9:60
9:60 その人に言われた、「死んだ者の葬式は死んだ者にまかせ、あなたは行って神の国を伝えなさい。」


口語訳 ルカ 9:60
9:60 彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。


●「死んだ者の葬式」のやり方を批判するのは「死んだ者」と同一レベルに身を置くこと。一歩もこの世から出ていないことになる。


●口語訳の「出て行って」は意味が深い。不信仰の仲間からは「出ていく」ことが正道。離れることが正道。


●「神の国を伝える」「神の国を告げ広める」。これがやるべきこと。政治を論じない。教育を論じない。環境を論じない。建築を論じない。・・これらは「死んだ者の葬式」、「その死人を葬ること」である。そういうことは「死人に任せておくがよい」


●ではどこへ行けばよいのか。ルターは信仰上の問題でウォルムスの国会審問に呼び出される前に気の毒な病人を見舞ったと言われる。


TSK


Luke 15:32:
しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。


Ephesians 2:1:
さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、


Ephesians 2:5:
罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――


I Timothy 5:6:
これに反して、みだらな生活をしているやもめは、生けるしかばねにすぎない。


Revelation of John 3:1:
サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。


I Corinthians 9:16:
わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。


II Corinthians 5:16:
それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。


II Timothy 2:3:
キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。


II Timothy 2:4:
兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。


II Timothy 4:2:
御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。


II Timothy 4:5:
しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。


ひらめきの第二 


口語訳 Ⅱテモ2:9
2:9 この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。


塚本訳 Ⅱテモ2:9
2:9 私はこの(福音の)ため罪人として縛られるまでに苦しみを受けているが、神の言は縛られてはいない。


●これボンへッファーが苦難の時(多分収監)に慰められた言葉


●福音はこの世の習慣、規則、常識、秩序、支配、体制、組織、長幼の礼、法律、などのしがらみを突き破って光を放つ。


●使徒たちは「打たれても、打たれても」議会の言うことを聴かずに福音を広めた。捕まって鞭打たれて釈放されてもまたすぐ福音を広めた。そこが面白い。それは次のとおり。


塚本訳使  5:38-42
5:38 だから今のところ、わたしは諸君に言う。あの人たちから手を引いて、(そっと)放っておきなさい。それは、もしあの企てやすることが人間(の考え)から出たものならば、(手を下すまでもなくひとりでに)ほろびるであろうし、
5:39 神から出たものなら、(どんなにしても)彼らをほろぼすことは出来ないのだから。そうでないと、諸君は神に手向かう者にならぬとはかぎらない。」そこで彼らはその勧告に従って、
5:40 使徒たちを呼びいれて(鞭で)打ち、(今後決して)イエスの名を使って話をしてはならないと命令して、釈放した。
5:41 さて、彼らは御名のために恥を受けるに足る者とされたことを喜びながら、法院から出ていった。
5:42 そして毎日、宮や家々で教えること、すなわち救世主イエスの福音を伝えることを、やめなかった。


ひらめきの第三。


塚本訳  ルカ 9:26
9:26 (わたしを信ずると言いながら、)わたしとわたしの福音(を告白すること)とを恥じる者があれば、人の子(わたし)も、自分と父上と聖なる天使たちとの栄光に包まれて(ふたたび地上に)来る時、そんな(臆病)者を(弟子と認めることを)恥じるであろう。


●この世のしがらみや、規則や、常識や、法律を恐れて福音を公言することを辞める者、躊躇する者は神の恥。天罰必至。


●人生の様々な苦難の極限の時には聖書が慰めになる。力になる。新約聖書がそれ。ローマの殉教者ヴィクトリアは実兄から「キリストへの帰依をやめて父母に孝養を尽くしなさい」と説得された時に次のように言い放った。「我が主は我よりも父母を愛する者は我にふさわしからずと言われました」と。これ聖書の言葉である。ヴィクトリアはこの極限状態のときに聖書の言葉に励まされて、信仰を固くして殉教した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


●「割礼なき女」という言葉がある。こういう女性には「何を言ってもわからない」「何を言っても通じない」「かたくなな心」の持ち主である。こういう女性には立ち向かうな、離れよ。●これ「割礼なき男」にも同じことが言える。


口語訳 士  14:3
14:3 父母は言った、「あなたが行って、割礼をうけないペリシテびとのうちから妻を迎えようとするのは、身内の娘たちのうちに、あるいはわたしたちのすべての民のうちに女がないためなのですか」。しかしサムソンは父に言った、「彼女をわたしにめとってください。彼女はわたしの心にかないますから」。


●午後は早退。●ピアノ調律に田岡雄民氏が茨城県から来訪。夕食を摂りながら、聖書の話、家庭問題、今井館こども会の内容、祈りは聞かれるという話など尽きず。「主にある交わりは楽し」●今井館こども会には多く集まると聞き、無教会の「希望」であると感じた。


s2007_0525_184908AA.jpg


田岡雄民氏が来訪。ピアノ調律。その後、聖書の話、家庭の話、今井館こども会の話、祈りは聞かれるという話。「主にある交わりは楽し」。今井館こども会には子供たちが多く集まるという。無教会の「希望」だと感じた。2007.5.25


 


 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


藤林益三先生告別式 ++++++++ 所感

2007/05/24 21:45

070524(木)13:00東京青山葬儀所で故藤林益三先生告別式。純キリスト教式でなかったので,何人かの方々から別にやるようにと希望が出た。


 


s2007_0524_120329AA.jpg


さようなら藤林先生。長い間お世話になりました。復活の朝にまた「御目もじいただける日まで」


2007.5.24 東京青山葬儀所


 


s2007_0524_144130AA.jpg


東京聖書読者会の人たちなど。 2007.5.24 東京青山葬儀所。このあと近くのファミレスで懇親会。


●電話。高木謙次、長島信子、●相澤忠一氏と藤林益三記念講演会のことFAXやりとり

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


闇の苦しみに光 ++++++++ 所感

2007/05/23 06:55

070523(水)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。乙羽信子が大映を出るときの永田社長の言葉が印象的。「君には金をかけている。出るならそれを支払ってくれ。しかしわかった」と言って契約書を破る。・・・・言いたいことを言ってから「わかった」と言って相手を赦す態度は、大物である●昨日から持病の「尿路結石」の痛み。朝一番で立川病院に行く。あーこの肉体は「土の器」だ。故障が多い●しかし人間にとって最高の苦しみは肉体の苦痛ではない。霊魂の苦悶である。それは小さい時に押入れに入れられて真っ暗で泣いたときの苦しみに似ている●世界史もその暗黒のときに光がさす。


新共同 マタ 4:16
4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」


塚本訳 マタ 4:16
4:16 暗闇に住まう(これらの地方の)民は大いなる光を見、死の陰の地に住まうこの人々に光がのぼった、』


●立川病院。レントゲンを撮って診断。結石はない。私「それでは何で痛いのですか?」。医師{わからない」。この医師は正直である。信用がおける●しかしとにかく痛みがひいて一安心●キリスト教の牧師や伝道者も、わからないことはわからないと言わなければならない●なぜ2000年前に流されたイエスの血がこの今の私の罪を購うことができるのか。これ千古の謎。合理的な説明はできない。今に働く聖霊の力と言えばそうであるが、それは理性に対する説明にはならない。それは体験しなければならないことだから●ローマ帝国は性の紊乱で人口減、それでローマは滅んだ。そういう暗黒の時に一陣のさわやかな風、清く明るい光が差し込んだ。それが福音。初代キリスト教。●夫婦不和、家庭崩壊の原因は性の紊乱。不倫。●某家庭。悩む母親の言葉。「息子は私たち親を見ていると結婚する気にならないと言います」。それもそのはず、夫の不倫で夫婦仲が悪い。それだから息子は家庭の喜びというものを感じない。だから結婚する気になれない。かくて婚期が遅れて少子化。それで人口減。●今や日本はローマ帝国がたどった道を歩んでいる。行く先は国家の崩壊●千葉真氏と電話懇談。若い者に無教会としての「受け皿機関」を設けなければならない問題●妻と「信仰者藤林益三先生を追悼する」の冊子化準備。紙おり。二人でする仕事は半減でなく三分の一という感じ


s2007_0523_174653AA.jpg


 前田公園で少女たちがボール遊び(バレーボール)をしていた。いまどき、こういう光景は珍しい。私の小さい頃はこのようにみんなで外で遊ぶのが普通であったのだが。  2007.5.23


●20:00 八王子から小寺利男さんが「信仰者藤林益三を追悼する」を製本してくださるというので、その資料を取りにこられた。話は信仰の話になり、21:40まで。「わが名によりて2-3人集まるところに我もおるなり」で楽し。


 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


妻を駅に迎えに行く ++++++++ 所感

2007/05/22 21:43

070522(火)6時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。だれでも下積みの時代は大切。●建築の場合はまず現場、次に積算、次に設計、次に企画という順序を踏むべきである●「信仰者、藤林益三先生を追悼する」の製本準備●妻は小寺七重さんと青木満里子さんを見舞い。松戸の有料老人ホーム」●妻を駅まで迎えに行くときの景色


s2007_0522_183646AA.jpg


春の宵。奥多摩連山を望む。 2007.5.22 これから駅に妻を迎えに行く途中。2007.5.22


 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


どうしても合わない人 ++++++++ 所感

2007/05/21 16:58

070521(月)6時起床●日経「私の履歴書」は監督・脚本家の新藤兼人。「愛妻物語」に起用した女優の乙羽信子が先に亡くなった孝子とそっくり。あー人生は不思議だ。これも神の慰めか。●人生の悲しみは、愛する者との死別、不治の病、貧困(これはまじめに働いていれば何とかなってくる)、・・・・しかしこれはすべて地上の不足、決定的な悲しみではない。●決定的な悲しみは神との断絶。神と心が通じないこと●ハデス(よみ)についての論考を読む


s2007_0521_082653AA.jpg


出勤途中、今日はよい天気だ。東秋留高校の生徒とすれ違う。心がひどく荒廃している。とてもこういう生徒の教師にはなれない。脳内出血になる。でも中には一握りの真面目で神を求める人がいるのかもしれない。     2007.5.21


●人生にはどうしても一緒にやっていけない人にぶつかる時がある。どんなに努力しても合わない人がいる。相性の悪い人がいる。●これ人生苦のうちで最も辛いものの一つである。●そういう時は無理をしないで「自然、自然」で相手を「赦す」という気持ちで付き合えば楽に過ごせる。●相手を攻撃撲滅しようとしたり、改造してやろうなどという気を起こしてはいけない●心から赦すことができなければ「人間は複雑系だ」と思えばよい。これ自分の反省●しかし神はその苦難からいつの日か逃れさせてくれるものだ。その日まで「じっと」我慢だ。●塚本訳聖書には「じっと」という訳語が16回もでてくる。独特●夕食時に、妻から市内の知人数人に音楽会チケットを売りに行った話を聞いて面白かった。7年前に焼失した家の付近はすっかり変わっていたという。


 

トラックバック(0) | コメント(1) | top▲


今井館理事会 ++++++++ 所感

2007/05/20 22:48


070520(日)5時起床。NHKTV3ch[こころの時代」太田愛人牧師のパウロの解説。さすがにこなしている●集会は宮崎トキ、村上賢二、望月明●杉崎孝さんからご注意を受ける●今井館理事会●終了後、津上毅一元理事長、相澤忠一理事長、高橋照男の三人で藤林益三記念講演会の打ち合わせ。


s2007_0520_055019AA.jpg


今井館理事会、左から高橋照男、津上毅一、相澤忠一 2007.5.20 今井館


●無教会は何事もスッと決まるからありがたい。アッという間に決まる●電話、清水望、加藤辰巳、

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


秩序を守るのは隷属でなく愛 ++++++++ 所感

2007/05/19 06:44

070519(土)5時起床。目覚めすっきり。眠りは長さでなく深さ。●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。敗戦のごたごたでも本人の才能は徐々に出てくる。これを頭角を現し始めるという。人間の天から与えられた才能は、社会的ごたごたや誤った指導で一時的には埋もれていてもいつかは現われてくる。そんなに努力しなくても次第に自然に現れてくるものだ。●聖書的には次のうようだ。


塚本訳 マタ 5:14-15
5:14 あなた達は世の光である。山の上にある町は隠れていることは出来ない。
5:15 また、(せっかく)明りをともして枡をかぶせる者はない。かならず燭台の上に置く。すると、家の中におる人を皆照らすのである。


●この世に生きている間は、秩序を守るという不自由さを覚悟しなければならない。公立学校では秩序維持のために「日の丸掲揚、君が代斉唱」を義務付ける。秩序への忠誠の証である。秩序の維持を要求する人間にはそれなりの理由があるのだ。●それがいやな場合はそういうことをやらない私立の学校に入るべきだ。●企業に勤めたからにはその企業の規則や方針に従うべきだ。酒屋の店先で禁酒運動の演説をしてはいけない。ましてや酒屋の店員になって禁酒運動はしてはいけない●このことは聖書的には次の通りである。


塚本訳 ロマ 13:1-7
13:1 人は皆上に立つ(国家の)官憲に服従せねばならない。神からではない官憲はなく、現存の官憲は(ことごとく)神から任命されたものであるから。
13:2 従って官憲に反抗する者は、神の命令に違反する者である。違反する者は、自分で自分に(神の)裁きを招くであろう。(この世で罰を受けるばかりでなく、最後の日にも。)
13:3 役人が恐ろしいのは、善いことをする者でなく、悪いことをする者である。(だから)あなたは官憲を恐れたくなければ、善いことをせよ。そうすれば官憲から誉められる。
13:4 官憲はあなたの最善のためにつくす神の召使であるから。しかしもし悪事をすれば、恐れねばならない。見えのために剣をささげているのではないのだから。官憲は神の召使で、悪事を行う者に対して(神の)怒りをあらわす復讐者である。
13:5 だからかならず服従せねばならない。ただ怒りの(恐ろしさの)ためだけでなく、(それが信ずる者の義務であることを知っているあなた達は、自分の)良心のためにも。
13:6 それゆえに(同じ理由で、)あなた達は貢をも納めねばならない。官憲は神につかえる者であり、いま言った職務に全力をそそいでいるからである。
13:7 (彼らに対して、信ずる者には普通の人以上の、言わば借りがある。)すべての役人にこの借りを返しなさい。貢取りには貢を、官税取りには官税を、恐るべき者には恐れを、尊敬すべき者には尊敬を。


●そしてパウロは決定的に言う。


塚本訳 ロマ 13:8
13:8 (官憲ばかりでなく、)だれにも何も、借りがあってはならない。ただし、互に愛することだけは例外である。(この借りは、いつまでも返してしまわないように。)人を愛する者は(モーセ)律法を完全に果たしたのである


●つまりこうだ。各人には立場というものがあるのだ。だから相手の置かれている立場ということを思いやらなければならない●これは国家問題、勤務先問題、家庭問題、夫婦の問題、親子の問題、すべてに言えること。秩序は必要。秩序を作って守らせる人間の立場も関げてやるのがこの世に生きるクリスチャンの姿勢だ。●秩序を守るのは隷属ではなく相手の立場への愛●しかし抵抗するのが「愛」ということもあるが、それは大抵エゴ。●自分の慾が秩序を無視し破壊する。それはよく金銭問題において露呈する。個人の欲望は、国家財政、企業財政、家庭経済の秩序を虔千面で破壊する。●内村鑑三の離婚は家庭内経済のトラブルが原因。お金がなくなったことが原因。●だから人間は一切をすててかからなければこの世を平安には生きていけないものだ。聖書的には次の通りだ。


口語訳 ルカ 12:15
12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。


新改訳 ルカ 12:15
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」


新共同 ルカ 12:15
12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」


塚本訳 ルカ 12:15
12:15 人々に言われた、「一切の貪欲に注意し、用心せよ。いかに物があり余っていても、財産は命の足しにはならないのだから。」


●千葉真氏と電話長懇談。無教会若者難民、無教会者の葬儀の困難さについて、現代無教会に対する問題意識で意見が一致。一度話し合いたいと双方が希望●精神的病気で、どんなにひねくれ、いびつに、かたわに育ってしまったとしても、神の霊によって生まれなおせば清く正しくなれる。これ人生の「希望」である。こういう難しい病は人間の医者ではなかなか直せない。その道の権威も「自然治癒」を待つのがその処方。●13:30新一と婚約者の佐々木衣純さんが来訪。結婚式の計画の報告を受ける。新一の小さい頃のアルバム写真を見てみんなで大笑い。時代は変わる。世代は移る。妻と共に二人の姿が見えなくなるまで見送った。



 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


女性の品格とは ++++++++ 所感

2007/05/18 11:30

070518(金)5時15分起床●朝風呂で日経。私が講師で勤務している昭和女子大学の学長(坂東真理子)が「女性の品格」という本を著したところこれが45万部のベストセラー。広告には女性の踏み行うべき作法、態度がズラーッと並べてある。具体的でわかりやすいので売れるのだろう。律法はわかりやすい。この種の本は買わないで図書館で借りた方がよい。●品格について聖書的にはどうかを考えた。


塚本訳ロマ13:8-10


"451308","ローマ 13:8","(官憲ばかりでなく、)だれにも何も、借りがあってはならない。
ただし、互にすることだけは例外である。(この借りは、いつまでも返してしまわない
ように。)人をする者は(モーセ)律法を完全に果たしたのである。"
"451309","ローマ 13:9","なぜなら、“姦淫をしてはならない、殺してはならない、盗んで
はならない、(人のものを)欲しがってはならない”など、このほかにどんな掟があって
も、“隣の人を自分のようにせよ”というこの一言に帰するからである。"
"451310","ローマ 13:10","は隣の人に悪事を働かない。だから律法の完成である。"


塚本訳1コリ8:1-3


"460801","・コリント 8:1","また、(あなた達が書いている)偶像に供えた肉(を食べるこ
との善し悪し)については、(なるほど)「わたし達は皆知識を持っている」ことを、わた
し達は知っている。(しかし)知識は(人を)得意にするが、は(人を)高める。"
"460802","・コリント 8:2","もしある人が(がなくて)何か知っていると思うならば、
彼は知らねばならぬようにはまだ知っていないのである。"
"460803","・コリント 8:3","しかしもしある人が(があって)神をするならば、その
人は(神を知っているのである。いや、)神に知られ(、選ばれ)ているのである。(まこ
との知識は神をする者に神から与えられる。)"


●女性に限らず「人間の品格とは?」と問われればそれは簡単。「愛」。しかしこの「愛」は人間からは出ない。道徳でも出ない。家庭の躾でも出ない。ヒューマニズムでも出ない。毛並みの良さからでも出ない。血筋からでも出ない。訓練からでも出ない。思想でも出ない。啓蒙運動でもでない。教育からでも出ない。努力でも出ない。単なる親切、やさしい心ではない。要するに人間からは出ない。つまり地上からは出ない。真の愛は神から流れ出る。それは「祈り」から出る。霊の命から出る。その勢いに人間は流されて「真の愛の人」になれる。こういう愛が人間の本当の品格だ。●親がダメでも子供はまともに育つ。ただし神の霊によって生まれ変わったらの話。そうでなければやはり親の血をひいて性質が悪いのが普通。


塚本訳  ヨハ 1:12-13
1:12 しかし受け入れた人々、すなわち、その名を(神の子であることを)信じた人には一人のこらず、神の子となる資格をお授けになった。
1:13 この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神(の力)によって生まれたのである


塚本訳 ヨハ 3:5-8
3:5 イエスは答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、人は霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。
3:6 肉によって生まれたものは肉であり、霊によって生まれたものだけが霊である(から)。
3:7 『あなた達は新しく生まれなおさねばならない』と言ったからとて、すこしも不思議がることはない。
3:8 風[プニューマ]は心のままに吹く。その音は聞えるが、どこから来てどこに行くか、あなたは知らない。霊[プニューマ]によって生れる者も皆、そのとおりである。」


 


 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


決然と顔を固く向けるとき ++++++++ 所感

2007/05/17 20:20

070516(木)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。終戦。「これで生きられる」と思ったという。本音だろう●手紙二通書いて、ポスト6時半に間に合うように自転車を飛ばす●小寺利男さんが、「信仰者、藤林益三先生を追悼する」を製本してくださるという申し出に甘えて、原稿作成。ページ揃えがなかない頭が必要●イエスは最後の時が迫ったと知ると顔を固くエルサレムに向けた。その決意に打たれる。私もあと18年。死が迫ってくる。


塚本訳 ルカ 9:51
9:51 イエスは(いよいよ)昇天の日が迫ったので、決然としてその顔をエルサレムへ向けて進み、


●人間、決然と顔を固くまっすぐに向ける時が来るものだ。その時は何もかも振り払って進むのだ。決死隊、特攻隊の気分で生きなければならないのだ。●私の場合は、「使徒伝承」という爆弾を抱えての神風特攻隊だ。●妻は「ウィーン合唱祭」のための練習で出かける●20:30八王子在住の小寺利男さんが「製本」の打ち合わせに来てくださる。セミプロのアドバイスを頂く。懇親懇談22:30まで。こういうとき車は便利。15分で帰れると言われる。

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


日本には贖罪の概念がある。 ++++++++ 所感

2007/05/16 08:09

070516(水)4時45分起床●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。軍隊で理不尽な理由で棒で尻を殴られる。この殴った人たちは戦後どこでどう生きてきたのだろう。罪の自覚はなかったのだろうか●過日、日本には「贖罪」という概念があることを知ってうれしかった。そこに救いの燭光が見えたからである●「贖罪」を広辞苑にあたると、「体刑に服する代わりに、財物を差し出して罪過を許されること。」とある。グッドである。これは聖書的には次のようである。


塚本訳 マタ 20:28
20:28 人の子(わたし)が来たのも仕えさせるためではない。仕えるため、多くの人のあがない金としてその命を与えるためである。」


新改訳 マタ 20:28
20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」


 ●問題は、自己が購われるべき人間であるという自覚をいかにしてもつかである。それは普通道徳、普通教育、現在の公的義務教育、唯物教育、ヒューマニズム、人間教育ではその「罪の自覚」に到れない。●神の光が差し込むときに初めて自己の罪の醜い姿におののく、懊悩する。そのとき死に物狂いで「救いを求める」なりふり構わず「楽になりたい」道を欲する●だからそういう苦しみがあるということは救いが準備されている証拠。神の針にひっかかった証拠●なぜか、その罪の自覚の懊悩は本当に苦しいものであるから、救いの受け皿が用意されてないときにその深い懊悩はおとずれない。(これ神学的思考)なぜか、それはあまりに残酷な苦しみだからである。●「罪の自覚」はキリスト教のエクレシアに接しないと怒らない。●私が高校生の時に教会に行くようになって「罪」ということを知った●日本にキリスト教が浸透しない真の原因は、信者になると「酒タバコ」をやめなければならないというバリヤーを感じてしまうこともあるがこれは二次的な問題●真のバリヤーは自分の罪が露呈するので「ヤバイ」と思う感情である。●しかし真に「救いを求める」人は、各種バリヤーを乗り越える。攻撃的に求めるようになる。聖書はそのことを次のように言う。


塚本訳 ルカ 16:16
16:16 (あなた達は聖書を誇るが、時代はもう変っている。)律法と預言書と([聖書]の時代)は(洗礼者)ヨハネ(の現われる時)までで、その時以来神の国の福音は伝えられ、だれもかれも暴力で攻め入っている。


塚本訳マコ 1:45
1:45 しかしその人は出てゆくと、(宮には行かず、)しきりにこの出来事を言いふらし、ふれまわったので、イエスはもはや公然と町に入ることが出来ず、(町の)外の人のいない所におられた。人々が四方から、イエスの所にあつまって来た


塚本訳ヨハ 12:19
12:19 そこでパリサイ人が互に言った、「見ろ、何もかもだめだ。世界中があんなに、あの男のあとについて行ってしまった。


●妻は今井館ウィークデーの集いに出かけた


s2007_0515_165042AA.jpg


 今朝の日の出。ずいぶん北になった。来月は夏至 2007.5.15


s2007_0515_215040AA.jpg


あきる野市の中央図書館が完成。岡田新一の設計


2007.5.16


s2007_0516_024757AA.jpg


家の石楠花(しゃくなげ)。妻の説明ではこれは西洋石楠花。 2007.5.16


●武藤忠明氏、相澤忠一氏、高木謙治氏と電話

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


「イエスという人」の読後感 ++++++++ 所感

2007/05/15 18:38

070515(火)5時起床●某氏から「○○氏は復活を信じていない人ですから、その著書を読む気にはなれません」という激しいメール●山下次郎著「イエスという人」の読後感を執筆して、著者に郵送した。内容は福音の伝承のために全く公的なことなので、公開する。一部省略。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


山下次郎先生


 


 このたびは「イエスという人」をご恵贈くださり衷心より御礼申し上げます。常に持ち歩き、全432ページを一気に読ませていただきました。


御礼の読後感を書かせていただきます。前半は感銘を受けたこと。後半はプロテスタンティズム、特に無教会の宿命的弱点を書かせていただきます。


まず感銘を受けたこと3点


1・塚本虎二訳を金科玉条とせずに、御自身の深い御研究に基づいてこれを批判的に読んでおられることは新鮮でした。こういう読み方こそ塚本先生がお喜びになられることであろうと思います。


例:P297下左7 塚本訳は少数派という指摘


2・P296下~297上の叙述、「ある」と「なる」はいわゆる「福音派」と「社会派」を仲裁するものです。


3・P386最終章「第12回(章)」はシンフォニーのフィナーレを聴くようで圧巻です。ここには実に「古典的プロテスタンティズム」(山下先生がやや冷たく扱っておられる言葉)が濃厚でほっとしました。


さて以下に、胸襟を開いて山下理論を批判させていただきます。結論を先に申し上げますと、これはキリスト教宗教哲学(八木誠一に酷似)であって、有体的復活の「使徒伝承」ではないという感じが致します。これでは人は救われないというのが私の正直な感想です。その理由は以下のとおりです。山下哲学は「救いは向こうからやってくる絶対者との出会い」というテーゼですが、それでは一体どのような絶対者がやってくるのか、それが問題であり、プロテスタンティズム特に無教会主義の最大の弱点です。このことはかって塚本先生と無教会論争をした岩下壮一神父の言葉を思い出します。「(無教会主義が真理ならば)鰯の頭も信心からということになる」と。わたしはこれを読んだとき、ではカトリックが絶対かというようには受け取ることはできませんでした。この辺が宗教全般の弱みでもありますが、一人一教会を尖鋭的に標榜する無教会の最大の弱点であります。


この谷間から抜け出せるのは「有体的復活の使徒伝承」以外に絶対にないと解します。第一にヨハネ福音書の21章がそういう混沌から抜け出すべきことを感じて使徒ペテロに基盤を置こうという方針を打ちだしているのだと解します。山下先生は復活体験をパウロの体験と同定しておられ、それは「視覚に関係する出来事」(P412下右3)であるといわれますが、同感です。それは歴史的にショッキングなこと(P409下左2)だったのだと私も思います。ただしそれは特定の人にだけ霊眼で見えることでもあったことは新約聖書に何箇所も根拠があります。イエスの復活顕現は人様々で、パウロへの顕現もワンノブゼムであって、パウロ体験が復活だと同定されるのは誤りと思います。復活権限はいわゆる「複雑系」であります。最低500種類はあるということかもしれません(1コリ156)。山下理論である「絶対者との出会い」からすればパウロの体験はまさに「向こうからやってくる絶対者との出会い」なのですが、このとき若い人は言います。「私には来ないのですが」と。「顕れてくれないのですが」と。これで伝道は行き詰ります。現に今の若い人は「教会(無教会)難民」です。特に無教会は地盤沈下もはなはだしくあります。しかし古典的キリスト教は「有体的復活の使徒伝承」であって、それはこちらから出かけて行って「気の毒な人に」「かわいそうな人に」「求めている人に」伝承を発信することだと解します。その意味で山下先生の本書全体は、福音の使徒伝承を山下流によって全力投球で「発信」されておられるのだと思わされ、ここに深く感謝申し上げます。ありがとうございました。)(中略)


山下先生におかれましてはなお主のための「御用」が祝されますようにお祈りいたします。 


                2007.5.15  高橋照男


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




●福島の孫の写真が送られてきたので妻と見て歓声をあげる。下は三輪車、上は二輪車に乗れるようになった。●雹が降る●図書館で「マジック」の本を沢山借りて、妻を相手にリハーサル。孫の前でやるのが本番。4種類やって全部見破られなかったので成功。●14:00 「祈りの友」会員の星野利男さんを妻と共にお見舞い訪問。星野さんは晩年に失明、全盲で84歳。「祈りの友」4月号の中の中川正子さん召天記を朗読。その後藤林益三先生の召天を報告。その私の「追悼の辞」(4月27日の日記。およびHPの使徒伝承に掲載)の内容を口頭で説明、最後に讃美歌355番を三人で歌って祈った。讃美歌355番は来世を待ち望む歌。星野さんは点字で一緒に歌われた。目を赤くされておられたが、涙は落とされなかった。もう涙も枯れ果てたのではないかと思って胸がつぶれた。●帰途は妻と春のあきる野を武蔵増戸まで歩いた。



s2007_0515_020455AA.jpg



 妻と星野利男さんの家にお見舞いに伺う時に出会ったバラ。 2007.5.15


s2007_0515_035039AA.jpg


妻と星野利男さんをお見舞いした帰りは春のあきる野を散策。新緑の秋川。妻に「夏になったら孫を連れてバーベキューをやりたい」と言った。 2007.5.15


s2007_0515_035515AA.jpg


春のあきる野を散策中、妻が「この石楠花は色がきれい」と言ったので撮影してもらった。


2007.5.15


s2007_0515_050008AA.jpg


あきる野市庁舎屋上から、八王子方面を望む。左から杏林大学、七曲りの坂。2007.5.15


s2007_0515_050038AA.jpg


あきる野市庁舎屋上より、夕暮近い山々を望む。都民の森方面。墨絵のようだなー。2007.5.15


 


 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


わが為に泣くな ++++++++ 所感

2007/05/14 06:44

070514(月)●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。夫人の孝子さんが、結核のために喀血。すると「わたしのことは心配しないで。あの朝顔が咲くころには治るわ」と言いつつ、「お世話になりました」と言って亡くなる。しばらくして白い朝顔が一輪咲く。これ人のために捧げた生涯●聖書の言葉を思う。十字架を引きずりながら歩くイエスに女たちが泣きながらついて行ったときイエスは振り返って次のように言う。


文語訳ルカ 23:27-28
23:27 民の大なる群と、歎き悲しめる女たちの群と之に從ふ。
23:28 イエス振反りて女たちに言ひ給ふ『エルサレムの娘よ、わが爲に泣くな、ただ己がため、己が子のために泣け。


●人間、人に愛されようとして生きるな。気の毒な人を愛そうとして生きよ。なぜか。来世で神からの褒美を受けるためである●私の家が焼け、3か月後に脳内出血で意識不明。この立て続けの災難に泣いてくれた女性が何人かいた。中には「神様ってむごいわねー」と電話の先で泣かれた。●あれから7年。神はすべてを回復してくださった。感謝。●ルカ9章60節を黙想。


文語訳ルカ 9:60
9:60 イエス言ひたまふ『死にたる者に、その死にたる者を葬らせ、汝は往きて神の國を言い弘めよ』


塚本訳 ルカ 9:60
9:60 その人に言われた、「死んだ者の葬式は死んだ者にまかせ、あなたは行って神の国を伝えなさい。」


新改訳 ルカ 9:60
9:60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」


口語訳 ルカ 9:60
9:60 彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。


●この「出て行って」という言葉に目が吸いつけられる。「どこへ行けばよいのだろう」。そうだ「気の毒な人の所へだ」。「泣いている人の所へだ」


●新藤氏は貧乏で結核の夫人に栄養を十分につけてあげられなかった。さぞ無念であっただろう●一家の主人がが病気になると、妻や子供を悲しい目に合わせる。これ以上悲しく無念なことはない●私の父は40歳の時に神田駅で喀血、育ち盛りの子供たちに心配はかけまいとずっと黙っていた。家は傾き、子供たちは進学を断念。しかし私はこのことにより信仰に導かれた。


文語訳 ルカ 6:20-21
6:20 イエス目をあげ弟子たちを見て言ひたまふ『幸福なるかな、貧しき者よ、神の國は汝らの有なり。
6:21 幸福なる哉、いま飢うる者よ、汝ら飽くことを得ん。幸福なる哉、いま泣く者よ、汝ら笑ふことを得ん。


新共同 ルカ 6:20-21
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。


●この二節は実際に実際にその悲しい目にあわなければその意味は理解できない。●5階の関口顧問(旅行が趣味)と懇親。体がよく動くうちは外国旅行、あまり動かなくなったら国内旅行とアドバイスをされる●夜、恵と電話懇親。

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


人間、楽しい時は会食する ++++++++ 所感

2007/05/13 07:09

070513(日)5時起床、寝不足気味●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。職場に「奥さんが血を吐いた」との電話。会議中だったので、それが終了するまで待って駆け付けると夫人は居間に座っている。「なせ寝てないんだ」というと「あなたが居なくては心細くて」という。実は違うのではないか。主人が帰るまでは寝てはいられないという心がけのようだ。この夫人は偉い。この夫人にしてこの夫あり。男は女が造る●人間、うれしい時は会食をする。これ人生の「ささやかな喜び」だ。聖書の次の個所を思う。


塚本訳ルカ 15:21-24
15:21 息子は父に言った、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました。もうあなたの息子と言われる資格はありません。……』
15:22 しかし父は(皆まで聞かず)召使たちに言った、『急いで、一番上等の着物をもって来て着せなさい。手に指輪を、足にお靴をはかせなさい。
15:23 それから肥えた小牛を引いてきて料理しなさい。みんなで食べてお祝いをしようではないか
15:24 このわたしの息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』そこで祝賀会が始まった。


塚本訳マタ 22:2
22:2 「天の国は、王子のために結婚披露の宴会を催す王にたとえられる。



塚本訳マコ 6:21
6:21 すると(ヘロデヤにとり)好い機会がきた。ヘロデが自分の誕生祝いに、大官、将軍、ガリラヤの名士たちを招待して宴会を催した時、



塚本訳ルカ 14:24
14:24 ──あなた達に言う、(神の国もこのとおり。最初に)招いた人たちで、わたしの宴会に連なる者は一人もあるまい。」



塚本訳ヨハ 12:2
12:2 するとそこでイエスのために宴会が催され、マルタは給仕をし、ラザロは相伴客の一人であった。


●妻と揃って「主の集まり」に行けるのは幸い。集会は藤巻、杉崎、山本●某夫人から「勉学のために地方に行った息子が、『この地方にある東京聖書読者会のような集会があったら教えてほしい』と訊ねてきた。どこかありますか」と言う。その息子さんの成長を思って感謝した。●神はいつの時代でも「神へ信仰」を求める人を「起こす」ものだ●「東京聖書読者会のような集会と言ってこられたは嬉しい。無教会主義集会の雰囲気というものを感じたのであろうか●人間には向き向きというものがあるからキリスト教にも多くの教派があるのではないか。これも「複雑系」だ●小寺夫妻、トミ子、山口、私で昼食


s2007_0513_141746AA.jpg


14:00妻とニコライ堂を見学。中では大勢の人で聖歌を歌っていた。高い堂内に響き渡ってすごかった。コンドルの設計、重要文化財。見える建築の価値。2007.5.13


s2007_0513_141638AA.jpg


神田の祭りに出会う。ニコライ堂の前の坂 2007.5.13


s2007_0513_152308AA.jpg


 ヴォーリズが設計した主婦の友社の建物を残しながら、磯崎新が中央に高層ビルを増築した保存方法の傑作。中にカザルスホールがある。この建物は日大の所有となった2007.5.13


以下はYAHOOデータ


竣工:1987
設計:磯崎新アトリエ
施工:大林・日本国土JV


旧主婦の友ビル(竣工:1924 設計:W.Mヴォーリズ)の外観を保存して新しいビルを建てる要諦であったが、結果的に正面部分のみの外観レプリカでまったく新しいビルとなった。


s2007_0513_034059AA.jpg


16:00カザルスホールで中世音楽合唱団の演奏を鑑賞。ピアノの山本先生の招待。皆川達夫の指揮と解説。ポリフォニー音楽。なかなか難しいものであった。カザルスホールは515席。音響がよい。アーレントオルガン設置。 妻はこのあと、ウィーン国際合唱祭のための練習にシビックホールへ。2007.5.13

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


台所の隅で泣く ++++++++ 所感

2007/05/12 06:21

070512(土)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。食うや食わずの時、以前に書いたシナリオの当選発表の知らせ。夫人の孝子さんは台所の隅で泣く。これが人生だ。●徳島県の貝出久美子さんはお父さんを病院にお見舞いするたびに、病室の片隅で背中を向けて「ボソボソ」と祈っていた。最期近くになってそのお父さんは「久美子の信じている神様のところに行きたい」と言い出し、神を信じて平安に召されていったという。●あるときその貝出さんと彼女の友人たちと4人で食事をしたときのことである。一人は全盲であった。私はすぐ食べ始めたが彼女たちはお互いの額を合わせて何やら低い声で「ボソボソ」言い始めた。何かと思ったら食前の祈りをしていたのである。私は恥ずかしかった。●私の場合。26歳の時、結婚した第一年目に一級建築士の試験に落ちたら、妻が隠れて泣いた。私は「女の涙」を見て発奮。猛勉強して翌年は一発で合格。●祈りは隠れたところでするのが聴かれる。


塚本訳 マタ 6:6
6:6 あなたが祈る時には、『奥座敷に入り、部屋をしめきった上で、』隠れた所においでになるあなたの父上に『祈れ。』そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。


●山下次郎著「イエスという人」(キリスト教出版)を読む。こういう本はスピードで読める。その第9章の「ある」と「なる」の解説に目から鱗。これ福音派と社会派の平和をもたらす解説。・・・・「ある」という状態が存在している結果から「なる」という行為がでてくるのだという。だから両方が大切。至言。●これを応用して見る。男女が愛し合うという状態が存在している結果があって正式に結婚式を挙げて夫婦に「なる」。・・・・洗礼を受けるにふさわしい信仰の状態が存在しているから「洗礼」を受けて正式に信者になる。・・・つまり内的状態の存在が「ある」から表面の行為になって正式に「なる」。・・・・受験勉強の準備を万全にやった状態ならば、試験を受けて、正式にその学校の生徒に「なる」●ここで危険なのは形だけの「なる」で内的存在の「ある」が導かれるかという考え。たとえば洗礼を受ければ救われるという考え、それは間違い。また内的状態があれば「なる」はなくてもよいというのも間違い。なぜか。この人生は肉で生きているのだから●山下次郎氏が塚本訳を金科玉条の如くに扱ってないところに感心。さすが塚本先生の女婿。こういう読み方が塚本先生に喜ばれる。●マタイ5章45節は「ある」と訳すのががよいのか「なる」と訳すのががよいのか。


塚本訳 マタ 5:44-45
5:44 しかしわたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈れ。
5:45 あなた達が天の父上の子であることを示すためである。


新共同 マタ 5:44-45
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。


●山下次郎氏は、語学的にも、神学的にも「なる」と訳すのが正解で、塚本訳のような見解は少数派だという。ただし、この辺、ギリシャ語に通じてないと理解できない。しかし素人にはその勉強は不要●「正式になる」ということが肉で生きている人生には必要。実力があれば無免許運転でも良いかというとそうはいかない。肉でこの世の法律の中で生きているうちは「正式に」ということが大切。


塚本訳 ロマ 8:23
8:23 しかし(苦しんでいるのは)創造物だけではない。わたし達自身も、(神の子にされた証拠として)御霊なる初穂を持っているので、このわたし達自身も、自分(のみじめな姿)をかえりみて、呻きながら、(正式に神の)子にされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである。


●今朝はCDでシューベルトの即興曲第三番変ト長調を妻と鑑賞して感激、狂いまくる。取りつかれる。演奏はリドゥ・ルプー、グルダ、ブレンデルは1972年版と1988年版(こっちの方がよい)の4種類●シューベルト様、シューベルト様。である。こんな曲を作曲できたらなー、演奏できたらなーと思うが今となっては両方ともダメ。イイサ、イイサ。音楽は鑑賞して感激すればそれでよいのだ。それも同等の芸術家だとあのA・シュヴァイツァーは言う。その方がシューベルトも喜んでくれるだろう。


s2007_0512_082502AA.jpg



妻から「坂井さんから頂いた花(カラー)が咲いわ。撮って」と言われたので撮影。花は人の心を伝えるものだ。 2007.5.12


s2007_0512_104416AA.jpg

家の近くで花を栽培している温室。手間がかかりそー 2007.5.12


s2007_0512_111409AA.jpg


新緑の我が家。漆喰の白壁は汚れない。庇の出があるせいもある。 2007.5.12


s2007_0512_183114AA.jpg


18:30 守の招待で音楽会に行く。はじめに守と妻と私の三人で夕食。音楽界は東京インターナショナルシンガーズ。指揮マルセル レスペランス、東京ニューシティ管弦楽団。目黒パーシモンホール。プッチーニ「グローリアミサ」とロッシーニ「スターバトマーテル」。会場で出会った人。津上毅一夫妻、娘さん。鷲見八重子、村上正愛氏夫人、吉野隆治氏夫人、倉石真氏令弟、ご母堂、北原氏ご夫妻(元竹中工務店)。 2007.5.12


s2007_0512_200713AA.jpg


目黒パーシモンホールは元都立大学キャンパスの跡地に建てられたなかなか良いホール。


2007.5.12



 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


人のために命を捧げる愛 ++++++++ 所感

2007/05/11 06:26

070511(金)出勤日。5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。「元禄忠臣蔵」の撮影が終わって失職。そのとき夫人は「あなたがいくところならどこへでも」と言った。エライ!。こういう夫人をもつ男性は伸びる。はじめはみすぼらしくダメであっても次第に良くなる。聖書の言葉を思い出した。


文語訳 ヨハ 15:13
15:13 人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし。


●では誰かから「あんなバカな夫のためにこの自分の大切な命を捧げることはできない」と言われたらどうしよう●「捧げる」というのは自分の意志だ。人間の業だ。そうではない。神に無理に捧げさせられるのが本道だ。そのときはあのバカな夫に命を捧げているのではなく、神に命を捧げているのだと思えばよいのだ。それならばあるいはできるかも。・・・我慢できるかも・・・●これ逆も真。あのイヤナ妻に命を捧げることはできない、あのイヤナ子供たちに命をささげることはできない。あのイヤな会社に身を捧げることなんか到底できない。と思うのが「普通」。そのときこれは神から預けられたものだと思えばマー少しは気が休まるというものだ。しかしなー・・・・●しかし神は人間をいつまでも苦しめてはおかない。人生には「出エジプト」の時期がある。そしてきっと「楽に」してくださる。その次期は神が決められる。しかも「出エジプト」をするかどうかも神がお決めになる●イエスはゲッセマネで十字架の道を避けようとしたが、逃げられなかった。神に無理に負わされた十字架。人生はこれ一生十字架だ。塚本訳の「十字架を避けて」という敷衍は意味が深い。


マタ   10: 39 [塚本訳


(十字架を避けてこの世の)命を得る者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を得るであろう。


マタ   16: 25 [塚本訳


(十字架を避けてこの世の)命を救おうと思う者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を得るのだから。


マコ   8: 35 [塚本訳


(十字架を避けてこの世の)命を救おうと思う者は(永遠の)命を失い、わたしと福音とのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を救うのだから。


ルカ   9: 24 [塚本訳


(十字架を避けてこの世の)命を救おうと思う者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者が、(永遠の)命を救うのだから。


●「でもォー。アノ人にはどうしても我慢できなィー」という嘆きが人生。神はその不平不満やわがままを赦してくださるかも。こういうことは一律に判断できないケースバイケース。「複雑系」だ。神次第だ。


s2007_0511_080226AA.jpg



 妻がうれしそうに「見て!カトレヤが三年ぶりに咲いたわよ」。聖書の次の言葉を思い出した。


塚本訳 ルカ 13:7-8
13:7 葡萄畑の作男に言った、『もう三年この方、この無花果の木に実をさがしに来ているのに、まだ実がならない。切ってくれ。(ならないばかりか、)なんで土地までくたびれさせることがあろう。』
13:8 答えて言う、『ご主人、今年もう一年だけ勘弁してやってください。今度は回りを掘って、肥料をやってみますから。


●そうだ、きっと咲くと思って忍耐強く待てば、いつかは咲くのだ。そうだこの世で咲かなくても来世で花開くかもわからない


s2007_0511_185643AA.jpg


 労働を終えてあきる野市に戻ると奥多摩連山が手を広げて迎えてくれる。妻の夕食が待っている。感謝。いつまで続くか。ヒルティは64歳の時夫人に先立たれた。私は現在63歳。来年のことか。2007.5.11


●新一と衣純さんから連名でよい手紙。感謝。●新茶を飲む。おいしい。



 


トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


頭のよい人間は「永遠の命」を求める ++++++++ 所感

2007/05/10 06:24

070510(木)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。溝口健二監督のもとでの「元禄忠臣蔵」の撮影に打ち組むために撮影所の近くに夫婦で長期間の宿をとる。臨戦態勢である。●人が何事かに打ち込む時は住まいを変えるほどでなけfればならない。土地の値段や環境などのことを言っていられない。すぐ駆け付けられるところにいなければならないのだ。●思い出。知人のM氏は会社に30分以内という基準で住まいを探した。常務になられたが社長とぶつかって退社。気骨があった。亡くなられた大熊一雄、好子夫妻は、塚本先生(の御用をしやすいよう)に「この辺にアパートありませんか」と伺ったという。すると先生は本人を傷つけないように日をずらした日記(聖書知識のなかのもの)に「私を不動産屋だと思っている人がいる」と書かれた。しかし、大熊さんのような姿勢でなければならない。●「孟母三遷」という言葉がある。●聖書には次の言葉がある。


口語訳 詩  84:1-3
84:1 万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
84:2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
84:3 すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらに/わがすまいを得させてください。


口語訳 詩  84:10
84:10 あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。


●これはエルサレム神殿をほめたたえた歌である。●しかし無教会主義者の我々には神殿はない、教会がない。今ここ、この場所(家庭、職場)が神殿だ。イエスもそれを言う。


 塚本訳 ヨハ 2:21-22
2:21 しかしイエスは自分の体のことを宮と言われたのであった。
2:22 だから死人の中から復活された時、弟子たちはこう言われたことを思い出して、聖書とイエスの言われた言葉と(が本当であること)を信じた。


塚本訳ヨハ 4:20-21
4:20 (それでお尋ねしたいのですが、)わたし達の先祖はこの(ゲリジム)山で(神を)礼拝したのに、あなた達(ユダヤの人)は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(どういう訳でしょうか。)」
4:21 イエスが言われる、「女の人、わたし(の言葉)を信じなさい。(間もなく)あなた達が、この山でもエルサレムでもなく(どこででも、)父上を礼拝する時が来る。


●これではつかみどころがなくていけないのか。イヤイヤ、見えるもの(教会堂、牧師、儀式、絵画、芸術)、聞こえるもの(音楽)、などがあっても、それは結果としての影であるからそれを見ても攫んでも聞いてもそれ自身に救いはない。命はない。それは箱である。服である。包装紙である。救いへのきっかけにはなってもそれをつかんだからといっても救われない。●人間はその本源たる霊の命に触れなければならないのだ●人間の最奥、最深の欲求は「永遠の命」である。以下のものはそのバリエーション、枝葉である。影である。肉体の健康、経済的安定、人間の愛情、親子の愛情、家庭団欒、安心、安定、楽、遊び、喜び、自由、政治的解放、地上の平和、家庭からの解放、伴侶からの解放。然り「幸福」。しかしその何物にも人間は満足できない●だから聖書では真面目で頭のよさそうな人物はイエスに「永遠の命」を得るにはどうしたらよいのかと尋ねる。多分、何をやっても満足のいかない人生だったのだろう。むなしい人生だったのだろう。面白くない、生きがいのない人生であったのだろう。


塚本訳ルカ 18:18
18:18 ひとりの(最高法院の)役人が尋ねた、「善い先生、何をすれば永遠の命がいただけるでしょうか。」


●次のニコデモという人物も頭がよさそうな人物である。イエスとの対話ではどうやら「永遠の命」を得るにはどうしたらよいかという会話があったらしい。なぜならこの問答の後半の3章16節にその言葉が出てくるからである。


塚本訳  ヨハ 3:1-3
3:1 ところでパリサイ人の中に名をニコデモという人があった。ユダヤの(最高法院の)役人であった。
3:2 ある夜、イエスの所に来て言った、「先生、わたし達はあなたが神のところから来られた先生であることを知っています。神がご一しょでなければ、あなたのされるあんな徴[奇蹟]はだれもすることは出来ません。」
3:3 イエスが答えて言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、(徴を見て信じたのではいけない。)人は新しく生まれなおさなければ、神の国にはいることは出来ない。」


塚本訳 ヨハ 3:15-16
3:15 それは、(蛇にかまれた者がその銅の蛇を仰いで命を救われたように、)信ずる者が皆(天に上った人の子を仰いで、)彼にあって永遠の命を持つためである。
3:16 そのゆえは、神はその独り子を賜わったほどにこの世を愛されたのである。これはその独り子を信ずる者が一人も滅びず、永遠の命を持つことができるためである。


s2007_0510_113855AA.jpg


歩いて市内のコンサートに行く途中できれいな花が一斉に咲いていた。アイリスとポピー。合唱をしているようだなー。2007.5.10


●12:00ふれあいコンサート、ピアノ・高橋京子、マリンバ・新條路子。演奏終了後に高橋京子先生「指がもつれてしまいました」。私「モーツアルトだから指がモツれたのです」。高橋京子先生「お慰めいただいてありがとうございます」●牛腸さんと妻と私で昼食。牛腸さんから自然療法の話を伺う


s2007_0510_171703AA.jpg


 14:00 杉本聡美さん(中央)が来訪。芝浦工業大学建築学科大学院2年生。我が家の木造建築を見学に来られた。小学生の時から大工になることを夢見ていたというのだから建築に天性がある。木造住宅を専門とするアトリエ建築事務所に進む予定。彼女の上に幸いあれ。2007.5.10


s2007_0510_180634AA.jpg


 18:00普門禅寺の夕方6時の鐘。衝くのは住職の子息。この寺を継ぐという。「私のような者が(ブログの)被写体でよろしいのでしょうか」と謙遜な言葉。境内に咲く「緑色の桜が咲く木」を教えてくれた。来年見よう。 2007.5.10



 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


何を話しても通じないということ ++++++++ 所感

2007/05/09 07:13

070509(水)4時半起床●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。下積み時代の苦労話。しかしその人の才能は、次第次第に出てくる。頭角を現してくる。これ会社の人事部長の眼力。もし上司や人事部長に目がなかったとしても社会というものはよくしたもので、社会はその自己利益のために人の才能を埋もれさせてはいない●間違った指導で一時は違う道に行っても時間が経てば本道に入る●あの王選手は巨人軍に投手で入団したのだが、時の荒川コーチが打者に変更、そして大成した。荒川コーチの眼力がよかった。しかし荒川なくても王はいつかは打者になっていたであろう。●自分にとっての「本道」「天職」は神によって次第次第に導かれて行く。●さらば「これは自分の本来の仕事ではない」と思っている「若者」に告ぐ。では「考えてみよ。見つからないはずだ。」それよりも「今日一日の仕事をまじめに一生懸命やれ」そうすれば「神も社会も君を放ってはおかない。神と社会の自己利益のために君をあるとき起用するのだ●君は「この世的満足」「人間的満足」「人間的優越心」の喜びを求めているにすぎない。神の導く道はそれとは違うが、導かれて与えられると考えてもみなかった平安と喜びが与えられるのだ。●以上のことはヒルティの「幸福論」と「眠られぬ夜のために」、内村鑑三の「いかにして我が天職」を知らんか、塚本虎二の「断片録」にでてくる人生の歩み方●私は高校生の時にこの三人の師に出会って人生が「楽」になった。●世の中には人に全く話が通じないという奇妙な現象がある。ゴルフ、自動車などの話に夢中になる人がいるが私はさっぱり。それと同じく信仰というのも関心のない人にとっては全くつまらない荒唐無稽のことなのだろう。「話が通じない」というのはこのこと。●信者の仲間でも「イエスの自意識」「復活」「三位一体」などのことに興味を示さない人がいる。●妻は日本橋で娘の愛子と買い物、それから品川、夜はウィーンでの合唱祭の練習にシビックホールへ。元気になって感謝。●図書館でCD●山下次郎著「イエスという人」を読む。イエスに関する本は面白くてしょうがない。

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


できた姑に苦労する嫁 ++++++++ 所感

2007/05/08 07:01

070508(火)4時半起床●手紙2本、秋川駅前のポストは6時半収集、自転車を飛ばして投函。


塚本訳 ルカ 9:60
9:60 その人に言われた、「死んだ者の葬式は死んだ者にまかせ、あなたは行って神の国を伝えなさい。」


●ブログ日記は自分を捨てなければ書けない。外部にかっこいいところを見せようとする化粧人間はブログを書けない。●勉強した知識の披瀝は化粧人間のポーズ。だから神学というのは聖書そのものよりもつまらないのだ。●私がブログを書くのは露出趣味からではない。遊びではない。説教でもない。私憤を漏らすためでもない。交友のためでもない。神につねられて痛いから書いているのだ。●私のHPやブログに拍車がかかったのは7年前の火災と脳内出血だ。あの時、「モー、私の人生は隠しておいてはいけない」と思ったのだ。あのとき地平線が消えて、破れかぶれのヤケクソ日記になったのだ。笑うものは笑ってくれ。


口語訳 アモ 3:8
3:8 ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」。


●だからブログの心得は失敗をありのままに書けばよい。恥を恥のまま書けばよい。心配を心配のまま書けばよい。弱みを弱みのまま書けばよい。そうすると助けてくれる人が現れる。同情してくれる人がいる。それで真の交友が得られる。


塚本訳 ルカ 8:39
8:39 「家に帰って、神がどんなにえらいことをしてくださったかを、(みんなに)話してきかせなさい。」すると彼は行って、イエスがどんなにえらいことを自分にされたかを、町中に言いふらした。


●韓国の若者はブログが多いと聞く。その人口は三分の一とも四分の一とも聞く。ブログをやってない人間は「信用ならない人間」だとも聞く。さもあらん。ブログをやらないとなんとなく薄暗くて気持ち悪い人間と思われるのだろう。日本は韓国に負ける。●個人情報の秘匿を振り回す人間は自分の商売上の秘匿習慣の悪影響。それは金儲けや、裁判沙汰のごたごたを商売にしている人間に多い。隠すことが一般常識と思っている人間。神にも自分の罪を隠すから救われない。それはつまらない一生、人に影響を与えない人生。隠しているから誰にも知られない淋しい一生。そういう人間に限ってつまらない趣味に打ち込んでいるのが共通の現象。暇な遊び人で人間の質がよくない。●ブログ070505に「孫はきてよし帰ってよし」「(孫と一緒にいられるのは)二泊三日が限度」と書いたことに対して「そんなことを書くと孫は来てくれなくなる」とクレーム。しかし私としては心の内を「真実一路」で書きたい。なにせ孫の動きに肉体が追い付かないのがその理由なのだ。しかしこの件は女性と男性では思いが違うなーと感じ、男性の助け手として女性が創造された意味を改めて思う。子供や孫の扱いに関して、男は女にかなわない。そう創られているのだ。


新共同 創  2:18
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」


口語訳 創  2:18
2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。


●山下次郎著「イエスという人」を読む。P96-100にできた姑と共に生活している嫁の悩みについてかなり長く書いてある。●とかくできた姑と嫁の関係は難しい。なぜか。できた姑の言動が嫁にとって「律法」となってしまうからである。●ではどうすればよいのか。建築士の私としては言いたい。「別れて暮せ」。間に入って苦労する夫に言う。「母を捨てて妻の見方になれ」。パウロは各自が「平和 に暮らせ」という(1コリ7:15)●だから老人は独り身で生活できるように人生設計をしなければならない●しかし、いわゆる後進国は大家族、そこには子育てノイローゼや老人問題はないらしい。なぜか。子育てには「おばあちゃんの知恵」がそばにある。老人問題がないのは、老人も死ぬまで労働しなければ食べていけないから。定年がないから。


s2007_0508_064141AA.jpg


春の我が家。漆喰の白、木の茶色、新緑、借景の菜の花の黄、青い空。ザ・ジャパンだ。2007.5.8



 


トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


天に宝を積むとは ++++++++ 所感

2007/05/07 07:33

070507(月)4時起床●手紙2通執筆●昨日の集会での話。「天に宝を積むとはどういうことか」。それは「神を信じてじっと辛抱すること」。その聖書的根拠は次の通り。


塚本訳 マタ 5:5
5:5 ああ幸いだ、『(踏みつけられて)じっと我慢している人たち、』、『(約束の)地(なる御国)を相続する』のはその人たちだから。


塚本訳Ⅰコリ13:4
13:4 愛はじっと辛抱する、愛は親切である。妬まない、愛は自慢しない、得意にならない。


●塚本訳の「じっと」は独特な翻訳。塚本先生の生活体験にもとずく名訳。●塚本訳に「じっと」という言葉は16か所もある。●「天に宝を積む」とは神に対して何かを「差し出す」ことではない。神に負わされた「苦しみ」を「じっと辛抱」することなのだ●しかし人間的にただ「じっと辛抱」していては、いつか爆発して復讐しサッパリしようとする●神を信じての「辛抱」は相手の救いを願うことなのだ。呪わないことなのだ。それが天に宝を積むことなのだ。


塚本訳 ルカ 14:13-14
14:13 御馳走をする時には、むしろ貧乏人、片輪、足なえ、盲人を招きなさい。
14:14 この人たちはお返しができないから、あなたは幸いである。(最後の日)義人の復活の時に、あなたは(神から)お返しをうけるのだから。」


塚本訳 コロ 3:13
3:13 互いに我慢して、たとい誰かに対して不平があっても、互いに赦し合え。主が君達を赦し給うたように、君達も赦せ。


●NHK19:30「クローズアップ現代」は「憲法第9条」。改憲護憲さまざまな意見を報道していたが、どちらも「日本にとってどっちが得であるか」の議論。絶対者の神抜きの議論だから結局は損得論争になる。全くもって不毛の議論。これ妻と意見が一致。●神抜きの憲法9条論争は改憲護憲どっちになっても救いはない。●損得論争に終始しているようでは「損してでも天に宝を積む」というような高貴な思想は出てこないので、話しても無駄。

トラックバック(0) | コメント(2) | top▲


私は「律法的人間」であった ++++++++ 所感

2007/05/06 06:16

070506(日)4時45分起床●5:00NHKTV3CH[こころの時代」は「きのくに子供学園」の堀真一郎。ニールの「サマーヒル」の学校に影響を受ける。ためになる言葉がたくさんあった。●①不登校や閉じこもりの家には「こわいお父さんがいる」。子供は「こうしなきゃいけない」という意識にさいなまれて育つのでそれが不登校や閉じこもりの原因。・・・・私は「律法的人間」であったのであると反省した。②「最近の子供は」と言って子供をみることはいけない。・・・・・私が「イマドキノワカイモンは」といって私憤を漏らすのはよくないことであることを反省。③最も良い教師は「子供と共に笑う」、最も悪い教師は「子供を笑う」・・・・これなども私は大反省。常に世を笑っているのではないか。④サマーヒルの教育を褒めたエーリッヒフロムが、その教育の本質は「生きることへの愛」だと言った。・・・・・・これは同感。私が高校生の時に読んで大きな影響を受けたのはハインリヒ・デュモリン著の「生きる喜び」であった。現代はこの「生きる喜び」が希薄だ●集会は長島、小寺(コロサイ書)、高橋(イエス伝NO200、「信仰者、藤林益三先生を追悼する」)。終了後、某夫人から「藤林先生がお喜びでしょう」と言われてうれしかった。●集会の長老から私たち夫婦に話があるというので、昼食をともにしながらご注意をうけたまわる。①集会の始まる前に私語が多い。それも大声で話している。とても祈りの雰囲気ではない。「聖なる雰囲気」が欠如している。私語を防ぐ方法は話しかけられたら受けないこと。話はロビーでせよ②最後の讃美歌を歌い終わってから少し間をおいて最後の祈りをせよ。つまり音楽のあとは若干の静寂と余韻が必要(これ音楽会のときのマナーと類似)。老人は椅子に座るのにも時間がかかる③「少ない人数ではありますが、・・・・」という祈りは大きいことにあこがれているのでよくない④讃美歌のテンポを楽譜通りにせよ。今ではスロー過ぎる。これは集会の賛美歌が無教会節になっていることのご注意●帰宅して、オットー著山谷省吾訳「聖なるもの」(岩波文庫428)を取り出して読み始める。●無教会主義の日本のキリスト教界に貢献したことの一つに、その集会が「祈りの雰囲気」「聖なる雰囲気」を作ったことである。しかし今やその雰囲気は失われ、開会直前に至るまで私語、病院の待合室の老人のおしゃべりのようである。集会から霊気がすっかり抜けている。霊気がないということは生命がないこと。エクレシアは「キリストの体」。その聖なる雰囲気がないようではキリストが臨在していない証拠。

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


孫は来てよし帰ってよし ++++++++ 所感

2007/05/05 07:15

070505(土)こどもの日。5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。下積みの労働。人間は下積みの仕事が人生の「こやし」になる●「交遊抄」は自動車設計の松浦剛。よい先輩との出会い。その先輩に設計図を放り投げられたこともあるという。先輩は後輩を、親は子を、これぐらいの勢いで訓練しなければならない。「お前はダメだ」と言ってくれる先輩や親が真の指導者。「ヤメチマエ!」と怒鳴られない人物は伸びない。そのように怒鳴ってくれる人がいるのは幸福。まだ見込みがあるから怒鳴られるのだ●あんな連中に福音を説くほど「非効率」なことはない。岩の角に頭をぶつけて目が覚めるまで放っておくことにしよう。残り18年、最大の効果を狙おう。私としてもそんなに暇ではないのだ。福音はこれを「必要としている人」にのみ伝えるべきだ。人に「救いのニーズ」から説くほど非効率で無駄なことはない。それは馬鹿なことであり罪悪でもある。●「信仰者、藤林益三先生を追悼する」を推敲すること15回。見切りをつけてHP「使徒伝承」にアップする。明日集会でこの原稿を読み上げる。話すと感情が高ぶり脱線しそうなので、朗読する。


s2007_0505_050856AA.jpg


朝、庭に下りると道具の散乱。孫が来ている証拠。今日は品川から「お父さん」が迎えにきて帰っていく。「孫は来てよし、帰ってよし」。孫には振り回される。限界は二泊三日。 2007.5.5


s2007_0505_115340AA.jpg


伊勢喜明氏が孫たちを車で迎えに来る。左から伊勢愛子、伊勢かなほ、伊勢初音、伊勢喜明、うしろは高橋照男。これで2泊3日の孫が帰る。帰ったあとは静寂が戻った。2007.5.5


mito.jpg
少年になった初孫の見時の写真が送られてきた。(2007.4.29撮影)この樹のように大きく育ってほしい。神の植えたもう樹であってほしい。


新共同 詩  1:1-3
1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。


●西洋の諺に「男は一本の樹と一人の息子と一匹の犬を持ちたいものである」というのがある。この意味するところは何なのだろう。それはこれらのすべてが「生命」であり、成長の楽しみがあるということか。●私の場合、家族子孫縁者は妻1人、子供4人、その伴侶3人、孫5人、合計13人。その性格は実に様々で「複雑系」そのもの。自分も入れれば14種類ある。楽な人間あり、とんでもない人間あり、攻撃的な人間あり、反逆的な人間あり、心を傷める人間あり、うれしい人間あり、喜びの人間あり、癒しの人間あり、心配な人間もいる。健やかに育ったもの、ひねくれて育ったもの、ねじくれてしまったもの、14種類はいろいろだ。紅葉の山のようにいろいろな色がある。これでいい、これでいいのだ。自然体、自然体。そのまま、そのまま。あるがまま、あるがまま。山の植林も人間の考えで種類をそろえると害虫が発生しやすくなる。自然発生的な多種雑多の森や林の方が害虫が発生しにくいそうだ。●明日のイエス伝に、「天に宝を積む」という言葉が出てくる。過日、嫁の一人から「天に宝を積むとは具体的に何をすればよいのですか」という質問があった。よい質問である。信仰は問答で深い所に導かれる。私の答えは「神を信じてじっと辛抱する」ということだ。その聖書的根拠は次の二か所。この二か所の「じっと」は塚本訳独特。先生の人生体験からでた傑作の翻訳だ。


塚本訳 マタ 5:5
5:5 ああ幸いだ、『(踏みつけられて)じっと我慢している人たち、』、『(約束の)地(なる御国)を相続する』のはその人たちだから。


塚本訳 Ⅰコリ13:4
13:4 愛はじっと辛抱する、愛は親切である。妬まない、愛は自慢しない、得意にならない。


●人間的努力で「じっと辛抱」はしていられない。それはいつか堪忍袋の緒が切れて「復讐」するようになる。それでさっぱりする。そうではない。神がじっと見ていてくださることを信じて、じっと我慢するのだ。●具体的には神が見ていてくださることを信じて、損を損のままにする。取り返さない。相手を赦して攻撃するままにさせる。ぶつままにさせておく。つまり神は見ていると信じてじっと辛抱する。この聖書的根拠は枚挙にいとまがない。新約聖書全編がこの精神だ。●問題は罪と罰だ。神は罪を見逃さない。私に殺意を抱いてなき者にしようとした人物に徹底的に復讐していただきたい。


新共同 ロマ 12:19
12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。


s2007_0505_162508AA.jpg


ヤッタ、よくぞこの鯉のぼりを買った。家のデザインもなかなかだ。家主はただ者ではない。 2007.5.5


●妻は合唱の練習で合宿。「藤野芸術の家」(神奈川県藤野町)明日は途中で切り上、早朝出立で集会に間に合うようにする。我々にとっては「主の交わり」より大切な集まりはない。趣味以上、音楽以上。私もかって勤め先の土日の旅行を途中で切り上げて集会を休まなかった。●日曜日は遊ばないという生活態度の私に向かって「お祈りなんて効き目がない」と非難した人がいた。こう言ったのが身近なものだっだので余計に悲しく淋しかった。どんなに近親者でも5次元のことは4次元人間にはわからないものなのだ。ここが信者の辛いところ。


新共同 マタ 6:33
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。


塚本訳マタ 6:33
6:33 あなた達は何よりも、御国と、神に義とされることとを求めよ。そうすれば(食べ物や着物など)こんなものは皆、(求めずとも)つけたして与えられるであろう。


NKJV マタ 6:33
6:33 "But seek first the kingdom of God and His righteousness, and all these things shall be added to you.


 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


ジージの頭は何故白いの? ++++++++ 所感

2007/05/04 07:27

070504(金)5時20分起床、今日は娘と孫がいる●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。撮影所に採用されるまでの食うや食わずの苦労話。人生は企業に採用されて一生をそこで勤め上げるだけが人生ではない。貧困の経験は人生のバネになる。●孫の初音は昨夜はジージ、今朝はバーバと風呂。昨夜は孫娘の体を洗いながらその昔娘の愛子と風呂に入ったことを思い出した。この孫が結婚する日の姿は見られない。人生は短い●070427ブログ「信仰者、藤林益三先生を追悼する」を推敲、14回目。●孫娘「ジージは何で頭が白いの?」。ジージ「神様を信じると頭が白くなるんだよ」。孫娘「エーッ、わかんないなー」。・・・・そうだ、こういう言い方がそもそも子供には分からないのだ。よくない。反省。


新共同 箴  16:31
16:31 白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。


●10:00孫娘の初音を歯医者に連れていく。「ドリルやらない?、ドリルやらない?」と不安顔。診察台に座ってからは歯科医師にも「ドリルやらない?」。歯科医師「やらないよ」と言って両手を広げて見せた。口内炎であった。


s2007_0504_095248AA.jpg


孫の初音(4歳)を歯医者に連れていく。痛いところを教えるようになったから楽。2007.5.4


s2007_0504_115128AA.jpg


妻が得意のパン作りを娘と孫に伝授。食事作りは文明の伝承の基礎。母親が子育ての時期はたいてい誰かを背中に背負っている。「母」の仕事は重労働。精神的にも重労働. 2007.5.4


●夕食のとき、娘の愛子に、母、妻、嫁としての心得、特に小姑としてあってはならない態度について厳しく「説教」した。素直に聞いてくれた。人間は変わる。感謝。●旧約聖書の箴言には父母の戒めに聞き従えという言葉がたくさんある。


箴    1: 8 [新共同


わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな。


箴    3: 12 [新共同


かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる。


箴    4: 1 [新共同


子らよ、父の諭しを聞け/分別をわきまえるために、耳を傾けよ。


箴    4: 4 [新共同


父はわたしに教えて言った。「わたしの言葉をお前の心に保ち/わたしの戒めを守って、命を得よ。


箴    6: 20 [新共同


わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。


箴    10: 1 [新共同


ソロモンの格言集。知恵ある子は父の喜び、愚かな子は母の嘆き。


箴    13: 1 [新共同


子は父の諭しによって知恵を得る。不遜な者は叱責に聞き従わない。


箴    15: 5 [新共同


無知な者は父の諭しをないがしろにする。懲らしめを守る人は賢明さを増す。


箴    15: 20 [新共同


知恵ある子は父を喜ばせ/愚か者は母を侮る。


箴    17: 6 [新共同


孫は老人の冠、子らは父の輝き。


箴    17: 25 [新共同


愚かな息子は父の悩みとなり/産んだ母の苦しみとなる。


箴    19: 13 [新共同


愚かな息子は父の破滅。いさかい好きな妻は滴り続けるしずく。


箴    19: 26 [新共同


父に暴力を振るい、母を追い出す者は/辱めと嘲りをもたらす子。


箴    23: 22 [新共同


父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。


箴    23: 24 [新共同


神に従う人の父は大いに喜び躍り/知恵ある人の親は、その子によって楽しみを得る。


箴    27: 10 [新共同


あなたの友人、父の友人を捨てるな。災いの日に、あなたの兄弟の家には行くな。近い隣人は遠い兄弟にまさる。


箴    28: 7 [新共同


教えを守るのは分別のある子。放蕩者と交わる者はその父を辱める。


箴    29: 3 [新共同


知恵を愛する人は父を喜ばせる。遊女を友とする者は財産を失う。


箴    30: 11 [新共同


父を呪い、母を祝福しない世代


箴    30: 17 [新共同


父を嘲笑い、母への従順を侮る者の目は/谷の烏がえぐり出し、鷲の雛がついばむ。





●「親父は常に俺を責めて批判攻撃する」と思っている世の男どもは、次の聖書の言葉を深く読まなければならない。


口語訳 ヘブ 12:5-9
12:5 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、/「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
12:6 主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。
12:7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
12:8 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
12:9 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。


●娘の愛子が「お父さんは複雑系を勉強しているだけあって、やわらかくなったわねー。しかし本質は変ってないわ」と言う。!?!?●頭の勉強では人間は変わらない。知識では人はよくなれない●5月6日に語る「信仰者、藤林益三先生を追悼する」の原稿を推敲、15回目。きりがないので終了してプリント●今日は風呂に菖蒲が入っていた





 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


恐怖の根は罪 ++++++++ 所感

2007/05/03 06:55

070503(木)憲法記念日、5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。少年のころ映画を観て感激、映画監督になる決心をする●幼い子に「大きくなったら何になりたいの」と聞くのは残酷。まだ人生が分かってない。その答えはサッカー選手、プロ野球の選手、ケーキ屋さん、花屋さんなどの自分の狭い知識の範囲のことぐらいである。●最高の人生は神による導きである。その道は人間的な希望も幸福もない。この身を一身に使命に捧げるのだ。それが「男の生きる道」だ。生きがいだ。若者よもっとデカイことを考えよ。イマドキのワカイモンは勤務先で偉くなろうだなどとこざかしいことを考えているからイケナイ。勤務先というのは経済的関係の集団だから、肉体の老化現象で仕事の効率が悪くなるとポイ捨てにされるのが宿命。それはプロ野球の選手と同じで打率が下がると放出される。●藤林益三先生の追悼文をまた変更。


はじめに


「東京聖書読者会」を発足された藤林益三先生は2007年4月24日に心不全のため99歳で、稲城市の病院で召された。各新聞は元最高裁判所長官だったということで大きく報道した。しかし先生には4つの面があった。第一は法律家としての法曹界の人として面、第二は長らく銀行の顧問弁護士をされていたので経済界の人としての面、第三は藤林家における二男三女の父親としての面、第四は無教会のキリスト信者としての面。私たちは、この第四の信仰者としての藤林先生の面で交わらせていただいてきたた。そこで私としては今日はお許しを頂いて5月24日の青山葬儀所での公式の告別式とは別にこのキリスト教の信仰者の集会において信仰者藤林益三先生について、個人的な思い出を通して追悼させていただく。内容は外部では話せない信仰的なことであるので私個人としても大なる光栄である。このように純信仰的に追悼させていただくことは藤林先生が最も喜んでくださるでことあろうと多くの方々がおっしゃってくれた。


また③の一部を次のように加筆訂正


③藤林邸の設計に関しての思い出


 33歳のとき、目黒の藤林邸を新しくすることになり、設計監理を依頼された。リューマチで悩んでおられた木の枝夫人に快適な環境を整えてほしいというのがご方針であった。木の枝夫人は自宅で葬式を行う時に便利なように設計して欲しいというご希望であった。新居の設計中に先生は最高裁判所の長官にご就任になられ、御公務が忙しいので建築に関しては私が全権を委任された形になった。このとき私は仕事というのは人を信用して全面的に任せるものだということを学ばされ、この経験が元になって後に建築の「プロジェクトマネジメントの知識」や「コストプランニングの知識」という本など建築の本を10冊執筆することになった。特に鹿島出版会からのもののうちの2冊は技術書としては異例の20年間のロングセラーになっている。ロングセラーの秘密は技術ではなく「心」を説いたからである。これというのも「仕事は心」ということを先生から学んだからである。建築主としての先生は一度決定したことが後戻りしない理想的な建築主であった。そして、「私はどんな家でも与えられれば感謝だ」とも言われた。こう言われると建築する者は発奮するのである。不平や文句を言わないで生きること、これは食事でも、結婚相手のことでも、子供のことでも、不運な人生について同じである。何事も感謝の心で生きるべきことを学んだ。


●ヒルティ幸福論Ⅱの「罪と憂い」(白水社版)を10年ぶりで読む。斜め読み。結論は「恐怖の根は罪にある」。この恐怖が取り除かれなけれが「幸福」にはなれないというものである。ヒルティの各論文はもう少し短ければよいのだが。●ヒルティの幸福論や塚本虎二の「断片録」のようなものを執筆したい。言いたいことは30字以内でまとめていきたい。さしあたりブログで実行●「怖れ」は人間が何かを失いそうになる時に起こる。財産、地位、愛、伴侶、子供、人生などなど。これらを失いそうになるか、危害が加えられそうになる時に起こる。●その結果は、失われまい、危害を加えられまいとして周囲に攻撃的になる。あるいは占いに凝る。しかし平安はこない。原因は守護神がいない孤独人間だから。●この深刻な恐怖から解放されるのは罪の赦しを通して神との交わりを得て、神の守りを感じるところに得られる。それまではどんな人間的努力をしても安心はこない。科学的人生観や常識的人生観でも安心はこない。あるというなら教えていただきたい●NHKTV。水中写真家の話。子供を連れたザトウクジラ近づいたら、尾びれで叩かれた。これなどは子供に危害を加えられまいとする恐怖による「動物的本能」●かって娘に後に結婚する男性から電話がかかってきたときのこと。私は恐怖から頭が真っ白になって「娘に手を出すな!」と怒鳴ったものであった。今日はその娘が二人の子供を連れて里帰りに来る。その主人とはその後仲直りできた。かえってあのときの私の恐怖からの「呶鳴り」が彼をして結婚の意思を固めたということを聞いた。人生、何がよく働くかわからない。●日本人がキリスト教を避ける理由の多くは、信者になると「酒タバコ」を飲めなくなる。その楽しみを奪われるという心配である。酒タバコの楽しみを取り上げられる「恐怖心」からである。●また自分の罪がバレるという恐怖心のためでもある。ヤバイと思う「恐怖心」からキリスト教には近づかないのである。●その恐怖心の聖書的根拠は次の通り。昨日のブログと同じだが、再掲する。



新共同 イザ 6:5
6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」


塚本訳 ヨハ 3:20
3:20 悪いことをしている者は皆、光を憎んで光に来ない。自分の行いが明るみに出されたくないのである。


塚本訳 ルカ 4:34
4:34 「ああ、ナザレのイエス様、『放っておいてください。』わたしどもを滅ぼしに来られたのか。あなたがだれだか、わたしにはわかっています。神の聖者(救世主)です。」


●ヒルティは言う。人生最高の苦である「恐怖」から逃れなければ「幸福」は得られない。ではどうしたらよいか。それは簡単。罪を告白して神による赦しを頂くことである。あの事がバレてしまう。ヤバイと思って逃げていると一生「恐怖」のままである。正直に告白すれば「楽になる」。この話は人生も末期の老人には通じない。とかく面倒なキリスト教に帰依するよりも、これまで何とか生きてきたのだからあとは惰性で生き抜くしきゃないと思うからだ。対象は高校生だ。若者よ真理を求めよ。真の幸福を追求せよ。


塚本訳Ⅰヨハ1:9-10
1:9 もし罪を正直に言うならば、神は真実で、正しいお方であるから、わたし達の罪を赦し、あらゆる不義から清めてくださるのである。
1:10 もし自分は罪を犯したことはない、と言うならば、(それは)神を嘘つきとするのであって、(約束の)御言葉はわたし達の中にないのである。(聖書は、わたし達が一人のこらず罪人であるとするからである。)


TEV Ⅰヨハ1:9-10
1:9 But if we confess our sins to God, he will keep his promise and do what is right: he will forgive us our sins and purify us from all our wrongdoing.
1:10 If we say that we have not sinned, we make a liar out of God, and his word is not in us.


●現代人の恐怖、心配。経済、勤務先をやめさせられる、社会的地位、勤務先での地位が落ちる、成績が落ちる、受験に失敗する、いじめに会う、仲間外れにされる、家計が苦しくなる、妻に夫に子供に嫌われる、自分と家族の健康が損なわれる、容貌が落ちる、趣味仲間サークルの人間からの評判を落とす、などなどすべてこれ目先の人間社会のこと。人間の評判のこと。人間の目を気にしていること。この恐怖が人間を小さなものにする。●真理のために勤務先をやめさせられる覚悟を持たなければよい仕事はできない。日経「私の履歴書」に登場するほどの人は追放させられることを覚悟で仕事をしている。勤務先をやめさせられると家族が路頭に迷うなどと心配するのは小人、小粒人間。大成しない。そういう人間は会社からも家族からも尊敬されない会社人間。つまらない人生、自分が満足いかない人生だ。会社をやめさせられても人生はある。何をびくびくするのか。私も会社を辞めようと覚悟したことが二度ほどあった。その後は逆に好転したから人間社会は不思議だ。●経済的集団の企業には身を捧げるな。それは決して人間を満足させない。しかし辞めるな。逆にこれを「利用」せよ。●日銀の理事であった吉野俊彦はその地位を利用して「鴎外の研究」に打ち込んで成果をあげた。その研究は経済評論家としての活動にも役立った。人間は二足の草鞋を履いて生きるのが良い。ただし本業以外のもう一足は趣味習い事のごとき軽いものではだめで、吉野氏の「鴎外研究」のごとき本格的なものでなければだめだ。吉野氏は庭にプレハブを建ててそこに鴎外資料を置き、家に帰ってからはそこに閉じこもったという.●あの人物はどう見ても小粒だ。なぜか。「罪人の恐怖」を身に帯びている。常に「恐怖心」に満ち満ちているのがその証拠。すぐ攻撃的になるのはその現れ。63年も生きているとそういう人物の見分けがつくようになるのはありがたい。●娘の愛子が二人の子どもを連れて里帰り。「実家はいいなー」という。夕食のとき孫の初音の祈りを聞いてキリスト教が4代続く気配が感ぜられ非常にうれしくなった。●「複雑系」の勉強。私のブログに対する評がさまざまであることが「複雑系」の生きた証明。妻の病をいち早く知って見舞いをしてくれた人、信仰の交わりをしてくださる人、BbBの感謝、写真を掲載して喜んでくださる人、しかし私という個人の存在を嫌う人は内容のいかんにかかわらず、嫌な意見や気持ち悪い意見を言ってくる。それらの人々を並べてみると人間類型が定まってくる。彼らは根本の思いが悪質なのだ。だから真面目に相手にはできない。彼らの気持ち悪い悪質な批判の言葉は必ず自分自身を刺し殺すようなるから禍である。


s2007_0503_050525AA.jpg


今朝の空。シスレーが好みそうな空。 2007.5.3


s2007_0503_050903AA.jpg


我が家の外観撮影はこの位置が一番良い。 2007.5.3


s2007_0503_062255AA.jpg


我が家の庭。一戸建てを建てるなら、林か森の中がよい。あるいはこのような林を作れる庭を持つのがよい。土地は最低7~80坪。都心から4~50キロも離れれば土地も割安。いわゆる便利なところでなければあるものだ。都心は「偉大なる思想」を生む人間は育たない。六本木ヒルズなどから都心を見下ろす生活をしても、金儲けにすばしこい人間は生まれても「偉大なる思想家」は誕生しない。恐怖心に満ち満ちたダメ人間ばかりが育つ。災いなるかなバビロン東京。企業は良い人間を育てない。使い捨て企業。そこに真の平安はない。落ち着きはない。 2007.5.3


s2007_0503_124514AA.jpg



 長女愛子が子供二人を連れて里帰り。上は初音、下はかなほ。二人とも少しもじっとしていない。振り回されて疲れる。2007.5.3



s2007_0503_124812AA.jpg

長女の愛子が二人の子供を連れて里帰り。左からかなほ、愛子、初音。 「母」の仕事は精神的にも肉体的にも重労働。休む暇がない2007.5.3


s2007_0503_173124AA.jpg


夕暮れの奥多摩連山。私の人生も夕暮れだ。しかし復活が希望として与えられたのは感謝。次がある。来世は行って見てきたわけではない。それは「希望」なのだ。 2007.5.3


塚本訳  ロマ 5:2
5:2 そうだ、キリストにより、信仰で、わたし達はいまいるこの恩恵の状態に入ることができ、また(最後の日に)神の(子になることを信じて、その)栄光にあずかる希望を誇っているのである。


塚本訳 ロマ 8:24
8:24 なぜなら、わたし達は(最後の日に救いが完成されるという)望みをもって、救われているからである。目に見ることのできる望みは望みではない。人はいま現に見ているものを、なんでその上望む必要があろうか。




 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


聖書が最高裁判所に入る ++++++++ 所感

2007/05/02 07:16

070502(水)パソコンを打っていたら私を殺そうとする暴漢が入ってきた悪夢で目が覚めた。5時40分起床●イエスは何故殺されたか。政治的理由か、宗教家のねたみか。否、闇と光の問題。闇は光に接するのが恐怖、だから光を殺そうとする。光を殺さなければ自分が殺されると思う恐怖がある


新共同 イザ 6:5
6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」


塚本訳 ヨハ 3:20
3:20 悪いことをしている者は皆、光を憎んで光に来ない。自分の行いが明るみに出されたくないのである。


塚本訳 ルカ 4:34
4:34 「ああ、ナザレのイエス様、『放っておいてください。』わたしどもを滅ぼしに来られたのか。あなたがだれだか、わたしにはわかっています。神の聖者(救世主)です。」


 ●人生には「盗人を捕えてみればわが子なり」という厳しい現実がある。●朝風呂で日経「私の履歴書」映画監督・脚本家の新藤兼人。またもや「お母さん、お母さん」の連発。いかに母に愛されたからといえ、これでは「聞きにくい」。マザコンだ。父親が早く亡くなり一家離散の悲運。母の手で育てられたところはこれは藤林益三先生とそっくり。「艱難汝を玉にす」だ。●「信仰者、藤林益三先生を追悼する」(ブログ070427)の③と⑤の一部を次のように変更した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



③藤林邸の設計に関しての思い出


 33歳のとき、目黒の藤林邸を新しくすることになり、設計監理を依頼された。リューマチで悩んでおられた木の枝夫人に快適な環境を整えてほしいというのがご方針であった。木の枝夫人は自宅で葬式を行う時に便利なように設計して欲しいというご希望であった。新居の設計中に先生は最高裁判所の長官にご就任になられ、御公務が忙しいので建築に関しては私が全権を委任された形になった。このとき私は仕事というのは人を信用して全面的に任せるものだということを学ばされ、後に建築の「プロジェクトマネジメントの知識」や「コストプランニングの知識」という本を執筆する元になった。特に後者は爾来今に至るまで技術書としては異例の20年間のロングセラーになった。ロングセラーの秘密は技術ではなく「心」を説いたからである。


 


  先生が最高裁判所の判事に任命されたときには、聖書一冊を抱えて初登庁された。そして昭和48年、尊属殺人事件の判決の時には私が30歳の時に妻の協力を得て編集した「聖書知識、新約知識、旧約知識、聖書索引」が判決に役立ったと感謝された。私はこのとき、聖書が最高裁判所に入ったと感ぜられ、うれしかった。裁判官としての先生の精神的バックボーンは聖書であった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 



⑤判決のバックボーンには聖書があった
トラックバック(0) | コメント(0) | top▲




| Top | Next
0814