to 日記と感想 2008年02月
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将来日記

    将来日記

    XXXXXXXXXXX    終末、復活、永遠の生命、再会(父、母、妻、
              子供、親戚、友人、集会の方々)
              復活と再会の確信はイエスの有体的復活の事実
    291103       結婚60年記念、ダイヤモンド婚
    261016       イカ成人
    251009       コフ成人
    250809       タワ成人
    241103       結婚55年記念。エメラルド婚
    230110       イハ20歳成人
    230713       タテ満80歳
    220728       KM成人
    200713       タテ誕生日満77歳喜寿
    191103       結婚50年記念。金婚
    18秋ごろ 木曜日 阿伎留病院森先生に胃カメラ申し込み
    171229    TM誕生日
    171220     KK誕生日
    171115    TM誕生日
    171016     IK誕生日
    171009     KH誕生日
    1709頃      聖路加約センターに2018年のMRI予約3か月前に聖路加に行く
    170831     芝浦工業会年会費支払締切
    170822     KS命日
    170817(木)11:30 キリスト教性教育研究会、ナザレ修道会、富永國比古
    170813     KT命日
    170821(土)15:00お江戸コラリアーズ定期演奏会、文京公会堂
    170809     TW誕生日
    170801     TH誕生日
    170728     TI誕生日 KM誕生日
    170723      IK誕生日
    170713      TT誕生日
    170706      TM誕生日
    170701      TT誕生日
    170628       IY誕生日
    170625(日)14:00羽村フィル、ゆとろぎ。モーツァルト40番、チャイコフスキー5番
    170618(日)15:00今井館総会
    170611(日)14:00武蔵野室内アンサンブル。ブラームス3番他。キララホール
    170610(土)14:00内村鑑三セミナー、立教大学12号館。矢田部、椚」山
    170609(金)   TS命日
    170608(木)12:15ボリショイ「白鳥の湖」、東京文化会館
    170707(水)10:00池谷医院
    170604(日)10:00集会感話、
    170604(日)16:30近藤恵邸起工式、福島市。
    170530(火)14:00田岡氏来訪
    170527(土)14:00今井館ピアノコンサート
    170521(日)14:00新宿フィル、ブラームス1番、レスピーギ「鳥」「ローマの松」。和田睦夫
    170425       TN)誕生日
    150420(木)09:30阿伎留センター泌尿器科)
    170416(日)14:00武蔵野室内合奏団、杉並公会堂(大坪満子)


落ち着ける場所を求めて ++++++++ 所感

2008/02/29 07:44

080229(金)、出勤日。5時起床。朝の黙想「人間は落ち着けるところを求める」●朝風呂で日経「私の履歴書」。日本サッカー協会会長の川渕三郎。最終回。華やかな人生の陰に「家庭苦」あり。夫人がC型肝炎。そこで自ら家事労働。エライ。●経済学の分野でよく引用されるマズローの「「欲求段階説」は「ある段階の欲求が満たされると次の欲求が現れて充足を求める。」というもので、その段階とは次の通り。これを私流に、結婚、職場、住居、思想信条に当てはめててみる。思いつくままの感想●第1段階「生理的欲求」。適齢期になると「結婚したい、結婚したい」と思う。・・・・しかしそれが今は高年齢になっているのが心配。ちゃんと給料を払ってくれる職場を求める。猛獣から身を守れる家、雨露がしのげる家。人生を安全に歩ける思想、最後は天国に入れる信条、宗教。唯物論は危険。来世に行けない。●第2段階「安全の欲求」。これは「安心」という感情。女子大の一生徒から「ワタシ”うお座”の人と付き合っていると『楽』なのです」という名言を聞いた。私はその「楽」という言葉に非常に感心した。人は何と言っても「楽」な人と結婚しなければならない。「イケメンを追っかけるな。それはたいてい教養も金もない」と講義(?)した。すると「先生、最近は違うワヨ」と反論された。職場も労働も気が合う「楽」な人がいなければそれは地獄。住居も安全が大切。暑さ寒さを防げるだけでなく地震に強い家、崖の下、氾濫する川のそば、津波の来るところ、日の当たらない家は病気が入る、水質のよいところ、家主に追い出されない家・・・・・家には安全が求められる。まてまて、それよりも住宅ローンが支払えるだけの自分の財布の安全のチャックが必要。追い出されない家、思想信条では落ち着ける教会・集会が必要。教会・集会から帰ると心がカサカサで満たされないものであってはならない。まー、そういう教会・集会は自然に人が去るからこの世界でも「市場原理たる『神の手』」が働く。●第3段階「社会的欲求」。これが難物。某女「私結婚に失敗した―、失敗した―」と嘆く女性。「東大卒、一流職場」に目がくらんだからだ。職場は「カッコイイ」ところ、有名企業、ブランド企業、学校は一流校、ブランド幼稚園、女子大は「嫁入り道具」の一つ。「お受験」は母親のエゴ。見栄。かわいそうなのはそういう「ママゴン」「パパゴン」に尻を叩かれる幼児。しかし思想信条宗教は一流のものでなくてはならない。一度きりない人生を失敗する。これだけの歴史をみれば、無神論という野蛮な思想を信条とする人はいまい。そいう人間の仕事ぶりはよくない。「発想」がよくない。ノーブルでない。●第4段階「自我の欲求」。各自独自の欲求。どうしてもアノ人と結婚したい。そうしてもああいう家に住みたい。そうしてもあの会社に就職したい。どうしてもあの宗教を信じたい。・・・しかしこの欲求は未熟なときの発想ならば危険。しかし「かわいいものには旅をさせよ」という考えもあるが、失敗するのを知っていながら「放任」しておくのは不親切、意地悪。言うべきことは言わなければならない。「私の家だから私が設計する」などと言って、「専門家に任せる」という教養のない人間の作った家は「醜悪」。自分だけ満足しても周りに迷惑をかけるからヤメテクレー。あきるの市に外壁の色彩を「真っ赤」にした家がいる、好き好きであるが、公害だ。景観を壊す。「自我の欲求」を貫徹するのも人に迷惑をかけてはいけない。●第5段階「自己実現の欲求」。キリストはユダヤ今日から独立。ルターはカトリックから分離独立。無教会はプロテスタントから分離独立。最近はその無教会から新しい胎動がある。「懐かしのメロディー」ばかりを好む無教会から若者は逃げ出す。親からの分離が「家出」か「結婚」。大工の修業は7年。それで年季明けといって親方から独立。それで独立できなければ見込みのない弟子。音楽宗教の席でも優秀な人物は先生に物足りなさを感じて蹴飛ばして出て行く。そういう弟子を作る先生は優秀。いつまでも自分の所にまとわりつく人間は不肖の弟子。・・・・私は「妻」から独立して自分で食事を作れるかなー(笑)・・・・・以上の5段階。反論がありそうである。

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出勤途中、奥多摩連山を背景に。東秋留高校の生徒に写してもらう。8:25

●散髪、ゆき皮膚科、東急、●妻は愛子の所に行って帰宅19:30●明後日の感話の資料プリント。何とかプリンターが持ちこたえた。●感話資料「人生を決定した本、塚本虎二著「放蕩息子とその父」の結論を次のように大変更した。

2月21日のブログ参照。

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 [疑問第4]・・・戻ってきた次男は怒った兄とその後うまくやっていけたか。どのような気持ちで生活したのか。兄とソリが合わずにまた家を出るはめになったのではないだろうか。兄に虐められても忍耐の人生を送れたか。兄も冷たい心を反省して弟と仲良くしたか。

48年目の「感想」・・・・兄が怒ったのは人間として当然、自然。このとき父親の心に次男は戻ってきたが、入れ違いに兄が去った。そこでこの父親は今度は怒って家に入ろうとしなかった兄のところに自ら家を出て行って「宥める」(28節)。「坊や」という言葉が父親の長男に対する愛を表している(31節)。この父親は一難去ってまた一難。

15:31 父が言った、『まあまあ、坊や、お前はいつもわたしと一しょにいるではないか。わたしの物はみんなお前のものだ。
15:32
だが、喜び祝わずにはおられないではないか。このお前の弟は死んでいたのに生きかえり、いなくなっていたのに見つかったのだから。』」

塚本訳エペ 2:1

2:1 君達も(私達と同様に)自分の咎と罪によって死んだ者であって

「わたしの物はみんなお前のものだ」という言葉からすると、「長男のお前には余計(2倍)に上げることになっているではないか。文句を言うな」という意味だろう。

口語訳 申  21:17

21:17 必ずその気にいらない者の産んだ子が長子であることを認め、自分の財産を分ける時には、これに二倍の分け前を与えなければならない。これは自分の力の初めであって、長子の特権を持っているからである。

●もしここで、この兄が父親の招きに素直に応じて宴会に加わったとしたらどうだろうか。父親が一番喜んだであろう。●しかし結局兄は「家に入ろうとしなかった」(28節)。ここが重要ポイントである。このことを暗示するのがマタイ2128-32にある。「二人の子の譬」である。この場合は長男の方が悔い改めたことになっている。いつの時代も兄弟間の個性や生き方の違いと争いはテーマである。人類の永遠の課題である。このマタイの「二人の子の譬」はルカの「放蕩息子の譬」の本質を解く鍵でもある。

塚本訳 マタ 21:28-32(二人の子の譬)

21:28 いったいあなた達はどう思うか。──ある人に二人の息子があった。長男の所に行って、『坊や、きょう葡萄畑に行って働いてくれ』と言うと、

21:29 長男は『いやです』と答えたが、あとで後悔して出かけた。

21:30 つぎに次男の所に行って同じように言うと、こちらは、『お父さん、承知しました』と答えたが、行かなかった。

21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう

21:32 そのわけは、(洗礼者)ヨハネが義の道を示しに来たのに、あなた達は彼を信ぜず、税金取りや遊女の方がかえって信じたからだ。しかしあなた達は(あの人たちが悔改めるのを)見たあとでも、後悔して彼を信じようとしなかった。

●つまり、神の救いは「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」。ここにこの「放蕩息子の譬」の本質がある。兄が怒って家に入らなかったことで兄は救いに漏れ、失敗人生の弟に救いが恩恵として与えられたというのである。●「放蕩息子の譬」はルカ15章1~3節により、パリサイ人や聖書学者に向けて語られたものではあるが、それ以上にその奥には神による「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」という土台があり、それがこの譬の基調になっている。さて、戻ってきた弟の残りの人生はどうであったか。それは次のルカ16113節から推測できる。塚本先生はその箇所「不埒な番頭の譬」(1618節)と「富の利用について」(16913節)は「救われた者の生涯」の「あるべき姿」がここに編集されているのだと非常に深い解説をしている。

塚本訳 ルカ 16:9-13

16:9 それでわたしもあなた達に言う、あなた達も(この番頭に見習い、今のうちにこの世の)不正な富を利用して、(天に)友人[神]をつくっておけ。そうすれば富がなくなる時、その友人が永遠の住居に迎えてくださるであろう。

16:10 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。

16:11 だから、もし(この世の)不正な富に忠実でなかったならば、だれが(天の)まことの富をあなた達にまかせようか。

16:12 もし他人のもの[この世のこと]に忠実でなかったならば、だれがあなた達のもの[天のもの]をあなた達に与えようか。

16:13 しかし(この世のことはみな準備のためであるから、それに心を奪われてはならない。)いかなる僕も(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。」

●この次男は前半生のような失敗人生に懲りておそらく今度は「金の奴隷」にはならず、お金を正しく利用して天国行きの準備を喜びのうちにしたのではあるまいか。●そのうちにこの父親も死んだであろうが、小事である「農業」(1625節)を通して兄さん(夫婦?)を喜んで助け、一生懸命働いたのではあるまいか。そして平安な死を迎え、今度は神により天国の「永遠の住居(すまい)169節)」に迎えられたのではあるまいか。

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春の歌、さくらさくら ++++++++ 所感

2008/02/28 20:21

080228(木)5時起床●3月2日の感話「人生を決定した本、塚本虎二著「放蕩息子とその父」」を推敲。放蕩息子の兄が父の招きで素直に家に入って宴会に連なれば父は大喜びなんだがなー。という結論にした。●その宴会こそエクレシア、コノニアの本質。天国の集会の与型。それは復活を信ずる者の喜びの集まり。●集会¥で配布する資料のプリント。プリンターが不調で困った●妻と冬のあきる野を散歩しながら、公民館での「ふれあいコンサート」。高橋京子先生のピアノ。メンデルスゾーンの「春の歌」。新條路子さんのマリンバで日本古謡の「さくらさくら」は良かった。「冬来たりなば春遠からじ」だ。 妻の所属する合唱団の西倉さんと初対面。

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冬のあきる野を妻と散歩。「ふれあいコンサート」の帰り。13:15 ごろ。

ピアノでメンデルスゾーンの「春の歌」、マリンバでの「さくらさくら」はよかった。

「冬来たりなば春遠からじ」だ。

→ more・・ ・
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「気の毒な人」に向かえ ++++++++ 所感

2008/02/27 08:26

080227(水)5時目覚め。●朝の囁き「気の毒な人に向かえ」●朝風呂で日経「私の履歴書」。日本サッカー協会会長の川渕三郎。華麗な交友録。こういう人生を世の人は「成功の人生」というのだが・・・・・大企業の幹部や、役所の高い地位に就くことも成功の人生というのだが・・・・・それはそれでよいのだが、もっとほかに人間として「真の成功」の道があるように思うのだがなー。負け惜しみではない。イソップの「あのブドウは酸っぱい」と言った狼(狐?)ではない。それだけでは真の喜びはないと思うのだ。●朝のひらめき「気の毒な人に向かえ」について聖書的に黙想。

塚本訳マタ 10:5-6
10:5 イエスはこの十二人に次のように命じて(伝道に)派遣された。──「(国を離れてはいけない。)異教人の所へ行くな、またサマリヤ人の町に入るな。
10:6 ただ、イスラエルの家のいなくなった羊(だけ)に行け

●ではいなくなった同朋の日本人とはだれだろう。金持ち、高学歴、地位の高い人、健康な人、遊びに夢中な若者などの所へは行くなという意味か。


塚本訳 マタ 15:22-24
15:22 すると、その地方生まれの一人のカナンの女が出てきて叫んだ、「主よ、ダビデのお子様よ、どうぞお慈悲を。娘がひどく悪鬼に苦しめられています。」
15:23 しかしイエスは一言も答えられなかった。弟子たちが来て、願って言った、「願いをかなえてやって、(早く)この女を追い払ってください。どなりながらついて来ますから。」
15:24 イエスは答えられた、「わたしはイスラエルの家のいなくなった羊だけにしか、遣わされていない。」

●冷たいイエス。肉の病気を治す実力がありながらそれを実行しない。しかし最後に女の「信仰の故に」病気をなおした。イエスは信仰なき慈善家福祉家ではなかった。信仰なき医者ではなっかった。人間に真に必要なことを念頭に置いていた。霊魂が死んでいる人、霊魂が失われている人、霊魂の病の人、真の死人,真に家なき人が念頭にあった。

塚本訳 マタ 9:36
9:36 そして『羊飼いのいない羊が』疲れきって、(地に)倒れている『ような』群衆を見られて、かわいそうに思われた。


塚本訳マコ 6:34
6:34 イエスは(舟から)あがって、多くの群衆が『羊飼のいない羊のように』しているのを見ると、かわいそうになり、多くのことを教え始められた。

●ここのところ岩波の佐藤研訳では次のようになっている。

マタイ9:36 佐藤研訳

 400936さて、彼は群集を見て、彼らに対して腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人(まきびと)のない羊のように疲れ果て、打ち棄てられていたからである。

マルコ6:34 佐藤研訳

410634さて、イエスは〔舟から〕出て来ると、多くの群衆を目にした。そこで、彼らに対して腸のちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人のない羊のようだったからである。そこで彼は彼らに対して、さまざまに教え始めた。

●人間は真に何を欲しているか。それは「罪の赦しによる永遠の命」。それを念頭に置かないで、地上の平和、肉の癒し、家屋の建設、慈善福祉、教会・集会の繁栄(実は勢力拡大の心。数が気になる人)などに気を使っているのは「盲人を導く盲人」だ。真の宝を隠している「禍の無益な僕」。

塚本訳 ヨハ 4:35
4:35 あなた達のあいだでは『刈入れの時の来るにはまだ四月』と言うではないか。しかしわたしは言う、目をあげて畑を見てごらん。(麦畑の間を押し寄せてくるあのスカルの人たちを!)畑は黄ばんで刈入れを待っている


塚本訳 マタ 9:37-38
9:37 そこで弟子たちに言われる、「刈入れは多いが、働き手は少ない
9:38 だから刈入れの主人に、刈入れのため(多くの)働き手を送られるよう、お願いしなさい。」


塚本訳 ルカ 10:2-3
10:2 彼らに言われた、「刈入れは多いが、働き手が少ない。だから刈入れの主人に、刈入れのため(多くの)働き手を送られるよう、お願いしなさい。
10:3 行け、いまわたしがあなた達を送り出すのは、羊を狼の中に入れるようなものだ

●伝道は「むなしい」「効果がない」。狼ばかりではないのか。(ルカ10:2)まてまて。神に使わされた「働き手」であるときにむなしくはないというのだが。・・・・・次の言葉は深い。

塚本訳 ヨハ 4:36-38
4:36 すでに、刈る人は報酬を受けている。すなわち永遠の命にいたる実を集めている。まく人も刈る人も、同時に喜ぶためである。
4:37 『まく人、刈る人、別の人』という諺は、そのままここに当てはまるからである。
4:38 (すなわち)わたしはあなた達をやって、あなた達が自分で苦労しなかったものを刈り取らせる。ほかの人々が苦労し、あなた達はその苦労(の実)を取り入れるのである。(あなた達はわたしがまいたものを、ただ取り入れるだけでよいのだ。)」

●そうか、イエスが涙をもって盾を播いたのだ。我々はそれを刈り取るだけというのか。

口語訳 詩  126:1-6
126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。
126:2 その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。
126:3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。
126:4 主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。
126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

●しかし、刈り入れの喜びは生きている内尾には味わえないこともあろう。ロングフェローの「矢と歌」の詩を思い出す。「いいんだいいんだ」生きているうちにはその結果が見られなくても。

「矢と歌」・ロングフェロー 南日恒太郎訳

空に 放ちし わが征矢(そや)は、
あわれ いずこに 落ちにけん。

疾(と)いきおいに まなこすら、

その行く末を 見ざリけり。


空に唱(とな)えし わが歌は、

あわれ いずこに 落ちにけん。

いかに目ざとき 人とても、

声の行くえの 見えんやは。


遠くそののち かしの木に、

矢はまだおれで とどまりぬ。

歌のもと末 ふたたびも、

友の心に あらわれぬ。


 

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ホンモノの福音を説く者 ++++++++ 所感

2008/02/26 07:21

080226(火)5時目覚め●朝のひらめき「本物の福音を説け」●朝風呂で30歳の時に書いた「無教会主義に導かれて」を読み直す。若気の至りのところもあるが、本質は変わってないのは感謝●塚本虎二先生がしきりに言う「私の説く福音は本物だ」に衝撃を受けたことが書いてある。イエスの話を聞いた当時の人はそこに「権威」があったことに「驚いた」とある。衝撃であったのだ。●私も残る生涯「本物の福音を説く者」でありたく思う。誰も聴かなくても!!●本物の福音はいかにして説かれるか。それは神がその人を痛めつけて説かせるのだ。教会なく、集会なく、耳を傾ける人なく、語学能力なくても説かねばならない。●次の言葉は塚本虎二先生の闘志満々の言葉。当時私はこの自信に強い衝撃を受けた。

「僕はなってないが、僕の伝える福音だけは正しい」(「友に語るP81)

「ある牧師さんが『塚本も会ってみれば案外いい人間だ』とおったそうだが、どうかこれを逆にして。『塚本という奴は碌でなしだが、あれの福音だけは本物だ』と言ってもらいたいものである」(「友に語る」P125)

「僕が言ったこと、した事は或いはみんな間違っているかもしれないが、僕の説いたきりすとの福音、これだけは、たとえ世界がひっくりかえっても間違っていない」(年若き友に」P33)

●塚本先生のこの自信は、内村先生の弟子だからというものではなく、また高度な語学力でもなく、先生の霊的な体験から来たものであると思う。それは①三四郎池での神とキリストと自分が光の中に一直線になった体験、②御夫人を失ったとき「神は愛なり」との声を来た時、③「お前は福音だけを説けばよいのだ」という声を聞いて、社会問題に手を染めない決心をしたとき。これは「愛国者の看板を下ろす」に書かれている④天国に行けば楽になれると思っていたら天から「ノー、天国でも今と同じだ。」という声が聞こえたということ。これは「天国論」になっている。・・・・などなど塚本虎二の信仰思想の決定的な根拠はことごとく霊的な体験がもとになっている。これが先生の「自信」になっているのであろう。●イエスも「これは私の愛する子」という声が天から聞こえたことが公生涯のスタートにあった。

塚本訳  マタ 3:16-17
3:16 イエスは洗礼を受けて、すぐ水から上がられた。すると、みるみる天が開けて、神の御霊が鳩のように自分の上に下って来るのを御覧になった。
3:17 するとその時、「これは(いま)わたしの『最愛の子、』『わたしの心にかなった』」と言う声が天から出た。

●不肖、私の場合は、「イエスの墓が空になった」ことを学んでいたときに急に胸が熱くなって、『有体的復活』を信じられるようになったことである。それで2000年間続く使徒伝承の連鎖が一瞬にして見えたことである。イエスの墓が空になっていたことは「罪の赦しと永遠の生命の実在の証拠」。・・・このことを公表したところ某氏から「まことに然りとの思いでございます」との応答があった。これが私に「自信」を持たせた。「これは真理だ。私の他にもこう考えている人がいる」と思った。これは1997年のことである。以後、「有体的復活」の信仰に「波長」の合う人が全国に出てきて、ガッツポーズであった。こういうのを「琴線に触れる」というのである。私の体験は私だけではないから「真理である」。たとえ世界がひっくり返っても「間違ってはいない」という自信が湧いたのであった。● 塚本先生の「自分はなってないが、自分が説く福音は間違っていない」という言葉は私を楽にする。高橋は人間ができてない。喧嘩っ早い。すぐ人を批判したり悪口を言う。愛がない。祈りがない。など私一個の人格には「自信がない」。もう残りの人生で「よくなる見込みはない」。絶望だ。●しかし私の「胸が熱くされた使徒伝承」は間違っていない。私に負わされたのはこの「使徒伝承」である。「耳ある者は聞け!。私を見てくれるな」「私に近づいてくれるな。がっかりする」。「つまずく」。「私のことを知ろうとしてくれるな」。

塚本訳 ヨハ 20:17
20:17 イエスが言われる、「わたしにすがりつくな。まだ父上の所に上っていないのだから。わたしの兄弟たち(弟子たち)の所に行って、『わたしは、わたしの父上、すなわちあなた達の父上、わたしの神、すなわちあなた達の神の所に上る』と言いなさい。」


新共同 ヨハ 20:17
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

●どういう人が人から信用されるか。それは神に憐れまれて救われた人。人間自身の人格的優秀さではない。そのことをパウロは次のように言う。

第一コリント7:25 前田訳

"460725","おとめのことについては、わたしは主の命を受けていません。わたしは主にあわれまれた信ずべきものとして意見をのべます

●こうは言うものの、信じてくれるかどうかは信じる人の如何になってくる。だから自分の語ることが信じてもらえなければ、さっさと逃げるしかない。無理は禁物である。

●今井館に行き、隣地の「建築計画のお知らせ」を見る●目黒区役所都市計画課に行き、目黒区の都市計画の変更を聞く。今井館の敷地は変更なし。●目黒区は高層マンションを建てられないように高さ制限を17メートルの抑えた。非常に厳しい。

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村野藤吾の名作、「千代田生命本社ビル」は目黒区が購入し、総合庁舎となった。名建築は売りに出されても壊されない。「芸術は永遠なり」。この建築の「音楽性!!」

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エクレシアとは何だろう ++++++++ 所感

2008/02/25 11:20

080225(月)2時目覚め、以後寝付けない。睡眠5時間弱。これでいいのだろか。不安●床の中で「エクレシアとは何だろう」「信者が集まるというのはどういうことなのか」を考える。●来月の感話「私の人生を決定した本。塚本虎二著『放蕩息子とその父』」を執筆。2月21日ブログを大変更●プリンターの調子が悪く、印刷が不安●某氏と電話でエクレシア論を交す。現在の無教会主義集会は『懐かしのメロディー』や『寮歌』のようなものばかり歌う雰囲気だから若い者が来たがらない」と言われた。至言。また「生命はいったん死ななければならない。エクレシアは生命そのものである。死ぬにしてもエクレシア論がなければならない」とも助言された。

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郵便局と図書館に行く夕方。讃美歌「み神のたまいし、この日も暮れけり」をくちづさむ

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あきる野図書館の夜景。なかなか良い設計だ。最近の建物は夜景を考えなければならない。岡田新一設計。

かって岡田新一氏の前で「ラスキン」の話をしたことがある。御親戚の方が、集会員であってその告別式の席上で。これも「縁」だ。

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泣くな。キリストは復活したのだ。 ++++++++ 所感

2008/02/24 06:57

080224(日)3時半目覚め、床のなかで黙想「泣くな。キリストは復活したのだ」●知人の「自殺」のニュース。神からいただいている身体を「自分で壊してはいけないよー」。それは器物破損の罪だ。身体は神からの預かりものだ●聖書には「自殺はいけない」とは書いてない。しかし創世記から黙示録まで全体がそれを示している。つまり「この世は神がおつくりになったものだ」と。●これは環境問題の姿勢にもつながる。

口語訳 創  1:21
1:21 神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた

●この「良し」というのは言語では「トーヴ」。その意味は「美しかった」という意味。つまり神がこの世を想像されたとき、それは「美しかった」というのである。だからその「美しいもの」を人間の欲望で破壊してはならないというのだ。●しかし自殺は「精神の病が原因」。だれも自分で自分を殺そうとは思わない。

●「泣くな、キリストは復活したのだ」について黙想したこと。

①[人間、この有限なるものとしての悩み悲しみ]

新改訳 創  6:3
6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。

新共同 創  17:17
17:17 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」

口語訳 詩  90:10
90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。

②[神に知られているという安心感]は真の救いではない。それはどんな宗教にもある安心立命。

塚本訳マタ 10:29-30
10:29 雀は二羽一アサリオン(三十円)で売っているではないか。しかしその一羽でも、あなた達の父上のお許しなしには地に落ちないのである。
10:30 ことにあなた達は、髪の毛までも一本一本数えられている。

塚本訳 マタ 6:27-28
6:27 (だいいち、)あなた達のうちのだれかが、心配して寿命を一寸でも延ばすことが出来るのか。
6:28 また、なぜ着物のことを心配するのか、野の花の育つのを、よく見てごらん、苦労をせず、紡ぐこともしない。

③[復活、復活、有体的復のみが涙を拭う]

新共同 黙  5:5
5:5 すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」

文語訳  ヨハ 11:25
11:25 イエス言ひ給ふ『我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。

新共同 ロマ 6:9
6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。

新共同 Ⅰコリ15:14
15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。

新共同 Ⅰコリ15:54
15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。

●「春一番」を受けて妻と集会に向かう●集会は長島、土肥、横田●山本政則夫妻から事務引き継ぎの慰労で私たち夫妻に昼食の御馳走をしてくださった。信濃町駅前鮨屋。●若かったからと言って約30年間は長すぎた。●これを機会に集会のことをいろいろ相談した。私自身は「聖書勉強一本で行く」と宣言した●どこの教会も無教会集会も老令化現象。我々の集会だけではない。●ヨーロッパでも同じらしい。しかしそれとはまったく別に若い人の集会が誕生しつつある。韓国の教会も盛んらしい●妻はその後合唱の練習。パレストリーナ「ミサ・プレヴィス」とフォーレ「レクイエム」。

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集会の帰途、春一番の砂ぼこり。ヨブがつむじ風の中から神の声を聞いた場面を思い出した。あきる野市 14:57

口語訳 ヨブ 40:6-7
40:6 主はまたつむじ風の中からヨブに答えられた
40:7 「あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。

●妻が合唱団員から借りてきたフォーレ「レクイエム」のレコード!!を鑑賞。ルイフレモ―指揮、モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団、フィリップ・カイヤール合唱団


 

 

 

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「むなしい」と感じるとき ++++++++ 所感

2008/02/23 07:35

080223(土)3時半目覚め。●朝の黙想「むなしいということ」。寝床でメモ●朝風呂で「前田護郎選集第2巻」。新井明氏の解説を読む。素晴らしい。他の巻よりかなり高いがそれだけのことはある●日経「プラスワン」。シュークリームのランキング。第一位はサダハル・アオキ・パリ、伊勢丹新宿。人気も値段もダントツ。いいものは高くても購入されるのが市場原理。なぜか。それはホンモノだから。●本もシュークリームもホンモノを買わなければならない。人生は短い●キリスト教の教派は色々あるが、ホンモノに接しなければならない。ニセモノに接すると時間の無駄ばかりでなく「命を落とす」●「むなしい」ということを考える。長い人生にはどうしようもない「むなしいという感情」に襲われることがある。それはどういう時か。①仕事が暇なとき、②いやな人間と仕事をしなければならないとき③これこそ幸福と思っていたものを手に入れたとき。(お金、マイホーム、)●仕事も、付き合いも、金儲け、勤務先も、家庭生活も、結婚生活も、学問も何もかも嫌になって「むなしく」感ずる。そんな時はどうすればよいか●そんな時の一般的解決は「刺激」を求めてその日を紛らわす。酒、遊び、スポーツ、ゴルフ、観劇、テレビ、ダンス、賭け事。・・・・・・しかし満たされない●私の場合はそのむなしさからどのように脱却できたか。はじめ「建築」という仕事それ自身がどうしても好きになれなかった。しかし35歳の時「尊敬し、愛する人」から住宅の設計を依頼された。それは身に余る仕事であったので無我夢中になった。「生きがいやむなしさ」などを考える暇がないほど毎日が忙しくなった。●これで悟った。仕事というのはこれを通して愛する人に仕えることができるとき、それが生きがいになるということを。愛する人が出現しない限り仕事はいつまでもむなしい。報酬はそれにくっついてくる。●人生の旅で、主にある愛する人に邂逅できたときは「むなしさ」は消えた。この世限りの建築の仕事の意味も見えてきた。●むなしさからの脱出は「命」との出会いである。命とは人間の命ではなく、神の命である。讃美歌353番である。

 

讃美歌353番 

 

1. いずみ と あふるる いのち の いのち よ,

   あさひ と かがやく ひかり の ひかりよ.

 2. この よ の あたうる さち より のがれて,

   こよなき きみ へ と わが み は あこがる.

 3. きみ こそ とこよ に かわらぬ よろこび,

   くめども つきせぬ めぐみ の もと なれ.

 4. みかお を あおげば, うれい は さりゆき,

   みうで に たよれば, ちから は わき いず.

 5. しゅ いえす よ, たえせず わが み に ともない,

   ひかり の みち を ば あゆませ たまえ や.

●問題は神をも人をも愛せなくなってしまうときである。●しかし神は信仰を捨てたものをも「もう一度」引き寄せる。人間には絶望的に見えるが、神は絶望しない。一昨日21日のブログ、大島健夫氏の話参照。●妻は知人の病気見舞に新宿の病院に行く。春一番が強かったという。

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郵便局に「藤林本」の最終原稿をEXPACKで出しに行く。難産であった。

一段落。夕日、春一番の強い風が吹いていた。寒い、寒い。17:21

讃美歌43番を歌う。

 讃美歌43番

 

 

 

 

 

1. みかみ の たまいし この ひ も くれけり,

   いざ や けさ の ごと みめぐみ を たたえん.

 2. ひかり に むかいて めぐる ち と とも に,

   ち に ある みたみ は みわざ に いそしむ.

 3. くにぐに, しまじま, しずか に あけゆき,

   いのり は もださず, ほめうた は つきず.

 4. われら に わかれて かくれし ひかげ わ,

   にし に すむ とも お みわざ に ぞ さます.

 5. おこりて ほろぶる よ の くに に かわり,

   ときわ に さかゆる みくに ぞ とうとき.

 


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親しい人にも話せないこと ++++++++ 所感

2008/02/22 07:45

080222(金)5時起床●朝の黙想「親しい人にも話せないこと」●長々と話し終わったあとに、「こういうことは教会では話せないことなのです。黙っていてください」という人がときどきいる●日本のプロテスタント教会や集会は何をやっているのだ!!。●教会や集会は「人に話せないことを聴いて受けいれて祈り会うのがその本質ではないのか●現代のプロテスタント教会や集会は精神病者と家庭崩壊者を嫌って受け入れない。何をやっているのだ!!●市民サークルと同じような知的遊びの社交場となり下がって堕落している。「滅びよ!」

新共同 黙  3:14-17
3:14 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
3:15 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
3:16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている
3:17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。

●私の若き日からの友人は残念にも精神の病になり最後は自殺した。彼がまだ元気な頃にこう言った「あの集会(東京聖書読者会)はカッコイイ仕事や一流の勤務先にいないと出席できない」と。彼の死は私の十字架を負ったのだ。すまない。私が間違っていた。●橋本次長と懇談●顧問の年度契約に押印。これが最後。●14:00 積算協会コストスクール成績判定会議。内田祥哉、鵜沢昌和先生がご出席。生徒の中に聴覚障害者がいて成績がよいことを聞いて感動した。●孫におもちゃを購入したが、中国製で色がどぎつく妻が「なめると危ない」という。中国製はこの分野でも評判が悪い。●前田護郎選集第2巻が到着。新井明氏の解説がある

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人生を決定した本 ++++++++ 所感

2008/02/21 10:04

080220(木)5時半起床●朝風呂で黙想「48年目の『放蕩息子の譬」●シドニーのO兄家の経済問題に燭光が見えてきて感謝。祈りは聴かれる。人生は経済問題が見えない土台。●集会のF氏は月収5万円。しかしいつもニコニコ。「高橋君。パンはなくとも人は生きられるというのは本当だよ」と私を叱ってくださる。 マタイ4:3-4に対する百万冊の聖書注解よりも強力。

塚本訳  マタ 4:3-4
4:3 すると誘惑する者[悪魔]が進み寄って言った、「神の子なら、(そんなにひもじい思いをせずとも、)そこらの石ころに、パンになれと命令したらどうです。」
4:4 しかし答えられた「『パンがなくとも人は生きられる。(もしなければ、)神はそのお口から出る言葉のひとつびとつで(パンを造って、)人を生かしてくださる』と(聖書に)書いてある。」

●ここのところ聖書協会口語訳は次のようになっている。

口語訳 マタ 4:3-4
4:3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

●ふぬけの翻訳。この翻訳だと共産主義者から、「でもパンも必要だ」と逆襲される●この聖書協会口語訳は翻訳者たちが箱根の温泉で会議をした。●かって大島智夫先生は「聖書協会口語訳は温泉につかりながら訳したものだ!」と喝破したことがある。この翻訳では貧困者に通じない。なぜか。精神論だからである●独立伝道者藤沢武義氏が生涯で一番困ったことの話を伺ったことがある。独立伝道のために定職がなくて食べるに困ったとき、(多分いつものように)夫人に「なんとかなる」と言った。すると幼い子供を抱えた夫人は「では今ここにすぐ食べ物を出してみてください」と迫られた。しかし藤沢家は不思議に経済的に支えられた。ニワトリを飼ってその卵を子供が売り歩くこともした綱渡り人生。私は現在その家のお子様二人と知り合いである。すばらしくよく「生きて来られた」のである。神は正しいものの家を見捨てない。●もう一人。独立伝道者のI氏は、やはり困窮で夫人が廃品回収をやって生計を支えた。その子息は医学を志し、今は脳外科の医者。その子息(医師)の結婚式に呼ばれたとき、伝道者のI氏は語った。「私は息子に父親としての役割を果たせなかったが、息子は父としてこの私を立てて何かと相談をかけてくれた」。私はこれを聞いて胸にぐっときた。神は正しく生きる者の家の子供をも見捨てないで育てる。

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人生を決定した本、塚本虎二著『放蕩息子とその父』

――その疑問と48年目の感話――

            東京聖書読者会 2008.3.2 高橋照男

1・「放蕩息子の譬」との出会いは人生を変える。

塚本虎二先生が、ルカ15章の「放蕩息子の譬」に出会ったのは1905(明治38)年、先生20歳の時であった。そのとき先生は「何とは知らず、とめどなく涙が流れた。神様がありそうに思えてきた。」とある。「聖書知識2461950(昭和20)年10月」その塚本先生自身の「放蕩息子の譬」の注解は前後2回行われた。第1回目は1942(昭和17)年7月~1943(昭和18)年8月、聖書知識誌に掲載された。塚本先生57歳。これは副題として「初心の人たちに語りしもの」とあるのでその時期と場所を探索中であるが未だ不明。ライブ版なので命がある。これは後に単行本「放蕩息子とその父」《1949(昭和24)年初版刊》として上梓された。第2回目は同じく聖書知識誌に1956(昭和31)年4月~1956(昭和3112月に掲載された。第1回目が講演内容であったのに対し、これは本格的な聖書注解。塚本先生71歳。塚本先生はその聖書注解の水準の高さと信仰の深さにおいて当時の群を抜いていたことは万人の認めるところであるが、この注解もその評判に値するものである。●私は1959(昭和34)年16歳の時に、この頃すでに単行本になっていた上記「放蕩息子とその父」《1949(昭和24)年初版刊)に出会った。この中の特に次の2つの箇所が私の人生を決定した。まず第3章の最後「人生は神に戻ることを以て始まり、また終わる」。これが人生観を決定。次に第7章「救われた人の生涯」(ルカ16章、「不埒な番頭の譬」「富の利用について」の解説)が職業観を決定、これでキリスト教を職業としないで済んだ。他の出会いの一例。1986(昭和61)年の出来事。大島智夫先生(医師・海老名集会)のすぐ上の兄の大島武夫氏はシベリア抑留の過酷な生活(栄養失調の上での重労働)で「神がおられるなら、どうしてこれほどの国家悪と人間の悪徳を見過ごしにされるのだろうかとの深刻な疑問に落ち込み」、信仰も聖書も捨て、人間がすっかり変わってしまって帰国。最晩年に肺癌になって余命数カ月の時、大島智夫先生は「兄さん!・・・・正常な思考のできる僅かの時間に神の審判の前に立つ用意をしなさい」と迫った。そして「それにはこの本を読むのが最善です」と塚本虎二著「放蕩息子とその父」を読むことを薦められた。その数日後に大島智夫先生のもとに武夫氏から手紙が届いた。「塚本虎二の最劣等の弟子として、主のいさおしのゆえに天国に入れていただきたい」という内容。その後すぐに癌が脳に転移、意識を失って最期を迎えたのは間もなくのことであった。(大島智夫著「その日より、その日まで」P9091185)●このように「放蕩息子の譬」はそれ自身がもつ真理の力で多くの人間に深い影響を与える。生きとし生ける人間のすべてに「神の愛」、「救いの道」、そして「人生」を教える。これが「放蕩息子の譬」はイエスの譬の中でも最高の座を占めるものと言われる所以である。わずか22節の短さである。

 

2・放蕩息子の譬

      1963(昭和38)年岩波文庫、塚本虎二「福音書」全文 

        初出1956(昭和31)年 口語新約聖書  

       (岩波文庫版は142532節で若干異なる。)

塚本訳 ルカ 15:11-32
15:11
また話された、「ある人に二人の息子があった。

15:12
『お父さん、財産の分け前を下さい』と弟が父に言った。父は身代を二人に分けてやった。

15:13
幾日もたたないうちに、弟は(分け前)全部をまとめて(金にかえ、)遠い国に行き、そこで放蕩に財産をまき散らした。

15:14
すべてを使いはたしたとき、その国にひどい飢饉があって、食べるにも困り出した。

15:15
そこでその国のある人のところに行ってすがりつくと、畑にやって、豚を飼わせた。

15:16
彼はせめて豚の食う蝗豆で腹をふくらしたいと思ったが、(それすら)呉れようとする人はなかった。

15:17
ここで(はじめて)本心に立ち返って言った。──お父さんのところでは、あんなに大勢の雇人に食べ物があり余っているのに、(息子の)このわたしは、ここで飢え死にしようとしている。・・・・

15:18
よし、お父さんの所にかえろう、そしてこう言おう、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました。
15:19
もうあなたの息子と言われる資格はありません。どうか雇人なみにしてください』と。

15:20
そして立ってその父の所へ出かけた。ところが、まだ遠く離れているのに、父は見つけて不憫に思い、駈けよって首に抱きついて接吻した。

15:21
息子は父に言った、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました。もうあなたの息子と言われる資格はありません。・・・・』

15:22
しかし父は(皆まで聞かず)召使たちに言った、『急いで、一番上等の着物をもって来て着せなさい。手に指輪を、足にお靴をはかせなさい。

15:23
それから肥えた小牛を引いてきて料理しなさい。みんなで食べてお祝いをしようではないか。

15:24
このわたしの息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』そこで祝賀会が始まった。

15:25
兄は畑にいたが、家の近くに来ると鳴り物や踊りの音が聞えるので、

15:26
ひとりの下男を呼んで、あれはいったい何ごとかとたずねた。

15:27
下男が言った、『弟さんがかえってこられました。無事に取り戻したというので、お父様が肥えた小牛を御馳走されたのです。』

15:28
兄はおこって、家に入ろうとしなかった。父が出てきていろいろ宥めると、

15:29
父に答えた、『わたしは何年も何年もあなたに仕え、一度としてお言い付けにそむいたことはないのに、わたしには友人と楽しむために、(小牛どころか)山羊一匹下さったことがただの一度もないではありませんか。

15:30
ところがあのあなたの息子、きたない女どもと一しょに、あなたの身代をくらいつぶしたあれがかえって来ると、肥えた小牛を御馳走されるのはどういうわけですか。』

15:31
父が言った、『まあまあ、坊や、お前はいつもわたしと一しょにいるではないか。わたしの物はみんなお前のものだ。

15:32
だが、喜び祝わずにはおられないではないか。このお前の弟は死んでいたのに生きかえり、いなくなっていたのに見つかったのだから。』」

 

3・「放蕩息子の譬」に関して抱いた疑問と人生48年目の「感話」

[疑問第1]・・・息子はなぜ父親に対して「罪を犯した」という気持ちになったのか。父親の金を盗んだわけではなく「正式」に財産分与を受けたのではないのか。●なぜここで「天の神と肉の父」との両方の名前が出てくるのか。

15:18 よし、お父さんの所にかえろう、そしてこう言おう、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました
15:19
もうあなたの息子と言われる資格はありません。どうか雇人なみにしてください』と。

48年目の「感話」。・・・・この息子は、人生が行き詰まった時に父親の真面目な生活と自分の自堕落な生活(13節)を否応なしに比較するようになって後ろめたさが湧いた。父親の真面目さが自分の姿を写す鏡になってしまった。神を信ずる真面目なる生活が、周囲への「無言の説教」になる。口で説教しなくてもよい。福音を口で説かなくてよい。相手に神の霊が働いて神ご自身が説教する。そこに効果がある。人間は人に対するなんとはなしの「後ろめたさ」を解決するために、心の安らぎを求めて自然に心が神に向く。ではなぜ父親に罪を犯したとまで言うのか。正式にもらった金ではないのかしかし何か倫理的な後ろめたさ、良心の痛みがあったらしい単なる商売の失敗なら父親への罪ではないはずだ。ヒルティは神を信じない者も「倫理的世界秩序」という厳然たる事実に支配されているという。これが人類全体に共通である良心の痛みという自然法である。●息子がこの時に父親だけでなく神にも目が向いたことは不思議なこと。超自然的な奇蹟、恩恵以外の何物でもない。もしこの父親が自堕落な人間であったら、この息子は「親父だって俺と同じことをやっている」と思って良心の痛みは感じかったであろう。罪の自覚が生じなかったであろう。

塚本訳 ルカ 18:13

18:13 しかし税金取りは(罪に責められ、)遠く(うしろ)の方に立ったまま、目を天に向け(て祈りをささげ)ようともせず、ただ胸をうって、『神様、どうぞこの罪人のわたしをお赦しください』と言った。

 

塚本訳 Ⅰコリ15:9

15:9 ほんとうにわたしは、使徒の中で一番小さい者である、いや、わたしは使徒と言われる値打もない、神の集会を迫害したからである。

この息子は「きたない女(30節)」に引っ掛かって「放蕩に財産をまき散らし(13節)」、泣きっ面に蜂で「ひどい飢饉があって、食べるにも困り出し」(14節)、仕方なく「その国のある人のところに行ってすがりつくと、」畑にやられて、豚を飼うように冷遇された(15節)。しかし腹が減り「せめて豚の食う蝗豆(いなごまめ)で腹をふくらしたいと思ったがそれすらも呉れようとする人はなかった」(16節)とはずいぶん惨めな人生になったものだ。●蝗豆(いなごまめ)は一昨年のイスラエル旅行の折、ガリラヤ湖のほとりで見たが、ソラマメのようであった。見るからに美味しくなさそうであった。日本でいう「牛馬の飼料」というものだったのだろう。気の毒。

落ちぶれて袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知らるる。(内村鑑三「キリスト信徒の慰め」第五章「貧にせまりし時」・・・これは九州地方の民謡)

 ●人生「さめざめと泣く時」というのはその人の心がようやく神に向く時。讃美歌331番である。多くの場合、それは人生の長旅の苦労の果て。ずたずたボロボロ人生の果て。

讃美歌331番

1. 主にのみ十字架を 負わせまつり、

   われ知らずがおに あるべきかは、

.

 ●人は人生のゴタゴタや失敗を通して絶対絶命になり、「なりふりかまわず」人間にすがりつく(14-16節)。しかし大抵は冷たくされる。その時の「悔し涙、悔いの涙、さめざめと流す涙」が尊いのだ。なぜか。心が砕けるから。その砕けの隙間から神の光が射してくる。人生、この時にようやく目が覚める。尊い瞬間。しかしそれには回り道の長旅が必要。親としては神を信じて「かわいい者には旅をさせる」ことは信仰的試練●失敗人生の者に対して周囲は軽蔑して避けるが、神は避けないハンカチなど持ってなくてそばにあるティッシュで「鼻水と涙」を拭う人生。これが尊い。私はこの48年の間にはそういう方々に遭遇させられたことがある。それで良いのだ。それで良いのだ。それが尊いことなのだ。人生の失敗はその尊い瞬間を迎えるためにあるのだ。●人生失敗のとき、「人には冷たくされるが」「神はそういう人をこそ喜んで迎えてくださる」。讃美歌512番2節である。

讃美歌512番

 2. 身のわずらいも  世のうれいも

   われとともにわかちつつ,

   いざなうものの ふかきたくみ  

やぶりたもううれしさよ.

   ひとは棄つれど きみはすてず

   みめぐみはいやまさら,

   きみは谷のゆり, あしたのほし、

   うつし世にたぐいもなし

新改訳 詩  23:4
23:4
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

●父の祈りは、むなしくは終わらなかった。ロングフェローの「The Arrow and the Song」を思う。父母の祈りは息子の胸に突き刺さっていたのだ。息子は気がつかなかったが。・・・●信仰者の世界では「親の祈りと冷や酒は後になって効いてくる」が真理。

 [疑問第2]・・・この譬話には聖書の創世記から黙示録まで、キリストの福音全部が含まれていると言われているが、あのパウロが必死になって説く「十字架による贖罪」の説明と解説が出てこないのはなぜか。

15:20 そして立ってその父の所へ出かけた。ところが、まだ遠く離れているのに、父は見つけて不憫に思い、駈けよって首に抱きついて接吻した。


15:21

 

48年目の「感話」。・・・罪を赦す父親は子供に「赦す」という恩着せがましいことを言わない。皆まで聞かず22節)ただ、「もういい、もういい」と言って抱きしめる。組織教会は「罪の告白」と「正統信仰の告白」を皆完全に聞かなければ「罪の赦し」の印としての「洗礼」を授けない。そして求道者は洗礼を受けて初めてその組織教会の「正式信者」となれる。「会員となれる」。これが組織としての教会主義のレゾンデートル。こういう習慣は組織の維持継続からすればやむを得ないことなのだしかしこの父は息子の悔い改め、謝罪、懺悔、罪の告白(信仰告白)を「皆まで聞かず」に赦した(22節)息子のみすぼらしい姿を見てかわいそうになったのだ。父は見つけて不憫に思い、駈けよって首に抱きついて接吻した(20節)。救いが先で信仰はあと。まず神のDO、アクションがある。それで人は救われる。その結果として人間に信仰が生まれる。父は家を飛び出して行って息子の首に抱きついた。ここに神のキリストを通じての十字架の心がある。このことと、パウロの思想は内的に一致する。イエスは神の心を実行した。否、神に無理やり「神の心」を実行させられたのだ。これが解ったパウロはその神の愛を「説明した」。●神はイエスを通して十字架を「実行」し、その意味を悟ったパウロはその神の心を「説明・解説」した。「実行」と「説明・解説」とは異なる。だからイエス自身は「十字架の意味」の説明と解説をしなかった。恩着せがましいことは言わなかった。親心である。●親が子供に食べ物を与えるときはその意味を説明しない。ただ「急いで」(22節)実行する。気の毒に思う心の方が大きく、説明や解説をしている暇などない。

マルコ634-37 佐藤研訳(岩波新約聖書Ⅰ)

410634さて、イエスは〔舟から〕出て来ると、多くの群衆を目にした。そこで、彼らに対して腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人のない羊のようだったからである。そこで彼は彼らに対して、さまざまに教え始めた。

410635さて、すでに時も遅くなった頃、彼の弟子たちが彼のもとにやって来て言った、「ここは荒涼としたところで、もはや時も遅くなっています。

410636彼らを解散させて下さい、そうすれば彼らはまわりの里や村々に行き、何か自分たちの食べ物を買ってくるでしよう」。

410637するとイエスは、彼らに答えて言った、「あなたたちの方で、彼らに食べ物を与えるのだ」。そこで彼らは彼に言う、「私たちの方が〔わざわざ〕行って、二百デナリオンも出してパンを買い、彼らに食べさせるというのですか」。

塚本訳  ロマ 5:8
5:8
しかしわたし達が(義人でも善人でもなく、)まだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。このことによって、神はわたし達に対する愛をお示しになったのである。

「放蕩息子の譬」を描いた名画の数々は、その父の顔にも手にも深い皺(しわ)がある。レンブラント「放蕩息子の帰郷」、ユージューヌ・ビュルナン「放蕩息子」なお、エルンスト・バルラハの傑作の彫刻「再会」(1926)は、疑うトマスのことを彫ったものだが、回心したトマスを抱きかかえるイエスの右の手には十字架の釘のあとがある。トマスはそれを知らない。わたしはこのトマスが「放蕩息子」のように見える。イエスは右の手のすることを左の手に知らせるなと言った。2006.4.28に東京藝術大学美術館でこの彫刻を鑑賞したとき、三度戻ってその釘後を見た。●この父親は次男のためにかなり出費(出血、苦労)したのだろうがそれを恩着せがましく言わない。それが親心。だからこの譬にはパウロのような「十字架の言葉」(それは説明あるいは解説)はない。

塚本訳マタ 6:3
6:3
あなたは施しをするときに、
右の手のすることを左に悟られてはならない

塚本訳 マタ 20:28

20:28 人の子(わたし)が来たのも仕えさせるためではない。仕えるため、多くの人のあがない金としてその命を与えるためである。

 [疑問第3]・・・この話の中に「母親」が出てこないのはなぜか。

48年目の「感話」・・・・父親はまだ息子が遠くにいるのを見つけて家を飛び出すとき、もし妻がいたとしたらら「オーイ、カーサン。息子が戻ってきたぞー」と奥の部屋に一声かけてから飛び出したに違いない。その場面がない。なぜか。わからない。以下は私の想像。母は息子の連絡や帰りを待ちつつ先に逝ったのではあるまいか。そして死ぬ時に次のように言ったのではないだろうか。「もしあの子が帰ってきたら新しい着物をタンスのここにしまっておきますから着せてくださいよ。決して怒らないでくださいよ。怒鳴らないでくださいよ。あんたは気が短いんだから」。そして窓の外に息子が見えたときその父は「オーイ、カーサン。息子が戻ってきたぞー」と言って奥の部屋に駆け込むと、そこには妻の笑顔の「遺影」があるのみ。父親はつぶやく「そーか、モーいなかったんだ」。そして妻の遺影から「怒らないでくださいよ」と言う声が聞こえて来た。その声を胸に抱いて息子に抱きつく。これ母親の姿ではないのか。普通、父親としてはそんなことはみっともなくてできない。せめて握手ぐらいだ。母の愛は死んでも生きていた。そして妻がいないので仕方なく召使に命じて(22節)妻が生前に用意しておいた上等な(洗濯しておいた、とも読めないか?)着物を着せた。以上は私の想像。●親たるもの、一度は子供の一人や二人に「家出」されるという経験を持たないとこの「放蕩息子の譬」の深いところは理解できない。共感できない。

15:22 しかし父は(皆まで聞かず)召使たちに言った、『急いで、一番上等の着物をもって来て着せなさい。手に指輪を、足にお靴をはかせなさい。

塚本訳マタ 22:11-13

22:11 王は客を見ようとして入ってきたが、そこに礼服を着けていない者が一人いるのを見て

22:12 その人に言った、『君、礼服も着ずに、なんでここに入ってきたのか。』その人が黙っていると、

22:13 王は家来たちに言った、『あの者の手足を縛って、外の真暗闇に放り出せ。そこでわめき、歯ぎしりするであろう。』

 

塚本訳 エペ 4:22-24

4:22 然り、君達は情欲に欺かれて破滅すべき、以前の生活に属する旧い人間を脱ぎ棄て、

4:23 君達の霊も心も(すっかり)新しくされ

4:24 真理の義と聖とにより神に肖(あやか)って創造られた新しい人間を着るべき(ことを教えられたの)である

 

讃美歌510番

                   

1. まぼろしの影を追いて

   うき世にさまよい、

   うつろ花にさそわれゆく

   汝(な)が身のはかなさ

  (おりかえし)

   春は軒の雨、秋は庭の露

   母はなみだ乾くまなく、

   祈ると知らずや、.

 

 4. 汝(な)がためにいのる母の

   いつまで世にあら

   とわに悔ゆる日のこぬまに、

   とく神にかえれ

 

●塚本先生がある夫人に「十字架は義として見るよりも愛として見た方がよく理解できる」と語られたそうだ。これは「特ダネ」として私の耳に残っていていつまでも消えない

 [疑問第4]・・・戻ってきた次男は怒った兄とその後うまくやっていけたか。どのような気持ちで生活したのか。兄とソリが合わずにまた家を出るはめになったのではないだろうか。兄に虐められても忍耐の人生を送れたか。兄も冷たい心を反省して弟と仲良くしたか。

48年目の「感想」・・・・兄が怒ったのは人間として当然、自然。このとき父親の心に次男は戻ってきたが、入れ違いに兄が去った。そこでこの父親は今度は怒って家に入ろうとしなかった兄のところに自ら家を出て行って「宥める」(28節)。「坊や」という言葉が父親の長男に対する愛を表している(31節)。この父親は一難去ってまた一難。

15:31 父が言った、『まあまあ、坊や、お前はいつもわたしと一しょにいるではないか。わたしの物はみんなお前のものだ。
15:32
だが、喜び祝わずにはおられないではないか。このお前の弟は死んでいたのに生きかえり、いなくなっていたのに見つかったのだから。』」

塚本訳エペ 2:1

2:1 君達も(私達と同様に)自分の咎と罪によって死んだ者であって

「わたしの物はみんなお前のものだ」という言葉からすると、「長男のお前には余計(2倍)に上げることになっているではないか。文句を言うな」という意味だろう。

口語訳 申  21:17

21:17 必ずその気にいらない者の産んだ子が長子であることを認め、自分の財産を分ける時には、これに二倍の分け前を与えなければならない。これは自分の力の初めであって、長子の特権を持っているからである。

●もしここで、この兄が父親の招きに素直に応じて宴会に加わったとしたらどうだろうか。父親が一番喜んだであろう。●しかし結局兄は「家に入ろうとしなかった」(28節)。ここが重要ポイントである。このことを暗示するのがマタイ2128-32にある。「二人の子の譬」である。この場合は長男の方が悔い改めたことになっている。いつの時代も兄弟間の個性や生き方の違いと争いはテーマである。人類の永遠の課題である。このマタイの「二人の子の譬」はルカの「放蕩息子の譬」の本質を解く鍵でもある。

塚本訳 マタ 21:28-32(二人の子の譬)

21:28 いったいあなた達はどう思うか。──ある人に二人の息子があった。長男の所に行って、『坊や、きょう葡萄畑に行って働いてくれ』と言うと、

21:29 長男は『いやです』と答えたが、あとで後悔して出かけた。

21:30 つぎに次男の所に行って同じように言うと、こちらは、『お父さん、承知しました』と答えたが、行かなかった。

21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう

21:32 そのわけは、(洗礼者)ヨハネが義の道を示しに来たのに、あなた達は彼を信ぜず、税金取りや遊女の方がかえって信じたからだ。しかしあなた達は(あの人たちが悔改めるのを)見たあとでも、後悔して彼を信じようとしなかった。

●つまり、神の救いは「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」。ここにこの「放蕩息子の譬」の本質がある。兄が怒って家に入らなかったことで兄は救いに漏れ、失敗人生の弟に救いが恩恵として与えられたというのである。●「放蕩息子の譬」はルカ15章1~3節により、パリサイ人や聖書学者に向けて語られたものではあるが、それ以上にその奥には神による「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」という土台があり、それがこの譬の基調になっている。さて、戻ってきた弟の残りの人生はどうであったか。それは次のルカ16113節から推測できる。塚本先生はその箇所「不埒な番頭の譬」(1618節)と「富の利用について」(16913節)は「救われた者の生涯」の「あるべき姿」がここに編集されているのだと非常に深い解説をしている。

塚本訳 ルカ 16:9-13

16:9 それでわたしもあなた達に言う、あなた達も(この番頭に見習い、今のうちにこの世の)不正な富を利用して、(天に)友人[神]をつくっておけ。そうすれば富がなくなる時、その友人が永遠の住居に迎えてくださるであろう。

16:10 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。

16:11 だから、もし(この世の)不正な富に忠実でなかったならば、だれが(天の)まことの富をあなた達にまかせようか。

16:12 もし他人のもの[この世のこと]に忠実でなかったならば、だれがあなた達のもの[天のもの]をあなた達に与えようか。

16:13 しかし(この世のことはみな準備のためであるから、それに心を奪われてはならない。)いかなる僕も(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。」

●この次男は前半生のような失敗人生に懲りておそらくその後は「金の奴隷」にはならず、お金を正しく利用して天国行きの準備を喜びのうちにしたのではあるまいか。●そのうちにこの父親も死んだであろうが、小事である「農業」(1610節)を通して兄さんを喜んで助け、一所懸命働いたのではあるまいか。そして平安な死を迎え、今度は神により天国の「永遠の住居(すまい)169節)」に迎えられたのだろう。これが大成功の人生だ。

 

 

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今日は2月21日。17:09 ちょうど我が家の上に日が沈む。歯医者の帰り。

今日は「放蕩息子の譬」をまとめることができて感謝。讃美歌535番3節だ。

讃美歌535

1. きょう  を も おくりぬ, しゅ に つかえて,

   よ の ひかげ うつれど も,

   あまつ いのち ひ に ひ に

   ちかく ぞ ある

 (Refrain)

   みむね かしこみ

   いそしめる み に,

   いこい を つぐる

   あした の かね.

 2. きょ う を も おくりぬ, しゅ に つかえて,

   みめぐみ を よ に つたえ,

   みな の さかえ かたる は

   たのしき かな.

 3. いか に さち なる わが つとめ や.

   なやみ に も のぞみ あり,

   しゅ よ, みむね に かなわば,

   あす も つくさん.

●妻は、ウィークデーの集いのお知らせの「発送作業」で 今井館へ。19;00帰宅。



 

 

 

 

 

 

 

息子は父に言った、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました。もうあなたの息子と言われる資格はありません。……

15:22
しかし父は(皆まで聞かず)召使たちに言った、『急いで、一番上等の着物をもって来て着せなさい。手に指輪を、足にお靴をはかせなさい。

15:23
それから肥えた小牛を引いてきて料理しなさい。みんなで食べてお祝いをしようではないか。

15:24
このわたしの息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』そこで祝賀会が始まった。
 
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みじめな人生になってしまった人へ ++++++++ 所感

2008/02/20 07:46

080220(水)5時半起床●朝の黙想「惨めな人生になってしまった人に行け」「効き目のある祈りをせよ」「有体的復活を説け」●昨日から塚本虎二の「放蕩息子の譬」に関する文献を整理。なぜか。塚本虎二の解説で私の人生は決したからである。特にルカ16章1-13の「不埒な番頭の譬」「富の利用について」は「救われた人の生涯」を説いているという解説で私の人生は決した。「一見キリスト教とは関係のないような(つまらない小さな)仕事にも神の前に深い意味があること」を知ったのである。しかもイエス自身の言葉によって。●生涯の手の業として「建築」(それはこの世限りで滅びるもの)に従事し続けることができたのも塚本虎二の解説があったればこそである。●ベートーヴェン弦楽四重奏曲16番は良いという示唆を受けたので、アルバンベルグ四重奏団で鑑賞。ナルホド特にその第3楽章はすばらしい。昨年ウィーンに旅したときに見たヴェートーヴェンのデスマスクを思い出した。HP「2007オーストリアの旅」の6月24日参照。ベートーヴェン最悪の年の作曲。●良いものは人生最悪の状態から生まれる。●13:00妻が市役所に「確定申告」の手続き●14:00徳田氏が来訪。懇親懇談●今日は終日ルカ15章「放蕩息子の譬」の猛勉。塚本虎二先生に出会ったのは16歳のとき。その時先生の「放蕩息子の譬」の聖書注解に出会って人生は決した。以来48年間。その内容でわからないところが数か所あった。その間に結婚し、人の子の親になり、子供に家出され、両親の死も経験。その苦難の注解で今日再び読み返すと、わからないところがわかってきた感じがする。それは明日書く。
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キリストは神か人か ++++++++ 所感

2008/02/19 10:44

080219(火)3時半目覚め5時起床●佐藤研著「禅キリスト教の誕生」(2007岩波)を読書中。ヨーロッパの一部ではキリスト教の仏教化が起こり、「キリストは同等なる者の第一の者」ということになりつつあるという。聖書学も「イエスにはメシアの自覚はなかった」という方向になりつつあるという。●こういう思想は佐藤研の師である荒井献からも無教会陣営に爆弾が投げられたことがあった。塚本虎二著作集第一巻月報所載の荒井献論考「イエスのいわゆる『尊厳意識』」(1979年)では「イエスは自らはメシアとは名乗らなかったというのが新約聖書学の趨勢である」というのが結論であった。(これは塚本虎二著作集別巻「去思と望憶」1979年にも収録)。●どうしてこの論考を塚本虎二全集の読者に向けて書いたのか。それは「塚本シューレ(学校)」(荒井氏はこう認識している)の人たちは固く正統信仰を保持していると一目置いているからだと解す。●この新約聖書学の泰斗に不肖素人の私が恐れずに反論した。それを『内村鑑三研究第28号」(1991.5)に「内村鑑三、塚本虎二、そして現代、・・・・「イエスの尊厳意識」をめぐって・・・・』として執筆した。●その結論は「新約聖書の表面の文字だけから学問としてとらえればイエスは神の子には見えないが、聖霊を頂くとイエスが神の子に見えてしまう」というものである。●この考えは以後17年間変わらない●その後イエスの有体的復活の信仰をめぐって荒井献、佐藤研の両先生と信仰の内容が一致したので安心した。(2月3日ブログ参照。)●もしイエスが神の子でなく人であって、「キリストは同等なる者の第一の者」であったら、私の信仰は崩れ、私の人生はない。●この大問題の前にはもはや教会無教会もない。そんな論争どころではない大変な問題だ。●どうしてこういう思想がキリスト教の内部で誕生してしまうのか。答えは簡単。聖書でメシを食っている人がいるからである。聖書を大脳皮質を通じての「文字」でのみ学問として捉えると学会では「イエスには神の子の自覚がなかった」ということになる。あー禍なるかな聖書学者たちよ。●だから聖書の素人読みをする「無教会」(職業としての聖職者も聖書で飯を食う人間もいない)の存在は貴重である。聖書で飯を食っている人間たちが無教会の塚本シューレの人間たちに一目置いているのは意味がある。●キリストが神の子であると信じられるようになった人はトンデモナイ人間なのだ。超自然的なことがその人に働いたのである。そうでなければ「キリストは同等なる者の第一の者」にすぎないのだ。

塚本訳マタ 16:13-18
16:13 ピリポ・カイザリヤ地方に行かれたとき、イエスはこう言って弟子たちに尋ねられた、「世間の人は人の子(わたし)のことをなんと言っているか。」
16:14 彼らが言った、「あるいは洗礼者ヨハネ、あるいは預言者エリヤ、あるいはエレミヤとか(昔の)普通の預言者とか言う者があります。」
16:15 彼らに言われる、「では、あなた達はわたしのことをなんと言うのか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたは救世主、生ける神の子であります!」
16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「
バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。
16:18 それでわたしもあなたに言おう。──あなたはペテロ[岩]、わたしはこの岩の上に、わたしの集会を建てる。黄泉の門[死の力]もこれに勝つことはできない。

●なお私の今までの経験で「キリストは神か人か」の議論は主として男の世界に起こり、女性からは発せられない。これはなぜか。私の持論、「信仰は女性」。●音楽DVDでバーンスタイン+ニューヨークフィルでチャイコフスキーの「悲愴」を鑑賞。1974年シドニーオペラハウス(新築後10か月)でのライブ。あまりの熱演にシドニーの聴衆は思わず第3楽章終了の時点で大拍手(日本では考えられない)●あまりの熱演名演に音楽の途中で思わず拍手している例は、トスカニーニ+ホロヴィッツのチャイコフスキーピアノコンチェルト第一番(CD保有)がある。第一楽章で拍手、終楽章最後のところでは音楽が終わらないうちから雪崩のような拍手。●日本人はおとなしすぎるのか。いやいや歌舞伎では大向こうから「○○屋!」と掛声がかかる。何事も一生懸命ならば「声をかける」のがいいのかもしれない。牧師の説教の途中で「いいぞ!」と声がかかることはない。「アーメン」という声がかかる教会もあるようだが、無教会集会でそんなことを言ったら、嫌な顔をされて追い出される.●某氏に送ったメールの一節を掲げる。一部改変追加。

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おりしも本日「季刊無教会」第12号でIJさんの「一株の野菜に祈りを込めて」を読みました。最後にある「キリストの香りがする野菜をお届け出来るようにと祈りをもって畑に立つ毎日です」はすばらしい言葉と思いました。すべての職業や生き方に共通のことです。「キリストの香りがする建築」「キリストの香りがする親」「医者」「夫」「妻」「集会員」。・・・・・・・

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新改訳 Ⅱコリ2:14-16
2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです
2:16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。

●香水は悪臭の一種であるということを聞いたことがある。●香りは強すぎると「悪臭」にもなる。自戒。

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神が起こすということ ++++++++ 所感

2008/02/18 08:17

080218(月)5時目覚め。朝の啓示「神が起こすということ」●信仰は「神が起こす」という認識がポイント。人、家庭、建築、教会・集会、イエスの誕生、イエスの復活。みな同じ。

●クリスチャンは神が起こす。両親が信仰に熱心でも子供はさっぱり無関心。どんなに苦難にあっても信仰には目が開かない。この場合、親が悪いのでもなく子が悪いのでもない。歴史の宿命。福音はユダヤ人に入らなかった。(ロマ書9章)●家庭は神が起こす。御心でない結婚は成立しない。神を土台としない家庭は崩壊しやすい。なぜか。神以外のものを大切にしているから。人間の愛、金、健康、子育て!!●建築は神が起こす。御心でない建築は企画段階でつぶれる。これをギョーカイヨウゴで「立ち上がらない」という。契約に結びつかない。これを見極めるのが「営業部長の腕」。●教会・集会は神が起こす。エクレシアとは「召された者の集会」。神に起こされない教会や集会は自然消滅する。●イエスが処女から生まれたというのは「信仰」がそう信じさせる。自分の罪が赦されると「さもありなん」と思える。聖霊が教えてくれる●イエスの有体的復活はその「使徒伝承」を聞いて「胸が熱くなるとき」に初めて信じられる。それまでは頭だけ。信仰の如何にかかわらず、イエスの墓が空であったことは「史実」。これ荒井献、佐藤研氏とも確認しあった。同じ見解。

●「神が起こされる」。このことを真に信じられるのかどうかが信者同士の付き合いの判断基準。これを信じられない信者は、すぐ行動に出る。あるいは「信じているだけではダメだから、世に働きかけよ」と言ってはしたない恥のみっともない言動に出る。やってもいいけれども効果がない。この世の人たちは「仲間が増えた」と言って喜ぶ。こんなヤツらとは付き合えない。●かって代々木上原教会の赤岩栄という牧師が「信仰はキリスト、行動はマルクス主義」と言った。それを側聞したエミールブルンナーが吐き捨てるように「バカッ!」と言ったそうだ。●ところがこの「バカッ!」と言われても仕方がない人間がこともあろうに、無教会にもいるのはなぜだろう。●マテマテ、「信仰はキリスト、実なる行動は企業経営としての教会・集会」というリタイア人間がどこにも横行している。祈りがない。「神が起こす」という信仰がない。

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神が壊す家、神が建てる家。 ++++++++ 所感

2008/02/17 07:16

080217(日)5時目覚め。朝の啓示「神が壊す家、神が起こす家」●朝風呂で、佐藤研「禅キリスト教の誕生」●NHKTV「こころの時代」牧師大田愛人「パウロの手紙」●「今井館の建造物」の修正執筆●「神が壊す家、神が起こす家」を聖書に思いつくまま。

●神が壊す家。

バベルの塔

口語訳 創 11:5-10
11:5 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、
11:6 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。
11:7 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。
11:8 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた
11:9 これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。
11:10 セムの系図は次のとおりである。セムは百歳になって洪水の二年の後にアルパクサデを生んだ。

ノアの大洪水

新共同 創  6:1-7
6:1 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。
6:2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。
6:3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。
6:4 当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。
6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、
6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
6:7 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」

ソドムとゴモラ

新共同 哀  4:6
4:6 ソドムは、その罪のゆえに/人の手によらず、一瞬にして滅んだが/わたしの民の娘は/それよりも重い罪を犯したのだ。

神にさからうもの

新共同 詩  1:4-5
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない

神に植えられない樹木

塚本訳 マタ 15:12-14
15:12 あとで弟子たちが来てイエスに言う、「パリサイ人がお話を聞いて腹を立てたことを御存じですか。」
15:13 イエスは答えられた、「わたしの天の父上がお植えにならないものは皆、引き抜かれる。
15:14 あの人たちを放っておけ。盲人の手引をする盲人だ。盲人が盲人の手引をすれば、二人とも穴に落ちよう。」

悔い改めなければ滅びる

塚本訳 ルカ 13:4-5
13:4 またシロアムの(池の)近くの櫓が倒れて(下敷になって)死んだあの十八人は、(当時)エルサレムに住んでいた(ほかの)すべての人よりも罪人だったと思うのか。
13:5 そうではない。わたしは言う、あなた達も悔改めなければ、皆同様に滅びるであろう。」

食えなくなる

塚本訳 ルカ 15:17
15:17 ここで(はじめて)本心に立ち返って言った。──お父さんのところでは、あんなに大勢の雇人に食べ物があり余っているのに、(息子の)このわたしは、ここで飢え死にしようとしている。……

●神が建てる家

神が建てる家

口語訳 詩  127:1
127:1 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。

塚本訳マタ 7:24-27
7:24 だから、以上のわたしの話を聞いてそれを行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている。
7:25 雨が降って、大水が出て、風が吹いて、その家に襲いかかったが、倒れなかった。岩の上に土台があったからである
7:26 また、わたしの話を聞くだけでそれを行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
7:27 雨が降って、大水が出て、風が吹いて、その家にうちつけると、倒れてしまった。ひどい倒れ方であった。」

れのほとりに植えられた樹木

新共同 詩  1:1-3
1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

イエスの復活は神が起こしたもうこと

塚本訳 ロマ 1:3-4
1:3 その御子、すなわち、人間としてはダビデの末から生まれ、
1:4 聖なる霊としては死人の中から復活して力ある神の子と定められた方、わたし達の主イエス・キリストに関するものである。

エクレシア、コイノニヤは神がおこしたもうもの。神に呼び集められるもの

塚本訳 Ⅰヨハ4:9-10
4:9 神がその独り子を(この)世に遣わし、独り子によって(死ぬべき)わたし達が生きるようになったそのことで、神の愛が(はじめて)わたし達に現わされたのである。
4:10 わたし達が神を愛したことではなく、彼がわたし達を愛し、その子をわたし達の罪のための宥め(の供物)として遣わされたそのことに、愛があるのである

塚本訳 マタ 18:19-20
18:19 なお、アーメン、わたしは言う、何事によらず、もしあなた達のうちの二人が心を一つにして地上で祈るならば、わたしの天の父上は(きっとその願いを)かなえてくださるだろう。
18:20 二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」

塚本訳 ヨハ 6:44
6:44 (わたしを信じないのは、父上が引っ張ってくださらないからだ。)わたしを遣わされた父上が引っ張ってくださらなければ、だれもわたしの所に来ることはできない。(しかし来れば、)わたしはその人をきっと最後の日に復活させる。

 

●集会は藤巻。、村上、望月●東京聖書読者会の事務関係書類一式を山本淳子さんに渡す。山本政則さんは休み。「長いことご苦労様でした」とねぎらいの言葉を頂いた。24年間もやったので、交代がよい。●妻と二人で食事●妻はJTホールへ和田睦夫氏出演の演奏会。その後池袋に合唱の練習。ドヴォルザーク「スターバト・マーテル」●14:30 今井館理事会。ホームページのリニューアルの発表。評議員に新しく二名追加。女性が選ばれた。(小舘、高橋)●今井館100周年記念誌の「今井館の建造物」の記事を渡す。こちらもこれで一段落。新しい目標、新しい道。

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神よ、この無益な僕をお赦しください ++++++++ 所感

2008/02/16 08:55

080216(土)5時目覚め。黙想「愛せなくなる苦」●朝風呂で佐藤研著「禅キリスト教」(岩波)を読む。●人生では「愛せなくなる時」という時がくる。それは旧約聖書にもある。

口語訳 伝  3:8
3:8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。

●そうだ。愛するに時があれば愛せなくなる時もあるのだ。それが男女の交際中の出来事ならよいが、夫婦になって子供をもうけてから「おたがいが愛せなく」なったら悲劇だ。子供がかわいそうだ●同じく教師と生徒、牧師と信者、伝道者と信者、信者と信者、建築主と設計者、上司と部下、などなど麗しかるべき関係の間で「愛が冷める」ことがある。それは仕方がないことだ。残念ではあるが人間には誰にでもそういうことが起こるのだ。それは自然現象だ。それでよいのだ、それで良いのだ。教会を愛せない、集会を愛せない。そのとき律法、道徳、常識、習慣、世間体、などの何をもってしても「一緒にいる」こと、「一緒に過ごす」ことは「耐えがたいもの」になるのだ。それは望まない病気に陥るようなものだ。防ぎようがない。回復しようがない。「道が違う」のだ。●こなごなに割れたコップは修理できない●人生は「愛する者」が失せた時は辛く悲しい。愛が冷えた時は悲しく辛い。●ではこういう悲劇にならないようにするにはどうしたらよいのか。あるいは不幸にも残念にもそういう悲劇に遭遇してしまったらどうすればよいのか。そういう悲劇が起こりそうになったらどうすればよいのか●その道はある。聖書的には次の言葉だ。

塚本訳 Ⅰヨハ4:9-10
4:9 神がその独り子を(この)世に遣わし、独り子によって(死ぬべき)わたし達が生きるようになったそのことで、神の愛が(はじめて)わたし達に現わされたのである。
4:10 わたし達が神を愛したことではなく、彼がわたし達を愛し、その子をわたし達の罪のための宥め(の供物)として遣わされたそのことに、愛があるのである

●この言葉を目と頭で読んでいたのではわからない。具体的には神からの圧倒的な「霊」が、愛の霊がその人に注がれるときに「愛せない人」も「愛せるようになる」(のかもしれない)・・・・神様この(汚れた)身をそのようにしてください。神様、「愛せなくなってしまった」この無益な僕をお赦しください。十字架の故にお赦しください。●今井館100周年記念誌に寄稿する「今井館建造物の記録」を執筆。その最後は次の通り。これで一段落。

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今井館の敷地はもう容積が一杯でこれ以上建築することができない。私事にわたるが筆者としてはこの二棟の建築に関わった25年間の間に自宅の全焼、脳内出血での意識不明などの苦難に遭遇した。しかし今井館のため建築士としての使命が果たせたことを感謝するものである。この建物もあと数十年もすれば消え去るであろう。それは永遠の時の流れからみれば一瞬である。けれども建築という困難な事業を通して多くの「主にある人たち」と心を一にして一所懸命に働けたという思い出は私の胸に「永遠に」残るであろう。

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●妻と一緒に「東京聖書読者会」事務引き継ぎ書類を作成。随分沢山のことを引き受けていたものだ。何事も「新しい酒は新しい革袋に」である。引き継ぎは一切のものを手放すべきである。少しでも残してはならない。「後ろを振り返るな」新しい使命に生きよである。これも一段落。

塚本訳  ルカ 9:61-62
9:61 もう一人のほかの人も言った、「主よ、お供します。ただその前に、家の者に暇乞いをさせてください。」
9:62 しかしイエスは言われた、「鋤に手をかけたあとで後を見る者は、神の国の役に立たない。」

●妻は夕方から合唱の練習。パレストリーナ「ミサ・プレヴィス」とフォーレ「レクイエム」。

 

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愛の冷めるときの苦 ++++++++ 所感

2008/02/15 07:42

080215(金)5時半起床●朝風呂で日経「私の履歴書」。日本サッカー協会会長の川渕三郎。転機、「呼ばれる」。人の道は「呼ばれる」時が転機。嫌気がさして「飛び出すと」行くところがない。「呼ばれるまで待て」●朝の黙想「愛の冷めるときの苦」。人生には愛が冷めるという苦難がある。教師が生徒を、生徒が先生を、妻が夫を、夫が妻を、親が子供を、子供が親を、牧師が教会員を、教会員が牧師を、教会員が教会員を、社員が会社を、部下が上司を、交際相手同士、・・・・・・・愛せなくなる。愛を失う。愛が冷える、愛がなくなる、プッツン。・・・・これ人生苦の内で大きいものである。●このうち成長のための自然の別離もあるが、そうではない別れもある。それは「この世のものに執着している」とき、無理に捨てさせられる場合である。それは神の「呼びだし」である。そのとき声が聞こえる。「汝、我にふさわしからず」と。そのとき自分が愛していたものが「何とつまらないこと」であるかと目覚める。あんなに大切に思っていたものが「色褪せて」見えてくる。「私としたことが何であんなものをいつまでも愛していたのだろう」と思う。 目からウロコである。●これは霊的な成長である。神の呼びだしであって新しい使命が見えてくる。真に投ずべき仕事が見えてくる。悲しんでいる人、貧しい人、苦しんでいる人が視界に入って見えてくる。


新共同 マタ 10:37-38
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

新共同 ルカ 9:62
9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

●15:00 総合研究所技術講座の講義をする。聴衆43名。

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神の霊の宿らない人、家庭、教会、集会、団体。 ++++++++ 所感

2008/02/14 06:24

080214(木)5時目覚め。朝の啓示「神の宿らない神殿」●朝風呂で黙想。次々と聖句が浮かぶ。聖書に戻って考える。

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1・神の霊が宿らなくなる現象。 いつの時代にもある宗教上の俗化現象。ユダヤ教、カトリック、ルター派、プロテスタント諸宗派、無教会も100年も経つと衰退。これは、誰が俗人、誰が悪い、何が悪い、何が足りないというのではなく宿命の現象。この場合人間的延命処置の熱心は残念ながら多くの効果がない。●神の霊が宿らなくなったキリスト教の俗化現象は次の通り。社会批判運動、神学、後ろ向きの記念会、伝統の墨守、先生の真似、福祉、イベント、娯楽などの行動に熱心になる。それは信仰の展開ではなく、霊なき行為主義がほとんど。神の栄光があがらない。●佐藤研著「禅キリスト教」(岩波)を読むとヨーロッパのキリスト教の衰退はひどいものらしい。

新共同 創  6:3
6:3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。

塚本訳マタ 21:12-13
21:12 イエスは宮に入って、宮(の庭)で物を売る者や買う者を皆追い出し、両替屋の台や、鳩を売る者の腰掛けを倒された。
21:13 それからこう言われた、「『わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである』と(聖書に)書いてあるのに、あなた達はそれを『強盗の巣』にしている。」

塚本訳マタ 10:12-14
10:12 家に入ったらば、まず平安を祈れ。
10:13 もしその家が(その祈りをうけるのに)ふさわしければ、あなた達の(祈った)平安はかならずその家に臨み、もしふさわしくなければ、その平安はあなた達にもどってくる。(そしてあなた達のものとなるのである。)
10:14 しかし人があなた達を歓迎せず、あなた達の言葉に耳をかたむけないなら、(すぐ)その家なり町なりを(出てゆけ。そして)出てゆくとき、(縁を切った証拠に)足の埃を払いおとせ。

2・人間の本質は「霊」。現代の教育、思想、風潮は大脳皮質の拡大と雑学知識のみ。そこに「神の霊」がない。医学、技術、教育、みな同じ。

 新共同 創  2:7
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった

塚本訳 ヨハ 3:7-8
3:7 『あなた達は新しく生まれなおさねばならない』と言ったからとて、すこしも不思議がることはない。
3:8 風[プニューマ]は心のままに吹く。その音は聞えるが、どこから来てどこに行くか、あなたは知らない。霊[プニューマ]によって生れる者も皆、そのとおりである。」

塚本訳  Ⅰコリ6:18-19
6:18 不品行から逃げよ。人のおかすどんな罪も、体の外にある。しかし不品行をする者は、自分の体、(キリストの体、神のお宮)に対して罪を犯すのである。
6:19 それとも、あなた達の体は神からいただいた聖霊の住んでおられるお宮で、自分のものでないことを、あなた達は知らないのか。

3・神の霊の宿る人、家庭、集まり

新共同 詩  127:1
127:1 【都に上る歌。ソロモンの詩。】主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。

塚本訳 マタ 18:19-20
18:19 なお、アーメン、わたしは言う、何事によらず、もしあなた達のうちの二人が心を一つにして地上で祈るならば、わたしの天の父上は(きっとその願いを)かなえてくださるだろう。
18:20 二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」

塚本訳  ヨハ 14:23
14:23 イエスは答えられた、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。するとわたしの父上はその人を愛され、わたし達は(父上もわたしも)、その人のところに行って、同居するであろう

塚本訳  Ⅰコリ12:27
12:27 (同じことをあなた達についても言うことが出来る。)あなた達はキリストの体であり、ひとりびとりとしては器官である。

塚本訳 コロ 1:24
1:24 今私は君達のために苦しむことを喜びとし、またキリスト・イエスの体なる教会のために私の体でキリストの患難の不足を補っている。

塚本訳エペ 5:29-32
5:29 何故なら、未だ曽て自分の「肉」を悪んだ者は無く、何人もこれを養い育てる。同じように
キリストも教会を養い育て給う。
5:30 私達は彼の体の肢である。
5:31 『この故に人は父と母とを捨ててその妻に結びつき、二人は一体となる』。
5:32 この奥義は大きい。私はキリストを指し、また教会【を指して】言っている。

4・人間的延命処置は御心ではない。

塚本訳  ルカ 12:19-21
12:19 それからわたしの魂に言おう。──おい魂、お前には長年分の財産が沢山しまってある。(もう大丈夫。)さあ休んで、食べて、飲んで、楽しみなさい、と。』
12:20 しかし神はその人に、『愚か者、今夜お前の魂は取り上げられるのだ。するとお前が準備したものは、だれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために(地上に)宝を積んで、神のところで富んでいない者はみな、このとおりである。」

塚本訳 Ⅰコリ7:15
7:15 しかし不信者の夫(なり妻なり)が別れるなら、別れさせよ。こんな場合に、兄弟なり姉妹なり(つまり信者)は(結婚に奴隷として)束縛されてはいない。神は平和な生活へあなた達をお召しになったのである。(無理があるのは、御心ではない。)

5・裁きは神の家から始まる。

塚本訳 Ⅰペテ4:14-17
4:14 もし君達がキリストの名において罵られるならば幸福である、(それは、その時)栄光の霊と『神の霊が』君達の上に『留まっている』(証拠である)から。
4:15 君達のうち誰も人殺し、あるいは泥坊、あるいは悪者として、あるいはおせっかい屋として受難してはならない。
4:16 しかしもしクリスチャンとして(受難するの)ならば恥じるな、むしろこの(クリスチャンたる)名において神の栄光を顕せ。
4:17 審判が神の家『から始まる』時(は既に近づいているの)だから。しかしもし(審判が)まず(神の家すなわちキリストを信ずる)私達から(始まる)とすれば、神の福音に従わぬ者の最後はどうであろう!

塚本訳ヨハ 15:1-4
15:1 わたしがまことの葡萄の木、父上は栽培人である。
15:2 わたしについている蔓で実を結ばないものは、父上が皆それを切り取ってしまわれる。また実を結ぶものは、より多く実を結ぶように、皆それを奇麗に刈り込まれる
15:3 あなた達はわたしが語った言葉(を受け入れること)によって(汚れを除かれ)、すでに奇麗になっている。
15:4 わたしに留っておれ。そうすればわたしもあなた達に留っている。ちょうど蔓が葡萄の木に留っていなければ、自分で実を結ぶことが出来ないように、あなた達もわたしに留っていなければ、実を結ぶことは出来ない

塚本訳 ヨハ 15:6
15:6 人はわたしに留っていなければ、蔓のように投げ出されて枯れる。すると集められ、火の中に投げ込まれて焼かれる

塚本訳 ヨハ 15:20-21
15:20 『僕はその主人よりもえらくはない』と言ったわたしの言葉を忘れないように。人々は(わたしにしたと同じことをあなた達にするであろう。)わたしを迫害したなら、あなた達をも迫害し、わたしの言葉を守ったなら、あなた達の言葉をも守るであろう。
15:21 ところが、彼らはあなた達がわたしの弟子であるために、(憎み、迫害など)すべてこれらのことを、あなた達にするであろう。わたしを遣わされた方を知らないからである

塚本訳 ヨハ 15:23
15:23 わたしを憎む者は父上をも憎むのであるから。

6・ではどうすればよいのか。

死滅する。捨てる。去る。やめる。復活は一度死ななければありえない。新しい生命は「死の後」に来る。滅びの後に誕生する。無理な延命は御心ではない。

塚本訳 ヨハ 12:24
12:24 誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし

口語訳 Ⅰコリ15:35-38
15:35 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。
15:36 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 

塚本訳 マタ 9:16-17
9:16 真新しい布切で古い着物に継ぎをする者はない。当て切は着物をひきさき、裂け目はますますひどくなるからである。
9:17 新しい酒を古い皮袋に入れることもしない。そんなことをすれば、皮袋が破れて酒は流れ出し、皮袋もだめになる。新しい酒は新しい皮袋に入れる。そうすれば両方とも安全である。」

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●10:30 歯科●13:00 昭和女子大、専攻科学生の設計作品発表に対する講師陣の批評会。非常に優秀な作品があって講師陣が感心した。それは孤独な都会人を癒すものは「メール」だがそれはいけないことだということから隣に住む人と音や匂いまで共有するという独特空間の試み。現代文明に対する挑戦。ご立派●その後、建築の講師懇談会。世は建築士の試験が非常に難しくなったこと。昭和女子大の建築教育はいかにあるべきかについて懇談。私はゲーテの「親話力」とシュタイナーを引いて、建築は総合力の学問で、一般教養教育でもあるということを語った。●帰宅、21:30



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私が悪かった。赦してくれ ++++++++ 所感

2008/02/13 06:55

080213(水)3時半目覚め。5時起床。昨日判明したあの病弱な女子大生徒の健康を祈った●その生徒は、私の授業への出席率が悪いため、論文テストで挽回しようと思ったのか、論文の最後に『ワタシ、先生のこと大好きです。単位落とさないでください』と必死に書いてあった。(2月6,9,12日のブログ参照)。こんな「手」を使うとは「困った生徒だ」と思っていたが、昨日来訪した同期生から彼女は病弱の身なのだということを聞いて愕然。そんなことを少しも知らずに「変なことを書くなー。困った生徒だなー」と思っていたが、病弱のために欠席が多かったのだということを知って悔いた。ごめん。私が悪かった。赦してくれ。●教会(集会)に来られない人は「何か計り知れない理由がある」のだ。肉体の病、心の病。教会(集会)の壁、説教(聖書講義)がピンとこない、信者にイヤな人がいる、合わない人がいる、などなど、教会(集会)には絶対に来なくてはいけないと「律法」的に言うのは誤まり。神はどこにもいます。

塚本訳 ヨハ 4:20-26
4:20 (それでお尋ねしたいのですが、)わたし達の先祖はこの(ゲリジム)山で(神を)礼拝したのに、あなた達(ユダヤの人)は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(どういう訳でしょうか。)」
4:21 イエスが言われる、「女の人、わたし(の言葉)を信じなさい。(間もなく)あなた達が、この山でもエルサレムでもなく(どこででも、)父上を礼拝する時が来る。
4:22 ただ(同じ神を、)あなた達は知らずに礼拝し、わたし達は知って礼拝している。救いはユダヤ人から出る(のでわたし達だけに神が示された)からである。
4:23 しかし(ユダヤ人もサマリヤ人もなく、)本当の礼拝者が霊と真理とをもって父上を礼拝する時が来る。いや、今もうきている。父上もこんな礼拝者を求めておられるのである
4:24 神は霊である。だから礼拝者も霊と真理とをもって礼拝せねばならない。」
4:25 女が言う、「キリストと言われる救世主が来ることは知っています。救世主が来れば、わたし達に何もかも知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われる、「あなたと話しているわたしが、それだ。」

●「捨てるものは100倍を得る」について詳しく知りたい。

これはどこにあるか。Jバイブルで「百倍」で検索する。次であることがすぐわかる。

塚本訳マコ 10:28-30
10:28 ペテロがイエスに、「でも、わたし達は(あの金持とちがいます。)この通り何もかもすてて、あなたの弟子になりました」と言い出した。
10:29 イエスは言われた、「アーメン、あなた達に言う、わたしのため、また福音のために、家や兄弟や姉妹や母や父や子や畑をすてた者で、
10:30 今、この世で──迫害のうちにおいてではあるが──百倍の家と兄弟と姉妹と母と子と畑とを、また来るべき世では永遠の命を受けない者は一人もない。add 2 マコ 10:28-31
10:28 ペテロがイエスに、「でも、わたし達は(あの金持とちがいます。)この通り何もかもすてて、あなたの弟子になりました」と言い出した。
10:29 イエスは言われた、「アーメン、あなた達に言う、わたしのため、また福音のために、家や兄弟や姉妹や母や父や子や畑をすてた者で、
10:30 今、この世で──迫害のうちにおいてではあるが──百倍の家と兄弟と姉妹と母と子と畑とを、また来るべき世では永遠の命を受けない者は一人もない
10:31 しかし(決して油断をしてはならない。)一番の者が最後になり、最後の者が一番になることが多い。」

●まず拙HPのBbBでこの句を含む項目全体の引照を見る。心に響く箇所をピックアップ。

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各国聖書引照

 

(日)並行個所・・・・・・塚本虎二訳

塚本訳 マタ 19:27-30

19:27 その時、ペテロが口を出してイエスに言った、「でも、わたし達は(あの金持とちがいます。)この通り何もかもすてて、あなたの弟子になりました。わたし達にはいったいなんの褒美があるのでしょうか。」

19:28 イエスが彼らに言われた、「アーメン、わたしは言う、新しい世界が生まれて、人の子(わたし)が栄光の座につく時には、わたしの弟子になったあなた達十二人も十二の王座について、イスラエル(の民)の十二族を支配するのである。

19:29 そしてわたしのために家や兄弟や姉妹や父や母や畑をすてた者は一人のこらず、(この世で)その幾倍を受け、また(来るべき世では)永遠の命をいただくのである。

19:30 しかし(決して油断をしてはならない。)一番の者が最後になり、最後の者が一番になることが多い。

 塚本訳 ルカ 18:28-30

18:28 ペテロが(イエスに)言った、「でも、わたし達はこの通り、自分の持ち物をすててあなたの弟子になりました。」

18:29 彼らに言われた、「アーメン、わたしは言う、神の国のために家や妻や兄弟や親や子を捨てた者で、

18:30 この世でその幾倍を、また来るべき世では永遠の命を受けない者は一人もない。」

 (独)NESTLE-ALAND  NOVUM TESTAMENTUM  GRAECE 27版1993 の引照

新共同 マコ 1:18

1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。

 新共同 マコ 1:15

1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 新共同 マタ 19:30

19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 (英・米)THE NEW TREASURY OF SCRIPTURE KNOWLEDGE 1982 の引照

口語訳 ピリ 1:29

1:29 あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。

 口語訳 ロマ 6:23

6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

 (日)新共同訳1987 の引照

新共同 ピリ 3:8

3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、

 新共同 ロマ 3:26

3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 新共同 Ⅰテモ4:8

4:8 体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。

 (仏)THE NEW JERUSALEM BIBLE 1985 の引照

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●次にマルコ10:30だけをピンポイントで深く探求する。それには拙HP「TSK日本語ヴァージョン」(誘導)で調べる。心に響いたものをピックアップする。

Psalms 84:11:
あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。

 Proverbs 3:10:
そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる。

Proverbs 16:16:
知恵を得るのは金を得るのにまさる、悟りを得るのは銀を得るよりも望ましい。

Malachi 3:10:
わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。

Matthew 13:44:
天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。

Luke 18:30:
必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。

II Corinthians 6:10:
悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。

II Corinthians 9:8:
神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。

Philippians 3:8:
わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、

I Timothy 6:6:
しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。

I John 3:1:
わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。

Revelation of John 2:9:
わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。

Matthew 5:11:
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

Matthew 5:12:
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

John 16:23:
その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。

Acts 5:41:
使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。

Acts 16:25:
真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。

Romans 5:3:
それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、

James 1:2:
わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。

James 1:12:
試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

James 5:11:
忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

I Peter 4:12:
愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、

I Peter 4:12:
愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、

Romans 6:23:
罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●以上を読んで納得。アーソーカ。である。1ペテロ4:12-17がぐさっと来る。

塚本訳 Ⅰペテ4:12-17
4:12 愛する者よ、試練のため君達に起こった烈火の苦難を(何か)異常なことが臨んだかのように(驚き)異しむな。
4:13 むしろキリストの苦難に与れば与るだけ喜べ。(最後の日)その栄光の顕るる時にも歓びに喜ぶ(ことが出来る)ためである。
4:14 もし君達がキリストの名において罵られるならば幸福である、(それは、その時)栄光の霊と『神の霊が』君達の上に『留まっている』(証拠である)から。
4:15 君達のうち誰も人殺し、あるいは泥坊、あるいは悪者として、あるいはおせっかい屋として受難してはならない。
4:16 しかしもしクリスチャンとして(受難するの)ならば恥じるな、むしろこの(クリスチャンたる)名において神の栄光を顕せ。
4:17 審判が神の家『から始まる』時(は既に近づいているの)だから。しかしもし(審判が)まず(神の家すなわちキリストを信ずる)私達から(始まる)とすれば、神の福音に従わぬ者の最後はどうであろう!

●「藤林益三」本、編集。

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 寒い日。富士がよく見える。梅がつぼみ。春はもうすぐだ。

 

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経済的行き詰まりは神の摂理、裁き ++++++++ 所感

2008/02/12 07:07

080212(火)5時半目覚め。朝の啓示「経済的行き詰まりは神の摂理、裁き」●朝風呂で「黙想」。●どのような人間団体でも経済的な行き詰まりはある。そこで浅はかな人間的策(経済学)を弄しても、神の裁き、神の摂理は厳然と進む。そこに神の裁きというものが含まれていることを謙虚に受け取らなければ、せっかくの神の思いに気がつかないことになる●個人、家庭、企業、学校、教会、集会、地方財政、国家財政、然り地球財政。これみないき詰まるようにできている。この世の栄えは一時なのだ。国も企業も家庭も。●「行きずまった」とき「あれが悪いこれが悪い」とお互いを非難するようになるが、それは当たらない。神の「手」なのだから。そこにこの世的団体で得られた知識を当てはめるのも良いが、焼け石に水●人間は神の裁きにひれ伏さなければならない●このうち教会や集会は不思議になんとなく持ちこたえる。もーだめだ、あと何年でおしまいだと思っていると「どこかから」お金が湧いてくる。●この黙想で次回の感話(放蕩息子の譬話)の準備ができた。そのポイントがつかめた。聖書の講義は、その々にちょうどよい苦難が襲ってきて「注解書」の役割をはたしてくれる。

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塚本訳 ルカ 15:13
15:13 幾日もたたないうちに、弟は(分け前)全部をまとめて(金にかえ、)遠い国に行き、そこで放蕩に財産をまき散らした。

●放蕩とは何か。この息子は何をしたのか。

塚本訳  ルカ 15:30
15:30 ところがあのあなたの息子、きたない女どもと一しょに、あなたの身代をくらいつぶした・・・・・

●つまり神を忘れた「遊び人」だったのだ。●50年ぐらい前に米国からクレーマーという人が来日して日本のプロテスタント教会を批評。「日本の教会は幼稚園を経営してアルバイトをしている」。つまりやることをやっていないと言うのである。「身代をくらいつぶした」のである。

塚本訳 ルカ 15:14-16
15:14 すべてを使いはたしたとき、その国にひどい飢饉があって、食べるにも困り果てた。
15:15 そこでその国のある人のところに行ってすがりつくと、畑にやって、豚を飼わせた。
15:16 彼はせめて豚の食う蝗豆で腹をふくらしたいと思ったが、(それすら)呉れようとする人はなかった。

●「ひどい飢饉」。・・・・天変地異は神の業。そこで神を信じている人は「畏れ」というものを感じる。
神を信じない人は、「お祈りなんて効き目がない」とせせら笑って、人間的な策を弄する。しかし所詮無駄。「無駄な抵抗はやめよ」。経済学のほとんどがこの「延命策」の姑息な策。「あんたが悪い」「トップが悪い」と斬り合いになる。傷がつく。それはやめておいた方がよい。

●「ある人のところに行ってすがりつくと」・・・・建築資金が足りないと、「無償で援助してくれる」ギャンブル経営の団体がある。困りぬいてそこに「すがりつく」とその団体にいいように支配される。玄関入口に「この建物は○○からの資金で建てられたものです」という看板をつけさせられる。

●「せめて豚の食う蝗豆で腹をふくらしたいと思った」・・・・・これ経費節減策である。食べ物に贅沢するな。着るものに贅沢するな。そこでもまた喧嘩が始まる。

塚本訳 ルカ 15:17
15:17 ここで(はじめて)本心に立ち返って言った。──お父さんのところでは、あんなに大勢の雇人に食べ物があり余っているのに、(息子の)このわたしは、ここで飢え死にしようとしている。……

●「このわたしは、ここで飢え死にしようとしている。」・・・・・・「死の宣告」は人間に良いものをもたらす。「罪の価は死」であるということを自覚させられる。

塚本訳  ロマ 6:23
6:23 なぜなら、罪が(奴隷に)払ってくれる給料は死であり、(従う者に与えられる)神の賜物は、わたし達の主イエス・キリストにおいての永遠の命だからである。

●経済的行き詰まりは「神の摂理」「神の経済制裁」「神の思いやり」「神の知恵」・・なぜか。やることをやっていないことに対する罰。神のビンタ。

●私の40年の建築人生の経験。プロジェクトが経済的に立ち上がらないのは「御心」でない証拠。人間が策を弄しても絶対に立ち上がらない。逆に建物が壊されるのは使命が終わった証拠。それは神の裁き、それは神の判断。信仰は一代。宗教や信仰は世襲ではいけない。

●「放蕩息子の譬」になぜ「母の愛」が出てこないか。主人に内緒でへそくりを息子に届けるならば、慈母観音の宗教となる。内村は米国宣教師が「神の愛」ばかり説いて「義」を説かないのは間違いといった。

●飢え死にするというショック療法が人間を目覚めさせる。これなくして「母親のへそくり」で僅かの期間だけ食いつなぐとしてたら、「悔い改め」が訪れない。グッドティーチャーズカットという。神は愛する者に「死刑!」と宣告する。それで悔い改めると永遠の生命を与えてくださる。

塚本訳 ルカ 15:22-23
15:22 しかし父は(皆まで聞かず)召使たちに言った、『急いで、一番上等の着物をもって来て着せなさい。手に指輪を、足にお靴をはかせなさい。
15:23 それから肥えた小牛を引いてきて料理しなさい。みんなで食べてお祝いをしようではないか。

●放蕩息子の父親は「食事をふるまうことで」出費した。ここに十字架の「苦」がある。愛がある。その母親は「あなた。あの息子が帰ってきたらこの着物を出して下さいよ」と言って先に死んでいったのではあるまいか。愛は出費する。愛は上等の着物を用意しておく。

●「愛」は「義」よりも大きい。旧約は義、新約は愛。「十字架は義として見るよりも愛としてみた方がよくわかる」と言った塚本先生の言葉は至言。

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●14:00 昭和女子大生3名(角田帆波、原麻美、山田夏実)が来訪。木、竹、漆喰、紙の自然素材の家の説明。●その後、進路、職業観、結婚観、幸福観、などについて若い人の気持ちを聞けて楽しかった。何とみんな昭和の最後に生まれたという。ついこの間の誕生なのに驚いた。平成の子である。包み隠さず、素直な気持ちを話してくれたのは嬉しかった。非常に多くの単位を多く取らなければならないことに「大変なことだなー」と思った。

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昭和女子大生が来訪。職業観、結婚観、幸福観を聞けて楽しかった。

3人とも昭和の最後の生まれだとは妻もびっくり。ついこの間のことだ。

前列は昭和女子大生の3名

後列左から 高橋照男 高橋トミ子

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昭和女子大生3名を東秋留の駅まで送る。私「皆さん、お幸せに」。3人「先生もお元気で」。そして握手。妻の手作りのケーキの土産を喜んで持っていった。走り去る電車を見送って「サヨウナラ、さようなら、サヨウナラ。彼女たちの行く道に神の祝福があるように」と祈ると胸が詰まった。●「先生、私先生が大好きです」と提出論文の最後に書いて必死にすがってきた生徒は出席率が非常に悪かった。2月6日、9日のブログ参照。その理由が今日来訪した生徒たちの話でわかった。彼女は病弱なのであった。他の先生にも同じようなことを書いているのだという。病弱だったとは。・・・・あーかわいそうに。そんなこととは知らず、「出席率が悪いために試験点数で挽回しようとこんなことを書いてきて不届きな生徒だ」と思っていた私が悪かった。赦してくれ。



 

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「これでもか、これでもか」と痛めらつけられるとき ++++++++ 所感

2008/02/11 07:26

080211(月)建国記念日。3時半目覚め。その後は寝付けない。寝床で黙想、メモ。5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」。日本サッカー協会会長の川渕三郎。結婚のいきさつ。一目ぼれ。出会いの形、結婚の形は実にさまざまだ。人間の固定観念が打破される。●昨日は集会でT氏から岩波「世界」2月号の荒井献氏の論考コピーをいただいた。佐藤研氏の「禅キリスト教の誕生」をめぐる論評。興味が湧いたので昨夜早速アマゾンに注文●昨日の「すずめの会」で私が発言したこと。「大熊好子さんは私が脳内出血で倒れたとき、ロビーで妻に言ったという『照男さんって、よっぽど神様に愛されているんですねー』と。その3か月前に家屋が全焼したことに続く災難であったからだ。(昨日ブログ参照)●また、そのころ集会の某女からは次のように言われた。「神様は、照男さんの家を、『これでもか、これでもか』と打っているのです」。これも信仰的に深い言葉である。●不可解な、不条理な苦しみは、神に「これでもか、これでもか」と打たれている証拠。その不条理な不可解な悩み苦しみは人間に理由が分からないがゆえに神の深い恵みの知恵がそこに潜んでいる。神はこのことによって我々に神の愛の何であるかを教えてくれるのだ。●「藤林益三」本の編集で全編を読む。マタイ受難曲を聞き終わったときは「フーッ」と息をつくが、それと同じ感じである。●斉藤顕、大山秀夫氏に電話。

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自然に生き、自然に消滅し、自然に発生する。 ++++++++ 所感

2008/02/10 06:40

080210(日)4時半目覚め。今日は睡眠6時間で頭すっきり●朝風呂で「無教会史Ⅳ」を読み、無教会2代目以降の集会の形について調べる。無教会主義集会は「自然に消滅し、自然に発生する」。●4年前に母をホスピスに入れた時は医師から相当の覚悟を求められた。「お母さんの延命処置はしない。自然に生き自然に死ぬのだ」と。●これはすばらしい人生観だ。個人が持つ人生観としても最高の部類である。しかしそこに「復活の希望と喜び」がないから最高ではないが仏教的人生観がぴったりする日本人の死生観としてはしっくりする。●人間は人に殺されようとすると、逆襲したくなるが、神に殺されるとなると納得する。これは「寿命だ」「摂理だ」「お迎えが来た」「天寿だ」などと言って心安らぐ。●人が死ぬ時はかなりゴタゴタするものだが、それも本人と周囲の家族のこと。長い時間の経過のもとにみれば、それも一通過点。池に石を投げると一時は波紋が起こるが、やがて再び静まり返りもとの水の面になる●無教会主義集会もその歴史的物理的な形は「自然消滅」するのがその現実の姿である。原因は先生や指導者の死、集うものの老令化、会場費支払い不能の経済的行き詰まり、内部分裂などなど。●無教会の某集会では指導者に支障がおきて講壇を降りざるをえなくなったらカトリックに行くようになった人が10人以上も出たという。●「それでこそ無教会だ。よしよしよし」という人もいるが。教会に行くとしてもなにもマリヤ様のいるカトリックにいくことはないじゃーないか。●そんなことをしたら、神が日本人のために「しっくり」する「無教会主義」という賜物を下さったことをないがしろにすることになる●といって理論ではなく現実問題として無教会主義集会の継続継承は無理。次々と自然消滅していく。どうしたら良いか。エクレシアやコイノニアは「人の手で」これを誕生させたり、延命処置をしたり、死を早めたりすることはできない。無教会主義集会も人間と同じく「自然に生き、自然に消滅する●「別れ」は惜しいが、仕方がない。神にそうさせられるのだと思えば納得せざるを得ない。「御心のなりますように」●しかし生命は神によって誕生させられる。エクレシアやコイノニアも神によって起こされるものだ。それは神が発起人なのだ。神は「使徒伝承」を継承するためにエクレシアやコイノニアを御自身が発起する。その物理的形態は人間が決めたり創造できないが、その本質は共通である。「十字架と有体的復活」。●エクレシアは神が自然に起こす。生かす。

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妻と集会に行く途中で。雪景色。雪と言っても東京ではこの程度。 

2008.2.10 8:10

●集会は高木、丹野、山本●集会後集会の経理事情の報告と今後の対策話し合い。15名ほど。●すずめの会、大熊好子さんの一周年が近づくので、「偲ぶ会」。10名が思い出を語り合う。主にある真の信仰の人は思い出に生き続ける。●私は次のように思い出を語った。「7年前、脳内出血で救急車で病院に担ぎ込まれ脳を固定され絶対安静をしていた。その時すぐ駆け付けて下さったた大熊好子さんはロビーで妻に言ったという。『照男さんってよっぽど神様に愛されているんですねー」。●人の目に不幸と思われることを神に愛されている証拠と言った大熊さんという方はやはり、信仰者として非凡な人であった。」この言葉あって人生航路は楽だ。

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幸いなるかな絶対絶命の人 ++++++++ 所感

2008/02/09 08:45

 

080209(土)2時40分目覚め。あとは眠れない。睡眠4時間で健康に悪いのではないかと焦る。藤本憲幸著「短く深く眠る法」を再び取り出して読むと熟睡すれば3時間でもよいと書いてある。朝の黙想「幸いなるかな絶対絶命の人」。実人生は聖書の深い意味を教えてくれる。女子大、私の授業の小論テストをしたところ。ある生徒(A女としておこう)が論文の最後に「授業もですが先生の人柄が大好きです。。・・・・P.S.単位は落とさないでくださいね♡♡♡♡。」とあった。(2月6日のブログ参照)。マー女子大で教えていればこのような女子大生も出て来ることもあろうかと大いに気をよくした私だったが、冷静に考えてみるとこの生徒私の授業への出席率が非常に悪く、私の論文採点が良くなければ単位取得がおぼつかない「絶対絶命の者」。だから試験の採点をよくしてもらおうと必死にすがってきたのである。第一に、そんなに私のことを好きなら、もっと出席率がよかったはずだ!!。「女に騙されてはいけない」。なーんだと思ったが、このことからでも聖書の深い所を教えられた。イエスの周りに集まった人は皆「絶対絶命」の人物がほとんどだ。らい病人、病人、罪びと、税金取り。みんな必死になってすがった人たちだ。・・・・・・過去は見られない崖っぷちの人生。みっともない恥だらけの人生。それでいいんだ。それがいいんだ。そういう人を神は「カワユク」思うのだ。この私もA女のその「必死の心」をカワユク思って採点に「手ごころ」を加えてしまった。ナニ、神だってそういう人のほうを「カワユク」思うのだ。その例は枚挙にいとまがない。

塚本訳ルカ 15:1
15:1
さて、イエスの話を聞こうとして、(いつものとおり)税金取りや罪人が皆近寄ってきた

塚本訳ルカ 15:11-17
15:11
また話された、「ある人に二人の息子があった。
15:12
『お父さん、財産の分け前を下さい』と弟が父に言った。父は身代を二人に分けてやった。
15:13
幾日もたたないうちに、弟は(分け前)全部をまとめて(金にかえ、)遠い国に行き、そこで放蕩に財産をまき散らした
15:14
すべてを使いはたしたとき、その国にひどい飢饉があって、食べるにも困り果てた。
15:15
そこでその国のある人のところに行ってすがりつくと、畑にやって、豚を飼わせた。
15:16
彼はせめて豚の食う蝗豆で腹をふくらしたいと思ったが、(それすら)呉れようとする人はなかった。
15:17
ここで(はじめて)本心に立ち返って言った。──お父さんのところでは、あんなに大勢の雇人に食べ物があり余っているのに、(息子の)このわたしは、ここで飢え死にしようとしている……

塚本訳ルカ 23:39-43
23:39
磔にされている罪人の一人がイエスを冒涜した、「お前は救世主じゃないか。自分とおれ達を救ってみろ。」
23:40
するともう一人の者が彼をたしなめて言った、「貴様は(このお方と)同じ(恐ろしい)罰を受けていながら、それでも(まだ)神様がこわくないのか。
23:41
おれ達は自分でしたことの報いを受けるのだから当り前だが、このお方は何一つ、道にはずれたことをなさらなかったのだ。」
23:42
それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください。」
23:43 「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽にはいることができる。」

塚本訳ルカ 18:13-14
18:13
しかし税金取りは(罪に責められ、)遠く(うしろ)の方に立ったまま、目を天に向け(て祈りをささげ)ようともせず、ただ胸をうって、『神様、どうぞこの罪人のわたしをお赦しください』と言った。
18:14
わたしは言う、あの人でなく、この人の方が(神から)信心深いとされて、家にかえっていった。自分を高くする者は皆低くされるが、自分を低くする者は高くされるのである。」

A女のように「接待絶命」ですがってくる「カワユイ」生徒とは反対の生徒もいる。B女(としておこう)は授業中あごに手をおいていつも眠っていた。しかしある日演習問題をやったらブチギリで速く、しかも正確であった。舌をまいた。進級試験の点数は総合点であり、その中に授業時間の態度の項目もある。私はそのB女の点数をどうしてもよくはつけられなかった。神は「試験がよくデキル」エリート人間よりもデキが悪くて必死にすがってくる人間の方をかわいがるのだ。「幸いなるかな。人生絶体絶命になって必死にすがりつく人」では誰にすがりつくべきか。キリスト教は分かりにくい。教会(集会)はサロンで遊び人が多い。あんな暇人のところには行けない。そうだ。天に向かってなりふりかまわずはしたなく叫ぶのだ。「神様、イエス様、仏様、お釈迦様、」と。誰かが救ってくれる。納得しなければ信じられない。神の存在が証明されなければ信じない。イエスが神の子であることが分からないうちは信じない。・・・・・などなどかっこよく突っ張っているうちは誰も助けにきてくれない。贅沢は言っていられない。必死で叫ぶのだ「俺を救ってくれー」と。人生、絶対絶命になった人の方が幸いだ。その昔、某集会で、一人の年配の女性から必死になって死後のことを尋ねられたことがあった。その集会の主宰者が私に耳打ちした。「あの方は家庭ががごたごたしているうえに、癌になってしまい間もなくなのです」と。何年もあとになってその主宰者に聞いた「あの方はその後どうなりましたか」。すると主宰者は言った「家庭内のごたごたも収まり、癌も治りました。しかし集会には来なくなりました」と。あー。あの人は家庭内のゴタゴタが続き、また病気であり続けた方がよかったのだ。両方ともよくなって神を捨てた。キリスト教の救いはこの世的救いではなく、霊魂の救いなのだ。繁盛する教会(集会)は禍だ。神を忘れる。●1030、娘の愛子一家が、近くで知人の葬儀があったというので寄ってくれた。初音とトランプの「神経衰弱」をやって遊んだ。よくできる。私は真剣になった。●1630妻は雪の中を合唱の練習に出かける。ドヴォルザークの「スターバトマーテル」

 

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人よ泣け。汝有限なる存在の悲しみの故に ++++++++ 所感

2008/02/08 05:59

080208(金) 出勤日。4時目覚め。朝のひらめき「人よ泣け。汝有限なる悲しみの故に」●嬉しいこと楽しいことのあった日の夜か翌朝は悲しくなるものだ。「この嬉しいこと、楽しいことも死んだら味わえなくなる」と思えてしまうからである。●このどうしようもない悲しみに、子や孫も直面するのだと思うと、はたして「子を授かった」ことが良かったのかどうか、「子を産んだjことがよかったのかどうか」。彼らもこのどうしようもなく悲しい気持ちを味わうときが来るからである。子や孫たちに申し訳ないという気もするときがある。●ではこのどうしようもない悲しみから、人間救われる道はあるのか。ある。ある。● ダンテ神曲冒頭第8-9行目の言葉が今の私の心境と同じである。「しかしそこでめぐりあった幸せを語るためには、そこで目撃した2,3の事をまず話そうと思う。」●私がめぐりあった幸せの経験は二つだ。第一はイエスの有体的復活の歴史性を「胸が熱くなる」ことによって信じられるようになったこと。聖書的根拠は次。

 塚本訳ルカ 24:32
24:32 二人は語り合うのであった、「(そう言えば、)道々わたし達に話をされたり、聖書を説き明かされたりした時に、胸の中が熱くなったではないか」と。

 第二は「胃ガン疑惑」の苦しい時に「義人」たちに祈られて、これまた「胸が熱くなった」そして死ぬ時もこのような喜びの気分になれたら楽だなーと思えたこと。聖書的根拠は次。

塚本訳 ピリ 4:7

4:7 そうすれば全く思いもよらぬ神の平安が君達の心と考えをキリスト・イエスにおいて守るであろう。

●子や孫たちにその人生の旅の途上でこの「胸が熱くなる」恵みの時が来る事を祈るものである。●娘の愛子は「お父さんの話を聞いてもワタシさっぱり胸が熱くならないヮ」と言っている。いいんだ、いいんだ、それでいいんだ。そのママでいいんだ。今は「育児に夢中」でそれどころではないだろうが、そのうち「お父さん」と同じ悲しい経験ををする日がきっとおとづれるのだ。その悲しみの日で良いのだ。その時で良いのだ。 それまでは「無我夢中」で生きればよいのだ。人間、無我夢中になれるときは幸せだ●この悲しみを癒してくれる手段に「音楽」がある。「悲しい時は悲しい音楽を聴け。」と言うのは聖路加国際病院の日野原重明先生。それは同質の原理だという。●私を癒してくれた音楽は三つ。①バッハ「二つのヴァイオリンのための協奏曲BWV1043」その第二楽章のラルゴ。これは4年前に母が召された時に何度も繰り返し聴いた。②フォーレ「レクイエム」。日野原重明先生はこの音楽を聞きながら死にたいと言っておられる。この演奏はアンドレクリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団1962版のものが定番。私は同じアンドレクリュイタンス指揮 の1950年版(コロンビア管弦楽)も保有している。妻の次の合唱曲は,パレストリーナの「ミサ・プレヴィス」とフォーレの「レクイエム」だ。③カッシーニ「アヴェマリア」。これは私が57歳の時に脳内出血で入院していた時にお見舞いに頂いたもの。これを聴くとあの死に直面した日々のことを思い出す●慰めと癒しに力ある第二のものは「詩」である。同じ詩でも「花鳥風月」を歌う抒情詩では効き目がない。「信仰詩集」がよい。私はクリスティナ・ロウゼッティ、大原三八雄訳の「信仰詩集」を宝のように持っている。8年前に家屋が全焼したとき、灰塵の中から必死で探しだした本がこれである。1961年に購入したもの。 それは18歳の時。そのころ私には悲しいことがたくさんあったのだ。ロウゼッティは「心 その痛みを知れり」という詩で次のように言う。

「いたましく ひとりでお泣き 心を涙に浸して・・・・春までお泣きよ・・・その時には楽しい愛が 泣くことも 忘れさせ 望むことも 恐れることもなく 見張ることも 眠ることもなく あるのはただ 愛のみです 深く深く いつまでも続く愛・・・・・・・・主は地上に 死に給うたが あなたの為め 天に生きていられる」

●昼休みに三越本店に甘納豆を買いに行く。来週、課外授業(オープンハウス)で家に女子大生が来る。「先生のところに行けば甘納豆出してくれますか」という要望があったからである。授業中に自分は甘納豆が好きだとしゃべったことがあったらしい。甘納豆のブランド品は「鈴屋」のものであることを知った。しかしかなり「いい値段」だ。●どんな分野にもブランド品があるが、単なる有名品、ブランド志向、ブランド好み、一流品自慢は偶像礼拝だ。ブランド学校、ブランド企業、ブランド家系、ブランド人間みな同じ。人間の世界だけのことだ●宗教改革の余波でフランスのプロテスタントであるユグノー派は迫害されてスイスの山中に逃げた。彼らの中に多くの時計職人がいたので、スイスの時計は「一流ブランド品」となった。●信仰が深くしっかりしていると、その結果として「一流品」を作り出す。結果である。なぜか。手の業で神の栄光をあらわそうとするから。それは金のため、人気のためではない。相手が人間でなく神だから一流品ができるのである。●一流品は手間がかかるので「かなり高い」物が多い。しかしわかる人は高くても買う。●今井館の相澤忠一理事長から妻に電話。

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友人のために命を捨てる以上の愛はない ++++++++ 所感

2008/02/07 09:32

080207(木)4時目覚め。朝の啓示

塚本訳  ヨハ 15:13
15:13
(わたしはあなた達のために命を捨てる。)友人のために命を捨てる以上の愛はないのだ。

●このことについて黙想。自分の命は自分で捨てられない。自殺ではない限り出来ない。イエスは神の人類救済の犠牲になるように無理に十字架を負わされたのだ。そこに神の苦しみがあった。イエスはその苦しみの徴となられた。強いられたのだ●この解釈は人が神から大脳皮質ではなく霊(といってピンと来なければ取り合えず心とでも言うか)において示されなければわからないこと。しかしそれがわかればなにがなくても人生は大成功。どんな哲学者よりも高く高貴な認識を得たのである●三浦綾子の「塩狩峠」は小説としては感動するが、自らを電車の下敷きになって人を助けたことは人間の栄光は上がっても神がそこにはいない●洞爺丸沈没事件のとき自分の救命浮き輪を人にあげて自らは死んでいった宣教師のことも美談であるが、これも人間の栄光があがるだけ。カトリックのコルベ神父がナチスのユダヤ人収容所で自ら進んで身代わりで毒殺されたというのも人間の栄光は上がっても神の栄光はあがらない●神に強いられることが神に栄光を帰することなのだ。無理という痛みがそこにあるのだ●イエスの死は神に栄光が帰せられた。なぜか。神の御心を表すための「死」であったからだ。神の業であることを示したから。●結婚というのも(無理に)お互いのために自分の命を捧げることなのだ。決して自分の楽しみのためではない。またそういう二人は自分たちの楽しみのために結婚生活があるのだと思ってはいけない。二人して神のためにその命を捧げなければならない●5時15分、今日も早朝収集ポストに間に合うように、自転車で出発。昨日の雪が残っていた●今井館100周年記念誌のために「今井館の建造物」という記事を執筆●13:30「午後三時祈りの友会」の全盲の星野利男さんを妻とお見舞い。讃美歌310番「しずけきいのりのときはたのし」を歌ったとき全盲の星野さん見えない目で宙を見ていた。もう涙も涸れ果てたのだろうか。85歳で耳もお悪く、記憶もおぼつかなくなった感じである。御夫人に先立たれて長いことになる●神はどうして人をこのように苦しめるのだろか。三人で祈った。星野さんは「つくしませぬ感謝を捧げます」と祈られた。私が星野さんのようになったら、はたしてこのような祈りを捧げることができるだろうか、と思った●帰途、妻と武蔵増戸駅まで散策。冬のあきる野は梅はまだであった。 

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全盲の星野利男さんをお見舞いしたあと、妻とあきる野を散歩。歩きながらこのようなことがいつまでできるだろうかと思った。寒い秋川、誰も人がいなかった。梅はまだ。 2008.2.7 15:30頃 妻が写す

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図書館に行く途中で。讃美歌138番をくちづさみ「こころにせまった」

讃美歌138番

1. ああ しゅ は たがため よに くだりて,

   かく まで なやみ を うけたまえる.

 2. わが ため じゅじか に なやみ たもう

   こよなき みめぐみ はかりがたし.

 3. とが なき  かみのこ とが を おえば,

   てる ひ も かくれて やみ と なりぬ.

 4. じゅじか の みもと に こころ せまり,

   なみだ に むせびて ただ ひれふす.

 5. なみだ も めぐみ も むくい がたし,

   この み を ささぐる ほか は あらじ.

 

 

 

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++++++++ 所感

2008/02/06 06:42

 

080206(水)4時15分起床。ワープロ打ち、レター作成●5:00今朝書いた手紙を朝一番のポスト収集に間に合うように自転車を飛ばす まだみんな寝静まっている。5時17分。寒い。 街道の明かりだけがついている。「世の光イエス」という言葉を思う。

昭和女子大の私の授業のレポートテストの採点。みんな良い答え(小論)を書いてくれて、何度も胸が詰まった。彼女たちの行く末に神の守りがあるようにと祈った。彼女たちの上にこれからどんな苦難があるのかと思うと泣けてくる。

イマドキノワカイモンはなかなかしっかりしている。●中には次のようなほほえましいものもあった。 ただしこの生徒の出席率の悪さは最高。


「先生私は○○です。コンサートの帰りにお会いしました。憶えて下さっていますか。(先生の講義は)短い期間(後期の半年)でしたが、本当~~に楽しかったです。授業もですが、私は先生の人柄が大好きです。♡。だからとても(お別れするのが)残念すぎます。・・・・・(中略)・・・・・先生、甘いものばかり食べて、病気とかにならないでくださいよ!!。体調には気をつけてこれからも頑張ってください。私も頑張ります。P.S.単位は落とさないでくださいね♡♡♡♡。」・・・そして最後に自分の似顔絵が描いてあった。●ここまで熱心にお願いされたら、私としても点数に手心を加えなければならない(?!)。イエスもそんなことを言っている。


塚本訳 ルカ 18:1-7
18:1 なお、気を落さずに常に祈るべきことについて、一つの譬をひいて弟子たちに話された、
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官があった。
18:3 またその町に一人の寡婦がいた。いつもその裁判官の所に来ては、『(早く裁判をして)わたしのため敵に仕返しをしてください』と言っていた。
18:4 裁判官はしばらくの間は取り合おうとしなかったが、あとでひそかに考えた、『わたしは神を恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 この寡婦はどうもうるさくて、やりきれないから、(裁判をして、)この女のために仕返しをしてやろう。そうしないと最後にはやって来て、わたしをどんなひどい目にあわせるか知れない。』」
18:6 それから主は言われた、「この不埒な裁判官の言うことを聞け。
18:7 (こんな男でもこのとおり。)まして神が、夜昼叫んでいるその選ばれた人々のために仕返し(の裁判)をせず、気長に放っておかれることがあろうか。
これだけ熱心になってくれた生徒との別れは淋しい。彼女は就職が決まっている。彼女の行く末に神の祝福がありますように。●自分の理想と違う道に行かなければならない人がいる。いいんだいいんだ。それでいいんだ。そういう道の方に「思いもよらないよいこと」があるのだ●リポートを採点していて、女性は住宅建築に向いていると思った。なぜか。「住宅は楽しい家庭を包む容器です」という思想が多い。女性の特質は受容、迎え入れること、包むことである。●英語で船のことはship。これを指すときはshe、つまり彼女という。船は人を暖かく受け入れて運ぶ。sheとは言いえて余りある。●テストの採点をしていて気づいたこと。女性特有の建築感覚がある。まず建築主と気が合うということを重要視している。●私の苦い経験。最初からどうしても好きになれなかった建築主がいた。元税務署長だという経歴だからかすぐ人を疑う。どうしても一生懸命になれなかった。その建築は結果的にゴタゴタした。その後その人とはお付き合いがない。●カッシーニ(1545年ローマ生まれ)のアヴェマリアをスラヴァの歌で鑑賞。7年前に脳内出血で入院していた時にお見舞いとしていただいたCDアルバムの中にある。素晴らしい曲。あの時は「私の人生は短かったなーと」思っていた時であった。●フト窓を見ると雪が降り始めた。今日は寒い日だ。●雪の中を妻が帰る。夕食の時、今日の妻の出来事を聞いた。読書会(塚本虎二「イエスという人)、ウィークデーの集い企画会議、伊東彊自先生未亡人への見舞、●またパソコントラブル。天国の魅力の一つは天国にはパソコンがないこと●蔵書量と信仰の深さは反比例するが、パソコンの強さと、信仰の深さも反比例するかもしれない●イマドキのワカイモンがパソコンができない世代を「人間でないような」見方をしているのは明らかに間違い。●パソコンに強い人間達は「古典」の知識がないことが共通現象なのはなぜだろう。パソコンで忙しくて本を読むひまがないとしたら、禍である。そういう人は「気違いに刃物」でパソコンが凶器になって年寄りを小馬鹿にする。あー、人間として低級だ。パソコンなくても生きていける。。聖書をパソコンで勉強したからといって信仰が深まるわけではない。パソコンは補強の手段の一つ。

 

 

 



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神様あんまりじゃーないですか ++++++++ 所感

2008/02/05 07:28

080205(火)。4時半目覚め。朝の黙示「神様、あんまりじゃーないですか」「伝道者になるな。恥さらし者となれ」「祈りは聴かれる」「日ごとの食べ物を与えたまえ」・・・今日はこれらを聖書で勉強しよう。●朝風呂で日経「私の履歴書」。日本サッカー協会会長の川渕三郎。高校時代にサッカー部に入ってしごかれつつ次第に頭角を現してくる。人間、高校時代が人生を決する。高校時代に米国留学した人は大体「キリスト者」になる。「新約聖書ギリシャ語入門」の著者K先生(故人)は、大学教授にもなれたが、「教育は高校だ」という考えから、大学付属の高校に生涯を捧げた。「汝の若き日に汝の造り主を憶えよ」は真理。大学では遅い。一昨日のNHKの報道で「今の大学生が読む本の数は(マンガも含めて!!)、極めて少ない」とあった。「鉄は熱いうちに叩け」。

●「神様、あんまりじゃーないですか。こんなに真面目に生きてきたのに」。人生は不可解、不条理なことがあり、人知れずに泣く時がたびたびあるものだ。聖書にもそういう場面がある。そういう場面では必ず「私だ」と言って主が近づいてくださる。そのとき失ったものが「色褪せて」見えてくる。自分の高慢、自慢の気持ちが砕かれる。そしてあんなに欲しがっていて「それが幸福だ」と思っていたものにさっぱり興味を失う。そして「世の中には不足の悲しみを抱いている人」が大勢いることに目があくのだ。「この悲しみは自分だけじゃーないんだ」。

新改訳 マタ 19:27-30
19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」
19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。

塚本訳ヨハ 11:21-25
11:21 マルタがイエスに言った、「
主よ、あなたがここにいてくださったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかしあなたがお願いになることなら、神様は何でもかなえてくださることを、わたしは今でも知っています。」
11:23 イエスは言われる、「あなたの兄弟は生き返る。」
11:24 マルタが言う、「最後の日の復活の時に生き返ることは、知っています。」
11:25 イエスがマルタに言われた、「わたしが復活だ、命だ。(だから)私を信じている者は、死んでも生きてい
る。

「伝道者になるな。恥さらし者になれ」。私が18歳の時から所属してきた無教会集会の「東京聖書読者会」の先輩たちは、私に対して無言のうちに「伝道者になるな」と教えてくれた。これは塚本先生が「聖書学者になるな。伝道者になるな」と言われたのを受けている。なるほど「教えてやろう」という気持ちでは福音は伝わらない。ましてや社会的地位としての牧師や神父になろうという魂胆では福音は伝わらない。自分が神尾にうちのめされて、腰骨がおられて、さんざんな目にあって、人生のどん底に落ち込む経験をした者でないと、そのどん底の人に心が通じない。

塚本訳Ⅱコリ12:7-9
12:7 そしてこれらの素晴らしい啓示があるので、わたしが高慢にならないようにと、わたしの肉に一つの刺が与えられた。悪魔の使いであって、これはわたしが高慢にならないようにと、わたしをうつものである。
12:8 この使について、それがわたしから手を引くようにと、三度まで主に願ったが
12:9 主は(その都度)言われた、わたしの恩恵はあなたに十分だ。力は弱さの中に完成されるのだから。」、それでわたしはキリストの力がわたしに住みついてくださるように、大喜びで、むしろ(自分の)弱いことを自慢しよう。

口語訳 哀  3:27-29
3:27 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである
3:28 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。
3:29 口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう

新共同 哀  3:27-29
3:27
若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
3:28 軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。
3:29 塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。

新改訳 哀  3:27-29
3:27 人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
3:28 それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
3:29 口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。

●「祈りは聴かれる」。この言葉は理論ではなく、実体験でなければ自分のものにならない。今回の私の「胃ガン疑惑」で多くの人の祈りを頂いた。そのことによって私の身に「思いもよらない平安」が訪れ、「死の時もこのようであったら楽だなー」と思えたのである。確かに祈りは効き目がある。

塚本訳 ピリ 4:6-7

4:6 何事についても心配せず、君達の求めは感謝を添えた祈りと願いとにより、大小となく神に知らせよ。

4:7 そうすれば全く思いもよらぬ神の平安が君達の心と考えをキリスト・イエスにおいて守るであろう。

塚本訳 ヤコ 5:14-15

5:14 君達の中に病んでいる者があるのか、その人は教会の長老を呼び、長老たちは主の名により油を塗って、その人のことを祈ったがよかろう。

5:15 信仰(による真)の祈りは病人を癒し、主は彼を立たせ給うであろう。そしてもし罪を犯して居るならば、赦されるであろう。

塚本訳 マタ 18:19-20

18:19 なお、アーメン、わたしは言う、何事によらず、もしあなた達のうちの二人が心を一つにして地上で祈るならば、わたしの天の父上は(きっとその願いを)かなえてくださるだろう。

18:20 二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」

新共同 ヤコ 5:16-17

5:16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

5:17 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした

塚本訳ロマ 8:26-27

8:26 しかし(創造物やわたし達神の子が苦しんでいると)同じように、御霊も、弱いわたし達を助けてくださる。すなわち、(神のみ心にかなうには)どう何を祈るべきかわからないので、御霊自身が、無言の呻きをもって(わたし達の祈りを神に)執り成してくださるのである

8:27 しかし(人の)心を見抜くお方[神]は、御霊が何を求めているか、すなわち、御霊が神の御心にかなうように聖徒たちのために執り成しておられることを、(もちろん)御存じである。

塚本訳 マタ 6:6

6:6 あなたが祈る時には、『奥座敷に入り、部屋をしめきった上で、』隠れた所においでになるあなたの父上に『祈れ。』そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう 

●「日ごとの食べ物を与えたまえ」(マタイ6:16)。公務員、大企業でも危ない。公務員は身に覚えのない汚職疑惑でやめざるをえない。部下の不祥事で責任をとってやめなければならない。大企業でも倒産する。不採算部門だからだという理由だけでリストラになる。病気をして休職しても給料が出るのは3か月間でその金額は大体6割。あとは雑巾のように捨てられる。地上のいかなる職場も永久に安泰というわけにはいかない。今や年金すらも危ないのだ。では何が安全か。神からの「マナ」だ。そんなバカなと考えられるが、私の過去の経験から言って「餓死」はしなかった。「思わぬところから」「思わぬ方法で」お金が入ってきた。火災で家屋が全焼したら、隣地の大地主がわたしの土地を高く購入してくれた。なぜか。私の土地を入手すると、今まで接道していなかったその人の土地が接道することになって、土地価格が上昇するからであった。その後その地主さんをお訪ねしたら、すでに亡くなっておられた。こういうとき信仰者としては、その人は「神の使い」だったのではないかと思うのだ●今の若い人の心配は「教育ローン」と「住宅ローン」。この無神論者たちの経済的不安が少子化の原因。亡国につながる。ローマ帝国は性道徳の乱れで人口が増加しないで滅びた。

塚本訳 マタ 4:1-4
4:1 間もなくイエスは悪魔の誘惑にあうため、御霊につれられて荒野に上られた。
4:2 四十日四十夜断食をされると、ついに空腹を覚えられた。
4:3 すると誘惑する者[悪魔]が進み寄って言った、「神の子なら、(そんなにひもじい思いをせずとも、)そこらの石ころに、パンになれと命令したらどうです。」
4:4 しかし答えられた「『パンがなくとも人は生きられる。(もしなければ、)神はそのお口から出る言葉のひとつびとつで(パンを造って、)人を生かしてくださる』と(聖書に)書いてある。」

●某キリスト教書出版社の女子職員に電話で激怒。「過日あなたに質問をしていましたが、今だにお答がありません。もうずいぶん時間がたちました。こういうことだからキリスト教の評判が悪くなるのだ。民間企業だったらこういう会社はすぐ潰れる。あるいはあなたのような人は即クビだ。すぐ答えられなければ答えられない理由を速やかに返事しなければならない。あなたはそれすらしてない。ダメだなー」。●とにかくキリスト教と冠のつく会社や団体はダメ人間がそろっている。これでは日本に福音が伝わるはずはない。キリスト教の土着などおぼつかない。民間企業の人に笑われる。クリスチャンである前に立派な社会人、礼節を重んじる人間でなければならない。あの某キリスト教書の出版社はキリスト教の評判を落としている。だらしないなー、だめだなー。あれじゃーお先真っ暗だ。人からはもちろん神からも嫌われる。いっそのこと「キリスト」の看板を降ろせ。これ人間についても言える。イエスは次のように弟子たちに発破をかけている。

塚本訳 ルカ 16:8
16:8 すると主人はこの不埒な番頭の利巧な遣り口を褒めた(という話)。この世の人は自分たちの仲間のことにかけては、光の子(が神の国のことに利口である)よりも利巧である

●妻が集会(東京聖書読者会)の会計報告書を作成しているので、少し手伝った。イエスは次のように言う。

塚本訳 ルカ 16:10-12
16:10 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。
16:11 だから、もし(この世の)不正な富に忠実でなかったならば、だれが(天の)まことの富をあなた達にまかせようか。
16:12 もし他人のもの[この世のこと]に忠実でなかったならば、だれがあなた達のもの[天のもの]をあなた達に与えようか。

●Jバイブルで「忠実」をヒットして心に響くもの。

塚本訳 マタ 25:21-23
25:21 主人が言った、『感心々々、忠実な善い僕よ、少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一しょに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も進み出て言った、『御主人、二タラント預りましたが、御覧ください、ほかに二タラントもうけました。』
25:23 主人が言った、『感心々々、忠実な善い僕よ、少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一しょに喜んでくれ。』

塚本訳 ルカ 16:10
16:10 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。

塚本訳 ルカ 19:17
19:17 主人が言った、『感心々々、善い僕よ、ごく小さなことに忠実であったから、十の町の支配権を持たせる。

塚本訳 Ⅰコリ4:1-2
4:1 いずれにしても(わたし達はキリストの福音のために働いているのであるから、)人はわたし達をキリストの部下、神の秘密の管理人と考えなくてはいけない。
4:2 この際、管理人にはなお、その人が(主人に)忠実であることが求められる。

塚本訳 ヘブ 3:5-6
3:5 なお『モーセは』、(将来預言者たちにより、また御子によって)語られるべきことを証するために、『(一人の)僕』として、『神の全家に忠実』であったが、
3:6 キリストは『神の家』の御子として忠実であった。そして(キリストを信ずる)わたし達は、そのキリストの家(の者)である。もしわたし達が(大胆な)信頼と、希望の誇りとを最後まで堅く守っているならば。

●歯科。池谷医院、郵便局。夕方になってしまった。

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アーきれいな夕焼けだなー。讃美歌43「み神のたまいしこの日も暮れけり」。この讃美歌大好き。こういう詩が書ける詩人になりたかった。

讃美歌43

1. みかみ の たましい この ひ も くれけり,

   いざ や けさ の ごと みめぐみ を たたえん.

 

2. ひかり に むかいて めぐる ち と とも に,

   ち に ある みたみ は みわざ に いそしむ.

 

3. くにぐに, しまじま, しずか に あけゆき,

   いのり は もださず, ほめうた は つきず.

 

4. われら に わかれて かくれし ひかげ は,

   にし に すむ とも を みわざ に ぞ さます.

 

5. おこりて ほろぶる よ の くに に かわり,

   ときわ に さかゆる みくに ぞ とうとき.

 


 

 

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孫たちへの遺言 ++++++++ 所感

2008/02/04 06:45

080204(月)出勤日。4時半起床。朝の黙想「孫たちへの遺言」●朝風呂で日経「私の履歴書」。日本サッカー協会会長の川渕三郎。良い先生との出会い。・・・・・・人生は出会いで決まる。今いる身近な人は大切にしなければならない。一生で出会う人はそう多くはないのだ●某氏へメール。その一部を掲げる。

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コンピュータのプロにして修復ギブアップとは私の慰めです。

神の応答機能は壊れないと思うと安心です。

パソコンデータのことですが、多分ワシントン図書館だったと思いますが、書籍は電子データで保存することを(今日本の国会図書館はそれをやっていますが)やめたそうです。理由はそうやって保存しても10年後にはそれを開くマシンがおそらく存在しないだろうというのです。そこで旧来の紙媒体にしているそうです。しかし私が協力している今井館の経験では紙は酸性化して崩れます。そうすると古代のように粘土板に書くのが良いのかもしれません(笑)。しかし思います。過去のデータは消えて結構。忘れて結構だと。天地は消え失せるのだ。ダンテの神曲にあるそうです。来世に入るときはレーテの川(忘却の川)に浸り、過去の一切の記憶(いまどきでいえばデータ、記録)を忘れなければ来世に入れないのだそうです。

●「孫たちへの遺言」・・ひらがなで書く。

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「こまったときはおいのりしてみよう」

●「こまったとき」というのは、びょうきになったとき、どこかいたいところがあるとき。ともだちにいじめられたとき、つめたくされたとき。おかねがないとき、おこずかいがほしいとき。

●「おいのり」というのはかみさまはきっといるんじゃないかなーとしんじて「あのね」とおはなしするようにすればいいんだ。「かみさまあのね。わたしはいまこういうことでこまっているのです。どうしたらいいんでしょう」といえばいい。うまくはなせなかったら、「いたいよー、かなしいよー」というだけでもいいんだ。

●「してみよう」というのは「もしかしてかみさまっているのかもしれない」「もしかしてなおるかもしれない」とすこしうたがっていてもよいんだ。もしかしたらというかすかなのぞみをかけるのでよいのだ。かみさまはきっとなんとかしてくださるとすこしでもおもえばよいのだ。

●きっとねがっていたいじょうのよいものかなえられる。ぜったいだ。

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●祖父の私は孫たちに金銭は残せない。財産も残せない。

文語訳 使  3:6
3:6 ペテロ言ふ『金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に與ふ、ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め』

塚本訳 使  3:6
3:6 ペテロが言った、「金銀は持っていない。わたしの持っているもの、それをやろう。──ナザレ人イエス・キリストの名で歩きなさい!」

●「こまったとき」。人生は漕ぎ悩むボートでの船旅だ。長い船旅だ。ありとあらゆる「こまった」ことが襲ってくる。

塚本訳マタイ14:24-27

"401424","(弟子たちの)舟はすでに幾スタデオも(一スタデオは約五分の一キロ)陸を離れていたが、向い風のため波になやまされていた。"
"401425","第四夜回りのころ(すなわち夜明けの三時ごろ、)イエスは湖の上を歩いて彼らの所に来られた。"
"401426","弟子たちはイエスが湖の上を歩いておられるのを見ると、幽霊だと思って肝をつぶし、恐ろしさのあまり叫んだ。"
"401427","しかしイエスはすぐ彼らに話しかけて言われた、「安心せよ、わたしだ。こわがることはない。」"

●自分の心がちりじりでうまく祈れないときはただ「うめく」だけでよい。

塚本訳ロマ8:26-28

"450826","ローマ 8:26","しかし(創造物やわたし達神の子が苦しんでいると)同じように、御霊も、弱いわたし達を助けてくださる。すなわち、(神のみ心にかなうには)どう何を祈るべきかわからないので、御霊自身が、無言の呻きをもって(わたし達の祈りを神に)執り成してくださるのである。"
"450827","ローマ 8:27","しかし(人の)心を見抜くお方[神]は、御霊が何を求めているか、すなわち、御霊が神の御心にかなうように聖徒たちのために執り成しておられることを、(もちろん)御存じである。"
"450828","ローマ 8:28","そればかりではない。(わたし達の救いは次のことからも確かである。)わたし達が知っているように、神を愛する者、すなわち(神の)計画に応じて召された者には、すべてのことが救いに役立つのである。"

●「もしかして」という半信半疑の祈りでも良いことは、次の例である。

塚本訳 マタ 9:20-22
9:20 するとそこに、十二年も長血にかかっていた女が近寄ってきて、後ろからイエスの上着の裾にさわった。
9:21 「お召物にさわるだけでも、なおるにちがいない」と、ひそかに思ったのである。
9:22 イエスは振り向いて、女を見ながら言われた、「娘よ、安心しなさい、あなたの信仰がなおした。」するとちょうどその時から、女はなおった。

●信仰は「うたがっていてはいけない」とあるがこれが難しい。理性が納得しない。しかし「芥子粒ほどのかすかな信仰でもよいのだ」。まー「一か八だ」「ダメでモトモト」だ。ためしに祈ってみっるっきゃしょうがないと思うべきだ。三谷隆正は「信仰はヤケクソだ」と言った。崖っぷちに追い詰められたら「カーチャーン」と叫んで海に飛び込んだあの日本軍の兵士のようでよいのだ。

塚本訳ルカ17:5-6

17:5 使徒たちが主に言った、「もっと信仰を下さい。」

17:6 主が言われた、「もしあなた達に芥子粒ほどでも信仰があれば、──(あなた達にはそれがないが、もしあれば)──この桑の木にむかい『抜けて海に植われ』と言っても、言うことを聞くであろう。

塚本訳 マコ 11:22-23

11:22 イエスが彼らに答えられる、「神(の力)を信ぜよ。

11:23 アーメン、わたしは言う、だれでもこの山に向かい、『立ち上がって海に飛び込め』と言って心に疑わず、自分の言うことは成ると信ずるならば、そのとおりになる。

 

塚本訳 マタ 17:20

17:20 彼らに言われた、「信仰が無いからだ。アーメン、わたしは言う、もしあなた達に芥子粒ほどでも信仰があれば、この山に向かい『ここからあそこに移れ』と言えば移り、あなた達に出来ないことは一つもない。」

 

塚本訳 マタ 21:21

21:21 イエスは答えられた、「アーメン、わたしは言う、もしあなた達に信仰があって疑わないならば、この無花果におこった(と同じ)ことをすることができるばかりか、この山にむかい『立ち上がって海に飛び込め』と言っても、その通りになる。

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出勤途中、振り返って雪の奥多摩連山を眺める。8:20


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信仰と歴史的根拠の関係 ++++++++ 所感

2008/02/03 06:05

080203(日)4時半起床。●信仰と歴史的根拠の関係について黙想。●イエスの実在と十字架が歴史的事実でないとしたら我々の信仰は崩れる。少なくともキリスト教ではない。それは「弥陀の本願」と同じ宗教になる。キリスト教は歴史的事実に信仰の根拠を置いている●しかし歴史認識が即信仰でないことはもちろんである●逆に信仰を歴史学に越境してはならない。つまり、イエスは神の子、十字架は人類の贖罪のためであったというのは、信仰がもたらす認識なのでこれを即歴史として無信仰の人に押しつけてはならない。これをするからまずいのだ。無理なのだ●以上のことは「無教会主義」が気をつけなければならないことである。つまり歴史性を軽視してはならない。福音は「使徒伝承」の上に成り立つものであって、歴史の媒介なしに天からの光のみで救いはない。それは「鰯の頭も信心から」となり、理性の安息がない。●このことに関して歴史と信仰を厳しく峻別される新約聖書学の泰斗荒井献先生と共有認識に立てた。そのお手紙の公的で重要な部分のみを下記に記す。もうずいぶん前に私が複数の小拙論をお送りさせていただいたときに御返事として頂いたお手紙である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(前の部分省略)
さて、ファイルの方はまだ通読しておりませんが、二論考の方は読ませていただきました。私もまた佐藤研君と共に、「墓が空だった」ことは歴史的事実と信じます。ただ、「信じる」ということは、弟子たちによるイエス顕現体験を共有することを不可欠の条件とすることを合意しています。空の墓の史実性だけでは復活「信仰」は成立しなかったでしょう。エマオ途上の二人の弟子たちは、―――空の墓の史実性を前提しつつも―――直接的には復活のキリストに出会って、「胸が熱くなった」のです。勿論高橋さんも、イエスの顕現体験との結びつきなしに空の墓の史実性のみを復活信仰の前提にされているのではないでしょう。(このファイルを通読すれば分かることかもしれません)。もしそうであるならば、私は高橋さんと復活観を共有できると信じます。以上簡潔に私の感想を記しました。ご諒解いただければ幸いです。   敬具

                          1999年2月23日  荒井献

                                    高橋照男様

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・●このとき、歴史と信仰、復活観を荒井先生と共有できたことを喜んだ。●このお手紙を頂いた前年に佐藤研先生が「復活信仰の成立」という論考を発表され(「現代思想、1998年4月号)、その根拠を「空になった墓」に置いておられたので「賛同」のお手紙を差しあげた。その御返事が下記である。同じく公的なのでこれは全文を記す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1992年2月6日土曜日

高橋照男先生

先日は、拙論(上記の「復活信仰の成立」・・・・高橋注)を御好意をもってお取り扱いくださり、また先生(小生高橋のことだが当たらない。私は先生ではない。・・・・・高橋注)の御著書を多くお送り下さり、大変恐縮に存じました。私は、イエスの死体がその墓からなくなっていたというのは、それをどのように理解するにせよ、今でも歴史的に十分主張できる事実であると思っております。只、私には、この事実だけでは、イエスの「復活」―――イエスが今も生きている事実―――の納得がいく根拠にはなり得ないと思っております。やはり十字架の一点に自己の存在の焦点を合わせ、その彼方から襲来する愛の力を思い知ることが、即、真の「復活」であると考えています。十字架の死点を通ってくる愛の力には、「死」は存在しえないと思います。私は、信仰とは結局、聖書のドラマに自ら参与して行なう「体験」の別名のように思われてなりません。その意味で先生(小生高橋のことだが当たらない。私は先生ではない。・・・高橋注)、の「胸が熱くなる」経験は、私にも感ずるところがありますし、すばらしいことだと思います。命の根源に人の心がふれる時の、端的な心理の証であるに違いないからです。先生(小生、高橋のことだが当たらない・・・・・高橋注)の『復活のおとずれ』(佐藤先生にお送りした論考の一つ・・・高橋注)も、その想いの著せるものと拝見いたします。先生(小生高橋のことだだが当たらない。わたしは先生ではない。・・・・・高橋注)の集会とご活動に、主の恩恵のいや増しますことを祈りつつ、感謝申し上げます。  敬具

                                        佐藤研

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●この時に荒井献、佐藤研の両先生と「歴史、信仰、復活観」を共有できたことを喜んだ。●ここまで書いて戸をあけると今日は大雪。家の前の道の雪かきをした。

resize0057.jpg

戸を開けると今年初めての大雪。

讃美歌521番「我が罪を洗いて、雪より白くしたまえ」

を思い浮かべる。

●妻と雪道を歩いて集会へ。●集会は川上、小寺、高橋(ルカ15章、「平安な死を迎えるには」・・・HP「使徒伝承」にアップ)●山本さんと会の運営経費の問題を話し合う●昼食は、小寺夫妻と私たちの4名●64年間の日記をCDに書き込む。検索に超便利。

 

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放蕩息子の譬の「母」 ++++++++ 所感

2008/02/02 09:22

080202(土)5時半起床●朝風呂で「放蕩息子の譬話」(ルカ15章11-32)にはなぜ「母」が出てこないのかについて黙想。思いつくままにあれこれ想像した。●私が「放蕩息子の母」という映画を制作するなら次のようにする。

●次男は父に「財産のうち俺の分をくれよ」と法律論を持ち出してトッポク言う。人間関係、法律を持ち出すときは最後●父と次男は確執が解けないので母は次男の着る物をまとめて父の留守の時に「早くどこかに行きなさい」と言って送り出す。その後姿をみて祈る●しかしどこへ行ったか分からないとなると「母」は深く心配し、たまらず少しでもお金を渡そうと思って都会に探しに行く。その「母の心」「女の心」は次の3か所から想像できる。しかし広い都会では息子を見つけられなくてがっかりして帰ってくる。

塚本訳ルカ 2:42-48
2:42 イエスが十二歳になった時、両親は(その)祭の習わしに従って、(彼を連れて都へ)上った。
2:43 (祭の)日が終って帰る時、イエス少年はエルサレムにのこったのに、両親はそれを知らなかった。
2:44 道連れの中にいるとばかり思って、一日路を行ったのち、(はじめてそれに気づき、)親類、知人の中を
捜したけれども、
2:45 見つからないので、捜しながらエルサレムに引き返した。
2:46 そして(都を出て)三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中に坐って、話を聞いたり尋ねたりしているのを見つけた。
2:47 彼の話を聞いている人々は皆、その賢いうけこたえぶりに舌をまいていた。
2:48 両親はこれを見て驚き、母が言った、「坊や、どうしてこんなことをしましたか。ごらん、お父さまもわたしも(こんなに)心配して、あなたをさがしているではありませんか。」

塚本訳マタ 2:16-18
2:16 あとでヘロデは、博士たちに出し抜かれたことを知って非常に怒り、ベツレヘムをはじめ、その地方全体にいる男の子のうち、(前に)博士たちに確かめておいた時間で計算して、二歳以下の者を、一人のこらず殺させた。
2:17 その時、預言者エレミヤをもって言われた言葉が成就したのである。──
2:18 『声がラマに聞えた、──(ラケルの)』はげしい『わめきと、なげきの声である。ラケルはその子らのために泣くばかりで、慰められようとしない、子らがもういないので。

塚本訳ルカ 15:8
15:8 また、どんな女でも、ドラクマ銀貨[五百円]を十枚持っていて、もしその銀貨を一枚無くしたとすれば、明りをつけて家(中)を掃き、それを見つけ出すまでは、丹念にさがしつづけるのではないだろうか

●探しまわる心は「母の心」だ。どんな子供をも捨てない母の愛。これが女性の心●放蕩息子が「食えなくなった」ときに思い出したのが母の温顔。「かあさんならきっと迎えてくれる」と思う。●息子が帰らないうちに母は病気で死ぬが、死ぬ時に夫に言う。「息子が帰ってきたら絶対に怒らないでくださいよ」●そして人生万策尽きた放蕩息子が帰ってくる。遠くにその姿が見えると、父は「オーイ、カーサン。息子が帰ってきたぞー」と言って奥の部屋に入るが、そこには妻の温顔の遺影があるのみ。●父は息子に「バカモン!」と一括しようとしたが、妻の遺言を思い出してぐっと思いとどまる●そこで、御馳走を作らせるが、それを召使に命ずる(ルカ15:22)妻に言わないで召使に言ったところに、そのときはすでに妻がいなかったことが想像できる。妻に先立たれた男寡(やもめ)は食事作りに苦労するものだ●日本人に受ける映画はここでおしまい。●もしキリスト教に「十字架の贖罪」がなく「慈母観音」のような宗教と同じであったら、無数にある宗教とどこも変わらないものであって、世界宗教にはならなかったであろう。2000年の歴史に埋没して日本には到達しなかったであろう。どこか砂漠に染み込んだ川のようにどこかの国で消えてなくなったであったろう●「十字架の贖罪」とその証明である「有体的復活」があることがキリスト教をわかりにくいものにしている●父の背後には母の心があった。夫婦は二人で一人前である。父性にも母性にもそれぞれに限界というものがある。だから結婚とう制度が人間にはあるのだろう●幼い子供二人を残して夫人に先立たれた塚本先生は某夫人に「私の家は片端(かたわ)だ」と嘆きを漏らされたことがあったという。伝道者の生涯の悲哀だ。神にそうさせられたのだ。●内村鑑三は「米国宣教師は神の愛ばかり説いて「神の義」を説くことをしなかったことがよくなかった」と言った●それに反して塚本虎二は「十字架は義としてみるより、愛として見るとよくわかる」という●遠藤周作の小説「沈黙」は踏み絵のマリアから「踏みなさい、お踏みなさい」という声が聞こえてくる。●踏まれる「マリア」。そこに痛みがある。そこに贖罪の愛がある。●放蕩息子の譬話の影の主役は「母の愛」ではないだろうか。イエスは言う「神は愛なり」と。●放蕩息子の父も苦労した。悩んだ。そこに十字架の苦しみがあった。

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私の労働部屋。早朝、ここからHPを発信している。棚には亡き父と母、家族、塚本虎二先生の写真、一級建築士の免状、レンブラントの「エマオの晩餐」、十字架のキリスト像はバッハ「マタイ受難曲」CDの表紙をコピーしたもの。塚本先生の直筆の書である詩篇の句「主は正しき者を愛したもう、直き者は彼の顔を仰ぎみん」がヘブライ語、ギリシャ語で書かれているもの。故大熊好子さんに2001年に頂いたもの。内村鑑三全集岩波新版、スピーカー。座る椅子の位置が二つのスピーカーの頂点に位置している。出窓の植木鉢は妻が管理。出窓の下などにクラシックのCD2000枚。机の左側はサイドテーブル。最近はパソコンのために机はサイドテーブルでなければならない。その奥がソファー、疲れた時は外の景色を見ながらここに休んだり音楽を聴く。サイドテーブルの上は編集中の「藤林益三」の原稿。パソコンはディスプレーが富士通、CPUはEマシーン。その右が書類棚のトレー。

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合わない人がいるという人生苦 ++++++++ 所感

2008/02/01 06:53

 満64歳6ヶ月 職場完全退職まであと1年2ヶ月 平均余命18年。死亡推定年齢82歳。(未定。神の御心次第)。ライフワークは、「有体的復活」の伝承を担う使徒でありうること。「神の絶対恩恵による無条件の罪の赦し」を伝承すること。 

080201(金)出勤日。5時起床。朝の黙想「合わない人がいるという人生苦」●朝風呂で日経「私の履歴書」。日本サッカー協会会長の川渕三郎。三男で生まれる。「三郎」という名前には親が手抜きでつけたようで好きでなかったという。しかし姓名判断によると「一か八かの人生を歩む」という名前だということを知ってから「どうせおれの人生、一か八だ」と思って前のめりに突き進む人生を歩んできたという。●「合わない人がいるという人生苦」。長い人生には「合わない人が近くにいるという人生苦がある。これは病苦や経済苦に匹敵する重い苦である。なかなか去らない苦である。血液型が合わない人がいるように、心の血液型が合わない。実に不思議なことである。このことを分類分析して、聖書にその助けを求めて見よう。

①・私のことをゲジゲジでも見るように嫌う人。その人は私が早く「いなくなることを願って攻撃してくる」。・・・こういう人とは会わないようにすることがよい。仲直りしようと思ってどんなに努力しようとしても無理。「足の埃を払いおとす」という「別れの儀式」をやって永久に会わないようにしたほうがよい。その人と争うことは「御心ではない」。塩をまいて逃げるのがよい。嫌いな人を逆襲せず「あの人とは道が違うんだなー」と思ってジェントリーにジェントルマンで離れるようにするがよい。逆襲することはジェントルマンではなく「銭取るマン」になる卑しいことだ。(笑・自戒)。嫌いな人を大衆の面前に引き出して正義を主張したり裁判にかけるようなことをしてはいけない。

塚本訳 マタ 10:14
10:14 しかし人があなた達を歓迎せず、あなた達の言葉に耳をかたむけないなら、(すぐ)その家なり町なりを(出てゆけ。そして)出てゆくとき、(縁を切った証拠に)足の埃を払いおとせ

②・思想信仰上で合わない人。・・これは死ぬまで戦いあるのみ。某氏が「高橋さんと○○さんとは天的の間柄ですね」と言ってくれた人がいる。そうだそれは「行為主義と信仰主義」の真理の戦いなのだ。ここで折れると真理に反する。先人の一人が「人生には敵がいなければならない」と言った。それは真理の戦い。ルターの敵はローマ法王。イエスの敵は「職業宗教家」「聖書学者」。彼らをまともに批判したので彼らに殺されるにいたった。「敵を愛せよ」という言葉は「敵」が存在することが前提。この言葉、仏教者に言わせると「敵」という概念があるのが間違いというが、キリスト教では敵がいることが前提。この戦いが歴史を作る。ヒルティは「鉄の額(ひたい)を持ち続けることが大なることをする」と言った。鉄の額(ひたい)とは抵抗の姿勢のこと。人生には「敵」を作って「高尚な戦い」をすべきである。リンカーンの独立戦争は奴隷解放のためであった。ルターは信者をローマ法王から解放した。そして聖書を僧侶の手から奪還した。

塚本訳マタ 5:43-44
5:43 あなた達は(昔の人がモーセから、)『隣の人を愛し、』敵を憎まねばならない、と命じられたことを聞いたであろう。
5:44 しかしわたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈れ。

③・恩師と合わなくなる・・・・・人が成長していく時はその恩師と合わなくなるときが来る。学者、芸術家、宗教家、などなどすべての分野にこれがある。自分を蹴飛ばしていく弟子を作らない師はダメ教師。しかし独立してから、恩師の苦労を思い出す。これは親子関係も同じ。親へ不満を持って家を出て行く子供を作らない親はダメな親。世の中進歩がない。次のイエスの言葉は「あなたたちの苦労は師である私以上ではない」という慰めの言葉。振りかかる苦労の重さにおいて「師である私に勝らない」ということ4

塚本訳 マタ 10:23-24
10:23 この町で迫害された時には、次の町に逃げてゆけ。アーメン、わたしは言う、人の子(わたし)は(すぐに)、あなた達がイスラエル人の町々を回りつくさぬうちに来るのだから。
10:24 弟子は先生以上でなく、僕は主人以上ではない。(だからあなた達が迫害されるのは当り前である。)

④・組織内で合わない人・・・・その争いは単純で低級。地位争い、どちらが偉いかの争い。これは物理的組織内で顔を合わせるときだけのこと。だからその組織がなくなると争いは止む。だから低級な悩み。倒産、退職、離職、転職、転勤などでその争いは消える。組織内で立派な指導者が死ぬと、決まって小粒の後継者が主導権争いを起こすのが「この世」の常。思想信仰の集団ではそれが殺し合いに発展するから恐ろしい。共産党の粛清。宗教の世界の破門、断罪。

塚本訳マコ 9:33-35
9:33 カペナウムに来た。家につかれるとイエスは、弟子たちにお尋ねになった、「道々何を評議していたのか。」
9:34 彼らは黙っていた。(自分たちのうちで)だれが一番えらいかと、道々論じ合っていたからである。
9:35 イエスは坐って、十二人を呼んで言われる、「一番上になりたい者は皆の一番下になれ、皆の召使になれ。」

⑤・神から遣わされる敵・・・これはありがたいと思わなければならない。ただし合わない人が「神からの人」と思えるかどうかは自分の見方にかかってくる。自分の程度が問われる。信仰が問われる。

塚本訳Ⅱコリ12:7
12:7 そしてこれらの素晴らしい啓示があるので、わたしが高慢にならないようにと、わたしの肉に一つの刺が与えられた。悪魔の使いであって、これはわたしが高慢にならないようにと、わたしをうつものである

神から遣わされ敵で最大のものは「妻」だ!!。これ最高、最大、最強。しかしありがたい、ありがたい、感謝、感謝と思わなければならいのだ。夫婦は軛につながれた二頭の牛。一匹があっちに行きたいと思っても軛につながれている一方が「いい顔」をしないから、不自由なのだ。開業医の妻は大体「ノイローゼ」になりやすい。しょっちゅうもう一匹の牛がそばにいるから。

塚本訳 マタ 19:5-6
19:5 また、『それゆえに人は父と母とをすてて妻に結びつき、二人は一体となる』と言われたことを、あなた達は読んだことがないのか。
19:6 従って、もはや二人ではない、一体である。だから夫婦は(皆)神が一つの軛におつなぎになったものである。(どんな理由があっても)人間がこれを引き離してはならない。」

⑥・自分の十字架というの重荷・・・・・・・・牧師にとって信者は「十字架の重荷」。心の中でしょっちゅう俗っぽい信者を批判していなければならない。聖俗の争い。合わない関係とて牧師と信者の関係ほどのものはない。信者は信者で常に「ダメ牧師」を批判する。また信者と信者の「いがみ合い」と言うのもある。そしてついに教会に嫌気がさす。災いなるかな「お付き合い」のプロテスタント教会よ。こういうときの牧師の慰めの言葉は次。

新改訳1コロサイ1:24

1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。

●「十字架」は負いきれない。それはあまりにも重い。重い十字架に耐え切れずにつぶされ、崩れ落ちたときに神が負ってくださる。それが真に「十字架を負う」ということだ。イエスも負けて十字架を負った。「十字架は自力で負おうとしてはいけない」。十字架は神に無理に負わされる者ものなのだ。

 ⑦・子や親戚が「自分の敵」となる・・・・人生、なぜか身内が宿敵となる。お互い「必死」の戦いをする。血が騒ぐ。これも人生の真理。家族が敵となる。子は親を離れる。塚本訳は「親を捨てよ」とある。信者はだれでも最後まで「信仰一人旅」だ。 

塚本訳マタイ10:34-36

10:34 地上に平和をもたらすためにわたしが来た、などと考えてはならない。平和ではない、剣を、(戦いを)もたらすために来たのである。

10:35 わたしは子を『その父と、娘を母と、嫁を姑と』仲違いさせるために来たのだから。

10:36 『家族が自分の敵となろう。』

塚本訳マタイ19:4-5

"401904","答えて言われた、「造物者が始めから“彼らを男と女とに造られた”こと、"
"401905","また、“それゆえに人は父と母とをすてて妻に結びつき、二人は一体となる”と
言われたことを、あなた達は読んだことがないのか。"

⑧・キリストの血による平和・・・・・・以上のように生まれつきの人間そのままではなぜか合わないようにできている。血がそれを赦さない。血が騒ぐ。どんなに努力しても無理。ゲジゲジを見るように「いがみあう」。日本と韓国はいつまでも「いがみ合っている」。血がそれを赦さない。ヒューマニズムでは解決できない。では救いの道、安息の道はあるか。ある。過日、韓国の伝道者が家屋全焼になった。そのとき私は「内村鑑三全集(旧版)」を送った。その人とはなぜか心が通っていた。これ我ながら不思議な気持ちであった。原因は「キリストは我らの平和」である。人間の心の血液型はキリストの血を注入されて「合わない」血液型はなくなる。日本人と韓国人はキリストの血という血液型が一致するときに初めて「和解」できる。

塚本訳エペソ2:13-20

"490213","エペソ 2:13","しかしながら今やキリスト・イエスに在って、かつては“遠く”あった君達が、キリストの血によって“近く”なったのである。"
"490214","エペソ 2:14","何故なら、彼(キリスト)が私達の”平和”であって、(今まで離反していたイスラエルと異教人の)両者を一つにし、(その仲を割いていた)仕切りの籬なる敵意を取り除け給うたからである。すなわちその肉で、"
"490215","エペソ 2:15","(あらゆる)命令規則から成る律法を廃止し給うたのである。これは(今まで敵であった)この二つの者を己において一つの新しい人に創造りかえて平和を作るため、"
"490216","エペソ 2:16","かくてまた十字架によって二つの者を一つの体において神と和睦させ、十字架において(神と人との間の)敵意を殺すためである。"
"490217","エペソ 2:17","且つ来て、“遠い”君達に“平和の福音を宣べ、また近い者にも
平和の福音を宣べ給うた”のである。"
"490218","エペソ 2:18","というのは、(今)私達二つの者が、(イスラエル人も異教人も、)一つの霊で父(なる神)に近づくことが出来るのは彼によるのであるからである。"
"490219","エペソ 2:19","だから、君達は最早余所の人でも居候でもなく、聖徒と同じ(天上の)市民また神の家族であり、"
"490220","エペソ 2:20","使徒と預言者なる土台の上に築き上げられた建物であって、キリスト・イエス御自身がその“首石”である。"

●ニュースは中国製冷凍毒入りギョーザでもちきり。中国製品は打撃。市場経済は冷酷。市場は本物でないものは買わない●キリスト教の教会も集会も毒入りの話をするところがあれば禍である。正統信仰(イエスは神の子、処女降誕、十字架と有体的復活)を信じていない人が教会や集会を指導するのは「盲人が盲人の手引をする」ことになって、二人とも穴に落ち込む。そういう教会や集会は行っても本物でないからに救われない。そういう教会や集会は一刻も早く自然消滅するべきである。自然消滅の原因は老令化と経済的破綻。マテマテ。現代のプロテスタント教会も集会は、毒すらも入ってない。「毒にも薬にもならない」遊興お祭りイベント集団。どうすればよいのか。イエスは言う「あの人たちを放っておけ。爆撃してはいけないのだ。放っておけ。そのうち自然消滅する。

塚本訳 マタ 15:13-14
15:13 イエスは答えられた、「わたしの天の父上がお植えにならないものは皆、引き抜かれる。
15:14 あの人たちを放っておけ。盲人の手引をする盲人だ。盲人が盲人の手引をすれば、二人とも穴に落ちよう。」

新改訳 黙  3:14-16
3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう


 

 

 

 

 

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