to 日記と感想 2008年01月
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将来日記

    将来日記

    XXXXXXXXXXX    終末、復活、永遠の生命、再会(父、母、妻、
              子供、親戚、友人、集会の方々)
              復活と再会の確信はイエスの有体的復活の事実
    291103       結婚60年記念、ダイヤモンド婚
    261016       イカ成人
    251009       コフ成人
    250809       タワ成人
    241103       結婚55年記念。エメラルド婚
    230110       イハ20歳成人
    230713       タテ満80歳
    220728       KM成人
    200713       タテ誕生日満77歳喜寿
    191103       結婚50年記念。金婚
    18秋ごろ 木曜日 阿伎留病院森先生に胃カメラ申し込み
    171229    TM誕生日
    171220     KK誕生日
    171115    TM誕生日
    171016     IK誕生日
    171009     KH誕生日
    1709頃      聖路加約センターに2018年のMRI予約3か月前に聖路加に行く
    170831     芝浦工業会年会費支払締切
    170824(木)12:10キララホールエントランスコンサート、マリンバ
    170822     KS命日
    170817(木)11:30 キリスト教性教育研究会、ナザレ修道会、富永國比古
    170813     KT命日
    170813(日)10:30ナザレン教会浦和教会
    170813(日)14:00比企紀和君
    170812(土)14:00お江戸こらりあーず演奏会、文京シビックホール
    170809     TW誕生日
    170809(水)17:16初音吹奏楽、府中の森芸術劇場ドリームホール
    170808(火)0930池谷医院
    170801     TH誕生日
    170728     TI誕生日 KM誕生日
    170723      IK誕生日
    170713      TT誕生日
    170708(土)14:00在宅医療説明会(キララホール)
    170707(金)10:00池谷医院
    170706      TM誕生日
    170702(日) 集会感話
    170701      TT誕生日
    170630(金)12:20キララホールエントランスコンサート
    170628      IY誕生日
    170627(火)11:00 能城牧師来訪
    170625)日)10:10トミ子集会感話
    170625(日)14:00茅ヶ崎金子邸
    170618(日)15:00今井館総会
    170611(日)14:00武蔵野室内アンサンブル。ブラームス3番他。キララホール


人生、後ろを振り向くな ++++++++ 所感

2008/01/31 08:14

080131(木)2時半目覚め。その後はどうしても寝付けない。4時間半熟睡したからよいか●朝の啓示「後ろを振り向くな」●朝風呂で日経「私の履歴書」、前FRB(米連邦準備制度理事会)議長アラン・グリーンスパン。最終回。「小事(この世のこと)に忠なれ」(ルカ16:12塚本訳)というが、「金銭勘定」が主たる仕事であった人生ははたして「幸福」だったのだろうかと考えた。ちがうちがう。「金銭」は目的ではなく手段なのだ(ルカ16:13-14塚本訳)なのだ。だからこの世のことは小事だからと言ってこれをむなしく思い、「キリスト教系の」職業に就くのは間違い。そういう人は神の国の仕事を任せられない。●過日、キリスト新聞社、YWCA、、ライフ企画の社員の対応が全く駄目であって怒り心頭。返事がなかったり、あっても遅い。これではこの世からキリスト教は尊敬されない。あの社員は民間企業では使いものにならないからクビだ。●今朝の黙想「人生、後ろを振り向くな」についてデボーション。●昨年暮れ。喪中欠礼の最後に「(高橋さんに造っていただいた)ビルは売却しました」とのひとこと。がっくりした。二代目がビルを持ち続けることができなかった。「『売り家』と唐様で書く三代目」という故事があるが三代も続かなかった。●しかし形あるものはいつか壊れる。無くなる。ビルとていつまでもあるわけではない。地上の家はいつかは壊されるのだ●建物が解体される原因は、老朽化、経営難、家庭崩壊などさまざま。でも心血注い造ったものがこんなにも早く売却されたり壊されたりするのは実に淋しい。寂しい。悲しい。無念。空しい。クソォー。●しかし建物は売却されたり、壊されてもその人(一代目)に対して一生懸命尽したたという事実だけは残る。その思い出が慰めだ●一代目の夫人がお元気なころお手紙をいただいた。「このビルは神の『永遠』の時のながれから比べると、ご一緒に屋上で見た隅田川の花火のように一瞬でなくなるでしょう。しかし高橋さんに一生懸命に造っていただいたという思い出は私の胸に永遠に残ります」。これ私の「この世の職業に対する姿勢」を開眼させてくれた。形は残らなくてもよい。相手を愛してもてる技術(業)で一生懸命尽くすことが一瞬でもよいのだ。それが神に覚えられ、天に宝を積むことができるのだ。●その夫人は昨年召された●「人生、後ろを振り返るな」。過去の良い業績、否、悪い思い出も忘れよう。失敗も忘れよう。悔やむことも忘れよう。失敗を忘れよう。不運と不幸を忘れよう。悲しみを忘れよう。前を向こう。神に顔を向けよう。

塚本訳ルカ 17:28-32
17:28 ロトの時にも、ちょうど同じようなことがあった。人々が飲んだり食ったり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていると、
17:29 ロトがソドムから出た日に、『(神は)天から火と硫黄とを降らせて、『一人のこらず滅ぼしてしまわれた。
17:30 人の子があらわれる日にも同じことが起るであろう。
17:31 その日には、屋根の上におる者は、(何か大切な)家財道具が家の中にあっても下におりて取り出そうとするな。畑におる者も同じく『(家に)もどる』な
17:32 ロトの妻のことを思え。

塚本訳 2 ピリ 3:12-14
3:12 しかしこれは(何も)既に(それを)捉えたとか、既に完成されているとか言うのでは(もちろん)ない。ただもしや私も(それを)捉えることが出来はしないかと、走っているまでである。私もキリスト・イエスに捉えられたのだから。
3:13 兄弟達よ、私はまだ自分で(それを)捉えたなどとは考えていない。しかし(ただ)一つの事──後ろのものを忘れ、前のものを追い求めながら、
3:14 (或る)目標に向かって、すなわち神がキリスト・イエスにおいて天上に招き給う褒美に向かって(ひた走りに)走っているのである

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早朝散歩。讃美歌174番「起きよ、世は明けぬ」を心で歌う 6時24分。

●公立阿伎留医療センターでピロリ菌検査の結果を聞く。沢山いるという結果。大人の7割にいる。ほっておくと癌になる恐れもあるということで除菌の薬を飲むことにした●歯科で犬歯に詰め物●ゆき皮膚科は今日で終わり。午前中に三か所も医者に行った●「藤林益三」本の原稿が完成。三社に見積もり依頼を発送。これで一安心。

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「胃ガン疑惑」のあと良性であることを判定してくれた病院。不安と悩みの試練であった。

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「藤林益三」本の原稿を印刷会社三社に送り出す。今日の夕暮れ。神よ今宵も安らかに眠らせたまえ。

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信者交流のかたち ++++++++ 所感

2008/01/30 19:39

080130(水)5時起床●5時半から、福島の三男恵からパソコンのレクチャーを受ける。録音機で内容を記録。あとからその手順を書きとめた●長いことアップできなかった「使徒伝承」のを再開することができた●集会に来られない人で「使徒伝承」を心待ちにしている人にこたえることができるようになって感謝●聖日に集会に来られない人で、私のHPを読んで下さる方がおられる。そのタイプ。仕事の都合で日曜日に休めない人。家人の介護で日曜日に出られない人。集会に行く費用が苦しい人。それからこれは推測だが、教会や集会にいくといやな人がいるから足が遠のく人●牧師の説教を聞きに行くことが信仰生活ではない。大先生の研究余滴をうかがいに行くことが無教会者であるということではない●信者の交わりの型は様々。具体的に物理的に集まる、手紙で交流、電話で交流、無教会雑誌の発行者と雑誌を通じて交流、わたしのようにWEBコイノニアのケース、●信者は物理的に集まらなければならないとは限らない。●物理的集まりが教会とか集会である。雑誌での交流というスタイルがが無教会にあった。●今後はWEBでの交流が主流になる予想が湧く。今度の私の「胃ガン疑惑」のときの「助け」はWEBエクレシアの面々であった。信者はなぜ物理的に集まらなければならないのか。

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図書館に行く時の景色。夕暮れは淋しい。まてまて。有体的復活の来世があるのだ。

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長く病妻を抱える友 ++++++++ 所感

2008/01/29 07:19

0801298火)。女子大講義日●4時目覚め、5時半起床。●遠戚に20年以上も病妻を抱えている人がいる。その苦労のほどいかばかりか。その夫妻のことと、その子供のことを祈った。「み心のなりますように」●起きたら内村鑑三の「キリスト信徒の慰め」の中の「不治の病に陥りしとき」を読もうと思ったが、黙想しているうちに聖書の言葉が4か所閃いて、内村に行かなくても心一杯になった。人間の言葉よりも神の言葉のほうが栄養価がある。人間の言葉はレシピ。単なる「慰め」。神の言葉と聖霊は料理そのもの。お腹が一杯になる。

塚本訳 ルカ 12:6-7
12:6 雀は五羽二アサリオン(六十円)で売っているではないか。しかしその一羽でも、神に忘れられてはいないのである
12:7 それどころかあなた達は、髪の毛までも一本一本数えられている。恐れることはない、あなた達は多くの雀よりも大切である。

塚本訳マタ 18:10
18:10 この小さな者を一人でも軽んじることのないように注意せよ。わたしは言う、(わたしの父上は片時も彼らをお忘れにならない。)あの者たちの(守り)天使は、天でいつもわたしの天の父上にお目にかかっているのだから。

塚本訳 マタ 26:42
26:42 また二度目に向こうへ行って、祈られた、「お父様、どうしてもわたしが飲まねば通りすぎない杯ならば、どうかお心のままになさってください。」

塚本訳マタ 6:10
6:10 お国が来ますように。お心が行われますように、天と同じに、地の上でも。

●パウロも病気もち。しかもそれは一生直らないものであった。けれどもパウロは有体的復活の希望に生きた。

 塚本訳 Ⅱコリ12:7-10
12:7 そしてこれらの素晴らしい啓示があるので、わたしが高慢にならないようにと、わたしの肉に一つの刺が与えられた。悪魔の使いであって、これはわたしが高慢にならないようにと、わたしをうつものである。
12:8 この使について、それがわたしから手を引くようにと、三度まで主に願ったが、
12:9 主は(その都度)言われた、「わたしの恩恵はあなたに十分だ。力は弱さの中に完成されるのだから。」、それでわたしはキリストの力がわたしに住みついてくださるように、大喜びで、むしろ(自分の)弱いことを自慢しよう。
12:10 それゆえわたしは弱いことを、虐待、艱難、また迫害と苦悩をうけることを、キリストの故に喜ぶ。わたしは弱い時には、(彼の力によってかえって)強いのであるから。

●実例二つ。その1・「祈りの友」のH・Tさん(82歳)をお見舞いしたときのこと。私が「晩年に全盲になられてさぞ御不自由でしょうねー」と言葉をかけた。するとH・Tさんは満面の笑みをたたえて「ナンノコレシキ」と言われた。この一言、忘れられない。H・Tさんはすでに天国人である。●その2.集会員であった母親のこと。彼女は生まれつき歩けない息子を抱えてしまった。その息子が「歩けなくてつまらない」と何度か泣いた。するとその母親はその都度言ったと言う。「いいのよ。いいのよ、すべて神様がご存じだから」。不治の病を慰めて人生を励ますこととて、これ以上の言葉はなかろう。その母親も息子もすでに召された。今頃有体的復活で喜んでいることだろう。この世的には不幸の人生だったが、神の命をいただいて成功の人生。成功の親子関係。●小寺利男さんから頂いたCD。豊島泰嗣(やすし、小寺さんの甥))のヴァイオリン小品集を鑑賞。この人すごく音楽性があってテクニックもある。


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聖霊と三位一体の信仰 ++++++++ 所感

2008/01/28 14:56

080128(月)有給休暇。5時半起床●来週の感話の準備で、結論を修正。建築設計と同じで最後の最後まで直したくなる。一応次のように直してまとめた。

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5・なぜ今「胃ガン疑惑」であったか。その恩恵と摂理

 

 昨年から「藤林益三」という本を編集中である。その中で津上毅一さん(元今井館理事長94歳)の「所感とあとがき」の論考に塚本虎二先生から伺ったことだという、いわば「特ダネ記事」が書かれている。

以下塚本先生の言葉。1951(昭和26)年頃のこと。

「聖霊の問題は、無教会において究明すべき残された重要な問題である。関根(正雄)先生のような方が手島郁郎氏達の動きに一時着目されたこと自体は、単純に『誤まり』と言い切れない意味がある。その意味で関根君には同情するが、手島氏の解釈は聖霊の正しい受容ではない。もしあの運動を放置して無教会がそれに巻き込まれてしまうと、無教会は壊滅する危険さえある。それを防ぐために、私は必死の思いでこれに対決しているのだ」。

以上塚本先生の言葉。

●塚本先生が言われた課題。「聖霊の問題は、無教会において究明すべき残された重要な問題である」。

これに対して私(高橋)は、苦しい「胃がん疑惑」を通じて道を示された感じがする。3点ある

第1は他者から熱心に祈られ胸が熱くなって平安が訪れ、「死のときもこのようであれば楽だなー」と思えたこと。これにより「他者の祈りの効果」というものが世に確実にあることを知った。新約聖書が盛んに言う「霊の交わり」、そして使徒信条の「聖徒の交わりを信ず」との意味は「その効果を信ず」ということだということを知った。他者の祈りが神に聴かれる。ここにエクレシアやコイノニアの真の意義がある。もしキリスト教に胸が熱くなる聖霊の働きと他者の「効果ある祈り」がないならば単なる「宗教思想集団」になる。

第2は「藤林益三」という本の底流主題になった「三位一体の信仰」の第三位の「聖霊」ということがわかったことである。三位一体の信仰は、大脳皮質で考えると矛盾だらけでアウグスチヌスの言うように永久にわからないものである。しかし「胸が熱くなることによって」、この今に働く聖霊の存在がわかった。永遠に働く聖霊が現代に継続的連鎖的に教会や集会を生むのである。これをエクレシアとかコイノニアという。無教会主義に真のコイノニアができやすいのは逆説的であるが現実。それは人間的組織ではない不思議な関係。

第3は塚本先生が言われる「それを防ぐために、私は必死の思いでこれに対決しているのだ」といわれるこの「必死の」働きとは何であったのか。それは神学的表現に頼らずに三位一体の真理そのものに冷静に固く立つことである。そのために塚本先生は聖書本文そのものの真面目な勉強が大切であることを説き、ご自身は敷衍付き新約聖書の翻訳に心血を注がれた。それは神学や聖書学に流れないで「必死に」聖書の文言に固着し、聖書本文の意味の解明を目指された。無教会の「素人の聖書読み」の道がここにある。それは聖書の本質読みである。藤林先生が「東京聖書読者会」の根本方針として打ち出されたのは「みんなで聖書本文そのものを読もう」ということであった。「聖書そのものを読むこと」と「みんなで読む」ということ。藤林先生は実に良い、継続性のある方針を示してくださった。

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●朝、エプソンプリンターがうまく立ち上がらず、この重要な時に困ったと思ったがエプソン東京修理センターの電話窓口の若い女性が親身になってくれて秘策を教えてくれた。室内気温が10度以下の場合はうまく立ち上がらないことがあるので少なくとも15度程度になってから試してもらいたいとのこと。成功。●イエスの十字架も人間が犯した罪の処理に困りぬいているときの神による救済の秘策。思いもよらぬ方法で人間は罪の悩みから全く清められる。このありがたさよ。
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無教会の面目躍如 ++++++++ 所感

2008/01/27 07:42

080127(日)4時半起床。●朝の黙想。「キリストの弟子だからとて、水一杯くれる人」の幸い。昨日「ガンが逃げ出す生き方」という本を下さった方のことを思う。

塚本訳 マコ 9:41
9:41 キリストの弟子だからとてあなた達に一杯の水を飲ませる者は、アーメン、わたしは言う、(天にて)その褒美にもれることはない

●集会は丹野竹子、高橋新一、横田淳。新一は郡山の医師の紹介によって結婚できたいきさつ、クリスチャンと結婚できて感謝との話、新婚旅行の話(写真回覧)、教会での信仰生活(伴侶と義母とともに出席)、家庭での信仰生活、職業生活、第一テサロニケ第一5章12-22節の感話。●新一は無教会の集会を離れて伴侶の衣純さんが母親と出席している長老教会に出席するようになった。離れていても「主にある生活」が続けられていることを知って感謝●集会の面々が新一を暖かく迎えてくださったのは感謝。無教会の面目躍如●衣純さんは風邪で39度の発熱で残念ながら欠席●昼食会●妻はドヴォルザーク「スターバトマーテル」の練習。●恵からパソコンレクチャーの「指南書」により、「使徒伝承UP」の試み

 

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何事も無理はいけない ++++++++ 所感

2008/01/26 09:56

080126(土)5時半目覚め。昨夜は妻と次男が「メサイア公演」のゲネプロ。帰宅してから参院でしばし「ンメサイア」談義をして遅くなった。さらに愛子が合唱団加われば著い8がなーと話し合った●某氏から本の寄贈。お礼に胸襟を開いてメール。コトは公のことなのでさし障りのあるところは伏せて公開する。

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 ○○様

 「○○○○○」御恵送感謝。以下お礼の意味で感想です。

●5篇読ませていただきました。今回は「神学的」に力作です。

●○○―○○の論考をひと言で要約するとキリスト教の神は「慈母」である。(P○○)

●○○―○○―○○のキリスト教を推し進めると「パウロ」を否定することになる

●救いは「神からの光」で到来するということが、最近の○○先生の主張です。それは「慈母観音の光」「生命の光」(幕屋の雑誌、何万部だそうです)にどこか類似しています。そこにキリストの十字架が欠落。!!。十字架がそもそも排他性。

●キリストの十字架やパウロはそれ自身で「排他性」があるのですが、それが生来の人間悪と結びつくのが悪いのだと「○○―○○」は説いておられるのです。キリストの救いがわかるのは「少数」であり、「全宇宙教会主義」(P○○)というのは観念の遊戯。

●むずかしい神学論争をしていると、神から事故や病気というパッシングが与えられ、議論を止めさせられる。

●小生は昨年の暮れに「胃ガン疑惑」が発生。神のパッシングでありました。それとともに「祈りの雨」でエクレシア、コイノニアの効果の現実を教えられました。これからの無教会の姿を示された感じです。添付ファイル、特に最後の⑤をお読みいただければ幸いです。(高橋注・・・1月21日ブログに掲載)

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●1月24日のブログ内に次の聖句を引用したところ、某氏からこの「(無理があるのは、御心ではない。)」の塚本敷衍に「感ずるところあり」とのコメントをいただいた。

塚本訳 Ⅰコリ7:15
7:15 しかし不信者の夫(なり妻なり)が別れるなら、別れさせよ。こんな場合に、兄弟なり姉妹なり(つまり信者)は(結婚に奴隷として)束縛されてはいない。神は平和な生活へあなた達をお召しになったのである。(無理があるのは、御心ではない。)

●人生、何事も無理はいけない。無理を通そうとするのは「人間の頑張りであって神の観心ではない」ということは真理。特に人間関係においてそれは重要。この話は相手に無理なことなのかどうかは「目をみればわかる」というものだ。●イエスもパウロも、この道を行けば「反対」者が多いと感じるとそこへは「無理に」行かなかった。学校、仕事、結婚、家庭、寿命、病気、相性、子育て、経済、パソコン!!。などなど人生すべてにおいて無理はいけない。高望みをしてはいけない。合わない人とは無理に合わそうとしてはいけない。「合わないのが御心」なのだ。合わせるのは人間の努力でなく、神の力。●カトリックの某神父は年間80人以上に洗礼を授けるという、別名「カリスマ神父」。その説教を本で読んだが、いたって簡単。「人生無理するな」ということ。●母が召されたホスピスの精神は「自然に生き、自然に死ぬ」ということ。しかし肉体の苦痛が取れても平安はこない。この道の医学者たちの最後の課題は「メンタルのこと」ということになっている。キリスト教の「出番」だ。

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ヘンデル「メサイア」の公演に出かけて行く妻(左)と次男(右)。

「二人の上に神からの霊が下りますように」と祈る。2008.1.26 9:10

●14:00昭島公会堂で合唱団「もくせい」のヘンデル「メサイア」の演奏会。妻のトミ子(アルト)と次男の守(テノール)が出演。両手こぶしを固く握って鑑賞。三か所で涙が流れてしまった。1・「安んぜよ汝等我が民よ」、11・「我等がため一人の子生まれ出でぬ」、39「王の王、主の主」●40、ソプラノにも感動「我は知る。わが救済者の在るを。彼が最後の日に地上に立たれるを」●演奏終了時。宗教曲なのに思わず「ブラボー」と怒鳴った。発声の方法が悪くて喉が痛くなった。●3年前にライプチッヒに行った時のメンバーと多数出会った。

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ヘンデル「メサイア」公演終了後。昭島公会堂ロビーで。

前列左から、高橋守、高橋和歌、伊勢初音、伊勢愛子

後列左から、高橋トミ子、伊勢善明、伊勢かなほ、高橋穂澄、

      小寺七重、高橋照男

●エスパで7人で夕食。

 

 

 


 

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三位一体の冷静なる信仰 ++++++++ 所感

2008/01/25 10:50

080125(金)出勤日。6時起床。朝の黙示「三位一体の冷静なる信仰」●昨夜は11時過ぎまで福島の息子からパソコンのレクチャーを受けていたので遅い目覚め。「使徒伝承」の回復作業。とにかく遠隔レクチャーだから困難。本当は身体によくない。●朝風呂で日経「私の履歴書」。経済のことは専門家に任せないといけない。どこをどう操作すれば景気がどうなるかは専門家の領域。これ医学、建築学、パソコンの世界でも同じ。素人にはわからないことが多い。●宗教改革の意義の一つに「個の尊重」がある。これは各々の職業領域の尊重という意味にも通じる。●建築士の私の立場をさしおいて「設計に口出し」したり、私の設計を無視して素人判断で決定する人間はダメ人間。人間として低級、教養がない、相手の職業領域を尊重してない●自分を正しいとして天下国家を断罪する人間はイマイチ。いまいちどころか信用できない。なぜか。礼節に欠けるからである●「聖霊の問題は無教会の残された重要課題である。」として塚本先生がいわゆる異言運動に激しく対決していたということを調べるために「聖書知識」誌の旧号を調べた。●キリスト教に「聖霊」がなくなったら、「ヒューマニズムの思想集団」か「政治活動」と似たようなものに成り下がる。しかし一方、「聖霊」を強調すると幕屋のような異言運動になってしまう。大切なのは「三位一体」の冷静なる信仰である。
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ヤル気が起きないんだよなー ++++++++ 所感

2008/01/24 08:29

0801248(木)5時半起床。朝の黙想「ヤル気が起きる原因」。それは締切期限が迫るとき●朝風呂で日経「私の履歴書」、前FRB(米連邦準備制度理事会)議長アラン・グリーンスパン。「経済をうまく導いてくれる神様」と言われるようになって愉快に思えなかったという。なぜか。そう言ってきた人は企業年金で利益が出たことを喜んでいた人だから。人間は自分を儲けさせてくれる人を「神様」と呼ぶようになる哀れな動物だ。●朝風呂で黙想。「ヤル気を失う原因」「ヤル気が湧く原因」。●「ヤル気を失う原因」は人を愛せなくなったとき。依頼人、上司、部下、勤め先、学校、依頼企業、牧師、教会、集会、学校の先生、勉強、仕事、家庭、伴侶、子供、姑、舅、建築主、アー、世の中「生きがいを失う者だらけ」だ。「ヤル気を失う人ばかり」だ。●これは今に始まったことではない。人類の歴史そのものだ。●人間は生まれつきのままの状態ではいつか行き詰って「ヤル気を失う」ようにできている。それは古典によく現れている。大抵はその本の冒頭にそれが書いてある。ダンテ「神曲」、バンヤン「天路歴程」、ゲーテ「ファウスト」。人生というのはそれから真の人生への求道が始まる。それで良いのだ。それで良いのだ。それは人生の晩年でもよい。臨終のときでもよいのだ。●ヤル気がおきない時、大脳皮質で、人生の意味、仕事の意味などをあれこれ考えて「ヤル気」を起こそうとしても効果はない。趣味教養娯楽に気を紛らわせても無駄。それらの遊びは真に人間の「渇き」を癒さない。その上、またすぐ現実の仕事に戻らなければならない。あー人生は難しいなー●ヤル気が起こる原因は「生命、光、愛」に生きて「生きる喜び」というものを見出すことである。神と交わりを持つことである●神抜きの「愛」だけでは長続きはしないしいつか色あせる。「東大に合格した生徒になぜ一生懸命勉強したのか」と聞いた人がいた。その答えは「親を喜ばせたかったから」だとの答え。これは「ヤル気」は「ヤル気」でも低級な動機。なぜか。そういうことを喜ぶ親の人生観が低級なのだ。人の上に立って指導者になることが人生の喜びであるという人生観はいったんその道に失敗すると、人生が超堕落する。人生崩壊する。遊び人になる。私の周りにそういう人が複数いる。その「遊び」の喜びを人に勧めるからさらに始末が悪いのだ●「ヤル気」が湧く原因は神との交流で「捨て身」で人を愛せるようになるときだ。「あんなヤツ」の仕事はしたくないと思うときも「神からの仕事だと思って」イヤイヤながらでもやるっきゃしょうがない。アイツと付き合うのも僅かな期間だ●そうだ、いやな夫、いやな妻でも付き合いは長いようで短いのだ。もし先に死んでくれたら「バンザーイ」と心で叫べばよいのだ●「仕事をヤル気になれる」原因は締切期限があるこということも慰めである。この仕事が終わればあの「いやなやつ」から解放されるという喜びを望み見ることである。神はいつまでもいやなヤツとつき合わせたままにはさせておかない。この苦しみをいつまでも続けさせない。いつか楽にして下さる解放してくださる●大きな仕事で意気阻喪しそうな時はこれを細かくばらして、一歩一歩少しずつやっつけていけばよい。「千里の道も一歩から」である。これは故松島省三先生から教えられたこと●ヒルティ「幸福論」の最初は何と「仕事をするこつ」。長い階段もいつかは登り切る●長い階段を登る時のコツ。少し上を向いて、頂上が少しづつ近づく喜びを見ることの方がよい。以前は下を向いて一歩一歩登った。今は違う●これと反対にヒルティは仕事の大海原を見ると意気消沈するから少しずつ分けてからやれという。●かって、私の部下で私のことを嫌う男がいた。私の仕事をやっているときは見るからに「ヤル気」がないような態度であった。神はそういう関係を長くは続けさせない。双方をいつまでも苦しめてはおかない。いつか自然に「別れる」ようになって行く。それが自然だ。彼は今ずいぶん遠くの地に行ってしまった。職場も変わったから彼とは生涯合わないだろう●パウロは「無理はいけない」という常識家であった。次のように言う。

新共同 Ⅰコリ7:15
7:15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。

●これ牧師と信者の関係にも言える。「説教食い」といってあっちこっちの教会をつまみ食いして「自分にぴったりする」牧師を探しまわる「難民信者」がいる。そういう信者はしばらくするとまた教会を変える。集会を変える。そういう信者は始末が悪いから「去るにまかせ」た方がよいのだ。●パウロは偉い。次のように言う。

新共同 Ⅰコリ7:16
7:16 妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか

●あのいやなヤツと「人間的努力で」仲直りしたり、相手が頭を下げてくるようになるのかどうかは全くわからないことなのだ。あの人間と「融和」できるかどうかもわからないのだ。●アイツと会うといつも心穏やかではない、2-3日気分が悪いのだ。生きているうちはそういう人がいるものだ。しかし神は私たちをいつまでも苦しめてはおかない。私たちを「平和」に暮らさせようとする。●かって私に「それでは別れましょう」と手紙で言ってきた人がいた。私は言う「あんたとは歩く道が違うから一緒には歩けない。別々に歩きましょう。さようなら。お達者で」●いいよ、いいよ、モーいいよ。俺は一人で歩いて行くよ。俺は生まれてきたときは一人だったんだ。●第一コリント7章15節の後半の塚本訳敷衍は苦労人の翻訳だ。

塚本訳 Ⅰコリ7:15
7:15 しかし不信者の夫(なり妻なり)が別れるなら、別れさせよ。こんな場合に、兄弟なり姉妹なり(つまり信者)は(結婚に奴隷として)束縛されてはいない。神は平和な生活へあなた達をお召しになったのである。(無理があるのは、御心ではない。)

●若者に告ぐ。この私のブログを読んで簡単に短絡的に「では別れよう」という気を起こしてはならない。第一コリント7章全体を読むとよい。人生は短い。この馳せ場を走り抜かなければならないのだ。●1月21日のブログ「平安な死を迎えるには」を修正。特に5を改変して『なぜ今「胃ガン疑惑」であったか。その恩恵と摂理』にした。

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あきる野市役所の屋上から丹沢方面を望む。今日は寒い日だがよい天気だ。下の白い筋は圏央道の防音壁。色彩が景観を壊している。何とかならないもんか。 2008.1.24  11:24

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あきる野市役所屋上から我が家の方角を望む。住むなら都心から50キロ程度で山川があるところがよい。 2008.1.24  11:25

あきる野市は都心から45キロ、山が近くで秋川もある。空気はおいしい。両親の墓も近い。4人の子供たちはここで育った。ただし都心でのコンサートの帰りは遠いと感じる。まーしょうがないか。この景色、あと何回見られるのだ。讃美歌310番3節。「ふるさとながめてのぼりゆく日まで」を思う。

讃美歌310番 

1. しずけき いのり の とき は いと たのし.

   なやみ ある よ より われ を よび いだし,

   ちち の おおまえ に すべて の もとめ を

   たずさえ いたりて つぶさ に つげしむ.

 2. しずけき いのり の とき は いと たのし.

   さまよい いでたる わが たま を すくい,

   あやうき みち より ともない かえりて,

   こころむる もの の わな を のがれしむ.

 3. しずけき いのり の とき は いと たのし.

   そびゆる ピスガ の やま の たかね より

   ふるさと ながめて のぼりゆく ひ まで,

   なぐさめ を あたえ, よろこび を みたす.

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図書館に行く途中で。富士が見える寒い夕方。

こういう景色を見るとなぜか心が泣けてくる。 2008.1.24 17:13

讃美歌39番 ●夜、恵からパソコンのレクチャーを受ける。遠隔レクチャーで難行苦行23時までは申し訳ない。お互い身体によくない。福島は吹雪。見時と会話、大分話せる。

1. ひ くれて よも は くらく

   わが たま は いと さびし,

   よるべ なき み の たよる

   しゅ よ, とも に やどり ませ.

 2. いのち の くれ ちかずき

   よ の いろか うつり ゆく,

   とこしえ に かわらざる

   しゅ よ, とも に やどり ませ.

 3. よ の やみ おしせまりて

   いざない の こえ しげし,

   とき の ま も さり まさ で

   しゅ よ, とも に やどり ませ.

 4. し の はり いずこ に ある,

   しゅ の ちかく ましまさば,

   われ かちて あまり あらん,

   しゅ よ, とも に やどり ませ.

 5. じゅじか の くしき ひかり

   とずる め に あおがしめ,

   みさかえ に さむる まで

   しゅ よ, とも に やどり ませ.

 

 

 

 

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「胃ガン疑惑」の恩恵と摂理 ++++++++ 所感

2008/01/23 07:02

080123(水)4時目覚め。朝の黙想「胃ガン疑惑の恩恵と摂理」●朝風呂で日経「私の履歴書」、前FRB(米連邦準備制度理事会)議長アラン・グリーンスパン。要職にあるときは自分の発言で世の中が動いてしまわないようにわざと「わかりにくい」話をしていたが、その職から解放されると「自由に」話せるようになったという。福音は要職や組織の人間では説けないのではないだろうか。人の顔を恐れずに「ズバリ」とは言えないのである。大組織のカトリックの神父は気の毒である。型にはまった解釈のみで、自由なる聖書勉強ができない。

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なぜ今「胃ガン疑惑」であったか。その恩恵と摂理

 昨年から「藤林益三」という本を編集中である。その中で津上毅一さん(元今井館理事長94歳)の「所感とあとがき」の論考に塚本虎二先生から伺ったことだという、いわば「特ダネ記事」が書かれている。

以下塚本先生の言葉。1951(昭和26)年頃のこと。

「聖霊の問題は、無教会において究明すべき残された重要な問題である。関根(正雄)先生のような方が手島郁郎氏達の動きに一時着目されたこと自体は、単純に『誤まり』と言い切れない意味がある。その意味で関根君には同情するが、手島氏の解釈は聖霊の正しい受容ではない。もしあの運動を放置して無教会がそれに巻き込まれてしまうと、無教会は壊滅する危険さえある。それを防ぐために、私は必死の思いでこれに対決しているのだ」。

以上塚本先生の言葉。

●塚本先生が言われた課題。「聖霊の問題は、無教会において究明すべき残された重要な問題である」。これに対して私(高橋)は、苦しい「胃がん疑惑」を通じて道を示された感じがする。3点ある

第1は他者から熱心に祈られ胸が熱くなって平安が訪れ、「死のときもこのようであれば楽だなー」と思えたこと。これにより「他者の祈りの効果」というものが世に確実にあることを知った。新約聖書が盛んに言う「霊の交わり」、そして使徒信条の「聖徒の交わりを信ず」との意味は「その効果を信ず」ということだということを知った。他者の祈りが神に聴かれる。ここにエクレシアやコイノニアの真の意義がある。もしキリスト教に胸が熱くなる聖霊の働きと他者の「効果ある祈り」がないならば単なる「宗教思想集団」になる。

第2は「藤林益三」という本の底流主題になった「三位一体の信仰」の第三位の「聖霊」ということがわかったことである。三位一体の信仰は、大脳皮質で考えると矛盾だらけでアウグスチヌスの言うように永久にわからないものである。しかし「胸が熱くなることによって」、この今に働く聖霊の存在がわかった。永遠に働く聖霊が現代に継続的連鎖的に教会や集会を生むのである。これをエクレシアとかコイノニアという。無教会主義に真のコイノニアができやすいのは逆説的であるが現実。それは人間的組織ではない不思議な関係。

第3は塚本先生が言われる「それを防ぐために、私は必死の思いでこれに対決しているのだ」といわれるこの「必死の」働きとは何であったのか。それは神学的表現に頼らずに三位一体の真理そのものに冷静に固く立つことである。そのために塚本先生は聖書本文そのものの真面目な勉強が大切であることを説き、ご自身は敷衍付き新約聖書の翻訳に心血を注がれた。それは神学や聖書学に流れないで「必死に」聖書の文言に固着し、聖書本文の意味の解明を目指された。無教会の「素人の聖書読み」の道がここにある。それは聖書の本質読みである。藤林先生が「東京聖書読者会」の根本方針として打ち出されたのは「みんなで聖書本文そのものを読もう」ということであった。「聖書そのものを読むこと」と「みんなで読む」ということ。藤林先生は実に良い、継続性のある方針を示してくださった。

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私に「胃ガン疑惑」が与えられたのは恩恵であり、摂理であった。●「使徒伝承」は歴史伝承に土台を置きつつ各自への大小様々な百人百様の宗教体験(聖霊体験、胸が熱くなる体験)の連鎖反応である。●娘の愛子が「お父さんの話を聞いてもさっぱり胸が熱くならない」と言ったことがある。結構結構。そのうち宗教体験(聖霊体験)で小パウロのような経験をするときがある。五旬節(ペンテコステ)のようではなく、春雨が静かに降るように聖霊が下る日がくる。すると誰もが「小使徒」になるのだ。「小使徒」にさせられるのだ。

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妻「急に雪が降ってきたわョ」。そうだ。聖霊もこのように静かにしかし急に降ってくることもあるのだ。2008.1.23 8:00

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久し振りの雪。雪の我が家。「我が罪を洗いて、雪のごとく白くしたまえ」

2008.1.23 15:09


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失ったものを必死に探す神 ++++++++ 所感

2008/01/22 06:03

080122(火)探し物が見つからなくて苦しい所で夢が覚めた。3時半。それから朝の黙想。「失ったものを必死に探す神」●次回の聖書「感話」はルカ15章、「いなくなった羊の譬」「無くした銀貨の譬」「放蕩息子の譬」。この三つに共通の精神は、「失ったものを必死に探す神の心」である。昨夜の悪夢と今朝の黙想で「感話」の準備ができた。

塚本訳ルカ 15:4
15:4 「あなた達のうちのだれかが羊を百匹持っていて、その一匹がいなくなったとき、その人は九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を、見つけ出すまではさがし歩くのではないだろうか。 

塚本訳 ルカ 15:8
15:8 また、どんな女でも、ドラクマ銀貨[五百円]を十枚持っていて、もしその銀貨を一枚無くしたとすれば、明りをつけて家(中)を掃き、それを見つけ出すまでは、丹念にさがしつづけるのではないだろうか。 

塚本訳 ルカ 15:20
15:20 そして立ってその父の所へ出かけた。ところが、まだ遠く離れているのに、父は見つけて不憫に思い、駈けよって首に抱きついて接吻した。

●この三つの譬に共通の精神はイエスの次の言葉に表れている。

塚本訳マコ 2:16-17
2:16 パリサイ派の聖書学者たちは、イエスが罪人や税金取りと一しょに食事をされるのを見て、弟子たちに言った、「なぜあの人は税金取りや罪人と一しょに食事をするのか。」
2:17 イエスは聞いてその人たちに言われる、「丈夫な者に医者はいらない、医者のいるのは病人である。わたしは正しい人を招きに来たのではない、罪人を招きに来たのである。」

塚本訳 マタ 18:14
18:14 このように、この小さな者たちが一人でも滅びることは、あなた達の天の父上の御心ではない

塚本訳ルカ 19:10
19:10 人の子(わたし)は”滅びうせた者をさがして”救うために来たのである

●ルカ19:10の旧約の引用箇所は次。

口語訳 エゼ 34:11-16
34:11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す
34:12
牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。
34:13 わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。
34:14 わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。
34:15 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。
34:16 わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。

●ルカが15章の三つの譬をがここにまとめて編集するときは、そこに一本の串、串団子の串を設けた。それが次の編集句である。これを聖書学では「額縁」という。オペラの序曲にあたる。

塚本訳 ルカ 15:1-3
15:1 さて、イエスの話を聞こうとして、(いつものとおり)税金取りや罪人が皆近寄ってきた
15:2 パリサイ人と聖書学者たちがぶつぶつ呟いて言った、「この人は罪人を歓迎するし、また(招かれていって)食事までも一しょにする。」
15:3 そこで彼らにつぎの譬を話された。

●朝風呂で日経「文化欄」。額縁づくりの話。額縁は絵を引き立てるためにあるのだという。聖書の編集句と同じ●塚本訳の標題の研究をしたいという牧師がいる。短い標題にそのペリコーペの本質がよく言いだされている。新共同訳と塚本訳の標題を比べると後者の方が全然よい。命がある。●9:00公立阿伎留医療センターでピロリ菌の検査。費用は8000~13000円と言われていたが、支払の窓口で960円だといわれたので確かめてもらったが間違いはなかった。窓口の女性「奥様となにか美味しものでも食べられてはどうですか」。人間、(あまり)美味しいものを食すると良いことはない。●郵便局、ゆき皮膚ムラウチ電気、図書館●午後は昭和女子大で建築の講義。今日は「積算演習」。普段眠っている生徒が一番早く(それもダントツ)てしかも正確にできたのには驚いた。全員優秀で安堵した。やらせればできる。生徒たちのポテンシャルに驚く。学生は「高度のものに奮い立つ」 ものだ。●聖書講義また同じ。「人を馬鹿にしたような通俗説教」「身の上話」「借りてきた聖書講義」「勉強してきた知識の発表」「先生の言葉の取次」では誰も教会や集会に来ない。衰退あるのみ。日本人の水準、若者の水準は高いからである。自戒。

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昭和女子大待合室に掲げてある書。そうだなーと思って撮影。

2008.1.22 17:40

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平安な死を迎えるためには ++++++++ 所感

2008/01/21 07:47

080121(月)。出勤日。3時半目覚め。朝の黙想「平安な死を迎えるには・・・・理性の安息ではなく霊魂の安息」●朝風呂で日経「私の履歴書」、前FRB(米連邦準備制度理事会)議長アラン・グリーンスパン。・・・要職に就いてからの話は面白くない。なぜか。その仕事はだれがやっても「なるようにきりならない」から。●島崎輝久氏の「証言」の校正。編集方針に注文もつけた。●次回の感話である使徒伝承の構想がまとまった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・平安な死を迎えるには

               

・・・「胃ガン疑惑」の恩恵と摂理・・・

東京聖書読者会 高橋照男 2008.2.3

2007年12月26日、私の身に突然「胃ガン疑惑」が生じた。2008年1月17日、それは「悪性」でなく、開腹手術はしないことになって一安心した。この嵐のような23日間において与えられた恩恵と摂理を記す。

1・死の恐怖の考察 (2007.12.26

痛み・・・・癌の肉体的苦痛はあと数年もすると和らげられるという。医学の進歩に感謝 。イエスも苦痛を和らげる葡萄酒を飲まれた(ただし、マルコとマタイでは飲まなかったとある)

塚本訳 ヨハ 19:29-30

19:29 酸っぱい葡萄酒の一ぱい入った器がそこに置いてあった。人々はその[酸っぱい葡萄酒を]一ぱい含ませた海綿をヒソプの(茎の先)につけて、イエス(の口許)に差し出した。

19:30 イエスは酸っぱい葡萄酒を受けると、「(すべて)すんだ」と言って、首を垂れて霊を(神に)渡された。


滅却、滅び、虚無・・・・滅び失せるということへの本能的恐怖

塚本訳マコ 1:23-24

1:23 そのとき、その礼拝堂に汚れた霊につかれた一人の人がいたが、たちまち声をあげて叫んで

1:24 言った、「ナザレのイエス様、『放っておいてください。』わたしどもを滅ぼしに来られたにちがいない。あなたがだれだか、わたしにはわかっています。神の聖者(救世主)です。」


●忘れられる寂しさ・・・・身内でも3代も先になると「高橋照男」なんていう男がいたのか」と忘れられる。しかし神はいつまでも忘れない。然り終末の日まで忘れない。

塚本訳 ルカ 12:6-7

12:6 雀は五羽二アサリオン(六十円)で売っているではないか。しかしその一羽でも、神に忘れられてはいないのである。

12:7 それどころかあなた達は、髪の毛までも一本一本数えられている。恐れることはない、あなた達は多くの雀よりも大切である。

 

塚本訳 マタ 18:10

18:10 この小さな者を一人でも軽んじることのないように注意せよ。わたしは言う、(わたしの父上は片時も彼らをお忘れにならない。)あの者たちの(守り)天使は、天でいつもわたしの天の父上にお目にかかっているのだから。

 

●別れの悲しさ……妻、子供、孫、この美しい景色。もうあの山々と大空を見ることができない。大好きなクラシック音楽が聴けない。このうち最大の悲しみは子供に先立たれること。

塚本訳 マタ 2:18

2:18 『声がラマに聞えた、──(ラケルの)』はげしい『わめきと、なげきの声である。ラケルはその子らのために泣くばかりで、慰められようとしない、子らがもういないので。』

 

塚本訳 ルカ 7:12

7:12 町の門の近くに来られると、ちょうど、ある独り息子が死んで、(棺が)舁き出されるところであった。母は寡婦であった。町の人が大勢その母に付添っていた

"


2・平安への模索  (2007.12.272008.1.7


新共同 詩  90:6-10

90:6 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。

90:7 あなたの怒りにわたしたちは絶え入り/あなたの憤りに恐れます。

90:8 あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。

90:9 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。

90:10 人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。

 
受容・・・・何らかの思想哲学による。「死の哲学」「無常感」。しかし大体は「やせがまん」であって喜びというものがない。

口語訳 ヨブ 1:21-22

1:21 そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。

1:22 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった

 ●医学的知識・・・・胃ガンは切れば直る。検診の際のグレーはまずシロになる。胃なんかなくても生きていける。しかし肉体の健康や財産は「永遠の生命」獲得の足しにはならない。

塚本訳 ルカ 12:15

12:15 人々に言われた、「一切の貪欲に注意し、用心せよ。いかに物があり余っていても、財産は命の足しにはならないのだから。」

 
●激励・・・・絶対に癌ではない。シロだ。胃を切られるかもしれないから今のうちたくさん食べておけばよい。「胃ガン疑惑」ぐらいで何をクヨクヨするのかみっともない。しかし健康、長寿、財産、年金、資産は「永遠の生命」の獲得に役に立たない。

塚本訳ルカ 12:18-19

12:18 やがて言った、『よし、こうしよう。倉をみなとりこわして大きいのを建て、そこに穀物と財産をみなしまいこんでおいて、

12:19 それからわたしの魂に言おう。──おい魂、お前には長年分の財産が沢山しまってある。(もう大丈夫。)さあ休んで、食べて、飲んで、楽しみなさい、と。』

 

塚本訳 ルカ 12:20-21

12:20 しかし神はその人に、『愚か者、今夜お前の魂は取り上げられるのだ。するとお前が準備したものは、だれのものになるのか』と言われた。

12:21 自分のために(地上に)宝を積んで、神のところで富んでいない者はみな、このとおりである。

 

新共同 ヤコ 4:13-14

4:13 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、

4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。

 

●歴史的知識 ・・・・「空虚な墓と復活」を史実だと知識として信じても心は安らがない。その使徒伝承を耳で聞いて胸が熱くならなければ真に「信ずる」ことができない。歴史と信仰を峻別する荒井献先生から私の有体的復活の信仰を支持するとのお手紙を頂いたことがある。(1999.2.23 1999.12.1)。同様な支持は佐藤研氏からも頂いた(1999.2.6

塚本訳ヨハ 20:8-9

20:8 すると先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた。

20:9 イエスは死人の中から復活されねばならないという聖書の言葉が、(この時まで)まだ彼らにわかっていなかったのである。

●信仰・・・・・人間の側からの信仰(信じ込む力)では心から安らげない。 行って見てきた人がいないので信じられない。

 

塚本訳 ヨハ 3:3-5
3:3
イエスが答えて言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、(徴を見て信じたのではいけない。)人は新しく生まれなおさなければ、神の国にはいることは出来ない。

3:4
ニコデモがイエスに言う、「(このように)年を取った者が、どうして生まれなおすことが出来ましょう。まさかもう一度母の胎内に入って、生まれなおすわけにゆかないではありませんか。」

3:5
イエスは答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、人は霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない

塚本訳ヨハ 20:25

20:25 そこでほかの弟子達が、「わたし達は主にお目にかかった」と言うと、彼らに言った、「わたしはその手に釘の跡を見なければ、わたしの指をその釘の場所に差し込まなければ、手をその脇腹に差し込まなければ、決して信じない。」

 

3・「全く思いもよらぬ平安」が来る

●祈りの雨・・・・私がHPのブログで「胃ガン疑惑」を公表すると、「矢のような祈り」「断食祈祷」「早朝祈祷」の知らせが多数来た。映画「戦場のメリークリスマス」さながらであった。日本軍に生き埋めという処刑をされゆく英国兵、彼の信仰が失われないように仲間が鉄条網の外から讃美歌を歌う。

塚本訳 ピリ 4:6-7

 

4:6 何事についても心配せず、君達の求めは感謝を添えた祈りと願いとにより、大小となく神に知らせよ。

4:7 そうすれば全く思いもよらぬ神の平安が君達の心と考えをキリスト・イエスにおいて守るであろう。

 

塚本訳 使  12:5

12:5 それでペテロは(厳粛に)見張りをさせて牢におり、集会からは彼のため祈りが熱心に神にささげられていた

 

塚本訳 ロマ 12:11-12

12:11 熱心で倦まず、(神の)霊に燃え、主に仕えよ。

12:12 希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈れ

 

●不思議な平安・・・・暖かいものに囲まれた。大きな手に支えられ、大きな心に包まれた感じの「体験」。これ理性の安息でなく、霊魂安息の実感。無上の喜び。

塚本訳 ヨハ 14:27

14:27 (今別れにのぞんで)平安をあなた達にのこしておく。わたしの平安をあなた達に与える。わたしが与える平安は、この世の人が『平安あれ』といのるような(言葉だけの)ものではない。(だから)心騒がせるな、気を落すな。

 

塚本訳 ロマ 15:13

15:13 希望の源である神が、(彼を)信ずることにおいて来る無上の喜びと平安とであなた達を満たし、聖霊の力によって(豊かな)希望に溢れさせられんことを

 

塚本訳 ガラ 1:3

1:3 わたし達の父なる神と主イエス・キリストからの恩恵と平安、あなた達にあらんことを。

 ●神に知られているという平安・・・・私以外の外の人に祈られているということで、神に知られているという安心感と平安が与えられた。

塚本訳 ヤコ 5:14-15

5:14 君達の中に病んでいる者があるのか、その人は教会の長老を呼び、長老たちは主の名により油を塗って、その人のことを祈ったがよかろう。

5:15 信仰(による真)の祈りは病人を癒し、主は彼を立たせ給うであろう。そしてもし罪を犯して居るならば、赦されるであろう。

 

 ●神のもとに行ける・・・・神に抱き抱えられたという不思議な実感。安らぎ。死の時もこの安らぎがあれば「楽だなー」と思えた。これが聖霊の臨在というのか。

塚本訳 Ⅰヨハ4:18

4:18 完全な愛は(平安で、すべての)恐れを追い払う。というのは、恐れは(つねに最後の裁きの日)の刑罰と関係があるのであって、恐れる者は(まだその)愛において完全になっていないのである。

 

塚本訳使  7:59-60

7:59 ステパノは打ち殺されながら、イエスの名を呼んで、「主イエス様、わたしの霊をお受けください」と祈り

7:60 それからひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞこの罪をこの人たちに負わせないでください!」こう言って、彼は眠りについた。

 

4・他者の祈りの効果

● 2-3人が心を合わせる祈り。(福島、シドニーから)

塚本訳 マタ 18:19-20

18:19 なお、アーメン、わたしは言う、何事によらず、もしあなた達のうちの二人が心を一つにして地上で祈るならば、わたしの天の父上は(きっとその願いを)かなえてくださるだろう。

18:20 二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」

 

●義人の祈り(真剣な祈り、熱祈)

新共同 ヤコ 5:16-17

5:16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

5:17 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした

 

塚本訳ロマ 8:26-27

8:26 しかし(創造物やわたし達神の子が苦しんでいると)同じように、御霊も、弱いわたし達を助けてくださる。すなわち、(神のみ心にかなうには)どう何を祈るべきかわからないので、御霊自身が、無言の呻きをもって(わたし達の祈りを神に)執り成してくださるのである

8:27 しかし(人の)心を見抜くお方[神]は、御霊が何を求めているか、すなわち、御霊が神の御心にかなうように聖徒たちのために執り成しておられることを、(もちろん)御存じである。

 

●隠れた祈り(ひそかなる祈り)

塚本訳 マタ 6:6

6:6 あなたが祈る時には、『奥座敷に入り、部屋をしめきった上で、』隠れた所においでになるあなたの父上に『祈れ。』そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう

 

 ●「御心をなしたまえ」という祈り

文語訳 マタ 26:42

26:42 また二度ゆき祈りて言ひ給ふ『わが父よ、この酒杯もし我飲までは過ぎ去りがたくば、御意のままに成し給へ』

 

塚本訳 マタ 6:10

6:10 お国が来ますように。お心が行われますように、天と同じに、地の上でも。

6:10 お国が来ますように。お心が行われますように、天と同じに、地の上でも。

●「信徒の交わり」の真の意味。三位一体の現実。神秘性、Ⅰヨハ1:3に出てくる「交わり」の原語は「コイノニア」。

 

塚本訳 Ⅰヨハ1:3

1:3 わたし達が見たもの、また聞いたものを、あなた達にも告げる。あなた達もわたし達と(霊の)交わりを持つためである。しかしわたし達のこの交わりは、(他方においては)父(なる神)とその子イエス・キリストとの交わりである。

 

5・なぜ今「胃ガン疑惑」であったか。その恩恵と摂理

●昨年から「藤林益三」という本を編集中である。その中で津上毅一さん(元今井館理事長94歳)の「所感とあとがき」の論考に塚本虎二先生から伺ったという、いわば「特ダネ記事」が書かれている。

以下塚本先生の言葉。1951(昭和26)年頃のこと。

「聖霊の問題は、無教会において究明すべき残された重要な問題である。関根(正雄)先生のような方が手島郁郎氏達の動きに一時着目されたこと自体は、単純に『誤まり』と言い切れない意味がある。その意味で関根君には同情するが、手島氏の解釈は聖霊の正しい受容ではない。もしあの運動を放置して無教会がそれに巻き込まれてしまうと、無教会は壊滅する危険さえある。それを防ぐために、私は必死の思いでこれに対決しているのだ」。

以上塚本先生の言葉。

●塚本先生が言われた課題。「聖霊の問題は、無教会において究明すべき残された重要な問題である」。

これに対して私(高橋)は、苦しい「胃がん疑惑」を通じて道を示された感じがする。3点ある

第1は他者から熱心に祈られ胸が熱くなって平安が訪れ、「死のときもこのようであれば楽だなー」と思えたこと。これにより「他者の祈りの効果」というものが世に確実にあることを知った。新約聖書が盛んに言う「霊の交わり」、そして使徒信条の「聖徒の交わりを信ず」との意味は「その効果を信ず」ということだということを知った。他者の祈りが神に聴かれる。ここにエクレシアやコイノニアの真の意義がある。もしキリスト教に胸が熱くなる聖霊の働きと他者の「効果ある祈り」がないならば単なる「宗教思想集団」になる。

第2は「藤林益三」という本の底流主題になった「三位一体の信仰」の第三位の「聖霊」ということがわかったことである。三位一体の信仰は、大脳皮質で考えると矛盾だらけでアウグスチヌスの言うように永久にわからないものである。しかし「胸が熱くなることによって」、この今に働く聖霊の存在がわかった。永遠に働く聖霊が現代に継続的連鎖的に教会や集会を生むのである。これをエクレシアとかコイノニアという。無教会主義に真のコイノニアができやすいのは逆説的であるが現実。それは人間的組織ではない不思議な関係。

第3は塚本先生が言われる「それを防ぐために、私は必死の思いでこれに対決しているのだ」といわれるこの「必死の」働きとは何であったのか。それは神学的表現に頼らずに三位一体の真理そのものに冷静に固く立つことである。そのために塚本先生は聖書本文そのものの真面目な勉強が大切であることを説き、ご自身は敷衍付き新約聖書の翻訳に心血を注がれた。それは神学や聖書学に流れないで「必死に」聖書の文言に固着し、聖書本文の意味の解明を目指された。無教会の「素人の聖書読み」の道がここにある。それは聖書の本質読みである。藤林先生が「東京聖書読者会」の根本方針として打ち出されたのは「みんなで聖書本文そのものを読もう」ということであった。「聖書そのものを読むこと」と「みんなで読む」ということ。藤林先生は実に良い、継続性のある方針を示してくださった。

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●職場のヴィオリスト和田睦夫氏からメンゲルベルクの「マタイ」はすごいと示唆されたので、その第47曲を聴く。


  

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「御心がなりますように」という祈り ++++++++ 所感

2008/01/20 07:05

080120(日)6時目覚め。朝のひらめき「観心がなりますように」●今度の「胃ガン疑惑」ではありがたいことに「矢のような」祈りを多くいただいたが、その中で某氏から「同情の祈りはしない。だだ御心のなりますようにと祈っている」というお知らせをいただいた。●こういう場合「病気を癒してください」というのが偽らざる願いである。特に自分や身内の病気に関しては特にそうである。ところがこういう祈りは以前からどこか疑問に思っていた。病気は神が与えたものなら、恩恵を無にしてしまうような祈りになりはしないか。すると今度の某氏の祈り「御心のなりますように」というのが一見冷たいようだが崇高な祈りではないのかなーと思った。

塚本訳 マタ 26:39
26:39 そしてなお少し(奥に)進んでいって、俯けに倒れ、祈って言われた、「お父様、出来ることなら、どうかこの杯がわたしの前を通りすぎますように。しかし、わたしの願いどおりでなく、お心のとおりになればよいのです。」

塚本訳マタ 6:10
6:10 お国が来ますように。お心が行われますように、天と同じに、地の上でも。

Hebrews 5:7:
キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。

John 12:27:
今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。

John 18:11:
すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」。

John 6:38:
わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである

John 12:28:
父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。

John 14:31:
しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。

Romans 15:1:
わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。

Philippians 2:8:
おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

●最近結婚された某女に夫の呼び方について私見のメール。その最後の部分を記す。

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妻が私を外で呼ぶときは「てるおさーん」です。こう呼ばれるとうれしいです。神は一人一人を「名前」で呼ぶと言います。イエスは「ラザロ、出て来い!!」と呼ばれましたね。旧約のどこかに「名をもって呼ぶ」とありますね。

 

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●妻に来た電話を私が取ったときは「トミ子さーん」と呼ぶ。すると電話の相手は妻に「いいわねーサンづけで呼んでくれるなんて」というらしい。しかし普通は違う●三谷隆正が夫人を呼ぶときはサンづけであった。●某氏がご夫妻でドイツの家庭にホームステイされたとき、夫人を「オーイ」と呼んだ。するとドイツのホストが「奥さまのお名前はオーイというのですか」と皮肉を言われたという。●集会は、長島、村上、望月●6人で昼食。初対面二宮さん(松尾春雄先生の令嬢)。真鍋等さんのことが話題になった。

 

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集会の帰途、あきる野台地で寒そうな小鳥たちを見た。私はこれから風呂に入るのだ。

●歩きながら来月の「使徒伝承」を思いつく。「死による滅却の恐怖からの救い」。副題は「胃ガン疑惑によって与えられた恩恵」。●人間は古来、死による滅却の恐怖から楽になりたいと思ってきた。信仰はそれに役立たない。具体的な霊の臨在のみがその恐怖から救ってくれる。肉の痛みはモルヒネの投与で楽になる。しかし死の恐怖という痛みは神から霊が投与されて楽になる。これ今度の「胃ガン疑惑」の恐怖で体験したこと●恐怖からの救いを大脳皮質に頼ると、頭はすっきりするが心は喜べない。「胃なんかなくても生きていける」「胃ガンは切れば治る」「疑惑は疑惑、間違いなくシロ」などはみな大脳皮質を鎮めてくれるありがたいアドバイスであった。●これとは別に、断食祈祷、早朝祈祷などを熱心にしてくださった方がおられた。すると何か暖かいものに包まれた感じがしてあの「死の滅却の恐怖」が消え去った。胸に霊のモルヒネを打たれたのかもしれない。●ありがたいのはキリスト信徒の「霊の交わり」。「祈り合い」。これがあって死の悩み悲しみも突破できる。●これは「教会での交わり」「集会での交わり」「神父牧師伝道者の祈り」から得られるとは限らない。真に「祈りの人」によって与えられる。

塚本訳ヤコ 5:16
5:16 だから互いに罪を告白し、医されるため互いのために祈れ。義人の(熱心な)祈りは働くと大きな力がある。

新改訳 ヤコ 5:16
5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります

●妻はメサイアの練習。次男の守と一緒。


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崩壊家庭の子供の救い ++++++++ 所感

2008/01/19 07:58

080119(土)4時半目覚め。朝のひらめきと黙想。「崩壊家庭の子供の救い」●朝風呂で日経「私の履歴書」、前FRB(米連邦準備制度理事会)議長アラン・グリーンスパン。今日は比較的ためになることが書いてある。日本経済がバブルのときのこと。皇居の土地価格が日本の面積よりも広いカルフォルニヤ州全体よりも高い時があったという。三菱地所がニューヨークのロックフェラーゼンターを買収。成り金の人間の恥しい姿であった。また、米国車が日本車に押されたことは技術向上の刺激でよかったことだという。グリーンスパンはトヨタのレクサスを2台所有。ソ連の崩壊は当然だとも言う。ソ連を訪問して、空港から市内に向かうとき1920年代の古い蒸気トラクターを見てなぜ使っているのだと質問。すると。「まだ使えるから」だと説明されたという。グリーンスパンは思った「中央計画経済は創造的破壊が起きないからよい機械を作ろうという動機が動かないのだ」と。●昨夜妻から里の遠戚の深い悩みを聞いた。家庭崩壊の数々。かくいう私の遠戚にも家庭崩壊は多々ある。かくいう私自身が崩壊家庭の孫である。私は母方の祖父母に会ったことがない。こういう悩みは日本全域のこと。局地的な阪神淡路大震災より精神的被害が大きい。その深い精神的悩みが会ったから今朝の啓示があったのかもしれない。「崩壊家庭の子供の救いを目指せ」と。●家庭が崩壊した人物は日蔭者として生きざるをえない。後ろめたい。人付き合いを避ける。どこにも顔出しができない。その子供はまず大企業では採用されない。なんとなく、どことなく性格が歪んでいるからである。●現代プロテスタント教会では精神病者と離婚者をあまり快く迎えないと聞く。「ブルータスお前もか!」である。●イエスは違ったではないか。離婚歴5回の女性を救った。

塚本訳ヨハ 4:16-18
4:16 イエスが言われる、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女が答えた、「わたしには夫はありません。」イエスが言われる、「『わたしには夫はありません』と言うのは、もっともだ。
4:18 五人の夫とは別れ、今のは、あなたの夫ではないのだから。あなたの言ったことは本当だ。」

●姦淫の現行犯が見つかるという絶体絶命の恥の女性を救った。

塚本訳 ヨハ 8:3-7
8:3 すると聖書学者とパリサイ人とが、姦淫の現行犯を押えられた女をつれてきた。みんなの真中に立たせて、
8:4 イエスに言う、「先生、この女は姦淫の現場を押えられたのです。
8:5 モーセは律法で、このような女を石で打ち殺すように命じていますが、あなたはなんと言われますか。」
8:6 こう言ったのは、イエスを試して、訴え出る口実を見つけるためであった。イエスは身をかがめて、黙って指で地の上に何か書いておられた。
8:7 しかし彼らがしつこく尋ねていると、身を起こして言われた、「あなた達の中で罪(をおかしたこと)のない者が、まずこの女に石を投げつけよ。」

●神の子イエスの肉の血統は汚れていたではないか。岩波文庫「福音書」塚本虎二訳。マタイ福音書1章1-18節(P68-69)の敷衍を読め。そこには3人の汚れた女がいた。マタイ福音書の冒頭は系図。そこでその汚れた女性を堂々と公開している。イエスは汚れた女の末裔だったのだ。塚本訳は「伝道者訳」だ。個人情報の秘匿などとは考えてない。●「家庭崩壊」、それは自らかあるいは相手が悪いのか、その深い「気の毒な」事情はわからない。しかし家庭崩壊には厳然たる「悩みや苦難」は「神の義」の貫徹であるからそれはしょうがない。その苦しみは神からだから仕方がない。なぜか家庭崩壊の原因は大抵が「性と金」。その不満足。そこに神第一の人生観がなかった。●問題はその子供である。生まれてみたら「暗い家庭」「片親」であったという本人に罪のない悲劇。生まれたときから十字架を負っている。気の毒●そういう気の毒な家庭の子供はすべて福音を聞くかというとそうではない。なぜか。福音を説くべきところの教会や集会がサロン的社交場になっているからである「面白くもないお交わり」の遊びによる「お付き合い」をしなければならないからである。●それよりもっと深刻な問題は本人の問題。「育ちが悪い」から「愛」ということを信じられない性格なのだ。人を信じられないから神も信じられない●しかし福音は「暗い所に射しこむ」。汚れて暗い家庭に射しこむ。どうしようもなく苦しい所に不思議な方法で射しこむ。意外な方法で射しこむ。●そういう暗い家庭の子供が救われる。まずい親に愛想を尽かし、親を捨てることによって救われる。親の十字架を負う。親の罪を嘆き、自分が救われることを露じて神をなだめている。それは奇蹟である。神による救いの奇跡である

塚本訳 ヨハ 1:13
1:13 この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神(の力)によって生まれたのである

●来たれ、家庭の暗さに悩む子等等よ。清く明るい家庭を与えられる道はあるのだ。ただし条件がある。まず自分の汚れた罪が赦されること。その上で汚れた両親と先祖を赦すこと。赦さなければ自分も神に赦されない。

塚本訳 マタ 6:14-15
6:14 (祈る前に、まず人の罪を許さねばならない。)あなた達が人の過ちを赦してやれば、天の父上もあなた達を赦してくださるが、
6:15 人を赦さないならば、父上もあなた達の過ちを赦してくださらないであろう。

●私に名を明かさなくてよい。「隠れ無教会」でよい。「ブログの覗き見」でよい。ザアカイでよい。(ルカ11:1-10)。木の上から高見の見物でよい。ただしこちらは捨て身だ。語るべきことを一方的にでも語る。告げる。告知する。告白する。「耳あるものは召された。その御婦人が先生に言った「主人は一度も先生に御挨拶をしないで召されました」。すると先生は「それでよいのだ。それでよいのだ」と言われたという。●私は遠戚関係の恥をばらしてしまった。さしさわりのないように気をつけて書いたつもりだが、「許してくれ」。私には残りがない。時間がない。言えるうちに真理を言っておきたい。告知しておきたい。遊びのブログではない。自慢ブログではない。恥と捨て身のブログだ。神に迫られて書いているのだ。遊んでんジャーないんだ。

塚本訳  ルカ 8:39
8:39 「家に帰って、神がどんなにえらいことをしてくださったかを、(みんなに)話してきかせなさい。」すると彼は行って、イエスがどんなにえらいことを自分にされたかを、町中に言いふらした

●健全家庭の子供に用はない。子供を有名学校に進学させようとしている親に用はない。名家や名士に用はない。一流企業、良い所に嫁がせようとする家庭に用はない。

塚本訳  ルカ 5:30-31
5:30 パリサイ人とパリサイ派の聖書学者が弟子たちに向かってつぶやいた、「なぜあなた達は税金取りや罪人と一しょに飲み食いするのか。」
5:31 イエスはその人たちに答えられた、「健康な者に医者はいらない、医者のいるのは病人である

●ゆき皮膚科、図書館●音楽DVDでボリショイの「白鳥の湖」を鑑賞。思わず一人で拍手●原作は悲恋。悪い女に愛を告白してしまった王子(ジーグフリード)に絶望したオデットは嘆いて湖に身を投げる。後を追って王子も身を投げる。しかし二人の亡霊が天に昇って行く。●しかし最近のものは改作。王子が悪魔ロットバルトと戦う。そのときオデットが身の危険をも顧みずに王子をかばう。その深い愛にロットバルトは退散して姿を消すというハッピーエンド。ボリショイのこのDVDもそうであった。しかしハッピーエンドでは凡庸。●この作品の初演(1877年)は大失敗。その後この作品は忘れ去られてしまった。チャイコフスキーの死後になって振りつけやダンサーに優れた人が現れて、世界的なものになった。あーこの名作も本人が生きているうちは評価されなかったのだ。気の毒なチャイコフスキー。●バッハの「マタイ受難曲」、シューベルトの「未完成」。傑作は作者の生前に評価されないのはなぜだろうか。●民衆が悪い。作者に対する「妬み」である。「同時代人の名声に対する妬み」という深い罪だ。イエスがそういう運命にあったのだ。●妻は合唱の練習。今日はドボルザークの「スターバトマーテル」

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来たれ 汝甘き死の時よ ++++++++ 所感

2008/01/18 07:34

080118(金)3時半目覚め。5時間半熟睡。●朝のひらめきと黙想「来たれ、汝甘き死の時よ」バッハカンタータ161番●昨年12月26日に発覚した「胃ガン疑惑」から嵐のような23日間が一応収束した。この間に得られたものは実に大きいものがあった●その第一は「矢のような祈りの雨」であった。生涯の記憶にとどめておくために思い出すままを記録しておく。「胃ガン!」とブログで公表すると、すぐさま電話、メール。正月は飲み食いせず断食祈祷します。医学的データをもとに「安心せよ」との激励、シドニーの在日本人から祈りの激励、年賀状では(遠くで何もできないが)祈っています。医者の選び方のアドバイス●1月8日の内視鏡検査の日は、早朝から祈ってくださった方、「ゆったり、楽に」とアドバイス、検査結果がわかる日の問い合わせ。●1月17日、検査結果を聞きに行く日。6時50分、早朝に激励FAXが入る。悪性でなかったとの報告に、「我がことのように」大喜びしてくれた未知の方、「ハレルヤ、ハレルヤ」と何度も言ってくださった方、職場からそのニュースをご自宅の夫人に速報で連絡してくださった方。その夫人がまたその方に喜びの返メールをしてくさった。帰省していた妻に結果を電話すると開口一番「どうでした」、●悪性でなかったとの「お礼の言葉」の返事では「安心しました」●この過程で、今まで隠れていた「ブログ読者」(隠れキリシタならぬ隠れ無教会)はついに姿を現わされた。ブログ内容の文句を言うために姿を現すのでなく、祈りや激励のために姿を現してくださった。ダンチである。●しかし姿を現さないで「隠れた祈りを捧げてくださった方は非常に多いことが身に感じられる●その第二は祈りの力の効果である。中には「自分が祈れば癌は消える」とまでの確信をもって祈ってくださった方がおられたのかもしれない。クリスチャンでも、「そんなバカな、そんな非科学的な」と思う人がほとんだろうが、もしそれを信じないならば「お祈りなんて単なる気休め」だと思われても仕方がない。●その第三は「死の時」の恐怖というのはこのようにして取り除かれるのではあるまいかという認識を与えらえれたことである。病院に向かうときも待合室で待っているときでも、なにか暖かい手に抱えられているような「不思議な気持ち」になれ、「死の時」もこのような気持ちになれたら「楽だなー」と思えたことである。そして「サー来い。死よいつでもかかって来い。私には祈ってくれる人が付いているんだ」と思えたのである●その第四は長い間わからなかった「三位一体」の教理の第三位である「聖霊」ということが頭ではなく胸でわかったことである。三位一体の教理は大脳皮質で考えると矛盾が多すぎてわからない。いくら考えてもわからない。しかし胸が熱くなる「不思議な感情」に満たされると、復活されたイエスがそばにいてくださるという思いに満たされ、これが三位一体の第三位の「聖霊」なのかと教えられたのである。・・・・・以上頭の勉強では決して得られない「認識」を与えられた。感謝である。未見のブログ読者の皆様に衷心より御礼申し上げます。特に隠れた祈りを捧げてくださった方々にはこの場をお借りして御礼申し上げます。神から直接お礼とお誉めの言葉を頂いてください。・・・・●今朝の音楽は、バッハのカンタータ第161番「来たれ、汝甘き死の時よ」BWV161をアーノンクール指揮、ウィーン・コンツェルトゥス・ムジクス、テルツ少年合唱団のCDで鑑賞。この福音書テキストはルカ7:11-17「ナインの若者の甦り」である。解説書によれば「歌詞作者のフランクはいまわのきわにある自分をナインの若者の甦生に見立てて来世を待ち望む感情へと深めた」。冒頭のアルトアリアの詩がすばらしい。

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来たれ、汝甘き死の時よ、その時わが霊は蜜を食せん、獅子の口より。わが別離を甘くし、時を逸するなかれ。最期の光よ、われ、わが救い主に口づけしまつるべく。(杉山好訳)

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●職場のヴィオリストの和田睦夫氏と懇談●知人が49歳の若さで逝去の知らせ。皮膚がんで3年間よく戦った。彼と同じ年の人に闘病の様子を聞いた。まだ学生の子供が二人いるのに。●帰省していた妻のトミ子が帰る。母は87歳でボケが進んでいるという。そのほか親戚のことなどの報告。悩み多きこの世なるかな。●結婚、夫婦関係、親子関係、などなどこの世の難しいことは人知ではどうしようもないことになっているらしい。神の祝福がない限りとうてい平安にすごせないものだと思う。

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キ・レオラム・カスドー ++++++++ 所感

2008/01/17 13:03

080117(木)「胃ガン疑惑」病理検査の結果を聞きにに行く日。5時起床。昨夜の雪が積っていた。●朝の黙想「不完全人生(人格)のままでよいのだ」●6時50分、けたたましく電話の音。何事かと思ったら次のような激励メール。この方もブログで今日の私の病理検査結果発表日のことを覚えていてくださったのか。感謝。
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全べて、主にお委せください。祈りは必ず聴かれます。お祈りをしています。 M

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●「祈っています」ということをお知らせ下さった方、陰でひそかにお祈りくださっている方がこんなのたくさんいてくださるとは感激。何かフワッとするような暖かい手に抱えられているような不思議な気持ちになる。「死の時」も主にある方々に祈られていればこのような「楽な気持ち」になれそうだ。ありがたきは「主にある交わり」。●9:10検査結果を聞きに出発。背広にネクタイで行こうとしたが、時間切れで普段着。4年前に母に「癌で余命6か月」を宣告した時は背広にネクタイを締めて行った。今日は自分の宣告を聞く日なので背広にネクタイのつもりであった。●人間はいずれ、誰でも「死の宣告」を受けなければならない時がやってくる。その時は背広やネクタイがなくても自分の持っている最上の洋服を着るべきである。心を正すためである。バッハカンタータ180番「装いせよ、おおわが魂よ」BWV180は、人が神の前に出る時は自分の持てる最上の洋服を着てゆけ。というマタイ22章章11-14節に基づく。

塚本訳 マタ 22:11-14
22:11 王は客を見ようとして入ってきたが、そこに礼服を着けていない者が一人いるのを見て
22:12 その人に言った、『君、礼服も着ずに、なんでここに入ってきたのか。』その人が黙っていると、
22:13 王は家来たちに言った、『あの者の手足を縛って、外の真暗闇に放り出せ。そこでわめき、歯ぎしりするであろう。』
22:14 ──招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないのだから。」

●公立阿伎留医療センターの森一博医師から次のような診断が下された。・・・・・胃カメラで見つかった小突起物は病理検査の結果「悪性」ではなかったので手術はしない。しかしピロリ菌が原因かもしれないので来週その検査をする。その結果ピロリ菌が存在すれば直ちに飲み薬で除菌処置をする。ピロリ菌は大人の約70%が保有していて悪く働くと癌の原因となる。・・・・●心が晴ればれとした。すぐ祈って下さった方々のことを思い浮かべて感謝にあふれた。帰りに見た奥多摩連山の美しかったことよ。思わず詩篇の一節が口をついた。「主に感謝せよ、主は恵みふかく。そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」。(詩篇139篇1節)

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胃ガン疑惑の病理検査の結果、悪性ではなかった。病院の帰途見た奥多摩連山は美しかった。思わず詩篇が口に上った。

キ・レオラム・カスドー。●キ(なればなり)、レオラム(永遠)、カスドー(彼の憐みは)

●私の「胃ガン疑惑」のためにお祈り下さった知ると知らざるとの方々への御礼の言葉。

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各位

お礼の言葉

昨年暮れに発覚した「胃ガン疑惑」の内視鏡検査と組織採取の病理検査の診断を本日病院で聞いてまいりました。その結果「小突起物は悪性ではなく、手術の必要はない。ただしピロリ菌が原因かもしれないので、来週その存在の有無の検査をし、見つかれば飲み薬で除菌処置をする。」とのことでした。皆様には昨年暮れから、私の不安な心を鎮めるために熱心かつ深いお祈りを捧げていただき、衷心より御礼申し上げます。おかげさまでこの間終始心が暖かいものに包まれているような不思議な気持ちになれました。いつか必ず訪れる「死の時」もこのように祈られている内に逝ければ「楽だなー」と思わされました。たかが「胃ガン疑惑」ぐらいでと思われる方もおられるでしょうが、私としては得がたい体験をさせていただきました。そして「サー、死よいつでもかかって来い。私には祈ってくださる人が付いているのだ」という気持ちになれました。皆様におかれましては、神に召される日まで、お健やかであられますようにお祈り申し上げます。感謝。

                          2008.1.17 14:00  高橋照男

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口語訳 詩  136:1-9
136:1 主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
136:2 もろもろの神の神に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
136:3 もろもろの主の主に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
136:4 ただひとり大いなるくすしきみわざを/なされる者に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
136:5 知恵をもって天を造られた者に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
136:6 地を水の上に敷かれた者に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
136:7 大いなる光を造られた者に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
136:8 昼をつかさどらすために日を造られた者に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
136:9 夜をつかさどらすために月と、もろもろの星とを造られた者に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

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捨て身で生きよ ++++++++ 所感

2008/01/16 08:57

080116(水)5時半目覚め。朝のひらめき「捨て身で生きよ」。これはどういう意味だろうか。聖書的にはどこだろう。次の5か所を連想した。

塚本訳 ヨハ 9:24-25
9:24 そこでユダヤ人は、盲であった男をもう一度呼んで言った、「本当のことを言うように!あの人が罪人であることは、われわれにはよくわかっている(のだから。)」
9:25 彼が答えた、「罪人かどうか知りません。ただ、(もと)盲であったわたしが、いまは見えるという、この一つのことだけ知っています。」

●難しいことはない。この私が十字架の血潮で罪赦されたら「楽になった」ということだけを知っているのだ。

塚本訳  ルカ 8:39
8:39 「家に帰って、神がどんなにえらいことをしてくださったかを、(みんなに)話してきかせなさい。」すると彼は行って、イエスがどんなにえらいことを自分にされたかを、町中に言いふらした

●「神の栄光を表す」ということは具体的に何か。簡単だ。この私に神が「えらいこと」をしてくださった」ということを「いいふらす」ことをすればよいのだ。私の「恥公開の捨て身のブログ」はそのつもりだ。「いいふらしているのだ」

塚本訳 ロマ 12:1
12:1 (このように、神は偉大な計画によって人類を一人のこらず救おうとしておられるのであって、救いは確かである。)だから、兄弟たちよ、わたしは神のこの慈悲を指してあなた達に勧める。あなた達の体を(感謝のしるしとして神に)捧げよ。この生きた聖なる犠牲こそ、神のお気に入るものであり、(霊なる神を拝むにふさわしい、)あなた達の霊的な礼拝である。(あなた達の礼拝は動物を供えるような不合理なものでなく、全心全霊をささげる合理的な礼拝でなければならならない)

●教会には「礼拝学」や「説教学」というものがあるらしい。しかし真の礼拝は「生活全体」「苦難と涙の人生全体」だ。バッハのカンタータ147番「心と行いと生きざまをもて」を指して、「これって無教会の主張見たいですね」と言ってくれた人がいた。こういうのはバッハや無教会が主張するのではない。そもそもパウロが言っているし、イエスも次のように言っているのだ。

塚本訳  ヨハ 4:20-21
4:20 (それでお尋ねしたいのですが、)わたし達の先祖はこの(ゲリジム)山で(神を)礼拝したのに、あなた達(ユダヤの人)は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(どういう訳でしょうか。)」
4:21 イエスが言われる、「女の人、わたし(の言葉)を信じなさい。(間もなく)あなた達が、この山でもエルサレムでもなく(どこででも、)父上を礼拝する時が来る。

●「礼拝すべき場所は?」という問いは、永遠の質問である。カトリック教会か、プロテスタント教会か、はたまたみすぼらしいが無教会集会か。イエスはまた言うであろう。「どこでもない。あなたと神との間にある」と。

塚本訳 使  5:40-42
5:40 使徒たちを呼びいれて(鞭で)打ち、(今後決して)イエスの名を使って話をしてはならないと命令して、釈放した。
5:41 さて、彼らは御名のために恥を受けるに足る者とされたことを喜びながら、法院から出ていった。
5:42 そして毎日、宮や家々で教えること、すなわち救世主イエスの福音を伝えることを、やめなかった。

●この41節には「恥」という言葉が出てくる。日本の文化は「恥」の文化だといったのは「ルイス・ベネディクト」(菊と刀)。日本人は恥」を最も嫌う。私の「恥公開の捨て身のブログ」もなんだかんだ盛んに言われてきたが、この使徒たちと同じく「やめなかった」。(42節)。●信仰に入るのは恥ではない。ヤソ教になるのは恥ではない。キリシタンになるのは恥ではない。それは人生で最も喜びのことなのだ。

塚本訳 Ⅰコリ1:26-29
1:26 論より証拠、あなた達のお召しのことを考えてみるがよい。兄弟たちよ、この世的には、(あなた達の中に)多くの知恵者がなく、多くの有力者がなく、多くの高貴の人がないではないか
1:27 それどころか、世の馬鹿なものを神はお選びになった、知恵者に恥をかかせるためである。また世の無力なものを神はお選びになった、力のあるものに恥をかかせるためである。
1:28 また世の身分の低いもの、軽蔑されているもの、(いや、あっても)無い(ように思われている)ものを神はお選びになった、ある(と思われている)ものを無にするためである。
1:29 こうして、だれ一人神の前で誇ることのないようにされたのである。

●「キリスト教紳士録」というものはない。あったとしたら、それはこの世的紳士の宗教がキリスト教であるというだけのことである。●私の経験ではいわゆるこの世的名士からは「信仰の深いところ」を学ぶことは少なかった。家柄も学歴も勤務先もパッとしない人や主婦たちから信仰の深い所を学んだ●24年前に集会で聖書の話をするようになったときのこと。姿勢を正して最前列に座っておられた髪の真白な御夫人の多く(塚本先生に薫陶を受けられた方々)の空気で私の「つたなくまずい話」が矯正されて行った。面と向かって御注意は受けなかったが、雰囲気と空気が私に対しての「注意」であった。●その髪の白い御夫人たちはほとんどが召されてしまった。 ●空気が人を造る。これ教会、集会、家庭、企業、学校、みな同じこと。口での説教や、道徳や、神学や、規則や教義ではない。生きている人間の造り出す空気が人を造る●「祈りが人を導く」。これ念力ではない。気休めではない。励ましやお世辞ではない。実際に神が働くのだ。私の「胃ガン疑惑」のとき多くの人の祈りで私の心が平安になり、「死ぬ時もこんなに安らかになれれば楽だなー」と思えたのである。「祈りは実際に効果があるのだ」。●妻は読書会(婦人の聖書勉強会)から、郷里のいわき市へ。年老いて少しわからなくなった母がまだいる。娘はいつまでも娘。うれしそうに出かけていった。

  泣いてゆく 向こうに母や 春の風 (加賀千代)

●人間、どんな人でも「母」がいる。ただしいつまでもいるとは限らない。

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苦難によって真理を学ぶ ++++++++ 所感

2008/01/15 06:43

080115(火)女子大講義日。3時半目覚め。Morning Meditation,Devotion.(朝の黙想)「苦難によって真理を学ぶ」●朝風呂で日経「私の履歴書」、前FRB(米連邦準備制度理事会)議長アラン・グリーンスパン。「ミクロから経済を見るビジネス・エコノミストが職業として確立してきており、そうした人たちが作った団体の会長にもなった。」・・・・・・・市場経済の世界では調査と観察が最重要。なぜか。市場経済は「神の手」に握られているからである。その観察が大切なのだ●日経文化欄「早世した名歌手、バスティアーニの人生と芸術を追う」として丸山幸子。一人の人間にこれだけ惚れこむことができるのは幸いだが、それは所詮「人間」。真に心を満足はさせない。マテマテ。キリスト教の世界にも一人の「人間なる先生」を神のごとく敬い追っかけている人間がいる。こういう人は「そのうち」その先生に愛想が尽きて蹴飛ばす日が来るから滑稽なのだ。しばらく見ていればようい。無理に引き離すな。徒労だ●未見のブログ読者から嬉しいメール。真理を含んでいるのでさしさわりのない部分を本人に断りなく公開する。「だれも明かりを升の下に下に置く者はいない」とイエスは言う。(マタイ5:14)     

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○○無教会集会の ○○と申します。
 明日で63歳となる サラリーマンです。

  いつも 高橋様のブログを楽しみに読ませていただいております。
 会社始業前 昼休み 終業後 休日も 読ませていただき 色々
 学ばせて いただいております。

  聖書の引用が ずいぶん 多いですが 本当に 聖書に 深く 固着されておられる
 と 思います。 Calvin の キリスト教綱要も 聖書の 引用が多く
 やはり わたしたちの 拠って立つところは 旧き 旧き 聖書の外ないと 思います。

  信仰に関する 所感だけでなく 日常の 身近なお話も 大変
 楽しく 読ませていただいてます。

  先日は お孫さんが 障子を 破ったことが 書かれておりましたが
 我が家は 火災のあとで 二世帯を 新築しましたが その 和室の
 障子を 孫に 見事に 破られましたので おもわず 笑ってしまいました。

  このたびの 「癌疑惑」に際しましてから 日々の お祈りに覚えさせて
 いただいております。 

  主にある同胞(それが いつも お会いしている方であれ
 まったく お会いしたことのない方であれ)の 祈りは
 主に喜ばれ 最善に 導かれることを 私も 体験いたしました。

 主にある 同胞の 矢のような 祈りは 必ずや 主が
 最善に お聞き下さりることと 思います。
 
  御心ならば これからも 主が 高橋様を ますます
  主の 証人として 用いられますよう  お祈りいたします。

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●こういうメールをいただくと私の「恥を公開する捨て身のブログ」にも意義があることを知り感謝である。●この方は御身内に家屋全焼、脳内出血という大苦難がおあありになられ、私と同質の苦難を経験された。「苦難共同体」である。●今朝の黙想「苦難によって 真理を学ぶ」について研究。まず連想するのがへブル書。

新共同 ヘブ 5:8
5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。

●これは難解。神の子イエスは学ぶ必要があったのか。・・・・これ神学論争。聖書は自分の体験読みのほうが正解。●私の場合は次の通り。

①母の祖父母を知らない。という苦難。

 母の父が家庭を崩壊させて、母は苦労した。そのことで見ぬ祖父を赦せなかったが、自分の罪が赦されて不思議にあれほど憎かった祖父を赦せることができた。その遺骨を九州の水俣から50年ぶりに東京に運んだ。

塚本訳 マタ 6:12
6:12 罪を赦してください、わたしたちも罪を犯した人を赦しましたから。

塚本訳  マタ 18:21-22
18:21 その時ペテロが進み寄ってたずねた、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したとき、何度赦してやらねばなりませんか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスがこたえられた、「いや、あなたに言う、七度までどころか、七十七度まで!

②父の結核再発で大学進学断念。

文語訳 マタ 5:3
5:3 『幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。

③ローンを払い終わってサーこれからというときにその家屋が全焼。

天国の家は焼けない。

新共同 Ⅱコリ5:2-4
5:2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
5:3 それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。
5:4 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。

④脳内出血で一時意識不明。

この命は100%(99%ではない)神の手に握られている。有体的復活が最後の望み。

口語訳 ヨブ 1:21
1:21 そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。

⑤子供達の結婚

塚本訳  マタ 19:5
19:5 また、『それゆえに人は父と母とをすてて妻に結びつき、二人は一体となる』と言われたことを、あなた達は読んだことがないのか。

⑥信仰なき母の死。

本人に信仰がなくても神は知っていてくださる。

塚本訳 ルカ 15:4
15:4 「あなた達のうちのだれかが羊を百匹持っていて、その一匹がいなくなったとき、その人は九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を、見つけ出すまではさがし歩くのではないだろうか。

⑥「胃がン疑惑」

コイノニアのありがたさ。主にある方々からの「矢のような」祈り。死の時の平安の希望が湧く。

塚本訳 使  2:42
2:42 彼らは使徒たちの教えを固く守り、(信者の)交わりと、(一緒に)パンを裂くことと、祈りとに余念がなかった。

塚本訳 Ⅰヨハ1:3-4
1:3 わたし達が見たもの、また聞いたものを、あなた達にも告げる。あなた達もわたし達と(霊の)交わりを持つためである。しかしわたし達のこの交わりは、(他方においては)父(なる神)とその子イエス・キリストとの交わりである。
1:4 わたし達が(この手紙を)書くのは、(あなた達がわたし達との交わりに入り、)わたし達(が父と子と)の(交わりにおいてもっている)喜びが、完全なものとなるためである。

●午後は昭和女子大建築講義2コマ。拙宅を参考にしていただきたいために次のようなペーパーを配布。国際基督教大学の教師も自宅を開放して生徒を招く習慣があるという。人間、頭や口だけでなく生活全体を表明することは大切。●本ブログ読者の方も歓迎です。

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    課外授業(オープンハウス)

拙宅は、木と漆喰と竹と紙でできています。温水はソーラーによります。私はこの天然素材の家に非常に満足し、愛着をもっています。庭の樹木には小鳥が来ます。山々も見え、不思議に落ち着くことができます。このような「住まい」に御関心のある方々にぜひ御高覧いただきたいと思いますので御自由においでください。

          昭和女子大学非常勤講師  高橋照男

 

日時 試験終了後の2008年2月13日(水) 14時(駅に集合)

集合 JR五日市線東秋留駅(改札は一つ) 高橋が迎え   

   JR立川から約20分(拝島乗り換えの場合は+15分)

   遅刻したら携帯に電話ください。再度迎えに行きます。

住所 東京都あきる野市秋留4-10-11

   電話&FAX 042-558-9361  携帯090-2443-9916

予約  前日までに電話、FAX 口頭いずれの方法でも可.

内容 建物説明 その後懇親懇談、進路相談、建築士受験相談、

 

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●私「自由に気軽に遊びに来なさい」

 生徒「ご飯ご馳走してくれるんですか」

 (この生徒、相当家庭の味に飢えているのかなー、と思いつつ」

 私「午後2時からだから、食事は出さない」

 生徒「ジャー甘納豆出してくれますか。ポテチ出してくれますか」

 私「ジャーそれを出そう」。

 ●かって授業中に私が甘納豆が好きだと言ったことをよく覚えていたらしい。

 人はどういうところを見ているかわからないものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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妻がいない ++++++++ 所感

2008/01/14 07:41

080114(月)隣に寝ているはずの「妻がいない!」というところで夢が覚める。11日に妻と鑑賞したオペラ「夕鶴」の余韻。●あのオペラ「夕鶴」の最後は与ひょうの妻「つう」(実は鶴の化身)が、「さようなら、さようなら、さようなら」と言って天駆ける.。その姿が心に焼き付いた。(1月11日、12日のブログに掲載した)●その「つう」は新しく織った二枚の高価な織物を夫の与ひょうに残してゆく。夫婦というのは、否、人間というのは近しい人に「高価」なもの(財産、金ではない)を残して「さようなら、さようなら、さようなら」と言って天駆けるのだ。●都に行くためのお金が欲しいと思って悪い友人にそそのかされて金目当てに「つう」に無理に新しく織らせたせたこと。その金欲の心に愛想を尽かした「つう」は与ひょうのもとを去っていったのだ。「つう」が飛び去ったあとにはそれを悔いた与ひょうは、残された二枚の織物を抱きしめて泣く。それでこのオペラは終わる●私の場合、妻が残してくれた「高価」なものは何か。それは信仰。それから「子供」。●夫も妻も、相手に「高価」なものを残して「さような、さようなら、さようなら」と言って天駆けるのだ。その一緒の期間は実に短いのだ。●これは夫婦の関係ばかりでなく、身近な人間との出会いのすべてについて言える。●私は「さようなら」という言葉が好きだ。恋愛映画で最後にどちらかが死ぬストーリーのものにオイオイと泣く。映画では「武器よさらば」「陽のあたる場所」「愛情の花咲く樹」。文学ではハムスンの「ヴィクトリア」●愛する人と別れざるを得なくなって人生覚醒する例はたくさんある。ゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」は主人公のウェルテルが好きなロッテ(別の人と婚約中)の手からピストルを借りて自殺する。ゲーテはこの小説を書いて自分自身を死なせ、心の整理をつけ、新しく生きる道を見出したのだという。日本の情死文学とはダンチの宗教性がある。人間は一回死ななければ新しく生きることはできない。

文語訳 ヨハ 3:3
3:3 イエス答へて言ひ給ふ『まことに誠に汝に告ぐ、人あらたに生れずば、神の國を見ること能はず』

文語訳 ルカ 18:29-30
18:29 イエス言ひ給ふ『われ誠に汝らに告ぐ、神の國のために、或は家、或は妻、或は兄弟、あるひは兩親、あるひは子を棄つる者は、誰にても、
18:30 今の時に數倍を受け、また後の世にて永遠の生命を受けぬはなし』

●無理に妻や子供や財産を捨てることはない。持っていないかのように生きなければならないとパウロは言う。

塚本訳  Ⅰコリ7:29-31
7:29 兄弟たちよ、わたしが言うのはこのことである。──時は迫った。(だから)今から後は、妻を持つ者は持っていない者のように、
7:30 泣いている者は泣いていない者のように、喜んでいる者は喜んでいない者のように、(物を)買う者は(何も)持っていない者のように、
7:31 (つまり、)この世と交渉のある者は交渉がない者のように、しなくてはいけない。この世の姿は(じきに)消え去るのだから。

●塚本先生から「先生に弓を引いてはいけない」と教えられたが、私も言いたい「洗礼を授けてくれた牧師さんには弓を引いてはいけない」。私はそれで生涯の悔いが残った。牧師さんと合わなくなったら時は「ジェントリーに」別れなければならない。決して弓を引いてはならない。私のように苦労する。●ピアノの椅子の修理。修理大好き●正月新年会のテーブルを元にもどす。また来年だ。妻と来年のテーブルと椅子の検討●孫が遊んで引きだしてしまったCDの整理。

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返事のない人 ++++++++ 所感

2008/01/13 06:18

080113(日)5時目覚め。朝の黙想「返事のない人」●朝風呂で日経「私の履歴書」、前FRB(米連邦準備制度理事会)議長アラン・グリーンスパン。フォード政権下で経済施策案を大統領にアドバイスする。(政府)はむやみに経済に介入しないことで大統領と意見が一致する。この人たちは「神の手」(イン・ビジブル・ハンド)を深く信じている。こういう態度は「あなたまかせ」の無為無策であるように見えるがそうではない。「調査、観察」を精力的に行った。●「神なんていない。行動と実行あるのみ」という人生観の人物に限って、あまり大した業績を残していない。これが私の「観察」である。なぜか。人もつかず、神もつかないからである。つまりツキがないのだ。金もうけしようと思ったらまず神に味方になっていただかなければならない。イエスは言う。

塚本訳  マタ 6:33
6:33 あなた達は何よりも、御国と、神に義とされることとを求めよ。そうすれば(食べ物や着物など)こんなものは皆、(求めずとも)つけたして与えられるであろう。

●NHKTV3CH「こころの時代」。「あなたと共に生きたい」。グループホーム代表角田妙子。路上で野宿している高齢者を引き取っている。はじめは疑い、「自分たちを食い物にしているのだろうと」思われる。しかし次第にとんがっていた目が柔らかくなって穏やかになってくるという。●その次の角田妙子の言葉がよかった。「時々これでいいのだろうかと淋しくなる。とんがっていたままの方がその人らしい」のではないだろうか」。然り。神ぬきの単なる慈善活動には人間の霊魂の救いはない。奉仕活動に水を差すようで申し訳ないが、真の慈善を行っていない。●年賀状、百数十枚のうち、返事のない人がいる。心配である。あれこれ思いを巡らす。①御病気か、②喪中だったのか、③ご本人が逝去か、④本人も家庭も心がゴタゴタしているのか、⑤夫婦の不和か、⑥絶交の証か・・・・などなど。年一回の交信による確かめあいである。貴重である。●商売をやっている人からは、コマーシャルの年賀があるが、これがよい。そういう会社は順調で元気のしるしであるから気持ちがよく「また注文しよう」「行ってやろう」という気持にもなるものである。私は賀状が余ったらそういうコマーシャルの賀状にも返事を出すことにしている●ところが年一回の年賀も出せないようでは、沈没寸前の会社のようで「危なくて」仕事を任せられない。注文もできにくい。景気が悪いか、家庭内不和ゴタゴタのしるしであり、以後付き合うと何となく気分が悪い●かって職場で通りすがりにこちらから挨拶しても会釈もせず通りすがるイヤな人がいた。天下りの役人であった。彼は役所でも評判の悪い人間であったと側聞した。民間企業は天下りを迎えるとき、その人間の学歴地位ではなく、「人物」「品格」を調べなければならない。まずい天下り役人を義理で引き受けると企業が衰退する原因にもなる。●賀状に対して返事を出さない家庭や人間はそのまずい天下り役人の態度と同じ。沈没寸前の人間や家庭である。子供や社員がよく育たないことは必至。社員や子供は上司や親の背中を見て育つ●頂いた手紙には必ず「即」返事を出せ」というのは宗教以前の礼節。これ上司や親の躾。子は親の鏡。社員は法人格の鏡。●クリスチャンは信者である前に、常識人、礼節をわきまえる人でなければならない。それがキリスト教の土着につながるのだ。●かって鹿島建設の人と一緒にプロジェクトをやったときのこと。「近隣に対して鹿島としてはそういう態度はできません」と
言った社員がいた。立派だと思った。個人の態度は、その家、親、勤務先の鏡である。非常識な態度を取る人間は、家と親と勤務先の顔に泥を塗る●挨拶された返事は「即」応答せよ。というのは宗教以前の人間としての礼節。それに欠ける人間は会社も家庭も先がない。社員教育、子供の教育がなってないので企業も家庭も沈没する。「過ちを改むるに憚ることなかれ」●以上は儒教までも持ち出さなくてもよい普通道徳であるが、キリスト教では違う。返事のない人は「祈りの対象」である。なぜか。心に何か障害がある証拠かサインであるから。心に重荷を負っている証拠、サイン。家庭内に病人がいる証拠など、だからである。●ただしあの「まずい役人」のような人間などは「祈りの対象」ではない。社会が彼の態度を許さない。社会正義が彼を断罪する。そういう人間はどこからも叩き出されるのが正解である。あの天下り役人の話題をする人は今はだれもいない。私は言っている「会社を今の状態にしたのはああいう悪い天下り役人がいたからだ」と。●「礼拝」とは一週間に一回、神に顔を見せて応答することである。神に返答することである。それがない時、神は「どうしたのかなー」と心配する。行いはイマイチでも毎週神の前に顔を出せば、選挙の連呼とTVコマーシャルの回数の精神と同じで、神としても見慣れた人に贔屓するというものだ。●牧師に不満、信者に不満でもクリスチャンは「礼拝」に出なければならない。それは教会者よりも無教会者の方が熱心なのは不思議な現象。まずい信者は礼拝というものを「気に入った牧師の話を聞きに行くものと心得ている」それは「つまみ食い信者」。誤まり。●宗教が組織化すると「争い」「いがみ合い」が発生する。教会や集会内で「争い」「いがみ合い」「路線論争」が起こるのは正統信仰の純粋な信仰に欠け、教会や集会をこの世的手法で運営しようとしている証拠。教会や集会はこの世の金儲けの企業や趣味教養のサークルとは質が異なるのだ。●・・・・以上はY兄のいう「高橋節」の復活」か。元気印か。「憎まれっ子世にはばかる」か。だからしばらくは死ねないか。●クリスチャンは、神につねられて本当のことを吐いて憎まれて死ななければならないのだ。  それが「地の塩」だ。

文語訳マタ 5:11-12
5:11 我がために、人なんぢらを罵り、また責め、詐りて各様の惡しきことを言ふときは、汝ら幸福なり
5:12 喜びよろこべ、天にて汝らの報は大なり。汝等より前にありし預言者たちをも、斯く責めたりき。

塚本訳 マタ 5:11-12
5:11 わたしゆえに罵られたり、迫害されたり、あらん限りの根も葉もない悪口を言われたりする時、あなた達は幸いである。
5:12 小躍りして喜びなさい、褒美がどっさり天であなた達を待っているのだから。あなた達より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

文語訳  マタ 5:13
5:13 汝らは地の鹽なり、鹽もし効力を失はば、何をもてか之に鹽すべき。後は用なし、外にすてられて人に蹈まるるのみ

塚本訳マタ 5:13
5:13 (預言者と同じく)あなた達は地の塩である。(世の腐敗を防ぐのが役目である。)しかしもし塩が馬鹿になったら、何で(もう一度)塩気をもどすか。外に捨てられて人に踏まれるほか、もはや何の役にも立たない。

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妻と共に集会に向かう途中。振り返ると奥多摩連山にあやしく光が射している。「光、光、光」。光は神から来る。イエスは言う「私は世の光」。

妻と「主の交わり」に向かうは楽し。しかしこういう日はあとどのくらい続けられるのか。

●新年初の集会は。藤巻。杉崎(94歳)、山本(使徒のはたらき)●6人で昼食。全員が塚本虎二先生の感化影響で信仰に導かれた方々。わたしは無教会がいつまでも人間(内村、塚本、矢内原、関根、前田、政池、鈴木弼美(すけよし)、高橋三郎、藤林)を語っている間は新約聖書で言うエクレシアの健全な成長と発展は望めないと発言。すると某女が「それでは私たちがいつまでも塚本先生、塚本先生と言っていてはいけないのですね」と言う。●しかし敬愛している先生との仲を裂くような「意地悪姑」のようなことはしたくない。またそれは無理なこと。彼女たちは塚本先生との美しい思い出を抱いて死にゆく身なのだ。それでおしまいなのだ。それでよいのだ、それでよいのだ。●ただし、神ーキリストー○○先生ー私というような変な三位一体の雰囲気がある無教会では新約聖書で言うエクレシアとしての先がない。特定の人間的エートス(精神的雰囲気)があるから新しい人が入って来られない。先がないばかりか、自然消滅を待つまでもなく断罪されて滅びる。なぜか。神ならぬ人間を拝んでいる誤まりだから。●尊敬して敬愛している先生がいるとそこから信仰に導かれるのは真理だが、その人間先生の思想を「伝道」しても福音は伝わらない。ルター、カルヴァン、ウェスレー、ノックス、内村などすべての人間先生みな同じ。その人間の思想神学の伝道(それがどんなに魅力的なものであっても)が正しいか誤りかは歴史が証明する。プロテスタンティズムは先生ごとに四分五裂、少しも落ち着けない。

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集会の帰途、寒い日。山茶花が見事だ。寒い、寒い。身も心も冷える。

●寒い日。帰宅してすぐ風呂に入って温まる。お風呂大好き●Dさんから、御身内の大苦難の御本(歌集)を頂き、祈った。この世には肉体の病、精神的病という大苦難がある。あーこの世の肉体の苦は「何とかならないものか」。●御夫婦で難病という大苦難もある。しかし神はすべてを御存じ。無駄な「苦」は一つとしてないはずだ。難病の時は永遠の生命と復活の希望を望み見る。イエスの有体的復活の事実のみがこの世の病の慰め。復活の時は難病から解放される●「藤林益三」本の編集。


 

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飛び去って行く人 ++++++++ 所感

2008/01/12 07:51

080112(土)5時半目覚め。黙想「飛び去って行く人」。昨夜「夕鶴」を鑑賞したから、その連想。(昨日ブログ参照。本ブログは原則としてその日主義)●朝風呂で日経「私の履歴書」、前FRB(米連邦準備制度理事会)議長アラン・グリーンスパン。「素晴らしいことが書いてある「市場の機能を信じる自由主義者にとって物価統制は最悪の措置だ。激しいインフレを抑えるためとはいっても、うまく機能しないのは明らかだった」「賃金・物価統制の責任者だったラムズフェルドから(インフレの事態をどうすればよいかアドバイスを求められたとき)『簡単なことだ。価格を上げればよい』。私はそう答えた」。●これを読んで私(高橋)は、アダムスミスの「「神の見えざる手」ということを思った。人間や国家の政策はそれに関与する人間に神への信仰があるかないかによって行動様式が全く異なる●人間の頭だけで人を統制し支配する「共産主義思想」は誤りであることは歴史が証明した。多言を要しない。人生また同じ●あの男、まだ共産党に熱心だ。人生先がないのになー。もったいない人生の使い方をしているなー●1月9日のY兄のブログを読み返した。あまりにありがたい内容なので、秘めておくことができないので本人に無断で公開する。(最もブログだからすでに公開されているのだが)。●個人情報の秘匿をやかましく言ってくる人間は大抵が俗人か罪人。(複数だから類型化できてしまう。それは共通的なのだ)。陳腐な法律論を振り回してくるからなお始末が悪い。●良いものは表に現れるものだ。良いものは本人に断らなくても公開されるべきものだ。

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(Y兄のブログ1月9日の一部)

朝出勤前に早速Tさんのブログを拝見、Tさんは午前3時半に目覚め、いつものユニークな聖書の学び(BbB&SWORD)と所感、Tさん節(失礼!)も復活。普段のTさんらしさが戻ってきている。安堵と感謝。神は、哀れな私たち罪人の祈りに最善をもって応えてくださる。それによってまた、主の十字架を信じる私たちの罪が赦されていること、神は私たちの罪がなかったかのように私たちを取り扱ってくださっていることを知る。神がこんな私たちをもあるがままで愛してくださっていることを実感する。

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●「普段の高橋に戻って、安堵と感謝」とはなんというありがたいことだ。これ肉親以上の「心配と愛」ではないか。使徒信条(讃美歌566番)「聖徒の交わり」とはこのことなのだ。Y兄は福島県。兄は「WEBコイノニア(交わり、分かち合い。使徒2:42他)」という。ナルホド、このITの時代は物理的に集まらなくてもコイノニアは存在することを知った。否、物理的に集まるとかえって「いがみあい」が生じるのだ。見よ牧師と教会員の仲の悪さを。見よ集会員どうしの「いがみあい」を。●朝目が覚めて、隣に寝ている妻の顔をしげしげと見た。この人も「昨日鑑賞した『夕鶴』の『つう』のよういにいつか私のもとを飛び去って行くのだ。「サヨウナラ、サヨウナラ、サヨウナラ」と言って。●人との出会いと別れは一瞬だ。多くの人と出会ったがその人達はまた同時にすぐ飛び去って行った。●「会うは別れのはじめ」とは真理だ。親とも、肉の兄弟とも、妻とも、子供たちとも、嫁とも、その出会いは短くてすぐ別れて行くものだ●人生でトテモいやな人に出会うことがある。その人と会うと2~3日気分が悪くなるという人が私には3人ぐらいはいる。その日が近づくと気が重い。しかしその人との出会いも「永遠の時」のもとでは一瞬のことであってその人もいずれは目の前から「飛び去って行く」人であると思う。そう考えるとあと何回かのあの人との出会いも貴重な機会だと思おう。そうすればいくらかは気分が 収まるのだ。楽になるのだ●イヤーナヤツだなーと思える人も、「この人も間もなく飛び去って行く人だ。大切にしよう、大切な時間と思おう」と思えば、少しは気が楽になる。●故事に「袖振り合うも多生の縁」という。広辞苑によれば「道行く知らぬ人と袖が触れ合うことさえ宿縁による」とある。●「飛び去って行く」という言葉は詩篇にある。

口語訳 詩  90:10
90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。

新改訳 詩  90:10
90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

新共同 詩  90:10
90:10 人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。

●妻とあきる野市の若き音楽家たちのコンサートに行く。「スポーツと音楽の町あきる野市」から世界に羽ばたく音楽家が続々と輩出していくのはうれしいことだ。あきる野市の誇りである。今日のコンサートも水準が高かった。満員。●妻はそれからヘンデル「メサイア」の練習。次男の守も一緒。将来は娘の愛子とも一緒に歌いたいという。結構、結構。●私のことを心配してくださる某女への返メールを次のように書いた。

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○○様

(前段省略)

ところで、今度の私の「胃ガン疑惑」では大変有益な体験をしました。

「WEBコイノニア(交わり、分かち合い)」の存在です。暮れに「胃ガン疑惑」をブログで公表すると、私の不安を鎮めようと「矢のような祈り」がありました。

あのY兄は、正月は断食祈祷、胃カメラの日には早朝祈祷をしてくれました。そのほかに私の嫁も祈っていてくれました。たかが胃カメラぐらいでとお笑いでしょうが、その日には何か不思議な暖かいものがこみ上げてきまして、平安な気持ちになれたのです。「神は今日の私のことを知っていてくださる」と思えて平安になれたのです。その時思いました。「死ぬ時もこのように安らかになれれば楽だなー」と。

そしてパウロの次の言葉を思いました。

 

口語訳 ピリ 4:12

4:12 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。

 

私としては「死の不安に処する道」を心得たという感じです。WEBコイノニアによる「祈り合い」、これ真の教会ではないでしょうか。死に向かって言いたいです。「サー来い。死よいつでもかかって来い。私にはWEBコイノニアの面々が付いているんだ」と。

                     2008.1.12 高橋照男

 

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反対しない者は味方なのだ ++++++++ 所感

2008/01/11 06:08

080111(金)出勤日、3時半目覚め。黙想「反対しない者は味方なのだ」●朝風呂で古屋安雄(元国際キリスト教大学教会牧師)著「キリスト教と日本人」のなかの「文化的クリスチャン」を読む。無教会を名指しで批判している。19世紀のドイツの自由主義的神学と日本の無教会と現代中国の「文化的クリスチャン」に類似点がある。それは「教会の知的程度を見下している」ことである。それに比べて韓国のキリスト教は知ではなく神への情熱があるとして、人口の25%がキリスト教信者であるということを指摘している。日本の大学の割合は12%であるのに信者の割合は1%にも満たないことを指摘。●同書。日本では毎年数千人から数万人の受洗者がありながら、その平均的信仰寿命は2.8年。そのほとんどが「卒業信者」ないしは「中退信者」がいるからだという●一昨日見たDVD「プロジェクトX、胃カメラ」で忘れられないこと。胃カメラは世界に先駆けて日本で開発。主たる開発者は発想の東大医学部の30歳代の若手、その意気に感じたオリオンパスの若手技術者と直径5ミリの電球を開発した町工場の若手。この三人はその後栄達の道を捨てて、東大医学部の人は「町医者」になって小病院を開業、オリンパスの技術者は会社を辞めて医療機器を作る個人会社を設立。町工場の電球作り職人はそのままずっと町工場に。●全員「胃ガンの早期発見」で人を救おうという純粋な気持ちからの不撓不屈の努力。良いものは少人数でできる。そしてみなその後の人生は組織内での栄達の道を捨てて、個人業に邁進した。ここに真理がある.●東大での約束された地位を捨てた彼は、生涯「あの胃カメラは最初は私が開発したのだ」とは、周囲にも家族にも吹聴しなかったという。(これ私にはできないこと)。61歳の若さで亡くなった。埼玉県大宮市に開業したその「町医者」の患者たちは「お優しいいい先生でした」と思い出を語る●クラウス著「ダンテ」の結論。「ダンテは常に謎の人であった。しかし彼の何であるかに気づいた少数の者には、天国の道を彼は開いた」●讃美歌403番「神によりていつくしめる」には秘話がある。ある田舎牧師が都会の大教会に招かれて赴任する日のこと。峠まで見送りにきた田舎教会の信者たちが、その田舎牧師との別れを惜しんで泣き崩れた。それを見たその田舎牧師は大教会の牧師に赴任することを辞めてもとの田舎牧師で一生を終えたという。このときに作詞したのがこの讃美歌403番である。小さいところ、少人数に宇宙大の大真理がある。後世に残るものが生み出される。

讃美歌403番

1. かみ に よりて いつく しめる

   こころ の まじわり いと も たのし.

 2. ちち の まえ に せつ に いのらん,

   のぞみ も おそれ も とも に おなじ.

 3. とも に しのぶ うき なやみ も,

   ゆたけき めぐみ に やがて きえなん.

 4. わかるる とき かなし けれど,

   ふたたび あい みる さち や いかに.

 5. つみ と うれい なき みくに の

   つきせぬ むつび を よろこび またん.

●世の中小さいものの中に大真理がある。純粋な動機が良いのである。発想が神に祝福されるのだ。

塚本訳 マタ 18:19-20
18:19 なお、アーメン、わたしは言う、何事によらず、もしあなた達のうちの二人が心を一つにして地上で祈るならば、わたしの天の父上は(きっとその願いを)かなえてくださるだろう。
18:20 二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」

●このたびの私の「胃ガン疑惑」では少数の数人が「心を一つにして祈って下さった。当日は不思議な平安に満たされた。祈っていて下さる人がいるという何とも言えない不思議な暖かい、神に知られているという感情に満たされたからである。「死の時」もこのような気持ちになれれば「楽だ」と思えた。なぜか。「今のこのときのことは神に知られているのだ」という気持ちになれるであろうから。●「胃ガン疑惑」は疑惑で終わったとしても、わたしはこのように大変な経験をしてしまった。「死の時」の準備をさせられた感じがする。祈ってくれる人がいれば「平安な死」「感謝の死」「喜びの死」をむかえられそうだ。●井深八重は名家の令嬢であったが、若い時にハンセン氏病と診断され、神山復生病院(ハンセン氏病患者の病院)に隔離された。何日も泣きあかしたという。しかし後に誤診とわかって、その病院を出されることになったが、その病院長であるフラン人のレゼー神父にいたく心打たれ、その神父の手伝いをするようになった。後に数々の名誉賞を受けたが、最大の褒美は患者たちから「母にも勝る母」として慕われたことである。1989年、八重は91歳で永眠したが、自分がハンセン病との誤診を受けたことについて、彼女はこのように語っていた。「自分がここにいることは恵みです。神様からこの場を与えられたことを感謝しています」。誤診が彼女のその後の人生を決定した。●もし私が17日の病理検査の結果「白」となっても、私には「あーよかった」だけではない、本当に貴重な体験ができたことになる。「死の時のこころの平安」の道を教えられたからである。不思議な体験をさせられたものだ。●以前から気になっていた次の聖句について勉強する。 常に私の心を苦しめている人物のことを思うからである。

塚本訳 ルカ 9:49-50
9:49 ヨハネが言った、「先生、あなたの名を使って悪鬼を追い出している者を見たので、止めるように言いました。わたし達と一しょに(あなたに)従わないからです。(しかし言うことを聞きませんでした。)」
9:50 イエスはヨハネに言われた、「止めさせるには及ばない。反対しない者はあなた達の味方である。」

●まずBbBで50節の翻訳比較

岩波翻訳委員会訳1995

420950しかしイエスは彼に

対して言った、「止めさせてはならない。あなたたちに逆らわない者は、あなたたちに味方する者なのだから」。

新共同訳1987

9:50 イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」

前田訳1978

9:50 イエスは彼にいわれた、「やめさせるな。あなた方に反対せぬものはあなた方の味方である」と。

新改訳1970

9:50 しかしイエスは、彼に言われた。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」

塚本訳1963

9:50 イエスはヨハネに言われた、「止めさせるには及ばない。反対しない者はあなた達の味方である。」

口語訳1955

9:49 するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。

9:50 イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。

 文語訳1917

"420950","イエス言ひ給ふ『止むな。汝らに逆はぬ者は、汝らに附く者なり』"

●次にピンポイントで50節をSWORDで調べる。

Proverbs 3:6:
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

Matthew 13:28:
主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。

Matthew 17:24:
彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。

Matthew 17:26:
ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。

Philippians 1:15:
一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。

Luke 11:23:
わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。

Luke 16:13:
どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

Matthew 12:30:
わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。

Mark 9:41:
だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。

I Corinthians 12:3:
そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。

●次にルカ9:50を含む標題全体の各国引照をBbBで見て見よう。

各国聖書引照

 

(日)並行個所・・・・・・塚本虎二訳

塚本訳 マコ 9:38-40

9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたし達の仲間でない者が、あなたの名を使って悪鬼を追い出しているのを見たので、止めるように言いました。仲間にならないからです。(しかし言うことを聞きませんでした。)」

9:39 イエスは言われた、「止めさせるに及ばない。わたしの名を使って奇蹟を行ったすぐそのあとで、わたしの悪口の言える者はないのだから。

9:40 反対しない者はわたし達の味方である。

 

(独)NESTLE-ALAND  NOVUM TESTAMENTUM  GRAECE 27版1993 の引照

新共同 ルカ 5:5

5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

 

(英・米)THE NEW TREASURY OF SCRIPTURE KNOWLEDGE 1982 の引照

口語訳 ピリ 1:15-18

1:15 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。

1:16 後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、

1:17 前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。

1:18 すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。

 

口語訳 Ⅰコリ12:3

12:3 そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。

 

(日)新共同訳1987 の引照

新共同 使  3:16

3:16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

 

(仏)THE NEW JERUSALEM BIBLE 1985 の引照

口語訳 使  3:16

3:16 そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。

●Y兄がブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/trntim/folder/584389.html)で「高橋節が戻って安堵と感謝である」というありがたい記事を書いてくださった。1月9日。なるほどそのように観察してくださるのか。自分ではまったくわからないことだ。●御夫人が膠原病(法定難病)になられた方と懇談。神による奇蹟的癒しと心の安らぎを祈る●6階のヴィオリスト和田睦夫氏と懇親懇談。音楽、シューベルト、エルガ―、宇宙、人体、出会い、人間は小宇宙、などなど。

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日本橋人形町。勤務先から水天宮前駅に行く途中。正月飾りの提灯。

この日本の風景はすばらしい。日本人であることのうれしさよ。


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昭和女子大人見記念講堂で、木下順二作、團伊玖磨作曲、オペラ「夕鶴」を鑑賞。ソプラノは鮫島有美子(絶唱)。鶴を象徴する純白の衣装は素晴らしかった。衣装担当は植田いつ子(美智子皇后の衣装担当)。最後の場面、純白衣装の「つう」(実は鶴)が夫の「与ひょう」に自分が織った布を渡して。「さようなら、さようなら、さようなら」と天駆けるところが心に焼きついた。

帰途、妻との会話。

私「あなたもいつかは私のもとを去るんだなー」

妻「夫婦はいつかは別れなければならないのですね」

私「あなたは福島(妻の郷里)の方に飛んで行くのかなー(笑)。子供達もそれぞれに飛んでいったなー」

●私としたことが何と馬鹿なことを言ったもんだ。妻は主のもとに飛んで行くのだ。妻は天から来た人なのだ。福島に帰るのではないのだ。そうだ、子供たちも天から来たのであったのだ。天に向かって飛んで行くように祈る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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愛の種類の考察 ++++++++ 所感

2008/01/10 15:56

080110(木)3時半目覚め。黙想「愛の種類」●「藤林益三」本の編集●昭和女子大生を家に招く案内文。写真入り文章作成のテクニックを習得●今朝の黙想「愛の種類」について。
愛には種類がある。体験的に感じたことを整理する。

① 母の愛。
●これは限りなく神の愛に近い。何でも聞いてくれる。赦してくれる。受け入れてくれる。

  泣いてゆく むこうに母や 春の風 (加賀千代)
 
●山室軍平に「母の愛」という名説教があるそうだ。山室は母の愛を通して神の愛を知ったというものらしい。考えられる。今回の私の「胃ガン疑惑」も母に告げただろうが、私にはもういない。●人は親の愛に恵まれなくてかえって神の愛を知る人がいる。 


②妻の愛
●ヒルテイは男性にとって女性の存在は、神に近づけてくれるか、堕落させるかのどちらか であると言っている。「よい妻」を与えられた男性は「成功の人生」を歩む。ワイマールを訪  れたとき、案内人がゲーテの周りに10人以上の女性の肖像がある絵を見せて、これがゲ  ーテがここワイマールで付き合った女性ですと説明。ヒルティはゲーテの人生観では「幸福」になりえないと言った。

新共同 箴 31:10-12
31:10 有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。
31:11 夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足することはない。
31:12 彼女は生涯の日々/夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない

●人は妻に恵まれなくても神の愛を深く知る人がいる。●悪妻に出会って真理を知った人もいる。ソクラテス、●ヨブの妻は「神をのろって死になさい」と言った。(ヨブ記2:9口語)。悪妻だ。世の中にはこういう悪妻がいる。何の因果かこういう「女」と結ばれてしまったら最後、一生の不幸だ。でもヨブのことを思えばよい。

③恋愛
●恋愛は不自由であり苦である。なぜか。作家の伊藤整は言う。「日本にはもともと人間に対する『愛』という概念はなく、それは「惚れる、慕う、恋する』であり、それは性の執着に根ざすものであった」。そして日本では「愛でる」という言葉は自然現象(花鳥風月)に対してであって人間が対象ではなかった。人間に対する「愛」は明治以降キリスト教とともに日本に入ってきたのだという。

 塚本訳 ガラ 3:28
3:28 (神の子には、)もはやユダヤ人もなければ異教人もなく、奴隷もなければ自由人もなく、男もなければ女もない。あなた達はみなキリスト・イエスによって一つであるからである。

塚本訳 ルカ 20:36
20:36 復活によって生まれる彼らは、天使と同じであり、神の子であるので、もはや死ぬことが出来ない、(従って子を産む必要がない)からである。

●復活にあずかる人は人間的ベタベタの愛からは自由である。性の執着による愛から解放される。 ●恋愛に夢中になっていると子供を愛せないという現象が起こる。これ恋愛が神の愛とは近くない証拠●失恋して神の愛を知った人はたくさんいる●恋愛の相手の「死」によって神の愛に目覚める人もいる。

④コイノニアの愛
●主にある血を分けた兄弟の愛。これ真の人間愛。友愛。黄泉の門(死の力)もこれを壊せないという永遠的な愛。来世まで続くつきあい。祈り合いの愛。今回の私の「胃ガン疑惑」で矢のような祈り、断食祈祷、早朝早起きの祈祷をしてくださったかたがおられる。これコイノニアの愛。

「ミルトンよ、今あれかし。英国は汝を要す。来たりて我らを教えよ」(ワーズワース)。

●7年半前に脳内出血で倒れ、意識不明で病院に担ぎ込まれたとき、A氏からハガキが舞い込んだ。上記ワーズワースの言葉をもじって激励してくださった。

「現代のヨブ(A氏は私のことをそう言う)よ、倒れるなかれ。来たりて我らを教えよ」

●こういう激励はコイノニアの愛である。しかし既成教会、既成集会の中にこれがあるとは言えない。ないと言った方がよい。



⑤肉親の愛。
●親兄弟、子供、親戚。こういう血縁関係の愛は濃いが冷たい。冷酷。残酷。無関心。なぜだろう。肉としての一体だからか。この「血縁執着」を最重要とするのが「儒教」。船が沈んだときまっ先に救うのが「身内」と儒教は教える。キリスト教精神では「最も弱いもの」を優先する。イエスはこの断ちがたき血縁の関係をまず断てという。そうでないと神を愛せないという。だから親兄弟、子供、親戚から「愛されよう」としてはいけない。 子供は親から離れていく。捨てる。期待してはいけない。●血のつながりは主のつながりとはなりにくい。血のなせる業だ。悲しい宿命●しかし救いがある。離れて行く子供の伴侶は血がつながっていないだけ、主のつながりでつながりやすい。●捨てる神あれば拾う神あり。


塚本訳  マタ 10:37-39
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたし(の弟子たる)に適しない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたし(の弟子たる)に適しない
10:38 また自分の十字架を取ってわたしのあとに従わない者は、わたし(の弟子たる)に適しない。
10:39 (十字架を避けてこの世の)命を得る者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を得るであろう。

塚本訳  ルカ 18:29-30
18:29 彼らに言われた、「アーメン、わたしは言う、神の国のために家や妻や兄弟や親や子を捨てた者で、
18:30 この世でその幾倍を、また来るべき世では永遠の命を受けない者は一人もない。」

⑥神の愛、贖罪の愛
生まれつきの人間は「神の愛」を知ることはできない。それをわかるようにしてくださるのは神の超自然的な働き。人間の側のいかなる悔い改めや努力や修養でもわかりえない。それは「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」という不思議な不思議な神の行為による。人間はこの「罪の赦し」を通してのみ神の存在を信ずることができる。それは十字架の啓示を通して働く神の愛。今現在のこの私に対する愛。

文語訳  ヨハ 15:13
15:13 人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし。

塚本訳 ヨハ 3:5-6
3:5 イエスは答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、人は霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。
3:6 肉によって生まれたものは肉であり、霊によって生まれたものだけが霊である(から)。

塚本訳 ロマ 8:35
8:35 (このゆえに)だれがキリストの(わたし達を愛する)愛から、わたし達を引き離すことができるか。苦しみか、悩みか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。

口語訳 エペ 5:25
5:25 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。


















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神の栄光は人の弱い所に現れる ++++++++ 所感

2008/01/09 07:15

080109(水)3時半目覚め。黙想「神の栄光は人間の弱いところに現れる」●背中の切開で好きな朝風呂は中止●日経「私の履歴書」、前FRB(米連邦準備制度理事会)議長アラン・グリーンスパン。人物との出会いで思想と勉学の興味が変わる。人生は出会いだ。自分より水準の高い人に「交わり」をしていただけるように向かっていかなければならない。間違っても「遊び仲間、趣味仲間」とだけ付き合う「ぬるま湯」につかっていてはならない。●「神の栄光は人間の弱い所に現れる」。この箇所の勉強。今回の「胃ガン疑惑」ですっかり気が弱くなったが、そこに多くの人の矢のような祈り、私の心境の変化などを通じて、まずⅡコリント12章9節を思い浮かべる。

新共同 Ⅱコリ12:9
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

塚本訳Ⅱコリ12:9
12:9 主は(その都度)言われた、「わたしの恩恵はあなたに十分だ。力は弱さの中に完成されるのだから。」、それでわたしはキリストの力がわたしに住みついてくださるように、大喜びで、むしろ(自分の)弱いことを自慢しよう。

●こういうことを今から2000年も前に言うパウロは偉大な人物であった。電気水道暖房テレビラジオパソコンのない時代に!●塚本訳の「自慢しよう」は、私にぴったり。私のブログは弱さの「自慢」。ある人が、高橋のようなHPは「自分を捨て」なければ書けないと言ってくださった●HPやブログを通じて「弱さ」を公表すると、矢のような「祈り」や「激励や慰め」がくる。このことだけでも「弱い所に神の栄光が現れる」というのは本当だと実感する。

文語訳 Ⅱコリ12:9
12:9 言ひたまふ『わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり、わが能力(ちから)は弱きうちに全うせらるればなり』さればキリストの能力の我を庇はんために、寧ろ大に喜びて我が微弱を誇らん。

●聖書は「文語訳」(鈴木範久、岩波「聖書と日本語」だったと思う)。暗記は文語訳だ。「全うされる」とはまたすごい言葉だ。ソーカ。神の栄光は人間の弱い所に現れるとはこのことなのだ。自分のボロボロの過去、みられない過去、ズタズタの人生、足りない学問、まずい家系、汚れた祖先、血が汚れている血統、自分の欠点。まずい性質、嫌われる性質、まずい結婚、かんばしくない夫婦関係、まずい子供、痛みの息子娘、まずい妻、まずい夫、まずい勤務先、まずい仕事、貧しい収入、貧しい家計、まずい友人、社会的に低い職業、パッとしない地位、まずい学歴、低い教養。まずい言葉づかい。落ち着かない心、口の悪さ・・・・・・・・・アー、人間は誰でもズタズタのボロボロ人生だ。●だれもがうらやむような地位と名声を得ている人で、家庭的には恵まれない人がいる。●しかしそういう「欠け、不足、汚れ、まずさ、痛み」のところにこそ神の光が差し込む余地があるあるのだ。●9節の「」内の言葉はパウロがイエスの言葉として伝承として聞いていたことなのだろうか。注解書を4冊読んでみると、どうやらこれはパウロが伝承として聞いたものではなく、パウロが祈りの内に啓示として聞いた言葉らしい。●この箇所をピンポイントで関連個所を見てみよう。それにはSWORDのTSK日本語バージョン(拙HPから導ける)がよい。その中で心に響いたものは次の通り。

II Corinthians 12:10:
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

II Corinthians 3:5:
もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。

II Corinthians 3:6:
神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。

Exodus 4:10:
モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。

Joshua 1:9:
わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。

Isaiah 43:2:
あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。

Jeremiah 1:6:
その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。

Matthew 10:19:
彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。

Matthew 10:20:
語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。

Luke 21:15:
あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。

I Corinthians 10:13:
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

I Corinthians 15:10:
しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。

Colossians 1:28:
わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。

Colossians 1:29:
わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。

I Timothy 1:14:
その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。

Hebrews 4:16:
だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

Isaiah 35:3:
あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。

Isaiah 35:4:
心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。

Isaiah 40:29:
弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。

Isaiah 41:13:
あなたの神、主なるわたしは/あなたの右の手をとってあなたに言う、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。

Ephesians 3:16:
どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、

Philippians 4:13:
わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

Colossians 1:11:
更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、

II Corinthians 12:10:
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

II Corinthians 12:15:
そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう。わたしがあなたがたを愛すれば愛するほど、あなたがたからますます愛されなくなるのであろうか。

Matthew 5:11:
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

Matthew 5:12:
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

II Corinthians 12:5:
わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。

II Corinthians 11:30:
もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。

Isaiah 4:6:
昼は暑さをふせぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所となる。

Isaiah 11:2:
その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。

Zephaniah 3:17:
あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。

Matthew 28:20:
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

Matthew 28:18:
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。

I Peter 4:13:
むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。

I Peter 4:14:
キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。

●以上を読むと心一杯、胸一杯になる。人間の書いた注解書を紐解く気にならないから不思議。●最後のI Peter 4:14:はすごい。これで癒される●次にⅡコリ12章9節が含まれるところⅡコリ12:5-10全体の各国引照を「聖書で聖書を読む」(BbB)で見てみよう。これは私のHPにある。ここの塚本訳の標題は「一つの刺---パウロの病気」とある。●パウロには痛みがあった。癲癇とも眼病とも言われる。肉体に弱さを持っていたパウロ!。●パウロには妻がいなかったらしい。むろん子供もいなかった。人間的には淋しかったパウロ。奥さんがいたら何かと助かったろうになーと思う。食事なんかどうしていたのだろう。●「時は迫っている。男は女に触れないがよい。処女はそのままにしておけ」という。(Ⅰコリント7章)。偉大なるかなパウロ。並の生き方ではなかった。

(独)NESTLE-ALAND  NOVUM TESTAMENTUM  GRAECE 27版1993 の引照

新共同 Ⅱコリ10:8

10:8 あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。

 新共同 Ⅱコリ11:1

11:1 わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。

 新共同 Ⅱコリ12:5

12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

 新共同 Ⅰコリ4:11

4:11 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、

 (英・米)THE NEW TREASURY OF SCRIPTURE KNOWLEDGE 1982 の引照

口語訳 ガラ 4:13-14

4:13 あなたがたも知っているとおり、最初わたしがあなたがたに福音を伝えたのは、わたしの肉体が弱っていたためであった。

4:14 そして、わたしの肉体にはあなたがたにとって試錬となるものがあったのに、それを卑しめもせず、またきらいもせず、かえってわたしを、神の使かキリスト・イエスかでもあるように、迎えてくれた。

 口語訳 Ⅱコリ12:10

12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

 口語訳 Ⅰコリ10:13

10:13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

 口語訳 ピリ 4:13

4:13 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

 口語訳 Ⅱコリ4:7

4:7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

 口語訳 Ⅱコリ1:4

1:4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。

 口語訳 Ⅱコリ4:17

4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。

 口語訳 Ⅱコリ7:4

7:4 わたしはあなたがたを大いに信頼し、大いに誇っている。また、あふれるばかり慰めを受け、あらゆる患難の中にあって喜びに満ちあふれている。

 口語訳 ロマ 5:3

5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、

 口語訳 ロマ 8:35-39

8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。

8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。

8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。

8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、

8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

 口語訳 ピリ 1:29

1:29 あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。

 口語訳 Ⅱコリ13:4

13:4 すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によって、キリストと共に生きるのである。

 (日)新共同訳1987の引照

新共同 Ⅱコリ12:1

12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。

 新共同 Ⅰコリ2:3

2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。

 新共同 Ⅱコリ12:9-10

12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 新共同 Ⅱコリ7:14

7:14 わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。

 新共同 Ⅱコリ5:13

5:13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。

 新共同 Ⅱコリ11:16-17

11:16 もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。

11:17 わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。

 新共同 Ⅱコリ12:11

12:11 わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。

 新共同 Ⅰコリ5:5

5:5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。

 新共同 ピリ 4:13

4:13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

 新共同 Ⅰコリ2:5

2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

 新共同 エペ 3:16

3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、

 新共同 コロ 1:11

1:11 そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、

 新共同 Ⅱコリ12:5

12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。

 新共同 Ⅱコリ5:15

5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

 新共同 Ⅱコリ6:4

6:4 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、

 新共同 Ⅱコリ1:4

1:4 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

 新共同 Ⅱコリ13:4

13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。

 (仏)THE NEW JERUSALEM BIBLE 1985 の引照

口語訳 Ⅱコリ11:29

11:29 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。

 口語訳 ロマ 9:2

9:2 すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。

 口語訳 Ⅱコリ4:7

4:7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

 口語訳 Ⅱコリ7:4

7:4 わたしはあなたがたを大いに信頼し、大いに誇っている。また、あふれるばかり慰めを受け、あらゆる患難の中にあって喜びに満ちあふれている。

 口語訳 コロ 1:24

1:24 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。

 口語訳 ピリ 4:13

4:13 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

 口語訳 コロ 1:29

1:29 わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。

 

●パウロのこれらの苦闘の言葉を読むと、だれも自分の今の苦難を「何のコレシキ」と思える。パウロは有体的復活を確信していたから苦闘できたのだ。次の世への希望があったから苦闘できたのだ。●11:00 妻の友人のS・Mさんが来訪。ご主人が膀胱ガンでステージ4(ステージ5が最終段階)だという。いつものように強気強気で笑っておられたが、話が来世の実在に及ぶとキラリと目が光った。私はそれを見逃さなかった。●人は誰でも、無宗教者でも次の世のことを願っているのだ。「死んでも命のありますように」との願いは万人に共通のことなのだ。ただ死後のことはわからないだけだ。信じられないだけなのだ。●この最も難しいことを、神はイエスの有体的復活でわかりやすくしてくれたのだが、「わかりやすい」が故に人間には信じにくいということなのである。●キリスト教がわかりにくい宗教であるのは、デカルト以来の教育思想で、理性で納得しないものは信ずることができないという風潮になっているからだ。●神にとっては来世の実在を人間に教える方法として、イエスの有体的復活に勝るものはなかったのであろう。「知」が納得すれば信ずるという人間の欲求に神は満足を与える答えを出さなかった。●神は「信ずるものにのみ、姿を表す」という実に人間的な方法をとった。●建築設計者は、設計者を信じ込んでくれる人にでなければ「設計できない」、つまり「姿を現わせない」。建築設計者を疑ってかかる人間には設計の意欲が湧かない。設計できない。設計契約が成立しない。それは「見えないものを信じ込む」ことだから、人間としてそういう高級なことができない人は「出来合い品」のハウスを「買う」しかほかに方法はない。


 


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心境の変化 ++++++++ 所感

2008/01/08 08:50

080108(火)6時目覚め。今日は「胃ガン疑惑」の第二段階。内視鏡による胃の検査日。朝の啓示「生きるも死ぬも主のため」。今回の「胃ガン疑惑」ではとても大切なことが起こった。それは「心境の変化」である。死の時への準備のような気がする●日経「私の履歴書」、前FRB(米連邦準備制度理事会)議長アラン・グリーンスパン。ジャズ楽団で自分よりすごくうまい人が大勢いるのでとてもかなわないと思い、もうひとつ興味のある経済の方面に邁進する。何でも一つのことに熱中する人が別の分野でも役に立つ人物になる。イエスがペテロを弟子にスカウトしたのは多分漁師の仕事に熱心に打ち込んでいたからであろう(昨日の日経)●ホスピスの考え方は「自然に生き、自然に死ぬ」ということであるが、クリスチャンの考えは「神と共に生き、神に召されるということである。●矢内原忠雄が癌になったとき、「もし再び生かされたら、残りの全時間を主の福音のために捧げたい」と公言した。それを聞いた医師の大島智夫先生は、全力を出して治療したいと奮い立ったという。●人は「死」を宣告されるか、疑いをかけられると、残りの時間を何に捧げるべきか決断を迫られる。私も今回の「胃ガン疑惑」で何か決断を迫られたような気がしてしょうがない。「平穏な老後など夢見るな。望むな。先は短いのだ」というささやきのような気がする。●7年前の脳内出血の時にはベッドに正座して「もしこの病を治して下さったら、以後はイエスの有体的復活の使徒伝承のこときりしゃべりません」と祈った。そして今度はまたもう一撃を食らったように思える。●今日の第二段目の内視鏡検査で方針がでるが、「白でも黒でも」私には心境の変化には変わりない。「生きても、死ぬにしても主と共であるべきだ」●このような心境の変化をもたらしたのは見えない「祈りの力」の影響と思えて仕方がない。いずれ訪れる「死」の時もこのような心境であれば「楽」だと思える●思い浮かぶ聖句を掲げる。

塚本訳  ロマ 12:1-2
12:1 (このように、神は偉大な計画によって人類を一人のこらず救おうとしておられるのであって、救いは確かである。)だから、兄弟たちよ、わたしは神のこの慈悲を指してあなた達に勧める。あなた達の体を(感謝のしるしとして神に)捧げよ。この生きた聖なる犠牲こそ、神のお気に入るものであり、(霊なる神を拝むにふさわしい、)あなた達の霊的な礼拝である。(あなた達の礼拝は動物を供えるような不合理なものでなく、全心全霊をささげる合理的な礼拝でなければならならない)
12:2 また、この世に調子を合わせてはならない。むしろ反対に、何が神の御心であるか、何が善であり、お気に入るものであり、また完全であるかを見分け得るために、(御霊によって)心を一新されて自分を造りかえていただけ。(そうすれば来るべき世への準備ができる。)

塚本訳 ロマ 14:7-10
14:7 なぜなら、(キリストを信ずる)わたし達はだれも、自分のためには生きない、また、だれも、自分のためには死なないからである。
14:8
生きれば、主のために生き、死ねば、主のために死ぬのである。だから、生きるにせよ死ぬにせよ、わたし達は主のものである。
14:9 キリストが死んで生き返られたのは、死んだ者と生きている者との主になるためであるから。
14:10 それなのに、あなたはなんで自分の兄弟を、(肉を食べるからとて)裁くのか。またあなたも、なんで自分の兄弟を、(野菜ばかり食べるとて)軽蔑するのか。(裁くお方は神、)わたし達は(最後の日に)一人のこらず、神の裁判席の前に出なければならないのである。

塚本訳 ピリ 1:20-21
1:20 そして
私の切なる期待と望みは、私が何事にも恥をかかされず、かえって、いつものように今度も、キリストが正々堂々と私の体で、(私の)生によっても死によっても、(勝を得て)崇められ給わんことである。(然り、私の死によっても!)
1:21 何故なら、私にとって生きることはキリスト(を生きること、彼が私に生き給うことである。否、彼が私の生命)である。そして死ぬることは(完全にキリストと共に生きることであるから、私にはむしろ)利益である。

●「胃ガン疑惑」ぐらいで何で騒ぐかと思う人がいるが、私にとっては今回の「疑惑」は非常に重要なことであった。残る時間の生き方の心得を正され、死の時の心の平安を望み見ることができたからだ。心境に大なる変化があった。感謝。神はむやみやたらに「苦難」や「不安」を下さない。 ●10:00 公立阿伎留医療センターで胃の内視鏡検査(胃カメラ)。終始テレビ画面を見ながら説明を受けた。医療技術の驚くべき技術。疑わしいところの組織を採取して病理検査に回された。結果は17日に下される。カメラを飲み込むときはさすがに苦しかったが、開発者のことを思って忍耐した。担当の田原先生の説明もよくて納得●ゆき皮膚科で背中の膿を切開した部分のガーゼ交換。受付事務の院長夫人から「今日は胃も背中もで忙しいですね」と言われた●私のために祈ってくださった未知の方々にこの場をお借りして以下の文面にてお礼を申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日10時、地元の公立阿伎留医療センターにて、胃の内視鏡検査をしてまいりました。疑わしいところの細胞を採取して病理検査に回されました。結果は17日に下されますが、もし癌であっても切腹しないで内視鏡で病巣を切除できるそうです。病院に向かうときも待合室にいる時も何か大きな暖かい手の中にあるようで安心でした。お祈りくださりありがとうございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●WEBコイノニアのY兄は早起きして私のために熱祷を捧げてくださった。私の不安を取り除いてくださるためである。早速、上記お礼のメール(ほぼ同文)を送信したところ、下記のような返メールをいただいた。非常に力強くありがたいメールであり、キリスト者の祈り合いと主にある友愛とはいかなるものかを世に示すために公開させていただく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

高橋様

お疲れ様でした。早速のメール感謝。祈りながら本日の結果を待っていました。たとえ悪性であっても内視鏡での切除可能とは朗報です。私の知るかぎり、かなり小さいものでも開腹手術が多かったからです。引き続き祈り続けましょう。主は物理的なことだけでなく、霊的なことをもお心にかけてくださっているからです。祈りを共にして小生こそ教えられるところ多くあります。貴兄への同情や憐れみではありません。共に泣き、共に苦しみながら主にあって霊的、信仰的に成長させていただけることは何と幸いなことでしょう!祈ってくださった多くの方々に神のかえりみがありますようにと祈らないではいられません。感謝、感謝です。トミ子さま、またお子様方、お孫さま方によろしく。

 

主にありて

Y

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

●こういうメールをいただき、主にある友愛、交わりは「肉の血」よりも濃いことを如実に知って、次の聖句を思い出した。

 

塚本訳  ヨハ 1:12-13
1:12 しかし受け入れた人々、すなわち、その名を(神の子であることを)信じた人には一人のこらず、神の子となる資格をお授けになった。
1:13 この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神(の力)によって生まれたのである。

 

塚本訳  マコ 3:31-34
3:31 そこにイエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていてイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人がイエスのまわりに坐っていたが、彼に言う、「それ、母上と兄弟姉妹方が、外であなたをたずねておられます。」
3:33 イエスは「わたしの母、兄弟とはだれのことだ」と答えて、
3:34 自分のまわりを取りまいて坐っている人々を見まわしながら、言われる、「ここにいるのが、わたしの母、わたしの兄弟だ。

 

塚本訳 ヨハ 19:25-27
19:25 ところが一方、イエスの十字架のわきには、その母(マリヤ)と母の姉妹、クロパの妻マリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 するとイエスは母上と、そのそばに立っている自分の愛する弟子とを見て、母上に言われる、「女の方、これがあなたの息子さんです。」
19:27 それからその弟子に言われる、「これがあなたのおかあさんだ。」この時以来、その弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

塚本訳  マタ 16:17-18
16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。
16:18 それでわたしもあなたに言おう。──あなたはペテロ[岩]、わたしはこの岩の上に、わたしの集会を建てる。黄泉の門[死の力]もこれに勝つことはできない。

たかが「胃ガン疑惑」ぐらいで、と思われるが、「たかが」の中に、人の心の奥が知られる。内村鑑三の「キリスト信徒の慰め」の中の第5章「貧に迫りし時」に次の歌が引用されている。

   おちぶれて、袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知らるる。

 

内村は言う「なんじ貧に迫るまで友人を信ずるなかれ。世の友人はわれらの影のごとし。彼らはわれらが日光に歩む間はわれらと共なれども、暗所に至ればわれらを離るる者なり。貧より来たる苦痛の中に、世の友人に冷遇される、これ悲嘆の第一とす。」・・・・・これ内村の実体験の言葉である。

この歌の作者を長い間探していたが。2年前に地元の図書館の司書が探してくれた。それは次のとおりである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これは鹿児島県民謡の「串木野サノサ」の3番ににある。(日本民謡全集雄山閣出版昭和50年発行、九州沖縄編137ページ)「串木野サノサ」は遠洋漁業に行く漁民の哀歓を歌ったものである。(130ページ解説)

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伊勢喜明氏が娘の愛子と孫二人を迎えに来る。

さようなら「初音さん」「かなほさん」また逢う日まで。

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秋川駅前に巨大な電飾が設置された。

 



 

 


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どちらが本物の愛だろう ++++++++ 所感

2008/01/07 07:27

080107(月)6時起床●朝の啓示。「人は啓示によって救われる」。昨夜、三位一体のことで某氏に手紙を書いたからだろう。その答えがひらめきで与えられた●里帰りしている娘愛子と夕食での会話。娘愛子「お父さん。お父さんが先に亡くなって、お母さんが誰か他の人と結婚したらどう思うの」。私、(心の中で「そんなことしたらブッ殺してヤル」と思いながら)「そうなったらお父さん淋しいなー、悲しいと思うなー」。娘愛子「お母さんはどう?」。妻「私は構わないヮ」。娘愛子「へーーぇ。お母さんて偉いのねー。心が広いのねー。私は、主人が他の人と結婚したら、いやだと思うなー」・・・・・・・・●娘愛子の答えに頼もしく、うれしく感じたが、その後、待てよ、と考えた。相手を自由にして、相手の思うようにしてやることが真の愛情ではないのかなーと考えた。(今頃悟るのは遅い!自戒)。●この三人のうち誰に「本物の愛情」があるのだろう●ソロモンは二人の女が一人の子供を自分が本当の親だと言いあって争いになった。それをソロモンが見て、「刀を持ってきてその子供を真っ二つにして分けよ」と言った。すると片方の女が「やめてください。子供は相手の女にあげてください」と叫んだ。そのときソロモンは子供の本当の親は今叫んだ女の方だだと判定した。(列王上3章16-28節)●相手の幸福を思って「手放す」ことも愛情だ。現在本屋では「求めない」という本が平積みのベストセラー。「求めなければ楽になる」などという短文が一ページに一つ書いてある。しかしこれは神抜きの人間の知恵。「愛されようと思うな。愛そうと思え」という言葉も人間の知恵。これらはあくまでも自分の心の平安が目的。実行できないことがすぐわかる●クリスチャンの愛情は、相手のことを思って「自分を(完全に)捨てる」こと。相手の幸福を祈り続けること。・・・でもそんなことできるかなー。神と共でなければ到底できないことだ。人間が生まれつきの人間のままではできないことなのだ。●昨日は「藤林益三」本の編集中、某氏と三位一体論のFAX。それが頭にあって、今朝は「人は啓示によって救われる」というひらめきがあった。●宗教改革のテーゼは「人は信仰(のみ)によって救われる」であった。この真理が燎原の火のように世界に飛び火した。しかし無教会主義のテーゼはというと「人は啓示によって救われる」であろう。その聖書的根拠は次の通り。

塚本訳 マタ 16:16-17
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたは救世主、生ける神の子であります!」
16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。

新改訳 エペ 2:8
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です

●ではどうして啓示を与えられる人と、啓示が与えられない人があるのだろう。責任は人間の側にあるのか、それとも神にあるのか。その答えは次にある。

新共同 ヨハ 14:22-23
14:22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。

●これが難解。結局救いは人間の「求め」が先なのだろうか。イエスの答えは玉虫色。どちらともいえない。人間はどちらか一方にすっきりさせてもらいたいと思う。それが大脳皮質での「神学」となる。すっきりしても血が通わないので胸が熱くならない。●人間は自分を愛してくれる人が信じているものを信じようと思うものである。だから人を愛さなければ福音は受け入れられない。イエスが「病気治療」をしたのもその観点からみるとわかってくる。

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 孫の「初音」4歳。カメラを向けるとポーズ。 2008.1.6 朝

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「浅田真央ちゃん(スケーター)の真似して」というとまたポーズ。

この子が「母」になる日までは生きていられない。 2008.1.6 朝

●初出勤。橋本次長と懇談。●勤務先のヴィオリストの和田氏に「胃ガンの疑いありで明日精密検査をする」と言った。すると氏は、本当に癌であったら「胃ガン(依願)退職なさるのですか」とシャレ。大笑い。●動物で「笑う」のは人間だけだという。馬は笑うようだが本当は笑っていないのだという。人を笑わせることができる人は高級人間だ●14:20 仕事面で30年もお世話になった黒田隆さんに新年の挨拶。「胃ガンの疑いあり」の話をすると励まされた。黒田さんはシベリア抑留で死線をさまよった方。話に重みがある。87歳で頭脳明晰。

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黒田隆さんに年始の挨拶。今年もお元気で感謝。87歳で頭脳明晰はご立派。
●帰宅して、兄のブログを見て胸が熱くなった。次のとうり。

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朝5時半起床、本日胃の精密検査を受ける東京のTさんのことを覚えて祈る。

(訂正)Tさんの検査は、本日ではなく、明日8日でした。一日早合点してしまった。自問、「祈りすぎて何の悪いことがあろう」、「しきりに願い求めて何の問題があろう」。結果的に明日に備えて今朝から祈りの態勢に入った。生涯を通して信仰を持ち続けること、信じ抜くこと、これが人間としての最大の事業。だとすれば、祈ることは、聖書を読むことと共にその大事業の欠くべからざる大切な業務である。喜ばしい業務である。光栄なる業務である。まことに責任ある業務である。

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●これだけ真剣に祈られていれば、生きても死んでもどちらでもよいと思うようになった。まことに不思議な感情である。●かって東京衛生病院で腸のポリーブ切除の手術をするとき、スタッフ全員が祈ってから始めると聞いた。そのとき不思議な安心の気持ち湧いて「この人たちの手によってもし手術が失敗しても満足だ」と思った。●兄の熱祷を感じて、その時と同じ不思議な感情になった。パウロの言葉を思い出す。

塚本訳  ロマ 14:8
14:8 生きれば、主のために生き、死ねば、主のために死ぬのである。だから、生きるにせよ死ぬにせよ、わたし達は主のものである。

●帰宅の前に、あきる野図書館に寄って孫のために絵本を4冊借りる。これで合計10冊借りた。図書館の女性司書にお願いして選んでもらったものばかり。●孫が喜ぶ「よくできている絵本」は決まっている。次のページをめくるとどうなるかを期待させるもの。言葉のしりとりのようなもの。本全体が10分程度でよみおえることができるもの。現代の牧師や伝道者は見習わなくてはならない。イエスの説教も短かった。●孫の初音が寝るときに絵本を読んだが、大人も面白いものが子供も面白がる。●自分の会社を卑下する人物はよくない。自分の仕事に生きがいをもって「面白い、面白い」と思ってやっている人に「注文がくる」。なぜか。「アイツを喜ばせて、喜ぶ顔を見てやろう」という気になるからである。

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「女は子を産むことによって救われる」 ++++++++ 所感

2008/01/06 07:59

080106(日)5時半起床●朝のひらめき「女は子を産むことによって救われる」●朝風呂で日経「私の履歴書」、前FRB(米連邦準備制度理事会)議長アラン・グリーンスパン。ジャズに熱中して楽団に入る。日米開戦のこと。●子供二人(4歳と1歳)を連れて里帰りしている娘を見て「子育ては精神的にも肉体的にも大変だなー」と感じる。そういうことがあって今朝のひらめき「女は子を産むことによって救われる」(Ⅰテモ2:15 )が浮かんだのかと思う。●この超難解な聖句を勉強する。●こういう場合、すぐ聖書注解に駆け込むことは間違い。なぜか。それは注解者の「感想」だから。それを読むとその人間の感想に縛られる。そこで「聖書で聖書を読む」という王道を行ってみよう。

先ず、翻訳比較。それには拙HPの「聖書で聖書を読む(BbB)がよい。代表的な日本訳7種類をいっぺんに見ることができる。●その標題によいものがある。拙HPの「聖書で聖書を読む」(BbB)の新約聖書翻訳の標題は塚本訳を採用しているが、これが非常に優れている。この部分が含まれる第一テモテ 2:8-15の塚本訳の標題は「男子は男子らしく、婦人は婦人らしく」である。この標題だけである程度納得である。

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第一テモテ 2:8-15

男子は男子らしく、婦人は婦人らしく


翻訳比較

岩波翻訳委員会訳1995

540208そこで私は、男たちがあらゆる地で怒りもなく争いもなく聖い手を〔天に向けて〕上げて祈るよう望む。
540209同じように女たち[もまた]品のある身なりで、羞恥」心と貞淑さとをもって身を飾り、編んだ髪、また金や真珠や、あるいは高価な衣裳でではなく、
540210逆に、神への敬度さを体現している女たちにふさわしく、良き行ないでもって〔身を飾るよう望む〕。
540211女は静かに、〔男性聖職者に〕ことごとく従属しつつ学ぶべきである。
540212女が教えることを私は許さないし、また男に指図することも〔許さない〕。むしろ静かにしているべきだ。
540213なぜならアダムが最初に造られ、次にエバが〔造られたからである〕。
540214しかもアダムは騙されなかったが、女はすっかり騙されて〔神の掟を〕逸脱した。
540215しかし〔女は〕貞淑さをもって信仰と愛と聖らかさに留まり続けるならば、子を産むことによって救われることになる。

新共同訳1987
2:8 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。
2:9 同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。
2:10 むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。
2:11 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。
2:12 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。
2:13 なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。
2:14 しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。
2:15 しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。

前田訳1978
2:8 男性はどこでも怒りや争いを避けて清らかな手をあげて祈ってください。
2:9 女性も身なりをつつしみ、廉恥と良識で身なりをし、編んだ髪や金や真珠や高価な衣服を身につけないでください。
2:10 よいわざで装うことが信仰を告白する女性にふさわしいのです。
2:11 女性は静かにして全き従順のうちに学ぶべきです。
2:12 わたしは女性が教えたり男性を押えたりすることを許しません。むしろ静かにすべきです。
2:13 アダムがまず第一に造られ、それからエバです。
2:14 また、アダムが迷わされたのではなく、女性が迷わされてまちがいをしたのです。
2:15 しかし女性は良識をもって信仰と愛と聖潔のうちにとどまれば、子を生むことで救われましょう。

新改訳1970
2:8 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。
2:9 同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、
2:10 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。
2:11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。
2:12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。
2:13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。
2:14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。
2:15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。

塚本訳1963
2:8 だから男子達は、何処ででも、怒らず争わず、潔い手をあげて祈ってもらいたい。
2:9 同じく婦人達も身嗜みよく、貞淑と慎みをもって身を飾り、編んだ頭髪や金や真珠や高価な着物でなく、
2:10 神信心を告白する婦人に似つかわしい立派な業をもって身を飾ってもらいたい。
2:11 婦人は(教会ではただ)静かに聴き、絶対の服従をもって(道を)学ばねばならぬ。
2:12 (教会で)婦人が教えたり、男子の上に立ったりすることは許さない。ただ静かにして居れ。
2:13 (このことは天地創造の由来からでも、エデンの話を見ても明らかである。)何故なら、アダムがまず造られ、次いでエバが造られたのであり、
2:14 またアダムは惑わされず、女なる(エバ)が(蛇に)惑わされて罪に落ちたからである。
2:15 しかしもし婦人が慎みをもって信仰と愛と聖潔とを保っているならば、子を産むこと(、これを育てて母の務めを果たすこと)によって救われるであろう。(婦人は教会でなく家の中で働くべきである。)

口語訳1955
2:8 男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。
2:9 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。
2:10 むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。
2:11 女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。
2:12 女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。
2:13 なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。
2:14 またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。
2:15 しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。

文語訳1917
"540208","この故にわれ望む。男は怒らず爭はず、何れの處にても潔き手をあげて祈らんことを。"
"540209","また女は恥を知り、愼みて宜しきに合ふ衣にて己を飾り、編みたる頭髪と金と眞珠と價貴き衣とを飾とせず、"
"540210","善き業をもて飾とせんことを。これ神を敬はんと公言する女に適へる事なり。"
"540211","女は凡てのこと從順にして靜に道を學ぶべし。"
"540212","われ女の教ふることと男の上に權を執ることとを許さず、ただ靜にすべし。"
"540213","それアダムは前に造られ、エバは後に造られたり。"
"540214","アダムは惑されず、女は惑されて罪に陷りたるなり。"
"540215","然れど女もし愼みて信仰と愛と潔とに居らば、子を生むことに因りて救はるべし。"

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●次にこのBbBで世界各国の聖書引照を見ることができる。みてみよう。次の通りある。

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各国聖書引照編集

(独)NESTLE-ALAND NOVUM TESTAMENTUM GRAECE 27版1993 の引照

新共同 Ⅰテサ4:11
4:11 そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。

新共同 Ⅰコリ14:34
14:34 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。



(英・米)THE NEW TREASURY OF SCRIPTURE KNOWLEDGE 1982 の引照

口語訳 Ⅰテサ5:17
5:17 絶えず祈りなさい。

口語訳 Ⅰコリ11:3
11:3 しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。

口語訳 Ⅰコリ14:34
14:34 婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。

口語訳 Ⅰコリ11:8-9
11:8 なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。
11:9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。

口語訳 Ⅱコリ11:3
11:3 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。

口語訳 ガラ 4:4-5
4:4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。
4:5 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。


(日)新共同訳1987の引照
新共同 ヤコ 4:8
4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。

新共同 Ⅰコリ1:2
1:2 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。

新共同 Ⅱコリ2:14
2:14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。

新共同 Ⅰペテ3:3
3:3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。

新共同 Ⅰコリ14:34
14:34 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。

新共同 テト 2:5
2:5 分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。これは、神の言葉が汚されないためです。

新共同 Ⅰコリ11:8-9
11:8 というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、
11:9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。

新共同 Ⅰテモ1:14
1:14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。

(仏)THE NEW JERUSALEM BIBLE 1985 の引照
口語訳 Ⅰペテ3:2-4
3:2 あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。
3:3 あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、
3:4 かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。

口語訳 Ⅰコリ14:34-35
14:34 婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。
14:35 もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。

口語訳 Ⅰコリ11:3
11:3 しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。

口語訳 Ⅰコリ11:8-12
11:8 なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。
11:9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。
11:10 それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。
11:11 ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。
11:12 それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。

口語訳 Ⅰコリ13:13
13:13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

口語訳 テト 1:6-9
1:6 長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない。
1:7 監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、
1:8 かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、
1:9 教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。

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●次に15節だけの引照をピンポイントで調べてみよう。それにはSWORD(拙HPから誘導できる)。そこにはたくさんの引照がでてくるが、そのうち心に響くものをピックアップしてみる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Isaiah 7:14:
それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。

Isaiah 9:6:
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。

Matthew 1:21:
彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。

Luke 2:10:
御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。

Luke 2:11:
きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。

Galatians 4:4:
しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。

Galatians 4:5:
それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。

Genesis 3:16:
つぎに女に言われた、/「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、/彼はあなたを治めるであろう」。

I Timothy 2:9:
また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。

Titus 2:12:
そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、

I Peter 4:7:
万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。

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●以上を見て、納得したのは、創造の目的と秩序を 保て。「男は男らしく、女は女らしく」創造の秩序に従って生きること。●子供を産むことそのものに救いがあるわけではなく、その「苦」によって神の「恵みの知恵」「神の隠された労苦」を知ることができる。つまり子供に悩まされることによって神が我々のことで悩んでいることを知るに至るというのである。●またこれは女ばかりでなく、男にも言えることである。生きていくうえでの「苦」のことごとくは結局人が「神の愛」「神の恵み」を知るための神の苦肉の策なのではあるまいか。●人生の「苦」は常に「不可解」である。不条理である。しかしそれは私たちに「神の愛の何であるか」を教える恵みの知恵が隠されているのであると思う。人生が計画通りにうまくいかないのはそのためではあるまいか。●10:00 私たち夫婦と里帰りしている娘とその子供二人(4歳と1歳)の5名で家庭礼拝。テキストは、上記第一テモテ2章15節「女は子を産むことによって救われる」ということ。翻訳比較とBbBとSWORDを読む。それから孫の初音のために讃美歌461番「主われをあいす」の練習。30分で終了。

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TVを熱心に見る二人の孫。左初音、右かなほ。手前の椅子は私の手作り。

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図書館に行く途中、日没の奥多摩連山を眺める。私の人生も夕暮れが近い。

左端には富士。讃美歌43番を歌いながら自転車のペダルを漕いだ。世の悲しみ、苦しみ、不幸にある人のこと、私の命のおわりの近いことを思うとどうしても泣けてくる。

讃美歌43番

1. みかみ の たましい この ひ も くれけり,

   いざ や けさ の ごと みめぐみ を たたえん.

 2. ひかり に むかいて めぐる ち と とも に,

   ち に ある みたみ は みわざ に いそしむ.

 3. くにぐに, しまじま, しずか に あけゆき,

   いのり は もださず, ほめうた は つきず.

 4. われら に わかれて かくれし ひかげ は,

   にし に すむ とも を みわざ に ぞ さます.

 5. おこりて ほろぶる よ の くに に かわり,

   ときわ に さかゆる みくに ぞ とうとき.

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孫の「かなほ」。1歳2か月。何を夢見ているのだろう。この子が成人の日までは私は生きられない。いいんだ、いいんだ。それでいいんだ、それが自然なのだ。人間はいつまでも生きてはいないのだ。淋しいがしかたがない。けれども復活がある。永遠の命がある。2008.1.6 午後

●妻は午後メサイアの練習。次男の守と一緒。夕食のとき娘の愛子も「いつか加わりたい」と希望を出した。結構なことだ。

 
















 


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なりふり構わずの人生 ++++++++ 所感

2008/01/05 07:04

080105(土)5時起床●朝のひらめき「なりふり構わず」●昨日背中の手術をしたため朝風呂中止で気分はよくない●昨日は某伝道者から「なりふり構わずの行動様式の御報告」を受け、大いに刺激された。そこで「なりふり構わず」について黙想。●人間は「ある喜び」に浸ると「人間常識、道徳、形式、しきたり、習慣、決まり、伝統」などを突き破って「トンデモナイ」行動に出る。●ルターがそうであった。内村にはじまる無教会がそうであった。多くの宗教者がそうであった。そんな問題ばかりではない。人間は「好きな人」ができると、平気で親を捨て、健全常識を捨て、非常識になって世間の顰蹙を買う。●人間は「何に心を奪われるか」によって人生が決定する。まさか趣味道楽や人間に「心を奪われて」、「道を誤る」人間を誉める人間はあるまい。それは人を益しないからである。自分たちの幸福(と思っている)ことの追及だけだからである。教育的に悪いからである●ところが、神と福音に「心を奪われて」、人生が「狂う」人がいる。それは真に人類に益し、歴史を作った。数え上げればきりがない。聖書的根拠をみてみよう。 ●まず、イスラエル最大の名君ダビデ。

口語訳 Ⅱサム6:13-16
6:13 主の箱をかく者が六歩進んだ時、ダビデは牛と肥えた物を犠牲としてささげた。
6:14 そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた。
6:15 こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。
6:16 主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓からながめ、ダビデ王が主の前に舞い踊るのを見て、心のうちにダビデをさげすんだ

●ダビデは「なりふり構わず」踊り狂った。それを窓から眺めていた人は軽蔑した。はしたない姿よと思った。これ現代的である。聖書と福音に狂った人間を見てデカルト以来の唯物論的学校教育に洗脳された人間は「窓から」眺めて「軽蔑する」●次は神の子イエス。

塚本訳 マコ 3:21-22
3:21 身内の者たちが(イエスの様子を)聞いて(ナザレからカペナウムへ)取りおさえに出てきた。「気が狂っている」と思ったのである。
3:22 またエルサレムから下ってきた聖書学者たちは、「あれはベルゼブル[悪魔]につかれている」とか、「悪鬼どもの頭[悪魔]を使って悪鬼を追い出している」とか言った。

塚本訳 マコ 3:31-35
3:31 そこにイエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていてイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人がイエスのまわりに坐っていたが、彼に言う、「それ、母上と兄弟姉妹方が、外であなたをたずねておられます。」
3:33 イエスは「わたしの母、兄弟とはだれのことだ」と答えて、
3:34 自分のまわりを取りまいて坐っている人々を見まわしながら、言われる、「ここにいるのが、わたしの母、わたしの兄弟だ。
3:35 神の御心を行う者、それがわたしの兄弟、姉妹、また母である。」

●神の子イエスは「気が狂っている」「悪魔につかれている」と言われ、肉親を捨てた。これ非常識人生であった。しかしイエスが復活したとき、母も兄弟もみなイエスを理解した。●次はパウロ

塚本訳  Ⅰコリ1:18-20
1:18 なぜか。この十字架についての言葉は、滅びゆく者には馬鹿なことであるが、わたし達救われる者には、神の力(の現われ)であるから。
1:19 (聖書に)こう書いてあるではないか、『知恵者の知恵をわたしは滅ぼし、賢い者の賢さをわたしは無にする』と。
1:20 『どこに知恵者が』、『どこに聖書学者が、どこに』この世の議論家がいるのか。神は(この)世の『知恵を馬鹿なものにされた』ではないか。

塚本訳 使  17:32-33
17:32 死人の復活と聞くと、嘲る者もあり、「そのことはまたいつかあなたに聞こう」と言う者もあった。
17:33 こんなことで、パウロは彼らの中から出ていった。

塚本訳  使  26:24
26:24 彼がこのように弁明したとき、フェストが大声で(それをさえぎって)言う、「パウロ、お前は気が狂っている。博学がお前を狂わせたのだ。」

●現代においてもこのパウロと同じように言われる。「愚かなものを信じている」と。●私の見聞きした例。白井きくという方は塚本先生の手伝いをされた方であるが。母校お茶の水の同窓会仲間からが「あの人は聖書とキリスト教に凝っている」と言われた。(これ公開されている)。集会のTさんは御家族から「彼はキリスト教をヤッテいた」と言われた。競輪競馬をヤッテいたというような言い方をされた。その田重田さんが亡くなられとき、お顔の白い布を取ってびっくりした。笑みを漏らしておられたのだ。氏は生まれるとき臍の緒が首に巻きついたのが原因で障害者でその生涯を終えた。職業生活がうまくいかなかった。日曜日の集会ではいつも最前列であったが、夜勤でお疲れでいつもいびきをかかれて眠られておられた。かくいう私は「照男は宗教者だから」だとか、「父親と意気投合している」とか、かなり揶揄されたことがある。しかし無教会者の「常識人」の数々と付き合っていることが知られ、見直されれた●キリストの福音に狂った男はあまたある。ヘンデル、バッハ、レンブラント。日本人はその福音を知らずに、その音楽と絵画に酔っている。パウロはギリシャ人に次のように言う。

新改訳 使  17:23
17:23 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。

●ところが、パウロはこれに失敗した。「教えましょう」という態度がよくなかった。それは大脳皮質への訴えであったから。

口語訳 Ⅰコリ1:21-24
1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める
1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

●アーソーカ。伝道は「愚か」と思われる方法でなければならないのだ。証拠を示したり、理性に訴えるところの大脳皮質へのアプローチでは効果を期待できないのだ。「なりふり構わず」の姿勢でよいのだ。馬鹿な奴よと言われる方法がかえってよいのだ。●三谷隆正は「信仰はヤケクソだ」と言った。なりふり構わずの破れかぶれの生き方でよいのだ。キリストに狂った人生、キリストに凝った人生、それでよいのだ。それでよいのだ。あとは神が責任を取ってくださる●もし私の「思い出の記」を書く人がいたとしたら「彼はイエスの有体的復活を信じ抜いて死んでいった」と書いてくれれば足りる。それだけで十分。それ以外でありたくない。この人生はそれ以外ではあってはならないのだ 。笑うやつは笑え。あざけるものはあざけれよ。●人間は誰しも何かに狂って生きるものだ。立身出世、有名校、一流企業、金、男、女、趣味道楽。NO!。そこに真の幸福はない。あると思うなら教えていただきたい。彼らの多くは「涙を流して帰ってくるのだ」。カールブッセの「山のあなた」の詩のとおりである。●私のHPとブログは「路傍伝道」である。路傍伝道だから、石をなげられる。「書くな」と言って電話をがしゃんと切られたこともあった。そういう人のことは書かない。イエスもパウロも「こりゃーだめだ」と思う地からはさっさと引きあげたのだ。淋しい、悲しい。イエスもパウロも去るときには「クソッ」と思って泣いたに違いない。イヤイヤ彼らに神の導きがあるようにと祝福して「今にわかる。いつかわかる」と思ったに違いない。 ●初音と散歩。讃美歌を知っている●夕方、東急に買い物に行く時、夕暮れの奥多摩連山を眺めてまた急に淋しくなった。讃美歌301番を歌いながらペダルを漕いだ。人生は残り18年でも1年でも同じ。有限であることには変わりないのだ。妻子に囲まれ、孫に囲まれても、否、囲まれれば囲まれるだけ一層淋しいのだ。人の命は有限だからだ。「別れ」なければならないからだ。

讃美歌301番

1. やまべ に むかいて われ め を あぐ,

   たすけ は いずかた より きたるか

   あめ つち の みかみ より

   たすけ ぞ われ に きたる.

 2. みかみ は なれ の あし を つよく す,

   みまもり あれば なれ は うごかじ.

   みたみ を ば まもる もの

   まどろみ ねむり まさじ.

 3. みかみ は あだ を ふせぐ たて なり,

   な が み を つね に まもる かげ なり.

   よる は つき, ひる は ひ も

   なれ を ば そこなう まじ.

 4. みかみ は わざわい を も さけ しめ

   つかれし たましい を も やすます.

   いずる おり, いる おり も,

   たえせず なれ を まもらん.

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里帰りしている娘の愛子が妻と買い物。2008.1.4 午後

左からトミ子、孫の「伊勢かなほ」 娘の伊勢愛子、孫の伊勢初音

 

 

 

 

 

 

 


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自分になりたいよー ++++++++ 所感

2008/01/04 07:30

080103(金)5時20分起床●朝風呂で日経「私の履歴書」、前FRB(米連邦準備制度理事会)議長アラン・グリーンスパン。生まれてすぐに両親が離婚、父親がいない寂しさは伯父や伯母の存在である程度は紛らわすことができたという。・・・・・・両親離婚でも「この地位になれた」というのは解決にならない。両親離婚の寂しさでキリストによる真の平和を知ったというのが正解の人生。感謝の人生。日本にはこの寂しさを持つ刈りいれるべき麦は多い●「相性」ということを調べる。ヤフーで「相性」を調べると40万件も出てくる。人間はいかにこのことで悩みが多いかがわかる。●女子大の生徒はいかに相性の合う男性と巡り会えるかということに関心がある。相性の悪い男性と結婚すると夫婦仲が不和で一生の不幸だという恐れからであろう●「相性」という言い方と「合相」という言い方がある。ヤフーで調べた「合相」の説明には次の解説が納得である。

●自家不和合性(じかふわごうせい)とは、植物と菌類に見られるもので、特定の他個体、他系統の株とでなければ有性生殖が成立しない性質のことである。
●自家不和合性とは、文字通り、同じ株の花粉で受粉しても、種子が
形成されない現象で、アブラナ科植物が他殖性(雑種性)を維持し、生存し
てきた巧みな手段である。


●これつまり「種の繁栄のための」生物界の掟らしい。●同種類の樹木を並べて植えると虫の被害が多いが、他種類のものを混植すると虫害が少ないと聞いている。これは種の保存の法則●相性(合性)が悪いという関係があるのは離れて生きるようにとの神の摂理。その方が生物は繁栄するから●ニュータウンは人間の頭で考えた都市。経済的に同世代の年代層が集まる。したがってあるときは子供の数が多いが、それが過ぎると子供がいなくなる。現在は学校を老人ホームに変更しようという動きがある。それが過ぎると団地全体が衰退するであろう。年齢層の混植がない街は滅びる。●都市計画で失敗したのはブラジルの首都ブラジリア。人が集まらない。面白くない街といわれる。人間の頭で考えたものだから。●親子、夫婦、兄弟、親戚などでひどく嫌う関係があるのはなぜだろう。不思議な現象である、。私は今までそういう不思議な現象に数件も出会っている。嫌われる方にそんなに落ち度はないと思われるのに、いやかえって尊敬すべき人だと思われるのにのその子供のうちの一人に「ひどく嫌われる」のである。まことに不思議な現象である。嫌われた親は「気の毒なだー」と思うのと同時に親を「嫌う、嫌悪する、呪う、気持ち悪く思う」という性質に絡まれている人間も「こ気の毒だなー」と思う。なぜか。そういう人間の人生はなぜかうまくいかないからである。第一に儒教国の日本ではそういう傲岸な態度の人間は社会から嫌われるからである。聞いていてもいい気持ちはしない。笑わせるために言ったとしても全員の気分が悪くなって座をシラケさせる。●正義のためと思って、平気で上司や両親や、教師や、牧師を呪うものはまず社会的に責任ある地位に就くことはできない。なぜか。多くの人がその人をよく思わないから。まず部下がつかないのである。かわいそうである。気の毒である。必ず社会的制裁を受ける●そういう人間のことは聖書的には次のとおりである。

箴   20: 20 口語

自分の父母をののしる者は、そのともしびは暗やみの中に消える。

箴    30: 11 口語

世には父をのろったり、母を祝福しない者がある。

●身内の中にうまくいかない関係があることは人類の永遠の最難題。どんなに「デキタ」母親でも子供を平等には扱えない。依怙贔屓(えこひいき)をしてしまう。(旧約聖書創世記27章のリベカ)●いや、神自身がカインを嫌ってアベルを愛した。そこでカインはひねくれた(旧約聖書創世記4章)●しかし神自身も自分の横暴に「悔いる」ことがある。創世記8章21節、9章11節。神は人類に対して二度とこういうむごいことはすまいと思って(反省の)契約のしるしに虹をだした。救い主イエス・キリストの出現の源流はここにさかのぼる。●「キリストは我らの平和」である。人間はキリストの血で生まれたままの血が入れ変わるとき(これ宗教用語だが、霊の世界の真実)に初めてすべての人と相性、合相があうようになる●それは真理か。そんなことが起こりうるのか。豹の斑点がなくなるようなことが起こりうるのか。それがあるのだ。真理である。●正真正銘、この私はある時期、父親をひどく嫌った。しかしキリストの血で罪の赦しをいただいたら、クリスチャンであった父親を見直した。「キリストは我らの平和」は真理である。 ●相性が悪かったら「別れよ」。人間の努力で相性がよくなると思ったら間違い。相性がよくなるのは神の力以外には考えられない。パウロは次のように言う。

塚本訳Ⅰコリ7:5
7:5 互に(夫婦の務めを)拒んではならない。ただ、祈りに身を捧げるため、申し合せの上でしばらく間をおき、あとでまた一しょになるような場合は別として。自制力が足りないのに乗じて、悪魔があなた達を誘惑することのないためである。

●人類はキリストの血によって初めて平和が来るという事実は、日本と韓国の例にも見られる。日本人と韓国人はお互いになんとなくいがみあってきた、近親憎悪である。私自身がそういう感情の持ち主であったが、キリストの救いをいただいて、韓国のクリスチャンと心が通った。韓国の伝道者で火災にあった人に内村鑑三全集を送ったことがある。そういう気持ちも「キリストの血」で真の兄弟になれて自然の感情として和合の気持ち湧くようになったからである。●孫の初音に妻が家にあった着物(和服)を着せたところ、しばらくする内に動きが窮屈になって言った。「自分になりたいよー」。つまり脱がせてよーという要求であった。これ非常に意味の深い言葉であるなーと妻と同じ気持ちになった。「自分になりたい」とは実に哲学的宗教的に真理の言葉である。人間は「自分は自分でありたい」のだ。お仕着せの道徳や宗教や哲学では窮屈なのだ。「自分は自分である」ことによって自由でありたいのだ。●9:00 「ゆき皮膚科」で背中の粉瘤(ふんりゅう)の切開手術。膿が大量に出て痛みが取れた。●妻と娘と孫二人が買い物●娘が4歳と1歳の子供(よく泣き、よくぐずる)を育てる様子を見て、「母業」は精神的肉体的に大変だなーと思った。「女は子を産むことによって救われる」(Ⅰテモ2:15)を黙想。

塚本訳Ⅰテモ2:12-15
2:12 (教会で)婦人が教えたり、男子の上に立ったりすることは許さない。ただ静かにして居れ。
2:13 (このことは天地創造の由来からでも、エデンの話を見ても明らかである。)何故なら、アダムがまず造られ、次いでエバが造られたのであり、
2:14 またアダムは惑わされず、女なる(エバ)が(蛇に)惑わされて罪に落ちたからである。
2:15 しかしもし婦人が慎みをもって信仰と愛と聖潔とを保っているならば、子を産むこと(、これを育てて母の務めを果たすこと)によって救われるであろう。(婦人は教会でなく家の中で働くべきである。)

●これ男親にとっても同じ。子があることはうれしく楽しいこともあるが苦しみもある●男は汗を流して労働して金を稼ぐ「苦」、女は子を産む「苦」と同時に男よりも子育ての重労働が課せられているのではないだろうか。●女の苦は出産という一時的な苦と同時に「子育て」という永続的な「苦」も課せられているのではないだろうか。(そんなこと言わずに「あなたも子育て少し手伝って」。「俺は仕事で忙しんだ」。あー人類は創世記以来何ら変わらない。笑。)

新共同 創  3:16-19
3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。
3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

●子育ての必要がない女性は別の「苦」が課せられるはずだ。●孫はNHKTVのアニメ番組を真剣に見る。民放ではこういう番組はやらないという。なぜか。アニメ番組にコマーシャルを出しても見ているのは子供だから意味はないかららしい。「市場経済」の原理は最終的なものではないと感じると同時に、「棲み分け」ということも必要であることを思った。


 

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不和が解消される道 ++++++++ 所感

2008/01/03 06:17

080103(木)4時半起床●昨夜泊った伊勢喜明氏が5時に出立●朝風呂で黙想。「不和が解消される道」●人生の苦のうち「不和」ほど重い苦はない。夫婦間、親子間、嫁姑、嫁舅間、嫁対嫁、婿対婿、小姑と実家の嫁、兄弟間、職場の同僚、牧師と教会員、エクレシアの信者間、教師対生徒、教師対父母、神学論争、地位の奪い合い、仕事の奪い合い、地域間格差、企業間の争い、国家間の争い、イデオロギー集団内の排除闘争、宗派争い、教派争い、エクレシア内の信者のいがみ合い、それはしばしば呪い合い、暴力団の内部抗争、遺産相続争い・・・・・・・・あーきりがない。●この争いが解決される道はあるか。ある。それは宗教用語を使わずに言えば「相手を変えようとせず自分が変われ」である。しかしこれだけではPHPの本や一般人生相談の答えと同じだから、聖書的根拠を考察する。

詩    34: 18 口語

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

詩    51: 17 口語

神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。

●「魂の砕け」これが人間の側における不和解消の唯一の道である。しかしなー、それができないのだ。自分で自分の魂を砕くことはできないのだ。争いというのは必ず「相手が悪く、自分は正しい」と思うところに発生する。戦争は正義の戦争というプロパガンダを構築する。ナチス、日本、米国、●この頑迷な堅い心が粉々に砕かれるのは人間の注意、説教、説得、また不幸の体験、失敗、家族の死、などによってもこない。●人間はどんなに不幸な目にあっても悔い改めない。「魂は砕かれない」。「子を持って知る親の恩」は全員にあてはまらない。「憎い親の死に目にも立ち会うものか」という恐ろしく傲慢な暗い心の持ち主もいる●しかしながら不思議な神の導きによって「魂の砕けの日」がおとずれるのだ。その日はいつ来るか。それは神のみぞ知る。神の訪れの日。祝福の日。恩恵の日。それは人生の最後の最後でもよいのだ。その実例を三つ見てみよう。

 塚本訳ルカ 18:13-14
18:13 しかし税金取りは(罪に責められ、)遠く(うしろ)の方に立ったまま、目を天に向け(て祈りをささげ)ようともせず、ただ胸をうって、『神様、どうぞこの罪人のわたしをお赦しくださいと言った。
18:14 わたしは言う、あの人でなく、この人の方が(神から)信心深いとされて、家にかえっていった。自分を高くする者は皆低くされるが、自分を低くする者は高くされるのである。」

塚本訳  ルカ 19:8-10
19:8 しかしザアカイは進み出て主に言った、「主よ、わたしは(誓って)財産の半分を貧乏な人たちに施します。人からゆすり取ったものは四倍にして返します。」
19:9 イエスが(人々に)言われた、「救いは(きょう、)この家に入った。(人でなしのように言われる)この人も、やはり(あなた達と同じ)アブラハムの末だから。
19:10 人の子(わたし)は『滅びうせた者をさがして』救うために来たのである。」

塚本訳 ルカ 23:40-43
23:40 するともう一人の者が彼をたしなめて言った、「貴様は(このお方と)同じ(恐ろしい)罰を受けていながら、それでも(まだ)神様がこわくないのか。
23:41 おれ達は自分でしたことの報いを受けるのだから当り前だが、このお方は何一つ、道にはずれたことをなさらなかったのだ。」
23:42 それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください。
23:43 「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽にはいることができる。」

●税金取り、ザアカイ、十字架の上の強盗。この三人の祈りは聴かれた。なぜであるか。魂が砕けたからである。

●米映画「陽のあたる場所」のラストシーン。殺人を犯した息子が死刑台に向かうとき、その後ろ姿を見る母親は祈る。「あのような子供を育ててしまったこのふつつかな母をお赦しください」。この祈りは神に聞き届けられると思った。さすがは米国映画。奥が深い。●「あの子をあのように育ててしまったこのふつつかな親をお赦しください」というのが親としての最も尊い祈りである。この祈りがあって親としての人生は成功である。こういう祈りがあって親も子も救われる。●人の子の親というのは必ずこういう場面が来るものだ。それでいいのだ。それでいいのだ。そういう苦しいい目にあって「とりなしの祈り」を学び、キリストのようになれるのだ。「十字架を負え」とはこのことだ●わが子が惨めな姿や態度に育っているとき。あれは私の至らなさの故であったと祈るとき、神はその親の祈りを聴かれる。●幸いにもその子供が悔い改めて救われるという結果を見ることは生きているうちは不可能かもしれない。モーセがカナンの地に入ることを許されなかったのと同じだ。モーセにしてこうだから贅沢を言えない。●著名な某伝道者の子供の姿。その実例。家庭集会の集まりに信者が玄関に来た時、その顔にタバコの煙を吐きつけたという。父の嘆きの祈りは大きかったにちがいない。でも仕方がない。子供にとってオヤジのキリスト教がわからなかったのである。それなのに小さいころからわかりにくいキリスト教を厳格に押し付けられたのだ●遺産相続の争いが収まる道は、だれか一人が『私はいらないよ』という人が現れればよいとは藤林先生のアドバイス。聖書的には「自分を捨てよ」ということか。●4歳の孫娘初音と対話をする。

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孫たちにビリビリに破られた障子。ケラケラと笑いながら破っていた。「人間は律法を破ることが快感なのだなー」と思った。「叱られる」ことによって自分に注目されることが目的らしい。ロマ書7章15-16を思う。

新改訳 ロマ 7:15-16
7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。

 

●非行の原因は「愛情の不足」。しかしそうなったとき、慌てて人間の愛情を注いでも手遅れ。神からの真の愛情が注がれなければ人間は本当の立ち直りはできない。●「神様、あの人のことはとうていこの私の手には負えません。私の力に余る人です。私があのひとにn何かできると思っていたことが間違いだったのです。あなたならあの人を救えないわけはありません」。これが真の祈り。とりなしの祈り。

 



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高橋家新年会 ++++++++ 所感

2008/01/02 09:21

080102(水)4時半起床●朝のひらめき「ヨブの偉さ」●朝風呂で黙想。「ヨブの偉さ」。元日の新聞は大量でとても読めない。「天が下には新しきことなし」だ。●今日は新年会なのでテーブル、椅子(11人分)用意。机の周りを整理。人間は時間を区切られて追い詰められないと片付け整理ができないものだ●「ヨブの偉さ」について。それは二つある。

●その第一。ヨブはいつも子供たちのために神に「とりなし」の祈りを捧げていた。子供を叱らない(自戒)。説教しない(自戒)。怒らない(自戒)。ぶたない。自分が神にとりなす。これは遠回しのようであるが最も効果的な教育。なぜか。神の実効ある助力を期待するから。今頃「自戒」しても遅いんだがなー。でも子育ての渦中では「真剣勝負」だったから赦されるのかも。(自己弁護)

新共同 ヨブ 1:4-5
1:4 息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。
1:5 この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。

その第二。「どうしようもない苦難」に出会っても神を呪わず、人を呪わず。運命宿命を呪わない。」しかし最後の最後になって「自分の不幸や苦難はことごとく神がご存じであって、それは信仰を試されるための試練であった」ことを悟る。そして悔い改めたとは・・・・偉い。すこいなー。

新共同 ヨブ 42:5-6
42:5 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
42:6 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます

●「ヨブ記」は人類がある限り、人生がある限り「永遠の書」である。「人生にはなぜ苦難があるのか」、「人生は不可解である」との悩みに対する決定的な回答の書である。つまり「苦難は神から出るものであって罰ではない。不可解なところに神の大なる恵みの知恵が隠されている」。●内村鑑三の言葉は多いが、最高のものをひとつあげよと問われれば、次のものである。・・・「キリストイエスを救い主と仰ぎて、癒し難き悲痛あるなし」。(出典失念)。・・・これ内村が自己の生涯の悲痛な実験を通じて我々に語ること。このことは何も内村を待たずとも信者たつものの共通の告白でなければならない。●12:00 高橋家新年会。 ●私の新年の祈り。讃美歌66番「せいなるせいなる」の合唱で開始。11名集まると若い家庭、孫たちの世代、それぞれのジェネレーションごとに話題が合う。●今年は伊勢家の司会当番。クイズ。各家庭の昨年の「重要三大ニュース」の発表。讃美歌217番「あまつましみず」の合唱で終了。●三男の恵一家は都合で欠席したので今年は4家族のみ。恵のところは、「重要三大ニュース」はFAXで参加し、新年会の途中で電話が入る。

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2008年高橋家新年会。

後列左から、高橋照男、高橋守(次男)、高橋新一(長男)、高橋衣純(新一夫人)伊勢かなほ(伊勢家次女)、伊勢喜明、伊勢愛子(高橋家長女、喜明氏夫人)。前列左から高橋穂澄(守夫人)、高橋和歌(守長女)、高橋トミ子(照男夫人)、伊勢初音(伊勢家長女)。近藤恵一家(4名)はFAXと電話で参加。


 

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