to 日記と感想 2007年12月
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将来日記

    将来日記

    XXXXXXXXXXX    終末、復活、永遠の生命、再会(父、母、妻、
              子供、親戚、友人、集会の方々)
              復活と再会の確信はイエスの有体的復活の事実
    291103       結婚60年記念、ダイヤモンド婚
    261016       イカ成人
    251009       コフ成人
    250809       タワ成人
    241103       結婚55年記念。エメラルド婚
    230110       イハ20歳成人
    230713       タテ満80歳
    220728       KM成人
    200713       タテ誕生日満77歳喜寿
    191103       結婚50年記念。金婚
    18秋ごろ 木曜日 阿伎留病院森先生に胃カメラ申し込み
    180422(日)   杉並公会堂・武蔵野室内合奏団「英雄」
    171229    TM誕生日
    180224   14:30 トミ子、モーチァルト{レクイエム) 171220     KK誕生日
    171225(月)10:45 聖路加診察脳神経外科桑本医師
    171218(月)10:30 聖路加MRI
    171203(日)14:00 無教会浦和集会、助川光子講演
    171126(日)  兄光男、弟靖男と三人会。於・日本橋
    171119(日)15:00 秋川キリスト教会、後藤牧人講演会
    171115    TM誕生日
    171107(月) TI手術、聖路加 171105(日) 照男・トミ子集会感話、トミ子午後郡山にSS見舞い
    171103(金)13:00南原繁研究会学士会館
    171030(月)10:00 聖路加 桑本先生


絶対に死ぬことはできない ++++++++ 所感

2007/12/31 09:19

071231(月)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。文化勲章受章。ともに受賞された日野原重明先生から「森さんと一緒でよかった。森さんがいなかったら何でもらったか説明しにくいから」と言われたという。・・・・一つのことを長く続けることは大切だ。●クリスチャンの文化勲章は「人の目には見えない」。なぜか。「右の手のすることを左の手にしらせるな」とあるから。(マタイ6:3-4)●「藤林益三」の本の編集中、内村、塚本、矢内原、浅見、藤林と続く一連の事件や行動の背後には「三位一体」の信仰があることに見解と認識が一致。次のような手紙を書いた。ことは公的なことなので一部省略改変して公表する●わたしはこの本が出版されるまでは何が何でも「絶対に死ぬことはできない」

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○○様

(「三位一体」が原点であることの認識の部分は)画竜点睛です。この5行があって本書の意義は極めて大なるものになったと解します。特にカッコ内(必ずしも・・・・当然含めて)は無教会の世界的意義がここに現れています。
内村の不敬事件、浅見の治安維持法違反事件、矢内原の東大追放、藤林の津地鎮祭追加反対意見もこの「三位一体の信仰が原因」との観点からとらえるときに初めてその本質がわかります。ところが現代無教会(○○○たちも!!)はこれらの動きを単に「体制への抵抗」というヒューマニズムの観点から捉えているので、行動の本質を見ることができておらず、したがって永遠性がなく、あとが続きません。真理は剛直でなければならないと解します。 ところで、○○さんが前田全集を整理された(三位一体の)「積極、消極、沈黙」の(諸説)分類を拝見し、私が年来叫んでいる「空の墓と、有体的復活の信仰」を抱いている学者とは大体似ていると思いました。資料①~⑥。つまり三位一体を固く信じている人はイエスの墓が空になったのは物理的歴史的に事実であることと、イエスは(霊で)有体的に復活したということは、「当然のこと」だと信じているのです。これは無教会の2代目の伝道者(特に塚本と黒崎にそれが濃厚)が固く固く信じているのです。わたしはこれらの方々(外国も含めて)の信仰に触れたとき、急に胸が熱くなって次の三点が一瞬のうちに見えました。

1・イエスの墓が空であったことは歴史的事実であること

2・それは罪の赦しと永遠の生命の実在の証拠であること

3・その信仰告白は地上で(歴史的に)連鎖的につながり、

 ついにこの私にま で到達したこと。

この三点は今井館伝道聖書集会で1999.8.23に発表(告白)しました。
私は、今後の無教会は「三位一体と有体的復活」を信ずるかどうかにかかっていると信じます。なぜかというとそれは「使徒伝承」を継承することと同じだからです。使徒伝承は三位一体そのものです。バルト、内村を待つまでもなくです。(使徒信条の)「三日目に死人のうちよみがえり」がそのことです。
本年は○○さんのおかげで(再び)正統信仰の認識に「導かれ」感謝です。
どうぞよいお年をお迎えください。「三位一体」を固く信じておられる御奥様によろしくお伝えください。
                         2007.12.31 8:20 高橋照男

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●妻とスーパーに正月の買い物●15:30散歩。非常に寒い風が吹く大晦日。

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一人で散歩。寒風の大晦日。早く家に帰ろう。家は暖かいのだ。15:40

「山べに向かいて我目をあぐ。我が助けはいずこより来たるか」

●16:30 テレビでヴェート―ヴェン「第九」を鑑賞。N響+国立音楽大学。合唱指導の田中信昭の練習風景があったのは良かった。演奏を聞き終わって「溜息」をつく。「ヴェート―ヴェンはすごい」と妻と話し合った。私は今年訪れたヴェート―ヴェンのハイリゲンシュタットの家にあった「デスマスク」を思い出した。ベートヴェンの苦悩は並のものではなかった。音楽家なのに耳が聞こえなくなったとは・・・・一度は自殺を図ったのだ。

本年6月24日のブログ写真を再掲。

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ベートーベンのデスマスク。苦悩の跡が感じられた。モーツァルトとは違う。ベートーベンは人生の苦悩と喜びを謳い上げた。耳は解剖されたためになかった。 2007.6.24

 

 

 



 
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「不安」とは何なんだろう ++++++++ 所感

2007/12/30 06:16

071230(日)4時半起床●朝のひらめき「不安とは何か」●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。「三時のあなた」の番組のために田中角栄と3時間対談。田中角栄は身の上話に鼻水と涙でぐしょぐしょ。森光子は言う「金脈という言葉が有名だった。けれどお金だけで皆さんがこの方についていくのではないと、私なりにわかったような気がしたものだった。」・・・・こう言えるのは森光子自身が「苦労を理解する」経験の持ち主だったからである。「かわいい者には旅をさせよ」「若い時の苦労は買ってでもせよ」は真理●私の場合は父親が結核の再発で家が経済的に傾き。子供たちが「希望の道」に進めなかった。しかし人間の考える「希望の道」とは何なのだろう。「希望の道」が塞がれることが「恩恵」発見の細い道だった。「幸いなるかな貧しきもの」という聖書の言葉は「本能に逆行する不幸」に遭遇しないと理解することのできない難しい聖句だ●昨夜、息子の恵からブログ日記に写真を張り付ける方法を教えられたので、2か月振りに元どうりになれた。字も大きくすることができるようになった。●息子のパソコン上に私のパソコンの画面とカーソルの動きがそっくり見えるシステムを構築してくれた。遠隔操作可能で感謝。●市民検診で「癌の疑いあり」という判定が出てから「不安」の毎日。●多くの人たちから励まし、慰めなどをいただいて感謝である。その内容を分析するのは非常に不謹慎であるが、商売上そういう頭が働くから失礼ながら感じたままを書く。ご参考まで。

①霊の兄弟姉妹方。・・・「お祈りしてます」という矢のような速さの「激励」。これは神の力を呼び寄せて下さることで、何か天的な不思議な力が湧いた。お世辞でなく実効がある。これ今回の体験。中には「不安」を取りのぞけるように断食祈祷もしてくださる方もいるとは有り難く、かたじけなく目頭が熱くなる。

②身内の励まし・・・・・「檄」を飛ばしてくれる。「何を心配してるのか。まだ検査段階ではないのか」という激励」。これは「体育会系」のような「檄」。これもありがたい。これは不思議な愛情で①の愛とは「愛の種類」が違うように感じる。遠慮のない「檄」の言葉。これも実効がある。「クヨクヨスンナ」。「胃なんか切ってしまっても生きていける」など。イエスの肉親はイエスが「気が狂った」と思って連れ戻そうとしたという。

塚本訳マコ 3:21
3:21 身内の者たちが(イエスの様子を)聞いて(ナザレからカペナウムへ)取りおさえに出てきた。「気が狂っている」と思ったのである。

このときの身内のイエスに対する言葉は「きつかった」と思われる。「家の仕事もしないでなんでこんなところにいるんだ」。などと言ったに違いない。

③医学的判断による励まし・・・・・実例データを教えてくださり「心配ない」と理性に訴えてくださる。実例の強さ。経験者の強さ。冷静になれと言ってくださる。不思議に頭が静かになる。感謝。

●こう言いながら、また不安の吐露で笑われるが、わたしは当たる確率の高い男なのだ。籤運が異常に強いのだ。よく当たるのだ。過去に「米国旅行の切符」「お年玉年賀はがきは2等」などその他沢山、不思議に当たるのだ。(しかし年末ジャンボのような金銭籤はあたらない)。だから検査でがんto

判定される確率は低いと言われても慰めてくださった人には申し訳ないが「私の場合」はそれで「不安が消え去る」ことは少ない。私の場合は「よく」当たってしまうのだ。●人間の「不安の感情」について興味を持った。「どうなってしまうのだろう」という先の見えない苦なのだ。「痛い目にあうのではないのか」という恐怖心。・・・・この二つではないのか。●この二つの不安は「死んだらどうなる」という人生一般の不安と同じである。信仰とか救いとか宗教というのはこの「不安」から救われるようにというニーズに基づいているのではないのか。●では少なくともキリスト教はこの「不安」を取り除くためにどうしてどうしてくれるのか。聖書はどう言うのか。それを聖書自身に聞いてみよう。●まず「Jバイブル」で「不安」をヒットする。心に響いた聖句は次の通り。

イザ   14: 3 [口語

主があなたの苦労と不安とを除き、またあなたが服した苦役を除いて、安息をお与えになるとき、

ヨハ   16: 21 [口語

女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。

ヨハ   16: 22 [口語

このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。

Ⅰコリ  2: 3 [口語

わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。

Ⅰコリ  16: 10 [口語

もしテモテが着いたら、あなたがたの所で不安なしに過ごせるようにしてあげてほしい。彼はわたしと同様に、主のご用にあたっているのだから。

●この中で「ヨハネ16:21」は出産のときの女性の「不安」。これは大なる不安。男も不安。廊下でウロウロである。

●しかし人間としてどうしようもない不安は「死」。イエスはそれを女の出産の「不安」になぞらえた。実にぴったりのことなのだろう。それに対してイエスは「再び会える」(ヨハネ16:16 16:22)で再臨復活で慰めてくださる。そうだ人間は死ぬ時は「どうなるのだろう」という不安になるが、復活して再会できるという「希望」で落ち着けるのだ。

塚本訳ヨハ 16:16
16:16 しばらくするとあなた達はもはやわたしを見ることができない。またしばらくするとわたしに会うことができる。」

塚本訳ヨハ 16:22
16:22 だから、(同じく)あなた達にも今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなた達に会うのだから、(その時)あなた達の心は喜ぶであろう。そしてあなた達からその喜びを奪う者はだれもない。

●死の不安に対する究極の癒しはイエスの有体的復活の「事実」と「この私といえどもまた『絶対恩恵による無条件の罪の赦し』で復活できる」。という聖霊による喜び。これ以外に人間の「死の不安」が癒される道はあるまい。あったら教えていただきたい。聖書的根拠は次の通り。SWORDでヒット。SWORDはありがたい。

塚本訳ルカ 24:41
24:41 喜びのあまり、彼らがまだ信じられずに怪しんでいると、「ここに何か食べるものがあるか」と言われた。

塚本訳ルカ 24:51-53
24:51 そして祝福しながら、(天へと)はなれてゆかれた。
24:52 彼らは大喜びでエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて、神をほめたたえていた。

塚本訳 使  13:52
13:52 しかし(アンテオケの主の)弟子たちは(失望どころか、かえって)歓喜と聖霊とに満たされていた。

口語訳 イザ 51:11
51:11 主にあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、そのこうべに、とこしえの喜びをいただき、彼らは喜びと楽しみとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。

塚本訳ロマ 8:35-39
8:35 (このゆえに)だれがキリストの(わたし達を愛する)愛から、わたし達を引き離すことができるか。苦しみか、悩みか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。
8:36 こう書いてある。──『あなた[神]のためにわたし達は一日中死の危険にさらされている、わたし達は屠られる羊のように考えられた。』
8:37 (もちろん、引き離すことのできるものはない。)そればかりか、わたし達を愛して(十字架につけられて)くださった方により、これらすべての(苦難の)中にあって、わたし達は悠々と勝つことができる。
8:38 なぜなら、わたしは確信している、死でも命でも、天使でも支配(天使)でも、現在起こっていることでも将来起こることでも、権力(天使)でも、
8:39 高い所のものでも低い所のものでも、その他どんな創造物でも、わたし達の主キリスト・イエスによる神の愛から、わたし達を引き離すことはできない。

塚本訳Ⅰテサ3:7-9
3:7 (愛する)兄弟達よ、それ故、私達は君達の故に、あらゆる苦難と患難において君達の信仰によって慰められた。
3:8 (君達は私達の生命である。)君達が主に在って確く立っていれば、(私達は生きている。然り、)私達は今生きているのだ!
3:9 まことに私達は君達に就き、君達の故に私達の神の前に喜んでいる一切の大なる喜びに対して、(一体)如何なる感謝(の祈り)を神に捧ぐることが出来ようか。

 ●10:00妻と二人で家庭礼拝。以上のブログ日記を朗読。聖書はヨハネ16:16-24。.最後の讃美歌は404番。今の私の心境にぴったりだ。

讃美歌404番

1. やまじ こえて ひとり ゆけど,

   しゅ の て に すがれる み は やすけし.

 2. まつ の あらし, たに の ながれ,

   みつかい の うた も かく や ありなん.

 3. みね の ゆき と こころ きよく,

   くも なき みそら と むね は すみぬ.

 4. みち けわしく ゆくて とおし,

   こころざす かた に いつか つくらん.

 5. されども しゅ よ, われ いのらじ,

   たびじ の おわり の ちかかれ と は

 6. ひ も くれなば, いし の まくら

   かりね の ゆめ に も みくに しのばん.

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妻が百合の花を玄関に飾ってくれた。百合の花は「復活」の象徴。人間の究極の希望は「復活」。これ真の癒し、慰め。

 

 

 

 

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正月は飲み食いするな ++++++++ 所感

2007/12/29 07:02

071229(土)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。順調になって有名になってくるとこの「履歴書」も色あせてくる。なんとなくつまらない●日経「文化」爛は五木博之の現代語訳でブームになっている「歎異抄」。冒頭に「歎異抄は、日本では聖書に比されるベストセラーである」とある。●新約聖書と歎異抄の類似点。①マルコが福音書がイエスの死後30年後にできたのと歎異抄も親鸞死後30年ぐらいの後にできた。②いずれも始祖の教えが曲がったりぐらついてきたときにできた。歎異抄とは異なってきたことを嘆くということからきている。③歎異抄の悪人正機説と新約聖書の「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」は理論では同じ。しかし中味がちがう。仏教は人間の哲学だから「光」を発さない。暗い。新約聖書は「光、命、愛、喜び」。●親鸞が福音に接したら熱心なクリスチャンになったはず。最も親鸞は東回りのキリスト教の景教を少しは知っていたのではないかとも言われている。●「胃ガンの疑い」をブログで公表したところ、多くの方々から「祈りを注がれたり、激励されたり、アドバイスされたりして感激である。本当に不思議な力をいただいた。いただいたメールには隠しておけない貴重なものが多々あるので、さし障りのないように改変して公表させていただく。世の中のためになる。今日は次のもの。

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高橋兄
引き続き祈り続けます。私が主の祈りをもって祈りを始め、主の祈りをもって祈りを終わるのは、我が思いや願いの実現を祈るのでは、人間の考えうる範囲のことしか起こらない(神はそこまでしかお応えにならない)と思うからです、われとわが身に「みこころ」がなること、これが私たちにとって最高のこと(多くの場合私たちの思いもよらないこと)がもたらされるからです。われらの信ずる主イエス・キリストの父なる神は、信じる者とその身に「みこころ」を為すことをことを何よりも喜ばれるお方です。独り子を賜ったほどに世を愛してくださっているのですから。
(私の周囲には難しい問題が山積、多くの祈りをしなければならないので)年末年始がどうこうなどと言ってはいられません。身近にいる人々のみならず、悩みや苦しみの中にいるこの世の多くの人々のことを思うと、「年末だ、正月だ」と言って自分たちだけ楽しんだり、浮かれ騒いだりすることなどどうしてできましょう。苦難の中にいる人々に思いをはせ、みことばを拝読しながら、静かに祈り続けたい心境です。そうすべきです。飲み食いの新年会より、新年断食祈祷会が必要です。年末年始に対する思いも変わってきています。天路歴程の主人公クリスチャンの心境がよくわかります。

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●このメールをいただいて次の聖句を思い出した。

新共同 ロマ 14:17
14:17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

●このありがたいメールに、次のように返メールした。沈思黙考、自分の頭の中であれこれ考えるより、具体的な人に語る方が命がある。新約聖書の多くは「手紙」。

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○○兄
引き続きのお祈り、感謝の極みです。不思議な力と落ち着きと、信仰を与えられます。貴兄の祈りの姿勢は私の今後のプロトタイプです。
貴兄家の事件、小生の「胃ガン疑い」事件を通じて物理的集会の外に「WEBコイノニア」(貴兄命名)の光がクリスマスツリーの電飾のように灯ったことを非常に喜びます。クリスマスツリーの電球は小粒でも点燈すれば大きなきれいな樹になります。暗闇に光るこの光は「黄泉の門(死の力)もこれに勝つことはできない」(塚本訳マタ16:18)ということだと思います。私の信仰思想の革命です。この光の実在あって日本も大丈夫と思います。
私には多くの方々の祈りが注がれています。ブログで「弱み」(パウロ)を披歴したからだと思います。「我弱きときに強し」です。(2コリ12:10)
「飲み食いの新年会より、新年断食祈祷会が必要です。」は痛いご注意です。正月に集まる者たちを前にしてこれを言うと座がシラケますが、私自身が「飲み食い」の旗振りをするようなことは慎みたいと思います。亡くなった母がかって一度教会に行ったとき、婦人会のグループが「伝道集会に向けて断食しましょう」と言われて震え上がったと回想しました。母は「飲み食い」が好きでした。救いをいただいたならばそのことも分かっただろうになーと過ぎたことを思います。こんなことを思い出しました。

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●キリスト教は何と言っても「光、明るさ」。仏教は歎異抄の真理はあってもそこになぜか明るさがない。所詮それは大脳皮質内のことだからだ。それはわかりやすいが胸はあつくならない。暗さと明るさの対比をパウロは次のように言う。

塚本訳 ガラ 5:19-23
5:19 肉の行いは明らかである。──それは不品行、汚れ、放蕩、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、激怒、我利、仲違い、党派心、
5:21 そねみ、酩酊、酒宴等々である。前もって言ったことであるが、(今もう一度)あらかじめ言っておく、こんなことをする者は、神の国を相続することがないであろう。
5:22 しかし霊の実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善良、忠実、
5:23 柔和、節制である。これらのものに対しては律法は(力が)ない。

●酒宴の席のあとの心のカサカサはこれだ。教会行事のお祭り遊びのあとの心のカサカサも同じだ。そこには金銭問題や神学闘争や妬みや争いや排除があるのだ。原因は教会という物理的枠をつくってその繁栄拡大を目的としているからである。この世的なのである。資本主義の企業精神と似たり寄ったりである●教会の「長老」と称する人間に元企業人がいてそこで身につけたこの世的手法を定年後に教会に持ち込んで、経済のことに疎い牧師を支配している。そういう長老は決まって聖書勉強に不熱心。教会の運営が主のためだと思っている。誤まり。私は若い頃そういう人物のためにトンデモナイ目にあった●こういう輩とはまともに争わない方がよい。なぜか。彼らは教会のこの世的繁栄を目的としているこの世人間だから。一目散に逃げる方がよい。●人間の中にも大脳皮質内にゴミのように雑学が満載している人物がいる。雑学をもって教養と取り違え、視野が広いと思っている人間がいるが誤り。その人にムッとするような汚さは感じても清らかさや暖かささがない。そういう人間に限って「思想の自由、信仰の自由」を叫ぶ。堕落している証拠。まてまて、長くは生きていないから自然消滅を待つよりほかはない。あとが続くはずはない。

塚本訳 マタ 15:13
15:13 イエスは答えられた、「わたしの天の父上がお植えにならないものは皆、引き抜かれる。

塚本訳 ルカ 6:43-44
6:43 わるい実を結ぶ良い木はなく、また良い実を結ぶ悪い木もない。
6:44 木(の良し悪し)はいずれもその実で知られるのである。茨から無花果をとらず、茨の薮から葡萄をつまない。




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死の不安とおののき ++++++++ 所感

2007/12/28 07:05

0711228(金)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。舞台演技を指導してくれる師匠はいなかった。しかし杉村春子の一挙手一動を見習った。●人間は「良い師匠」に出会うことが人生を決することだが、もし恵まれなかったとしても「なくてならぬ真理」には到達できる。●「胃がんのうたがい」をHPで公表したら、コメント欄にありがたい激励があった。そのひとつ。
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危機の時には 稲妻のような 速さで 天使が 駆けつけてくれるという ようなことが カルビンの 「キリスト教綱要」に書かれていて (私事ですが) 今年の3月の 火事のとき 慰められました。

 どうぞ 主の 御守りを 御平安を お祈り致します。
 主が 「不安」を 日々 打ち砕いてく 下さいますように!

 そして 元気にプラハに行けますように!

                  M・Y

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●キルケゴールに「不安とおののき」があったように思うが読んでない●「胃がん」はまだ「疑い」の段階。しかし死への序章のような感じがする。知人に胃を一部切除した人がいたがその後しばらくは生きていたが昨年亡くなった。長くはなかった●余命18年と考えていたことが粉砕された。生命保険会社の「平均余命表」を信じて神を信じていなかった罰だ。「祈りの友」の全盲の星野利男さんから、「(余命18年などと)神の御心の先取りをしてはいけません」と言われたことを思い出した。●「不安とおののき」に直面して聖書の箇所が二か所浮かんだ。

塚本訳  マタ 26:36-39
26:36 ほどなくイエスは弟子たちと一しょに(オリブ山の麓の)ゲッセマネという地所に着くと、弟子たちに言われる、「わたしがあちらへ行って祈っている間、ここに坐って(待って)おれ。」
26:37 そしてペテロとゼベダイの子二人(だけ)を連れて(奥の方へ)ゆかれると、(急に)悲しみおののき始められた。
26:38 それから彼らに言われる、「『心がめいって』『死にたいくらいだ。』ここをはなれずに、わたしと一しょに目を覚ましていてくれ。」
26:39 そしてなお少し(奥に)進んでいって、俯けに倒れ、祈って言われた、「お父様、出来ることなら、どうかこの杯がわたしの前を通りすぎますように。しかし、わたしの願いどおりでなく、お心のとおりになればよいのです。」

●命の君、復活の君が、「(急に)悲しみおののき始められた。」(37節)とはなんと慰めだろう。そうなんだ理屈抜きに「不安」なのだ。疑いというのはがん宣告が「五分五分」だからなのだ。●「私には信仰があるから不安なんかない」という人がよくいるが、あれはやせがまん。少しも他人の慰めにならない。神の子イエスさえ「おののいた」のだ。このイエスの事実の方がよっぽど慰めになる。マタイはよく書いてくれた。●「胃の全摘」について。・・・昨夜の激励電話。某女性「(いまのうちに?)おいしいものをたくさん食べておいたらいいヮ」。

塚本訳  ルカ 12:19-21
12:19 それからわたしの魂に言おう。──おい魂、お前には長年分の財産が沢山しまってある。(もう大丈夫。)さあ休んで、食べて、飲んで、楽しみなさい、と。』
12:20 しかし神はその人に、『愚か者、今夜お前の魂は取り上げられるのだ。するとお前が準備したものは、だれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために(地上に)宝を積んで、神のところで富んでいない者はみな、このとおりである。」

●「今夜お前の魂は取り上げられるのだ」(20節)は現実のこと。先月両親を残されて49歳の若さで亡くなったナ・アさんは、寝るときは何でもなかったが、朝起きてこなかった。●人の命は100%(99%ではない)神に握られているのだ。●私が先日まで遺族会会長をしていたホスピスの医師たちの話。「信仰を持っている人の方が延命する」。これ無神論者の言葉だから重みがある。科学的事実らしい。なぜか。信仰による「希望という粘り」があるからだろう。
●東北のY兄が私のことを次のように祈ってくださることをブログで知って目頭が熱くなった。何と言う不思議な力。

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東京のTさんが昨日のご自分のブログ日記で、集団検診の結果、胃の精密検査が必要との結果が出たことを公表された。不安を抱いておられるTさんのことを特別に覚えて祈り始めた。そのために特別に祈りの時間をとり、まず主イエスが「こう祈れ」と言われた「主の祈り」を唱え、それからTさんのために具体的に私が思うところ、願うところを何でも神に申し上げている。例えば、「精密検査の結果、何も見つからないことを私は願っています、そんな連絡がくることをイメージさえしています」と申し上げた。また、「何か病気が見つかった場合には、主が多くの病人を癒やし、悪霊を追い出されたのと同じようにTさんをお癒しください」とも願った。午後帰宅してからは、ヨハネ14章から16章(新共同訳)を読みながらTさんのためにお祈りさせていただいた。それぞれの祈りの最後にもう一度「主の祈り」と唱えている。私は、主の名によって祈り求めれば(どんなことでも申し上げれば)、必ず父なる神の最善が成ると固く信じている。


ヨハネ14:13-14
14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

ヨハネ15:7
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

ヨハネ15:18
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

ヨハネ16:23
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。

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●主にあるこういう激励を頂くと何か不思議な「力」が湧く。これは何か。多分次の言葉であろうか。

ヤコブ 5:16","だから互いに罪を告白し、医されるため互いのために祈れ。義人
の(熱心な)祈りは働くと大きな力がある。

●午後、思うところあって、最初の勤務地である埼玉県上尾市を訪れた。日伸建設(旧大和建設)を訪問。若林伸一郎社長夫人から数名の消息をうかがう。若林広吉氏は93歳で大工仕事の現役とは驚いた。会社が存続していて喜んだ●私の処女作品である大木邸を探したが無い。いろいろ尋ねたら、大木さんはなくなり、その婿さんも亡くなり、家は壊されてマンションになっていた。もう46年も前のことだから仕方がない。生者必滅の思いと同時に、今日までの神の守り支え導きを思って胸が一杯になった。●帰宅すると[お祈りしてます」というタイトルでまた励ましのメール。これは貴重。感謝。秘めておくのは惜しいので下記に公開する。一部改変

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橋照男様

おはようございます。
久しぶりに、ブログを拝見いたしました。
「胃がん」の文字に驚きました。
不安の中にいらっしゃることと思います。
主の守り、支えがありますように、お祈りしています。

私が学校勤務の6年間、衛生管理者として全教職員の健康診断結果をチェックしていました。
胃の項目においては、毎年、約一割程度の人が精密検査の対象者でした。
結果、胃癌だった人はいませんでした。
健康診断はスクリーニングであり、あくまでも予測です。
ドクターの読影能力によって、精密検査の線引きは大きく変わってきます。
こんなことを書いても、気休めにはなりませんよね。
何かあっても、病気は治る時代です。
平安のうちに最善の検査が受けられますようお祈りしています。

寒いです。暖かくしてお過ごしください(^0^)/

主にありて ○○

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●こんなに多くの方々に祈られては、神も耳を傾けてくださるであろう。屋根に穴をあけて病人をつリおろした人の熱心にイエスが驚いて奇蹟をおこされた記事を思う。(マルコ2:1-12)
この方に返事を次のように書いた。

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○○様
主にあるお便りありがとうございます。
医学的見地からの説得力ある励ましを力強く思いました。
胃ガンでなければ感謝。胃がンであっても感謝という気持ちになりました。
今度の試練は「死への序章」「死への準備」のような気がしてしょうがないのです。
貴家。新家庭が主の祝福の内に「御心のなりますように」
ありがとうございました。深謝いたします。

                                           高橋照男
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●肉親の光男兄から旅行の土産物と手紙。「(先日会ったとき)元気そうで安心しました」という言葉に「弟を思う肉親の兄の思い」を感じることができてうれしかった。とても「胃がんの疑いあり」などとは言えない。肉親だからか。それに反して霊の兄弟姉妹には「胃ガンの疑い」という真実を告知できる。なぜだろう。信者仲間では「来世の復活」が当然自明のこだからなのではないだろうか。一種楽観の気持ちがあり、ゆとりとユーモアさえある。この明るさが病気を治す力ではないか。




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WEBコイノニアの力は甚大 ++++++++ 所感

2007/12/27 08:00

071227(木)5時半起床●昨日のブログ日記で)「胃がん!」と公表したら、東北のY兄、オーストラリアのO兄から、「矢のような速さの祈りの激励メール」が来た。何か不思議な天的な力を得た。これは何か。「祈り合いの力」というものか。とにかく得体のしれない安心感と力強さなのである。折り返し下記のような返メールを送った。一部改変

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Y兄、O兄

・有難うございます。まだ疑わしいだけで『がん』と決定したわけではありません。
それにしましても外部からのアドバイスというものはこれほど自己の脳を目覚めさせてくれて「益」となるとは感動です。落ち着きます.妻からも「あなたは常に思いこみすぎが深すぎるヮ」と注意されてます。しかし私は正直なところ「不安」です。
そこをお二人のお祈りの応援をいただけるとは本当にありがたいと感謝しています。WEBコイノニア効果甚大です。
7年前に火災で家を全焼したときは○○先生から「家は焼けても君が信仰を失わなかったことを感謝する」という天的な不思議な激励をいただきました。
思い出。「戦場のメリークリスマス」という映画のワンシーン。日本軍に生き埋めという残酷な処刑をされていく一英兵の周囲で、鉄条網の外の遠くから見ているだけで何もできない仲間の兵士たちが大声で賛美歌を合唱しているシーン。あのシーンが忘れられません。「信仰だけは失わないでほしい」。これが信者どうしの切なる願い、また祈りであると思いました。不安の渦中の激励、感謝ありがとうございます。
ゲッセマネの祈りでは「天使が力づけた」とあります。それを思い出します。

                                     高橋照男 2007.12.27
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●Y兄、O兄は私の「WEBコイノニア」の祈り合いの仲間である●それにしてもこの不思議な力を与えられるのはどこから来るのだろうか。「この苦しみ不安は私一人だけのものではない」というよくある人間的「慰め合い会」以上のものがある。ここに次のイエスの言葉の真理を思う。

塚本訳 マタ 18:19-20
18:19 なお、アーメン、わたしは言う、何事によらず、もしあなた達のうちの二人が心を一つにして地上で祈るならば、わたしの天の父上は(きっとその願いを)かなえてくださるだろう。
18:20 二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」

●ここで「WEBコイノニア」の入会案内(?)を考える。

・キリスト信者であること
・メールができること。できればホームページを開いていればなおよい。
・自分を捨てることができる人。恥、失敗、弱さの苦難共同体だから。「我弱き時に強し」(パウロ。Ⅱコリ12:10).
・多分パウロもびっくりして喜んで「私も会に入れてくれ」となることは間違いない。
・入会退会(?)は自由。いやなら返メールしなければよい。それが自然退会。普通の「メル友」ではない。真剣勝負の祈り合い。
・「来るものを拒まず。去るものを追わず」風通しの良い仲間。
・費用は無料、自分の通信電気代だけ。会則なし。教派問わない。神学論争なし。信仰論争なし。一方通行の祈り。社会批判の徒党を組まない。金銭の貸し借りなし。葬儀にも行かない(「葬式は死んだものにまかせよ」
・定員(?)。3人まで(イエスのいうように)。5人以上になったら分解して少人数でありつずける。派閥や教派をつくらない。本部(?)への届け出もしない。肉の目ではどこにそのグループがあるかわからない。祈りの相手はHPで知って参入できる。
・肉で会うことはない。一生会わないかもしれない。来世で初めて会えるかもしれない。「あーあなただったのですか」というようになるかもしれない。
・効果(?)。「祈り合い」で不思議な力が湧く。アドバイスによって自分の狭い考え方が改められる。目から鱗が落ちおるかもしれない。何よりも神が聴いてくださる。 その聖書的根拠は上記マタ 18:19-20

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●多分これが一番純粋なエクレシア。神の望みたもう集まり●離れているので事実上「無教会」。しかし実質的「有教会」●内村鑑三は「無教会は教会のナイ者の集まり」と言っている。●塚本虎二先生の雑誌「聖書知識」は4000部発行されていたが、先生は「自分の雑誌は悩み悲しんでいる人の涙を拭くチリ紙のようなものだ」と言われた●矢内原先生は戦時中に雑誌が発禁になると「通信」というハガキを出して地下抵抗者との連絡をとりあった。●初代キリスト教徒は何気なく「魚」の絵を地面に描いて相手を確かめ合った。これらみなアングラ行動。「WEBコイノニア」もアングラ通信。●塚本先生の雑誌は4000部発行されていたが、先生と各読者との二人だけのエクレシア。ある日若い女性読者が先生に結婚の挨拶にこられた。塚本先生「どんな結婚なの?」若い女性「三三九度です」と言うなり号泣。塚本先生「それではここであなたと二人だけで結婚式を行おう」。・・・・これ二人だけの真摯な神に祝された結婚式。多分神が最も喜ばれた結婚式。その人は今生きておられるか。嫁ぎ先の家ではおそらく「キリストのキの字も口には出さないで、キリストの香りを発していたに違いない」●また別の女性。その人は婚約中の人を戦争で亡くされた。先生のところで号泣。塚本先生「タオルでは足りない、敷布がぐしゃぐしゃになるまで泣きなさい」。するとその女性はその一言で人生が立ち直り、後にYWCAの会長にまでなられた。彼女の名は神戸照子。今頃どうしておられるか。●このように真のエクレシアは2~3人。20人30人、200人300人の人いきれのする集まりではない。●イエスはなぜわざわざ2~3人と言ったか。わずかに2~3人でもいいということではなさそうだ。2~3人の方が良いのだ。2~3人でなければならないという意味にとれる。●クリエイティブな会議は8人以下が良いとされる。会議中に誰でも発言できる最高の人数。なにかこれと似ている。

文語訳 マタ 18:20
18:20 二三人わが名によりて集る所には、我もその中に在るなり

●マタ18:20をSWORDで調べてみる。すると心に響く次の箇所がでてきた。

塚本訳 ヨハ 20:19
20:19 その日すなわち週の初めの日の晩であった。ユダヤ人を恐れて、弟子たちのおる部屋の戸には(皆)鍵がかけてあったのに、イエスが(どこからともなく)はいって来て(彼らの)真中に進み出て、「平安あれ」と言われた。

塚本訳 ヨハ 20:26
20:26 八日ののち、弟子たちはまた家の中に(集まって)いた。今度はトマスも一しょであった。戸には(皆)鍵がかけてあったのに、イエスがはいって来て(彼らの)真中に進み出て、「平安あれ」と言われた。

●イエスは人生苦難の渦中にある秘密結社のようなところに現れてくださるのだ。人生の暗いところ、人生苦難の暗い時に身を寄せ合っているところに「とこからともなく」現れて「平安あれ」と言ってくださるのだ。暗い部屋、2~3人程度きり集まれない小部屋。暗い部屋。そういうところにイエスは来てくださる。●200人300人の大教会にはあらわれそうにない。●霊南坂、富士見町、銀座教会の会員数は各1000人以上。はたしてそこにイエスは来たりたもうだろうか。●公立阿伎留医療センターで「胃がん」の予備検診。森一博先生。胃カメラの日2008年1月8日(火)、胃カメラ結果の告知は1月17日(木)●来年11月妻のプラハ演奏会(モーツァルトレクイエム)の帰途、ミラノに寄ってスカラ座に行く計画を立てる。●建築士としては多くの人が勧めるプラハの街を見てみたいのだが、はたして行けるだろうか。夢に終わってしまうのだろうか。●音楽DVDでカラヤン指揮で小品●私がHPで「がんの疑いあり」ということを知り、心配してくださった方二人から見舞いの電話をいただく。感謝。一人の方は「高橋さん。死んでもらっては困ります」。私は思う。「御心のままに、御心のままに」●この命、御心ならばすぐ取り上げられても仕方がない。なぜか。生まれてくるときだって自分の意志で生まれてきたのではないのだから●20:30恵からパソコンのレクチャー。恵が自分のパソコンから私のパソコンに入り込んで自由に操作できる方法を試みたが今日は未完成。明日20:00に延長●妻は腰痛治療のため十字式健康法へ。その後ホクトピアでのコンサートへ。倉石氏と船橋氏が出演


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胃がん! ++++++++ 所感

2007/12/26 13:37

071226(水)昨夜は給湯器故障で風呂に入れず、足が冷えて寝付けなかった。小さい保温マットで足を温めてようやく寝る。ホームレスの人々の寒さを思う●7時前に加藤棟梁が駆けつけてくれて、電源を切り、給湯器のコンセントを一回はずして再び入れたら直った。助かった。ありがたい。イエスが病気の治療をした意味がわかる。人間は常に「この世のことで困っている」のだ。そこをイエスが救ったのだ●遅い朝風呂。あー気持ちがいい。日本人は風呂がないと生きていけない。●日経「私の履歴書」は女優の森光子。「放浪記」の舞台で初めて主役。何と41歳。大器晩成だ。菊田一夫に「でんぐり返し」の演技を命じられる●「藤林益三」編集中、「三位一体論」が起こり、某氏にメール。内容は公的なことなので一部省略改変して「公開」する。
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○○様

昨夜から「三位一体論」を考えています。
現在、無教会の中で「贖罪論」論争が起こっているのを御存知でしょうか。
○○先生が震源地です。○○先生は以前から次のような主張でした。
●信仰のみで救われるという宗教改革の真理は良いが、その後に「ではいかなる信仰なら救われるか」という「神学論争」で殺し合い、斬り合いがはじまったというのです。
●そこで○○先生は「救いが先で信仰はあと」というテーゼを打ち立てていました
●このテーゼに対しては△△先生が「あれはカルビンと同じだ」と批判しています。
●ところがその○○先生はその考えを推し進めてパウロの「贖罪論」も疑問視するようになったのはこの3-4年のことです。それはこういうことです。パウロの贖罪論は「人間の側からの考え方の一つである。だからそれに外れた人を切り捨てるのはよくない。神は神ご自身のお考えの救いである」と大体こういうことです。これをご自分の雑誌に掲載されたので世の中騒然、外国(韓国、台湾?)でも騒ぎ始めたと聞いています。
●過日、全国集会で某女子と出会ったときのことです。わたしが○○先生の贖罪に関する考え方を批判しました。その後で、小生の日曜集会のプリント(贖罪論とは無関係のもの)を差し上げたところ「主人にも見せます」と言われたのですが、すぐわたしに突き返してきてしまわれました。プリントなので差し上げたつもりだったのですが・・・。おそらく遠方のご主人には送らなかったのであると思います。この某女子は○○先生の忠実な弟子です。私の批判にムッときたのであろうと思います。彼女は「神学者」です。だから私は神学者が嫌いなのです。人の顔を見るとすぐ切りかかってくるのです。私たちの集まりではそういうことはしません。
●かくいう私(高橋)はどう考えるかと言いますとおおよそ次の通りです。
 ・父親が子供に土産物を買ってきたときは「なぜお前にこれをあげるか」というような恩着せがましいことを言わない。しかし土産物を貰った子供は「これはお父さんの愛だ。赦しだ。」と考える。だからイエスには贖罪論はなくて、パウロにはある。しかし土産物をもらった子供たち(人間)同士で「いやお父さんの考えは多分こうだ、ああだ」と論争してその挙句土産物を置いて殴り合いがはじまる。これが「神学論争」。
 ・救いの問題をイエスに聞くとすると、「絶対恩恵の無条件の罪の赦し」(放蕩息子の父)のようでもあるし、「一切のものを捨てなければ永遠の生命は得られない」(富める青年、家族財産を捨てよなど)、というように二面があります。
 ・この二面は私自身の父としての経験からすると「お土産をあげるからいい子にしてなければだめだよ」というのと同じであります。二面であります。二つの気持ちであります。
・それをある子どもがタカをくくって「お父さんは、自分たちがいい子にしてなくても結局は下さるのだから。心配ない」と他の子供に言いふらすとなると、父は悲しんで怒る。
こういうことだと思います。
●最後に、私自身がイエスに「三位一体のことをどう考えたらよいですか」と尋ねたとします。するとイエスはマタイ16章15~19節を読めと言うだろうと考えました。

塚本訳 マタ 16:15-19
16:15 彼らに言われる、「では、あなた達はわたしのことをなんと言うのか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたは救世主、生ける神の子であります!」
16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。
16:18 それでわたしもあなたに言おう。──あなたはペテロ[岩]、わたしはこの岩の上に、わたしの集会を建てる。黄泉の門[死の力]もこれに勝つことはできない。
16:19 わたしはあなたに天の国の鍵をあずける。(だから)あなたが地上で結ぶことは(そのまま)天でも結ばれ、地上で解くことは(そのまま)天でも解かれるであろう。」

●ここに三位一体の秘儀が簡潔に見事に隠されているので、バルトも脱帽でしょう。
●しかし、この箇所は素人の私の直感ですが、後代教会の神学的作品だと考えます。
●しかし神学的作品だったとしても、私(高橋)は今この段になってむしろ18節以下を非常に重く受け止めます。つまり先生が亡くなって集会がなくなる無教会集会とは「エクレシア」ではなかったのではないのか。「先生の研究余滴」を拝聴しにいっていただけではないのか。これは無教会集会の重い課題です。
●ここで教会人は言います「だから聖礼典という不変に継続する儀式が必要なのだ。それがあれば先生が亡くなってもエクレシアは継続する。無教会は先生が亡くなると集会は解散になる」と。ソーカ?。NO!。「聖礼典に救いなし。建物としての教会堂に救いなし」
●ではエクレシアはどこにあるか。使徒伝承、正統信仰、三位一体を信じている「人間」のところにある。人間である。あくまで人間である。

キリストが神殿であり、信者それ自身が生ける石である。

塚本訳  ヨハ 2:19-21
2:19 イエスは答えられた、「このお宮をこわせ、三日で造ってみせるから。」
2:20 ユダヤ人が言った、「このお宮を建てるには四十六年もかかったのに、あなたは三日で造るというのか。」
2:21 しかしイエスは自分の体のことを宮と言われたのであった。

新共同 Ⅰペテ2:5
2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

                                   2007.12.26 高橋照男

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●妻が腰痛で不調のため、代わりに郵便局。昨日は娘から「お父さん。(パソコンばかりやっていてはダメよ)。お母さんのこと手伝って」と言われた。●先日受けた市民がん検診の結果通知が来る。胃がん!。要精密検査。●ショック。ガーン(笑)ときた。●おっと、いよいよおいでなすったかとも思った●クソッ、ナンノコレシキだ。●まー精密検査の段階だから「よくあること」とはいえ、不安。心配。落ち着かない。こわいよー、死ぬのいやだよー,もっと生きたいよー●苦しい時、悲しい時は神に言おう、神に向かって泣こう。神の胸を打ち叩いて思い切り泣こう「なぜだー、なんでだよー、なんでなんだよー」●私の死因は家族(母、弟)の病歴から同じ肺がんかあるいは自分の7年前の脳内出血の病歴から脳血管障害だとばかり思っていたが、その他の部位の「がん」もありうることを認識させられた。余命18年と思っていたが、トンデモナイ。それもわからない。とにかく「がん」と宣告されたら、早い。一年はもたない。●やることをやろう。それは「藤林益三」の本の出版。言うべきことは言っておかなければならない。それは有体的復活の使徒伝承。●いいさいいさ。やるべきこと、言うべきことを言ってさっと散ろう。もうこの年齢(64歳)まで生かされたのだから、余命の長短に不服は言うまい。●もし入院ということになると大きい病院の方がよいと妻が言う。明日、公立阿伎留医療センターで予備検診。来春早々に本検診。死。良寛の心境だ。

  裏を見せ、表を見せて散るもみじ 良寛 

●「裏」。いつまでもあると思うなこの命。今さら何を隠そうこの命。何を隠そう我が恥を。裏を見せて死のう。カッコ悪いところを見せて見苦しく死のう。来世での有体的復活を信ずる者にしてはかなり慌てているじゃーないかと笑われて死のう。キリスト信者にしてはみっともないと思われて死のう。アイツ死んでさっぱりしたと思われて死のう。泣かれず惜しまれずに死のう●私は十字架の血で罪を洗われ楽になったのだ。あの汚れが清められたのだ。この事実だけで成功の人生だったのだ。それを言い残して死のう●14:30武陽ガスの鈴木伴行氏が来て給湯器点検。原因不明だが、コンセントを抜いてまた入れたことによってリモコンが復旧。なぜ直ったのかはわからない。おそらく機械内部のブレーカーがいったん落ちたのではないか。電源復旧で元に戻ったのではないだろうかという。●先日の光ケーブルの若手技術者といい、本日の若手技術者といい。みんな若い人で頼もしい。日本には先がある。



  
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イエスを神の子と信じられる人 ++++++++ 所感

2007/12/25 06:31

071225(火)4時45分起床。朝の黙想「イエスを神の子と信じられる人」●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。NHKディレクターの岡本愛彦氏と結婚。岡本氏には妻子があった。ただ「人間愛」だけを基礎にした軽率な結婚よ。案の定4年で破局。さもあらん。そういう結婚がうまくいくということが証明されてはならない。表向きは女優の仕事と両立しなかったというカッコイイ理由だが、本質は違う。神ぬきの「人間愛」に土台を置いた結びつきだったからである。●恋愛結婚が悪いというのではない。人間愛を神よりも上に置くのがいけないのだ●こうなってしまった場合はどうしたら良いのか。「よくあることだよ」ということでは済まないほど本人は痛手を負うのだ。森光子自身が言う「精神的にとてもつらかった」と。こういう経験も人生「放浪記」の一こまだなどと変な「悟り」で済ますことができないほど、人間の精神は高級にできている。そういう人間に襲いかかる懊悩の苦がその証明である。●救われたい、清められたい、汚れを払いたい、平安になりたい、自由になりたい、と思うのが人間としての自然●ある!、ある!、あるのだ。その救いの道が。神の方から「購いの道」を開いてくださったのだ。十字架による救い。そこで「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」にあずかれるのだ。●あー、この「救いの道」があって、人生は「息がつけるのだ」「清算できるのだ」●そして人生「出直し」「仕切り直し」「清算」である。●義人なし、一人だ二なし。人間は「罪人」であることにおいて全員が平等●森光子のような人生を手放しで美化しているうちは日本には福音は土着しない。神の峻厳な義による裁きの認識が希薄。裁きなくして救いなし。十字架は「神の義と愛の合致するところ●朝の黙想「イエスを神の子と信じられる人」。について聖句を連想。

塚本訳2 ヨハ 1:12-13
1:12 しかし受け入れた人々、すなわち、その名を(神の子であることを)信じた人には一人のこらず、神の子となる資格をお授けになった。
1:13 この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神(の力)によって生まれたのである。

●人がイエスを神の子と信じられるのは「超自然的」なこと。普通の人間にはできない神からの特別な恩恵。●大伝道者の子弟必ずしも信者になれないのはそのため。周囲から「信じろ、信じろ」と言っても無理なこと。それは子供に恵まれない人に向かって「産め、産め」と迫るのに似ている。無理なのだ。だから「イエスを神の子と信じろ」と大脳皮質に訴えるのは間違いなのだ。●「イエスは神の子」という「超自然的なこと」が信じられると、この世の禍幸(まがさち)はことごとく相対化される。だい不幸も「何のこれしき」と言えるようになる。なぜか。パウロは次のように言う。

口語訳 ピリ 3:8-9
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

●この世の人が「これが幸福」と思っていることは「イエスを神の子と信じられる」ことに比べれば「月とスッポン」。「太陽と月」。この世の幸福は色あせて見えてくる。逆に「この世の不幸」、何のそのだ。●たとえ、病気で肉体がボロボロ、人生がボロボロ、それでもかまわないのだ。ヘンデル「メサイア」の第45曲のソプラノ独唱はヨブ記19章25-26節である。

口語訳 ヨブ 19:25-26
19:25 わたしは知る、/わたしをあがなう者は生きておられる、/後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
19:26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、/わたしは肉を離れて神を見るであろう。


●我々の人生は誰でも等しくヨブのように皮がボロボロ、搔いても掻いてもかゆみはおさまらない。人生ボロボロ、欠点だらけ。不足だらけ。家系が汚れている。両親不和の不完全家庭、受験の失敗、学業の失敗(落第)、就職の失敗、恋愛の失敗(失恋)、勤務先の失敗(退社)、結婚の失敗、結婚生活の失敗、仕事の失敗、勤務先の倒産、失業、失職、家計の失敗(火の車)、子宝に恵まれない、子育ての失敗、健康の失敗(病気)、各種ローンの重荷、借金苦、寿命の失敗(早死に)、嫁姑の確執、兄弟間の争い。相続争い、老年の経済不安、老いの悩み・・・・・・アー人間は等しく全員が失敗人生だ。悩みの人生だ●しかし「イエスを神の子と信じられる人」には再生、復活の希望がある。罪が清められる望みがある。現実逃避ではない。負け犬ではない。真の認識に至る通らねばならない道である●そこで認識する。「幸いなるかなボロボロ人生の人よ」。その人はこの世に望みを失って神に救われるであろう。●エクレシアは「イエスを神の子と信じられた人」の集まり。それは自然体。そういう人は自然に集まってくるものだ。●人は「エクレシア」で救われるのではない。エクレシアは救われた人が集まるところ。エクレシアの語源は「呼び集められたもの」。●イエスは奇蹟として処女マリアから生まれた。今日はクリスマス●妻が庭仕事をして腰痛。代わりに私がBKと郵便局。妻はいつまでも健康であってほしいと思うがそうともいかないのが現実●「藤林本」の編集。編集長の津上毅一さんと「三位一体論」のやりとり●風呂の湯沸かし器が故障。今日は風呂に入れない。災害地の方々の苦労を思った●家族が多くなるとそれぞれの家から病気の連絡。今日は風邪熱39度との知らせ。回復を祈る



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この大バカヤローと言ってしまえ ++++++++ 所感

2007/12/24 09:41

071224(月)天皇誕生日振替休日。6時半起床。朝の黙想「忍耐の時」●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。菊田一夫に拾われる。それは何と38歳の時。大器晩成である。●私の知人MさんのHPには次のようにあった。12月19日。

http://nikkou.cocolog-nifty.com/

クリスマスはいちゃいちゃする日ではありませーーーーんっ! (←nikkouがオアシスゴスペルクワイアに所属していたとき、ディレクターのひろこちゃんが、クリスマスリハーサルで絶叫した名セリフ。ちゃんと録音を採ってあります。)
そして、2億円のクリスマスツリーをめでる日でもありませーーーんっ

●この「公開ブログ」での絶叫。オジンが言うのならまだしも、若い人が言っているのだから日本にもまだ望みがある。●ブログは公開、そこで真理を叫ぶときは決まって迫害される。石を投げられる。路傍伝道だからである。

塚本訳 Ⅱテモ3:12
3:12 (私だけでなく、)キリスト・イエスにあって敬虔に生きようとする者は皆迫害される。

●クリスチャンが迫害されたときはどうすればよいか。「我慢我慢、忍耐忍耐」は正道だが。私流のアドバイスは次の方法。●「○○のバカヤロー」と大声で、あるいは心の中で10回怒鳴る。すると怒鳴っているうち7~8回目ぐらいに不思議に心に変化が現れる。それは「あの人にもイイところあるなー」ということと「この私もいけなかったなー」となる。これは不思議な現象。なまじ聖書の言葉や先人の慰めよりよっぽどすっきりする。「忍耐の呪文」を唱えても悩みは消えない。いつまでも悩みに圧倒され続ける。●「○○のクソバカヤロー」「○○の大バカヤロー」「○○なんか見損なった、バカヤロー」「アイツまたやったか。バカメ」「まだ懲りないのか」「○○なんかイイカゲンに天罰アタレ」「アイツはギャフンとなって反省する日がくるように」・・・・・こう言っているうちに「でも○○にはいいとこもあるなー」と思えてくるから不思議。そして「この俺も少しは悪いところがあったかなー。いい気になってやりすぎたかなー。いや自分の方こそクソジジーのクソバカヤローなのかもしれない」と思えてくるから不思議。●この場合、「我慢、忍耐」は律法主義、行為主義。「クソバカヤロー」となりふりかまわず叫ぶのは福音主義かもしれない。なぜか「神だって、怒る。」「クソバカヤロー」とは言わないまでもその気持ちになっている。その一部は次のとおり。

塚本訳 マタ 22:7
22:7 王は憤り、軍隊をやってその人殺しどもをうち滅ぼし、その町を焼き払った。

塚本訳 ルカ 14:21
14:21 僕がかえって来てそのことを主人に報告すると、主人は怒って僕に言った、『大急ぎで町の大通りや路地へ行って、貧乏人や片輪や盲人や足なえをここにつれて来なさい。』

塚本訳 マコ 11:14
11:14 イエスはその木に言われた、「もはやいつまでも、だれもお前の実を食べることのないように!」弟子たちは(この呪いの言葉を)聞いていた。

塚本訳 マタ 21:12-13
21:12 イエスは宮に入って、宮(の庭)で物を売る者や買う者を皆追い出し、両替屋の台や、鳩を売る者の腰掛けを倒された。
21:13 それからこう言われた、「『わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである』と(聖書に)書いてあるのに、あなた達はそれを『強盗の巣』にしている。」

●関根正雄先生が講演されたとき、フロアーからある質問した人に向かって「馬鹿だねー、君は!」と怒鳴られた。怒鳴られた人は「愛弟子」であった。そのとき私は先生はこの人をよほど愛されているのだなーと思った●私の尊敬するA先生の息子はバイクで教会に向かう途中で事故を起こして即死。それを聞いた牧師は「バカヤロー!。あのあわて者めが。死ぬこともあわてやがって」と怒鳴った。墨子は彼を深く愛していたのだ●私はA先生に手紙を出した。「先生はこれで男になれました」と●かってゼネコンに勤務していた時のこと。某天下りのN氏(故人)が「今、社長から怒鳴られた。これでやっと私もこの会社の社員となれた」と語った。●人は「バカヤロー」と言われて初めてその一員となる●「バカヤロー」と怒鳴られる人は「愛されている」証拠。人間愛してない人間には怒鳴らない。無駄だから。見込みがないから。●音楽家の故斉藤秀雄の小沢征爾に対する「しごき」はすごかったらしい。見込みがあったからである。いま小沢はウィーン国立歌劇場の指揮者。日本では「サイトウキネンオーケストラ」演奏会を開いている。彼はモーツァルトの「ディベルティメント」を振るときには斉藤先生のことを思い出して泣く。●「幸いなるかな神にバカヤローと怒鳴られる人」。「惨めで不幸で悔む人生だと思っている人」。その人は神に愛されている証拠●私が脳内出血で意識不明で聖路加にかつぎ込まれたときのこと。駆けつけた故大熊好子さんはロビーで妻に「高橋さんって、よっぽど神様に愛されているんですねー」と言ったという。その大熊さんが召されて早10か月になる。●自分の子供に「オメー、そんな奴だったのかヨー」とか「オレがこうなったのもオメーのせいだ」と毒づかれるときは、まだ見込みがある。元気な証拠。自立の始まり。そういう暴言がない時は力がないから「自殺の道に走る。●親子、兄弟、親戚が怒鳴り合っているうち、また不平不満を言いあっているうちは「生きている証拠」、相手に愛情がある証拠●親の願いというものは、子供が自分を罵って離れ去って行ってもどこかで生きていてほしいものなのだ。●親に完全な者はいない。いつかは子供に罵られる宿命を負っているのだ。牧師や校長の息子に「親を罵る」例が多いと聞く。あー霊肉分裂の苦しみよ。

塚本訳 マタ 10:34-36
10:34 地上に平和をもたらすためにわたしが来た、などと考えてはならない。平和ではない、剣を、(戦いを)もたらすために来たのである。
10:35 わたしは子を『その父と、娘を母と、嫁を姑と』仲違いさせるために来たのだから。
10:36 『家族が自分の敵となろう。』












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巨大な光に献身しよう ++++++++ 所感

2007/12/23 07:07

071223(日)5時起床。朝の啓示「巨大な光に献身しよう」●NHK3CH「こころの時代」はカリヨン子供センター理事長で弁護士の坪井節子。その旅路は次の通り。●クリスチャンの両親のもとで生まれるが思春期の時「いい子」でいることが息苦しくなり、神から離れて「哲学」を学んで解放される●弁護士になって「人権」に取り込み、虐待の子供と関わる。不登校などはまだ軽い、親に虐待されて捨てられる子どもと向き合う。両親に虐待されて育った子供は「あんたは生きていていいんだよ」ということ言ってくれる人に出会うとき非行から立ち直る。●そういう子供たちとの真剣勝負の格闘の生活を通して「このねじくれた子供を救えるのは『神様、あなたきりいません』と祈るようになった●その苦闘のなかでで20年ぶりに「祈る」ことに戻り、教会にも戻ったという。●そこで罪なく虐待されて死んだイエスと、両親から虐待された子どもとが重なって、初めて十字架の意味がわかった。自分が追い求めていた「人権」とはこのイエスの十字架にあることも悟ったという。●非行者が坪井さんに向かって「バカヤロー」と怒鳴るようになったら自殺をなくなった兆しなので喜びという。まーすざましい格闘の日々。●更生した人は言うという「シンナーを吸っている人の友となれるのはシンナーを吸っていた人きりなれない」●私は心で思った。キリスト教万事!、ハレルヤ!●御両親はお喜びであろう。20年とはかくも長き旅路。否、かくも短き旅路。両親の祈りは20年後に聞かれたのだ。●人は回り道をして神の愛を知る。●「悩む子らを天に招く」(賛美歌501番2節)を思う。


讃美か501番

1. いのち の みことば たえに くすし,

みえざる みかみ の むね を しめし,

つかえ まつる みち を おしう.



(Refrain)

いのち の みことば たえなる かな,

いのち の みことば くすしき かな.



2. しゅ いえす の みことば いと したわし,

あまねく ひびきて よ の ちまた に

なやむ こら を あめ に まねく.



3. うれしき おとずれ たえず きこえ,

ゆるし と やわらぎ たまう かみ の

ふかき めぐみ, よ に あらわる.

●非行少年と格闘する坪井さんの話を聞いて長い間わからなかったへブル12:4がわかるようになった。

新共同 ヘブ 12:4
12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

●人に福音をつたえるには自らが「苦闘」しなければならない「自らが苦しまなければならない」「自らが同じ低いレベルに突き落とされなければならない」●この巨大なキリストの救いの光。私はこの巨大な光に残る日々を献身しよう。成果があがるかどうかは関係ない。ただひたすら身をささげよう。今日はクリスマスだ。●神は巨大な光だ。

塚本訳 マタ 4:16
4:16 暗闇に住まう(これらの地方の)民は大いなる光を見、死の陰の地に住まうこの人々に光がのぼった、』

塚本訳 ヨハ 8:12
8:12 かくてイエスまた人々に語りて言ひ給ふ『われは世の光なり、我に從ふ者は暗き中を歩まず、生命の光を得べし』

●10:00 妻と二人だけでクリスマス家庭礼拝。マタイ4:16をテキストにしてSWODの引照を読む。一昨年旅をした聖地を回想した。讃美歌はP・ゲルハルト「まぶねのかたえに」賛美歌107と「神のみ子はこよいしも」賛美歌111番●三鷹木曜会合唱団の「賛美歌」CDを聴く。なかなか素晴らしい。理由は信者の演奏だから。●信者でもない人の教会堂設計は「どことなく」「なんとなく違う」。またその違いがわからなければならない。」それは「造花」のようなものである。命がこもっていない。同じく信者でない人が演奏する「宗教音楽」も同じ。それはメロディーの美しさだけの追及にすぎない●指揮者の黒岩英臣はもとカトリックの修道僧。音楽へのあこがれ断ちがたく、演奏家になる。鍛え方が違うからその演奏も深い●学校を出て、どこかの音楽コンクールに入賞してそのまま演奏家になった人間の音楽は深みがない。人生の苦労を知らないからそれはガラス細工の音楽。●年賀状と、宅急便●夕食は鳥とシャンパンで妻と二人だけのクリスマス。自分たちと家族の家庭と集会の人たちの祈り。●クリスマスはお祭りだから集まることは楽しいが、そこで十分に心が満たされることはない。空しい気持ち、心がカサカサする後味が残る。なぜか。お祭りの遊びだから●こんなことを批判するのは泥川の下流を批判しているようなもの。徒労。●最高のクリスマスの例。故坂上国蔵さんはクリスマスの夜、山の上にある結核療養所に一人寝ている友人のDさんを訪ねてその枕元で祈った。その帰途満天の星。降るような星の下をひとりで山を降りた。「これが本当のクリスマスだと思った」という。坂上さんもDさんもこの世にはいない。●あのよき坂上さんは家族をどうされたのかなーと思う。しかしパウロの次の言葉を思う。

塚本訳 Ⅰコリ7:28-31
7:28 しかしたといあなたが結婚したからとて、罪を犯したことにはならない。またたとえ処女が結婚しても、罪を犯したことにはならない。しかしこんな人たちは、肉体に苦しみがあるにちがいない。わたしはあなた達をそんな目に合わせたくないのである。
7:29 兄弟たちよ、わたしが言うのはこのことである。──時は迫った。(だから)今から後は、妻を持つ者は持っていない者のように、
7:30 泣いている者は泣いていない者のように、喜んでいる者は喜んでいない者のように、(物を)買う者は(何も)持っていない者のように、
7:31 (つまり、)この世と交渉のある者は交渉がない者のように、しなくてはいけない。この世の姿は(じきに)消え去るのだから。

●パウロは言う。結婚は苦だという。なぜか。子供を持つことは喜びでもあるが苦。嫁をいただくことも喜びではあるが苦でもある。孫ができることは喜びでもあるが苦でもある。●しかしこの「苦」を逃れてカトリックのように生涯独身のほうがより「偉い」というのは誤り。結婚や子育て、親族に「問題児」「反逆児」「非行児」「ツッパリ」を抱えて苦の経験をすることが「自分の十字架」「己が十字架」。その人の報いは大きい。

塚本訳マタ 10:37-38
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたし(の弟子たる)に適しない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたし(の弟子たる)に適しない。
10:38 また自分の十字架を取ってわたしのあとに従わない者は、わたし(の弟子たる)に適しない。

●しかし、クリスチャンはまず「自分の」家族が「十字架」なのだ。それでいいのだ。それでいいのだ。その「苦」が人の心を打つのだ。第二パウロはつぎのように言う。

塚本訳 Ⅰテモ5:8
5:8 自分の身内の者、特に家族を顧みないなら、その人は信仰を棄てたので、不信者よりも悪い。





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「永遠の生命のために働け」とは ++++++++ 所感

2007/12/22 09:38

071222(土)6時起床●朝の啓示「永遠の生命のために働け」●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。今は大女優の森光子も昭和27年、31歳の頃には肺結核で2年も寝ていた。逆境。「わたしはどん詰まりになると女神のような人に出会う」という。ストレプトマイシン一本が公務員の月給分もするものを投与してくれた山口博医師の母など三名の「母」に出会う。「実の母を早くに失った私は代わりに代わりに三人の素敵な母と出会うことができた」という。親はなくとも子は育つ。次の聖句を思い出した。

口語訳 詩 27:10
27:10 たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。

●朝の啓示「永遠の生命のために働け」について研究。その聖書の箇所は次の通り。

塚本訳 ヨハ 6:27
6:27 (食べれば)無くなる食べ物のためでなく、いつまでもなくならずに、永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい。これは人の子(わたし)があなた達に与えるのである。神なる父上が、(これを与える)全権を人の子に授けられたのだから。」

●これを字句通りに取ると、この世の仕事を捨てて牧師伝道者になれ、修道院に入れということになる。NO!。ここが教会主義と無教会主義の分水嶺。●無教会は聖職者の否定、伝道で食べることの否定。●なぜか、それは「人間の業」でその「働き」が可能ということではない。27節の後半では、それは神が与えるものであるということがわかる。●無教会は「この世の職業を目的としないで手段にする。来世に入るための手段とする。それが無教会の職業観。その聖書的根拠は次の通り。

塚本訳ルカ 16:9-13
16:9 それでわたしもあなた達に言う、あなた達も(この番頭に見習い、今のうちにこの世の)不正な富を利用して、(天に)友人[神]をつくっておけ。そうすれば富がなくなる時、その友人が永遠の住居に迎えてくださるであろう。
16:10 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。
16:11 だから、もし(この世の)不正な富に忠実でなかったならば、だれが(天の)まことの富をあなた達にまかせようか。
16:12 もし他人のもの[この世のこと]に忠実でなかったならば、だれがあなた達のもの[天のもの]をあなた達に与えようか。
16:13 しかし(この世のことはみな準備のためであるから、それに心を奪われてはならない。)いかなる僕も(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。」

●この13節の「準備であるからそれに心を奪われてはならない)という塚本敷衍は価値がある。これは先のヨハネ6:27に先立つ6:26の解説でもある。

塚本訳 ヨハ 6:26
6:26 イエスが答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、あなた達がわたしをさがすのは、(パンの奇蹟でわたしが救世主である)徴を見たからでなく、パンを食べて満腹したからである。

●つまり人間は「食べること」を人生の主目的にしてはいけないということだ。私の場合に当てはめれば、「家を建てること」を人生の主目的としてはいけないということだ。食べ物がなくなるのと同じに建物もいつかはなくなるのだ。それは永遠ではないのだ●ではペテロがそうであったように何もかも捨てて「伝道」に邁進するべきか。修道院や神学校にでも入って牧師になるべきか、はたまたマザーテレサのもとに行って「奉仕活動」をすべきか。あるいは家事を放りだして国会請願のデモに行くべきか。憲法改正の反対運動に時間を注ぐべきか。教会の諸活動に入り浸るべきか。NO!。それが「永遠の生命のために働く」ことではない。●自分に与えられた「地味な」「目立たない」「パッとしない」「普通の」「何でもない仕事」を手段として人に仕えるべきだ。それが日本に「福音が真に土着する道」なのだ●ところがこれを履き違えて、無教会の福音を信じてこの世の仕事に邁進して「この世的に偉くなる」「その道の権威者になる」「高い地位になる」ことが目的と誤解して、そういう人を尊敬する風潮があるのは誤り●「イエスを神の子と信じられる」そのことだけが人生の目的なのだ。それが「永遠の命に至る食べ物」なのだ。それは人間の「伝道」では来ない。神が与えることによって来る●ところが人間の意志に反して、ある人は神に用いられて「主の業」に追い込まれる。「主の業」とは人間の行為ではない。それは神に「血祭り」にされるのだ。不幸、行き詰まり、病気、失職、失敗、恥、事故、事件、裏切り、反逆、反抗、貧困、追放などのまったくカッコ悪い道に追い込まれるのだ。●かくして「貧しき信徒」(八木重吉)になり下がるのだ。それでいいのだ、「信徒」それ自身に最高の価値があるのだ。人間的栄誉はもぎ取られるのだ。



つまらないから
あかるい陽(ひ)のなかにたってなみだを
ながしていた

(八木重吉「貧しき信徒」より)

●この世的に何の立派なことができなくても、高い地位、博士、学者、大伝道者、大聖書学者、大牧師、信者を獲得できなくても、それでよいのだ、それでよいのだ。自分の罪が十字架で赦されて「イエスは神の子」だと信じられればそれが「永遠の生命のために働く」ことになるのだ。それを信じ続けることが「働く」ということなのだ。聖書には次のようにある。

塚本訳ヨハ 6:28-29
6:28 すると人々がたずねた、「(それをいただくために)神の(御心にかなう)業をするには、何をすればよいのでしょうか。」
6:29 イエスは答えられた、「神がお遣わしになった者を信ずること、これが(御心にかなうただ一つの)神の業である。」

●なんとこれは今日の黙想の課題であるヨハネ6章27節の次に出てくる個所ではないか。
つまりキリストは神に使わされたお方であると信じつずけることが「永遠の命に至らせる食べ物のために働働く」ということなのだ。「イエスは神によって奇跡的に処女から生まれた」ということを信じられることは神から与えられることなのだ。人間の発憤努力による「伝道の業」ではないのだ。●今朝のデヴォージョンは以上のようであったが、念のためTSKで見てみよう。


口語訳 ヨハ 4:14
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。


口語訳 イザ 55:2
55:2 なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。


口語訳 マタ 6:19
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。

口語訳 マタ 6:31
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

口語訳 ルカ 10:40
10:40 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。


口語訳 Ⅰコリ6:13
6:13 食物は腹のため、腹は食物のためである。しかし神は、それもこれも滅ぼすであろう。からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。


口語訳 Ⅱコリ4:18
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

口語訳 コロ 2:20-22
2:20 もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、
2:21 「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。
2:22 これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。

口語訳 コロ 3:2
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。

口語訳 ヤコ 1:11
1:11 たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。

口語訳 Ⅰペテ1:24
1:24 「人はみな草のごとく、/その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、/花は散る。


口語訳 Ⅱペテ3:11-14
3:11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、
3:12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
3:13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。
3:14 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。

口語訳 ヨハ 6:40
6:40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。

口語訳 ヨハ 6:51
6:51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

口語訳 ヨハ 6:54
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。

口語訳 ヨハ 6:58
6:58 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。

口語訳 ヨハ 6:68
6:68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。

口語訳 ヨハ 4:14
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。

口語訳 ヨハ 10:28
10:28 わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。

口語訳 ヨハ 11:25-26
11:25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
11:26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。

口語訳 ヨハ 14:6
14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

口語訳 イザ 61:1
61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、


口語訳 イザ 61:1
61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、

口語訳 マタ 19:16
19:16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。


口語訳 使 2:37
2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。

口語訳 使 16:30
16:30 それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。

口語訳 ヨハ 3:16
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。


口語訳 使 16:31
16:31 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。


口語訳 ロマ 4:5
4:5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

口語訳 ロマ 10:3-4
10:3 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
10:4 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。

口語訳 Ⅰヨハ5:1
5:1 すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。

●これだけ読めば聖書の思想は概観できる。難解な個所も「アーそーか」と納得できる。TSK日本語ヴァージョンやBbBを読めばおそらく世界最高の聖書注解10冊をよむ以上の効力がある。なぜか。イエスの言葉をイエス自身が、パウロ自身が説明しているからだ。●「喪中欠礼」の手紙で親戚の中島重行(85歳)、幸子(79歳、私の従妹)夫妻の御長男の晃さんが49歳の若さで先月亡くなったとの知らせ。早かった。親より先に子供が逝く悲しみ。早速お悔やみの電話をした。前日まで元気だったが朝起きて来なかったという。人生にはこういう亡くなり方もあるのだ。気の毒、気の毒。御両親の嘆きはいかばかりか。●恵と華子さんと見時と風人と電話。健康を祈る●「藤林益三」本の編集●妻はメサイアの練習。次男の守と一緒。●風邪で早寝。妻が風邪薬を購入してきてくれた。●人間、どんなに困難でも「祈り」を忘れてはならない。神の助力を得るためである。「祈り」は良いひらめきを得られるし、神の「ツキ」を得るためである。
























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三位一体の聖書的根拠 ++++++++ 所感

2007/12/21 07:36

071221(金)6時20分起床、出勤日●朝の啓示「三位一体の聖書的根拠」●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。戦後のドサクサで苦労する。肺結核を幼馴染の山口医師から診断される。山口医師は高価なストレプトマイシンを闇で購入して投与。「あんたはモルモットだから」気にするな(実験に使っているのだということ)と言った●私の父は若き日から結核で苦しんだ。だから私は「ストレプトマイシン」のことは耳にしていた。父の口癖は「健康第一」。母の口癖は「健康さえあればなんとかなる」。貧困で三人の子供を育てた苦労人の言葉だ。●私は貧困家庭に育った故に「幸いなるかな貧しきもの」というイエスの言葉が理解できた。聖書の真理は大脳皮質ではわからない。涙と苦悩で「心」でわかる。●過日某氏から英語圏のトラクトを送っていただいた。いままで見たトラクトの中では最もすぐれていた。その某氏にお礼と所感を書いたので、公表する。一部改変省略。

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○○兄

「トラクト」を早速読ませていただきました。率直な感想を申し上げます。
●著者名がはっきり書いてあるのは感じが良かったです。この種のトラクトは著者名がなくて「人を馬鹿にしたような」態度です。
「教えてやる」という姿勢が多いのですが、これは著者名があることで、内容に責任を持っていることがわかります。感心します。
●この種のトラクトは一般に「神・罪・救い」であってそれは変わりないのですが、これには「復活」があるので普通のものと違います。
「復活」を言わない伝道は半分だと思っています
●山室軍平の「平民の福音」のようなものが欲しいとのことですが、私もあの含蓄のある「本」のようなものが必要と思います。
●ただ、このトラクトははじめから神あり、罪あり、救いあり、という「キリスト教国」の人間に対する「語りかけ」ですが、日本においては
宗教とは何か、神はいるのか、罪とは何か、救いはキリスト教だけか、死んだらどうなるのか、仏教とはどう違うのか、などなど非常に困難な問題があると思います。ですからなまじの伝道では日本人には歯が立たないと以前から思っています。内村の宣教師批判もその辺にあったものと解します。
●過日、上野で仏教の展覧会(天台宗)に行ったとき満員でびくりしました。帰りながらこれだけ高度の宗教をいただいている日本には「なまじ」のキリスト教伝道では通じない、通じるとしたら「聖書そのもの」きりないと思ったことでした。
●以前1973年、亡き父とニューヨークに行ったときのこと。タクシーの運転手がクリスチャンであって車中でトラクトを手渡された。私たちも「クリスチャンだ」というと降りるとき「See you again in heaven」と言われました。わたしはそのとき米国の底力というものを感じました。あの運転手はどうしているか。
●私がキリスト教がわかった本は塚本虎二の「キリスト教十講」という小冊子。バッハの杉山好は三谷隆正の「信仰の論理」、これも小著。キリスト教の本質は小著によいものがあると思います。塚本先生は日本の伝道は「文書伝道」だということがわかったと言っておられます。
●無教会の中で○○○先生はご自身の集会で「聖餐式」を行い始めました。理由はご自分に脳性小児麻痺の子供が生まれたのです。読めず分からずです。ですから信仰告白など到底できません。そこでわかっても分からなくてもせめて救いの秘儀を見せたい。聖餐式は「見える言葉」だと思われているのだと解します。
●ランケの「世界史概観」には、キリスト教がヨーロッパに入るとき、文盲の民には「見える言葉」の儀式が有効だったというようなことが書いてありました。
●「建築」は見える言葉です。イエスも自分の体は生ける神殿だと言っています。(ヨハネ2:21)。無教会は文字と言葉だけ、そして頭だけ。厚みがないなー、これが若者が集まらない原因かなーとも思っています。
●貴集会の主にあるお働きの「重荷」、尊いものでございます。○○兄がますます祝されまして「主の業」がなされますように。「羊飼いが打たれる」という言葉があります。御苦難というのはそのことではないのかと思います。祈っています。

以上、御礼かたがた胸襟を開いて率直な感想を述べさせていただきました。映画「マリア」の感想は昨夜のメールでお送りさせていただきましたが、改めて昨日のブログにもアップしました。少し修正してあります。

                                    高梁照男 2007.12.19

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●三位一体の聖書的根拠を勉強するために、前田護郎選集第一巻を読む●神とキリストは二体。まずこれが土台にあってその後聖霊が加わって三位一体の教義が誕生していったという説にひかれた●総合研究所松本部長から来年度顧問契約の依頼。2008年7月で満65歳なので2009年3月で退職と言われた。その間、「技術講座」の講師として働いてほしいとの依頼があった。これでいよいよ会社勤めも終わりだ●教文館、聖書協会翻訳部の高橋裕子さんと懇談。宮崎トキさんの絵を銀座で。浜松町。日積サーベイの生島社長●18:00アルカディア市ヶ谷で昭和女子大の温交会(忘年会)、3-400人は集まる。「女性の品格」の執筆者である坂東真理子学長、人見のり子理事長(キリスト者、日基教団阿佐ヶ谷教会)、秋山智久(福祉哲学、日基教団鎌倉雪の下教会)、木村信之教授、前原副理事長、倉島講師などと懇親懇談。●籤運が強い私もこの会の抽選会では三年連続当たらない。

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昭和女子大温交会 右から女性の品格の著者坂東真理子 このたび経済学博士になった森ます美教授

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j昭和女子大温交会(忘年会)。助手の高木亜紀子さんと

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昭和女子大温交会(忘年会)副理事長の前原さん。この人は品格があるので「男性の品格」という本が書けそうである。音楽の話題になる。





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生みの苦しみは喜びの始まり ++++++++ 所感

2007/12/20 08:53

07120(木)5時15分目覚め。朝の黙示「生みの苦しみは喜びの始まり」●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。親切にしてくれた日系米兵と「よく考えもせず」に軽率な結婚。相手の呼び掛けに速やかな対応をしなかったので相手は帰国したまま行方不明。あーこの世の肉の関係は「かりそめ」だ。永遠の愛、不変の愛はどこにあるのか。●「来世では結婚なし」というのはますます真理性を帯びてくる。

塚本訳 ルカ 20:34-36
20:34 イエスは言われた、「この世の人はめとり嫁ぐけれども、
20:35 あの世にはいる資格を与えられて、死人の中から復活する者は、めとることもなく嫁ぐこともない。
20:36 復活によって生まれる彼らは、天使と同じであり、神の子であるので、もはや死ぬことが出来ない、(従って子を産む必要がない)からである。

●来世ではなぜ結婚がないか。それは死ぬことがないから。そして(子を産む必要がないから)という塚本訳の敷衍は伝道者訳のすごい敷衍。多くの人を慰める。●「生みの苦しみは喜びの始まり」に関連する聖句が次々と浮かぶ。その感想は次の通り。

塚本訳 ヨハ 16:21
16:21 女が子を産む時には、女の(宿命の)時が到来したので悲しみがあるけれども、子が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはや(お産の)苦しみを覚えていない。

●これ事実。女性はあの出産の苦しみを忘れる。イエスはよく観察している。

口語訳 コロ 1:24
1:24 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。

●私に洗礼を授けてくださった牧師のもとを去るようになったとき。牧師は涙をふるってこの言葉を言った。私はいまその苦しみを他の人に負わなければならないのだ。恩返しだ。

塚本訳コロ 1:24
1:24 今私は君達のために苦しむことを喜びとし、またキリスト・イエスの体なる教会のために私の体でキリストの患難の不足を補っている。

●これは塚本訳。信者に艱難はつきもの。しかし意味のあることなのだ。苦難はみやみやたらには来ないのだ。

塚本訳 ガラ 4:19
4:19 わたしの子供たちよ、あなた達の中にキリストが形づくられるまで、わたしはもう一度産みの苦しみをしている。

●これはブルンナーの日本の無教会に対する助言。エクレシアは苦難共同体。そうすることによって「キリストが形作られる」。気に入った牧師や伝道者を渡り歩く「つまみ食い信者」はどこに行っても落ち着きがない。そういうのはまずい信者だから即刻つまみだせ。

塚本訳 Ⅰテモ2:15
2:15 しかしもし婦人が慎みをもって信仰と愛と聖潔とを保っているならば、子を産むこと(、これを育てて母の務めを果たすこと)によって救われるであろう。(婦人は教会でなく家の中で働くべきである。)

●過日、妻からの報告。「あの人とは久しぶりに会ったが、きつかった性質が変わってずいぶん謙遜に丁寧になりました」。人生の荒波、不幸、悲しみは人を改造する。「かわいいものには旅をさせよ」は真理。しかし人間が変わってもそえrが「魂の救い」ではない。

塚本訳 Ⅱテモ2:3
2:3 キリスト・イエスの善き兵卒として、(皆と)共に苦しめ。

●苦しんでいるのは自分だけではないと思え。

塚本訳 Ⅰコリ12:26
12:26 もし一つの器官が苦しみをうければ、(ほかの)すべての器官が一しょに苦しみ、もし一つの器官がとうとばれれば、(ほかの)すべての器官が一しょに喜ぶのである。

●エクレシアは共にうめいてくれる。これエクレシアの最大の価値。エクレシアはキリストの体。

塚本訳 Ⅰコリ15:58
15:58 だから、わたしの愛する兄弟たちよ、しっかりしておれ、動かずにおれ、いつも主の仕事にぬきんでよ。骨折りが主にあってむだにならないことを、あなた達は知っているのだから。

●その昔、ここをメモに書いて人に渡した人がいた。「その骨折りは無駄にならない。無駄にならない」。これ苦難中の最大の慰め。苦難の経験者からの慰めは真の慰め。

塚本訳ピリ 2:16
2:16 かくて私の走ったことが無駄にならず、』苦労したことが無駄に』ならずに、キリストの日に名誉が私に帰するであろう。

●その苦労、その涙は「無駄にならない。無駄にならない」。なぜか。神がその苦しみと涙を知っていてくださるから。

新共同 Ⅱテモ4:14
4:14 銅細工人アレクサンドロがわたしをひどく苦しめました。主は、その仕業に応じて彼にお報いになります。

●人生では、ときどき「こういう人」に遭遇するものだ。そういうときは「よくあることだ」と思えば良い。

塚本訳 ロマ 12:20
12:20 むしろ、『あなたの敵が飢えているなら、食べさせてやれ。渇いているなら、飲ませてやれ。こうするのはその頭に炭火を積むことであるから、(いつかは恥じて悔改める。)』

●(いつかは恥じて悔改める。)は塚本訳の苦労の訳。伝道者訳の敷衍。「いつかわかる。いつか反省する。いつか変わる。この世でなければ来世で」。

新共同 黙 7:17
7:17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」

●主にあって流す涙は覚えられる。アウグスチヌスの母モニカが息子(アウグスチヌス)のことで悩んで司教に相談に行くと、その司教は「涙の子はほろびません」と慰めた。アウグスチヌスは回心してカトリック教会の祖となった。涙の祈りは神に覚えられる。

塚本訳 Ⅱテモ1:12
1:12 そのためまたこの(縄目の)苦しみをもしなければならないのであるが、私は(決してこれを)恥としない、誰に信じているかを知り、またその御方は私が委ねられたものを(最後の)かの日まで守り得給うことを確信しているからである。

●「この苦しみを恥じない」と思うことは苦難に耐える方法のひとつ。「何のこれしき」と思え。

塚本訳  Ⅱテモ2:9
2:9 私はこの(福音の)ため罪人として縛られるまでに苦しみを受けているが、神の言は縛られてはいない。

●これボンヘッファーがナチスにとらえられた時の心境。そうだ。人間は動けなくても神の言葉は縛られていないで人の心に突き刺さっていくのだ。いつかはあの人も目覚める。

新共同 黙 2:10
2:10 あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。

●私の余命は18年。「死に至るまで」忠実でありたい。走りぬこう。わき見をしないでまっすぐ走ろう。かけぬけよう。

新共同 ヘブ 12:1
12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、

●走れ走れ、忍耐強く走りぬこう。この世の楽しみをかなぐり捨てて走りぬけ。

●11:25光ケーブルの導入。ワコーエンジニヤリング 田口氏は優秀。道路上の光ケーブルを室内にひく仕事●13:00セコム、光に対応して無線方式に変更、水上氏も優秀●14:00 NTTの池田氏がパソコンを光対応にセッティング。この人も優秀。日本のIT産業は若い人で持っている。日本に将来はある。●今までとなんら変わらず「光ケーブル」に変更できた。いくぶんスピードが速くなる。3年来の懸案事項が終了


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苦しみを賜ることは恩恵 ++++++++ 所感

2007/12/19 07:21

071219(水)5時起床。朝の啓示「汝等はキリストのために啻に彼を信ずる事のみならず、また彼のために苦しむ事をも賜はりたればなり。」●これは苦しんだパウロの言葉。文語訳は名訳だ。

塚本訳 ピリ 1:29
1:29 汝等はキリストのために啻に彼を信ずる事のみならず、また彼のために苦しむ事をも賜はりたればなり。

●この句は苦しんだ人でなければ訳せない。側聞によると「口語訳」の訳者たちは箱根に集まって会議。温泉につかりながら訳した聖書は心が通じない。生涯を苦しんだ塚本先生の訳は次の通り。

塚本訳 ピリ 1:29
1:29 君達はキリストのために──ただ彼を信ずるばかりでなく、また彼のために苦しむことをも恵まれたからである。

●塚本訳は「恵まれた」というところが名訳●この句に関して思い出すのは集会の故松島省三先生(稲の博士。貧困の中国、アフリカに米の収量が10倍になる松島理論を指導。ノーベル平和賞の噂もたった)のこと。●戦争に出征するとき、夫人がホームであわててポケットにねじ込んだ紙切れがあった。汽車が動き出してから開けて見たら、この聖句(ピリ 1:29)が書いてあった。それを読んだ先生は滂沱の涙。●南方戦線から九死に一生で帰還すると、愛児のうち二人が死んでいたことを夫人から告げられる。あーその時の嘆きはいかばかりであったか。●先生の晩年、私はそのお住まいの設計と告別式を依頼された。その死顔は実にノーブルで荘厳であった。●御夫人の信子さんは現在車椅子の御生活で耳も遠くなられた。一昨年のクリスマスのとき、信子さんは電話越しに妻に讃美歌を歌われた。先立たれた先生また二人の愛児と再会できるのも間もなくだ●ピリピ1:29をSWOD日本語ヴァージョンで見る。

Acts 5:41:
使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。

James 1:2:
わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。

Romans 5:3:
それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、

James 1:2:
わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。

I Peter 4:13:
むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。

Ephesians 2:8:
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

Colossians 2:12:
あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。

James 1:17:
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。

James 1:18:
父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。

●15:00 今井館で「日本語版メサイア」演奏会。トミ子が司会をした。元三鷹木曜会のメンバー18名。発足当初に創立者の故斉藤信彦氏に誘われたのであるが、入団しなかった経緯がある。相沢忠一氏の「なぜ日本語なのか」の解説がよかった。改定を重ねたのでよくなった●帰宅してからトミ子と感想を述べ合う。私の感想。メサイアはこれを日本語にしても抑揚のついた歌詞だから意味が取りきれない。印刷物で初めてわかる。メサイアはその意味をくみ取らなければ意味がないからと日本語版を作った中田羽後の精神は見上げたものだが、日本語で歌うところに無理がある。それならば、英語で素直に歌って、意味は日本語のプログラムの歌詞で目で追った方がよい。●聖書の意味というのは文字からでは伝達できない。聖書の意味は「心」で伝わる。聖書がわかるというのは頭で理解するのではなく、神の「心」がわかることなのだ。それは聖霊でわかることなのだ。だからいくら語学が良くできても信仰が全然深くない人がいる。ギリシャ語、ヘブライ語、ドイツ語を振り回す人にそれが多い。信仰者としては尊敬できない
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神が植える樹が残る ++++++++ 所感

2007/12/18 06:56

071218(火)4時目覚め、朝の啓示「神のお植えにならない樹は抜かれる」。関連聖句をメモする●朝風呂で「キリスト新聞」。川端純四郎が「賛美歌21」について。昭和6年版にあった「神の御子のエスさまの」は私も懐かしいものであったが、それは1054年(昭和29年9版で削られた200曲の中の一つだったという。そして今回は「賛美歌21」。その時々の改編で違和感を持つ人は多いだろう。●各教派に賛美歌があるが、無教会が独自の信仰告白や讃美かを作ったら教会になってしまう。「無教会とプロテスタント教会の溝は、カトリックとプロテスタントの溝よりも深い」と認識したのは塚本虎二。これで無教会はどこにでも入り込む。正統信仰で入り込む。●朝の啓示「神が植えない樹は抜かれる」の関連聖句を思いつくまま並べる。

塚本訳 マタ 15:13
15:13 イエスは答えられた、「わたしの天の父上がお植えにならないものは皆、引き抜かれる。

●判断は全く神にゆだねている

口語訳 詩 92:12-13
92:12 正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。
92:13 彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。

●家族繁栄、商売繁盛、長寿は神の祝福の証であるが、そうではないこともあるから、一概に言えない。イエスは家族なし、商売失敗、短命。

塚本訳 マタ 21:42
21:42 イエスは彼らに言われた、「あなた達は聖書で(この句を)まだ読んだことがないのか。──『大工たちが(役に立たぬと)捨てた石、それが隅の土台石になった。これは主のなされたことで、われわれの目には不思議である。』

●「この世的考え」で役立たずと思って集団から「追放」されたものが、実は最も大切な人物となる。イエス、ルター、内村、矢内原は捨てられたが土台石となった。●あの田川健三はICUから追放されたが、彼の「新約聖書」全6巻の翻訳は継続中(第三巻が既刊)、あと数年で完成と思われる。それができれば日本語訳個人訳では塚本訳に続く高水準の「土台石」となるだろう。

口語訳 イザ 53:7-8
53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
53:8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。

●あいつが殺されたのは「やっぱり間違っていたからなのだ」と一般的に考える人間は平均的人間で凡人。

塚本訳 マタ 27:39-40
27:39 通りかかった人々が『頭をふりながら、』イエスを冒涜して
27:40 こう言った、「お宮をこわして三日で建てるという人、自分を救ってみろ。神の子なら、十字架から下りてこい。」

●この冒涜した人間は低級で目がなかった。


口語訳 詩 1:4-5
1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

●つぶれる会社、崩壊する家庭、追放される人間、消滅する教会、集会、教団。これらはみんな「悪しき」ものか。これは旧約的な考え。半面の真理。この世の混濁の中の有様。永遠に残るのは「使徒伝承」。神と聖霊。●私の家が焼けたのは天罰であったのと同時に「神の愛」。「神の鞭」。●私が脳内出血で意識不明になったことも同じ。

塚本訳 マタ 7:26-27
7:26 また、わたしの話を聞くだけでそれを行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
7:27 雨が降って、大水が出て、風が吹いて、その家にうちつけると、倒れてしまった。ひどい倒れ方であった。」

●無益な僕という概念がある。何が無益か。信仰的業績がない人か。NO!.神の働き、神の愛を信じられなくなった人が「無益な僕」なのだ。

塚本訳 ヨハ 15:1-8
15:1 わたしがまことの葡萄の木、父上は栽培人である。
15:2 わたしについている蔓で実を結ばないものは、父上が皆それを切り取ってしまわれる。また実を結ぶものは、より多く実を結ぶように、皆それを奇麗に刈り込まれる。
15:3 あなた達はわたしが語った言葉(を受け入れること)によって(汚れを除かれ)、すでに奇麗になっている。
15:4 わたしに留っておれ。そうすればわたしもあなた達に留っている。ちょうど蔓が葡萄の木に留っていなければ、自分で実を結ぶことが出来ないように、あなた達もわたしに留っていなければ、実を結ぶことは出来ない。
15:5 わたしが葡萄の木、あなた達は蔓である。わたしに留っており、わたしもその人に留っている人だけが、多くの実を結ぶのである。あなた達はわたしを離れては、何一つすることは出来ないのだから。
15:6 人はわたしに留っていなければ、蔓のように投げ出されて枯れる。すると集められ、火の中に投げ込まれて焼かれる。
15:7 もしあなた達がわたしに留まっており、わたしの言葉があなた達に留まっておれば、なんでもほしいものを願いなさい。かならずかなえられる。
15:8 あなた達が多くの実を結んで、わたしの弟子たることを示すならば、父上はこれによって、栄光を受けられるであろう。

●何か信仰的なかっこいい仕事をすることが「有益な僕」ではない。神を信じ抜くこと、神の愛を信じ込むくこと、有体的復活を信じ抜くこと、こういうことが「有益な僕」なのだ。キリストの冠のつく仕事を職業にする者、そういう会社に就職する者必ずしも「有益な僕」ではない。

口語訳 詩 127:1
127:1 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。

●これは結婚式によく読まれる個所。では主が建てられる家庭とは何か。その形は千差万別。恋愛ではなく信者の先輩による見合いがそうとは限らない。塚本先生が結んだ結婚でも離婚になった例がある。結婚は恋愛でも見合いでも可。問題は神の導きによるのかどうか。●神の導きでなく、この世的なことに惹かれる結婚はあぶない。「名家の子弟」「イケメン」「美人」「高学歴」「大金持ち」・・・・これらに惑わされてトンデモナイコトになってしまった家庭を非常に多く見る。●昭和女子大での講義。「あなたたたちはイケメンと結婚するな。それは大体において頭が悪くて金がない。将来がない。」。この私は非常勤講師ではなく非常識講師。

口語訳 マタ 7:1-3
7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。

●裁くというのは自分の方に枠があるということ。その枠に入らない人間をはじきだそうとするのが「裁く」という行為になる。しかしその枠が小さいことが神に量られるということなのだ。●信仰基準、信仰告白基準、正統信仰基準がこれ。

口語訳 出 14:14
14:14 主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。

●これは塚本先生に教えられた処世術。それが悪いのかどうかにわかに判定できないことはしばらく「放っておく」ことが技術。無能無策と思われるが、「しばらくおいおく、しばらく様子を見る、しばらく観察するという実験をしているのだ」と思えば良い。●人事は多くの人の評判を聞くというのも技術。あの人の信仰はどうもいただけないと感性で感じるのは「女性」。こと信仰に関しては「女性の感覚」は比較的信頼できる。

塚本訳  マタ 15:14
15:14 あの人たちを放っておけ。盲人の手引をする盲人だ。盲人が盲人の手引をすれば、二人とも穴に落ちよう。」

●この世的手法でキリストの教会や集会をリードしようとする定年者は盲人が多い。この世で磨いた経済感覚や人心掌握のしかたを教会にも適用しようとする。誤り。そういう人間の判定方法は簡単。聖書そのものの勉強に不熱心。学歴、家系、経歴、趣味などを誇る。しかし真の信者からは匂いで「まずい」「なんとなくおかしい」と感ずかれる。●盲人について行く盲人も悪いのだ。二人とも穴に落ちる。

塚本訳 ヨハ 12:18-19
12:18 (今)群衆が出迎えたのは、イエスがこんな徴[奇蹟]をされたことを(その人たちに)聞いたからである。
12:19 そこでパリサイ人が互に言った、「見ろ、何もかもだめだ。世界中があんなに、あの男のあとについて行ってしまった。」

●「だめだ」と思う心は「この世的考え」。「ダメになるのはもともとダメなのだ」日本は小泉や福田や小沢についていってしまったというのと同じ。ついて行く方が悪いのだ。
●大学に行く前に新宿で2006米映画「マリア」を鑑賞。シニヤは1000円で安かった。マタイとルカに忠実な「イエスの誕生物語」。処女マリアが身ごもったことに対する「人間」の疑問、驚き、不信、疑念がベース。家畜小屋で生まれた「神の子」。この赤児は人間の思いでなく神の思いで「苦しむため」「死ぬために」生まれてこられたのだと思うと泣けて泣けてしかたがなかった。●最終字幕のエンディングミュージックは「きよしこの夜」と「エサイの根より」。最後の字が終わるまで水を打ったように静粛であった。聴衆は信者が多かったと思われる。私にとってよいクリスマスであった。●クリスマスの喜びは人間の側のことであるが、神の心は悲しみなのだ。悲しみの日なのだ。なぜか。愛児との別れの日なのだから。●私はイエスは奇跡的に処女から生まれたのだと信じる。それは神の「思い」で生まれたからなのだ。使徒伝承をまともに信じる。●マリア訳は全体的に「不安顔」であったが、無事子供を出産したときは輝くような喜びの顔になった。その変わりようが印象的であった。また真面目な男としてのヨセフの顔も印象的●昭和女子大では「工事請負契約約款」の講義。「請負契約」というのは「契約」の中で最高に難しいものであることを話した。建築主はまだ寛政の建物を見ないうちに建築会社に何億ものお金を払う。一方、建設会社はお金をいただけるものと信じ込んで工事をする。「請負契約」とは人間を信じなければ出来ないことである●「請負契約」の精神は信仰の精神に酷似。見ないものを信じることだから●女子大生に向かって「結婚も請負契約の精神だ。見えないことを信じぬくのだ」と説教(?)●さらに説教。「工事請負契約は相手が人間だが、結婚は自分と神との単独契約。人間たる相手から嫌われて契約破棄をされても『私は神と契約をしているのですから破れません』と言え」。相変わらず眠っている人もいた。「パンを水の上に投げよ」だ。●帰宅すると「藤林益三」の本の編集に関して津上さんからFAX。94歳でこの気力、能力。早速電話。






































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苦難共同体が本物の集まり ++++++++ 所感

2007/12/17 08:46

071217(月)、6時半起床、まだ声が潰れている。今日は休暇。朝の黙想「人間集団は妬みといがみあいになる」●日経「私の履歴書」は女優の森光子。昭和19年、戦地への慰問団の一員として歌手として参加。病気の時に親切にしてくれた海軍将校に心を寄せたがその将校は行方不明。戦後知ったのだが病死か戦争犯罪人で外地で処刑されたらしいという。あー人生は「放浪記」そのものだ。●人間集団は「集団としてのあるべき秩序」という概念があるから、特別に目立つ人は妬みの対象となり、「出る杭は打たれる」の現象が起こって「追い落とされる」。動機は支配者にとって邪魔な存在であるということ●イエスが殺された原因は職業宗教家たちがイエスの人気を妬んだから。職業宗教家たちは自らの法律でイエスを処刑することはできなかったので、支配していたローマ帝国に「反逆罪」の汚名を着せて引き渡した。その汚名をまともに受けたローマも「目がなかった」。ピラトはイエスを赦そうとしたが、体制に負けた。惜しかった。彼もまた真理よりもこの世の名声地位を愛したのだ。●地上でのキリスト信者の「集まり」は苦難共同体がその本質。●ローマ帝国に迫害された初代キリスト教徒は地下のカタコンベに逃げ込んで集まり、礼拝を守った。1989年、46歳の時、OECDの会議の帰りにそのカタコンベを訪問、首を切られた女性の遺体の像をみて、「この人は幸福だったなー」と感じたものだ。信者たちの仲間に囲まれて死んだから●日本の戦時下で矢内原忠雄先生は「通信」というハガキで抵抗者たちに連絡をとった●戦時下で無教会の諸先生たちの結束は固かった●私が所属する「午後三時祈りの友会」は結核患者たちの苦難共同体。わたしは父の死後そのあとを継いで1992年に加祈者として入会。教派関係なし。共通点は「苦難」のみ。だから純粋な会である。祈りあうだけ。会員は無教会者が三分の一か半分ぐらい●WEBによる「聖徒の交わり」であるWEBコイノニアも「祈りの友」「苦難共同体」。「WEB祈りの友」は物理的に集まらなくてもよい。交通費がかからない。会場費がいらない。建物の維持管理費がいらない。祈りは電波よりも早い、お金がかからない。●しかしプロバイダーの費用が必要だが、それは文明の必要経費としてしょうがない●「悩む人」の苦難共同体。祈り会う会はできそうである。それは慰めあう会ではない。祈りには実効があるのだ。口先だけの慰めではないのだ。そこが「祈りの友」のすごいところ。●Y兄、O兄、と「WEB苦難共同体」というものができつつある。純粋である●人間的慰めでなく、実効ある祈りによる祈りあいである。●妻は愛子の長女(初音)が荒川区の聖和幼稚園(教会付属)で「クリスマス劇」をやるというので呼ばれて行く。イエスの降誕劇に出てくる「天使」の役。子供たちより父兄(50人)の方が大方っという。私も教会学校のクリスマス会で楽しかった思い出がある。その思い出で良いのだ。大人になってから「教会に行ってみようか」と思い出せばよいのだ。●私の場合。話の内容はわすれたが、「やさしい、良い先生」がいたという思い出があったのだ。高校生になったとき「教会に行ってみよう」という思いになったのはあの「優しい、良い先生」の印象からであった。
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クリスチャンも罪を犯す ++++++++ 所感

2007/12/16 07:06

071216(日)6時起床。朝の黙想「クリスチャンも罪を犯す」●風邪気味で朝風呂は中止。日経「私の履歴書」は女優の森光子。戦争中、歌手として慰問団の一員となり、南方諸島にいく。そこでは軍が米国から押収した映画を見ていた。それがなんち、デズニ―の「ファンタジア」やマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」だというのだから、文化水準が違った。日本は米国に文化水準で負けていた。●また「20代前半の少尉あたりの若者が家を一軒持って使用人をおき、車を優雅に飛ばしていた」、その」尊大な日本人の振る舞いに義憤を感じたという。日本は道徳や精神的な面でも完全に負けていたのだ。日本が原爆が投下されて滅ぼされたのは当然であった。敗戦は天罰であった。●「クリスチャンも罪を犯す」について聖書のあちこちが浮かぶ。

新共同 イザ 53:12
53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

塚本訳 マタ 27:38-44
27:38 その時イエスと共に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に十字架につけられた。
27:39 通りかかった人々が『頭をふりながら、』イエスを冒涜して
27:40 こう言った、「お宮をこわして三日で建てるという人、自分を救ってみろ。神の子なら、十字架から下りてこい。」
27:41 同じように大祭司連も、聖書学者、長老と一しょに、こう言ってなぶった、
27:42 「あの男、人は救ったが、自分は救えない。イスラエルの王様じゃないか。今すぐ十字架から下りてくるがよい。そうしたら信じてやるのに!
27:43 『彼は神にたよっている。神が可愛がっておられるなら、』今すぐ『救ってくださろう』だ。『わたしは神の子だ』と言ったから。」
27:44 一しょに十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵った。

●クリスチャンも人間、不信者と全く同じ罪を犯す。Ⅰヨハ3:6によれば信者は罪を犯さないとあるがそれは私自身のことを考えれば当たらない。聖書は間違っている。●某氏曰く「高橋さんご夫妻も夫婦喧嘩をするのですか」。しますします。人より激しくやります。

塚本訳 Ⅰヨハ3:6
3:6 (罪なき)彼に留っている者はだれも、罪を犯さない。罪を犯す者はだれも、彼を見たことがなく、知ってもいないのである。

●パウロはどういうか。

塚本訳 Ⅰコリ9:20
9:20 ユダヤ人たちにはユダヤ人のようになった。ユダヤ人たちを得るためである。わたし自身は(モーセ)律法の下にいないのではあるが、律法の下にいる者たちには、律法の下にいる者のようになった。律法の下にいる者たちを得るためである。

●これだ。クリスチャンが罪を犯すのは「律法の下にある人」を救うため。その人と同じレベルにおなるため。その人に同情するため。その人の痛みを知るため。その人の仲間となるため。自らが粉々にされ、「キリストの顔に泥を塗りました。恥をかきました」と悔い崩れて、「栗栖ちゃんの癖に」と言われるため。その時「虫のよい」話であるが、神に全く赦されるという道を説くためである。●神はまったくひどいことを経験させる。クリスチャンも殺人する(カトリックの神父のスチュワーデス殺人事件。クリスチャンの増収賄、キリスト教国の戦争(チャーチルは「悪魔「ソ連」と手を握ってもヒトラーを倒す」と言った)、クリスチャン夫婦の喧嘩(某氏は妻から握り飯を投げつけられたという。私の場合はまだ(?)である。クリスチャン夫婦の離婚もある。・・・・しかしこれらはすべて神が御存じ。神は廃物利用をする。●するとどうか。廃物たちにも「希望」が湧くのだ。このおれも救われるかも知れないと思うのだ。●集会は宮崎、村上、望月●25名の記念撮影●13:00後期の感謝会。この会は自由なる会ということが特徴という発言があった。信仰の深い人の言うことだけに効き目がある。このことを信仰が浅い人が言ったら禍だ●高木博義さんと相談事をしながら帰る●妻はドボルザーク「スターバトマーテル」の練習●正統信仰と自由と称する不信仰の戦いは神が裁く。ユニテリアンは歴史から姿を消した●妻から電話。親戚の一人で、二人の子供を抱えて離婚した女性がスーパーのレジにいたという。あー「人生の海の嵐にもまれきし」身の上だ。妻に「どうぞお元気でお過ごしください」と言ってくれたという。彼女の上に幸あれ●HP、ブログなどの縁で「聖徒の交わり」をしている、某氏のご家庭に非常事態が起こって大苦難。「聖徒の交わり」の仲間がHPやメールやブログで激励、祈り。



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偶然の出会いは神の手 ++++++++ 所感

2007/12/15 07:54

071215(土)6時起床、●朝の啓示「偶然の出会いは神の手」●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。戦時中南洋群島に慰問。片道燃料で飛び立つ「飛行隊」を見送る●風邪気味の時に2時間話したので喉が潰れて声が「森進一」になった。●昨日、肉の兄と偶然に出会ったことに関して黙想。「祈っている人」と偶然出会えたことに「神の働き」「神の動き」を如実に感じた。「祈りは聴かれる」とは理屈でなく疑いようもない「事実」●兄は「人生の海の嵐」(聖歌472番)にあるように人生の辛酸を舐めた。その悲しみ苦労で「服役の期」は終わったと感じている。祈りの対象であった。

聖歌472番
人生の海のあらしに もまれきしこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いとしずけき港に着き われはいま安ろう
救い主イェスの手にある 身はいともやすし 


●兄が吉祥寺で降りるとき「照男君に会えたのは(右手人差し指を真上にあげて)『神の思し召し』だと言って去って行ったこと。感謝、感謝、これでいいんだ、これでいいんだ。●教会の型通りの道。「求道」→「聖書の勉強」→「信仰告白」→「洗礼」→「礼拝出席」→「教会員」→「聖餐式」→「月定献金」→[教会生活」→「長老」→「教会で葬式」。・・・・・これ教会員のコース。NO!、NO!。●人が救われるのは「型どうり」ではない。自由な形、自由な姿、思わざる姿、思いに過ぐる姿、思いがけない姿、自由な信仰生活の型である。●救われた人間の型は「自由形」。イエスを神の子と信じられた人の「この世の歩き方」「信仰生活の型」は自由形でよい。その根本が内面の救いに満たされていれば外側の形は必ずしも一定ではない。●根本問題は人の内面の霊魂の救い。イエスを神の子と信じられるかどうか●偶然の出会いには「神の手」のような不思議を感じる。聖書にもそういう場面がある。

塚本訳ヨハ 12:20-24
12:20 この祭にお参りするため上ってきた人たちの中に、数人の(改宗した)異教人があった。
12:21 ガリラヤのベッサイダの人ピリポの所に来て、こう言って頼んだ、「君、イエスにお会いしたいのですが。」
12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレはピリポと行ってイエスに話した。
12:23 するとイエスは(非常に感動して)二人に答えられる、「人の子(わたし)が栄光を受ける時がついに来た。
12:24 アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)

●イエスは異教人が自分に面会に来たことに非常に感動した。時の到来を感じたのだ。自分の使命がはっきりしたのだ。●佐世保市で銃を乱射して二人を殺した犯人が教会に行ってその前で自殺。教会に救いを求めに行ったのか。彼の魂は救われるか。●その教会は日曜日だけ鍵を開ける「無人教会堂」。無教会主義は「どこに教会があるかわからない。これでいいのだろうか。犯人が駆け込みやすいような物理的目印(十字架など)のあることがよいのだろうか。そういう駆け込み寺としての教会は正解だろうか。●私の無教会の知人。千葉県の都賀の台に住んでいた。氏の家の表札には「都賀の台無教会」とも書いてあった。ある日郵便配達の人が「ツガノ ダイナシ教会」と呟きながら読んでいたという。これでは無教会もダイナシだ(笑)。無教会はどこにあるんだ。救いはどこにあるんだ。




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最高の幸福とは何か ++++++++ 所感

2007/12/14 05:52

071214(金)3時半目覚め●朝の啓示「イエスは主なり」●新聞がまだ来ないので朝風呂は黙想。「イエスは主なり」。●人生の歩みで最高に幸福なことは神を知ること。神の存在を知ること。●神の存在は、イエスの十字架による「罪の赦し」を通じて初めてわかる●イエスを神の子と信じられることが最高の人生、この世的にはみじめであっても成功の人生。幸いな人生。●イエスを神の子と信じられるのは罪の赦しを体験するときに得られる認識。それは神秘的なこと、特別なこと、この世の知恵では得られないこと、勉強や努力では獲得できないこと、努力や修行では得られないこと、神の恩恵。●この境地に達することができるのは、自らの罪とかみじめさとか不幸に嘆いて「この世ならざるもの」を求めることから始まる。これが求道のはじまり。●「求めよさらば与えられん」。神はそういう人間に姿を現す。ニーズのない人間には姿を現さない●もし人がイエスは神の子と知ったら、地のどんな宝よりも大きなものを持ったのである。それが人間としての最高の幸福なのだ。

塚本訳  マタ 16:15-17
16:15 彼らに言われる、「では、あなた達はわたしのことをなんと言うのか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたは救世主、生ける神の子であります!」
16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。

●初代教会の時代、ローマ皇帝は「主」と呼ばれていた。その時「イエスこそが主なり」という信仰に立ったキリスト信者は迫害された●現在編集中の「藤林益三」という本で学んだこと。内村の第一高等学校不敬事件、浅見仙作の治安維持法事件、藤林益三の津地鎮祭違憲訴訟追加反対意見は、「イエスは主なり」という三位一体の信仰がその底流にある。キリスト者の三位一体の信仰からくる国家権力に対する抵抗である。●これは全く「イエスは主なり」「イエスは神の子」という信仰から来ることであって、決してヒューマニズムからくる行動ではなかった。●この点「三位一体」を論じないで天下国家の罪悪を批判し、戦争反対ばかりを叫んでいるヒューマニズムクリスチャンは間違っている。やることをやっていない。言うべきことを言ってない。国家間の戦争がなくなっても、天皇制がなくなっても人間の霊魂に平安はこない。●神との平和、神に自己の罪が赦され、神の実在を知って「イエスは神の子」「イエスは主なり」と知ることこそ霊魂に平和が来る道、幸福の唯一の道である●通勤車中の立川で偶然兄の光男に会う。吉祥寺までの20分間、悲喜こもごもの積る話。別れ際に兄は「先日(070407)は吉祥寺で、今日は立川で、偶然照男君に会えたのは『神の思し召し』だと言って去って行った●15:00勤務先で総合研究所主催、「建築積算講座」。聴衆43名。「古典文献にあらわれた『積算』の精神」を2時間話した。ヘロドトス「歴史」、ウィトルウィウス「建築書」、新約聖書「ルカ福音書」、旧約聖書「バベルの塔」、旧約聖書「列王記下」、孫子の「兵法」、江戸幕府「本途帳」、アダムスミス「国富論」、マックスウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、ラスキン「建築の七燈」、フォーチュン「失敗のシステム」●18:00人形町で総合研究所の忘年会、松本部長、橋本次長、池原課長、吉屋さん、私。珍しく岩手の「あさ開き」があったので飲んだ。酒は苦手だが岩手に出張したときに飲んで唯一「うまい」と思ったもの。●帰途、橋本君が地下鉄の駅までわざわざ案内して送ってくれた●正月飾りの提灯が並ぶ人形町の夜景に「日本」を感じた。写真を撮影したが、ブログ不調で画像アップできないのは残念。●人形町で妻に「やわらかいカリントウ」を購入●妻に光男兄に会ったこと、そのとき聞かされた内容を話す。こういうとき話をすることができる人がいるのは「楽」である。



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最も大きな愛とは ++++++++ 所感

2007/12/13 08:19

071213(木)5時半起床●目覚めの時の啓示「人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし」。この言葉が起きて頭の中をガンガン響く●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。満洲への慰問。歌手で行く。東海林太郎の話。戦線の兵隊は感傷的な歌を好んだという。「悲しい時は悲しい曲を聴くべし」とは日野原重明先生の勧め。これ「同質の原理」という。「励ます」という行為は上から下へという意識があるからいけないのだ。悲しんでいる人は同じ悲しみを経験した人の話に励まされるものだ。●朝の啓示について朝風呂で黙想。Devotion。


新共同 ヨハ 15:13
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。


文語訳 ヨハ 15:13
15:13 人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし。

●私の残りの時間は18年。この残り時間を何に捧げるか。その目標が与えられた。それは「友のために捧げる命」。これは最も大いなる愛の道だ。最大の事業だ。●それにはまず「自分の楽しみ」を捨てよとイエスは言う。老年期の楽しみをあきらめよということだ。家庭団欒、家族団欒、趣味、名声、お金、仕事、生きがい、然り人生、すなわち「命」。これらを捨てなければ「友のために命」を捧げるということはできないのだ。●ではその「友」とはどこにいるのか。友とは誰か。社会派信者は言うであろう、それは貧困階層であると。教会主義者は言うであろう。それは教会の信者であると。福祉主義者は言うであろう。それは気の毒な人であると。ヒューマニストは言うであろう。それは虐げられている人であると。医師たちは言うであろう。それは病人であると。教育者は言うであろう。それは生徒たちであると。・・・・・そして各々がカッコイイ職業についてカッコイイ行動をすることを勧める。マザーテレサなどを模範にする。NO!、NO!●イエスに「友」とは誰ですかと尋ねると答えは決まっている。「あんたのそばにいる人だ」と。ルカ10章29節、36-37節。

塚本訳 ルカ 10:29
10:29 すると学者は照れかくしにイエスに言った、「では、わたしの隣り人とはいったいだれのことですか。」

塚本訳 ルカ 10:36-37
10:36 (それで尋ねるが、)この三人のうち、だれが強盗にあった人の隣の人であったとあなたは考えるか。(同国人の祭司か、レビ人か、それとも異教のサマリヤ人か。)」
10:37 学者はこたえた、「その人に親切をした(サマリヤの)人です。」イエスが言われた、「行って、あなたも同じようにしなさい。(そうすれば永遠の命をいただくことが出来る。)」

●イエスは言うに違いない。「信仰偉人になるな」。「キリスト教名士になるな」。「信仰的有名人になるな」。「マザーテレサのような大事業にあこがれるな」。これらは人に知られるので神には嫌われる●各々の目の前にいる人が「隣人」であり、「友」だ。それは地味な道だ。目立たない道だ。埋もれる道だ。●「あの人を家庭の主婦に埋没させておいては惜しい」という言葉におだてられて天下国家を批判する街頭演説を始めた女性が無教会の中いる。困った。困った。そういう人種に限って聖書を深く読んでない。信仰が薄い●過日、某集会の茶話会で無教会の年配の老婦人が「私はまだ聖書を全部読んでいないのです」と発言した。無教会もここまで落ちたか。あの年で!!。その会には若いカトリックの人もいた。恥ずかしい。恥ずかしい。このとき私は「無教会もオシマイになった」と自覚。オシマイどころか激しい天罰の鉄槌が下る。●はっきり言うが、その老婦人は常に天下国家を批判してばかりいる無教会のグループの一員である。「樹はその実によって知られる」である。盲人が盲人の手引をすると二人とも穴に落ちる。人を天国に導かない人間は最も思い罰を受ける。

塚本訳  マタ 15:14
15:14 あの人たちを放っておけ。盲人の手引をする盲人だ。盲人が盲人の手引をすれば、二人とも穴に落ちよう。」


新共同 マタ 18:6
18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。

●年賀状101枚、妻の分がかなりある。年に一回、年賀状だけの付き合いも尊いものだ。年賀状ソフトは「筆王」、これは「筆ぐるめ」よりも優秀●ピラミッドのDVD●バッハのクリスマス・オラトリオをアーノンクール+ウィーンコンツェントゥスムジクス+ウィーン少年合唱団、ウィーン合唱隊で鑑賞。歴史的厚みを感じる演奏。●国会中継。野党の追及の根拠は新聞や週刊誌の記事。つまらないことで議会の時間を浪費している●食品会社などの賞味期限違反事件などは内部告発●恨みがある人間が内部告発する。荒探しをして仲間や会社を告発する。またそれをまともに聞いて取り上げる上司は凡人。これがキリスト教の世界にもあるから「世も末」である。そういう上司はさっさと「役職」を辞めるべきである。そういう人間が「長」をしていると「会」そのものが成長しない。停滞して腐る
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我らこの宝を土の器にもてり ++++++++ 所感

2007/12/12 07:16

071212(水)5時半起床●朝の啓示「土の器に」●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。歌手巡業の話。全国にドサ周り。興業師にだまされたりしてサンザン。人は誰でも若いうちは苦労するものだ●今朝の啓示「土の器に」をJバイブルでヒット。

文語訳 Ⅱコリ4:7
4:7 我等この寶を土の器に有てり、これ優れて大なる能力の我等より出でずして、神より出づることの顯れんためなり。

塚本訳  Ⅱコリ4:7
4:7 しかしこの宝が、(貧弱な)土の器の中にある。それはその素晴らしい力が神のものであって、わたし達(土の器)から出るのではないことがわかるためである。

●これを読んで涙がはふり落ちて眼鏡が曇ってどうしようもなかった。●土の器の私。大病するこの身、家屋を焼かれた、学歴がない、学問がない、語学ができない、パソコンができない、人格がない、(あのうちはオヤジが問題だと言われている)、子供が離反、多くの人が私を嫌う。先祖の家系ががまずい、毛並みが悪い、汚れている、まずい過去、罪の過去・・・・・あー、この土の器よ。●パウロは言う「NO!、NO!。泣くな!。土の器であることはそこに神の力が輝き出るため。その輝きが人間から出るものでないことの証明のため」●パウロが「我ら」「わたし達」と言ってくれるところに慰められる。パウロは私たちのレベルにまで降りてくれている。●「土の器」のもう一か所。

文語訳 Ⅱテモ2:20
2:20 大なる家の中には金銀の器あるのみならず、木また土の器もあり、貴きに用ふるものあり、また賎しきに用ふるものあり、

塚本訳 Ⅱテモ2:20
2:20 しかし(教会にこんな人達が現れるのは少しも不思議ではない。見よ、)大きな家には金や銀の器ばかりでなく、木や土の器もあって、或る物は尊く、或る物は卑しく用いられる(ではないか)。

●これを読むと人間は全員「土の器」だ。だれも完全な人はいない。清い人はいない。その不完全な汚れたまずい人間にこそ神の宝が盛られるのだ。然り、教会も集会も牧師も伝道者も夫も妻も子供も嫁や伴侶も、兄弟親戚も、勤務先にも完全な器はない。それはことごとく「土の器」で不完全●たからパウロは次のようにも言う。

塚本訳Ⅱコリ12:9
12:9 主は(その都度)言われた、「わたしの恩恵はあなたに十分だ。力は弱さの中に完成されるのだから。」、それでわたしはキリストの力がわたしに住みついてくださるように、大喜びで、むしろ(自分の)弱いことを自慢しよう。

塚本訳 Ⅱコリ13:4
13:4 ほんとうに、彼は弱さのゆえに十字架をつけられ(て死なれ)たけれども、神の力によって、いま生きておられるからである。同様に、わたし達も彼と結びついているので弱いけれども、彼と共に、神の力により、あなた達に対して(強く)生きるだろうからである。

●迫害に遭遇したあの黙示録の記者も「泣くな」という。なぜか。キリストは復活しているからだという。ソーダ。命の君がそばにいるのだ。

塚本訳 黙 5:5
5:5 すると(かの)長老の一人が私に言う、「泣くな。視よ、ユダ族の獅子、ダビデの根(である者)が(既に)勝った(から)、彼がその巻き物と七つの封印とを開く(ことが出来る。)」

新改訳 黙 5:5
5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」


口語訳 黙 5:5
5:5 すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。


●塚本先生はあるとき心を許した御婦人に「私の家は片端だー、片端だー」と嘆いて弱いところを見せたという●塚本先生の一人娘のTさんは乳飲み子の時に母に先立たれた。そのうえ塚本先生が伝道に没入して家庭を顧みなかった。あるときそのTさんは「お父様はわたしより療養所の女の子のほうが好きなんだヮ」と言って泣かれたという。伝道者の家の悲劇である。そのTさんは先ごろ召された。牧師伝道者の家に悲劇あり。これ犠牲だ●風邪で池谷医院、待っているときコストスクール論文採点。散髪、ノジマ、図書館。●「藤林本」の編集。

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生きていくには柔構造の精神がよい ++++++++ 所感

2007/12/11 09:10

071211(火)二時半に一回目覚めてあとはうつらうつらで6時15分起床。●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。森光子が歌手でもあったとは知らなかった●朝風呂で「高崎哲学堂」のこと。高崎に井上房一郎あり。国家も企業も「人物」である。教会また集会また家庭同じ。一人で良い。一粒でよいのだ。●朝風呂で「藤林本」の原稿チェック。●某大先輩に手紙。内容は公的なことが多いので一部省略改変して公開する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○○様

私のぶしつけな意見に「柔軟に」応じてくださり、深謝いたします。
結論はA案です。バルトの論考を短くさらっと「目立たなく」、よくぞうまく挿入されたものと感心しました。これならバルトが「ぎらぎら」しません。御苦心のほどを思います。塚本先生も「昼寝から覚めて」、「そーか。やっぱりバルトもそう考えているのか」と喜ばれるものと思います。

次に、「その背景に・・・・である」の部分は削除を望みます。ここまで書かれると生きている人間を少々「持ちあげすぎ」の観がございます。ここまで生きている個人を強調すると、少々違和感を感じます。最もO先生も内村山脈の一員であることには変わりありませんが・・・・。それに「北海道」を連想するとなると、浅見仙作の直弟子のT先生まで語らなければならなくなります。
以上ですが、以下は感想と感謝です。
「藤林本」の編集を通じて、○○さん自身の精神こそ「柔構造」を感じます。我々建築界では柔構造のことを「揺れて持つ」と表現します。つまり揺れながら立つというのです。揺れているが揺り戻しがあるのでしっかり立っているというのです。○○さんには信仰生活面で長くご薫陶をいただいてまいりましたが、いったん人の意見を受け入れるが、あとから揺り戻しが来る。こういうことがまま見受けられました。実はF先生もそうでした。柔構造の剛構造なのです。一見柔構造に見えますが実は剛構造なのです、これは「柔剛構造」とでも新語を作りたくなります。
○○様からはいろいろな困難が生じたとき「キラリ」と光る言葉をいただき忘れえません。「あの人にもいいところがあると思え」とか「悲しい時は悲しい曲を聴け。それは同質の原理だ(日野原先生の言葉の引用)」、「一歩中に入って働く」、「実は塚本グループからの献金額が最も多い」、「三位一体」、「今井館がなくなっても無教会はある」「無教会がこんなことでは単立教会の一種になってしまう」・・・・・などなどたくさんあります。(以下省略)
                                2007.12.11 高橋照男

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●午後、昭和女子大建築講義2コマ。終了後、二人の生徒との対話。
生徒「先生のテストは教科書を持ち込んでいいのですか」・
私「私のテストは暗記ものではなくて小論文だから安心しなさい」
それから二人に進路指導。64年も生きていると、この人はどの方面に進めばよいのか「顔」でわかる。
私「あなたは、インテリアコーディネーターを主とした、建築設計の方面に進むといいよ」
生徒「そ、そーなんです。私はそう思っているのです。音楽が好きでヴァイオリンを習ったこともあるのです。」
彼女の道に幸あれ!。
●妻は新宿で「マリア」という映画を観賞してから、月本昭男先生の旧約の講義に出席。月本先生の話は聖書考古学に元ずいていて、実証だから面白いという。●「マリア」という映画はマタイ福音書に忠実で、バックグラウンドの音楽もよかったという。鑑賞の価値ありという
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独立は精神の成長 ++++++++ 所感

2007/12/10 06:58

071210(月)5時15分起床、出勤日。出勤は週2日●朝の黙想「独立」●昨夜、某氏と電話懇談でかなり教えられる。それはおおよそ次のようなこと・・・・・●人間には「精神的独立」ということが大切。内村鑑三はしきりに「独立」ということを言ったが、それは精神衛生上にも信仰的にも非常に大切なこと。特に日本的精神土壌において大切なこと●子供は親から精神的に独立していく。対話がなくなるときがあるのはその健全な精神的成長発展の証。心の底では親のことを思っている。●肉的関係から自由になり霊的関係になるのが筋道。いつか健全状態で戻ってくる●親子、夫婦が独立していない家庭は、不健全家庭、不完全家庭●親子関係だけでもなく夫婦もお互いに「独立」していなければならない。夫が妻に暴力や暴言を吐いた後に「ゴメンネ、ネ、ネ、ネ」というのは夫が妻から独立してない証拠。(いたッ)●私(高橋)の場合は、夫婦喧嘩の後にアイスを買って妻に渡す。なぜそうするのか。君を愛す(アイス)という意味。(笑)。アイスは二個買う。一個は自分が食べる。・・・・・●13:00小野博文氏と佐々伸子さんが来訪。ある企画について相談に来られる。しばらく聞いていて、一言「無理!!」と答えた。●事業というのは金もうけが主たる目的ではうまくいかないものだ。たとえばホテル経営とか、福祉事業などは、三度も飯よりもそれが好きだとか、若いころからその事業をやりたくてやりたくてしょうがなかったという精神が事業主になければ成功しない●古代遺跡発掘で有名なシュリーマンは小さいころ父親から聞いていた古代の物語の遺跡を発掘しようと思って、30歳ぐらいまでに大金を集めて、後半の発掘資金に備えた。彼にとっては金もうけは後半人生の手段であった。●凡人は金もうけ人生で終わる。その老後はきまって淋しい。ゲートボール、旅、趣味、習い事、オヤジゴルフ、教養勉強会と称する遊び、・・・・しかしこれらは決して心を満たさない●14日の社内講習会の準備。
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人は啓示によって救われる ++++++++ 所感

2007/12/09 06:44

071209(日)5時半起床、朝の閃き「人は啓示によって救われる」●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。この世のゴタゴタのこと。コメントすることなし。●「人は啓示によって救われる」について朝風呂で黙想。そしてJバイブルでチェック。

塚本訳  マタ 16:17
16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。


ルカ 2: 32 [塚本訳

『異教人には啓示を、』あなたの民『イスラエルには栄光をあたえる』『光』であります。

ロマ 16: 25 [塚本訳

わたしの福音すなわちイエス・キリストを説く言葉によって、あなた達を強くすることの出来るお方に──この福音は長い間秘められた秘密の啓示であり、

Ⅰコリ 14: 6 [塚本訳

実際、兄弟たちよ、たといわたしがあなた達の所に行って霊言を語っても、啓示か、知識か、預言か、教訓かの形で語(って信仰を造りあげ)るのでないならば、あなた達になんの得があろう。

Ⅱコリ 12: 1 [塚本訳

わたしは(もう少し)自慢せねばならない。なんの役にも立たないことではあるが。そこで、主の幻と啓示と(を見聞きしたこと)に進もう。

Ⅱコリ 12: 6 [塚本訳

もっともわたしが(こんな啓示を)自慢したところで、「馬鹿者」(と言われるほどのこと)ではなかろう。本当のことを言うのだから。しかし差し控える。わたしを見、あるいはわたしから聞く以上に、(何か特別のものでもあるように)だれかがわたしを買いかぶらないためである。

Ⅱコリ 12: 7 [塚本訳

そしてこれらの素晴らしい啓示があるので、わたしが高慢にならないようにと、わたしの肉に一つの刺が与えられた。悪魔の使いであって、これはわたしが高慢にならないようにと、わたしをうつものである。

ガラ 1: 12 [塚本訳

というのは、わたしは人からそれを受けいれたのでも、また教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によったのである。

ガラ 1: 16 [塚本訳

異教人に福音を伝えさせるため御子をわたしに啓示する決心をされたその時、わたしはじきに血肉[人間]と相談をせず、

ガラ 1: 17 [塚本訳

また、先輩の使徒たちに会いにエルサレムにのぼりもせず、アラビヤに行き、ダマスコに戻った。(このようにわたしの福音はキリストの啓示によるもので、人からのものではない。)

ガラ 2: 2 [塚本訳

しかし、のぼったのは(神の)啓示によったので、異教人のあいだで説いている福音を(そこの)人々に、名士たちには特別に、示した。(これは、)わたしが(現に福音のために力を尽くして)走っており、また(過去において)走ったことを、無駄にしないためであった。

●人は教会や、人間(伝道者、先生)にひれ伏すことによって救われるのではない。神からの直接啓示、直接黙示で救われる。教会や人間にひれ伏すとその「奴隷」になる。しかし、教会や人間を「信じ」て「使徒伝承」を受け入れなければ救われない。信じられない。●人が犯した罪は「自己努力」では救われない。それができると思うから、四国四十八霊場の巡礼や、ローマ巡礼(タンホイザー)がやまない。修道院や神学校に飛び込む。誤り。そこから帰ってきても「この世に」語るメッセージはない。●家族の一人を殺された肉親が「犯人には生涯にわたって罪を償ってほしいと」言うことが多いがこれは誤り。犯した罪はどんな些細なことでも「自己努力」では償えない。嘘だと思ったら試してみればよい。ちっとも安らぎがこない。讃美歌260番2節の通りである。

 もゆる心も たぎつ涙も
 罪をあがなう 力はあらず

●ではどうすりゃいいのだ。神に「求めて」いればそのうち神から直接啓示を受ける。悪あがきをしてもがいていればそのうち次第次第に神からの啓示が下る。●すると心がこなごなに砕けて今度は「世に仕える」者となる。それまで世を支配して自由と幸福を得ようとしていた気持ちがなくなって世に仕えようとする気持ちになる。正しい職業観になって、「手の業」が栄える。●然り「キリストの集まり」に出席して「礼拝」をするようになる●集会は丹野、高木、山本●14:00青梅クリスマス講演会。講師、有賀政夫、渡辺晴季。●茶話会で私は「千の風になって」の話を土台に有体的復活について語った。藤沢武義氏のご長男が私の隣席であった。彼は「昔語った言葉が自分の子供の心に残っていることを知った」という感話。彼にロングフェローに「矢と歌」という詩があることを告げた●妻は「すずめの会」。●四角錐の体積は底面積×高さ×1/3だが、これは受験用に暗記していただけのこと。、ではこの証明はどうしたらよいのか電車の中でかなり時間を掛けたがギブアップ。YAHOOでその証明方法を探したら出ていた。途中までは私と同じだが最後の段階を学んだ




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ピラミッドの研究 ++++++++ 所感

2007/12/08 09:36

071208(土)6時15分起床●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。忙しい役者時代のこと。年間30本の映画に出演。●「社内教授のピラミッドの解説が面白い。ピラミッドは王墓でもなく、奴隷が造ったものでもない。農民失業対策の公共事業で、国の経済活性のためであるという。人の説を引用した話ではないから面白いのだ。牧師や伝道者の話もそうではなくてはならない●オーストラリアに送る品物の準備。●オーストラリアのO兄に聖書関係CDを発送。●図書館でCD●14:00昭和女子大文化創造学科講師懇談会。コース変更も自由というこの学校の姿勢はグッドだ●ロングフェローの「矢と歌」の名訳の訳者を昭和女子大図書館の司書に探索してもらったら、会議をしている間に探してくれた。なんと大正5年発行の南日恒太郎著「英詩藻塩草」に出ているのを突き止めた。この訳詞は昭和22年国定国語教科書の6年の下に採用されている。大変な名訳だ。上田敏の訳ではなかった。以下に元の英詩と南日恒太郎の名訳を掲げる。わたしはこの詩に「信仰的」な意味を汲み取る。「祈りというのは、祈ったときはどこかに消えてしまって手ごたえのbないものだが、いつこpそれが聴かれていることを知る日が来るとい」というように私は読むのだ。

The Arrow and the Song

I shot an arrow into the air,
It fell to earth, I knew not where;
For, so swiftly it flew, the sight
Could not follow it in its flight.
I breathed a song into the air,
It fell to earth I knew not where;
For who has sight so keen and strong,
That it can follow the flight of song?
Long, long afterward, in an oak
I found the arrow, still unbroke;
And the song, from beginning to end,
I found again in the heart of a friend. 
            (H.W. Longfellow)


● 昭和22年  文部省の小学校六年 国語教科書の訳詞

空に 放ちし わが征矢(そや)は、
あわれ いずこに 落ちにけん。
疾(と)いきおいに まなこすら、
その行く末を 見ざリけり。

空に唱(とな)えし わが歌は、
あわれ いずこに 落ちにけん。
いかに目ざとき 人とても、
声の行くえの 見えんやは。

遠くそののち かしの木に、
矢はまだおれで とどまりぬ。
歌のもと末 ふたたびも、
友の心に あらわれぬ。

●福島のY兄とシドニーのO兄と東京の私の間でブログによる「聖徒の交わり」がはじまった●この世で生きている間で「最上の喜び」は「聖徒の交わり」だ。使徒信条で「聖徒の交わりを信ず」というのは何を意味するのか。それは来世の実在の証明。この喜びがあって来世は確実。●ただしこの「聖徒の交わり」も律法的に義務付けられると苦痛。それはプロテスタント教会の悪いお交わり主義」。それははなはだ苦痛だ●「一人一教会主義」のときに清く自由な「聖徒の交わり」ができる。それはいかなる方法でも可能。ブログやメールを通じて地球の反対側とでも可能●カナダ在住の一婦人はあるとき問題をかかえて来日、塚本先生の所を訪問「先生、無教会主義は一人ぽっちで淋しくはありませんか」。すると塚本先生は居住まいを正されて「神様がご一緒なら、淋しいことはありません」と答えられたという。それを聞かれたその御夫人は納得されてカナダに戻られたという。●結婚してすぐに震災で夫人に先立たれた後、ずっとお一人であられた塚本先生にしてはじめて言える言葉である。私は居住まいを正される●ナニ、人間は裸で一人で生まれてきたのだ。死ぬ時も裸で一人で逝くのだ。何を淋しがるのか。孤独が何か。離別が何か。「何のこれしき」と言え。●妻は夜、合唱の練習に行く。



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苦しい夢で目が覚める ++++++++ 所感

2007/12/07 07:42

071207(金)苦しい夢を見て目覚める。3時半起床●盛んに人を注意している夢。苦しかった。●こういうときはどうすれば心が安らぐのか。藤林益三先生に教えられた方法は「悪いことは神が注意してくれる」信じぬくこと。●キリスト教の門を叩く夫人の多くは「夫の浮気」ということを読んだことがある。これは十字架である。こういう十字架が尊い。●悪いことを悪いと思わないうちはその人に「苦難」がやまない。不幸は神の罰であるとともに愛でもある。●某氏に長文の手紙を書く。内容の一部は公表すべきことでもあるので、一部改変して公開する。
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○○ 様

●貴論の中で『ただ、塚本先生は「三位一体」という表現はつとめて避けておられ、「生命」「啓示」などの表現を用いてその本質を説いておられる』というところに感銘しました。ここにこそ2000年の教会史上における無教会主義の画期的な意義があるものと解します。
●霊界の大真理を短く表現するのは「三位一体」という「言葉」は便利です。現に私が2005年に貴邸にお邪魔して、三位一体の内容のことを力説して帰ったときのことです。奥様が「今日は高橋が三位一体のことを話していったことを喜ぶ」と言われたと側聞したのです。このような時に「言葉」は便利です。長く説明すれば難しいことをたった4文字の「三位一体」ということで伝達できるからです。ここに「霊とことば」(前田護郎先生のお得意の分野)の関係があり、塚本以降の弟子たちが塚本先生に不足を感じたことです。関根正雄、高橋三郎、はしきりに「神学」を強調されました。
●神の国の真理、霊界の真理は生きている人間にとっては、①言葉、②行動、③形のいずれかで表現されると思います。①の言葉は神学となり、カトリックでは「公教要理」、プロテスタントでは「信仰問答書」や「教会教義学」などになります。いずれも大脳皮質をすっきりさせるものです。②の行動は愛の業、社会批判の姿となります。③は芸術です。建築も音楽もここに含まれると解します。ところで神の国、霊界の大真理を「人間」が上記3っつのいずれかの方法で表現すると、必ずと言っていいほど「それだけでは不十分」という「欠如の批判」という反作用が生じます。争いや批判が起こります。
●塚本先生が「三位一体」という真理を伝えるのに神学概念の「言葉」を極力避けたというところが無教会のレゾンデートルであったと今更ながら理解します。ところが、こういうことだから無教会はわかりにくいということも考えられます。O氏はかって「塚本の弟子達の無教会者たちには『曰く言い難し』の雰囲気があってそれは密教のようだ」と言っていました。「不立文字」は以心伝心で禅宗の立場ですが、無教会主義にもどこかそれに似たところがありはしないか。それに飽き足らずに優秀な弟子は「神学」を好んで、師である塚本先生を補ったのではないのか。その理由としては「言葉にしないと対話にならないという理由からです。しかしその結果はどうかというと「言葉にすると争いになる」というのが現実の姿でした。対話集会は喧嘩集会になり、哲学者たちはすぐ争いおこします。(○○対○○、○○対○○)。私の所属する東京聖書読者会はこういう争いを好まずに極力避けてまいりました。
●「神学」で目が開き、頭がすっきりする例はたくさんあります。某牧師の息子は「自分はバルトで信仰がわかったと言います。牧師の父親はさっぱり教えてくれなかった」。と言っていました。かく言う私も「内村先生の詩的な無教会論ではなく、塚本先生の神学的無教会論」(塚本先生自身の認識)で目が開き、頭がすっきりして19歳の時に「教会を飛び出した」のです。内村先生の無教会論だけではおそらく教会にいたままであったと思われます。
●霊のことは霊できりわかりませんが、霊界の真理を「この世」に伝えるのは「言葉」という手段を用います、それが大脳皮質に訴える「神学」だと解します。バルトを読みますと「ナルホド、こういうように説明するのか」と感心し、頭が整理改造されます。バルトは無教会的だなーと感じました。
しかし無教会は神学を避けてきました。しかしこれが無教会主義のよいところであり、同時に限界、また不足なのかもしれません。・・・・・・
●「霊と言葉」「霊と神学」の問題はあるいは無教会の最大問題、最大課題なのかもしれません。(以下省略)


2007.12.7 朝  高橋照男

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来世では家庭生活なし ++++++++ 所感

2007/12/06 08:05

071206(木)5時半起床。黙想「来世では家庭生活なし」●ポスト6時半の収集のために自転車を飛ばす。寒い●日経「私の履歴書」は女優の森光子。13歳の時、縁戚の嵐寛寿郎を頼ってその撮影所に子役で出してもらうことになる。嵐寛寿郎は言った「色の黒い小娘が来たな。親戚だからしょうがない。預かるか」。あー父親のない子どもはこんな小さい頃から苦労するのか●朝風呂で「来世では家庭生活なし」について聖句を黙想連想。

塚本訳 ルカ 20:34-36
20:34 イエスは言われた、「この世の人はめとり嫁ぐけれども、
20:35 あの世にはいる資格を与えられて、死人の中から復活する者は、めとることもなく嫁ぐこともない。
20:36 復活によって生まれる彼らは、天使と同じであり、神の子であるので、もはや死ぬことが出来ない、(従って子を産む必要がない)からである。

●天国では結婚なし、なぜか。神の子であるので死ぬことがない。その次の塚本訳の敷衍がすごい「子を産む必要がない」からだというのである。●来世では夫婦関係の悩みなし、子供の悩みなし、親の悩みなし、親戚の悩みなし。独立していった子供たちの家庭の悩みなし。●救われて「神の子」とされた者のこの世の生活は来世のようでなければならない。パウロは次のように言う。

塚本訳 Ⅰコリ7:29-34
7:29 兄弟たちよ、わたしが言うのはこのことである。──時は迫った。(だから)今から後は、妻を持つ者は持っていない者のように、
7:30 泣いている者は泣いていない者のように、喜んでいる者は喜んでいない者のように、(物を)買う者は(何も)持っていない者のように、
7:31 (つまり、)この世と交渉のある者は交渉がない者のように、しなくてはいけない。この世の姿は(じきに)消え去るのだから。
7:32 ただわたしはあなた達が、(この世のことに)気をつかわないでほしいのである。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のこと(ばかり)に気をつかうが、
7:33 結婚している男は、どうしたら妻に喜ばれるかと、この世のことに気をつかって、
7:34 心が割れるのである。また独身の女と処女とは、身も霊もきよくあろうとして、主のこと(ばかり)に気をつかうが、結婚している女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、この世のことに気をつかうのである。

●家族が足を引っ張ると人は神に仕えられないものだ。精神的に足を引っ張られるから。●かって某氏曰く「妻が協力的でないので集会に行こうにも行けない」。その「妻」は亡くなった。葬儀は仏式であったが、一周年記念会は依頼されて私がキリスト教で行った。今その人は某無教会集会に通われるようになったが、老齢でお身体が悪く、時々のご出席。あー、結婚というのは楽しいこともあるが、不自由なこともあるなー。●では結婚なんて「面倒」なのでしない方が良いのか。ノー。結婚は人間としての義務だ。辛くても義務なのだ。家庭や子供のことで起こる悩み十字架をを負うことも義務なのだ。イエスは言う。

塚本訳 マタ 19:10-11
19:10 弟子たちが言う、「夫婦の関係がそんな(面倒な)ものなら、結婚をしない方が得だ。」
19:11 彼らに言われた、「そのことは(本当の意味がわかって実行すれば確かに得であるが、それは)だれにでも出来ることではない。(神から特別に力を)授けられる者だけに出来るのである。

●パウロは「人間」を知っていた。次のように言う。

塚本訳 Ⅰコリ7:1-7
7:1 また、あなた達が(わたしに)書いている(結婚の)ことについては、(こう答える。)──(出来れば)男は女に触れないがよい。
7:2 ただ不品行をさけるために、それぞれ自分の妻を持て、またそれぞれ自分の夫を持て。
7:3 夫は妻に対して(夫婦の)務めを果たせ、妻も同様に夫に対して務めを果たせ。
7:4 (夫婦の体は共有で、)妻は自分の体を自由にする権利をもたない。夫がそれをもっている。夫も同様に、自分の体を自由にする権利をもたない。妻がそれをもっている。
7:5 互に(夫婦の務めを)拒んではならない。ただ、祈りに身を捧げるため、申し合せの上でしばらく間をおき、あとでまた一しょになるような場合は別として。自制力が足りないのに乗じて、悪魔があなた達を誘惑することのないためである。
7:6 (今わたしは妻を持った方がよいと言ったが、)しかしこれは(あなた達の弱さを思いやって)譲歩して言うのであって、命令するのではない。
7:7 (欲を言えば、)人が皆、わたしのよう(に独身)であってもらいたい。しかしそれぞれ神からいただいた独自の賜物があって、この人はこう、あの人はこうである。(独身も恩恵、結婚も恩恵である。)

●妻が今までの結婚生活で私のために作ってくれた食事の回数は
38年間×365日×3食=41610回。ありがとうありがとう。」●来世では結婚生活なしというが、妻と出会ったらどういうか。その想定の会話。
私「地上では長々お世話になりました。あなたのおかげで主の道を踏み外さないでこられました。ところで子供たちの家庭はどうなっているの」
妻「子供たちの家庭は神様が正しくよく導いてくださるでしょうから、心配しないでください。神様に委ねてお任せましょう」
私「アーソーカ。それではごきげんようさようなら。またどこかでお会いしましょう」







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複雑な家庭に悩む子よ来たれ ++++++++ 所感

2007/12/05 07:41

071205(水)5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。「京都帝大を出た父は一つ年上の、三味線が好きだからというだけで芸妓(=芸者)になった母と恋愛をした。父の実家は結婚を許さず、長男ができてやむなく家に迎えようとしたが、母の方が『あんな窮屈な家は嫌』と断り(行かなかった)・・・・・・・そう聞かされていたから、父は見合いで別の方と結婚し、異母兄弟もいるだろうと察してはいた」●世の中には複雑な家庭のために悩む青年や子供がいる●私の場合は中学生のころに母から身の上話を聞かされた。母はあるとき女中から「あなたのお母さんは本当のお母さんではない」と告げられた。美しくて頭のよかったので親しみを持っていたのに、その人が自分の本当の親ではないことを知ったときの母の衝撃はいかばかりであったろうか。その時から「母の旅路」の苦労が始まった。人を素直に「信じる」ということが苦手になった。家庭が複雑だと就職や結婚に不利だ。●母の実母は祖父との間に子供が8人もいて私の母はその末っ子であった。祖父は銀行の頭取になって羽振りがよくなり最初の妻(つまり母の実母)と離婚。料亭の女将と結婚して後妻に迎えた。祖父は先妻の子供たちを次々と人にやった。私の母はまだ歩けない時に人にやられたがあまりに泣くので戻されたという。後妻には子供はなかった。母はその後妻に育てられたのであった。こういうことを聞かされた私は、私の生まれる前に死んだとはいえその祖父に深い憎しみを抱くようになった。母を不幸な人生にした祖父を到底赦すことはできなかったのである。私の体には祖父の汚れた血が混じっているのだと思うとたまらなくなった。人生淋しかった。苦悩であった。●しかし何の不思議かキリストの福音にひかれ(私の父はクリスチャンであった)、十字架の血潮で「自分の罪」が赦されたとき、不思議にあれほど憎かった祖父を赦せるようになった。そして祖父の墓参りをしたくなった。ところが母の兄弟たちから嫌われた祖父はその墓の存在すらわからくなっていた。しかし私はどうしても墓参りをしたくなり、10年かけてその墓を探しだした。それは後妻の郷里である九州は水俣市の人のいかない山中にあった。●その遺骨を東京に持ち帰るとき、読経をしてくれた仏教の僧侶曰く「不思議ですねー。仏教では50年経つと、法要はしなくなるのです。」。このときわたしは祖父の魂は仏教からキリスト教(それは罪の赦しの宗教)が引き受けたと思った。これは祖父の死後50年の1990年のことであった。●祖父の遺骨は東京の私の住むあきる野市の霊園に安置した。3年前に召された母の遺骨もそこに安置した。祖父の骨壷には後妻の骨も一緒である。母は自分を養育してくれたその後妻に親しみを感じていたので安心であろう。私もゆくゆくはそこに埋骨される。しかし霊魂は主のもとに眠るのだ。そして復活の日に有体的に復活させられることを信じる●このような事情をバラしたことも、母は赦してくれると思う。なぜか。家庭の複雑さから人生の淋しさということを知って、次第次第にキリストによる新生の喜びに導かれたからだ。これを言わずには死ぬに死に切れない。私の余命も短い。言えるのは今のうちだ。●それにしても「不遇」な歩みをした母に「救いの福音、本当の幸福」をわかってもらえなかったことに悔いが残る。一生の悔いだ。私には祈りが足りなかったのだ。あとは神に頼るほかはない。人間は福音による救いにあずからなかったとしてもまだ「黄泉」というところがある。母はそこでキリストから直接福音を説かれているであろう●こんなことを「しゃべる」私にがっくりきた人は去ってくれ。嫌ってくれ。捨てて行ってくれ。自分の道を行ってくれ。達者で暮らしてくれ。神の祝福を祈る。私は毛並みが悪いのだ。学問もないのだ。●伝道はヤケクソだ。世の中にはもっと気の毒な人、悩んでいる人がいっぱいいる。私には語るべき人がいるのだ。相手にするべき気の毒な人が大勢いるのだ。満ち足りた人には用はない。この世の幸福を求めて遊んでなんかいられない●「複雑な家庭に悩む子らよ来たれ!!」。本当の幸福は肉の家庭にはない。家族団欒にない。「血統に悩む子らよ来たれ!!」。「毛並みの悪さに悩む子らよ来たれ!!」。本当の幸福は肉の血統のよさ、毛並みの良さにはない。キリストの血潮で新しく生まれなおして「神の子」になることだ。誰でもなれる。清められるのだ。醜いアヒルの子が白鳥になれるのだ。飛べるのだ。

口語訳 詩 27:10
27:10 たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。

塚本訳 ルカ 8:39
8:39 「家に帰って、神がどんなにえらいことをしてくださったかを、(みんなに)話してきかせなさい。」すると彼は行って、イエスがどんなにえらいことを自分にされたかを、町中に言いふらした。

塚本訳マコ 3:31-34
3:31 そこにイエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていてイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人がイエスのまわりに坐っていたが、彼に言う、「それ、母上と兄弟姉妹方が、外であなたをたずねておられます。」
3:33 イエスは「わたしの母、兄弟とはだれのことだ」と答えて、
3:34 自分のまわりを取りまいて坐っている人々を見まわしながら、言われる、「ここにいるのが、わたしの母、わたしの兄弟だ。

塚本訳 Ⅱコリ7:10
7:10 なぜなら、神の御心に沿った悲しみは、(人を)救いに入れる悔いのない悔改めをもたらすけれども、この世(的)の悲しみは、(絶望と)死をもたらすからである。


塚本訳 ヨハ 1:12-13
1:12 しかし受け入れた人々、すなわち、その名を(神の子であることを)信じた人には一人のこらず、神の子となる資格をお授けになった。
1:13 この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神(の力)によって生まれたのである。

口語訳 Ⅱコリ5:17
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

塚本訳 Ⅰコリ1:17-18
1:17 救世主がわたしをお遣わしになったのは、洗礼を授けさせるためでなく、福音を説かせるためなのだから。それも、言葉の上の知恵をもって(説くの)ではない。それでは(人間の言葉の力が大きくなり)、キリストの十字架(の救い)が空虚なものになる恐れがあるからである。
1:18 なぜか。この十字架についての言葉は、滅びゆく者には馬鹿なことであるが、わたし達救われる者には、神の力(の現われ)であるから。

●キリストの系図は汚れていた。マタイ冒頭のキリストの系図はわざわざ、まずい問題の女性を記録している。その系図には、異郷人、遊女、不倫相手がいる。清く汚れのない神の子は汚れた肉の系図から生まれた。!!

塚本訳 マタ 1:5-6
1:5 サルモンの(遊女)ラハブによる子はボアズ、ボアズの(異教国モアブの女)ルツによる子はオベデ、オベデの子はエッサイ、
1:6 エッサイの子はダビデ王である。ダビデの(将軍)ウリヤの妻による子はソロモン、

●8:30妻は婦人の読書会で「聖書勉強」●12:00ふれあいセンターで高橋京子先生たちのミニコンサートを鑑賞●紅葉が美しかったので写真に撮ったがブログの画像アップががうまくいかなくて無念●郵便局、図書館、歯医者、全体的にグラついているという。夕焼けの奥多摩連山がきれいで写真に撮ったがブログに乗せられないで無念






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極度の悲しみの時に ++++++++ 所感

2007/12/04 22:55

0711204(火)4時半起床●朝の囁き「別れの痛み悲しみと再会の喜び」●肉の別れは悲しみでありみじめなことになるが霊での再会は永遠の喜びである●内村鑑三は愛弟子塚本虎二に去られたとき「塚本はどう見ても町人だ」と公言罵倒した。内村自身は武士の家系●塚本先生はまた愛弟子前田護郎が膝もとから去っていくとき泣かれたという。誰もが塚本集会の後継者は前田護郎だと思っていた●このことによって塚本先生は内村先生の気持ちがわかるようになったと親しい人に言われた●内村先生の告別式の日に塚本先生は棺に取りすがって「先生!、天国でお会いします」と慟哭されたという●塚本先生が脳のご病気で御静養されておられたところへしばらくぶりで前田護郎が訪問されると、先生は病後はじめて笑われたという。いずれも霊での再会である。●塚本集会は解散した。●藤林先生は「信仰は一代だ」と言われた。これ真理だ。信仰は世襲ではないのだ●朝風呂で「藤林本」の原稿編集●人生において、極度の悲しみのときには不思議に天から声が聞こえてくる。聖書にその例を二か所見てみよう。

塚本訳マタ 1:18-20
1:18 さてイエス・キリストの誕生はこのようであった。──イエスの母マリヤがヨセフと婚約の間柄で、まだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重となっていることが知れた。
1:19 夫ヨセフはあわれみぶかい人であったので、(これを公沙汰にして)女を晒し者にすることを好まず、内緒で離縁しようと決心した。
1:20 しかし(なおも)そのことを思案していると、主の使いが夢でヨセフに現われて言った、「ダビデの末なるヨセフよ、心配せずにあなたの妻マリヤを(家に)迎えよ。胎内にやどっている者は、聖霊によるのである。

●ヨセフは婚約者が子を宿したことに非常な苦悩に陥った。婚約者を疑うのは当然であった。その極度の苦しみのときに天使の声が聞こえた。

塚本訳 ルカ 22:41-44
22:41 そして自分は石を投げれば届くほどの所に離れてゆき、ひざまずいて祈って
22:42 言われた、「お父様、お心ならば、どうかこの杯をわたしに差さないでください。しかし、わたしの願いでなく、お心が成りますように!」
22:43 そのとき天から一人の天使がイエスに現われて、力づけた。
22:44 イエスはもだえながら、死に物狂いに祈られた。汗が血のしたたるように(ポタポタ)地上に落ちた。

●イエスのゲッセマネの祈りも極度の苦悩であった。このとき天使が現れた。●我々の人生でもどうしようもない極度の「苦悩」「苦難」「懊悩」「悲しみ」の場面に遭遇する土岐が何度かある。そのときはどこからか不思議に声が聞こえてくるものだ。それによって励まされるものだ●私は目の前で自分の愛する家が焼けるのを見させられた。残酷であった。自分で手塩にかけて設計し建築した家、建築士会で賞を取った自慢の家。我ながら美しくできたと思っていた家、4人の子供を育てた思い出の家、ようやく住宅ローンを払い終わった家、これから老後を過ごそうと思っていた家。その家が目の前で燃えている。「神様のバカヤロー」「なぜ、なぜだ」と思った。途方に暮れた。その時である。「天国の家は焼けない」という声が聞こえた。顔面蒼白の私の背中を長男の新一がなぜてくれた。●この心労で3か月後には脳内出血で意識不明により入院。私はあのとき地平線を見失った。地平線が消えた●入院中に新井明先生から激励のお手紙をいただいた。「現代のヨブよ。倒るるなかれ。来たりて我らを教えよ」と。●これはワーズワースの次の詩をもじったものである。「ミルトンよ。今あれかし。今英国は汝を要す。来たりて我らを教えよ」●その新井先生は私以上の御苦難に遭遇されたのである。●日経「文化欄」三澤寿喜の「ヘンデル晩年の心意気」。ヘンデルの本領が最も発揮されたのは声楽曲だと思い知ったという。●ヘンデル「メサイア」のソプラノ独唱「我知る、我を購うものは生く」をエマ・カークビー、シュヴァルツコップ、ヘレン・ドナードの三種類で鑑賞。●14:50昭和女子大建築講義、2コマ●授業後、ぽつんと一人残っていた3年女生徒にの声をかけた時の対話。
私「どういう方面に行こうと思うの」、
女生徒「OLになります」。
私「駄目だなー。ビジョンないなー」、
女生徒「建築がつまらなくなってしまったのです」
私「私もそういうときがあった。ずーっとそうだった。けれども35歳の頃になって、建築を通して尽くす人が現れて、その愛する人のためだと思えたら建築が面白くなった。建築が面白くなったのはそのときからだ」
女生徒「そのような人にはどうしたら巡り合えますか」
私「それは多くの場合偶然だ。でもきっと現れる。愛する人に巡り合える。そのときまで、じっと我慢して忍耐強く学びなさい。学生時代はその喜びは得られないものだ」
●自分が専門としようとしている科目に興味が湧かなくなったら、「教養科目の一つ」と思って「学びぬく」ことがテクニックだ。愛する人が現れると「その科目」を通してその人に尽くすときがくるものだ。
●18:15妻と人見記念講堂で「サンクトペテルブルグ室内合奏団・クリスマスコンサート」を鑑賞。レニングラードフィルの精鋭たちで、素晴らしいアンサンブルであった。前原理事に妻を紹介。●人見講堂の前のクリスマスツリーは見事、品格がある。妻と並んで移したが、ブログ不調で掲載できず無念。

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昭和女子大のクリスマスツリーは「品格」がある。妻と

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自分の墓碑銘を見る ++++++++ 所感

2007/12/03 06:59

071203(月)出勤日、5時半起床。●昨夜の夢。自分の墓碑銘を見る。そこには次のように書かれてあった。

「来世での復活を固く信じていた高橋照男。
       妻トミ子と共にここに眠る」。

●この自分の墓碑銘を見ているとどこからともなく次のような声が聞こえた。「これでいいんだ。これでいいんだ」●こんな夢を見るとは私の命も短いのかもしれない。夢は正夢という。わたしの死因は「脳血管障害かガン」。長くはない予感。●「これでいいんだ。これでいいんだ」という声の裏には「この男、大したことはできなかったが、来世での復活を信じられたことが最大の功績であった」という意味があると解した。●これに関する聖句を連想した。

口語訳 黙 14:13
14:13 またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。

●これの5カ国の引照を私のHPに掲載したBbB(聖書で聖書を読む)で見て見る。


各国聖書引照編集



(独)NESTLE-ALAND NOVUM TESTAMENTUM GRAECE 27版1993 の引照

新共同 黙 10:4

10:4 七つの雷が語ったとき、わたしは書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはいけない」と言うのが聞こえた。



新共同 黙 19:9

19:9 それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。



新共同 黙 1:3

1:3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。



(英・米)THE NEW TREASURY OF SCRIPTURE KNOWLEDGE 1982 の引照

口語訳 Ⅱコリ5:8

5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。



口語訳 ピリ 1:21-23

1:21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。

1:22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。

1:23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。



口語訳 Ⅰテサ4:16

4:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、



口語訳 ガラ 6:7-8

6:7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。

6:8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。



(日)新共同訳1987の引照

新共同 Ⅰコリ15:18

15:18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。



新共同 Ⅰテサ4:16

4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、



新共同 黙 11:18

11:18 異邦人たちは怒り狂い、/あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、/御名を畏れる者には、/小さな者にも大きな者にも/報いをお与えになり、/地を滅ぼす者どもを/滅ぼされる時が来ました。」



新共同 黙 20:6

20:6 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。



新共同 黙 2:7

2:7 耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」』



新共同 黙 22:17

22:17 "霊"と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。



新共同 黙 6:11

6:11 すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。



新共同 Ⅰテモ5:25

5:25 同じように、良い行いも明白です。そうでない場合でも、隠れたままのことはありません。



(仏)THE NEW JERUSALEM BIBLE 1985 の引照

口語訳 黙 12:17

12:17 龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。



口語訳 黙 1:3

1:3 この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。



口語訳 Ⅰコリ15:18

15:18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。



口語訳 ヘブ 4:10

4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。

●神田岩本町の長谷川ビルに行き、二代目の長谷川真史氏と懇談。ビル経営のこと●古巣、連合設計社市谷建築事務所に行き吉田桂二と懇談。企業も家庭も新しい世代に代替わりすることは必要だが、伝統の「良い精神性」は受け継がれなくてはならないということで意見が一致。イマドキノ若いもんは伝統の革新と称して「よき精神性」も踏みにじるから古くからの顧客を逃してしまう●18:30我が家を建ててくれたくれた加藤棟梁に来てもらって、吉田桂二のカレンダーを渡す。●福島県の主にある先輩から今朝のブログについて「『ここに眠る』という墓碑銘ではあまりにかわいそうです。キリスト信者は『ここに眠る』ということではありません」という御感想をいただく。まことにその通りだと思ったので次のような感謝のご返事を書いた。ブログによる信仰の励ましあいは有益。

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○○様

御指摘まことに感謝アーメンです。不覚でした。
次のようにあるべきでした。

「来世での復活を固く信じていた高橋照男。
  妻トミ子と共に主のみもとに眠る。」

信仰の励ましあい、感謝です。顔を固く来世に向けされられました。

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出生の秘密こそ「自分の十字架」 ++++++++ 所感

2007/12/02 07:15

071202(日)6時15分起床●朝風呂で日経「私の履歴書」は女優の森光子。出生が不遇。母は芸者、父は二か月に一度程度来て膝の上に光子を抱いてそのまま帰って行った。「のちに母はあれで幸せだったのかな、と思ったこともある」。・・・・・アー、生まれつき人生の十字架を負っている人もいる。●今日の集会での話は「自分の十字架とは何か」であるが。難しいことはない。生まれつき十字架を負っている人もいるのだ。これこそ「自分の十字架」だ。●人生の悲しみ、嘆き、苦難が聖書の最大の注解だ。

新共同 詩 27:10
27:10 父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。

●賀川豊彦も芸者の子供。幼いころの豊彦は「妾の子、妾の子」と言われ虐められて淋しかったという。それを知った神はマヤスとローガンという米国からの宣教師を通じて豊彦を「引き寄せた」。賀川は生まれ変わった。神戸は新川のドヤ街に長く住みこんで貧しい人の友となった。そこでトラホームを移されて生涯苦しんだ。後にノーベル平和賞の候補にまでなった。日本よりも海外で有名。米国にはカガワストリートがある。●40年も前のこと、U牧師の「証」。氏は長じて自分の出生に秘密があることを知って、母親を罵倒した、罵った。しかし淋しかった。そこでキリストに出会った。氏はもう故人となられたに違いない。しかし成功の生涯であった。●集会は藤巻、小寺、高橋(「自分の十字架」とは何か)●私の結論は、私の知らないところで私の十字架を負ってくださっている人がいる、というもの●また私の知人は「この東京聖書読者会は家系、職業、地位などがカッコイイ人きり出られない」と嘆いた。間もなく彼は精神の病に陥って自殺したが彼は私の十字架を負ってくださったのだと感じると言った●昼食7人。数年前にご主人に先立たれた夫人から「主人の死は私の十字架を負ってくださった」ことがわかりましたと感謝のお礼を言われた
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