to 日記と感想 2008年03月
Top | RSS | Admin

2008.02 « 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 » 2008.04


将来日記

    将来日記

    XXXXXXXXXXX    終末、復活、永遠の生命、再会(父、母、妻、
              子供、親戚、友人、集会の方々)
              復活と再会の確信はイエスの有体的復活の事実
    291103       結婚60年記念、ダイヤモンド婚
    261016       イカ成人
    251009       コフ成人
    250809       タワ成人
    241103       結婚55年記念。エメラルド婚
    230110       イハ20歳成人
    230713       タテ満80歳
    220728       KM成人
    200713       タテ誕生日満77歳喜寿
    191103       結婚50年記念。金婚
    18秋ごろ 木曜日 阿伎留病院森先生に胃カメラ申し込み
    171229    TM誕生日
    171220     KK誕生日
    171115    TM誕生日
    171030(月)10:00 聖路加 桑本先生
    171016     IK誕生日
    171009     KH誕生日
    1709頃      聖路加約センターに2018年のMRI予約3か月前に聖路加に行く
    170831     芝浦工業会年会費支払締切
    170824(木)12:10キララホールエントランスコンサート、マリンバ
    170822     KS命日
    170817(木)11:30 キリスト教性教育研究会、ナザレ修道会、富永國比古
    170813     KT命日
    170813(日)10:30ナザレン教会浦和教会
    170813(日)14:00比企紀和君
    170812(土)14:00お江戸こらりあーず演奏会、文京シビックホール
    170809     TW誕生日
    170809(水)17:16初音吹奏楽、府中の森芸術劇場ドリームホール
    170808(火)0930池谷医院
    170801     TH誕生日
    170728     TI誕生日 KM誕生日
    170723      IK誕生日
    170713      TT誕生日
    170708(土)14:00在宅医療説明会(キララホール)
    170707(金)10:00池谷医院
    170706      TM誕生日
    170702(日) 集会感話
    170701      TT誕生日
    170630(金)12:20キララホールエントランスコンサート
    170628      IY誕生日
    170627(火)11:00 能城牧師来訪
    170625)日)10:10トミ子集会感話
    170625(日)14:00茅ヶ崎金子邸
    170618(日)15:00今井館総会
    170611(日)14:00武蔵野室内アンサンブル。ブラームス3番他。キララホール


Go on,in the strength of God. ! ++++++++ 所感

2008/03/31 08:45

080331(月)5時起床。有給休暇●朝の示し、続々。「聖なるものを犬にやるな」「パンを水の上に投げよ」「福音を説け。時が良くても悪くても」「しし吼ゆ、誰が叫ばずにいられようか」「家、土地、父母、家族を捨てよ」「方向転換」「一切を捨てよ」「神は最も大切に思っているものを取り上げる」「救われない人間はどんなにひどい苦難にあっても悔い改めない」「無教会は芽の出る種をまかないで人間内村という種を播いていた」「最大の重い罪は『いりません』と拒否する心」「ユダヤ人の最大の罪は福音を『いりません』と拒否した心」「もっと悪質な罪は、親切心からさし出す神や人に、その態度がいけないとひねくれた批判をすること。」「ああなったら、手に負えない。神の恐ろしい天罰がきてもしょうがない」「ユダヤ人の苦難は福音を拒否したからだというのが伝統的な考え」「パウロはロマ書9章で、その悩みを終末の救いに望みをかけた。忍耐の祈り」「ディダクトイ、セオイ、神に教えられるであろう」「コンクリートの心は岩地に落ちた種の譬を連想する」「大賀ハスは2000年後に芽が出た」「罪の語源は『包む』からくる。神にも人間にも隠す。取りつくろう心は罪」「個人情報秘匿を振りまわす人間はたいていクラーイ人間。罪の匂いがする」「そういう人間は秘密秘密の一生で外面を取りつくろって生き抜くから何も残らず発信せず、つまらない人生」「アノ人間は『遊び人クリスチャン』だ」「キリスト教の歴史は聖と俗の戦い。宗教改革然り」 「神に真に帰依すると本能的に嫌われて人間を失う」 [親子別れ。なんのコレシキ」
●「Go on,for thou hast chosen well ; in the strength of God. ! ホイッチャー」(君はよい道を選んだ。行け!神の力によって」

13:30「Jバイブル」の開発者、能城一郎牧師が来訪、妻を交えて懇親懇談延々6時間半。爆笑二度三度●「Jバイブル2008」(新ヴァージョン)の説明を受ける。私が怒りやすく、すぐカッとなるのはEQ(Emotional Quotientエモーショナル・クォーシェント感情指数)が低いからではないかとズバリ指摘された。聖書翻訳の難しさ塚本訳の素晴らしさ黒崎注解の素晴らしさ●脳の話●音楽の話(能城牧師は教会音楽の指導者,途中ピアノを弾かれた)●設計の話(能城牧師は機械工学を学ばれた)●「Jバイブル2008」、新ヴァージョンの開発には50名のスタッフ(神学生、牧師など)からの要望を入れて、一日12時間労働(土日は除く)。右手に湿布を貼ってやりぬいたという。

resize0122.jpg

Jバイブル開発者、能城一郎牧師が来訪、聖書翻訳の難しさ、塚本訳の素晴らしさ、黒崎注解のよさ、音楽、脳の働きなど話は尽きず延々6時間半。

スポンサーサイト
トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


親の所では落ち着かない日がくる ++++++++ 所感

2008/03/30 18:25

080330(日)5時起床●今日は二家族を加えて朝食。朝食では茶碗の数を数える。8個。 ●昨夜来た次男守からドイツ語の発音を学ぶ。

resize0119.jpg

イチゴを食べる娘たち。左から「かなほ」「初音」「和歌」。この孫たちが結婚するころまでは私は生きてはいられないだろう。この写真は2008.3.29 夜。

●集会は、藤巻、村上、高橋(詩篇126篇を読む)

resize0120.jpg

都立あきる台公園で花見。14:25

左から伊勢愛子、伊勢初音、高橋守、高橋穂澄、高橋和歌。撮影は高橋照男。伊勢かなほは乳母車で睡眠中。

●娘の愛子と口論をしていると、孫の初音が愛子の背中を叩きながら「喧嘩しない、喧嘩しない」。こういう日が来るとはなー●人にはそれぞれ落ち着き場所というものがあるようだ。落ち着く家庭(夫のもと、妻のもと)、落ち着く職場、落ち着く教会、落ち着く集会。●残念ながら地上に落ち着くべきところがない人は「神のもと」で安らぎを得る。これ真の落ち着き場所。

●夜、伊勢喜明氏が愛子と子供を迎えにくる。娘も孫娘も喜明氏が落ち着き場所のようだ。●伊勢喜明一家が帰る。孫は慣れた頃に別れ。

resize0121.jpg

お父さん(伊勢喜明氏)が迎えにきて大喜びの孫の「初音」と「かなほ」。

落ち着いている。二人の孫は父親の取り合い。

しかし、この父親を嫌って捨てるという親子別れの「恐ろしい日」が来るのだ。

 ●人は「親の所が落ち着けない」という日が来るものだ。それは不思議な神秘的な現象。子供としては親の所がなんとなく落ち着かない日がくるものだ●親としても子供が親の所にいつまでもいると「かたずかない」という気分になる。子供が結婚して家を去ることを「かたずく」とはよく言ったものだ

文語訳マタ 19:5
19:5 「かかる故に人は父母を離れ、その妻に合ひて、二人のもの一體となるべし」と言ひ給ひしを未だ讀まぬか。

新共同 マタ 19:5
19:5 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。

新改訳 マタ 19:5
19:5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。

塚本訳 マタ 19:5
19:5 また、『それゆえに人は父と母とをすてて妻に結びつき、二人は一体となる』と言われたことを、あなた達は読んだことがないのか。

●人間は親と「なんとなく」合わなくなって家を出て行くのがその生物現象。創造の摂理。聖書的真理。具体的には「親のことが嫌いになる」のである。親の方も子供がそばにいることが、「落ち着かない」という日が来るのだ。生物現象、生理現象、創造の秩序、自然の摂理。実も、花も、葉も、いつかは木から落ちるのだ。それが自然、自然●人間は自然に生き、自然に死ぬのがよい。親は子から嫌われて離れられるのが自然。

●福島のY兄から、恵一家が「主の家族」のなかにいる写真が送られてきた。感謝●理屈は抜きに、人間には心が落ち着く場所が必要。両親、家庭、職場、教会(集会)、健康体。●これに恵まれない人もいる。奪われる人がいる。その方が幸い。なぜか。「本当の休息の場所」である「神の場」「神の懐」「主の家」に導かれるから。●しかし地上の「神の家」たる教会に落ち着けないのがクリスチャンの悩み。●クリスチャンは「この世」ではなんとなく落ち着かない。しかし「主の家族」という教会や集会でも落ち着かない。神のもとで初めて安らぎを得る。そののちに落ち着く「主の家族」に招き入れられてはじめて地上で「息をつける」

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


最後の望みを復活に託す ++++++++ 所感

2008/03/29 08:07

080329(土)4時半起床。朝の黙想。「最後の望みを復活に託す」。●殺人事件のニュースが多い。彼ら殺人犯人は「この世」には安住できない。その望みは神による罪の赦しと来世での復活。これ以外に望みはない。●明日の感話の原稿をまた直す。最後の最後まで修正。修正したところは次のとおり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●人生は「あざなえる縄のごとし」でよく三つにわけて考えられる。順列組み合わせで次の8種類になる。苦楽苦、苦楽楽、苦苦楽、苦苦苦。楽苦楽、楽楽苦、楽苦苦、楽楽楽。●同じ聖書の言葉でも人生の諸段階では違った響きに聞こえてくる。●藤林先生の御晩年は詩篇126篇の5~6節と重ね合わせて解することができる。それは夫人の激しい痛みを伴う難病を通して「忍耐と涙と祈りによる」来世復活への希望の御心境だったのではないか。それは今回発行する「藤林益三」という本に付録として掲載した「内村鑑三とヨブ記」(内村鑑三記念キリスト教講演会・大阪)に表明されている。その講演の結論は、夫人の不治の病は「復活に最後の望みを託すきりなかった」と読むことができる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●愛子と孫二人の4人で公園で遊ぶ●妻は合唱の練習。モーツアルト「レクイエム」、ドボルザーク「スターバトマーテル」、これは東京都交響楽団とオケ合わせ●小寺利男さんが来訪、改訳未了塚本訳の完成について懇談。これも残された大問題。●穂澄さんが子供を連れて来訪。孫が三人集合した。

resize0116.jpg

孫たちが公園のブランコで遊ぶ。私はブランコに乗るとは気持ち悪くなるので乗れない。

7年前の脳内出血で小脳が欠損、運動神経、平衡感覚がおかしいためである。悲しい。

左から愛子、かなほ、 初音。

resize0117.jpg

孫の「かなほ」の昼寝。何を夢みているのだろう。

人間というのは18年間ぐらいは一人で生きていけない

他の生物とは全然違う。どうしてなのだろう。

 

resize0118.jpg

来訪者。集会の小寺利男さん。塚本訳新約聖書の話。高橋穂澄、高橋和歌。(いとこの初音に会いにきた)

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


悔いる時 ++++++++ 所感

2008/03/28 07:20

080328(金)出勤日。4時半起床●朝の黙示「悔いる時」●自分の子供ばかりでなく他人の子供も橋から突き落として「無期懲役」の判決を受けた女性。法廷で子供を殺された両親に向かって土下座。「大切なお子様を殺してしまって申し訳ありません」と言った。●人は誰でも「大切な○○さんを殺してしまって申し訳ございません」と悔いるときが来るものだ。それが心の中での殺人なら、神に向かって「あなたが創造された大切なアノ人を心の中で殺してしまって申し訳ございません」と悔いるときがおとずれる。カトリック教会ではこのことを「痛悔」(つうかい)という。●文字通り心が痛み。後悔するのである。人間ならば必ず訪れる不思議な感情である。説教しなくてもよい。自然に訪れる●それは不思議なる時。この時は周囲でなにも言わなくても努力して説教しなくても自然におとずれる。●その「悔い」「痛快」・・・・言葉はどうでもよい。実態が大切・・・・・がおとずれた人は「幸い」。なぜか。神の救い、十字架の贖罪の光が射してくるから。この十字架は説教というか伝承しなければならない●この「悔い」「痛快」は人生がメチャクチャ、ボロボロ、ズタズタになった人の方に早く「おとずれる」。

塚本訳  マタ 21:31b-32
21:31b 「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう。
21:32 そのわけは、(洗礼者)ヨハネが義の道を示しに来たのに、あなた達は彼を信ぜず、税金取りや遊女の方がかえって信じたからだ。しかしあなた達は(あの人たちが悔改めるのを)見たあとでも、後悔して彼を信じようとしなかった。

●メチャクチャ、ボロボロ、ズタズタ人生の人に対して世間は冷たい。人間集団たる教会も無教会集会も親戚も冷たい。それはしょうがない。生理的に拒否反応が湧くのだ。人間ではだめだ。神の所にのみ救いがあるのだ。神のみが受け入れてくれるのだ。

resize0111.jpg

(キリスト教会付属の)幼稚園の春休みで孫が来る。左は「初音」満5歳。来年は一年生。「1年生になったーら」という歌を歌ってくれた。

右は「かなほ」。満1歳。食欲旺盛。しゃべるのが遅いと母親の愛子(うしろ向き)が言う。子育ては生涯「心配続き」だ。

●午前、隣の席にいる人から「エクセル」のやり方をお教えてもらった。便利 ●午後は休暇。念願の「小石川後楽園」に行く。桜が満開。ボランティアガイドの説明は1時間半、非常によかった。

resize0112.jpg

念願の小石川後楽園に行く。桜が満開。正面入ったところにいきなりこの枝垂れ桜。桜はすごいなー。

 

resize0113.jpg

回遊式の庭園は素晴らしい。中国の設計思想がふんだんに取り入れられている。ボランティアガイド

の説明がよかった。美術館ではガイドイヤホーンを借りるとよくわかる。

resize0114.jpg

池を通して桜を見る。周囲の高層ビルが池に映っているのが、時代のギャップ。

 

resize0115.jpg
赤い橋は「通天橋」。こういうロケーションでの「赤色」はよい。ここは

紅葉の時がきれいだという。その頃また来て見よう。

●園内を散策して次回の感話「詩篇126篇を読む」を大変更。

自然の美しさは人間の思想を改造する。批判することをやめる

ことにする。


トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


肉に播くな ++++++++ 所感

2008/03/27 07:26

080327(木)2時目覚め、うつらうつらで5時起床。睡眠不足か。眠りは時間でなく深さらしいのだが。・・・心配。●朝の啓示。「肉を播くな」。

口語訳 ガラ 6:7-8
6:7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる
6:8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。

塚本訳 ガラ 6:7-8
6:7 思違いをするな、神は侮るべきではない。人は(自分で)蒔いたものを、また刈取らねばならない。
6:8 というのは、肉に蒔く者は肉から滅亡を刈取り、霊に蒔く者は(最後の日に神の)霊から永遠の命を刈取るであろう。

●これ今日の勉強課題●今日のキリスト教の世界的な退潮(佐藤研著「禅キリスト教の誕生」岩波書店はこれがテーマ)の原因は芽の出る種をまかないで肉を播いていたからである。種は種でも芽の出ない「肉の種」を播いていたのである●無教会に即して言えば、○○先生記念会といういのは先生という「肉」を播く行為。懐かしのメロディーを歌いながら播いている。それ
もよいが芽がでない。出るはずはない。「肉の種」だから●最近の内村鑑三記念キリスト教講演会の退潮は目を覆うばかり。過日の同講演会終了後に私が発言したこと「今日の講演会は無教会延命策であった。一粒の麦は死ななければ芽が出ない」と。●すると講師の一人が私の目をみて反論。「その通り。だから誰かが殉教しなければならない。」●帰途、T氏が私に言う「あの講師か高橋さんのどちらが先に死ぬかですね」。これ意外に予言かも知れない ●ホームで人を突き落した人間が「経済的理由で大学進学ができなかったので誰でもよいから人を殺したくなった」と自供。これ全国民の罪。全教育者、日本人の親の教育観が断罪されたと感じなければならない。日本人の人生観の破綻。●「大学に行けない」ぐらいで失望するような人間を誰が教育したか。日本人全員の罪だ●かって松本深志高校(進学高)の生徒が山で落雷にあい何人かが死んだときのこと。「あいつらがいなくなって俺の成績の順位があがる」と喜んだ生徒がいた。それを聞いたOT氏(地元松本の無教会伝道者)が「あの高校の教師たちは何を教えているんだ」と激怒されたことがあった。 ●信仰者に対する批判は意味のないことがある。なぜか。信仰の進歩は神の業だから。批評もいけない。自戒。

口語訳 ロマ 14:1

14:1 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。

●今朝の黙示。ガラテヤ6:6-7 の勉強。

●BbBでまずその前後を7種類の翻訳で読む。すると「肉を播くな」ではなく、「肉に播くな」というのがその本質であることがわかる。具体的には金の使い方。金を肉のことに捧げるな、霊的なことキリスト教に関することに捧げという意味。これが「肉に播かずに霊に播け」ということだ。しかし「肉を播くな」でも読み間違えではない。なぜか。犬に向かって野菜は投げない。肉を投げるのだから。

●次にBbBで各国の引照を見る。ピオリの引照がある。ピタリと思うのは自分に前認識があるから。引照にひきずられるのは良くない。

口語訳 Ⅰコリ9:13-14

9:13 あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。

9:14 それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。

 口語訳 ロマ 6:13

6:13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。

 口語訳 ロマ 8:13

8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

 口語訳 ロマ 13:14

13:14 あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。

 口語訳 ロマ 6:21

6:21 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。

 口語訳 ロマ 12:13

12:13 貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。

口語訳 ガラ 6:7

6:7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。

 口語訳 ロマ 6:22

6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。

 口語訳 ロマ 2:7

2:7 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、

 口語訳 Ⅰコリ15:58

15:58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

 口語訳 Ⅱコリ4:1

4:1 このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、

 口語訳 Ⅰテサ5:15

5:15 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。

 口語訳 ロマ 12:13

12:13 貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。

 新共同 Ⅰコリ15:33

15:33 思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。

 新共同 Ⅱコリ9:6

9:6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。

 新共同 ロマ 8:11

8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 新共同 Ⅰコリ15:42

15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、

 新共同 Ⅰペテ2:5

2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

 新共同 Ⅰペテ4:17

4:17 今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。

 口語訳 ロマ 6:21-22

6:21 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。

6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。

 口語訳 Ⅰコリ15:35-49

15:35 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。

15:36 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。

15:37 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。

15:38 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。

15:39 すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。

15:40 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。

15:41 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。

15:42 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、

15:43 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、

15:44 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。

15:45 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。

15:46 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。

15:47 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。

15:48 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。

15:49 すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。

 口語訳 Ⅰテサ5:15

5:15 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。

 

●次に15:8をSORD、TSK日本語ヴァージョンで調べる。

Romans 6:13:
また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。

Romans 8:13:
なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

Romans 13:14:
あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。

James 3:18:
義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。

Jeremiah 12:13:
彼らは麦をまいて、いばらを刈り取る。苦労してもなんの利益もない。彼らはその収穫を恥じるようになる。主の激しい怒りによってである」。

Hosea 10:13:
あなたがたは悪を耕し、不義を刈りおさめ、偽りの実を食べた。これはあなたがたが自分の戦車を頼み、勇士の多いことを頼んだためである。

Psalms 126:6:
涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。 [126:7] 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

Ecclesiastes 11:6:
朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。

Isaiah 32:20:
すべての水のほとりに種をまき、牛およびろばを自由に放ちおくあなたがたは、さいわいである。

James 3:18:
義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。

John 4:36:
刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。

John 6:27:
朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。

Romans 6:22:
しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。

●以上で心一杯胸一杯になる。「聖書で聖書を読む」効果は抜群。この中でも、ガラテヤ6:7-8 の引照をズバリ一か所といえば

John 6:27:
朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。

●これをさらに、塚本で調べる。

塚本訳ヨハネ6:27

6:27 (食べれば)無くなる食べ物のためでなく、いつまでもなくならずに、永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい。これは人の子(わたし)があなた達に与えるのである。神なる父上が、(これを与える)全権を人の子に授けられたのだから。」

●これを黒崎で調べる

黒崎「注解、新約聖書ヨハネ傳」P66の要義3を口語化する。

イエスは彼らに肉のパンを与えることよりも、彼らをローマの束縛から救うことよりも、更に一層重要なる事実、すなわち父なる神の終局の要求をここに示された。すなわち天より下れる霊の糧をあたえて彼らをして永遠に生きる事を得しめ、終わりの日にこれをよみがえらすことであった。イエスの使命はこれ以下のものではなかった。しかるに信仰によりて彼を受けるものはこの恩恵にあずかることができ、しこうしてこの恩恵にあずかる者は肉の問題、この世の問題も完全にこれを解決することができる。

●この黒崎の最後がすごい。霊に播けば[肉の問題、この世の問題も完全にこれを解決することができる」。これ私の実験的の大真理。神の国を第一求めれば、肉のパンなんぞは与えられる。

●公立阿伎留医療センターでピロリ菌駆除の結果を聞きに行く。基準値以下でセーフ。これで一段落。多くの人の祈りに感謝。今秋にもう一度胃カメラの内視鏡検査をすると言われた。

resize0108.jpg

孫の襲来に備えてCD棚の防衛。かってメチャクチャに引っ張り出されて整理に往生した。

resize0109.jpg

あきる野市「さくら通り」。「さくら、さくら」の歌を思う。

「いでゆかん」とはよく言ったものだ。

resize0110.jpg

大塚古墳の前にある「雪柳」。すごい白だなー。花というのは人を楽しませるようにあるのかなー

●娘の愛子が子供二人を連れて春休みの里帰りで来訪。妻が荒川区まで迎えに行く。

●愛子と初音とかなほを交えて夕食。この子たちが成人式を迎える日まで生きていられるだろうかと思うと急に淋しくなった。

 


 



トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


警告のメールが来る ++++++++ 所感

2008/03/26 09:41

080326(水)5時目覚め。パソコンを開くと直撃メールが来ていた。真に重要な内容で真に価値あるものなのでもったいなく思い、御本人にはお断りしないで公表させていただく。さしさわりのあるところは削除。真理認識は激しい「本音」のぶつかり合いから生まれることを思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(前略)

ところで、本25日のブログ拝見しましたが、率直な感想です。

以下引用

●「気の毒な人」のことを思うと、「神がいますなら、どうしてあんな不幸があるのだろう。」と思ってしまう。もう何十年の祈っているのに一向によくならない。●神は残酷だ。どんな慰めの「言葉」も通じない。そんな「言葉」だけのことはもうたくさんだ。神がいるのなら「今すぐ直してくれ」。これ本音。

以上引用終り、

どうしてもこれまでの高橋兄とはちがう。同じ人が書いたとは思えません。どうも真意がつかめません。サタンが激しく攻撃し始めたようにさえ感じます。

●真に「気の毒な人」とはだれか?

●真の「不幸」とは何か?

●何十年も何を祈ってきたのか?

●私たちの罪のために独り子主イエスを十字架に見捨て給うた神は残酷か?

●「言葉」だけか?「言葉」は「人となり給うた」のではないのか?

●今すぐ直らなければ、神はおられないのか?

●私の本音は、永遠の滅びから救いだされること、この「罪のからだ」に死んで「霊のからだ」を賜り、霊・心・からだのすべてにおいて贖われて、永遠のいのちに生きること、永遠に神をほめたたえること、すなわち真の「救い」に与かりたい、これが私の本音です。

●この世のさまざまな「不幸」、この根本的な原因は、アダムの犯した罪です。その罪を受け継いで私たちは生まれてくるのではないでしょうか。私たちは罪の中に生まれてくるのではないでしょうか。私たちは生まれながらに惨めな罪人なのではないでしょうか。

●本日(25日)の貴兄のブログを何十回も読み返しましたが、どうしても解せません。

Webコイノニアの交わりが真実なものであってほしいと思い、忌憚のない感想を述べさせていただきました。

●私の思いが清められ、また私の思いの真意が送信されますように祈りつつ、

(後略)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●キリスト信者がこの世の不条理な苦難に遭遇して信仰がぐらついたとき、上記のような「警告の励まし」を頂ける間柄、これがエクレシアの価値。WEBもこのように使われるとき、その本来の意義があることを思う。

●上記の「激励警告」に対してわたしから下記の返メール。これも上記メールの価値を上げるために公表する。さしさわりのあるところは(・・・・)として伏せる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○○兄

 

頂きましたメールは主にある真の友の証。ありがとうございました。

弁解がましくなりますが、イエスが十字架で「一瞬神を見失った」とき「エリエリ」でした。あの気持ちです。

実は、「気の毒な人」というのは○○のことが念頭にあったのです。彼はブログを「ひそかに」みている「らしい」ので、彼の立場に立って書いたつもりなのです。

彼の(・・・・・・・)は精神が「何十年も前に」不調になりました。そして今も「ボーッ」としているのです。自殺も図った「らしい」のです。(・・・・)彼が「気の毒」でなりません。いや(家族も)「気の毒」でなりません。(・・・・)は一度私に取りすがって泣きました。私は祈り続けました。最近は便りがなく、どうやら(・・・・・)かなにかで家庭内に問題があるような気配です。こわくて聞けません。これが彼にとって「言葉だけのことはたくさんだ」という気持ちなのではないかと、彼の立場に立って書いたつもりだったのです。彼はあるとき言いました。「神がいるなら、抗議する」と。私の祈りはパウロが「刺を取ってくれ」と三度祈ったというあの心境です。愚鈍なる私はまだ彼のことで「我が恵み汝に足れり」とは認識できません。ここで今思いました。彼が「神の恵み」をたとえ生涯知らずに死んでも「神は愛」なのだと。(家族の一人が)教会に行って「お祈り」もできるようになりましたが、続きませんでした。

今回のような○○兄の「警告」はこれで2回目です。一度は「死んだらどうなるのだろう」などと言ったこと。あの時は「ひとこと苦言を言いたい」とお電話がございました。そして今度です。信仰がくずれそうになったときの励まし、これ真のエクレシア。「何十回も読み返した」とありまして、何というWEBコイノニアのありがたさかと思いました。ありがとうございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●以後何通かのやりとりで、5月の集会の「感話」のテーマが決まった。「被造物の呻き(ロマ書)、からだのよみがえり」。●人生の究極の救いは「からだのよみがえり」。不条理の人生はこの希望無くして救いはない。これ逃げではない。「あきらめ」ではない。真理認識だ●同じ警告メールでも私の「ブログ路傍伝道」を潰そうとする悪質メールも来る。こういう人種は心の中で私のことを「死ね」と思っている殺人鬼でどうしようもない人間。非常に程度の低い「遊び人」。●バッハBWV622「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」をA・シュヴァイツァーのオルガンで鑑賞●過日から某氏とメールで「復活」論争。ようやく終戦を迎えて次のメール。ヴェートーヴェン交響曲第6番「田園」第5楽章の気分。これも公的なことなので公開する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○○様

 

塚本訳 ルカ 24:15-16

24:15 二人が(こうして)話したり議論したりしていると、(いつの間にか)御本人のイエスが近づいてきて、一しょに歩いておられたが、

24:16 二人は目をくらまされていたので、それと気がつかなかった。

 

このたび、○○さんとの「議論」で上記箇所を新発見できました。この二人「議論」していたのです。わたしたちのように。するとイエスがいつの間にか近づいてこられたのです。聖書の深さにびっくりです。

感謝。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

●ライ病の玉木愛子のことを思い、ネットで見る。以下があった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

毛虫から蝶になる日を夢見て

 毎年イースター(復活祭)がめぐって来るたびに思い出されるのは、玉木愛子という人のことです。この方はまだ17歳の女学生だった頃ハンセン氏病であることがわかり、瀬戸内海に浮かぶ島、長島の愛生園という施設で生涯を送られました。両手両足を奪われ、視力も失われていきました。ご自分でも、"坐れば達磨、寝ればミイラ"というほどの姿になってしまいました。そして1969年、81歳で天に召されていかれたのです。俳句に親しまれた方で多くの句を遺されました。

 多分発病が判明した女学生の頃詠まれたと思われるものに次のような句があります。

 年豆を夜空に投げて泣く娘(こ)かな

 神さまがおられるなら、なぜわたしをこのような病気にしたのですか、と神がおられる天に向って泣きながら豆を投げつける自分を詠んだものと思われます。

 ずーっと後に次のような句も読まれました。

 毛虫匍(は)へり蝶となる日を夢見つつ

 今の自分を毛虫になぞらえ、来るべき日に蝶として甦る望みを詠まれたものです。

 この二つの句の間に何があったのでしょう。彼女はキリストと出会い、救いを体験し、自らの復活の希望を持つにいたったのです。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」  (新約聖書・ヨハネ福音書11章25節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●これどこかの牧師の説教らしい。偉い牧師だ。

●家から歩いて30分のところの「切欠」に妻とカタクリの花を見に出かける。

resize0104.jpg

カタクリの群生。この花は他の土地に持って行ってもなかなか

根付かないそうだ。人間も花が咲く「土地」というものがあるんだなー

resize0105.jpg

老木が倒れて道をふさいでいる。人間もいつかは倒れるのだが、

道をふさいで倒れてはいけないなーと思った。

resize0106.jpg

カタクリの花をアップ。バレリーナかスケーターのようだ。

スケートで優勝した浅田真央ちゃんを思った。彼女はまだ17歳で

あったなー。

 

resize0107.jpg

左の大きな木は柳。新緑が美しい。その下で老人たちがゲートボール。この老人たちは老年の貴重な時間を「球ころがし」で遊んでいる。もったいない時間の使い方。人生の残り時間は少ないのになー。ゴルフまた同じ。わたしはクリスチャンでゴルフのような「遊び」に熱心なヤツは信じない。なぜか。そういう遊び人には聖書の深いところがわからないから。私はそういう「遊び人」はどうも好かないのだ。私のことを「付き合いにくいヤツ」だと思ったら離れていってくれ。

 

 

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(1) | top▲


神が存在するのなら不幸はないはずだがなー ++++++++ 所感

2008/03/25 07:45

080325(火)5時半起床●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。経営で大切なのは不採算部門をすぐ切り棄てるころだという。・・・ナルホド、グッドティーチャーズカットという。切る方は切られる方よりも苦しみが大きい。なぜか「愛と義の板挟み」になるからだ。切られる方は切ったヤツの悪たれをついていればいいだけでその苦しみは一面的だ。●「気の毒な人」のことを思うと、「神がいますなら、どうしてあんな不幸があるのだろう。」と思ってしまう。もう何十年の祈っているのに一向によくならない。●神は残酷だ。どんな慰めの「言葉」も通じない。そんな「言葉」だけのことはもうたくさんだ。神がいるのなら「今すぐ直してくれ」。これ本音。
トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


復活問答 ++++++++ 所感

2008/03/24 10:30

080324(月)、出勤日。5時半起床●若き内村研究者と「復活問答」のメールのやり取り。●今の内村鑑三研究は「なつかしのメロディー」の番組。その歌はというと「仰げば尊し我が師の恩」。あるいは「君が代」の「こけのむすまで」を謳っている。歌手は東海林太郎や二葉百合子●これじゃー若い者がよりつかない●といって楽器をがんがん演奏して踊り狂うのでは今度は「老人」が寄り付かない。困った困った。かくいう私はどこにいるのだろうか。●内村は昭和4年に死んでいる。なんで今頃「棺桶を開けて」「先生出てきてください」というのか。内村は言うであろう「ウルサイ。ワシは眠っているのじゃ」

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


大脳皮質では分からないことがある ++++++++ 所感

2008/03/23 07:51

080323(日)5時目覚め。ここ2-3日、某氏と「復活問答」。今朝もその続きのことで「黙示」。「永遠とか復活は有限なる大脳皮質では推論できない。判断できない」●この一点から様々な思いが浮かんだのでその某氏にメール。指し障りのないところを公表する。一部改変。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○○様

信仰は対話と問答で進みます。頭が整理できます。感謝。イエス語録は弟子との対話でその多くができています。

ゲーテに「エッカーマンとの対話」(未読)があります。親鸞の「歎異抄」はおばあさんとの対話。・・・・・

さて、昨夜は○○さんのメールをコピーして考えながら就寝、すると今朝黙示。それを取り次ぎます。「永遠とか復活は有限なる大脳皮質では推論できない。判断できない」と。

これをもとにいろいろ考えました。順不同。

●内村は「実験」といった。これは「体験」「経験」とも置き換えられる。私は「胸が熱くなることによって」墓が空なのが復活の証拠と悟った。へんてこりんな論理。私がこのことをあまりしきりにいうので、哲学者のイ氏は「胸が熱くなるのはほかにもある」と笑って言った。ス氏は「・・・・例えば『墓が空だ、空だ、と言っていてもかまわない。その内容には(私は)関知しない』と。くそくらえ!。です

●おいしいものの味や素晴らしい音楽の感動、行ってきた旅行体験その素晴らしい景色を人に語るのは「伝わらない」。快く思われない。それならそのおいしいものを御馳走してくれ、帝国ホテルにでも連れていってくれと言われてしまう。

●大脳皮質の推論ではわからない例・・・学校教育(公立学校)の限界。

①永遠ということは有限の人間(の大脳皮質・・高橋注)にはわからないと言ったのは英国の哲学者バートランドラッセル。彼は「宗教は必要か」という本を出した。②「三位一体ということはいくら考えてもわからない」と言ったのはほかならぬアウグスチヌスだそうです③「エクレシアというのは世にも不思議な団体」と言ったのは故、ヘルマンホイヴェレス神父。「永遠、三位一体、エクレシア」を親切心で「頭脳、推論」でわからせようとするのが「神学」。これ目的を達しない。だから無教会は「神学」に効果なしとして避けてきた。しかしこれからはそれでよいか。理屈っぽい男(女性ではあまりいない)には手段の一つとしてその「道具」も必要か?・・・・

●昨年、今井館の若者シンポジウムでのこと。後半の懇談会で真面目な青年)が質問されました。「今日のシンポジストのみなさんは親がクリスチャン。これではなぜキリスト教徒になったのか分かりません」。ものすごく良い質問でした。これに対して愚かなる私は次のように発言しました。「信仰はWHYではない、HOWである。ただし一つ共通のことは人物との出会いである」と。俺はバカだった。この「真面目なる青年」の質問をいなしてしまった。と今も心が痛む。隣にフィアンセ(無教会の家庭育ち・・・これが神秘的,HOWのドラマが始まりそう。神は女性で男性を導く!!)がいました。なぜそのシンポジウムに来たか(WHY)というと、彼は結婚式を無教会で行うので無教会とはいかなるものかと「覗き」「調べ」に来たらしいのです。

●彼のような真面目な青年を導けなかったら「無教会は看板を下ろした方がよい」とさえ思います。その点で答えをいなした私は失格。無益な僕。岩下壮一のような人がいたら彼をうまく導いただろうなーとその後思いました。現に彼との立ち話で、ミサ曲もやっているというのを聞いたように思います。その立ち話で彼に言いました。「あなたは『外堀』が埋まっている」と。神はきっと彼を救いに入れるでしょう。○○さん頼みます。彼の救いを祈ります。

●内村の「実験、体験、経験」を振り回す(それはカビが生えている!!)のは無教会の限界だ!。真面目な青年に不親切だ。青年を殺す。

●昨年私が告別式を行った老婦人。「ルーテル教会からなぜ無教会(塚本先生のところに来たのか)になったか」と聞きましたら、「なんとなく違うのです」と。この「なんとなくしっくりする」というのが無教会のレゾンデートル。しかし今や無教会集会は「なんとなくしっくりしない」!!。

●集会の故Tさんは「教会にいたたまれなくなって」無教会になられました。氏との問答で「では『いたたまれる』人だったらどうするのか。つまり教会の方がしっくりする場合の人もいるのではないか

●・・・・ここまで書いて時間切れ。長文ですみません。残りは後で書きます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●集会は、川上、横田、山本 ●14:00 妻と「内村鑑三記念講演会」に出席。於・今井館。司会千葉真、講演武藤陽一、量義治、奏楽白石光隆●多くの人に会った。吉田秀雄、杉山信太郎、冨永国比古ご夫妻、五十嵐順子●終了後の懇談会での私の発言。「今日の量氏の講演は元老たちに遠慮した無教会の延命処置論。無教会は連帯の時代ではなく分散の時代である。雲散霧消の時代である。一粒の麦は死ななければ新しい芽が実を結ばない。●すると量氏から反論。その通り「誰かが殉教しなければならない」●多くの人から高橋のあの発言で会が盛り上がった、活性化した、良く言ってくれたと誉められ(?)た。●別室で多くの人とまた懇親会は楽しかった。●帰りは富永国比古ご夫妻、千葉真氏と。上記手紙の中の気にかけていた青年が無教会集会に出席するようになったことを千葉真氏から伺い、感謝した。●妻は合唱の練習。モーツァルト「レクイエム」。

resize0103.jpg

内村鑑三記念講演会(今井館)。左から白石光隆(奏楽)、日永康(内村の孫)、杉山信太郎、

高橋照男、富永國比古御夫妻(ロマリンダクリニック医師)

 

 

トラックバック(5) | コメント(0) | top▲


人は横顔を見て付き合え ++++++++ 所感

2008/03/22 08:18

080322(土)6時半起床、昨夜は遅寝●朝の黙想「人は横顔を見よ」●昨日深夜に見たフジテレビ「ニュースジャパン」が人気である秘密が私なりに分かった。人気の秘密は英仏日語ペラペラのキャスター「滝川クリステル」の超美人度のためではない。彼女を正面映像画面の右に座らせていることだ。そして身体は正面を向かせなくて45度。顔だけを正面に向かせている。これがカッコイイのだ。この番組のディレクターの発想の勝利●このことから「人は斜めに見る方がよいといことを次々と思いうかべる。●お見合いするときは正面に向かい合って座るよりも45度の位置の方が成功すると言われている。これは統計的に言えるそうだ●私の結婚式のスピーチで某氏から「結婚生活では正面を向きあうな」という言葉を頂いた。現在私たちの食事の席は45度の位置になっている。(笑)。36年間のうちに自然にそうなってきたのか●会社の上司や部下との付き合い方また同じ。イヤな上役の正面攻撃はするな。彼の横顔を見よ。でも横顔もイヤだというときもアルヨネー●ドイツのプロテスタント教会ではほとんどの場合、説教壇が正面にない。斜め前方にある。ライプチッヒの聖トーマス教会ではそれがまたぐっと会衆席にまで出てきていて、説教者も会衆の一員であるかのような設計になっていた●無教会主義の家の親は子供に対して正面を向いているから子育てに失敗する。神と子供の間に立ちはだかっていつも子供を睨みつけている。「滝川クリステル」のように脇にずれて斜めに座っていて子供たちが正面の神という画面の方に目がいくようにすればよいのだ。美人でなくてもよい(笑)。●若者よ、「超」美人と結婚するな。神を忘れて身を滅ぼす。

塚本訳 Ⅰコリ7:32-35
7:32 ただわたしはあなた達が、(この世のことに)気をつかわないでほしいのである。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のこと(ばかり)に気をつかうが、
7:33 結婚している男は、どうしたら妻に喜ばれるかと、この世のことに気をつかって、
7:34 心が割れるのである。
また独身の女と処女とは、身も霊もきよくあろうとして、主のこと(ばかり)に気をつかうが、結婚している女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、この世のことに気をつかうのである。
7:35 しかしこれはあなた達自身の利益のために言うのであって、(もちろん)罠に掛け(て束縛す)るのではなく、むしろあなた達が品位を保つため、かつまた、余念なく主のもとにあって動かされないためである。

●世の女性たちに告ぐ「美人になりたければ神を信ぜよ」。滝川クリステルよりも表情が良くなる。気高くなる。もっと気品がでる。これは慰めの言葉ではない。絶対的事実だ。ただし、痩せることだけはできない。(笑)●プロテスタント教会の信者は決まって「牧師批判」を心の中で行っている。「あの牧師は私に合わない」と。これは説教壇が正面を向くように設計してある弊害●無教会集会では「今日のこの人は私が学んだ○○先生とは大分違う。昔はよかったなー」と心の中でつぶやく。こういう人たちの集合が無教会集会をして「懐かしのメロディー」の番組にする。東海林太郎や二葉百合子だらけだ(失礼)●指揮者のカラヤンはお辞儀をするとき楽員と一緒に並んで立つことが多い。あれがよい。わしも楽団員のワンノブゼムなのだという姿勢●人との出会いや付き合いも「斜め座り」がよい。かってとてもイヤな人がいたので尊敬する某氏に不満をぶちまけると「あの人には良いところ『も』あるなーと思おう」と慰められた。あの言葉は「人はその横顔を見よ」ということだったのかも知れない。●これキリスト信者同士に言える。「あの人『も』あれで一応は神を信じているのだなー」と思えばよい。正面を見て批判したら、いたたまれない。キリがない。批判してもとうてい良くはなりそうもない。批判は徒労だ●これ私にも言える「高橋はイヤな生意気なヤツだが、あいつもあれで神を信じているのだなー」と赦してもらいたい。●そしてあんなヤツでもイエスの有体的復活を信じている。アイツの「有体的復活の信仰」、あれだけは「ホンモノ」だと思ってもらおう。恥は私に、栄光は神にだ。

塚本訳 ルカ 19:9
19:9 イエスが(人々に)言われた、「救いは(きょう、)この家に入った。(人でなしのように言われる)この人も、やはり(あなた達と同じ)アブラハムの末だから。

●塚本虎二先生の集会は300人。全員しっかり前を向いて静粛。針が落ちても聞こえるほどであったという●現在のプロテスタン教会・無教会集会は「おしゃべり集会」。「お遊びサロン集会」「この世の趣味娯楽勉強会と同じに考えている」。始まる前にゴソゴソボソボソ。それも「この世的な相談」「集会の延命策」。病院の待合室の老人の雰囲気に似ている。あれでは神も降りて来るに来られない。●それでも「あの人たち『も』一応神を信じているからいいじゃーナイカ」と考えるのも策だが、どうにも我慢がならない●まてまて、音楽会の席では隣の席の人の「音楽観」を批判はしないなー。教会や無教会集会もそれと同じじゃーないか●よく「人の横顔」という。そうだ、人間とはお互いに「横顔」で付き合うべきなのだ。「あの人の今日の話は非常にまずいが、でもイチオウは神を信じているのだなー」と思え。●牧師諸氏に告ぐ「あの信者、また礼拝に来たのか」と思うな。「なんでまた来たのかなー。不思議だなーとその横顔を見よ」●「来る者を拒まず、去る者を追わず」の雰囲気の無教会集会も、去った人に対して「あの人もイチオウはまだ神を信じているんだろうなー」とその横顔やうしろ姿を思えばよい。「信仰の人生観は神ママ」だ。●黒崎新約聖書注解口語化電子化プロジェクトの「ドラフト3」を作成。これは大事業だ。執行部の在シドニーのO氏と福島のY氏に送る。資金の概算をする。このプロジェクトは御心ならば資金はきっと与えられる●図書館で、岡田新一設計事務所副社長の柳瀬寛夫氏を紹介されて懇談。女子の設計能力には見るべきものがあるということで意見が一致。最近は病院が多いという。●妻に「図書館の帰りに早咲きの桜があるから見てきたら」と促されたので鑑賞。

resize0102.jpg

大寒桜、ソメイヨシノより2-30日早く咲く。あきる野市保存樹木

●18:00 妻はドボルザークの「スターバトマーテル」の練習に出発。

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


ガッツポーズ。13人目 ++++++++ 所感

2008/03/21 07:06

080321(金)出勤日、4時半起床●朝一番で黒崎注解でルカ16章9節を読む。聖書そのものを指さすこの注解書は不思議な魅力がある。●聖書そのものには不思議な引力がある。ルターが新約聖書を3か月という猛スピードで訳せた意味が少しわかる。とにかく面白くてやめられなかったのだろう。「寝食忘れて」でもという面白さが原因であったのだろう●今日のわれわれにも「聖書そのもの」にそのような不思議な引力がある。●嬉しいメールが飛び込んできた。私が9年前に話した「復活の喜び」という論考(下記サイト)の一部が、某氏が発表する「某セミナー」で引用したいので許可してもらいたいというもの。

http://www.asahi-net.or.jp/%7EEJ2T-TKHS/denshou/hukkatu.htm

これについて早速下記メールを送った。一部改変。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○○様

 

ガッツポーズです。これで無教会も大丈夫。また「胸が熱くなる」(かってにそう解釈しますが)人が現れた。(13人目。)思わぬ時に思わぬところ(全国)から声が上がるのです。東京砂漠からは出ないと思いきや、砂漠に咲くサフランの如くにでました、。真理は9年目にも芽が出ます。宣伝しなくても伝わります。感謝。2008.3.19のブログに大賀ハスのことを書きました。ご一瞥ください。

使徒伝承の本質はイエスの有体的復活と我々の「からだのよみがえり」。無教会からこれが消えたかと悲観していましたが、貴殿のレターで、「まてまて、いるぞ」と喜びました。少なくても良い。人数は問題ではないと思わされました。再びガッツポーズをします。・・・(以下省略)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

resize0101.jpg

出勤途中、神田の丸石ビル。太洋商会。文化庁登録有形文化財。

●NHKTVでヨハネ受難曲。●職場の同僚からフジテレビ深夜11:30以降の「ニュースジャパン」の美人キャスターに人気があるというので無理して起きて見た。英仏日三カ国語に堪能な青山学院ミスキャンパスの経歴をもつ「滝川クリステル」。なぜ人気があるかその秘密がわかった。右隅に座らせて身体は斜め、顔だけ正面(全場面ではないが)。これが人気の秘密と見た。「人はその横顔を見よ!」。フジテレビのディレクターは偉い。こういう自由な発想がすぐできるのは小企業の強み。NHKなどの固い頭ではできない


トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


ごめんなさい ++++++++ 所感

2008/03/20 11:37

080320(木・春分の日)4時半起床●詩篇84篇のすごさ。しかしこれは旧約。新約のすごさは「復活」の喜び。●HPの「TSK日本語ヴァージョン」のマニュアルを動画入りにグレードアップ(息子の功績)したせいか、早速問い合わせ。しかしどこの誰だか分からないような失礼なメール。そこで激怒(またか)して「どこのどいつだか名を名乗れ。教派教会名も言え。こっちは商売しているのではない」という返メール。すると「こめんなさい。来日4年目の米国人で日本語がうまくないので、ゆるしてください」と即返事。それに対して「私こそ知らなくてごめんなさい。あなたと知り合いになりたい」とまた返事した。 ●人間、主にあるときの喧嘩は関係が良くなる。中には永久決裂もあるが。

塚本訳マタ 18:15
18:15 それで、もし兄弟が罪を犯し(て悔改めなかっ)たら、行って、あなたと二人だけの間で忠告をしてやりなさい。もし言うことを聞けば、あなたは(天の国のために)兄弟を一人もうけたのである。

●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。・・・宴席は「体が悪いものですから」と言って断った。宴席で経営のヒントが得られることはほとんどないという。付き合いが悪いからと経営に差し支えることもない。・・・・これ同感。宴席は喧嘩の場になるだけ。そして「現場の声を新製品に反映して次第に成長、住宅サッシならトーヨーサッシというのがもっぱらの評判、社員数1200人になり、大企業の仲間入り。ご立派。大企業がよいのではない。その精神性が良いのだ。精神性がよければ小さくてもよい。しかしそれはすぐ大きくなってしまうから気をつけなければならない。イマドキのワカイモンは就職先を選ぶとき大企業を選ぶのは半分当たっている。「何か良いものがあったから」大きくなっているのである。しかしその外形的なことだけを見るのは凡人。こういう凡人が群がるから大企業は次第に悪くなるのだ●某氏に次のような檄メール。パソコンできる「兵士募集!」をされたらよい。「祖国のためだ!!。」「老兵よ集まれ!、夫人兵士歓迎!神のためのボランティアの仕事を希望している人集まれ」

●4月6日の感話は「永遠の住居」にした。その素案の次のようにまとめた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

永遠の住居(すまい)とは何か

    東京聖書読者会 高橋照男 2008.4.6

 

●建築士の私としてはルカ16章9節の「永遠の住居(すまい)」という言葉に非常に惹かれる。

 

塚本訳ルカ 16:9

16:9 それでわたしもあなた達に言う、あなた達も(この番頭に見習い、今のうちにこの世の)不正な富を利用して、(天に)友人[神]をつくっておけ。そうすれば富がなくなる時、その友人が永遠の住居に迎えてくださるであろう。

 

原典    aijwnivou"    skhnav".

とこしえの     住居(複)

 

各種翻訳

岩波翻訳委員会訳1995 佐藤研・・・永遠の幕屋

新共同訳1987        ・・・永遠の住まい

前田訳1978         ・・・永遠の住居

新改訳1970         ・・・永遠の住まい

塚本訳1963         ・・・永遠の住居

口語訳1955         ・・・永遠のすまい

文語訳1917         ・・・永遠の住居

 

   KJV1611  everlasting  habitations  永遠の住み家

   RSV1946  eternal habitations

    NEB1961  eternal home

    REB1989  eternal home

   JB 1966  tents of eternity  永遠のテント(天幕)

   NIV1973  eternal dwellings 永遠の住居

   TEV1976  eternal home

   NKJV1982 everlasting home

 

   ルター訳15221984発行版) 

ewigen Hutten   永遠の小屋

 

                          

詩篇第84篇を読む

 

●旧約の喜びは「神と共なる喜び」である。それが一番よく表現されているものの一つが、詩篇第84篇である。この詩に「住まい」の喜びというものが現れている。

 

 

口語訳1955  小文字は黒崎注解の現代口語化

 

詩篇84篇 

 

ギテトの琴にあわせて聖歌隊の指揮者にあわせてうたわせたコラの子の歌

 

アサフ歌集は第83篇をもって終わり、84-88篇は「コラの子ら」の歌集となり、エロヒム歌集の色彩がほとんどなくなっている。本篇は第42、43篇と内容においても構造においても相近く、主の宮に対する熱情と宮もうでの幸福とを歌っている。おそらく王朝時代の作と思われるけれどもその内容はいずれの時代においても真である種類の詩である。学者は本編の中にある神殿関係の語を具体的にエルサレムの宮と解しているけれども、むしろ一層抽象的に霊的に解する事を適当とする。セラによって区分される通り1-4,5-8,9-12の3部からなる。

 

[一]神の家(1-4)

84:1 万軍の主よ、(主にいましたもう)あなたの(住みたもう)すまい(なる神の宮、否、人手にて造らざる宮)はいかに麗しいことでしょう。

84:2 わが魂は絶えいるばかりに主の(宮の周囲にある)大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。(かくしてわたしは全身全霊をもって主なる神をよろこぶ)

84:3 すずめが(神の造りたまえる自然の中に)すみかを得、つばめが(木の間に)そのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、(このあなたの造りたまえる大自然である)あなたの祭壇のかたわらに/わがすまいを得させてください。

84:4 (信仰をもってあなたと共にいて)あなたの家に住み、(あなたの御そばに侍りあなたをあおぎ見つつ)常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。〔セラ

 

[二]神の宮に詣でる者の幸い(5-8)

84:5 その力があなたにあり、(あなたにより頼んで力を得、あなたにまみえんとして進みいきつつ)その心がシオンの大路にある人はさいわいです。

84:6 彼らはバカの(の生い繁る水気なき)谷を通っても、そこを泉のある所とします。(エルサレムに詣でんとする者にはその途中のあらゆる苦難も歓喜と化するように神を信ずる者に取っては苦難も甘い喜びとなる)また前の雨は池をもってそこをおおいます。(このようにして神の宮に向かって進む者の上に神の恩恵は豊かに下るのを見る)

84:7 彼らは力から力に進み、(ますます力づけられ)シオンにおいて(神の宮に詣で)神々の神にまみえるでしょう。(これに勝る幸福とてはない)

84:8 万軍の神、主よ、(御前に詣でて祈る)わが祈を(私の願いを成就し)おききください。ヤコブの神よ、耳を傾けて(わたしの願いを聞いて)ください。〔セラ

 

[三]神のめぐみ(9-12)

84:9 神よ、われらの盾(としてすべての敵より我らを守りたもうもの)をみそなわし、あなたの油そそがれた者(メシアなる王たる我)の顔をかえりみてください。

84:10 あなたの大庭にいる一日は、(他のあらゆるこの世の幸福に浸って)よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕に(悪人と共に泰然としてして)いるよりは、(たとえ人の目にいかに憐れむべきものに見えるにしても)むしろ、わが神の家の門守となることを願います。

84:11 主なる神は日(のごとく輝くもの)です、(また)盾(のごとくに我らを守りたもう者)です。主は(彼を信ずる者に)恵みと誉とを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。

84:12 万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。

 

 

●新約の喜びは「からだの復活」。復活のからだが永遠  の住まい

 

塚本訳  ヨハ 2:17-22

2:17 (これを見て)弟子たちは、〃(神よ、)あなたの家に対する熱心が、わたしを焼きつくします〃と(詩篇に)書いてあるのを思い出した。

2:18 するとユダヤ人が口を出した、「あなたはこんなことをするが、(その権威を証明するために、)どんな徴[奇蹟]をして見せることができるのか。」

2:19 イエスは答えられた、「このお宮をこわせ、三日で造ってみせるから。」

2:20 ユダヤ人が言った、「このお宮を建てるには四十六年もかかったのに、あなたは三日で造るというのか。」

2:21 しかしイエスは自分の体のことを宮と言われたのであった。

2:22 だから死人の中から復活された時、弟子たちはこう言われたことを思い出して、聖書とイエスの言われた言葉と(が本当であること)を信じた。

 

 

●イエスもユダヤ人であってエルサレム神殿を深く愛した。17節は詩篇69篇の9節からに引用である。しかしイエスはご自分の復活の体をもって「宮」「神殿」だと言った。時代は新約に変わった。

 

口語訳 詩  69:9

69:9 あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、あなたをそしる者のそしりが/わたしに及んだからです。

 

 

●復活の体というものがある。これが有体的復活という新約の喜び。

 

塚本訳 Ⅰコリ15:35-38

15:35 しかし、ある人は言うかも知れない、(かりに復活があるとしても、)どんな風にして死人が復活するのか、どんな体で来るのかと。

15:36 訳のわからない人!あなたがまくものは、死ななければ生かされないのだ。

15:37 そしてあなたのまくものは、やがて出来る体をまくのではなく、たとえば麦にしても何かほかの種類にしても、裸の粒にすぎないのである。

15:38 しかし神は御心のままにそれに体をお与えになる、しかもそれぞれの種に独得の体を。

 

 

塚本訳 Ⅰコリ15:42-49

15:42 死人の復活もこのようである。(一つの体が死んで別の体が生まれる。)死滅の姿でまかれて不滅の姿に復活する。

15:43 恥辱の姿でまかれて栄光の姿に復活する。弱さの姿でまかれて力の姿に復活する。

15:44 (神の霊を持たない)魂だけの体がまかれて霊の体が復活する。魂だけの体がある以上は霊の体もあるわけである。

15:45 (聖書にも)このように書いてある、「最初の『人』アダム『は魂だけの生きものになり』、最後のアダム[キリスト]は命を与える霊になった」と。

15:46 しかし霊のものが最初でなく、魂だけのものであり、その次に霊のものである。

15:47 最初の『人は地から出て土で出来たものであり』、第二の人は天の出である。

15:48 土の人たちはこの土の人(アダム)のようであり、天の人たちはこの天の人(キリスト)のようである。

15:49 こうしてわたし達は土の人の姿を帯びたように、(復活の時は)天の人の姿を帯びるであろう。

 

塚本訳ロマ 8:23

8:23 しかし(苦しんでいるのは)創造物だけではない。わたし達自身も、(神の子にされた証拠として)御霊なる初穂を持っているので、このわたし達自身も、自分(のみじめな姿)をかえりみて、呻きながら、(正式に神の)子にされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである。

 

塚本訳 Ⅱコリ5:1-4

5:1 なぜ(こんな希望に生きることができるの)であろうか。もし地上の家であるわたし達のこのテント、(この肉体)がこわれるならば、天に、神の建てられた建物、(人間の)手で造らない永遠の家をいただいていることを、わたし達は知っているからである。

5:2 どうしてであろうか。わたし達はこのテントにいて、天の住いを上に着たくてたまらずに呻いているからである。(この憧れと呻きこそ、永遠の住いのある証拠ではないか。)

5:3 ほんとうにもしこれを着たならば、裸(の恥しい姿)であることはないであろう!

5:4 それで、わたし達のこのテントにいる者は、重荷に呻いている。これを脱ぎたい(つまり死にたい)のではなく、(天の住いを)上に着たいからである。これは死ぬべきものが命に飲み込まれるためである。

 

●ここに「永遠の家」「天の住まい」という言葉が出てくる。それはもはや神の懐が家というのではなく、我々の復活の体が「永遠の家」「天の住まい」だというのである。それは「栄光の体」(ロマ書8:23)である。

 

●使徒信条にある「身体のよみがえり」とはこのことである。この信仰は「古代教会の信仰告白の最古層に属するもので、キリスト教のはじめのはじめである。(渡辺信夫著「古代教会の信仰告白」新教出版社)我々は死んでも終末の日に、栄光の復活の身体でよみがえるのだ!!。

 

●復活体との出会いは理屈抜きの無条件の喜びが湧く。現代でもそれが起こる。

 

塚本訳 マタ 28:8

28:8 女たちは恐ろしいが、また嬉しくてたまらず、(中には入らずに)急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった。

 

塚本訳 ヨハ 20:19-20

20:19 その日すなわち週の初めの日の晩であった。ユダヤ人を恐れて、弟子たちのおる部屋の戸には(皆)鍵がかけてあったのに、イエスが(どこからともなく)はいって来て(彼らの)真中に進み出て、「平安あれ」と言われた。

20:20 そしてそう言いながら、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ

 

●結論。この喜びが来世実在、来世での復活がありうることの希望の根拠。ありがたくも我々に与えられるこの復活の体が我々にとっての永遠の住居である。それは壊れない。病気にならない。老化しない。焼けない。永遠に死なない。

 

塚本訳 黙  21:3-4

21:3 そして私は玉座から大きな声が(出てこう)言うのを聞いた、「視よ、人と共に神の幕屋がある! 神が彼らと共に住み、彼らは神の民となり、神自ら彼らと共にいまして、

21:4 彼らの目から悉く涙を拭い取り給うであろう。最早死もなく、悲嘆も叫喚も疼痛も最早無いであろう。初めの(天と地にあった)ものが(すっかり)消え去ったからである。」

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


2000年後に咲いた花 ++++++++ 所感

2008/03/19 06:06

080319(水)3時半目覚め。床の中で黙想「詩篇126篇の結論。『きっといつか芽が出る』」

塚本訳  マタ 13:3-9
13:3 譬をもって多くのことを語られた。──「種まく人が種まきに出かけた。
13:4 まく時に、あるものは道ばたに落ちた。鳥が来て食ってしまった。
13:5 あるものは土の多くない岩地に落ちた。土が深くないため、すぐ芽を出したが、
13:6 日が出ると焼けて、しっかりした根がないので枯れてしまった。
13:7 あるものは茨の(根が張っている)間に落ちた。茨が伸びてきて押えつけてしまった。
13:8 しかしあるものは良い地に落ちた。そしてあるいは百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍の実がなった
13:9 耳のある者は聞け。」

塚本訳 ルカ 13:18-21
13:18 すると言われた、「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
13:19 それは芥子粒に似ている。ある人がそれをその庭に蒔いたところ、育って(大きな)木になり、』その枝に空の鳥が巣をつくった。』」
13:20 さらに言われた、「神の国を何にたとえようか。
13:21 それはパン種に似ている。女がそれを三サトン[二斗]の粉の中にまぜたところ、ついに全体が醗酵した。」

●同じ種でも芽が出るものと出ないものがある。これはなぜか。不思議。この世には「不思議」ということがある。新約聖書には「不思議」という言葉が多く出てくる(塚本訳では敷衍も入れて65回)。イエスも植物の生育をして「なぜそうなるのかわからない」という。

口語訳 マコ 4:26-27
4:26 また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。
4:27 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない

●大賀一郎(無教会)は弥生時代(約2000年前)の古代ハスの種3粒を発見、発芽を試みたが2粒は失敗。一粒が成功。今はそれが根分けされ日本のみならず世界に広まった。一粒の種は何倍にもなった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大賀ハス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大賀ハス
大賀ハス

オオガハス(大賀ハス、おおがはす)は、1951年昭和26年)、千葉県千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日が丘町)にある東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、約2000年前のハスの実から発芽・開花したハス古代ハス)のこ

概要

戦時中に東京都は燃料不足を補うため、花見川下流の湿地帯に豊富な草炭が埋蔵されていることに着目し、東京大学検見川厚生農場の一部を借り受け草炭を採掘していた。採掘は戦後も継続して行われていたが、1947年(昭和22年)7月28日に作業員が採掘現場でたまたま1隻の丸木舟と6本のを掘り出した。このことから慶應義塾大学による調査が始められ、その後東洋大学日本考古学研究所が加わり1949年(昭和24年)にかけて共同で発掘調査が行われた。その調査により、もう2隻の丸木舟と植物果実などが発掘され、「縄文時代の船だまり」であったと推測され落合遺跡と呼ばれた。

そして1951年3月植物学者である大賀一郎博士(東京大学農学部教授)は地元の千葉市立花園中学校の生徒達と共にこの遺跡の発掘調査を行ったが、この際には特にめぼしい成果は挙げられず翌日で調査が打ち切られた。しかし3月30日に花園中学校の女子生徒により地下約6mの泥炭層からハスの実1粒が、さらに4月6日には2粒が発掘され、計3粒のハスの実が発掘された。ハスの権威者でもある大賀博士は、それらの年代を明確にするため、ハスの実の上方層で発掘された丸木舟のカヤの木の破片をシカゴ大学原子核研究所へ送り、年代測定と鑑定を依頼した。シカゴ大学のリピー博士らによって放射性炭素年代測定が行われ、ハスの実は弥生時代後期(約2000年前)のものであると推定された。[1]

大賀博士は発掘された3粒のハスの実の発芽を試みるも2粒は失敗に終わる。だが5月、残りの1粒が発芽に成功し、翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪を咲かせた。このニュースは国内外に報道され、同年11月17日付米国ライフ誌に「世界最古の花・生命の復活」として掲載され、博士の姓を採って「大賀ハス」と命名された。[2]

この古代ハスは、1954年(昭和29年)6月8日に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物に指定された。また1993年平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、現在日本各地は元より世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●この解説の最後近くに「生命の復活」という素晴らしい言葉がある。●そうだ、我々も「あの人には芽が出ない、芽が出ない」と嘆かないで2000年間は待とう。死後の「身体のよみがえり」を待とう。 それは生命の復活なのだ。●このハスの事実をイエスが聞いたらなんというか。きっと言うに違いない「『大賀ハス』を見よ2000年後にも美しい花が咲いたではないか。あなたたちの身体が復活するのは当たり前だ」と。 ●大賀一郎についてはまた次のような解説がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

研究と信仰に捧げた生涯 大賀博士は明治16年(1883)、岡山県賀陽郡川入村(現:岡山市川入)に生まれ、岡山中学から第一高等学校(東京)、そして東京帝国大学に学びました。古代ハスの研究を始めたのは、南満州鉄道株式会社社員となって大連(中国遼寧省大連市)に赴任した後の大正7年(1918)頃のことです。その後、米国やヨーロッパに遊学して古代ハスの研究や古種子の発芽実験を行ってその成果が認められ、さらに大賀ハスの発見により世界に知られる植物学者となりました。博士は70歳を超えても「あと 300年生きて研究する時間が欲しい」というほど研究意欲が旺盛な根っからの研究者でした。また博士は敬虔なクリスチャンでもあり、満州滞在時にも日曜学校を30余りも創設するなどキリスト教の伝道に努めました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●福島の三男の恵から「HP、TSK日本語ヴァージョン導入マニュアル」のグレードアップが完成したと連絡が入った。HPは遠隔作業ですでに新しくなっていた。「動画」による説明は「親切マニュアル」である。また新機軸として「Bible Desktop」が導入されたが、これは難しいので私は今のところ敬遠。●私は英語にもパソコンにも弱くて困る。●四国のT氏にメール。内容は公的なことなので一部変更して公開する。●ブログというのは「それが誰であるかわかるかわからないようにスレスレに書くのが技術だ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

T様

 

「雑誌」ありがとうございました。「復活信仰の困難」(塚本虎二先生の昭和6年の論考)誠に然りアーメンです。

昭和の初期にこれだけの「有体的復活」の表明は驚異です。もっともこれは不変のものですが。

小生は某氏(故人・・・おそらくT様もご存知の方)から「高橋君、イエスの死体が墓に腐乱したままであっても復活信仰はありうるのだよ」と言われて、私は断然その人と決別しました。その考えは「グノーシス」で「キリスト教の最大の敵」です。キリスト教の敵はローマ帝国でなくしてグノーシスであったと言われます。現代の無教会はグノーシスに似ています。今日、教会も無教会も退潮なのは明快です。使徒信条(特に有体的復活)が伝承されていないからです。

私の「復活信仰」は添付の「復活の喜び」に表明しました。塚本先生の復活信仰の根拠と若干異なります。復活信仰にはいろいろな接近のしかたがあると思います。一人一教会です。

次に最近の集会での感話のプリントを添付させていただきます。

「平安な死を迎えるには」(2月3日集会感話)「人生を決定した本、・・・・」(3月2日集会感話)、それに今月末(3月30日集会感話)に話す「詩篇126篇を読む」です。

大量で申し訳ありません。しかしこれらすべての背後に有体的復活の信仰があります。

今回は塚本先生の固い「有体的復活」に触れさせていただき感謝です。ありがとうございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 




トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


母の命日に想う ++++++++ 所感

2008/03/18 08:13

080318(火)4時半目覚め。母の命日、4周年。妻と一緒に昼に墓参、墓前で昼食予定。寝床で次々と母のことが思い浮かぶ。●人にとって、「母」というのは必ず一人である。●母は私を産むときに何時間も苦しんだはずだ●小学校の時のこと。千葉県の臨海学校に行き、初めて母のもとから離れて泊まった。駅に迎えにきた母の目が忘れられない。母親にとって子供が初めて外で泊まるということは特別の気持らしい。いなくなった羊(ルカ15章)を探して見つけたときの目はあのような目であったのだろう●小学校の同窓会では、時々「母」の話がでる。よくわたしの家に遊びに来たときに「お菓子をもらった」という。●私が結石で突然入院したとき、血相を変えて病室に飛び込んできたあの目が忘れられない●私が兄弟(兄と弟)に対する不満を口にすると、母は激怒した。パリサイ人や聖書学者が罪人に冷たくしたときイエスが激怒したことを母から学ぶ。●母との話の最中で何気なく「溜息」をつくと言わないのにお金をくれた。「照男君のとことろは子供が多くてかわいそうだ」と言った。神は「求めずとも必要なものを与えてくださる」(マタイ6:33塚本訳敷衍)を学ぶ●ある日「キリスト教よりもお坊さんの話の方がよくわかる」と言った。合理的思考の母にとっては哲学に近い仏教の方が良くわかり、「霊」が本質であるキリスト教は分かりにくかったのかもしれない●肺がんで苦しみ、肩で息をしていた時のホスピスでの会話。私(なすすべがなく)「天国に行けば楽になるよ」。j母(ジロッと私を見て)「行って見てきたの?}。私「聖書に書いてある」。母(冷やかな目をして)「あんたは見ないものを信じて喜んでいる」。母から重い課題を与えられた。宿題を与えられた。これ同胞全体の質問だ。残り18年でこの宿題を果たせるか。宿題をやりきれるか。しかしこの身を投じてやりぬかなければならない●母の最後。意識が混濁したとき、「てるおちゃん」と4回も私の名前を呼んだ。私は学校で「てるちゃん」とは呼ばれてきたが、「てるおちゃん」と呼ばれたことは記憶にない。母は私が赤子の時にそう呼んでいたのかと思った●不遇な育ちであった母は信仰無くして死んだが、救われるのか。NO!。人が救われるのは神の一方的な意思なのであって、人間の側の「信仰」にはよらない。「信仰告白」にはよらない。「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」が聖書の本質。それが神の心ではないのか。母の死を通してこれを学んだ。神は信仰なき人をこそ「探しぬいて」迎え入れる。これ人の子の親になってよくわかることである。●15歳の時、教会に行くようになって、母の欠点が見えてきた。そして母をよく攻撃した。母はあるとき「照男君は素直な子供だったのに」と言って隣の部屋で泣いた。その後無教会主義に出会って、「攻撃」しなくなった。このことだけでも人生の途上で「無教会主義」に出会えた価値がある。●とにかく、私は母の救いに対して「祈り」が足りなかった。●母が逝った日はちょうど東京の桜の開花宣言の日であった。花が好きであった母らしかった。

「願わくは、花の下(もと)にて春死なん、その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ。西行」。

●母の余命が短い時に思い出をまとめて「母の旅路」という小冊子を作ったが、故藤林益三先生から「全部読みました。母を送るというのは大変なことです」というお手紙を頂いた●人は必ず「母を送る」という日が来るのだ。●私にはもう父も母もいない。●来世というところがあれば、母にも会えるのだろうか。


「泣いてゆく 向こうに母や 春の風 加賀千代」

●10:40自転車で妻と母の墓参に出発。妻の友人の坂井マリ子さんが母の命日を覚えていてくださり、秋川霊園の入り口で花を下さった。

resize0098.jpg

母の命日。秋川霊園に妻と墓参。妻の友人の坂井マリ子さんが庭の花を持ってきて入口で待っていて下さった。感謝。

resize0099.jpg

妻が言う。「母は購入する花よりも庭から切って持ってくる花の方が好きだった」。人間、死後も憶えられるというのは幸せだ。しかしそれも2-3代までのことだろう。人間は人間に忘れられるが、神は忘れない。復活の日に身体をもってよみがえらせて下さる。こう信じている私は馬鹿なヤツだと思ってくれ。しかし馬鹿で結構、バッハもヘンデルもパウロもみな馬鹿なのだ。

resize0100.jpg

墓の掃除、小樹木の刈り込みをしてから墓の前に座って、妻の作ったった「おはぎ」で昼食。彼岸にはよく妻が作ってくれたおはぎ(父母の好物)を父母に届けて一緒に食べたものだ。しかし今日はそれを妻と墓前で食べた。父母は喜んでくれただろう。人生は短いなー。墓碑銘は「神は愛なり、高橋家」。父も母もここにはいない。ノー、ノー。神の御胸に眠っているのだ、そして最後の日には「身体のよみがえり」なのだ。会えるのだ。きっと会えるのだ。「また逢う日まで」だ。

塚本訳  黙  5:5
5:5 長老の一人われに言ふ『泣くな、視よ、ユダの族の獅子・ダビデの萌蘗、すでに勝を得て巻物とその七つの封印とを開き得るなり。



 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


眼光紙背に徹す ++++++++ 所感

2008/03/17 07:49

080317(月)5時半起床●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。・・・展示会で潮田氏の会社のサッシのコーナーには作業着姿の大工が集まっていた。他のコーナーには背広姿の人間。その光景を見ていた三菱商事の西田俊吉氏(後に副社長)が、潮田氏の会社の将来性を見込んで以後応援。西田氏には目があった●「眼光紙背に徹す」という。これは書物を読んで字句の背後にある真意を読み取ることである。●聖書の読み方また同じ。今日の新約聖書学(学問的作法というものがある)によれば、イエスには「神の子の自覚がなかった」ということになるのが学界の趨勢だという。「塚本虎二著作集第一巻月報」の荒井献氏の論考(これは後に「去思いと亡憶」に収録)。あー禍なるかな「聖書学者」よ。眼光紙背に徹する読みができない●何事も相手に言ってもらわなくてもその「心を読まなければならない」。対人関係、営業、建築設計、夫婦関係、親子関係、職場の関係みな同じ。言ってもらわなければわからないという人間はマダマダ。修業が足りない●亡くなった母は、対話中に私が「溜息をついただけで」お金が必要なことを察し、何度かお金を援助してくれた。子供が多くて「かわいそうだ」と思ったらしい。明日は母の4周年。早い。 次の聖句の塚本訳敷衍「求めずとも」は真理。

塚本訳 マタ 6:31-33
6:31 だから、『何を食べよう』とか、『何を飲もう』とか、『何を着よう』とか言って、心配するな。
6:32 それは皆異教人のほしがるもの。あなた達の天の父上は、それが皆あなた達に必要なことをよく御承知である。
6:33 あなた達は何よりも、御国と、神に義とされることとを求めよ。そうすれば(食べ物や着物など)こんなものは皆、(求めずとも)つけたして与えられるであろう。

●昼休みに銀座の聖書図書館。翻訳係の高橋裕子さんに、ドイツ語ルター訳の発行年別8種類、KJVの発行年別3種類を見せていただいた。詩篇126篇6節の翻訳研究●教文館の吉野さんと懇談●職場の徳永さんと懇談。

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


永遠の家 ++++++++ 所感

2008/03/16 07:56

080316(日)5時40分起床●朝の黙示「永遠の住居」ルカ16章●次々と思いが浮かぶ。急いで書く。「有限の家か永遠の家か」。「盗人が入り虫に食われる有限の家」「食べればなくなる食べ物ではなく永遠になくならない食べ物のために働け][天国の家は焼けない」「本物の福音を説けば家を建てることになる」「本物の家はローンなし、家賃なし」「部屋が多い、ヨハネ伝」「その庭は広い詩篇84」「食べ物のない疲れ切った群衆をみたイエスははらわたがちぎれるほど哀れに思った。佐藤研訳」「健康な人に医者はいらない」「金持ちに用はない。この世で清算できている」「金銀我になし。キリストイエスの名によって歩め」「有体的復活。体のよみがえり」「このお宮を壊せ、三日で建てる。ヨハネ伝」・・・・時間切れ・・・●集会は宮崎、杉崎、望月●14:00今井館で「若者と語るシンポジウム」。シンポジストは赤塚牧、石原野恵、土屋真穂。(全員無教会2~3代目)●フロアーから私は感想を発言した。無教会も3代目となると、信仰もボーッとしてくる。ドイツに再洗礼派が起こった。それはルター派(カルヴィン派?)の硬直状態(幼児洗礼をしているから悔い改めの必要なしとの認識で信仰が低迷。)を回復するために大人になって再び洗礼する一派。無教会も100年もたつとこれに似てきた。低迷、退潮●終了後、シンポジストの一人の女性(無教会の家庭の育ちだが、10年ほど日本長老教会に通っていた)に質問。「教会と無教会の違いは?」、女性「無教会は、罪、罪という。教会は愛、愛という」であった。●よく言った。至言だ。しかし私は言う「罪でも愛でもない。有体的復活の使徒伝承の真理だ」。罪なら、社会批判主義者やマスコミに任せておけ。愛なら、福祉主義者や教育者に任せておけばよい。キリスト信者は「有体的復活の使徒伝承」だけを説いてあとは冷たくしておけばよい。●キリスト教にも市場経済の原理が働く。「有体的復活の使徒伝承の真理を説かない伝道者、牧師、説教者、学者、教会、集会には誰も聞かない。(それを聞く人間がいたら、その人間もホンモノではない)「教会や集会の延命処置をしても無理」。「若者に媚びるようなことをして集客をしてはいけない」●イマドキの牧師はギターを弾けなくれてはならないという。そこまでしなければならないのかなー●長い間探していたドイツ語ルター訳新約聖書(旧・新)が書棚から見つかって大喜びした。次の聖句を思い出した。

塚本訳 ルカ 15:8-10
15:8 また、どんな女でも、ドラクマ銀貨[五百円]を十枚持っていて、もしその銀貨を一枚無くしたとすれば、明りをつけて家(中)を掃き、それを見つけ出すまでは、丹念にさがしつづけるのではないだろうか。
15:9 そして見つけると、友だちや近所の女たちを呼びあつめてこう言うにちがいない、『一しょに喜んでください。無くした銀貨が見つかりましたから』と。
15:10 わたしは言う、このように、一人の罪人が悔改めると、神の使たちに喜びがあるのである。」

●妻はモーツアルト「レクイエム」の練習。

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


人生のギアチェンジ ++++++++ 所感

2008/03/15 18:27

080315(土)6時起床。●朝の啓示「人生のギアチェンジ」●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。・・・各種経営セミナーに出席。受講生たちは「講師は大学の先生だから実務を知らないから空理空論でやくに立たない」と言っていたが筆者は違った。「学者は経営を普遍的に話すから私にとっては応用が利きやすい」という。「経営は理論だ」という考え感じるところがあったという。・・・・非凡な人である●東北のY氏とシドニーのO氏とのWEB交流で刺激され、人生のギアチャンジを考えさせられた●人生はあるとき「ギアチェンジ」をさせられる時が来る。平泳ぎでゴール前何メートルかで急にギアチェンジをする選手がいる。トップスピードになる。マラソンの高橋尚子はシドニーオリンピックで、最後の段階でサングラスを振り棄ててギアチェンジ。優勝。●人生はある段階で「何もかも捨て去って」一つのことに邁進するときが来る。その時は周囲の声に耳を貸さない。何かをする人はそれが30~35歳の間に来るというのは山本七平の指摘であった。イエス、シュヴァイツァー、パスカル、などなど。●しかしそのギアチェンジの「時」はいつ来るかわからない。臨終のときにでもよい。この世的に「すごい」ことができなくてもよい。「いつでもがギアチャンジのよき時」なのだ。最後の者が最初になる。最初のものが最後になる●ルカ16章9節は次の通り。

塚本訳ルカ 16:9
16:9 それでわたしもあなた達に言う、あなた達も(この番頭に見習い、今のうちにこの世の)不正な富を利用して、(天に)友人[神]をつくっておけ。そうすれば富がなくなる時、その友人が永遠の住居に迎えてくださるであろう。

●建築士としてはこの永遠の住居(すまい)という言葉に目が吸いつく●64歳。私の人生のギアチャンジは「有限の住居」を造ることから「永遠の住居」を造る人間になること。●それはどうやって建てるのか。自分の計画や努力では建てられない。聖職者という職業的職能が神の国を建てられるわけではない。神によってこの身が利用されて、神が建てるのだ。

塚本訳 ヨハ 2:19-22
2:19 イエスは答えられた、「このお宮をこわせ、三日で造ってみせるから。」
2:20 ユダヤ人が言った、「このお宮を建てるには四十六年もかかったのに、あなたは三日で造るというのか。」
2:21 しかしイエスは自分の体のことを宮と言われたのであった。
2:22 だから死人の中から復活された時、弟子たちはこう言われたことを思い出して、聖書とイエスの言われた言葉と(が本当であること)を信じた。

●満足な家を持っていない人は「気の毒」。何とか広くて良い家に住めるように世話をしたい。●かって私の家を見学に来た人がうらやましそうに見ていた。わたしはその人を気の毒に思って「建築士」としては何とかしてやりたいと今でも思っている。ムラムラと気持ちがおこる●しかし。思う。世話をしてもそれは「有限の住居」だ。それよりも「永遠の住居」の方が彼と彼の家族のためには必要なのだ。彼にはその方が大切で真に満足がいくのだ。●ではどうすればいいのだろう。「祈り」、必死の祈りだ。犠牲と涙だ。●私は今まで多くの人の「住居」を造ってきた。それなりに感謝された。しかしそれは皆「金持ち」相手であった。●人生ギアチャンジ。「金持ち」や「幸福な人」には縁がない。もう彼等は大丈夫だ。彼はあれで結構幸福だ。私は真の住居(霊魂の平安)を求めている人に尽くし抜こう。●ペテロは「人間の漁をする漁師」にギアチェンジさせられた。

塚本訳 マタ 4:18-20
4:18 ガリラヤ湖のほとりを歩いておられるとき、二人の兄弟、ペテロと言われたシモンとその兄弟アンデレとが、湖で網を打っているのを見られた。彼らは漁師であった。
4:19 「さあ、ついて来なさい。人間の(漁をする)漁師にしてあげよう」と言われると、
4:20 彼らはすぐ網をすててイエスに従った。

●イエスは言う「あなたは永遠の住居」を建てなさい。あとがない」と。

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


からだのよみがえり ++++++++ 所感

2008/03/14 13:46

080314(金)出勤日。5時起床●朝のひらめき「身体のよみがえり」●朝風呂で、塚本虎二著「使徒信条講義」。渡辺信夫著「古代教会の信仰告白」。「身体のよみがえり」の信仰告白は歴史の最も古い層に見られる。つまりキリスト教信仰のはじめのはじめ。●しかし現代のクリスチャンでこれを心底から信じている人は少ない●生物一般、また神を信じない人間の本能は「死ぬまい、死ぬまい」ということ。個人は「食えなくなることを恐れ」、「病気や失業を恐れ」家庭は「各種ローンが支払えなくなることを恐れ、」「妻子が路頭に迷うことを恐れ」、教会や集会は「信者が減ることを恐れ」、病院は「患者が少なくなることを恐れ」、企業や組織は「経営破綻を恐れ、」、国は「敵国に滅ぼされるのを恐れる」。生きとし生けるものは皆等しく「死ぬまい、死ぬまい」という潜在意識がある。それが言葉や行動になって現れる。なぜか。「有限の存在」だからである。一分でも一秒でも長く生きたく思っているのである。それが幸福だと思っている。●ところがこの地球に2000年前にとんでもないことが起こった。「永遠の生命」「イエスの復活」「信者の身体のよみがえり」を信じる人間(へんてこな人間)が現れたのである。・・・しかしである。この「古い古い信条」がこともあろうに現代のキリスト教会が信じられなくなった。現代の牧師の三分の一は「イエスの処女降誕と復活」を信じていないという●マテマテ無教会でも関西地方のあるグループは『信じていない三位一体を子供達には教えられない」と教師陣が分裂して子供学校が成り立たなくなったという。あー世も末である。●牧師を辞任せよ、信者を止めよ。無教会を止めよ。キリストの顔につばを吐きかけているだけだ。●「身体のよみがえり」を心底から信じられない牧師はどういう態度になっているか。伝統の正統信仰から外れると自分の職業的地位が危うくなるので、「仕方なく、無理して」信じている。小さい者や若い者はそれがウソであることが「匂い」でわかるのだ!!。●そんな時、東北のY兄から次のようなメールが届いた。真に大切な公的なことなので、ご本人にはお断りをしないで天下に公開する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(前略)

ロマ8:23 塚本訳

8:23 しかし(苦しんでいるのは)創造物だけではない。わたし達自身も、(神の子にされた証拠として)御霊なる初穂を持っているので、このわたし達自身も、自分(のみじめな姿)をかえりみて、呻きながら、(正式に神の)子にされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである

 

ロマ8:23を読むときに、いつも合わせて思い起こすのが次の個所です。

 

どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。(Iテサロニケ5:23 口語訳)

 

塚本訳敷衍の「(正式に神の)子とされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである。」をIテサ5:23と合わせてさらに私なりに敷衍すれば、

 

「(正式に、すなわち霊と心とからだのすべてにおいて神の)子にされること、すなわち(霊と心とからだのうち、ただひとつまだ残っているところの)わたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、来臨のときに朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、(忍耐しながら、望みをもって)待っているのである。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●私はこれを読んで、ハラハラと涙がこぼれた。●この方は、無教会者である。天下の聖職者たちよ聴け。この方は商売抜きで信じているのだ●無教会者の「告白」はなぜ力があるか。簡単である。商売抜きのために心底信じていることきりしゃべらないからである●それはこの世の企業の「会計検査」の心、医学における「オピニオン」、裁判官の心などと同じ。商売抜きだから信用できるのだ。●このY兄のような「聖書の自分流の敷衍読み」が最高。●「聖書は縦に読め」。これが私の持論。これは何かと言うと、聖書をして聖書に語らしめよ。イエスに語らせよ、パウロに語らせよ、各巻の著者に語らせよ。●縦に読んでいる途中で横にそれてバルト、塚本、内村、関根、前田、田川に行くな。あくまで縦に読め。●その聖書読みが一番よいことを踏まえたのが、塚本虎二の敷衍つき聖書と黒崎幸吉の聖書註解。縦に読んでいるその流れをさえぎらない。聖書の縦読みの「効果」を心得ているのだ●最近出版された田川訳新約聖書(パウロ書簡その一)は本文が約90ページ。その後ろに各節の註解がなんと約450ページ。これは「聖書で飯を食う」(中沢樹先生の言葉)人間の商売上の弁解。建築で言えば「足場」か「設計図」。建築の使用者(読者)にとってはそれは不要。

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


男はツライヨ ++++++++ 所感

2008/03/13 09:50

080313(木)5時起床●朝のひらめき。昨日のブログ「詩篇126篇」の修正●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。・・・零細企業の社長として労組との団交に苦労する。社員に対して「かわいそうだ」と思う気持ちが湧いて愛するようになったら労使関係の空気が変わったという。五日ごとの資金繰りと労組交渉は「前門の虎、後門の狼」だという。この苦労無くして男にはなれない。特に男は家庭でも会社でも「資金繰り」の苦労が必要。妻や子供たちとは労組との交渉の姿勢でなければならない。相手を「かわいそうだ」と思って愛さなければならない。「男はツライヨ」。●一昨日のブログ、「詩篇126篇を読む」に対して貴重なご意見を頂いたので若干修正。憤慨するのは不毛、自分を小さくするだけだ●昨日のブログ「詩篇126篇を読む」を加筆修正。これですっきりした●在シドニーのO兄に「黒崎注解」に関することをメール。真理は少数の人によって発見され運ばれる。しかし一人にでも発見されればそれは「人類のもの」なのだ。クラウスのダンテ伝の結論。

彼(ダンテ)は謎の人であった。しかし彼を知る少数の人に対して、彼は天国への道を開いた。

●すぐれたものは「その時代の人」に受け入れられないのはなぜだろう。「その時代」の民衆自身が悪いのだ。その人に人気が集中するのが「憎い」のだ。妬みなのだ。自分の立場が具合悪くなる恐怖なのだ●イエスに人気がでてきたとき、聖書学者や祭司階級はイエスを妬み、憎んで死刑の執行権のあるローマ政府に訴えて殺した。男の妬みほど世の中を悪くするものはない。暗くするものはない。●あのバッハはそのホームグラウンドであった「聖トーマス教会」でも忘れられた人であった。●100年後。メンデルスゾーンの母親が「マタイ受難曲」の楽譜の一部をメンデルスゾーンに見せたことから「マタイ受難曲」が再発見された。今では人類の音楽中の音楽。●いつの時代でも当てにならないのは「世論」。イエスを歓呼で迎えた「民衆」はコロッと変わって「十字架に付けよ」と叫ぶようになった。バカな民衆よ、その集団の雰囲気よ●政府の方針が「その時の世論」に左右されて大きく揺れ動くのは正しくない。今のところ民主主義は独裁よりも比較的はいいものであるが、それは最終の形態ではない。決定が遅い。妥協で決まる。「空気」で決まる。「連帯責任は無責任」。●建築業界も反省。建物に欠陥がでると重層下請のシステム故に「犯人」が出てこない。姉歯事件がそれ。最終の責任者が出てこない●エクレシアも同じ。集団の仲良しクラブでは命がけで責任をとる責任者が出ない。●親鸞は法然に対して「騙されて地獄に落ちてもよい」と信じ込んだ。こういう気構えがなければ人は救われない。●だれが命がけで責任をとっているのかわからないような「連帯責任は無責任」のサロン的雰囲気の「仲良しクラブ」では、命がけで突っ込んでくる「若者」を救えない。
トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


ブログを書くのを忘れる ++++++++ 所感

2008/03/12 14:25

080312(水)この日のブログは書き忘れて080313に書く。●2時半目覚め、5時起床●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。零細企業故の経済的苦境。友人に救われる●黒崎注解のIT化のことで検討●BbBのバグを終日整理。これにずいぶん時間を使ったのでブログを忘れた。●夕食後奥歯が痛くなり、歯医者に予約なしで飛び込む。19:30。根が無くなってきているという。応急処置。21:50に就寝。
トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


詩篇第126篇を読む ++++++++ 所感

2008/03/11 07:09

080311(火)4時20分起床●昨日から「都もうでの歌」(詩篇第120-134)に圧倒される。一昨年のイスラエル旅行の時、エルサレムで出会ったアフリカからの巡礼団の爆発的な喜びの様子を思い出した●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。・・・・赤字が10年続く。同業他社お同じことをやっているからそうなるという父の言う通りになたっという。「親の小言と冷や酒は後になってから効いてくる」●あの人はどう考えても「遊び人」だ。●「遊び人」の特徴。キリスト教や信者にになぜか「敵愾心」をもつ。「恐怖心」をもつ。「信者を了見の狭い人間だ」と思う。大脳皮質だけの気の毒な人間●暖かくなったので早朝散歩。

resize0097.jpg

早朝散歩。「太陽よ汝は動かじ」(ガリレオ・ガリレイ)の言葉を思う。「私は世の光」と言ったイエスを思う。

太陽の光は人の心を洗う。6:20

●8:45 胃ガン疑惑のあとの検査。ピロリ菌駆除第二回目。●12:30歯科。神経を抜いたので楽になった。食事が恐怖ではなくなった。

●来たる3月30日の感話「詩篇126篇を読む」をまとめる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                   詩篇第126篇を読む

           東京聖書読者会 2008.3.30 高橋照男

●なぜ詩篇126篇か。・・・・現在編集中の津上毅一編「藤林益三」という本の副題は詩篇第26篇の5-6節とした。これは藤林先生がよく「色紙」に揮毫されたものである。

詩篇第126篇(文語訳)

 1・エホバ、シオンの俘囚(とらはれびと)をかへしたまひし時

   われらは夢みるもののごとくなりき

 2・そのとき笑(わらひ)はわれらの口にみち

   歌はわれらの舌にみてり

  エホバわれらのために大(おほい)なることをなしたまへりと

   いへる者もろもろの國のなかにありき

 3・エホバわれらのために大(おほい)なることをなしたまひ          

   たれば我儕(われら)はたのしめり

 4・エホバよ願はくは われらの俘囚(とらはれびと)を

   みなみの川のごとくに歸(かへ)したまへ

  5・涙とともに播(ま)くものは

  歡喜(よろこび)とともに穫(かりと)らん

6・その人は種をたづさへ涙をながしていでゆけど

  禾束(たば)をたづさへ喜びてかへりきたらん

●詩篇126編を黒崎幸吉の名註解で下記に記す。本文は筆者(高橋)が口語訳を使用する。( )内は黒崎註解敷衍の文語体を口語体にし、読みやすいように内容を若干変更した。●聖書はこれを「読みくだす」ときに力がある。塚本敷衍と黒崎注解には意味がある。敷衍や注解を通して意味を通り安くし、しかもそれを読み下しても文章が続くように工夫されている。

詩篇第126篇(都もうでの歌)

(イスラエルがバビロンの捕囚より帰ることとなりし時の歓喜の絶頂を歌えるもの。而して尚その帰還が完成してエルサレムの復興の行われんがために多くの苦心を払いつつある心持を歌えるものである)

126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、(我ら事のあまりにも大なる喜びであった為に一時はその言葉の真偽をさえ疑い)われらは夢みる者のようであった。

126:2 その時(この事の真なるを知りよろこびに満たされ)われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時(ただに我らのみならず、この事実を聞きて)「主は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民(異邦人)の中にあった。(異邦人すらもこの偉大なる主の恩恵を認めざるを得ざりしなり。)

126:3 (かくの如く)主はわれら(イスラエル)のために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。(この楽しさに比すべきものはなし。)

126:4 主よ、どうか、(今より後)われらの繁栄を、ネゲブの川のように(溢るるばかりに豊かに)回復してください。

126:5 (過去に於いても然りし如く今後に於いても多くの労苦を払い)涙をもって種まく者は、(やがてはその苦心が報いられて)喜びの声をもって刈り取る。

126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、(刈り入れのとき来たれば)束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

註「ネゲブの川」は南国砂漠地方では平素は水がないけれども雨期に入れば大なる水流となる。

●この詩を聖書で聖書を読む手法で「読み」をおこなう。。[BbB(拙HP聖書で聖書を読む),TSK(拙HP)、ATD・ヴァイザー、岩波「旧約聖書Ⅺ詩篇・下」、松田伊作訳 参考]。

●作者、成立の時代背景、各節の他人の意見や感想などの「知識」は各自が「聖書辞典、注解書、参考書」などを読まれたい。ここでは筆者(高橋)個人の「読み」を行う。無教会主義集会の存在意義なることを実行する。●聖書それ自身の生活体験の「読み」を行うことが、カトリックの「おミサ」以上の「儀式」。そこに無教会のレゾンデートルがある。●バッハカンタータ147番「心と口と生きざまをもて」が無教会の姿●聖書は「自分読み」「我流読み」で決して読み間違えない。

口語訳 エペ 2:3
2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった

●この「怒りの子」というのは、神の怒りを愛けるべき者(新共同)というのがその意味である。しかしこれを「私は福音を知る前は怒りっぽい人間であったが、十字架で救われて穏やかになれました」と読んでも決して読み間違いではない。(塚本)。これが学者読みでなく聖書の素人読み、それが逆に本質読みになる。

●「都もうでの歌」(詩篇120-134)の圧倒的な喜びの一つ●一昨年、エルサレムでアフリカからの巡礼団に接したが、彼らは爆発的な喜びを表していた。●エルサレムの神殿を慕う喜びの気持ちは詩篇第84篇も同じ。特にその第2節。また6節には「涙の谷」という言葉があり、詩篇126篇と通じる。

 新改訳 詩  84:1-13
84:1 万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。
84:2
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
84:3 雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。
84:4 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ
84:5 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。
84:6 彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
84:7 彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。
84:8 万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ
84:9 神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。
84:10 まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。
84:11 まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。
84:12 万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。

●2節。イスラエルのシオンへの帰還という「回復」が起こったとき。神を信じないものもその不思議に驚いたということ。●私の家は全焼したが、不思議に「回復」して以前よりも大きな家を頂いたことを知った職場の同僚が言った。「高橋さん。神様っているんですねー」と。

●4節。「シオンは回復されても、この我らはまだ元に戻っていない」(岩波松田訳の注)。バビロンの方がいいと言って一緒に帰らなかった同胞がいたらしい。ここに詩篇作者の涙がある。●救われていない同胞がいる悩み。これはロマ書9章のパウロの気持を連想する。

塚本訳  ロマ 9:1-3
9:1 私はキリストにある者として本当のことを言う、嘘はつかない。わたしの良心も聖霊によって、(それが本当であることを)保証してくれる。
9:2 (わたしが急にこんなことを言い出したら信じてくれないかも知れないが、)わたしに大きな悲しみと、心に絶えざる痛みとがあるのである
9:3 ほんとうに、兄弟すなわち血を分けた同胞の(救われる)ためならば、このわたしは呪われて、救世主(の救い)から離れ落ちてもよいと、幾たび(神に)願ったことであろう。

●この涙は「種まきの涙」であり、しかしその先に「刈り入れの」喜びの希望がある。●5節の「播く」というのは単に播く行為の「辛い労働」を指すのではなく、6節の「涙を流して播く」種を意味している。播くという言葉には「種を」が含有している。だから口語訳、新改訳、新共同訳は「種を」を補って「種を播く」と訳している。しかし文語訳、関根訳、松田訳にはない。その方がすっきりする●5節は「播く」という行為に重点があり、6節は「種」そのものに重点がある。●では6節の「種」は何の種なのか、それはあとで芽が出る種のことであり、ここに新約の復活が暗示されている。

文語訳 ヨハ 12:24
12:24 誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし

塚本訳  ヨハ 12:24
12:24 アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)

口語訳 Ⅰコリ15:35-36
15:35 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。
15:36 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか

口語訳 黙  21:4

21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

口語訳 ヨハ 16:20

16:20 よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう

新共同訳 1ペテ1:23-25

1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです

1:24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。

1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

●一旦死ななければ新しいものは出ない。ローマ帝国が初代教会の信者を殺せば殺すほど新しい信者が誕生した。そのことをことを指して「血は種子である」(これが歴史の真実)と言われるようになった。ローマ帝国にとってキリスト教徒は始末が悪いものであった。それは復活のキリストが霊で生きていたからである。信仰なき歴史学者や小説家はそれが見えない。●今日、キリスト教は世界的に低迷している●佐藤研著「禅キリスト教の誕生」はヨーロッパにおけるキリスト教の退潮について書かれている。●これを詩篇126篇に即して考えればその原因は簡単である。「種を播かないところには刈り入れもない」のである。あるいは播くべきものを播いてないのが決定的な原因●古いものはいったん死ななければ新しい芽が出ないというのが生物界の真理

塚本訳  ガラ 6:7-8
6:7 思違いをするな、神は侮るべきではない。人は(自分で)蒔いたものを、また刈取らねばならない。
6:8 というのは、肉に蒔く者は肉から滅亡を刈取り、霊に蒔く者は(最後の日に神の)霊から永遠の命を刈取るであろう

●播くとは苦が伴う「使徒伝承」の連鎖。しかし「弟子はその師に勝らず」(この意味は弟子は師ほどには苦労しないというイエスの慰め)が現実となり、弟子たちは苦労しないで「聖書で飯を食う」(中沢樹)ようになり、涙なくして播いた形になった。その結果芽が出ずに刈り入れができないでいる。播いたと思っているが「涙」という水分がなかった。キリスト教全般が振るわないのは、播く人間の流す「涙」という水分が少なかった結果である。

文語訳  マタ 10:24-25
10:24 弟子はその師にまさらず、僕はその主にまさらず、
10:25 弟子はその師のごとく、僕はその主の如くならば足れり。もし家主をベルゼブルと呼びたらんには、ましてその家の者をや。

 
塚本訳 マタ 10:24-25
10:24 弟子は先生以上でなく、僕は主人以上ではない。(だからあなた達が迫害されるのは当り前である。)
10:25 弟子は先生のよう、僕は主人のようであれば、それで満足すべきである。家の主人(たるわたし)が(悪鬼の頭)ベルゼブルと(悪口を)言われたのだから、その家族(たるあなた達)はなおさらのことである。

●「刈り入れる」とは何か。これは次の句を学ぶ必要がある。

塚本訳  ヨハ 4:35-38
4:35 あなた達のあいだでは『刈入れの時の来るにはまだ四月』と言うではないか。しかしわたしは言う、目をあげて畑を見てごらん。(麦畑の間を押し寄せてくるあのスカルの人たちを!)畑は黄ばんで刈入れを待っている。
4:36 すでに、刈る人は報酬を受けている。すなわち永遠の命にいたる実を集めている。まく人も刈る人も、同時に喜ぶためである。
4:37 『まく人、刈る人、別の人』という諺は、そのままここに当てはまるからである。
4:38 (すなわち)わたしはあなた達をやって、あなた達が自分で苦労しなかったものを刈り取らせる。ほかの人々が苦労し、あなた達はその苦労(の実)を取り入れるのである。(あなた達はわたしがまいたものを、ただ取り入れるだけでよいのだ。)

新共同 ヨハ 4:35-38
4:35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、
4:36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
4:37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

●人の罪を清めるのは、血は血でも罪なき神の子イエスの血のみ。その宝血はすでに流された。その意味ですでに「種は播かれている」。人が涙を流して播いても効果はない。

●神がイエスという「種」を播いたのだが、その種とはいかなるものであったのか。藤林先生が読まれた欽定訳聖書(KJV1611)には何とそれが「preciouc seed」となっている。つまりイエスという「種」は普通の種とは違うのだ。それはpreciouc (尊い)seed(種)なのだ。他の英語訳はそうは訳してない。欽定訳訳者の筆の勢いかもしれないがキリストを意識して恐ろしく信仰が深い。なおルターのドイツ語訳もここを edlen Samen(尊い種)と訳している・・・・・・このことは津上毅一氏が「藤林益三」の本の中で指摘している。●「サウンドオブミュージック」の中で歌われる「エーデルワイス」(高貴な白)は教科書にも採用されたもの。アルプスなどに生える高山植物。普通オーストリアの民謡と間違えられるが、作曲リチャード・ロジャース、作詞オスカー・ハナースタイン2世による米国人のものである。あの白い花はキリストを連想させる。

口語訳 イザ 61:3
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる

●我々がいくら涙を流し、血を流してもその血や涙は人を救う効力はない。イエスの血のみが、preciouc seed(尊い種)のみが人を救うのだ。讃美歌260番2-3節の通りである。●これが人間やその思想を伝承しても効果がなかった原因である。

讃美歌260番  

 2. かよわき われ は  おきて に たえず,

   もゆる こころ も たぎつ なみだ も,

   つみ お あがなう ちから は あらず.

 

3. じゅじか の ほか に たのむ かげ なき

   わびしき われ を あわれみ たまえ,

   みすくい なく ば いくる すべ なし.

 

●我々に期待されているのは、「刈り入れ」の作業である。イエスの苦労の実りを刈りいれるだけなのである。●しかしその刈り入れにも「涙」が必要●普通は播いた人の苦労の方が大きいので、刈り入れする人より喜びも報酬も多いはずなのだが、福音の伝道においては播く人と刈り入れの人が同じように喜ぶ。(ヨハネ4章36節)

塚本訳 コロ 1:24
1:24 今私は君達のために苦しむことを喜びとし、またキリスト・イエスの体なる教会のために私の体でキリストの患難の不足を補っている

 塚本訳へブル12:4

12:4 あなた達はまだ、罪と戦って血を流すまでに抵抗したことがない

新共同 ヘブ 5:7
5:7 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。

●結論。この詩の5-6節は「苦あれば楽あり」という世俗の教訓を通り越して、その先の復活の喜びを指し示している。。●「私の人生には苦労があったが、今はこの通り成功している」という勝利宣言ではない。今のこの「涙」は将来きっと喜びに変わるだろうという前向きの希望をもつ、自分への励ましである。詩篇126編5-6節も実は勝利宣言ではない。●自分および同胞を見て未だ救いが完成していないが、きっと完成するだろうという希望の言葉。信仰の言葉である。 ●今だに続く信者の「涙の人生」とこれから来るであろう「みじめな死」は無駄に終わらずに来世での復活の喜び、その時に刈り入れの喜びが待っているのだ。●では我々の「刈り入れ」とは何か。この自分の人生はたいしたことができなくても、我々の「涙の人生」が刈り入れの作業そのものになっているのだ。●「涙の」パウロも次のように言っている。

塚本訳 Ⅰコリ15:58
15:58 だから、わたしの愛する兄弟たちよ、しっかりしておれ、動かずにおれ、いつも主の仕事にぬきんでよ。骨折りが主にあってむだにならないことを、あなた達は知っているのだから

塚本訳 ロマ 8:18-23
8:18 (しかもこの苦しみは恐れることはない。)なぜなら、わたしはこう考える。
今の世の苦しみは、わたし達に現われようとしている栄光(──キリストと一しょに神の国の相続人になる最後の日の大いなる光栄──)にくらべれば、言うに足りない。
8:19 (そしてこの栄光は必ず与えられる。)その証拠(の第一)は、創造物が神の子たちの現われるのを、首を長くして待ちこがれていることである
8:20 なぜであるか。創造物は自分から(今のような)はかない運命に屈伏したのでなく、それは屈伏させたお方([神]の御心)によるからである。(彼らはアダムの罪の責任を負わされたのである。)しかし(この屈伏には)望みがある。
8:21 創造物自身も、滅亡の奴隷になっている(現在の)状態から自由にされて、神の子供たちがうける栄光と自由とにあずかるのだから。
8:22 わたし達が知っているように、全創造物は(かの日から)今まで、一しょになって呻き、一しょになって産みの苦しみをしている。(父なる神がこの  呻きに耳を傾けられないことがあろうか。)
8:23 しかし(苦しんでいるのは)創造物だけではない。わたし達自身も、(神の子にされた証拠として)御霊なる初穂を持っているので、このわたし達自身も、自分(のみじめな姿)をかえりみて、呻きながら、(正式に神の)子にされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである

塚本訳 Ⅰテサ5:23
5:23 願はくは平和の神、みづから汝らを全く潔くし、汝らの靈と心と體とを全く守りて、我らの主イエス・キリストの來り給ふとき責むべき所なからしめ給はん事を

●人生は「あざなえる縄のことし」でよく三つにわけて考えられる。順列組み合わせて次の8種類になる。苦楽苦、苦楽楽、苦苦楽、苦苦苦。楽苦楽、楽楽苦、楽苦苦、楽楽楽。●藤林先生の御晩年は詩篇126篇の5-6の御心境ではなかったのであろうか。

●今回の私の感話は原稿段階のものをブログで発表したが、その結論がロマ書8章23節であることを非常に喜んでくださった東北の読者の方が、下記のようなメールを送って下さった、そして最後にロマ8章23節の後半部分をご自分の敷衍訳をされた。誠に然り、アーメンである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ロマ8:23を読むときに、いつも合わせて思い起こすのが次の個所です。

 

どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。(Iテサロニケ5:23 口語訳)

 

塚本訳敷衍の「(正式に神の)子とされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである。」をIテサ5:23と合わせてさらに私なりに敷衍すれば、

 

「(正式に、すなわち霊と心とからだのすべてにおいて神の)子にされること、すなわち(霊と心とからだのうち、ただひとつまだ残っているところの)わたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、来臨のときに朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、(忍耐しながら、望みをもって)待っているのである。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

●人生三区分の考えによって我々の人生がたとえ「苦苦苦」の最悪のパターンであっても来世で「楽」ならば、成功。それは苦苦苦楽である。我々には人生三区分のその次、第4のステージが待っているのだ。パウロも、初代キリスト教徒たちもその「信仰と希望」で生きていたのだ。

塚本訳 マタ 21:31

21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  

 

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


「涙と共に種を蒔く人」とは誰か ++++++++ 所感

2008/03/10 07:07

080310(月)出勤日、4時45分起床●朝の黙想「詩篇126篇5節の『涙を流して種を播く』とは何か」●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。・・・・・販売だけでなく製造にも進出、現在のトステムや住グループの前進。どうやら結婚して生活も思想も充実してきたように見える。しかし事業はうまくいかずに家も売却して4畳半住まい。・・・妻に「もし失敗したら何もかも失ってしまうよ」と話すと「どこまでもついていくからいいわ」と答えた妻。エライ!。この妻にしてこの男あり。男は妻次第。●子や孫に告ぐ。よい妻に出会え。それは見かけではない、中味だ。(全く化粧しなくてもよいというわけではない。笑)。子や孫に告ぐ。良い夫に出会え。男は見かけではない。中味だ。(全く見かけに無頓着な人ではいけない。笑)●女子大の講義。私「国(地方)に帰って中小工務店の二代目と結婚してその女将さんになれ。東京には良い建築はない」。●続けて私「イケメンは教養も金もない。」。女生徒「先生、最近は違うワヨ」。私は心で「心配だなー」●理想の妻についてユダヤ人は次のように言う。

口語訳 箴  31:10-31
31:10 だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。
31:11 その夫の心は彼女を信頼して、収益に欠けることはない。
31:12 彼女は生きながらえている間、その夫のために良いことをして、悪いことをしない。


31:25 力と気品とは彼女の着物である、そして後の日を笑っている。
31:26 彼女は口を開いて知恵を語る、その舌にはいつくしみの教がある。


31:30 あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる。
31:31 その手の働きの実を彼女に与え、その行いのために彼女を町の門でほめたたえよ。

●キリスト教に閉塞感がある。若者が来ない。なぜか。「種を播かなかったから、刈り入れもない」のが真理。

新共同 詩  126:5-6
126:5 涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

●詩篇126編を黒崎幸吉の名註解で下記に記す。本文は口語訳とする。( )内が黒崎註解敷衍。文語体は口語体にして内容若干変更。

口語訳1955

詩篇第126篇(都もうでの歌)

(イスラエルがバビロンの捕囚より帰ることとなりし時の歓喜の絶頂を歌えるもの。而して尚その帰還が完成してエルサレムの復興の行われんがために多くの苦心を払いつつある心持を歌えるものである)

126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、(我ら事のあまりにも大なる喜びであった為に一時はその言葉の真偽をさえ疑い)我らわれらは夢みる者のようであった。

126:2 その時(この事の真なるを知りよろこびに満たされ)われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時(ただに我らのみならず、この事実を聞きて)「主は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民(異邦人)の中にあった。(異邦人すらもこの偉大なる主の恩恵を認めざるを得ざりしなり。)

126:3 (かくの如く)主はわれら(イスラエル)のために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。(この楽しさに比すべきものはなし。)

126:4 主よ、どうか、(今より後)われらの繁栄を、ネゲブの川のように(溢るるばかりに豊かに)回復してください。

126:5 (過去に於いても然りし如く今後に於いても多くの労苦を払い)涙をもって種まく者は、(やがてはその苦心が報いられて)喜びの声をもって刈り取る。

126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、(刈り入れのとき来たれば)束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

註「ネゲブの川」は南国砂漠地方では平素は水がないけれども雨期に入れば大なる水流となる。

●では「涙と共に種を蒔く人」とは誰か。思いつくままに。黙想する。(BbB,

TSK、ATD参考)

文語訳 ヨハ 12:24
12:24 誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし

塚本訳  ヨハ 12:24
12:24 アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)

口語訳 Ⅰコリ15:35-36
15:35 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。
15:36 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか

口語訳 黙  21:4

21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

口語訳 ヨハ 16:20

16:20 よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう

新共同訳 1ペテ1:23-25

1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです

1:24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。

1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

●一旦死ななければ新しいものは出ない。ローマ帝国が初代教会の信者を殺せば殺すほど新しい信者が誕生した。そのことをことを指して「血は種子である」と言われるようになった。ローマ帝国にとってキリスト教徒は始末が悪いものであった。

塚本訳へブル12:4-7

12:4 あなた達はまだ、罪と戦って血を流すまでに抵抗したことがない

12:5 また、(親がその)子に話すようにして話される(神の)励ましを忘れてしまっている。──『わが子よ、主の訓練を軽んずるな、処罰されるときに、ひるむな。

12:6 なぜなら、主は愛する者を訓練し、好きな子をすべて懲らしめられる。』

12:7 (神の)『訓練』を受けるために、(迫害を)耐え忍べ。神はあなた達を(自分の)『子』のように取り扱われるのである。なぜなら、父の『訓練し』ない『子が』どこにかあるのか。

●ヒトデは二つに切れば二匹になり、4っつに切れば4匹になる。始末がわるい。キリスト信者これとおなじ。では切らないで焼いてしまえばどうか。然り、神は霊である。全く新しく起こす。これがエクレシアの真の姿●肉の内村、塚本、黒崎。肉の教派、教会、無教会集会は滅びる。消失する。その思い出に生きて「懐かしのメロディー」を歌っている者も高齢化でいなくなる。それが御心。摂理。それらはいったん死ななければならない。新しい芽が出ない。●詩篇126篇5節をTSK日本語ヴァージョンで調べる。

Galatians 6:7:
まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。

Galatians 6:8:
すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


第六感、罪の自覚のない人間 ++++++++ 所感

2008/03/09 07:20

080309(日)5時起床●NHK3CH「こころの時代」、禅僧で研修医の対本宗利。一人格の中で宗教とこの世のことが融合している。これ理想の生き方。●昨日エプソンプリンターの修理が済んで送られてきたが、今朝また故障。機械ものには故障があることは宿命と考えるべきか●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。・・・見合いで一目ぼれ、一週間で電撃結婚。うれし泣き。独立して経営していた会社の社員に採用しようと面接した青年、第六感で「ひっかかるもの」があり、調べてみたら前の会社でお金の間違いを犯した経歴があった。即不採用。●人間関係では初対面で「第六感」が働かなければならない。それだから「面接」というのは大切。ペーパーテストでは「第六感」は働かないのだ。●企業が人を採用するときは「面接」が重要。なぜか。第六感が働くのは「面接」においてだから。結婚の時の「見合い」また同じ。●企業においては営業の人物が大切。いくら見積金額が安くても決定してもらえないことがある。人物は目つきで判定できる。●集会は藤巻、小寺、山本●クリスチャンでも合う人と合わない人がいる。合わそうとするのは無理がある。そういうときは「離れること、逃げること」が正しい道。無理はいけない。何を言っても直りそうにない。爆撃してはいけない。●午後、妻は関さんのピアノ演奏会(キララホール)。そのあと合唱の練習●自分の激しい罪の自覚がない人がいる。あれはどういう人間なのだろう。●自分の罪の発見が神を知るに至る第一歩。●「アンタに罪ある」「アンタそれ罪だよ」と人から言われた程度の罪の自覚は軽い。神から罪を指摘されたときは懊悩、苦悩、絶望、窒息しそうになる。そのとき藁をもつかむ思いで「神様、ホトケ様」と「すがりつく」ことが神に出会うはじめ。その経験なくして神はわからない。信仰などわからない。●神は人を救うときは、まずその人に「光をあてて」罪の自覚をさせる。●罪の自覚などなくて「平気で」生きていられる人間は少しおめでたいか、罪に敏感でないか、神に見放されている証拠。●神としても見放す人間をむやみに苦しめないのかもしれない。神を知ろうとしない人間は「自己流の平安」で一生を終わるがよい。さようなら。アバヨッ、達者で暮らせ。

口語訳 エレ 6:14
6:14 彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている。

●○○に対する祈り。神の恩恵により(人間の指摘では効を奏しないから)、激しい罪の自覚が○○に下り(不幸ゴタゴタ不和病気惨めな人生などを通し)、その苦しい懊悩を通して神を知るにいたり、真の幸福を味わえますように。人生の最後、ドタンバでも結構です。どうか、どうかお願いします。●罪とは何か。罪とは各国で違う。心の中の罪は犯罪か、などなど議論しているうちは甘い。神に罪を示される時は議論の余地なく苦しい。人が「罪なし」と言っても神は「罪あり」と言う。●次回の感話は詩篇126篇。その5-6節を瞑想していると、とんでもない大真理が示された。今日若い人がキリスト教に来ないもは(刈り入れができないのは)、そもそも種を播いていないからだ。これ非常に単純な真理。これについては明朝また黙想する。

口語訳 詩  126:5-6
126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

トラックバック(0) | コメント(1) | top▲


人間、努力しても良くはなれない ++++++++ 所感

2008/03/08 10:48

080308(土)3時目覚め、そのまま寝付けず5時起床●朝の黙想{キリストという貸衣裳を着よ」●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。かけだしのころ。人間はこういうときの「体得」が身につく。勉強では無理●過日の集会で次の個所を引用した。

塚本訳ルカ15:22

15:22 しかし父は(皆まで聞かず)召使たちに言った、『急いで、一番上等の着物をもって来て着せなさい。手に指輪を、足にお靴をはかせなさい。


塚本訳マタ 22:11-13

22:11 王は客を見ようとして入ってきたが、そこに礼服を着けていない者が一人いるのを見て

22:12 その人に言った、君、礼服も着ずに、なんでここに入ってきたのか。』その人が黙っていると、

22:13 王は家来たちに言った、『あの者の手足を縛って、外の真暗闇に放り出せ。そこでわめき、歯ぎしりするであろう。』



塚本訳 エペ 4:22-24

4:22 然り、君達は情欲に欺かれて破滅すべき、以前の生活に属する旧い人間を脱ぎ棄て、

4:23 君達の霊も心も(すっかり)新しくされ、

4:24 真理の義と聖とにより神に肖(あやか)って創造られた新しい人間を着るべき(ことを教えられたの)である。


●話を終わると、T・Tさんが近寄って来られて、在ボストンでのご経験を話してくださった。「あるパーティに普段着で行ったら。入口で『これを着ろ』といってスーツを渡され、10ドルとられた。帰りにそのスーツを返すと10ドルが戻ってきた」と。宴会の入り口で礼服が貸し出されるのはユダヤの習慣だけかと思っていたら、現代米国にもあることを知って興味深かった。●我々はどんなに努力しても「良くはなれない」。少なくとも自分を見ればわかる。キリストを信じて48年、元のもくあみ、全く清くなってない。欠点だらけで嫌われる。怒りっぽい。すぐカーッとなる。すぐキレる。すぐ裁く。人を悪く思う。人の悪口を言う。余命18年の努力ではとうてい直りそうにない。●そんなとき聖書は言う「キリストを着よ」。つまりこの身はいかに汚れていてもキリストという貸衣裳で隠せ。そうすれば何食わぬ顔で神の前に出られるのだ。●今までは毎日聖書を読み、集会に出席していれば次第次第に清くなってキリストのようになれるのかと思っていた。現実はちがう。「ノー」だ。だんだん悪くなる。頑固になる。癌は頑固な人間がなりやすいらしい。●では、どうすりゃーいいんだ。キリストという「貸衣裳」を着ればよいのだ。それはただで貸してくれるのだ●それを嫌って「貸す」というのに借りようとしないから、王が君、礼服も着ずに、なんでここに入ってきたのか。』(マタイ22:12)と怒ったのだ。●人間は神などに頼らず「自分の努力で生きていこうとしたり、自分でよくなろうとする」から、神が怒るのだ●結婚式の時はたいてい貸衣裳。それを自分で作るのもいいが、無駄。なぜか。太ってしまい着ることはできない(笑)。嘘だと思ったら着て見よ。だから貸衣裳のほうが良い。

resize0088.jpg

去る3月3日、昭和女子大卒業制作展で。ウェディングドレス。まー、いいか。これは女性の夢だ。

●クラシック不滅の名盤100で、管弦楽の部第一位はラヴェルのボレロ~管弦楽曲集、クリュイタンス+パリ音楽院管弦楽団。これを鑑賞する●クラシック不滅の名盤100で、器楽曲の第一位はダントツでグールド演奏のバッハ「ゴールドベルグ変奏曲。これを鑑賞●14:00昭和女子大卒業式。午前中の4大の卒業式は欠席して午後の短期大学の方に出席。病弱で出席日数がすれすれの生徒Tは、論文テストの最後に「先生、単位落とさないでください。♡」と書いてあった。残念ながら彼女は卒業式に顔がなかった。単位数が不足だったのか。追試験で救済されるか。●卒業式の間中、彼女のことを思い、祈った●式は非常に静粛厳粛で、「仰げば尊し」では目がウルウルになった。

resize0092.jpg

昭和女子大学、助手の高木恵理子さんと。

resize0093.jpg

昭和女子大卒業式。この緞帳に光を当てて、バッハのトッカータとフーガニ短調が演奏される。恒例。

resize0094.jpg

昭和女子大非常勤講師の中澤昭先生(中澤建築事務所)と。


 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


経済の不安をどう解消するか ++++++++ 所感

2008/03/07 07:03

080307(金)4時15分起床。●朝の黙想「経済的不安をどう解消するか」●Y兄の昨日のブログの次の公開文章に啓発された。(こういうとき公開ブログは有益。何でも隠そうとする人間は有益人間ではない。それは有害無益人間)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昼休みに校長室に呼ばれ、校長から来年度非常勤講師の依頼状を受ける。この呼び出しがなければ事実上の解雇・失職である。このような雇用形態でもう30年近く仕事を続けている。来年度(4月から)は週に3日仙台のM学園で新しい仕事にチャレンジするので、S高校では週2日(月曜日と火曜日)だけ授業を担当する。これまで10年以上も予備校の講義の一環として担当してきた「サタデーセミナー」も3月中あと3回の講義を残すだけとなった。感謝すべきは、集会(礼拝)を中心とする生活を確保しながら、日々の糧を頂くために必要な仕事がその時々に与えられてきたことである。新年度も、日々の生活に必要な糧を豊かに備えてくださる神に信頼して船出したい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「集会(礼拝)を中心とする生活を確保しながら、日々の糧を頂くために必要な仕事がその時々に与えられてきた・・・・」●これだ、これがクリスチャンの模範とすべき生き方だ。この告白は次の聖句に対する百千の注解や説教に勝って心に染みる。

塚本訳  マタ 6:33
6:33 あなた達は何よりも、御国と、神に義とされることとを求めよ。そうすれば(食べ物や着物など)こんなものは皆、(求めずとも)つけたして与えられるであろう。

●Y兄が、「実話」で教えて下さったので、不肖この私も「実話」で「経済的不安」を抱えておられる面々に「少しは役に立つかなー」と思って告白する。

●亡き父は、働き盛り、子供が育ち盛りの時に結核の再発。給料が4割減になってしまった。
父の晩年のある日のこと。父「兄(長男)を希望の早稲田大学に、照男君(私、次男)を希望する神学校にという願いをかなえられなかったことが悔しい」。私「いいよ、いいよ。もーいいよ。そのおかげで僕は『貧しき者は幸いなり』ということがわかったのだから」●某牧師「高橋君。神学校に行って牧師や伝道者の道を歩むな。私の父(故S牧師)は、結核になったが貧困のため入院できず、若くして召された。○○さんのようになれ」。○○さんとは「普通の職業人」で教会のために尽しておられる方。その○○さんのご令息は
今牧師になっているが、ほそぼそのようだ。●父がその若くして召された故S牧師の未亡人にお悔やみに行くと「泣かれ」てしまったそうだ。●私もあるとき九州にその故S牧師の夫人を訪問したことがあるが、帰りにバスが見えなくなるまで見送って下さった。もう故人になられたと聞く●集会のT兄は生まれたとき、臍の緒が首に絡まってしまい、障害者となって一生苦労された。古新聞で紙袋を作って八百屋に売っておられた。その時間が惜しくて集会に来ることもままならなかったことがあったという。そのT兄の前夜式の時、お顔の白い布を開けてびっくり。にこにこしていて今にも語りかけてくれそうであった●集会のF兄は月収5万円。それでもいつも誰よりもニコニコ。ある日そのF兄が、(高橋はマダマダという顔をされて)「高橋君。『パンはなくても生きられる』というのは本当だよ。」。これも百千の注解書や説教よりも身に染みる。

塚本訳 マタ 4:4
4:4 しかし答えられた「『パンがなくとも人は生きられる。(もしなければ、)神はそのお口から出る言葉のひとつびとつで(パンを造って、)人を生かしてくださる』と(聖書に)書いてある。」

塚本訳 マタ 5:3
5:3 ああ幸いだ、神に寄りすがる『貧しい人たち、』天の国はその人たちのものとなるのだから。

●ある日、故藤林益三先生(元最高裁判所長官)とトイレで並んで用を足しているとき私に向かって。「お金っていうのは必要な時に入ってくるものだ。そのことで私は全然心配しないようになった」。●幼いときに父上をなくされ、貧困の苦労をご経験された先生は困っている人にかなり援助されておられた。●某氏が塚本先生に「先生、貧しきものはなぜ幸いなのでしょうか」。塚本先生「そーだなー。一所懸命に働かなければならないからじゃーないかなー」。・・・・ここで聖書を引いて説教しなかったところが大家の徴●私は4人の子供を抱えて、教育費の不安に「取り越し苦労」をしていた。「近い将来、ピークで年間2000万円足りなくなる時がくる。絶望だ」と恐怖であった。そのとき妻は「借金はなるべくやめましょう。それは結局返さなければなりません。何とかなるわよ」と言ってくれた。今は昔、それが「なんとかなった」のだ。不思議●そのおかげで、ゴルフ、運転、酒タバコ麻雀、ピアノ演奏、とは無縁となった。●ようやく建てた家のローンを払い終わって「サーこれから楽になる」と思っていたら「家を焼かれた」。神はむごいことをなさる。しかしそのときわかったこと。「天国の家は焼けない」。その後に前より大きな家を「頂けた」。私も妻もしみじみ思う、「この家は頂いたものだ」と。●火災の3か月後、今度は脳内出血で「意識不明」、いったん命を奪われた。しかし生き返らされた。今のこの命は「頂いた」ものだ。●14:00 開成出版の黒田武氏と「藤林本」の打ち合わせ。ISBNのことなど有益なアドバイスを頂いた。

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


復讐をしたくなるとき ++++++++ 所感

2008/03/06 08:27

080306(木)5時目覚め。朝のひらめき「しかえしは私がする」●朝風呂で「しかえしは私がする」ということを黙想。関連聖句を次のように思い浮かべた。

口語訳 出  14:14
14:14 主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。


口語訳 詩  37:1
37:1 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。


口語訳 詩  1:4
1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。


新改訳 エレ 6:14
6:14 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。

塚本訳  マタ 15:13
15:13 イエスは答えられた、「わたしの天の父上がお植えにならないものは皆、引き抜かれる。

塚本訳 ルカ 18:7-8
18:7 (こんな男でもこのとおり。)まして神が、夜昼叫んでいるその選ばれた人々のために仕返し(の裁判)をせず、気長に放っておかれることがあろうか。
18:8 わたしは言う、間もなく彼らのために仕返しをされるであろう。しかし人の子(わたし)が来るときに、はたして地上に信仰(をもつ人)が見当るだろうか!」


塚本訳マタ 26:52
26:52 その時イエスが言われる、「剣を鞘におさめよ。剣による者は皆、剣によって滅びる。


塚本訳 マタ 5:39
5:39 しかしわたしはあなた達に言う、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打ったら、左をも向けよ。


塚本訳 マタ 26:53
26:53 それとも、父上にお願いして十二軍団以上の天使を今すぐ送っていただくことが、わたしに出来ないと思うのか。

●これらの言葉は、神は本当に生きて働いていてくださるという深い信仰がないと空理空論の概念だけになる。 ●終日「藤林本」の編集。

トラックバック(0) | コメント(1) | top▲


神は死の床より人を呼び覚ます ++++++++ 所感

2008/03/05 10:35

080305(水)5時半起床●朝の黙想「神は死の床より人を呼び覚ます」●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。・・・小学校の時から結核。鎌倉の恵風園で療養、何と20歳まで。この恵風園は私の父が療養していた所である。●「藤林本」の編集作業。今日は「出版のお知らせ」の原稿を執筆した。その試案は次の通り。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

弁護士出身で初めて最高裁判所長官になられた藤林益三先生は、昨年4月に99歳で召されました。

ここに先生の御生涯を回顧した津上毅一編「藤林益三」という本が出版されることになりました。先生はわが国における「信教の自由」の法的基盤構築のために全力を尽くされました。最高裁判所長官に任命されたのもそのためであったとご自身がおっしゃっておられます。先生の御生涯を回顧しますとその戦いの根底には「キリスト教の三位一体への固い信仰」があったことがわかってまいりました。戦後、わが国の大切な時期に、藤林先生のようなキリスト者の最高裁判所長官を頂いたことは、神の特別のご恩恵であったと思います。キリスト教が低迷している困難な今日、本書が出版されることは重要な意義があるものと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「一個人」という雑誌(NHKベストセラーズ)で「クラシック不滅の名盤」という記事を読む。交響曲の部ではフルトヴェングラー+バイロイト祝祭歌劇場管弦楽団のヴェートーヴェン「第九」を抜いて、ワルターの「田園」が第一位。早速手元のCDを聴く。ナルホド第一位になるだけのことはある。「神々しい」。●昨年ウィーンを訪れて、ベートーヴェンがその第2楽章「小川のほとりの情景」を発想した「散歩道」を思い出した。(HP2007ウィーンの旅のアップ)●朝の黙想「神は死の床より人を呼び覚ます」について、関連の聖書個所を思い浮かべた。

塚本訳 ヨハ 11:43
11:43 こう言ったのち、大声で、「ラザロ、出て来い」と叫ばれた。

塚本訳 ルカ 7:14
7:14 近寄って棺に手をかけ──担いでいる者は立ち止まった──「若者よ、あなたに言う、起きよ!」と言われた。

塚本訳 マタ 10:28-29
10:28 体を殺しても、魂を殺すことの出来ない者を恐れることはない。ただ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来るお方を恐れよ。
10:29 雀は二羽一アサリオン(三十円)で売っているではないか。しかしその一羽でも、あなた達の父上のお許しなしには地に落ちないのである。


塚本訳 マタ 6:31-34
6:31 だから、『何を食べよう』とか、『何を飲もう』とか、『何を着よう』とか言って、心配するな。
6:32 それは皆異教人のほしがるもの。あなた達の天の父上は、それが皆あなた達に必要なことをよく御承知である
6:33 あなた達は何よりも、御国と、神に義とされることとを求めよ。そうすれば(食べ物や着物など)こんなものは皆、(求めずとも)つけたして与えられるであろう。
6:34 だから、あしたのことを心配するな。あしたはあしたが自分で心配する。一日の苦労はその日の分で沢山である。

 ・

塚本訳 マタ 4:3-4
4:3 すると誘惑する者[悪魔]が進み寄って言った、「神の子なら、(そんなにひもじい思いをせずとも、)そこらの石ころに、パンになれと命令したらどうです。」
4:4 しかし答えられた「『パンがなくとも人は生きられる。(もしなければ、)神はそのお口から出る言葉のひとつびとつで(パンを造って、)人を生かしてくださる』と(聖書に)書いてある。」

 

●すべては神のDO、主権である。●「復活」というのも神が「起こしたもう」ということである。このことがわからないと使徒信条の「イエスは処女マリアより生まれ」という信仰がわからない。謎のまま。信じられないまま●人の信仰には諸段階があるから裁いてはいけないが、「イエスが誰から生まれようとかまわない、イエスの死体が墓に腐乱していたとしてもかまわない」というようなことを平気で言うようでは「使徒伝承」は連鎖しない。それは信仰の自由の履き違えである。そういうキリスト教は「あってはならない」から滅亡消滅は必然である。神が「用無し」と考える。●無教会は「自由主義神学」との戦いであった。内村、塚本、黒崎は正統信仰中の正統信仰を固く保持していた。●今日のキリスト教が衰退低迷している原因は明快。「三位一体、有体的復活、使徒伝承」を信じず、語らず、伝えず、伝承せずのあり様。これでは神もイエスも天で泣いている。イエスは多分天で次のように呟いているだろう

 

塚本訳 ルカ 18:8
18:8 わたしは言う、間もなく彼らのために仕返しをされるであろう。しかし人の子(わたし)が来るときに、はたして地上に信仰(をもつ人)が見当るだろうか!

 

●妻は婦人たちの聖書勉強会、午後は練馬の守の家に行く。●14:30、「藤林本」の編集打ち合わせに津上邸を訪問。最終段階。津上さん94歳の頭脳明晰には脱帽●津上ご夫妻と「塚本先生は、三位一体を固く信じておられたが、それを概念としての言葉にしなかったのはなぜか」ということが話題になった●ご長女の浅野直子さんを交えての音楽論は楽しかった。

 

resize0089.jpg

 

津上邸の前にある碑文谷公園。ここで訪問時間の時間調整。14:15

中央は厳島神社。この池は農業用の水源。松の雪吊りがあり、金沢の兼六園と同じと説明があった。

 

resize0091.jpg

 

東京タワーの夜景。人間は塔が好きだ。高いところが好きだ。しかし超高層マンションに棲むのは問題。それは大人の趣味。18:20

18:30 ●「日本積算協会」コストスクール卒業式。私は「何になるのかわからないような教育が成功する。ICUの教養学科、早稲田大学の人間科学部、などを卒業した人間は伸びる。コストスクールまた同じ。」と話した。ただし単なるリベラルアーツは雑学であって、有害。心が広いと思ったら大間違い。大脳皮質にくだらない知識がゴミのように溜まっているだけ●第一回の卒業生、三井物産の小島治氏の「大型ショッピングセンターの開発運営とPM」の講演は興味深かった。世界を相手に大活躍。明日11時にニューデリーに向かうという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


「死ぬは益である」とは何か ++++++++ 所感

2008/03/04 09:54

080304(火)5時15分目覚め。朝の黙想「死ぬは益なり」。今朝はこの研究●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。・・・・若くして結核になる。私の父のことを思い出した。人間は死に直面するといいことがある。真理を認識する。●パウロの言葉「死ぬるもまた益なり」とは何か。パウロほどの人が死んだら「もったいない」ではないか。長生きして活動した方が人類の益になったのではないか。

文語訳  ピリ 1:21
1:21 我にとりて、生くるはキリストなり、死ぬるもまた益なり。

新共同 ピリ 1:21
1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

塚本訳 ピリ 1:21
1:21 何故なら、私にとって生きることはキリスト(を生きること、彼が私に生き給うことである。否、彼が私の生命)である。そして死ぬることは(完全にキリストと共に生きることであるから、私にはむしろ)利益である。

●パウロは「死に急いだ」のではないのか。かって某氏が「高橋君は死に急いでいる」と批判。しかし私は57歳で家屋全焼、3か月後に脳内出血で「意識不明」。神にダブルパンチを食らった。あの時は地平線を見失った。「死んで頂きましょう」と言われたようなものであった。しかしこの二つ、私には「益」であった。「死のシミュレーション」を行わされた。

文語訳 ヨハ 12:24
12:24 誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。

新共同 ヨハ 12:24
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。


塚本訳  ヨハ 12:24
12:24 アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)

●塚本訳の敷衍(だからわたしは命をすてる。)はしっくりしない。本当のところは何か。神に無理やり捨てさせられるのだ。しかしイエスはその宿命を悟り、自分で自分を励ましたのではあるまいか。それにしてもこの節全体は後の時代の加筆らしく思う。しかしそれは学者の研究である。素人読みでは「その真理」をつかめばよい。イエスの真正の言葉かどうかの研究は時代遅れ。その奥に潜む巨大な真理をつかむのが「聖書の素人読み」。

口語訳 詩  126:5-6
126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

新改訳 詩  126:5-6
126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

新共同 詩  126:5-6
126:5 涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。


●ヴァイザーはここにはイエスの言う「一粒の麦」の関係が見られるという。深い読みである。

文語訳  Ⅰコリ15:55-58
15:55 『死よ、なんぢの勝は何處にかある。死よ、なんぢの刺は何處にかある』
15:56 死の刺は罪なり、罪の力は律法なり。
15:57 されど感謝すべきかな、神は我らの主イエス・キリストによりて勝を與へたまふ。
15:58 然れば我が愛する兄弟よ、確くして搖くことなく、常に勵みて主の事を務めよ、汝等その勞の、主にありて空しからぬを知ればなり。

新共同 Ⅰコリ15:55-58
15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

塚本訳 Ⅰコリ15:55-58
15:55 『死よ、どこに、お前の勝利は。死よ、どこに、お前の剣は』。
15:56 ──死の剣は罪である、罪の力(の源)は律法である。──
15:57 しかし神に感謝あれ、勝利をわたし達の主イエス・キリストによってわたし達にお与えになる神に!
15:58 だから、わたしの愛する兄弟たちよ、しっかりしておれ、動かずにおれ、いつも主の仕事にぬきんでよ。骨折りが主にあってむだにならないことを、あなた達は知っているのだから。

●「主にある労苦は無駄にならない」 とは真理。集会の某氏が召されたら、そのお子様が信仰に向かうようになった例が二例もある。●11:00歯科。どうしても痛みが取れないのでしかたなく神経をとる●エプソンプリンター修理に出す。引き取りにきてくれるのは素晴らしいサービス●池谷医院●「藤林本」の編集。「再見積もり」の見積もりに2社お願いしたが、一社は見積もり提出期限に間に合わなかったので、「失格」。その他のことでも実に不誠実な会社だ。少しぐらい安くても頼む気にはならない。

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


仕事がイヤになったときは ++++++++ 所感

2008/03/03 07:11

080303(月)、出勤日。4時半起床。朝の黙想「仕事がイヤになったとき」。●これを朝風呂で黙想。聖書的には次の言葉がその「解決」の道。とにかく仕事というのは「相手」(個人であれ世間であれ)のためにという意識がないとき(金、名誉、義務などが目的になって)ヤリがいを失うようにできている。

塚本訳 マタ 7:7-14
7:7 (ほしいものはなんでも天の父上に)求めよ、きっと与えられる。さがせ、きっと見つかる。戸をたたけ、きっとあけていただける。
7:8 だれであろうと、求める者は受け、さがす者は見つけ、戸をたたく者はあけていただけるのだから。
7:9 あなた達のうちには、自分の子がパンを求めるのに、石をやる者がだれかあるだろうか。
7:10 また魚を求めるのに、蛇をやる者があるだろうか。
7:11 してみると、あなた達は悪い人間でありながらも、自分の子に善い物をやることを知っている。ましてあなた達の天の父上が、求める者に善い物を下さらないことがあるだろうか。
7:12 だから、
何事によらず自分にしてもらいたいと思うことを、あなた達もそのように人にしなさい。これが律法と預言書(と[聖書]の精神)である。
7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る道は大きく、かつ広く、ここから入る者が多いのだから。
7:14 命にいたる門はなんと狭く、道は細く、それを見つける者の少ないことであろう!

●こんな難しいことではなく、仕事がイヤになったら現実的には次のようにすればよい。

①その仕事が終わったら得られる報酬をセロテープで目の前に貼っておく。(少し下品ならば、頭の中に貼る)

②これで稼げばあそこに行けると思う「写真」や、食べられる「食事の写真」を貼っておく。人間は食べるために働くのだ。(これも下品ならば頭に思い描く)

③家族の写真を貼っておく。「いーか。とーちゃんが稼いでアレ買ってやるぞ。まっていろ」と心でつぶやく。

④この労働は「ローン(教育、住宅)返済のためだ」と心に念じても励みにはならない。なぜだろう。多分銀行のためになっているだけだからか。

●朝風呂で日経「私の履歴書」、住生活グループ前会長の潮田健次郎。小学校卒の苦労人。こういう履歴書は面白い。●午前中、建設物価調査会●午後13:10昭和女子大生活環境学科卒論発表会。その後卒業制作展を見る。女子生徒の「女性らしい」建築的素養にびっくり。私の講義の内容も再考したくなった。安宅教授、高木助手、野口助手、と懇談。

resize0087.jpg

昭和女子大生活環境学科、建築学コース卒業設計、優秀設計賞。佐々木千昌「一枚の床」。

「出会い」ということをテーマにしたもの。宗教的、哲学的な発想でびっくり。べリーグッド。
 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


行け。後を振り返るな! ++++++++ 所感

2008/03/02 07:13

080302(日)5時目覚め●朝の囁き「行け。後を振り返るな!」。与えられた聖句を次々と書く。

塚本訳  ルカ 17:26-33
17:26 ちょうどノアの(洪水の)時にあったようなことが、人の子の(来る)日にも起るであろう。
17:27 『ノアが箱船に入った』日まで、人々が飲んだり食ったり、嫁にやったり取ったりしていると、洪水が来て、一人のこらず滅ぼしてしまった。
17:28 ロトの時にも、ちょうど同じようなことがあった。人々が飲んだり食ったり、
売ったり買ったり、植えたり建てたりしていると、
17:29 ロトがソドムから出た日に、『(神は)天から火と硫黄とを降らせて、『一人のこらず滅ぼしてしまわれた。
17:30 人の子があらわれる日にも同じことが起るであろう。
17:31 その日には、屋根の上におる者は、(何か大切な)家財道具が家の中にあっても下におりて取り出そうとするな。畑におる者も同じく『(家に)もどる』な。
17:32 ロトの妻のことを思え。
17:33 (この世の)命を保とうとする者は(永遠の)命を失い、(この世の命を)失う者は、(永遠に)生きながらえるであろう。

●ロトは後を振り返ったので「塩の柱になった」。ソドムとゴモラを振り帰るな。

塚本訳  ヨハ 4:34-38
4:34 イエスが言われる、「わたしの食べ物は、わたしを遣わされた方の御心を行い、(任せられた)お仕事を成しとげることだ。
4:35 あなた達のあいだでは『刈入れの時の来るにはまだ四月』と言うではないか。しかしわたしは言う、目をあげて畑を見てごらん。(麦畑の間を押し寄せてくるあのスカルの人たちを!)畑は黄ばんで刈入れを待っている。
4:36 すでに、刈る人は報酬を受けている。すなわち永遠の命にいたる実を集めている。まく人も刈る人も、同時に喜ぶためである。
4:37 『まく人、刈る人、別の人』という諺は、そのままここに当てはまるからである。
4:38 (すなわち)わたしはあなた達をやって、あなた達が自分で苦労しなかったものを刈り取らせる。ほかの人々が苦労し、あなた達はその苦労(の実)を取り入れるのである。(あなた達はわたしがまいたものを、ただ取り入れるだけでよいのだ。)」

●視線を外に転じよ。「刈り入れ」を待っている人が大勢いる。

塚本訳  マタ 10:5-10
10:5 イエスはこの十二人に次のように命じて(伝道に)派遣された。──「(国を離れてはいけない。)異教人の所へ行くな、またサマリヤ人の町に入るな。
10:6 ただ、イスラエルの家のいなくなった羊(だけ)に行け。
10:7 行って、『天の国は近づいた』と説け。
10:8 病人をなおし、死人を生きかえらせ、癩病人を清め、悪鬼を追い出せ。(福音も病気もなおす力も、みな神から)ただで戴いたのだ、ただで与えよ。
10:9
(旅行に支度はいらない。)金貨も銀貨も銅貨も、帯の中に入れてゆくな。
10:10 旅行には旅行袋も、着替えの下着も、靴も、杖も(なんの用意も)いらない。働く者が食べ物をいただくのは当然だから。

●生活の安定を確保してからの「伝道」は力がない。過日集会の某夫人と食事をしているとき「高橋さんの話は昔と違って力がなくなりました。生活が安定してきたからでしょうか」と言われた。これ私の気付かなかったこと。打撃であった。ショックであった。世に最も悪いのは「定年伝道」「年金伝道」。全く力がない。それは趣味道楽のボケ防止伝道。

塚本訳 使  3:0-8
3:1 さて昼の三時の祈りの時間に、ペテロとヨハネとが宮に上ろうとすると、
3:2 (ちょうどその時、)母の胎内からの足なえの男がかつがれて来た。彼は宮に入る人たちに施しを乞うため、宮の、いわゆる「美しい門」に毎日置かれたが、
3:3 (いま)ペテロとヨハネとが宮に入って行くところを見て、しきりに施しをもらいたいと頼んだ。
3:4 ペテロは、ヨハネと一緒に、その人に目をとめて言った、「わたし達(の顔)を見なさい。」
3:5 彼が何かもらうことを予期して二人を見つめていると、
3:6 ペテロが言った、
「金銀は持っていない。わたしの持っているもの、それをやろう。──ナザレ人イエス・キリストの名で歩きなさい!」
3:7 そして右手でつかんで起こすと、たちどころに足と踝とが強くなり、
3:8 踊り上がって立って、歩きまわった。そして彼らと一緒に宮に入っていった、歩きまわりながら、踊りながら、神を讃美しながら。

●金があると伝道に迫力がない。後に火がつかないと力が入らない。私の知人、かなりの論客であったが、大学を退職して現役を退いたら、その後さっぱり。退職金が沢山入ったのではないか。「禍なるかな生活が安定している人」だ。

塚本訳  ルカ 19:5-10
19:5 イエスはその場所に来られると、ザアカイを見上げて言われた、「ザアカイ、急いで下りておいで。きょうはあなたの家に泊まることになっているから。」
19:6 ザアカイは急いで下りてきて、喜んでお迎えした。
19:7 皆がこれを見て、イエスは(税金取りのような)罪人の所に入りこんで宿を取った、と言ってぶつぶつ呟いた。
19:8 しかしザアカイは進み出て主に言った、「主よ、わたしは(誓って)財産の半分を貧乏な人たちに施します。人からゆすり取ったものは四倍にして返します。」
19:9 イエスが(人々に)言われた、「救いは(きょう、)この家に入った。(人でなしのように言われる)この人も、やはり(あなた達と同じ)アブラハムの末だから。
19:10 人の子(わたし)は『滅びうせた者をさがして』救うために来たのである。」

●「行け!」というが、誰の所に行くべきか。名士には行かない。金持ちには行かない。彼らから「キリストの福音を聞きたい」と言われても期待しない方がよい。それは無駄。見よ、牧師が皇室に招かれて聖書を講じても効果はなかった事実を。パウロはギリシャで知識人を相手にして失敗した。ブログやパソコンのできる人は「知識人」。それは福音の不毛地帯ではないのか。「行け!」罪に泣いている人の所へ。

塚本訳 マタ 9:10-13
9:10 イエスが家で食卓についておられるたときのこと、大勢の税金取りや罪人も来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 パリサイ人はこれを見て、弟子たちに言った、「なぜあなた達の先生は、税金取りや罪人と一しょに食事をするのか。」
9:12 聞いて言われた、「丈夫な者に医者はいらない、医者のいるのは病人である
9:13 『わたしは憐れみを好み、犠牲を好まない』という(神の言葉の)意味を、行って、勉強したがよかろう。わたしは正しい人を招きに来たのではない、罪人を招きに来たのである。」

 ●わが国の伝道が失敗している理由は簡単。丈夫な者に伝えようとしているから。

口語訳 詩  126:5-6
126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう

●伝道は「涙の種まき」。それなくして収穫はない

塚本訳 ルカ 5:4-9
5:4 話がすむと、シモンに言われた、「沖に漕ぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい。」
5
:5 シモンが答えた、「先生、わたし達は(昨夜)一晩中働きましたが、何もとれませんでした。しかし先生のお言葉ですから、網をおろしてみます。」
5:6 そしてその通りにすると、沢山の魚の群が入って網が裂けかかった。
5:7 そこでもう一艘の舟にいる仲間に合図をして、加勢に来てもらった。彼らが来て、二艘の舟いっぱい(魚を)つんだので、沈みそうになった。
5:8 シモン・ペテロはこれを見て、イエスの足もとにひれ伏して言った、「主よ、あちらに行ってください。わたしは罪人です。」
5:9 彼も一しょにいた者も皆、とれた魚(の多いの)に、びっくりしたのである。

●イエスが示すところに網を下ろせ。

●集会の感話で2月21日に掲載した「人生を決定した本、塚本虎二著『放蕩息子とその父』」を話す。その結論は次の通り。(2月21日のブログに修正した全文を掲載。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●つまり、神の救いは「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」。ここにこの「放蕩息子の譬」の本質がある。兄が怒って家に入らなかったことで兄は救いに漏れ、失敗人生の弟に救いが恩恵として与えられたというのである。●「放蕩息子の譬」はルカ15章1~3節により、パリサイ人や聖書学者に向けて語られたものではあるが、それ以上にその奥には神による「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」という土台があり、それがこの譬の基調になっている。さて、戻ってきた弟の残りの人生はどうであったか。それは次のルカ16113節から推測できる。塚本先生はその箇所「不埒な番頭の譬」(1618節)と「富の利用について」(16913節)は「救われた者の生涯」の「あるべき姿」がここに編集されているのだと非常に深い解説をしている。

塚本訳 ルカ 16:9-13

16:9 それでわたしもあなた達に言う、あなた達も(この番頭に見習い、今のうちにこの世の)不正な富を利用して、(天に)友人[神]をつくっておけ。そうすれば富がなくなる時、その友人が永遠の住居に迎えてくださるであろう。

16:10 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。

16:11 だから、もし(この世の)不正な富に忠実でなかったならば、だれが(天の)まことの富をあなた達にまかせようか。

16:12 もし他人のもの[この世のこと]に忠実でなかったならば、だれがあなた達のもの[天のもの]をあなた達に与えようか。

16:13 しかし(この世のことはみな準備のためであるから、それに心を奪われてはならない。)いかなる僕も(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。」

●この次男は前半生のような失敗人生に懲りておそらくその後は「金の奴隷」にはならず、お金を正しく利用して天国行きの準備を喜びのうちにしたのではあるまいか。●そのうちにこの父親も死んだであろうが、小事である「農業」(1610節)を通して兄さんを喜んで助け、一所懸命働いたのではあるまいか。そして平安な死を迎え、今度は神により天国の「永遠の住居(すまい)169節)」に迎えられたのだろう。これが大成功の人生だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 resize0086.jpg

恵たちが有機農業の勉強会に日本青年館に来た。その帰りに集会の面々と会う。千駄ヶ谷駅前。恵は良い仲間や先輩に囲まれていて感謝。

後列左より、小寺利男、杉崎孝、高橋照男、渡辺文男(福島より)、大内督(福島より)、近藤恵(福島より)

前列左より小寺七重、高橋トミ子

●杉崎孝さんのために各種英語訳聖書の成立年代を調べた。聖書の翻訳比較はなぜか面白い。●「藤林本」業者問題。●妻は合唱の練習。フォーレ「レクイエム」、パレストリーナ「ミサ・プレヴィス」●N響アワーでプロムシュテットの解説はよかった。「音楽の喜びは人の心と共有できる」「リタイアした人は何か楽器を習い、他の人と一緒に練習したらいい」



 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲




| Top | Next
0814