to 日記と感想 2009年06月
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将来日記

    将来日記

    XXXXXXXXXXX    終末、復活、永遠の生命、再会(父、母、妻、
              子供、親戚、友人、集会の方々)
              復活と再会の確信はイエスの有体的復活の事実
    291103       結婚60年記念、ダイヤモンド婚
    261016       イカ成人
    251009       コフ成人
    250809       タワ成人
    241103       結婚55年記念。エメラルド婚
    230110       イハ20歳成人
    230713       タテ満80歳
    220728       KM成人
    200713       タテ誕生日満77歳喜寿
    191103       結婚50年記念。金婚
    18秋ごろ 木曜日 阿伎留病院森先生に胃カメラ申し込み
    171229    TM誕生日
    171220     KK誕生日
    171115    TM誕生日
    171016     IK誕生日
    171009     KH誕生日
    1709頃      聖路加約センターに2018年のMRI予約3か月前に聖路加に行く
    170831     芝浦工業会年会費支払締切
    170822     KS命日
    170817(木)11:30 キリスト教性教育研究会、ナザレ修道会、富永國比古
    170813     KT命日
    170812(土)14:00お江戸こらりあーず演奏会、文京シビックホール
    170821(土)15:00お江戸コラリアーズ定期演奏会、文京公会堂
    170809     TW誕生日
    170801     TH誕生日
    170728     TI誕生日 KM誕生日
    170723      IK誕生日
    170713      TT誕生日
    170708(土)14:00在宅医療説明会(キララホール)
    170707(金)10:00池谷医院
    170706      TM誕生日
    170702(日) 集会感話
    170701      TT誕生日
    170630(金)12:20キララホールエントランスコンサート
    170628      IY誕生日
    170627(火)11:00 能城牧師来訪
    170625)日)10:10トミ子集会感話
    170625(日)14:00茅ヶ崎金子邸
    170618(日)15:00今井館総会
    170611(日)14:00武蔵野室内アンサンブル。ブラームス3番他。キララホール
    170610(土)14:00内村鑑三セミナー、立教大学12号館。矢田部、椚」山
    170609(金)   TS命日
    170608(木)12:15ボリショイ「白鳥の湖」、東京文化会館
    170707(水)10:00池谷医院
    170604(日)10:00集会感話、
    170604(日)16:30近藤恵邸起工式、福島市。
    170530(火)14:00田岡氏来訪
    170527(土)14:00今井館ピアノコンサート
    170521(日)14:00新宿フィル、ブラームス1番、レスピーギ「鳥」「ローマの松」。和田睦夫
    170425       TN)誕生日
    150420(木)09:30阿伎留センター泌尿器科)
    170416(日)14:00武蔵野室内合奏団、杉並公会堂(大坪満子)


譬で語った理由 ++++++++ 所感

2009/06/30 20:39

090630(火)5時半目覚め。朝の黙想「イエスはわからないようにするために譬を用いた」●hina(ために)・・・わからなくするために●イエスは譬を用いたとき、分かる人には分かるようになり、わからない人にはますます分かりにくくなった。なぜか。●神の国の真理は無条件の恩恵で分かるものだから、人間の側の大脳皮質では分からない。従って持っている人にはますます増し加わり、持ってない人には持っているものまで取り上げられる。ヨハネ9章39節「わたしは裁きのためにこの世に来たのだ。盲が目明きに、目明きが盲になるために」とはこのことである。●イエスの譬はわからない人には隠れた。その方が分からない人を傷つけない。イエスは種まきの譬の意味を内輪の者にだけ語ったが、あれを分からない人(今のところ神の国に縁のない人)に語ったとしたら激怒されるだけだ。●しかし人類は将来きっと全員があの譬の意味が分かる。その時が来る。時が来るまでクリスチャンの意味も世には隠されている。●終日、「黒崎註解デジタル化プロジェクト」引照入力。

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

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死から死へ、命から命へ ++++++++ 所感

2009/06/29 06:01

090629(月)2時15分目覚め。あとは寝つけず。しかし熟睡4時間だからよしとしよう。●朝の黙想「死から死へ、命から命へ」。次回感話のうち最難問の「私は目明きが盲になるために来た」の謎が解けた。


●ヨハネ9:39は謎の言葉である。世を救うために来られたイエスの言葉としては理解できない。

塚本訳 ヨハ 9:39
9:39 イエスは言われた、「わたしは裁きのためにこの世に来たのだ。・・盲が目明きに、目明きが盲になるために!」

●これを理解するためにはまず次の言葉が必要。

塚本訳  マタ 13:13-15
13:13 だから、あの人たちには譬をもって話すのである。『見ても見えず、聞いても聞えず、また悟らない』からだ。
13:14 こうしてイザヤの預言はあの人たちに成就した。──『あなた達は聞いても聞いても、決して悟るまい、見ても見ても、決してわかるまい。
13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、その目は閉じてしまっているのだから。そうでないと、彼らは目で見、耳で聞き、心で悟り、心を入れかえて(わたし[神]に帰り)、わたしに直されるかも知れない。』

●このマタイの言葉はイザヤ書が源流。イザヤは預言者として立たされたとき、神の声に耳を傾けない民に語れと言われた。これ預言者の宿命である。救われない民にも語らなければならない悲劇。この悲劇がイエスにもおこった。福音はこれを語ると分かる人と全く分からない人(反対し迫害する人)に二分される。理由はわからない。それは宿命である。謎である。預言者の悲哀がここにある。

新共同 イザ 6:9-10
6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。
6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」

●この宿命的悲劇はパウロの身にも起こった。それが次の言葉である。

塚本訳 Ⅱコリ2:15-16
2:15 というのは、わたし達は救われる者の間でも、滅びゆく者の間でも、神にささげられるためのキリストのよい薫である。
2:16 ある者には、死から死へみちびく薫であるが、ある者には、命から命へみちびく薫りである。(ああ、)一体だれにこんなことが勤まろう。

●しかし神はいつまでも分からないままにしておくわけではない。

塚本訳  ヨハ 16:25
16:25 以上わたしは(天のことを地上の事柄になぞらえて)謎のように話したが、(間もなく)もはや謎のように話さず、そのものずばりに父上のことを知らせる時が来る。

●パウロもそう思っている。いつかきっと。これパウロの悲願である。

塚本訳 ロマ 11:30-33
11:30 すなわち、かつては神に不従順であったあなた達が、今はこの人たちの不従順によって(神に)憐れみを施されたと同じに、
11:31 この人たちも今はあなた達の受ける憐れみに対して不従順になっているが、これは今(すぐにも)憐れみを施されるためである。
11:32 つまり神はすべての人を不従順の中に閉じこめられたが、これはすべての人に憐れみを施すためであった。
11:33 ああ、神の富と知恵と知識との深さよ!なんとその裁きの探りがたく、(なんと)その(お歩きになる)道の不可解なことよ!

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秋留台公園から神奈川県の丹沢方面を望む。梅雨の晴れ間

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天に向かってぐんぐん伸びるトウモロコシ。孫の成長のようだなー




















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人生の喜び ++++++++ 所感

2009/06/28 05:57

090628(日)5時起床●朝の黙想「人生の喜び」●人生の喜びで最大のことは「人格の交わり」である。その最高の人格は創造主である。そのことを基礎として「主にある人格」の交わりが最高。この二つがあれば何がなくとも人生は「満ち足りる」。●ゲーテは「それ大いなるものは人格なり」と言っている●建築の楽しさはその物理的造形的美しさの創造ではない。愛する建築主との「心の交わりである」これが仕事の本質である。どうしても好きになれなかった建築主の建物はうまくいかなかった。金だけの付き合いであったから心が「ザラザラ」していて、クレームがあった。仕事が面白くも楽しくもなかった。●また建築は頼んできた人のために捧げるものである。だからその建物の持ち主が代替わりすると少しも愛情がわかない。やる気がしない。これはそもそも建築というのは頼んでこられた方一代限りのものということを暗示している。いわばオーダーの洋服である。●遺体を収めた棺桶に故人が着ていた背広をかけてあったのを見たことがある。それは遺体と共に燃えてなくなるのだ。背広と同じく、その人のために捧げた「建物」も消失するのが運命だ。もう自分の関係する建物ではない。思い出だけが残るものだ。●ラスキンはその著「建築の七燈」の第5章「生命の燈」で「よい建築とは振り返ってみてあの建築をやっていた時は楽しかったなー」と思えるような建築が「最高の建築」だと言っている。さすがラスキン。英国の政治家たちから今でも最高に尊敬されている。「建築の七燈」は世界の建築家のバイブル。しかしこの本は日本人には正しく訳せない。バイブルの素養がないからである。●仕事の本質は「心の交わり」。これキリスト信者の交わりと同じ。今までに信者の建物を27棟設計したが、ある一棟を除いて、クレームらしいクレームは出ていない。なぜか。「少しぐらいの不具合があっても赦してくれているからである。しかしあの一棟だけは工事中も竣工後も「文句のつきどおし」「ケチのつきどおし}。原因は「心の交わり」がなかったから「赦して」くれていないからである。私の建築人生の唯一残念な思い出、悔やむ一棟である。原因ははじめから「心の交わり」がなかったからである●これ結婚生活も同じ。妻や夫や親や子供に「不平不満」が続出するのは「心の交わり」ができていない証拠。●「讃美歌物語」で最高に美しいものは403番。「神によりていつくしめる心の交わりいとも楽し」。次にその歌詞とメロディーと由来を書く。

讃美歌403番

1. かみ に よりて いつく しめる

   こころ の まじわり いと も たのし.

2. ちち の まえ に せつ に いのらん,

   のぞみ も おそれ も とも に おなじ.

3. とも に しのぶ うき なやみ も,

   ゆたけき めぐみ に やがて きえなん.

4. わかるる とき かなし けれど,

   ふたたび あい みる さち や いかに.

5. つみ と うれい なき みくに の

   つきせぬ むつび を よろこび またん.

 ●曲は次をクリック

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-307-how_sweet_the_melting_lay.mid

●この曲の由来(内村鑑三の文章にあったもの。記憶による)

ある国(米国か)の田舎牧師が都会の大教会の牧師に招かれて長年牧会した田舎の小教会を去ることになった。別れの日にその田舎教会の信者たちは名残を惜しんで馬に乗る牧師をその村はずれの峠まで見送りに行った時のことである。信者たちは愛し尊敬する牧師との別れ忍びがたく、その場で泣き崩れたという。それを見た牧師はつい招かれた大教会に赴任することはできなくなって、生涯をその田舎の小教会に捧げつくしたという。その峠での思い出を詩にしたのが、この403番である。人間はみな今置かれている職場、家庭、家族、自分の人生、歩んできた過去、これすべて「小さい」ものである。しかし神に与えられたかけがえのないものである。「小事に忠なるものは大事に忠なり」(ルカ16:10)

●人格の交わりはこの世限り。親や子との交わりは2-30年、妻との交わりは長くて5-60年、職場の同僚との交わりは10-20年か。いずれも短い。しかし信者との交わりは不思議と長い。一番長いのは神との交わり。なぜか。神は生まれる前からこの私を知っていて下さり(ガラ1:15)。生きているうちはずっと支えて下さり(マタ28:20)、死ぬ時も一緒にいて下さり(ルカ3:43)、そして復活のときは名前を持って呼び出して下さり(ルカ11:43)、永遠に生きるものとしてくださる(黙21:3-4)

●集会は小寺、村上(インフルエンザ)、横田(リマ文書、洗礼論)●横田氏に感想を述べた。「無洗礼、無聖餐の無教会の世界史的意義を感じた。この話のシリーズの最後には無教会の存在意義をお聞かせください」●無洗礼、無聖餐の無教会は聖霊があってのこと。もしその聖霊が抜け去ると、無エクレシアとなり人間の思想、信条、信念の奴隷集団となって目も当てられない●帰途は高木博義さんと。建築が企業の経済的破綻にともない解体されることは文化思想が貧しいと日本文化の底の浅さを批判された●妻たちは故山口喜代子さんの墓参。●妻と私は夕食後眠ってしまうことがある●福島の恵が疲労でダウンしたが点滴を打って回復。昨夜は健康が守られるようにと熱祈。●塚本虎二「キリスト教に洗礼無用」を読む。●季刊「無教会」の巻頭言に追加。「無教会が旗幟鮮明でなくなったのは『人は教会ではなく、神御自身の主権で救われる』という信仰がぼやけてきたからである。」●その集会が本物であるかどうかは「障害者や子供たちが大勢集まるかどうか」で判定できる。その聖書的根拠は次である。

塚本訳ルカ 5:1
5:1 (ある日)群衆がおしかけてきて神の言葉を聞いていた時のこと、イエスはゲネサレ湖のほとりに立っておられて、

塚本訳 ルカ 6:19
6:19 群衆が皆、なんとかしてイエスにさわろうとした。彼から力が出て、一人のこらず直したからである。

塚本訳 マタ 21:15-16
21:15 すると大祭司連や聖書学者たちは、イエスがされた不思議な業と、宮(の庭)で子供たちが、「ダビデの子に『ホサナ!』」と言って叫んでいるのを見て憤り、
21:16 イエスに言った、「あの子供たちがなんと言っているのか、聞えているのか。」イエスは言われた、「聞えている。あなた達は『(神よ、)あなたは幼児と乳飲み子との口によって、(御自分のために)賛美をお備えになった』と詩篇にあるのを、まだ読んだことがないのか。(大人が黙っているから、子供が叫ぶのだ。)」

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月下美人。一年に一晩だけ咲く。短い命。人生のようだなー

 

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不条理な人生をどう捉えるか ++++++++ 所感

2009/06/27 08:55

090627(土)2時半に目覚めて寝つけず。次回感話の準備、季刊「無教会」巻頭言の修正。睡眠5時間だからよしとする。●次回感話(7月5日)の目次は次のようにした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
不条理な人生をどう捉えるか
・・・ヨハネ福音書9章「生まれつきの盲人」に学ぶ・・・
              東京聖書読者会 高橋照男 2009.7.5

①この不条理な人生を納得させてくれ!
②「神の御業が現れるため」とは何か
③「盲が目明きに、目明きが盲になるため」との意味は
④この世的に幸福な人は心の目が明きにくいという事実
⑤肉の目と心の目が明くのとではどちらが幸福か
⑥罪の赦しで心の目を明けることができるのは神の権能のみ
⑦泣くな!復活があるのだ
⑧来世で復活があるという「希望」の喜び

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●6:30 秋留台公園でラジオ体操。

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パンダのような犬。黒い部分、うっとうしくはないのかなー。自分ではわからないのか。人間は「鏡」を発明したから化粧品代がかかるんだなー。

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ベランダの花。ハイビスカスとバラ。花は送った人の心を伝える。ハイビスカスを見るとハワイを思い出す。

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作物はあっという間に伸びるものだ。次の句を思いだした。

塚本訳 マコ 4:26-27
4:26 また言われた、「神の国はこんなものだ。──ある人が地に種を蒔き、
4:27 夜昼、寝起きしていると、種は芽生えて育ってゆくが、本人はその訳を(すら)知らない。

知人の農夫が病気で寝込む。神の癒しの力で全快することを祈る。農夫が寝ている間でも神は成長させる。農夫が病気で寝ていてもだ。




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神は心の目と耳を明けてくださる ++++++++ 所感

2009/06/26 06:24

090626(金)5時目覚め●朝の啓示「神は心の目と耳を開けてくださる」。これが次回感話「シロアム池の盲人」の結論であり、イエスがこの世で奇跡を行って見せた本質。復活また同じ、有体的復活を見せて、肉の命ではなく永遠の命があることを示してくださった。肉の目、肉の耳、死人のよみがえりを見せて「神の権能」を示し、「罪さえも赦すことを実証して」見せた。新約聖書の大真理が「見えた」。この大真理の関連聖句を掲げる。 

塚本訳 マタ 11:3-6
11:3 「来るべき方(救世主)はあなたですか、それともほかの人を待つべきでしょうか」とたずねさせた。
11:4 イエスは答えられた、「行って、(今ここで)聞いていること見ていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 ──『盲人は見えるようになり、』足なえは歩きまわり、癩病人は清まり、聾は聞き、死人は生きかえり、『貧しい人は福音を聞かされている』と。
11:6 わたしにつまずかぬ者は幸いである。」


塚本訳マタ 9:1-8
9:1 それから舟に乗って(湖を)渡り、自分の町(カペナウム)に来られた。
9:2 するとそこに、人々が寝床にねている一人の中風の者をつれて来た。イエスはその人たちの信仰を見て(驚き)、中風の者に言われた、「子よ、安心せよ、いまあなたの罪は赦された。」
9:3 すると数人の聖書学者がひそかに思った、「この人は神を冒涜している。」
9:4 イエスは彼らの考えを知って言われた、「なぜ悪いことを心の中で考えているのか。
9:5 あなたの罪は赦された、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、いったいどちらがたやすい(と思う)か。
9:6 では、人の子(わたし)は地上で罪を赦す全権を持っていることを知らせてやろう」と言っておいて、中風の者に言われる、「起きて寝床をかついで、家に帰りなさい。」
9:7 すると彼は起き上がって、家に帰って行った。
9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな全権を人に授けられた神を賛美した。


塚本訳Ⅰコリ2:9
2:9 しかし(聖書に)書いてあるとおり(に実現したの)である。『目も見ず耳も聞かず』、人の『心に起こらなかった』もの、『これを神は御自分を愛する者たちのために』用意された。


塚本訳マタ 13:13-15
13:13 だから、あの人たちには譬をもって話すのである。『見ても見えず、聞いても聞えず、また悟らない』からだ。
13:14 こうしてイザヤの預言はあの人たちに成就した。──『あなた達は聞いても聞いても、決して悟るまい、見ても見ても、決してわかるまい。
13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、その目は閉じてしまっているのだから。そうでないと、彼らは目で見、耳で聞き、心で悟り、心を入れかえて(わたし[神]に帰り)、わたしに直されるかも知れない。』

塚本訳マコ 7:32-36
7:32 人々が聾で舌のまわらぬ人をつれて来て、手をのせて(直して)ほしいと願う。
7:33 イエスはその人をただ一人、群衆の中から連れ出して、指をその両耳にさしこみ、次に(指に)唾をしてその舌にさわり、
7:34 天を仰いで溜息をつき、その人に「エパタ!」[すなわち「開け!」]と言われる。
7:35 すると耳があき、すぐ舌のもつれが解けて、普通に物が言えるようになった。
7:36 イエスはだれにも言ってはならぬと人々に命じられたが、命ずれば命ずるだけ、ますます言いふらした。

塚本訳ヨハ 9:5-7
9:5 世におる間、わたしは世の光である。」
9:6 こう言って地に唾をはき、唾で泥をつくり、その泥を盲人の目に塗って、
9:7 言われた、「行って、シロアム池で洗いなさい。」(シロアムは訳すると「遣わされた者」。)そこで盲人は行って、洗って、見えるようになって、かえって行った。 

塚本訳 ヨハ 11:37-40
11:37 しかし中には、「盲人の目をあけたこの人にも、このラザロが死なないように出来なかったのか」と言う者もあった。
11:38 そこでイエスはまたも心に憤りながら、(ラザロの)墓に来られる。墓は洞穴で、入口に石を置いて(ふさいで)あった。
11:39 「石をのけなさい」とイエスが言われる。死んだ人の姉妹のマルタが言う、「主よ、もう臭くなっています。四日目ですから。」
11:40 イエスがマルタに言われる、「信ずれば神の栄光が見られると、(さきほども)あなたに言ったではないか。」  

塚本訳  ヨハ 11:41-44
11:41 人々が石をのけた。するとイエスは目を天に向けて言われた、「お父様、(まだお願いしないのに、もう)わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。
11:42 (願わずとも)あなたはいつもわたしの願いを聞いてくださることを、わたしはよく知っております。しかしまわりに立っている人たちのために、(今わざと声を出して感謝を)申したのであります。(わたしの願いはなんでもきかれることを彼らに示して、)あなたがわたしを遣わされたことを信じさせるためであります。」
11:43 こう言ったのち、大声で、「ラザロ、出て来い」と叫ばれた。
11:44 死人が手足を包帯で巻かれたまま、(墓から)出てきた。顔は手拭で包まれていた。イエスは「解いてやって(家に)帰らせなさい」と人々に言われた。
塚本訳 ロマ 11:8
11:8 『神は彼らに』『麻酔の霊を』『与えて、目を見えなくし、耳を聞こえなくされた、今日に至るまで。』と書いてあるとおりである。

 塚本訳 ルカ 7:12-15
7:12 町の門の近くに来られると、ちょうど、ある独り息子が死んで、(棺が)舁き出されるところであった。母は寡婦であった。町の人が大勢その母に付添っていた。
7:13 主は母を見て不憫に思い、「そんなに泣くでない」と言って、
7:14 近寄って棺に手をかけ──担いでいる者は立ち止まった──「若者よ、あなたに言う、起きよ!」と言われた。
7:15 すると死人が起き上がって物を言い出した。イエスは『彼を母に渡された。』
 

塚本訳 エペ 1:18
1:18 また【君達の】心の目を明らかにして、神に召され(ることによって得)た希望の何であるか、『聖徒の受くる』光栄ある(天の)『相続財産』の富の何であるか、

●イエスはこれらの「人が驚くこと」「まさか」と思うことを実証して見せて神には全能の力があることを示された。その結果、信じる人と反発する人に二分した。

塚本訳 マコ 2:10-11
2:10 では、人の子(わたし)は地上で罪を赦す全権を持っていることを知らせてやろう」と彼らに言いながら、中風の者に言われる、
2:11 「あなたに命令する、起きて担架をかついで、家に帰りなさい。」

●肉の目と肉の耳がある人は人生80年の間に永遠の生命を知るようにならなければならない。それが人生の目的だ。そのことは次の箇所から理解できる。生きているうちがその神を知る期間だ。

塚本訳 ヨハ 11:9
11:9 イエスが答えられた、「(心配するな。わたしが神に命ぜられた務を果す時までは、だれもわたしに手を下すことはできない。)昼間は十二時間あるではないか。人は昼間歩けば、つまづくことはない。この世の光(太陽)が照らしているからだ。


 塚本訳 ヨハ 8:12
8:12 (同じ大祭の日に、)イエスはまた人々に語られた、「わたしが世の光である。わたしに従う者は、決して暗やみを歩かない。そればかりか、命への光を持つことができる。」


 塚本訳 ヨハ 12:48
12:48 (だが、)わたしを排斥し、わたしの言葉を受け入れない者を罰する者が(ほかに)ある。わたしが話した言葉、それが最後の日にその人を罰するのである。

 塚本訳 ヨハ 9:4
9:4 わたし達はわたしを遣わされた方の御業を昼の間にせねばならない。(すぐ)夜が来る。するとだれも働けなくなる。

塚本訳  ヨハ 12:35
12:35 するとイエスは(それには答えず、)彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなた達のところにある。光のある間に(早く)歩いて、暗闇に追い付かれないようにせよ。暗闇を歩く者は、自分がどこへ行くのか知らない。

●森眼科で視力検査。裸眼で右1.0左1.2はこの年齢(65歳)では非常に優秀と言われ、昨日とは違って大喜びした。専門家は違う。眼鏡店への処方箋を書いて貰った●建設会社とは独立に設計だけを行う建築設計事務所の存在価値を改めて思った。●市場経済社会では、商売抜きの診断、設計、コンサルの存在が必要。宗教も商売抜きのコンサル的存在者が必要。キリスト教では無教会主義者がそれであるが、その人物が正統信仰を持っていないから困るのだ。盲人が盲人の手引をするから、二人とも穴に落ち込む。

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高い空に向って伸びるトウモロコシ。バッハ「高きみ空より」を思う

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秋留台公園のひまわり。神に向かって歌っているようだresize0947.jpg

梅雨の晴れ間の我が家。雨を吸って植物がこんなに成長した














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この不条理を納得させてくれ!・・神の子イエスに聞く・・ ++++++++ 所感

2009/06/25 06:48

090625(木)5時目覚め●朝の黙想。次回感話のタイトル「この不条理を納得させてくれ!・・神の子イエスに聞く・・」●「人生にはなぜ不条理があるのか」。このことを悟ったので人に話すのではない。この問題は私自身最後まで納得いかないのではないのか。イエスだってドタンバで「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と見苦しい迷いの言葉を放って死んだ。この私も全盲の人を前にして(現実的に3人いる)悟ったようなことは言えない。説教はできない。それはご本人の痛みをしらない失礼な態度だ●この人生最大の難問に聖書はどうこたえているのか。神の子イエスはどう答えてくれるのか。それを探りたい。●次回感話ヨハネ9章「シロアム池の盲人」の項目は次のようにしてみよう

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この不条理を納得させてくれ!・・神の子イエスに聞く・・


①この不条理を納得させてくれ!・・私が知る3人の盲人・・
②「神の栄光が現れるため」とはどういうことなのか。素直に納得できない。
③「盲が目明きに、目明きが盲になるために」ということも不条理だ
④盲はなぜ幸福か。目はやはり明いていた方がいい。
⑤来世は行ってみなければわからない
⑥私が知る3人の盲人の「今」
⑦決着は来世だが、「希望」という喜びの現実がある。

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●「不条理」・・・広辞苑には次のようにある。

「実存主義の用語で、人生に意義を見出す望みがないことをいい、絶望的な状況、限界状況を指す」。・・・・難しい解説だが、簡単に言えば人生の納得いかない不幸のことである。人間は全員叫ぶ「この不幸を納得させてくれー!」と。●第一に「死ぬ運命の人生」という悲劇になぜ生まれついたのか。●次回感話のプリント準備●コストスクールリポートテストの採点●終日「黒崎幸吉新約聖書註解デジタル化プロジェクト」●眼鏡店。加齢とともに視力も落ちてきてがっくり。若いころは2.0であったがついに1.0を切った。用がすむまで眼が守られますように。

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図書館の帰り。電線に鳥がとまっていた。どういう関係で群れをなしているのだろう。

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泣くな!復活があるのだ ++++++++ 所感

2009/06/24 05:40

090624(水)4時45分目覚め●朝の啓示「泣くな!復活があるのだ」●新約聖書のイエスの奇跡行為の意味本質は、来世での復活があることを見える形で示してくれたことである。来世では罪が赦され、五体満足になるのだ。

塚本訳ルカ 7:19-23
7:19 主の所にやって、「来るべき方(救世主)はあなたですか、それともほかの人を待つべきでしょうか」とたずねさせた。
7:20 その人たちはイエスの所に来て言った、「洗礼者ヨハネから来ました。『来るべき方はあなたですか、それともほかの人を待つべきでしょうか』とおたずねするよう申しつけられました。」
7:21 その時、イエスは多くの人の病気と苦しみと悪霊につかれているのとをなおし、多くの盲人を見えるようにしてやっておられたが、
7:22 答えられた、「行って、(今ここで)見たこと聞いたことをヨハネに報告しなさい。──『盲人は見えるようになり、』足なえは歩きまわり、癩病人は清まり、聾は聞き、死人は生きかえり、『貧しい人は福音を聞かされている』と。
7:23 わたしにつまずかぬ者は幸いである。」

●終日「黒崎プロジェクト」引照入力、ルカ6章●妻は愛子とその友人樋口さんとともに仏沢(ほっさわ)の滝にハイキング●福島の恵と電話懇親。農業の仕事は現在超忙しいそうだ。7日に1日は必ず休んで礼拝に出るようにアドバイスした。

●人生の失敗を悔やむ者、不治の病で泣く者、喜べ。復活ですべてが新しくされるのだ。●上記の奇跡の順序は「たやすい順」。盲人の目が開くことは一番簡単。最後は「福音を聞かされている」、これは罪が赦される」ということ。罪の過去が清算されるということ。過去が消される。罪が贖われるという大奇跡がおこるということだ。●イエスはそのことが「絶対」であることを肉眼でわかる「奇跡」でもって人類に示された。●これを信じられる者は幸い。躓く者は不幸。●奇跡を肉眼でみて、神を信じる人と、かえって信じない人(宗教家)に分かれるという驚くべき現象がおこった。この事実を見るとき次のイエスの言葉が分かる。

塚本訳  ヨハ 9:39
9:39 イエスは言われた、「わたしは裁きのためにこの世に来たのだ。・・盲が目明きに、目明きが盲になるために!」

●理性が邪魔をして神も奇跡も来世も信じられなくてもよい。教会や集会やクリスチャンに「躓き」信仰が持てなくてもよい。神は「絶対恩恵の無条件の罪の赦し」を実行してくださる。医者でも直らない病に悩む人は「絶対恩恵無条件で病の癒し」をしてくださる。●本人に信仰がなくても「神の一方的絶対恩恵」で救いは実行される。その聖書的根拠は次の通り。このことに「ぶつぶつ」言うのは宗教家たち(それは現代でも!)。なぜか。「自分たちの商売が妨害されるから」

塚本訳マタ 9:1-8
9:1 それから舟に乗って(湖を)渡り、自分の町(カペナウム)に来られた。
9:2 するとそこに、人々が寝床にねている一人の中風の者をつれて来た。イエスはその人たちの信仰を見て(驚き)、中風の者に言われた、「子よ、安心せよ、いまあなたの罪は赦された。」
9:3 すると数人の聖書学者がひそかに思った、「この人は神を冒涜している。」
9:4 イエスは彼らの考えを知って言われた、「なぜ悪いことを心の中で考えているのか。
9:5 あなたの罪は赦された、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、いったいどちらがたやすい(と思う)か。
9:6 では、人の子(わたし)は地上で罪を赦す全権を持っていることを知らせてやろう」と言っておいて、中風の者に言われる、「起きて寝床をかついで、家に帰りなさい。」
9:7 すると彼は起き上がって、家に帰って行った。
9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな全権を人に授けられた神を賛美した。

塚本訳マタ 12:9-13
12:9 そこを去って、(ある安息日に)礼拝堂に入られた。
12:10 するとそこに、片手のなえた人がいた。(パリサイ派の)人々がイエスに、「安息日に病気をなおすことは正しいだろうか」と尋ねた。イエスを訴え出る(口実を見つける)ためであった。
12:11 彼らにこたえられた、「あなた達のうちには羊を一匹持っていて、もしそれが安息日に穴に落ち込めば、引っぱり上げてやらない者がだれかあるだろうか。
12:12 ところで、人間は羊よりもどれだけ大切だか知れない。だから安息日に良いことをするのは正しい。」
12:13 それからその人に言われる、「手をのばせ。」のばすと直って、片方の手のようによくなった。

●昨夜は禁を犯して夜の番組を観る。「ジーザスクライストスーパースター」21:00-23:00.●その感想。聖書に忠実。現代風な大胆な手法で福音が現わされた。その表現の革新性には感心したが、福音の中味は変わらず、福音はその表現方法の如何にかかわらず常に新しいものだなーと思った。聖書的には次である。

塚本訳 ルカ 5:36-39
5:36 なお一つの譬を彼らに話された、「新しい着物を切って、古い着物に継ぎをする者はない。そんなことをすれば、新しい着物も疵ものになり、新しいのから切った継ぎも古いのにあわない。
5:37 また新しい酒を古い皮袋に入れる者はない。そんなことをすれば、新しい酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋もだめになるであろう。
5:38 新しい酒は新しい皮袋に入れねばならない。
5:39 また、古い酒を飲んだ者は、新しいのをほしがらない。『古い方が甘い』と言って。」

●この言葉から「新しいものの方が良い」「古い方が良い」という論争は不毛。酒には変わりはない。福音の本質には変わりはない。若い者は老人を尊敬せよ。老人は「於いては子に従え」だ。●最近はギターを弾けなければ牧師の仕事が務まらないと言われる。弾けなくてもよい。音楽だけで福音は伝わらない。●この映画、「復活」がなかったのは惜しかった。復活なくして福音なし。それは単なる「義人の迫害と死」という人間の同情を誘うものにすぎない。イエスは次のように言った。

塚本訳 ルカ 23:27-28
23:27 民衆と、イエスのために悲しみ嘆く女たちとの大勢の群が、あとにつづいた。
23:28 イエスは女たちの方に振り向いて言われた、「エルサレムの娘さんたち、わたしのためには泣いてくれなくともよろしい。それよりは自分のため、自分の子供のために泣きなさい。

●去る21日は「父の日」であった。この私も一応「父」であるので、22日までに4人の子供たちから相前後してメッセージをもらって非常にうれしかった。「父さんへ」というメール冒頭の一語で胸に来た。長生きはするものである。「父の日」で一番うれしいのはモノではなく「言葉」であると新聞で報じていた。なぜか。言葉は「心」だからである。イエスは神のことを「父」と言った。新約聖書の真理、福音の真理は親子関係で譬られることが多い。私も人の子の親となって、これは真理だなーとしばしば思ったのは次の言葉である。

塚本訳 ルカ 14:5
14:5 そして彼らに言われた、「あなた達のうちには、息子か牛かが井戸に落ちたとき、安息の日だからとてじきに引き上げてやらない者がだれかあるだろうか。」

●これを聞いていた律法学者やパリサイ人の中には子供を持っている人がいたのだろうになー。「宗教を商売にする」人の悲しさよ、イエスの言葉が通じなかった。●もし子供が与えられなくても親子関係の機微は理解できる。なぜか。人には必ず親がいるからだ。たとえ親に捨てられた人でも「親は親」なのだ。かえってその不幸、不遇から真の親なる父なる神に出会いやすくなるのだ。●私の高校の学内聖書研究会で一年先輩のM氏は幼い時に父親に死に別れた。高校生のあるとき氏が「とーちゃん」と呼んでいた人に引き合わされた。通っていた教会の牧師であった。しかし彼はその後信仰を離れた。「自分が信仰を離れたことを怒らないでくれよ」という手紙をもらったままである。あの手紙からかれこれ30年も経つ。その後どうしているのかなー。信仰の道には悲しいことがあるのだ。●コストスクールのレポート採点。聖徒の人数は少ないが明らかに明日の建築界を担う精鋭たちである。吉田松陰の教え子は少なかったが明治を動かした精鋭が輩出した。世の中を動かすのは人数の多さではない。「質」である。

 


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納期と正確な員数を死守せよ ++++++++ 所感

2009/06/23 07:21

090623(火)5:30起床●朝の瞑想。次回の集会感話はヨハネ9章「シロアム池の盲人」。神は全権を持っておられるので肉の目も心の目も開けることができる。しかしどちらが大切かというと罪の赦しによる心の目が開かれること。そのことが事実行われることの結果の証明として「肉の目」も開けられた。どちらか一方が条件なら断然「罪の赦しによる心の目が開かれること」。なぜか。肉の目は、この世限り、心の目は永遠。

塚本訳 マコ 2:9-12
2:9 この中風の者に、あなたの罪は赦された、と言うのと、起きて担架をかついで歩け、と言うのと、どちらがたやすい(と思う)か。
2:10 では、人の子(わたし)は地上で罪を赦す全権を持っていることを知らせてやろう」と彼らに言いながら、中風の者に言われる、
2:11 「あなたに命令する、起きて担架をかついで、家に帰りなさい。」
2:12 すると彼は起き上がり、すぐ担架をかついで、皆の見ている前を出ていった。皆が呆気にとられ、「こんなことはかって見たことがない」と言って、神を讃美した。

●イエスが盲人の目を開けたという奇跡は旧約の成就

塚本訳 ルカ 4:18
4:18 『主の御霊がわたしの上にある、油を注いで(聖別して)くださったからである。主は貧しい人に福音を伝えるためにわたしを遣わされた。囚人に赦免を、盲人に視力の回復を告げ、』『押えつけられている者に自由をあたえ、』

塚本訳  ルカ 4:21-22
4:21 イエスは、「(今)あなた達が聞いたこの聖書の言葉は、今日(ここで)成就した」と言って話を始められた。
4:22 皆がイエスを誉めそやし、かつその口をついて出る言葉のうるわしさに驚いて、「これはヨセフの息子ではないか」と言った。

塚本訳 ルカ 7:19-22
7:19 主の所にやって、「来るべき方(救世主)はあなたですか、それともほかの人を待つべきでしょうか」とたずねさせた。
7:20 その人たちはイエスの所に来て言った、「洗礼者ヨハネから来ました。『来るべき方はあなたですか、それともほかの人を待つべきでしょうか』とおたずねするよう申しつけられました。」
7:21 その時、イエスは多くの人の病気と苦しみと悪霊につかれているのとをなおし、多くの盲人を見えるようにしてやっておられたが、
7:22 答えられた、「行って、(今ここで)見たこと聞いたことをヨハネに報告しなさい。──『盲人は見えるようになり、』足なえは歩きまわり、癩病人は清まり、聾は聞き、死人は生きかえり、『貧しい人は福音を聞かされている』と。


塚本訳  マタ 11:3-6
11:3 「来るべき方(救世主)はあなたですか、それともほかの人を待つべきでしょうか」とたずねさせた。
11:4 イエスは答えられた、「行って、(今ここで)聞いていること見ていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 ──『盲人は見えるようになり、』足なえは歩きまわり、癩病人は清まり、聾は聞き、死人は生きかえり、『貧しい人は福音を聞かされている』と。
11:6 わたしにつまずかぬ者は幸いである。」


●昨夜、某氏に「仕事で信用を得る」方法についてアドバイスのメール。一部変更して公開する。

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○○殿
貴殿は生産+販売+営業と大変ですが、私の建築人生の経験からすると、一番大切なことは納期の厳守、これは死守です。
建築では「工期」がこれにあたります。いかなる理由があろうともこれが守れないようでは現場監督失格です。次に大切なことは員数。建築現場に運び込む資材は5万部品。1個でも足りないと後工程が進まず、全体工期が遅れます。そのためには「員数チェックシステムの構築」が必要です。商売ではこの2点が「信用」の基礎です。貴殿の製品(内容)は良いのですからこの2点はそれにふさわしく「死守」することが大切だと思います。


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「私を癒す名曲」

フォーレ「レクイエム」

解説とメロディーは次をクリック。

第4曲「ピエ・イエス」

http://www.voiceblog.jp/andotowa/380830.html

●この曲について。

フォーレの「レクイエム」と言えばアンドレ・クリュイタンス+パリ音楽院管弦楽団1962年版が定番であったが、最近はミシェル・コルボ+ベルリン交響楽団1972年版がこれを上回る評価。教会の聖歌隊が歌うこの演奏はなるほど素晴らしい。この曲はカトリックの「落ち着き」が感ぜられて魅力的である。2007年にザルツブルグを訪れたとき、妻とその町を早朝散歩した。なるほどカトリックの街はヒルティの言うように「落ち着いて」いた。プロテスタント、特に無教会は「わめき合い」が多くていけない。●10:30山川歯科、一時間の大治療。銀歯を取りかえる。生涯「入れ歯なし」を目標としたい。●終日、黒崎プロジェクト、ルカ5章引照入力●21:00BS「ジーザスクライストスーパースター」というミュージカルを見るために特急作業で20:25終了。

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梅雨の晴れ間。奥多摩連山

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6月は紫陽花

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久しぶりの晴れ間。高い空。

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

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人の思いによらぬ道 ++++++++ 所感

2009/06/22 06:56

090622(月)4時半起床●「黒崎幸吉著新約聖書注解デジタル化プロジェクト」の頂上(完成)が見えてきたとのご連絡がプロジェクトマネジャーからあったので協力者の一人としてご返事を書いた。一部変更。

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両兄

「プロジェクトを始めてから1年3ヶ月。最初にマタイを公開してから10ヶ月。」(マネジャーのメール)

この数値は、当初我々の誰もが考えられなかった(思いよらなかった)ことです。(ルターの新約聖書翻訳3ヶ月の早さを思い出しました)

このことは「人間の思い患いで行き詰る時でも、神は『驚くべきこと』(出  34:10)をしてくださる」ことを現実的に体験できました。

人間の計画(それはほとんど取り越し苦労)は実に「はかない」ものだと思いました。建築設計事務所において私は建築の企画段階の経済計画に多く携わりました。それは「先を予測する」ことです。その計画書を出さないと銀行が資金融資をしてくれません。(けれどもその計画通りにはいかないのが現実でした。)

しかし今回のことでは神が介入すれば「思いも浮かばぬ」「驚くべき」ことが行われることを体験的に知りました。

「黒崎註解デジタル化プロジェクト」は私の今後の信仰生活に多大の益をもたらしてくれました。感謝です。

 

新共同 出  34:10

34:10 主は言われた。「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業である。あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。わたしがあなたと共にあって行うことは恐るべきものである。

 

追伸

「神がきっと道を開いてくれる」という「この道」は銀行はじめこの世が理解してくれないことなので悩みます。否、自分が悩む。自戒。

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●神を信ずる者にとっては「人の思いによらぬ道」が開かれるから、神を信ずることはやめられない。塚本訳の次の箇所には「道」という敷衍が入っている。「

塚本訳 ロマ 3:24
3:24 (さりとて失った栄光を回復する力はないので、何一つ)代価を払わず、(ただ)神の恩恵によって、キリスト・イエスによるあがないの力で、(神に)義とされる(が設けられた)のである。

●この道を信じることは人生をダイナミックにする。ヒルティの「幸福論Ⅲ」には「わが汝になさんとするは驚くべきことなり」(白水社版)「驚くべき導き」(岩波文庫版)がある。

●終日「黒崎プロジェクト」。ルカ4章引照入力

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母の苦しみ ++++++++ 所感

2009/06/21 07:42

090621(日)5時半起床●「黒崎プロジェクト」の同士に次のメールをした。

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両兄

ルカ引照3章が終わったところで感想を申し上げます。

 

新共同 ルカ 2:35

2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 

この謎の言葉、「母の苦しみ」については昔から時に応じて考えさせられてきました。子供が初めて親に口答えの反抗をする時の母親は苦悩です。ショックです。父も苦脳です。世間は「成長の徴ですよ」と涼しい顔で言いますが、当事者は深刻です。

 

黒崎幸吉はこの苦しみの解説に「註解」内で次の箇所を引きます。

 

新共同 ルカ 2:48

2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

 

 

新共同 マコ 3:21

3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

 

●ネストレの引照は 次の2か所です。

 

新共同 ルカ 2:48

2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

 

新共同 ヨハ 19:25

19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。

 

●塚本虎二は次を引用したと記憶してます。

 

新共同 ヨハ 2:4

2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

 

●不肖この私はさらに次の箇所を連想します。

 

新共同 マコ 3:32

3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、

 

●つまり福音には「母の苦しみ」もありました。では「父の苦しみ」は?。あります。次の塚本訳の括弧内の(聖霊による子であったが、)は、正統信仰にもとづく深い敷衍とみます。

塚本訳 ルカ 3:23

3:23 このイエスは(伝道を)始められたとき、三十歳ばかりであった。(聖霊による子であったが、)世間ではヨセフの子と思われていた。ヨセフはヘリの子、

●つまり父ヨセフは。この子は本当は自分の子ではないのだという「人間的な苦しみ」に苦しみ続けたのでしょう。福音のために苦しんだのは母だけではなく父も苦しんだのだと思います。今日は「父の日」です。

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●妻と集会。集会は長島、高木(詩篇、オバマの演説)、望月(第一コリント)●14:30 今井館総会、理事会●妻は秋川流域合唱祭キララホール。ラターの曲。

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夕闇迫る頃。我が家の近く。前を歩く親子4人連れを後ろから撮影。夫婦が腕を組んでいてその両脇に女の子が手を引かれている。平和な家庭。夫婦仲が良いと子供は落ち着いてよく育つ。今日は父の日だ。

 

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シンプルライフ ++++++++ 所感

2009/06/20 06:44

090620(土)4時半起床●朝の黙想「シンプルライフ」●年金制度改革で厚生労働大臣は、「若い者は収入の2割の負担を限度とし、受給者(年金生活者)は現役時代の5割で生活していただこうと思う」と答弁。これ日本人は老いも若きもシンプルライフを目指せということに受け取る。●ことにクリスチャンは「ただひたすら一つのこと」、つまり「天に宝を積む」ことに専念すべきだ。老後は悠々と遊ぼう楽しもうというのは「この世」人間。金持ちの真似をするな。「遊び」に金を使うな。他人と比較するな。人間はこの世的な遊びでは決して満足しない。へブル書には次のようにある。

塚本訳 ヘブ 12:1
12:1 それゆえ、わたし達も、こんなに雲のような(大勢の)証人に囲まれているのであるから、(信仰の障害となる)すべての煩わしさと、すぐにからみつく罪とをぬぎすてて、わたし達の前に置かれている競走を、忍耐をもって走ろうではないか。

●日本の老人の不幸は「暇な時間」があると「何をしようかなー、つまらないなー」という思いになることである。図書館でじっと新聞を読んでいる人、ゲートボールをしている人を見ると、いつもそう思うのだ。朝起きて「今日は何をしようかなー」と思うような人は「大不幸者」。その観点から「貧しき者は幸いなり」は真理だ。●かって評論家の大宅壮一が「女子大生亡国論」「一億総白痴化」と言ったが、神なき日本の年金制度では「一億総痴呆化」は必至●私の中学同期のHN君はこの年になってインドネシア語を研修、JAICAの派遣でインドネシアに2年間の予定で行った。「年金貰ってボランティア」だという。御立派。世は「ボケ防止のための習い事、趣味遊び」が大流行だが空しいことだ。

●朝食前に「黒崎註解デジタル化プロジェクト」ルカ2章、ネストレ入力

●14:00「内村鑑三研究セミナー」(富坂キリスト教センター)

内村鑑三と古今和歌集・・・今高義也(宮城学院高校)

中田重治、内村鑑三と木村清松の再臨運動・・・ぞんたーく・ミラ

●帰途斉藤顕夫妻と喫茶店で懇親。

 

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

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信仰のサステイナブル ++++++++ 所感

2009/06/19 09:53

090619(金)4時半起床●朝の黙想「信仰のサステイナブル」●最近「サステイン」「サステイナブル」という言葉が流行である。Sustainとは「生命活動や気持ちなどを維持すること、元気づけること」である。建築の世界でも次のような概念で頻繁に使われている。

「(Sustainable Development)」という概念が提唱された。近年建築においても、環境共生、自然エネルギー利用、長寿命化、リノベーションなど、さまざまな手法を通して持続の可能性が模索されている。」

●それでは信仰の「サステイナブル」とは何か。信仰を維持継続していくための人間的な手法とは何か。「神はどこにでもいる」というような「神学論争」「無教会論争」はこの際言わない。

①付き合う人間を選べ。その最大の相手は「伴侶」。朱に交われば赤くなる。集会に行こうとすると伴侶に足を引っ張られるようでは、そのうちに信仰は衰退。なぜか。神よりも妻(夫)。子供の方が大切になり、神に嫌われる。生活が堕落する。

口語訳 Ⅱコリ6:14-15
6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。

②集会は休むな。牧師や伝道者や先生の「説教や講義」がピンと来なくなっても無理して出席すること。クリスチャンにとって「礼拝」は義務。それは毎朝顔を洗うようなもの。聖日はかたくなに、義務として「礼拝」に出席すること。この私は15歳の頃から聖日礼拝を欠かしたことがない。(海外や地方に行っても教会を探す)。生涯を通じていつもぴったり、しっくり、ピンとくる牧師、伝道者、先生は存在しない。大抵先生は先に死ぬ。無教会の某先生が倒れたら、その「追っかけ信者」はパラパラとこともあろうにカトリックに鞍替え。彼らは無教会ではなく先生教であった。これは見苦しい。かって上司から明日は日曜出勤してくれと言われたとき、「礼拝に出るので仕事は出来ません」と断ったら、「それが君のレゾンデートルだ」と言って逆に誉められた。「遊びなので」と言ったら降格必至。「礼拝なので」と言ってやめさせられたら、クリスチャンとして栄光。「礼拝で休む」ということを低く評価する無教養な人物のいる会社は早晩潰れるから、塩を播いてさっさと脱出せよ。未練を残すな。神が責任をとってもっとよい会社に導いてくださる。

塚本訳 ヘブ 10:25
10:25 (また、)ある人々がするように、集会を怠けず、むしろ互に勧め(合って出席す)るようにしなくてはいけない。その日が近づいていることをあなた達は知っているから、いよいよそうしなくては!

③酒、たばこ、ゴルフ、趣味サークル、はやめよ。なぜか。それ自身が悪いのではない。その仲間が人間的によくないのである。また彼らに日曜日が潰されるからである。私の知人のS氏は小学校の教師。学校の宴会の席で校長から「お前が傍に来ると酒がまずくなる」と嫌みを言われた。そういう無教養な低級校長の行く末は知れている。神に裁かれる前に人から社会から評判が悪くなって没落する。そんな校長を「恐れる」ことはない。義理を切って塩を播いて別れよ。

塚本訳 ルカ 6:22-23
6:22 人に憎まれる時、また、人の子(わたし)のゆえに除名されたり、罵られたり、悪様に言われたりする時には、あなた達は幸いである。
6:23 その日には躍りあがって喜びなさい、どっさり褒美が、天であなた達を待っているのだから。あの人達の先祖も、同じことを預言者たちにしたのである。

●16歳のころ、まだ教会に行っていた時のことである。母が「照男さんは教会に行くようになって親に向かってトゲトゲするようになった」と襖越しに泣いたことがある。私も泣いた。このことは神が終末の日に説明してくれるだろう。しかし「無教会」になってからは「親を泣かせる」ようなことはしなかった(つもりである。)●塚本虎二先生からクリスチャンである前に「この世的にも立派な普通人間であれ」と教えられたからである。●不遇であった母が福音の信仰を持てなかったのは、この私がいけなかったのである。これ私の人生の大きな悔いである。、

●8:15 BS2TV「音楽探偵アマデウス」(この番組大好き)はチャイコフスキー、ピアノコンチェルト第一番。企画構成が高級である。NHKTV総合日曜21:00の「N響アワー」よりずっといい。マルタアルゲリッチの演奏が情熱的でよかった。メロディーは下記。

http://www.voiceblog.jp/andotowa/191819.html

●この曲について。最初この曲は評価が2分。酷評(ピアニストのルービンシュタイン)と絶賛(指揮者のハンス・フォン・ビューロー)。酷評を(多分)肥やしにして改訂したチャイコフスキーは偉かった。その後11年後に今のものを完成。番組では最初のものと現在のものを比べてみるという手の込んだもの。最初のものもなかなかよかった。第一楽章の冒頭のピアノ部分は実はオーケストラの伴奏であることを初めて知って、感心した。この番組は音楽解説が素晴らしい。

●人間も酷評と絶賛(とまではいかなくても)と評価が分かれる方がその後改訂(?)するから良いものになる。「良薬口に苦し」である●評価が分かれず、誰からも褒められる福徳円満な人は人畜無害人間で世に影響を与えない。「よい人でしたねー」と言われて終わり。●ヒルティは生涯「鉄の額(ひたい)を持って生きよ」という。これは「敵を持て」(ただし論敵、学問の的)という意味である。●「酷評」されている人間よ、喜べ。生きている証拠だ。人間誰からも「酷評」されず福徳円満、丸くなったらおしまいだ。生きていない証拠。●内村鑑三は「生きている魚は流れに逆らって泳ぐ」という。流れのままに流されているのは死んだ魚。それは周囲の意見に合わせる日和見人間が、体制派人間。●終日「黒崎プロジェクト」ルカ2章の引照。面白い。

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

 

 

 

 

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終末再臨を祈る心 ++++++++ 所感

2009/06/18 08:46

090618(木)5時目覚め。黙想「終末再臨を祈る心」●次回感話、ヨハネ9章「シロアム池の盲人」を思う。この盲人は両親からも見放された。この両親は保身術から子供を捨てた。●この両親の態度は「アンナヤツ知らない」とイエスを平気で裏切ったペテロの心。 

塚本訳 ヨハ 9:18-23
9:18 ユダヤ人は、彼が盲であったのに、見えるようになったことをまだ信ぜず、ついに、見えるようになった男の両親を呼んで
9:19 尋ねた、「これは確かにあなた達の息子で、あなた達が言うように盲で生まれたのか。それなら、どうしていま見えるのか。」
9:20 両親が答えて言った、「これがわたし達の息子で、盲で生まれたことは知っているが、
9:21 どうして今見えるのか、わかりません。また、だれが目をあけたのかも、わたし達は知りません。あれに聞いてください。もう大人だから、自分のことは自分で話すでしょう。」
9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人を恐れたのである。ユダヤ人は、イエスを公然救世主と認める者があれば、礼拝堂追放にすることを、すでに決議していたからである。
9:23 両親が、「もう大人だから、あれに聞いてください」と言ったのは、このためである。

●人間はドタンバになると肉親をも捨てる。親しい人をも捨てる。この世、特に政治の世界では日常茶飯事。麻生総理大臣は鳩山総務相を更迭、これ保身術。 

塚本訳 マタ 10:21-22
10:21 また兄弟は兄弟を、父は子を、殺すために(裁判所に)引き渡し、『子は親にさからい立って』これを殺すであろう。
10:22 あなた達はわたしの弟子であるために皆から憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

●不治の病の人を前にしていかに慰めの言葉をかけられるか。普通の人間的な言葉は次の通り


①同じ病の人は多い。あなた一人ではない。
②神様が御存知だからいいんだ。
③内村鑑三の「基督信徒の慰め」の第6章「不治の病にかりし時」を読んだらよい。
④きっと直してくれる「名医」が現れる。

●これらはすべて大脳皮質の慰め、癒し。決して効果がない。ここにおいてイエスの次の不思議な言葉を思う。

塚本訳 ヨハ 11:14-15
11:14 そこでイエスが今度ははっきり言われた、「ラザロは死んだのだ。
11:15 わたしがそこにいなかったことを、あなた達のために喜ぶ。あなた達の信仰を強めることができるからだ。さあ、ラザロの所に行こう。」

●なまじ自分(イエス)が奇跡を起こさない方がよいのだ。そうしないとあなたたちの信仰が深まらないからだという。これは実に深い言葉だ。しかしイエスは奇跡をおこなった。人間は「見ないと信じない」ようにできている存在なのだ。イエスも人の子、女性(マリヤ)の涙に弱かった。やむをえず奇跡をおこなってラザロをよみがえらせてしまった。ではイエスはここで周囲の者に何を期待したのか。神がよみがえられてくださるという信仰である。ではそれはいつか。終末である。
●初代教会の信徒は激しい迫害に遭ってどういう信仰に追い詰められたか。行きついたか。それは再臨終末の信仰である。「マラナ、サ。主よ来りませ」の信仰である。 

塚本訳 Ⅰコリ16:22
16:22 主を愛しない者があるなら、呪われよ!、マラナ、サ(主よ、来てください)!

●マタイ5章3-10の幸いな人たちにおいて、いつ「幸い」になれるかという観点からこれを見ると。塚本敷衍で「かの日に」とある。 


塚本訳 マタ 5:4
5:4 ああ幸いだ、『悲しんでいる人たち、』、(かの日に)『慰めていただく』のはその人たちだから。

●「かの日」を期待するのは現実逃避、この世を改善しようとしない「怠慢」だと思う人間は無信仰者。「地上王国を建てようとする」無神論のマルキスト的キリスト信者たち。彼らは神を信じないということにおいて逆に「怠慢」。しかしこの議論は不毛。現実的にどうしようもなくなるとき、匙を投げるとき、万策尽きるときが人生にはおとずれるのだ。それでもなお人間的努力をしようとする者には「させておけばよい」。

●私の知人のMU氏の御母堂は御主人に先立たれ、御自分は結核になってしまった。そこで人生万策尽きて幼いMU氏を抱えて無理心中しようとした。そのとき「終末再臨」を狂えるよに祈ったという。今日「終末再臨信仰」が希薄なのは「その必要がない」ほどこの世的に幸福だからである。満たされているからである。

●ときどきお見舞いに伺う「午後三時祈りの友」会員のHT氏は全盲の上に最近は耳も遠くなられた。氏は「暗闇かつ音のない世界」に生きておられる。しかし「何のコレシキ」と笑っておられる。私はいつも無言の説教をされて辞去する。信仰の薄い私はそれでも言うことができる。「HTさん。間もなくだ。間もなくだ」。「間もなく主と会えるのだ」

ジョージ・フレデリック・ワッツ”希望”

1886年

テート・ブリテン所蔵

●この絵はワッツ(1817-1904英国)の最高傑作「希望」である。目隠しをされた一人の女が地球に腰かけて残されたただ一すじの弦をかきならしている。一度見たら忘れえぬ画である。「為(せ)ん方(かた)つくれども希望(のぞみ)を失わず」。父なる神はこのような人の目を必ずや明け給うであろう。この世か「かの日」かいずれかはわからないが。

文語訳 Ⅱコリ4:7-8
4:7 我等この寶を土の器に有(も)てり、これ優(すぐ)れて大(おおい)なる能力(ちから)の我等より出(い)でずして、神より出(い)づることの顯(あらわ)れんためなり。
4:8 われら四方(しほう)より患難(なやみ)を受くれども窮(きゅう)せず、爲(せ)ん方(かた)つくれども希望(のぞみ)を失はず、





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幸福な人は救われにくい ++++++++ 所感

2009/06/17 06:24

090617(水)4時半目覚め。朝の黙想「幸福な人は救われにくい」●次回感話はヨハネ9章「シロアム池の盲人」。その中でイエスは私が来たのは「目明きが盲になるため」だと、幸福者の運命をを冷たく見ている。このことを黙想した。●新約聖書は「この世的に幸福な人は救われにくい」という。これはイエスの時も現在も変わらない牢固たる真理である。まずその事実を列挙してみよう。

●「金持ちは救われにくい」

塚本訳マコ 10:21-23
10:21 イエスは彼をじっと見て、かわいく思って言われた、「(よく守った。だが)一つ足りない。家に帰って、持っているものをみな売って、(その金を)貧乏な人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」
10:22 彼はこの言葉に顔をくもらせ、悲しそうにして立ち去った。大資産家であったのである。
10:23 イエスは(うしろ姿を見送っておられたが、)やがて見まわして、弟子たちに言われる、「物持ちが神の国に入るのは、なんとむずかしいことだろう。」

塚本訳ルカ 12:15-20
12:15 人々に言われた、「一切の貪欲に注意し、用心せよ。いかに物があり余っていても、財産は命の足しにはならないのだから。」
12:16 そこで一つの譬を人々に話された、「ある金持の畑が(ある年)豊作であった。
12:17 『どうしよう、わたしの作物をしまいこむ場所がないのだが…』と金持ちはひそかに考えていたが、
12:18 やがて言った、『よし、こうしよう。倉をみなとりこわして大きいのを建て、そこに穀物と財産をみなしまいこんでおいて、
12:19 それからわたしの魂に言おう。──おい魂、お前には長年分の財産が沢山しまってある。(もう大丈夫。)さあ休んで、食べて、飲んで、楽しみなさい、と。』
12:20 しかし神はその人に、『愚か者、今夜お前の魂は取り上げられるのだ。するとお前が準備したものは、だれのものになるのか』と言われた。

塚本訳ルカ 16:13-14
16:13 しかし(この世のことはみな準備のためであるから、それに心を奪われてはならない。)いかなる僕も(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。」
16:14 金の好きなパリサイ人の人々は一部始終を聞いて、イエスを鼻で笑った。(富は信仰の褒美と考えていたのである。)

塚本訳ルカ 16:19-25
16:19 (つぎに、利巧な番頭と反対に、神の国の準備をしなかった人の話を聞け。)一人の金持があった。紫(の上着)と細糸の亜麻布(の下着)を着て、毎日華やかに楽しく暮していた。
16:20 またその金持の門の前に、ラザロという出来物だらけの乞食がねていた。
16:21 せめて金持の食卓から落ちる物で満腹できたらと思った。それどころか、犬まで来て出来物をねぶっていた。
16:22 やがて乞食は死んで、天使たちからアブラハムの懐につれて行かれ、金持も死んで葬られた。
16:23 金持は黄泉で苦しみながら、(ふと)目をあげると、はるか向こうにアブラハムとその懐にいるラザロとが見えたので、
16:24 声をあげて言った、『父アブラハムよ、どうかわたしをあわれと思ってラザロをよこし、指先を水にひたしてわたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの焔の中でもだえ苦しんでおります。』
16:25 しかしアブラハムは言った、『子よ、考えてごらん、あなたは生きていた時に善いものを貰い、ラザロは反対に悪いものを貰ったではないか。だから今ここで、彼は慰められ、あなたはもだえ苦しむのだ。

塚本訳 黙  3:16-18
3:16 私はお前がこんなに生暖くて、熱くも冷たくもないから、お前を口から吐き出そうとしている。
3:17 お前は、「自分は金持ちである。金持ちになった。何も足りないものは無い」と言うて(いる。なるほどお前には金がある。しかし)自分(の精神)が(どんなに)惨めな、かわいそうな、貧乏な、盲目な、裸な者である(かという)ことを知らない。
3:18 (だ)から私はお前に勧める──(一つ)私から火で煉った金を買って(本当の)金持ちになり、白い着物を買って、着て、お前の裸体の恥じが露されないようにし、目に塗る眼薬を買って、見えるようになれ。

●「頭のよい人、地位の高い人、道徳堅固な人、」も救われにくい。

塚本訳ヨハ 5:39-40
5:39 あなた達は聖書(旧約)をもっていることが永遠の命を持っていることのように思って、それを研究している。ところがこの聖書は、(永遠の命である)このわたしのことを証明しているのに、
5:40 あなた達はその命を得るためわたしの所に来ようとしない。

 塚本訳ヨハ 7:47-49
7:47 パリサイ人が答えた、「君たちまでが迷わされたのではあるまいね。
7:48 (最高法院の)役人かパリサイ人のうちに、あれを信じた者がひとりでもあるというのか。
7:49 (信じたのは民衆だけだ。)律法(聖書)を知らないあんな民衆は、呪われたがいい!」

 塚本訳ヨハ 9:39-41
9:39 イエスは言われた、「わたしは裁きのためにこの世に来たのだ。・・盲が目明きに、目明きが盲になるために!」
9:40 イエスと一しょにいたパリサイ人たちがこれを聞いて、彼に言った、「まさか、このわれわれも盲だというのではあるまい。」
9:41 イエスが言われた、「盲だったら、罪はなかった。たが今、『見える』と言うから、あなた達の罪はいつまでもなくならない。(光に来ようとしないのだから。)

塚本訳 マコ 10:17-20
10:17 旅行に出ようとされると、ひとりの人が駆けてきて、ひざまずいて尋ねた、「善い先生、永遠の命をいただくには、何をすればよいでしょうか。」
10:18 イエスは言われた、「なぜわたしを『善い』と言うのか。神お一人のほかに、だれも善い者はない。
10:19 (するべきことは神の掟を守ることだけで、)掟はあなたが知っている通り。──『殺してはならない、姦淫をしてはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてはならない、』奪い取ってはならない、『父と母とを敬え。』(ただこれだけである。)」
10:20 その人が言った、「先生、それならみんな若い時から守っております。」

 塚本訳ヨハ 3:1
3:1 ところでパリサイ人の中に名をニコデモという人があった。ユダヤの(最高法院の)役人であった。

 塚本訳ヨハ 3:9-12
3:9 ニコデモが言葉を返した、「(霊によって生まれるなどと、)そんなことがどうして出来ましょうか。」
3:10 イエスが答えて言われた。──「あなたはイスラエルの(名高い)先生でありながら、それくらいなことがわからないのか。
3:11 アーメン、アーメン、わたしは言う、わたし達(神の国を説く者)は知っていることを話し、(自分で)見たことを証しするのである。しかしあなた達はその証しを受けいれない。
3:12 わたしが(いま)地上のことを言うのに、それを信じないから、天上のことを言うとき、どうして信じることができよう。

●「金持ちや頭がよい人でも救われるが、それは心が貧しかった人、家庭に直りにくい病人がいた人・つまり神を求める人」

 塚本訳ルカ 19:2-8
19:2 すると、(町に)名をザアカイという人がいた。この人は税金取りの頭で、金持であった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低いので、群衆のため見ることが出来なかった。
19:4 それで先の方に駈けていって、桑無花果の木に上った。そこを通られるところを見ようとしたのである。
19:5 イエスはその場所に来られると、ザアカイを見上げて言われた、「ザアカイ、急いで下りておいで。きょうはあなたの家に泊まることになっているから。」
19:6 ザアカイは急いで下りてきて、喜んでお迎えした。
19:7 皆がこれを見て、イエスは(税金取りのような)罪人の所に入りこんで宿を取った、と言ってぶつぶつ呟いた。
19:8 しかしザアカイは進み出て主に言った、「主よ、わたしは(誓って)財産の半分を貧乏な人たちに施します。人からゆすり取ったものは四倍にして返します。」

塚本訳マタ 27:57-60
27:57 夕方になると、アリマタヤ生まれの金持でヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子であった。
27:58 この人がピラトの所に行って、イエスの体(の下げ渡し)を乞うた。そこでピラトはそれを渡すように命じた。
27:59 ヨセフは体を受け取り、清らかな亜麻布で包み、
27:60 岩に掘らせた自分の新しい墓にそれを納め、墓の入口に大きな石をころがしておいて、立ち去った。

 塚本訳使  26:23-25
26:23 すなわち、救世主は死なねばならないこと、彼は死人の中から最初に復活して、(イスラエルの)民にも異教人にも光を伝えねばならないことを…」
26:24 彼がこのように弁明したとき、フェストが大声で(それをさえぎって)言う、「パウロ、お前は気が狂っている。博学がお前を狂わせたのだ。」
26:25 パウロが言う、「フェスト閣下、気は狂っておりません。わたしは正気で真理の言葉を話しています。

塚本訳 ヨハ 4:46-47
4:46 それから、またガリラヤのカナに行かれた。そこは(前に)水を酒にされた所である。するとカペナウムに(ヘロデ・アンデパス)王の役人がいて、その息子が病気であった。
4:47 イエスがユダヤからガリラヤに来ておられると聞くと、イエスの所に行き、(カペナウムに)下ってきて息子を直してほしいと頼んだ。息子が死にそうだったのである。add 2 マコ

塚本訳 ルカ 8:41-42
8:41 するとそこに名をヤイロという人が来た。この人は礼拝堂の役人であった。イエスの足もとにひれ伏し、家に来ていただきたいと願った。
8:42 十二歳ばかりの一人娘があって、それが死にかけていたのである。(ヤイロの家に)行かれる途中、群衆はイエスを押しつぶしそうであった。

●「堕落人間、遊び人は救われにくい。宗教を尊敬する人は救われやすい」

塚本訳  マタ 11:21-23
11:21 「ああ禍だ、お前コラジン!ああ禍だ、お前ベツサイダ!わたしがお前たちの所で行っただけの奇蹟をツロやシドンで行ったなら、(あの堕落町でも、)とうの昔に粗布を着、灰の中で悔改めたにちがいないのだから。
11:22 ところでお前たちに言うが、裁きの日には、ツロやシドンの方が、まだお前たちよりも罰が軽いであろう。
11:23 それから、お前カペナウム、(わたしに特別に可愛がられたからとて、)まさか『天にまで挙げられる』などとは思っていないだろうね。(天に挙げられるどころか、)『お前は黄泉にまでたたき落されるであろう。』お前の所で行っただけの奇蹟をソドムで行ったなら、(あの堕落町でも、)きょうまで滅びずにいたにちがいないのだから。

塚本訳マコ 12:32-34
12:32 聖書学者が言った、「先生、ごりっぱです。『神はただ一人である、彼のほかに神はない』とは、本当のことを言われました。
12:33 また『心のかぎり、知恵のかぎり、力のかぎり神を愛する』ことと、『隣の人を自分のように愛する』こととは、どんな『燔祭や犠牲』にも勝っております。」
12:34 イエスは彼がかしこく答えたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。もうだれ一人、問おうとする者はなかった。

塚本訳 使  10:1-2
10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいた。いわゆるイタリヤ部隊の百卒隊の百卒長で、
10:2 家族一同と共に、敬虔であり敬神家[なかばユダヤ教に帰依した者]であって、(ユダヤ)国民に多くの施しをし、また絶えず神に祈りをささげていた。

塚本訳 使  10:21-23
10:21 そこでペテロはその人たちの所に下りていって、言った、「このわたしがおたずねのペテロです。お出での御用向きは。」
10:22 彼らが言った、「百卒長コルネリオは正しい人で敬神家で、ユダヤ国民全体に評判のよい人ですが、聖なる天使から、あなたを家に招いて御言葉を聞けとのお告げを受けたのです。」
10:23 そこでペテロは彼らを内に入れて、泊めた。翌日立って、彼らと一緒に出かけた。ヨッパの数人の兄弟も一緒に行った。

塚本訳使  16:12-14
16:12 そこから(歩いて、)マケドニヤ第一区の町で(ローマの)植民地であるピリピに行った。わたし達は数日この町に滞在していた。
16:13 安息の日に、わたし達は(町の)門を出て川ばたにいった。祈り場がありそうに思ったのである。そして(そこに)坐って、集まってきた婦人たちに話をした。
16:14 するとテアテラ町の紫毛織物の商人で、敬信家のルデヤという婦人が聞いていたが、主はその心を開いてパウロの話に耳を傾けさせられた。

新改訳 使  17:3-4
17:3 そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。」と言った。
17:4 彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。

 塚本訳使  18:6-8
18:6 しかしユダヤ人にはこれに反対して(イエスを)冒涜するので、パウロは(絶縁のしるしに)上着の塵を払いおとして彼らに言った、「(最後の裁きの日に流す)あなた達の血の責任は、あなた達自身に負わされる!わたしは良心の咎めなく(あなた達をすてて、)今からのち異教人へ(伝道に)行く。」
18:7 そしてそこ[礼拝堂]を去り、テテオ・ユストという敬神家の家に行っ(て伝道を始め)た。その家は礼拝堂の隣にあった。
18:8 しかし礼拝堂監督のクリスポは全家族そろって主を信じた。また多くのコリント人もパウロの話を聞き、つぎつぎに信じて洗礼を受けた。

●「不幸な人必ずしも救われない」

塚本訳マタ 27:21-23
27:21 総督は彼らに言った、「二人のうち、どちらを赦してもらいたいのか。」「バラバを!」と彼らが言った。
27:22 ピラトが言う、「では、救世主と言われるイエスをどうしようか。」みんなが、「十字架につけるのだ」と言う。
27:23 ピラトは言った、「いったいどんな悪事をはたらいたというのか。」しかし人々はいよいよ激しく、「十字架につけるのだ」と叫びつづけた。

塚本訳ルカ 23:39
23:39 磔にされている罪人の一人がイエスを冒涜した、「お前は救世主じゃないか。自分とおれ達を救ってみろ。」

塚本訳マタ 24:8-10
24:8 しかしこれは皆(まだ、新しい世界が生まれるための)陣痛の始めである。
24:9 その時あなた達は苦しめられ、殺される。またわたしの弟子であるために、すべての国の人から憎まれる。
24:10 するとその時、『多くの人が信仰から離れて、』互に裏切り、互に憎むであろう。

 塚本訳ヨハ 9:21-23
9:21 どうして今見えるのか、わかりません。また、だれが目をあけたのかも、わたし達は知りません。あれに聞いてください。もう大人だから、自分のことは自分で話すでしょう。」
9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人を恐れたのである。ユダヤ人は、イエスを公然救世主と認める者があれば、礼拝堂追放にすることを、すでに決議していたからである。
9:23 両親が、「もう大人だから、あれに聞いてください」と言ったのは、このためである。

塚本訳ヨハ 6:64-66
6:64 しかしあなた達のうちには、信じていない者がすこしある。」イエスには、だれだれは信じない、だれは自分を敵に売ると、始めからわかっていたのである。
6:65 そして言われた、「だから『父上に許された者でなければ、だれもわたしの所に来ることは出来ない』と言ったのだ。」
6:66 (このはげしい言葉の)ために、多くの弟子がはなれていって、もはやイエスと一しょに歩かなくなった。

●「ではいったい誰が救われるのか。救われる人は少ないか」

塚本訳 マタ 19:23-26
19:23 イエスは弟子たちに言われた、「アーメン、わたしは言う、金持が天の国に入ることはむずかしい。
19:24 かさねて言う、金持が天の国に入るよりは、駱駝が針のめどを通る方がたやすい。」
19:25 これを聞いて、弟子たちは非常に驚いて言った、「ではいったい、だれが救われることが出来るのだろう。」
19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた、「これは人間には出来ないが、『神にはなんでも出来る。』」

塚本訳ヨハ 3:7-8
3:7 『あなた達は新しく生まれなおさねばならない』と言ったからとて、すこしも不思議がることはない。
3:8 風[プニューマ]は心のままに吹く。その音は聞えるが、どこから来てどこに行くか、あなたは知らない。霊[プニューマ]によって生れる者も皆、そのとおりである。」

塚本訳ヨハ 14:22-23
14:22 イスカリオテでない方のユダが言う、「主よ、いったいどういうわけで、わたし達だけに御自分を現わし、この世(の人)にはそうしようとされないのですか。」
14:23 イエスは答えられた、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。するとわたしの父上はその人を愛され、わたし達は(父上もわたしも)、その人のところに行って、同居するであろう。

塚本訳 ルカ 13:23-25
13:23 するとある人が「主よ、救われる者は少ないでしょうか」と尋ねた。人々に言われた、
13:24 「全力を尽くして(今すぐ)狭い戸口から入りなさい。あなた達に言う、(あとになって)入ろうとしても、入れない者が多いのだから。
13:25 家の主人が立ち上がって戸をしめたあとで、あなた達が外に立って、『ご主人、あけてください』と言って戸をたたきつづけても、主人は、『わたしはあなた達がどこの人だか知らない』と答えるであろう。

●8:30 妻は今井館、「ウィークデーの集い」に出発。

 

 


 

 

 

 

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目明きが盲になるとは ++++++++ 所感

2009/06/16 09:23

090616(火)4:30目覚め。黙想「目明きが盲になるために」とは何か●次回感話はヨハネ9章「シロアム池の無人」。その中で難解な箇所は次のところである。

塚本訳 ヨハ 9:39
9:39 イエスは言われた、「わたしは裁きのためにこの世に来たのだ。・・盲が目明きに、目明きが盲になるために!」

●目明きは神への信仰を求めにくいというのなら分かるが、イエスが来たのは「目明きが盲になるため」であるとはこれまたどういうことか。肉の目が明いている人は心の目がふさがれるということである。しかしそうなら肉の「目明き」であるということが不条理ではないか。逆に不公平だ。この人生の現実的難問を考えるとき次の聖句が連想される。

塚本訳  ルカ 16:25-26
16:25 しかしアブラハムは言った、『子よ、考えてごらん、あなたは生きていた時に善いものを貰い、ラザロは反対に悪いものを貰ったではないか。だから今ここで、彼は慰められ、あなたはもだえ苦しむのだ。
16:26 そればかりではない、わたし達とあなた達との間には大きな(深い)裂け目があって、ここからあなた達の所へ渡ろうと思っても出来ず、そこからわたし達の所へ越えてくることもない。』

●地上で幸福だった人は来世では泣くらしい。逆らしい。

塚本訳  ルカ 6:21-22
6:21 ああ幸いだ、今飢えている人たち、(かの日に)満腹させられるのはあなた達だから。ああ幸いだ、今泣いている人たち、(かの日に)笑うのはあなた達だから。
6:22 人に憎まれる時、また、人の子(わたし)のゆえに除名されたり、罵られたり、悪様に言われたりする時には、あなた達は幸いである。

●次の言葉は天国に入るのは「順序」の問題ではなく、先に入った者はそれでいっぱいになり「あとから入ろうとしても入れないという意味。

塚本訳 マタ 21:31-32
21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう。
21:32 そのわけは、(洗礼者)ヨハネが義の道を示しに来たのに、あなた達は彼を信ぜず、税金取りや遊女の方がかえって信じたからだ。しかしあなた達は(あの人たちが悔改めるのを)見たあとでも、後悔して彼を信じようとしなかった。

●「取税人と遊女とは汝らに先だちて神の國に入るなり」(文語)とは神の子ならではの崇高な言葉である。

塚本訳 マタ 19:30
19:30 しかし(決して油断をしてはならない。)一番の者が最後になり、最後の者が一番になることが多い。

●クリスチャン人生も土壇場で地獄行きということもありうる。

塚本訳  ヨハ 5:18
5:18 このためユダヤ人は、いよいよイエスを殺そうと思った。安息日を破るばかりでなく、神を自分の父と言って、自分を神と等しくされたからである。

塚本訳 マコ 2:6-8
2:6 数人の聖書学者がそこに坐っていたが、心の中で考えた、
2:7 「この人はなぜあんなことを言うのだろう。冒涜だ。神お一人のほか、だれが罪を赦せよう。」
2:8 イエスは彼らがひそかにこう考えているのを、すぐ霊で見抜いて、「なんで、そんなことを心の中で考えているのか。

塚本訳 ヨハ 5:39-40
5:39 あなた達は聖書(旧約)をもっていることが永遠の命を持っていることのように思って、それを研究している。ところがこの聖書は、(永遠の命である)このわたしのことを証明しているのに、
5:40 あなた達はその命を得るためわたしの所に来ようとしない。

塚本訳  マタ 26:65
26:65 そこで大祭司は自分の上着を引き裂いて言った、「冒涜だ!これ以上、なんで証人の必要があろう。諸君は今ここに(おのれを神の子とする許しがたい)冒涜を聞かれた。

●ユダヤ人のこのような態度を見ればイエスは次のように言いたくもなる。

塚本訳 マタ 13:13-15
13:13 だから、あの人たちには譬をもって話すのである。『見ても見えず、聞いても聞えず、また悟らない』からだ。
13:14 こうしてイザヤの預言はあの人たちに成就した。──『あなた達は聞いても聞いても、決して悟るまい、見ても見ても、決してわかるまい。
13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、その目は閉じてしまっているのだから。そうでないと、彼らは目で見、耳で聞き、心で悟り、心を入れかえて(わたし[神]に帰り)、わたしに直されるかも知れない。』

塚本訳 マタ 13:11-15
13:11 答えられた、「あなた達(内輪の者)には、天の国の秘密をさとる力が授けられている(のでありのままに話す)が、あの(外の)人たちには授けられていないのだ。
13:12 だれでも持っている人は(さらに)与えられてあり余るが、持たぬ人は、持っているものまでも取り上げられるのである。
13:13 だから、あの人たちには譬をもって話すのである。『見ても見えず、聞いても聞えず、また悟らない』からだ。

●「盲が目明きになる」とはこの世の不幸をはかなむ人は宗教に走りやすい、という意味ではなさそうだ。救いは神の絶対的主権で来るということらしい。

塚本訳  ヨハ 9:41
9:41 イエスが言われた、「盲だったら、罪はなかった。たが今、『見える』と言うから、あなた達の罪はいつまでもなくならない。(光に来ようとしないのだから。)

●これはヨハネ9章「シロアム池の盲人」の話の結論である。ここで「罪」とは何かがわかる。何のかんの屁理屈を言って神を信じようとはしないその「神に対する傲慢な態度」が罪なのだ。罪とは普通言われる「殺人、窃盗、虚偽」などのことではない。それは結果であり身である。枝はである。その根は「神への傲慢」である。それが罪の本質である。そういう人はその姿勢のままでは救いようがない。そういう人はたいてい肉の目があいている。肉の目があいていても神により心の目がふさがれる。

塚本訳  ヨハ 12:37-40
12:37 (以上のように、)イエスはこんなに多くの徴[奇蹟]を人の見ている前で行われたが、人々は彼を信じなかった。
12:38 預言者イザヤの言葉が成就するためであった。──〃主よ、だれがわたし達に聞いたことを信じましたか。だれが主の御腕(の偉大な力)を認めましたか。〃
12:39 (そして)人々が信じ得なかったのは、イザヤがさらにこう言っているからである。──
12:40 〃主は彼らの目を見えなくし、その心を頑なにされた。これは彼らが目で見、心で解り、心を入れかえて、わたし(主キリスト)に直されないようにするためである。〃

塚本訳  ロマ 11:7-8
11:7 それでは、どうだろうか。(結局)イスラエル人は(全体として)自分のほしがっているものを得ることはできず、(ただ小数の)選ばれた者がこれを得たのである。ほかの者は(みな)頑なにされてしまった。
11:8 『神は彼らに』『麻酔の霊を』『与えて、目を見えなくし、耳を聞こえなくされた、今日に至るまで。』と書いてあるとおりである。

●心の目が開けられるのは、神の絶対恩恵による無条件の罪の赦し。それを求めようとしない人間はその姿勢のままでは神としても救いようがないから罰として「心の目」をふさがれのだ。しかしその罰を受けた人もいつの日か神の絶対主権で「遅れてれて」「あとから」でも救われるだろう。ユダヤ人パウロの必死の祈りはそこにあった。それがロマ書の結論である。


塚本訳 ロマ 11:11
11:11 それで、わたしは考える、彼らが躓いたのは、倒れて滅びるためではあるまいかと。もちろん、そうではない。むしろ反対に、(キリストを信じなかった)彼らの過ちによって救いが異教人に来た。(そのことが刺激になって)彼らに『妬みをおこさせ、』(彼らも信仰を求めて、ついに救われ)るためである。

塚本訳 ロマ 11:31-32
11:31 この人たちも今はあなた達の受ける憐れみに対して不従順になっているが、これは今(すぐにも)憐れみを施されるためである。
11:32 つまり神はすべての人を不従順の中に閉じこめられたが、これはすべての人に憐れみを施すためであった。

●パウロがロマ書で言わんとすることは全人類の心の目が明くというのは神の望むところであって、それには順序がある。順序があるというのも、そもそもは全人類を救わんとする神の知恵なのだというのである。神のことが分からないのは一時的に麻酔の霊をかがされているためだ・●肉の目の盲人も、肉の目の目明きも神の絶対恩恵による無条件の罪の赦しで救われる。

塚本訳  ロマ 11:8
11:8 『神は彼らに』『麻酔の霊を』『与えて、目を見えなくし、耳を聞こえなくされた、今日に至るまで。』と書いてあるとおりである。

新共同 Ⅱテモ2:26
2:26 こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。

●なぜ我が同胞に神が見えないか。答えは至極簡単である。悪魔の仕業である。悪魔に噛みつかれて毒素が体中を回っているのだ。そのために心の目も潰れているのだ。その聖書的根拠は次である。キリストの宝血という血清が必要だ。

塚本訳  Ⅱコリ4:3-4
4:3 しかしそれでもなおわたし達の説く福音が(ベールで)覆われている(からわからないのだと言う)なら、それは滅びゆく者にとって(だけ)覆われているのである。
4:4 彼らの場合、この不信者たちの考えをこの世の神(である悪魔)が盲にして、神の影像である救世主の栄光をつげる福音の光を見ることができないようにしたのである。

●妻は立川で愛子と会う●終日「黒崎註解デジタル化プロジェクト」使徒校閲グーグルにアップ。これで「使徒」が終わった。「黒崎プロジェクト」の山を越えた。

 

 

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神は心の目を開ける ++++++++ 所感

2009/06/15 09:54

090615(月)4時半目覚め。次回感話ヨハネ9章「シロアム池の盲人」の黙想「神は心の目を開ける」。●人間は肉の目をあけることはできるが、心の眼は「神が」開ける。否、神にきり開けられない。

新改訳 ヨハ 9:35-38
9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

●心の目が開いたことは外部からは分からない。そして心の目を開けることは肉の目を開けることよりも難しい。しかしそのことができることを肉の目を開けることで証明した。このことはマルコ2章の「中風をなおす」でも同じ。人間は肉の目を開けてもらいたい思ってイエスに接近する。するとイエスは「心の目」を開ける。その次がすごい。心の目が開いたしるしとして肉の目を開ける。罪が赦されたしるしとして歩けなかった者を歩かせる。

塚本訳 マコ 2:9-12
2:9 この中風の者に、あなたの罪は赦された、と言うのと、起きて担架をかついで歩け、と言うのと、どちらがたやすい(と思う)か。
2:10 では、人の子(わたし)は地上で罪を赦す全権を持っていることを知らせてやろう」と彼らに言いながら、中風の者に言われる、
2:11 「あなたに命令する、起きて担架をかついで、家に帰りなさい。」
2:12 すると彼は起き上がり、すぐ担架をかついで、皆の見ている前を出ていった。皆が呆気にとられ、「こんなことはかって見たことがない」と言って、神を讃美した。

●神は考える「この人は肉の目を開ける前に心の目を開ける方が本当の幸福があられる。肉の目を開けることなど簡単だ」と。人生の不条理はこの観点からか行けるできる。人生の不条理が解決より心の目が開いた方が人間はよっぽど幸福なのだ。たとえ一生「肉の目が明かなくても」。私の関係者で肉の目が開かない人が3人いる。しかもそのうちの二人は生まれつきとは何の因果か。人生は不条理である。人間には肉の目が開けられなかったが神は「心の目」を開かれた。そのうちの一人のH氏は最近耳も遠くなられた。わたしは言った「さぞ御不自由でしょうねー」。するとHは満面の笑みで「何のこれしき」と言われた。H氏に「私の余命は統計的にあと17年です」と言ったら「神様のお心を先取りしてはいけません」と叱られた。私は恥ずかしかった。イエスの次の言葉は本当だ。H氏は人生が見えていた。

塚本訳 ヨハ 9:39
9:39 イエスは言われた、「わたしは裁きのためにこの世に来たのだ。・・盲が目明きに、目明きが盲になるために!」

●「心」and「目」でJバイブルでヒット。心に響いたものを列挙する。

マタ   13: 15 [塚本訳

この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、その目は閉じてしまっているのだから。そうでないと、彼らは目で見、耳で聞き、心で悟り、心を入れかえて(わたし[神]に帰り)、わたしに直されるかも知れない。』

ルカ   11: 35 [塚本訳

だから、あなたの内の光(である目、すなわち心)が暗くならぬように注意せよ。

ヨハ   12: 40 [塚本訳

〃主は彼らの目を見えなくし、その心を頑なにされた。これは彼らが目で見、心で解り、心を入れかえて、わたし(主キリスト)に直されないようにするためである。〃

使    8: 21 [塚本訳

お前はこの事の分け前にも相続にも、あずかれない。『心が』神の目に『真直ぐでない』からだ。

使    28: 27 [塚本訳

この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、その目は閉じてしまっているからだ。そうでないと、彼らは目で見、耳で聞き、心で悟り心を入れかえて(わたし[神に]帰り、)わたしに直されるかも知れない』と。

Ⅰコリ  2: 9 [塚本訳

しかし(聖書に)書いてあるとおり(に実現したの)である。『目も見ず耳も聞かず』、人の『心に起こらなかった』もの、『これを神は御自分を愛する者たちのために』用意された。

エペ   1: 18 [塚本訳

また【君達の】心の目を明らかにして、神に召され(ることによって得)た希望の何であるか、『聖徒の受くる』光栄ある(天の)『相続財産』の富の何であるか、

●使徒伝承を語って「心が開かれる」人とそうでない人がいる。説き方が悪いのではない。牧師よ伝道者よ「自分を責めるな」。心の目は神が開けるのだ。時がくれば開けてくださるのだ。

新共同 使  16:13-14
16:13 安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。
16:14 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。

●妻は「モデラート」(コーラス)の練習●BK、きねはら皮膚科●ムラウチホビー●メール●米国に返メール●定年といえども結構忙しいものだ●「黒崎P」

 

 

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人生の不条理をどう考えるか ++++++++ 所感

2009/06/14 07:02

090614(日)3時目覚め、床で黙想●次回感話ヨハネ9章「シロアム池の盲人」。人生の鉄則は因果応報。神はその鋼鉄のような原則から人間を解放する。●「こうなったのは何がいけなかったのだろう」と考えるのは正しいことで、常識である。そのことを考えることで事故を未然に防げる。進歩改善につながる●しかしどうしても原因不明の不条理という物もある。「生まれつきの盲」というのもその一つである。このときユダヤ人は「罪が原因ではないか」と思った。これユダヤ人の優れたところ。罪が原因であるとなれば「納得」なのである。さすが宗教の民。

新共同 ルカ 23:41
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

●罪に対する罰は人間の世界では了解事項で納得することである。戦争の原因たる「復讐」もそうである。「正当防衛」も同じである。

●「生まれつき盲の原因は?」と問われてイエスは医学的に答えず、因果応報だとも言わなかった。

塚本訳  ヨハ 9:3
9:3 イエスは答えられた、「この人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。ただ神の御業がこの人に現われるためである。

●ではなぜ神はこんな意地悪なことをするのか。神の栄光のためとはいえ人間の不幸が利用されているのではないのか。●ここで「神の御業」とは何か。神の全能の力を誇示することなのか。そうではない。「神の赦し」のことだ。そうすると、盲の原因はやはり「罪なのだ」それも本人のみならず両親はもちろん、被造物全体の罪なのだ。パウロは人間がはかない運命になったのはアダムが罪を犯したからだと次のように言う。パウロの深さよ。

塚本訳  ロマ 8:20-22
8:20 なぜであるか。創造物は自分から(今のような)はかない運命に屈伏したのでなく、それは屈伏させたお方([神]の御心)によるからである。(彼らはアダムの罪の責任を負わされたのである。)しかし(この屈伏には)望みがある。
8:21 創造物自身も、滅亡の奴隷になっている(現在の)状態から自由にされて、神の子供たちがうける栄光と自由とにあずかるのだから。
8:22 わたし達が知っているように、全創造物は(かの日から)今まで、一しょになって呻き、一しょになって産みの苦しみをしている。(父なる神がこの  呻きに耳を傾けられないことがあろうか。)

●この世の不条理、病気や死。人生のはかなさの原因はやはり「罪」。しかしその原因はアダムの罪!。人類の始祖がいけなかったのだ。本人でも両親の罪でもない

塚本訳  ロマ 5:12
5:12 (この救いはキリストとアダムとを比較する時に、はっきりする。)すなわち、一人の人(アダム)によってこの世に罪が入ってき、罪によって死が入ってき、こうして、(この人において)人は一人のこらず罪を犯したので、全人類に死が行き渡ったように──([一八節ニツヅク]一人の人キリストの正しい行いによって、全人類に命を与える義が臨んだのである。)

●それではこの私に原因がなければ、人生は不条理ではないか。なぜこの俺が苦しまなけりゃーならないんだ。納得できない。このことに対してパウロは慰める。罪なき神の子イエスの死によって「永遠の命」が与えられるじゃーないか。「おあいこだ」と。このパウロの慰めは頭では慰められない。実際に霊の命を頂く時に納得である。そのとき涙が拭われる。

塚本訳ロマ 5:15-19
5:15 しかし(神の)賜物は(アダムの)過ちと同じではない。なぜなら、一人の人(アダム)の過ちによってすら多くの人が死んだくらいであるから、まして神の恩恵と一人の人イエス・キリストによる恩恵の賜物とが、多くの人に満ちあふれるのはもちろんである。
5:16 なお、(キリストの)賜物と一人の罪を犯した人の場合とは、同じではない。なぜなら、一人の人(の罪)に対する(神の)裁きは、(多くの人に)死の宣告を下したのであるが、(神の)賜物は、多くの(人をその)過ちから(救い出して)義とするからである。
5:17 一人の人によって、すなわち一人の人(アダム)の過ちによってすら死が支配するようになったくらいであるから、ましてあふれるばかりの恩恵と義とされる賜物とを戴いた者が、一人の人イエス・キリストにより(永遠の)命をもって支配するのは、もちろんであるからである。──
5:18 従って、一人の人の過ちによって全人類に死の宣告が下されたと同じに、一人の人の正しい行いによって、全人類に命を与える義が臨んだのである。
5:19 すなわち、一人の人の不従順によって多くの人が罪人になったように、一人の人の従順によっても多くの人が義人になるのである。

●この人生、悩み悲しみがあるが、絶対恩恵の無条件の罪の赦しがあって人生納得である。黙示録の著者は次のように書く。人生の涙は必ず拭われる。不条理の涙は必ず拭われる。

新共同 黙  7:16-17
7:16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。
7:17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」

●集会は茂木、小寺(エペソ)、山本(ガラテヤ)●帰途は吉祥寺まで高木博義氏と懇談●14:00三鷹市管弦楽団コンサート(風のホール)。指揮者の高橋隆元がよかった。チャイコフスキー「悲愴」、余りの熱演に第3楽章で拍手、すると指揮者は後を向いてにこやかに丁寧なお辞儀。●悲愴の第4楽章を聞きながら、とても楽しい人生を送った人は特に死別は悲しいものに感じるのではないのか―と思った。●妻は今井館の評議委員会

「私を癒す名曲」チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」第二楽章

http://www.voiceblog.jp/andotowa/325429.html

この曲について。

「悲愴」は第2楽章と第4楽章が好きである。チャイコフスキーらしさが出ている。こういう名曲も地球が滅びるときは一緒になく成ってしまうとはさびしい限りである。


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人の不幸に同情するな ++++++++ 所感

2009/06/13 08:04

090613(土)近くで深夜の線路工事で2時半の目覚め。そのまま寝つけず。黙想。「人の不幸に同情するな」。季刊「無教会」8月号、テーマは「命」。その巻頭言の結論は次の通り。

文語訳  ルカ 23:28
23:28
イエス振反りて女たちに言ひ給ふ『エルサレムの娘よ、わが爲に泣くな、ただ己がため、己が子のために泣け。


十字架を担ぐイエスの姿を見て泣いたのは「女性」である。しかしその女性たちに向かってイエスは「我が為に泣くな」と言った。「己がために泣け」とは、この世の諸悪を嘆き、人の不幸に同情する前に自己の悪と滅びを泣けという意味である。世界の悪は自分の悪。                

三位一体の子なるキリストは天地創造の初めからおられ、肉では死んだが神により霊の体で有体的に復活させられた。その使徒伝承を聞いて信じる者は終わりの日に霊の体で有体的に復活させられる。これがほんとうの命、永遠の命なのだ。

さらばこの世の命のことで嘆くな。「泣くな!ほんとうの命が与えられる。」

これは次回感話ヨハネ9章「シロアム池の盲人」の最難関の次の言葉に内的に一致する。「泣くな、嘆くな。本当の目が明くのだ」。

塚本訳  ヨハ 9:1-3
9:1 イエスは通りがかりに、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちが尋ねた、「先生、この人が盲で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか、両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた、「この人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。ただ神の御業がこの人に現われるためである。

●本当の幸福は霊の目が明けられて、永遠の命をいただけること。その内的霊界のことが本当であることをイエスは在世中に物理的な肉の目を明けてみせ、そのことが嘘ではないことを示された。

塚本訳  ヨハ 9:4-7
9:4 わたし達はわたしを遣わされた方の御業を昼の間にせねばならない。(すぐ)夜が来る。するとだれも働けなくなる。
9:5 世におる間、わたしは世の光である。」
9:6 こう言って地に唾をはき、唾で泥をつくり、その泥を盲人の目に塗って、
9:7 言われた、「行って、シロアム池で洗いなさい。」(シロアムは訳すると「遣わされた者」。)そこで盲人は行って、洗って、見えるようになって、かえって行った。

●この物理的なことを見せて内的霊的なことが嘘でないことを示されたのは次のことも同じである。

塚本訳マコ 2:6-12
2:6 数人の聖書学者がそこに坐っていたが、心の中で考えた、
2:7 「この人はなぜあんなことを言うのだろう。冒涜だ。神お一人のほか、だれが罪を赦せよう。」
2:8 イエスは彼らがひそかにこう考えているのを、すぐ霊で見抜いて、「なんで、そんなことを心の中で考えているのか。
2:9 この中風の者に、あなたの罪は赦された、と言うのと、起きて担架をかついで歩け、と言うのと、どちらがたやすい(と思う)か。
2:10 では、人の子(わたし)は地上で罪を赦す全権を持っていることを知らせてやろう」と彼らに言いながら、中風の者に言われる、
2:11 「あなたに命令する、起きて担架をかついで、家に帰りなさい。」
2:12 すると彼は起き上がり、すぐ担架をかついで、皆の見ている前を出ていった。皆が呆気にとられ、「こんなことはかって見たことがない」と言って、神を讃美した。

●内的霊的な真理を外的物理的なことで示されたのは復活もそうである。マリヤには触るなといい、トマスには触ってみろと言った。ドアーの向こうから入ってきたかと思うと、魚を食べられた。不思議な復活体。これというのも霊の世界の不思議な真理を外的物理的な世界で分からせようとされた神の業だ。霊で生まれた者にはそれが納得できるが、そうでないものは「躓く」。そのことをイエスは次のように言う。

塚本訳  ヨハ 9:39-41
9:39 イエスは言われた、「わたしは裁きのためにこの世に来たのだ。・・盲が目明きに、目明きが盲になるために!」
9:40 イエスと一しょにいたパリサイ人たちがこれを聞いて、彼に言った、「まさか、このわれわれも盲だというのではあるまい。」
9:41 イエスが言われた、「盲だったら、罪はなかった。たが今、『見える』と言うから、あなた達の罪はいつまでもなくならない。(光に来ようとしないのだから。)

●6:30公園でラジオ体操。

resize0937.jpg 

秋留台公園にあるすばらしいデザインの門。遠景は秋留台運動場

次の聖句を思い出した。

塚本訳ヨハ 10:9
10:9 (また、)わたしが(羊の出入りするための)門である。わたしを通って入る者(羊)は救われる。(いつもこの門を)入ったり出たりして、牧草を得るであろう。


塚本訳 ヨハ 14:6
14:6 イエスは言われる、「わたしが道である。また真理であり、命である。(手段であると同時に目的であるから。)わたしを通らずには、だれも父上の所に行くことはできない。

●妻は夕方からモーツァルト「レクイエム」の練習で昭島へ。●図書館の帰途、地元秋川に麻生太郎総理大臣が地元候補の応援演説に来ているのを見た。黒山。政治家はスター並だ。信用ならないのは「世論」「風評」「人気」「流行」。すぐ変わる。

 

 

 

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自分を責めるな ++++++++ 所感

2009/06/12 07:49

090612(金)4時半目覚め●次回感話はヨハネ9章「シロアム池の盲人」。その中のヨハ 9:25 について黙想。

塚本訳 ヨハ 9:25
9:25 彼が答えた、「罪人かどうか知りません。ただ、(もと)盲であったわたしが、いまは見えるという、この一つのことだけ知っています。」

●信者の証言はこれ以下でも以上でもあってはならない。自分の身の上におこった事実をありのままに言うのが使徒伝承である。これが伝道である。証言である。このことは次のイエスの言葉が補強する。

塚本訳 マコ 5:18-20
5:18 そこで舟に乗られると、悪鬼につかれていた者が、ついて行きたいと願った。
5:19 しかし許さずに言われた、「家に帰ってうちの者に、(神なる)主があなたを憐れんで、どんなにえらいことをしてくださったかを、知らせてやりなさい。」
5:20 すると彼は行って、イエスがどんなにえらいことを自分にされたかを、デカポリスに言いふらし始めた。皆が驚いた。

●救われた者は「修道院」に行くな。聖書学者になるな。家に帰って「自分の変化を言え」。これが「世界伝道」である。

新改訳 Ⅱコリ2:14-16
2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
2:16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。

●自分が変えられたということを証言すると、それを聞く人は様々。ある人は「死から死へ」、ある人には「いのちからいのちへ」。そしてパウロの気持ちを推測するとこうだ。「あーこの厳しい勤めに誰が耐えられるか。それは喜びと共に淋しさでもあるのだ。悲しさでもある。しかしこの私にはそれができるのだ」と。

塚本訳 マタ 13:18-23
13:18 だからあなた達には種まく人の譬を説明してあげよう。──
13:19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らないと、悪者[悪魔]が来て、心の中にまかれたものを奪ってゆく。これは道ばたにまかれた人である。
13:20 岩地にまかれたもの、これは御言葉を聞いてすぐ喜んで受けいれるが、
13:21 自分の中に(しっかりした信仰)の根がなく、ただその当座だけであるから、御言葉のために苦難や迫害がおこると、すぐ信仰から離れおちる人である。
13:22 茨の中にまかれたもの、これは御言葉を聞くが、(しばらく信じているうちに、)この世の心配や富の惑わしが御言葉を押えつけて、みのらない人である。
13:23 しかし良い地にまかれたもの、これは御言葉を聞いて悟る人で、きっと実を結び、あるいは百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍になるのである。」

●神の子イエスにしてこの嘆き。使徒伝承者の義務は「播くだけ」「播きっぱなし」。それを聞いた人が「どうなろうと」それは神の責任。結果に責任はない。だから「あの人、この人が信仰に無関心であることに自分を責めることはやめよう」「逆らって攻撃してくるのは自分がデキでないからこうなるのだ」「あの人はこの私に躓いたので信仰に背をむけたのだ」と自己批判するのはやめよう。救いは人間の力ではないのだ。「応答がない、返事がない、小馬鹿にされている」と嘆くのはやめよう。期待するのはやめよう。ただ一方的に、「自分のことをバラす必要」がある。自分の恥をさらけ出す必要がある。それをしないで勉強してきた高邁な思想神学を説いたり説教してもそれは「種を播く」ことにはならない。

●6:30 公園でラジオ体操のあと、久しぶりに晴れたので写真撮影しながら家に戻る。

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秋留台公園のバラ園

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鳩が朝食(?)。この鳩たちは何でつながっているのだろう。群れの原理は何なのだろう。人間のつながりが「金」であるところにこの世の暗闇があるのだ

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トウモロコシがぐんぐん伸びる。空に向って伸びる。人のための食料となるための短い生涯。それでよいのだ。それで良いのだ。人生は長さではない。遠景は奥多摩連山

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あきる野名物のトウモロコシ畑。成長が速い。次の言葉を思う。

口語訳 マコ 4:26-28
4:26 また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。
4:27 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。

●9:30市民検診(池谷医院)●14:00 新宿紀伊国屋●16:30昭和女子大環境デザイン学科懇談会。終了後芦川智教授と懇談。●帰宅すると集会の某氏が食道がんで16日に手術との知らせ。「御心をなし給え」。

resize0936.jpg 

昭和女子大ホールにあるトルイストイ像。昭和女子大はトルイストイの精神を目標としている。


 

 

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「神まま」という人生観 ++++++++ 所感

2009/06/11 06:21

090611(木)4時半起床●朝の黙想「『神まま』という人生観」●残りの17年間をどう生きるかと考えるのは「大脳皮質」であってそえは不信者のすること。信者は先のことは「神まま」。これが信者と一見信者の違い。あるいは一応信者との違い。自戒。●かってSA氏が私に言った「無教会は神ままだ」と。これ至言。クリスチャンは先の計画をしない。それは神抜きの大脳皮質の希望である。●以下はこのことに関するする思い浮かぶ関連聖句と感話。

新共同 使  20:24
20:24 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

●これはパウロの第3回伝道旅行のとき、エペソの長老たちに「告別」の説教。この「自分の決められた道」という言葉に打たれる。

新共同 使  20:22-23
20:22 そして今、わたしは、"霊"に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。
20:23 ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。

●「どんなことがこの身に起こるか、何も分かりません」というのが信者の「不安」。なぜか。「神まま」だからの「不安」。人間的計画をしないための「不安」。しかし神が共にいる「安心」。

塚本訳  マタ 26:39
26:39 そしてなお少し(奥に)進んでいって、俯けに倒れ、祈って言われた、「お父様、出来ることなら、どうかこの杯がわたしの前を通りすぎますように。しかし、わたしの願いどおりでなく、お心のとおりになればよいのです。」

塚本訳  使  27:27
27:27 (美しい港を出て)十四日目の夜、わたし達がアドリヤ海を漂っている時、夜中ごろ、水夫らはどこか陸地に近づいたように考えた。

●パウロのローマ行きの船旅では14日間も漂流した。神ままであった。

塚本訳 使  27:30
27:30 すると水夫らは船から逃げようと思い、舳からも錨を下げようとしている振りをして、小舟をおろしたので、

●「神まま人生」の人には「ついて行けない」という不信者は「こりゃーたまらん」と思って「逃げだす」。逃げ出すのは当然。神なき人間の当然の行動。キリスト教社会派人間の判で押したような思想と行動。何を話しても努力しても一致しない。全くわからない。

●人生はいつもゲッセマネの祈り。残りの人生において「苦難の杯」を飲まされることのないように祈るのが人情。神の子イエスがそうであった。恥ずかしいことではない。

塚本訳マタ 26:42
26:42 また二度目に向こうへ行って、祈られた、「お父様、どうしてもわたしが飲まねば通りすぎない杯ならば、どうかお心のままになさってください。」

●イエスも神と押し問答をした。格闘した。信者もそれでいいんだ、それでいいんだ。それが普通だ。それが人間だ。

塚本訳 マタ 24:36
24:36 ただし(人の子の来る)その日と時間とは、ただ父上のほかだれも知らない。天の使いたちも知らない。

●三位一体の子なるイエスにしてこれである。子は子であって父とは違う。まして人間には神の計画は分かりようはない。神は分からせてくれない。

塚本訳  マタ 24:44
24:44 だから、あなた達も用意していなさい。人の子(わたし)は思いがけない時に来るのだから。

●出かけたはずの「上司、主人、妻」はすぐ帰ってくるのが人生の真理。

塚本訳  マタ 6:29-30
6:29 しかし、わたしは言う、栄華を極めたソロモン(王)でさえも、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。
6:30 きょうは花咲き、あすは炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこんなに装ってくださるからには、ましてあなた達はなおさらのことではないか。信仰の小さい人たちよ!

●人生は「つかのまの」美しさでよいのだ。花火のようで良いのだ。流れ星のようで良いのだ。

塚本訳マタ 6:34
6:34 だから、あしたのことを心配するな。あしたはあしたが自分で心配する。一日の苦労はその日の分で沢山である。

●明日のことを思い患ってもよい。心配してもよい。不安になってもよい。計画してもよい。焦ってもよい。将来のことをわめいて議論してもよい。喧嘩してもよい。しかし人生は神の手に濁られている。どうしようもない。

塚本訳  ヤコ 4:13-16
4:13 さあ来い、「今日か明日どこそこの町に行き、一年其処に居り商売をして儲けてやろう」と言う者達!
4:14 (だが)君達は明日のことを知らないのだ。君達の生命は何か。君達は一寸見えて、(直)またあとで見えなく成る湯気ではないか。
4:15 その代わりに君達はこう言わねばならぬ、「主の御心ならば、私達はいきていてこのことあのことを為よう!」
4:16 しかし今君達は誇り高ぶっている、こんな誇りは皆悪い。

●人間の計画が悪いのではない。神の助力が抜けているのがいけないのだ。神の顔を立てないのがいけないのだ。

「関連讃美歌」

讃美歌494番

1. わが ゆく みち いつ いかに

   なるべき か は つゆ しらねど,

   しゅ は みこころ なし たまわん.

 (Refrain)

   そなえ たもう しゅ の みち を

   ふみて ゆかん ひとすじ に.

2. こころ たけく たゆまざれ,

   ひと は かわり よ は うつれと,

   しゅ は みこころ なし たまわん.

 3. あらうみ を も うち ひらき,

   すなはら に も まな を ふらせ,

   しゅ は みこころ なし たまわん.

 

 ●メロディーは次をクリック

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-494-in_same_way_or_other.mid

 

讃美歌288番

1. たえなる みちしるべ の ひかり よ,

   いえじ も さだか ならぬ やみよ に,

   さびしく さすらう み を

   みちびき ゆかせ たまえ.

2. ゆくすえ とおく みる を ねがわじ,

   しゅ よ, わが よわき あし を まもりて,

   ひと あし, また しと あし,

   みち お ば しめし たまえ.

3. あだなる よ の さかえ を よろこび,

   ほこりて おの が みち を あゆみつ,

   むなしく すぎに し ひ を

   わが しゅ よ, わすれ たまえ.

4. しるべ と なり たまいし ひかり よ,

   いま より なお も のじ に やまじ に,

   やみよ の あけ ゆく まで,

   みちびき ゆかせ たまえ.

5. とこよ の あさ に さむる その とき,

   しばし の わかれ を だに なげき し

   あいする もの の えがお,

   みくに に われ を むかえん.

●メロディーは次をクリック

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-288-lead_kindly_light_amid_ihe_encircling_gloom.mid

●山川歯科●13:00ピアノの調律に田岡さん(高橋三郎集会)が来訪、信仰の交わりは楽し。草生農業、共生農業に興味深い話を伺った。

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ピアノの調律に田岡さん(高橋三郎集会)が来訪。信仰の懇親は楽し。

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すばらしい玄関アプローチの家。あきる野市。心は形になる。

 


 

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人生の不条理は納得できるか ++++++++ 所感

2009/06/10 14:23

090610(水)4時半目覚め●次回感話、ヨハネ9章「シロアムの池の盲人」について黙想「人生の不条理は納得できるか」●私はかって全盲のテノール歌手新垣勉氏の後援会に入っていた。氏は生まれたとき看護婦の点滴ミスで失明。沖縄の米軍兵だった父は帰国して音信不通。母親は氏を母親に預けて再婚。大きくなったら、その看護婦と両親に復讐しようと固く誓って育った。心は荒れた。そんな新垣少年はあるとき友人に聖書の集まりに誘われた。そこで沖縄宮古バプテスト教会の城間牧師(高橋は自由学園で会ったことがある)に「俺の人生はどうしてこうなったんだ。納得させてくれ」と取りすがって泣いた。すると頭の上から冷たいものが落ちてきた。城間牧師の涙であった。自分の運命を泣かれたのは初めてであった。その日から新垣少年の荒れた心は薄紙を剥ぐように癒えていった。城間牧師は偉かった。自分に何人か子供がいるのに(牧師の家庭だから裕福ではなかったはず)新垣少年を引き取って育てた。写真で見ただけだが夫人の顔は美しかった。そして新垣少年はついに心の眼が開かれ、神を知るに至った。声がよかったのでテノール歌手として身を立てた。あるときキリスト教愛真高校と今井館で歌ったのを私は聴いた。地元秋川のキララホールでも歌った。いつも明るく顔は輝いていた。氏のことがNHKで放映されたとき、米軍基地をフェンス越しに見る新垣氏の顔は笑みを浮かべて穏やかそのもの、すべてを赦した顔であった。氏は肉の眼は開かなかったが、否、盲目であったために、かえって心の眼が明いたのだ。この新垣氏の事実は「神の栄光が現れるために盲人になった」ということの解説にはならないか。ある健常者が新垣氏に向かって「あなたが盲人になったのは神の栄光が現れるためだったのですね」と言った。すると新垣氏は「ムッ」となったそうだ。たとえそれは真理であっても健常なる人間が言ってはいけない。独り子を殺してまで人の罪を赦した神、そしてその子イエスにして初めて言える言葉だ。●シロアムの池の盲人に対してもイエスはただおごそかに「この人が盲で生まれたのは神の栄光が現れるためである」と冷たく言い放ったのではあるまい。彼の不遇な運命に一緒に泣いたのではあるまいか。イエスはラザロの死の時も泣かれた。(ヨハネ11:35)●このたびヴァンクライヴァーン国際ピアノコンクールで日本初、盲人で初の優勝をした辻井信行氏は生まれつきの盲目。優勝後の記者会見で「一日だけ目が開いたら何を見たいですか」の質問に「育ててくれた両親の顔を見たい」と言った。酷な質問であったかなー。●私が神に「何か一つ願いをかなえてあげる」と言われたら私の言うことは決まっている。「あの人を救ってください」と。●全盲でも優れたことをするのが「目が開く」というのではない。神を知ることが「目が開く」というのである。私は盲人を何人か知っている。神のために「よい働き」をしている。ただし、「盲人でも健常者以上のことをしている」というのではない。それに驚くのは「この世的」驚き。その人を通じて神が不思議な影響を周囲に与えるのだ。「神の栄光が現れるため」とはそのことだ。

塚本訳 マコ 10:51-52
10:51 イエスが彼に言われた、「何をしてもらいたいのか。」盲人がこたえた、「先生、見えるようになりたい。」
10:52 そこでイエスが、「お帰り。あなたの信仰がなおした」と言われると、すぐ見えるようになって、イエスの旅行について行った。

●この記事は最後の「イエスの旅行について云った」がポイント。彼の人生がイエスに従うものになったのだ。

 

「父の墓参」 秋川霊園、自転車で30分

父召天1992年6月9日。87歳。最後近くの日、見舞いに行くとしきりに「御国は近い、御国は近い」とつぶやいていた。来世と復活を固く信じて逝った。私もそうありたい。

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高橋家の墓。墓碑銘は「神は愛なり」。父が特愛の言葉。

草むしりをした。

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父に定年退職したことを報告した。父が元気の頃、母に言われて二人で庭の草むしりをしている時、父はよく言ったものだ。「照男君いい加減でいいよ。どうせ冬になれば枯れるのだから」と。草むしりをしながらそのことを思い出した。父は生き物を殺すのが大嫌いであった。

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墓の樹でバッタが羽化中であった。誰に教えられるのでもなく。一人で変態する。生物は不思議だ。人間は成人するまで長くかかるわねーと妻が言った。

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金(カネ)で買えるもの買えないもの ++++++++ 所感

2009/06/09 06:28

090609(火)父の命日、17年目。私にとって霊肉の父であった。感謝●3時半目覚め。もう一度寝ようとしたとき脳の中に雷。そのまま寝つけず5時起床●朝の啓示「金(カネ)で買えるもの買えないもの」●「地獄の沙汰もカネ次第」。お金があれば学校に行ける、勉強ができる、成績が向上する、学歴が得られる、医者になれる、教授になれる、地位が得られる、入院できる、病気を直せる、生活できる、信用される、尊敬される、銀行がら借金できる、土地を買える、マイホームを持てる、紳士になれる、美人になれる、品格を持てる、良縁が得られる、女性にモテる、コンサートに行ける、習いごとができる、本を買える、教養が増す、暇と時間ができる、宗教行為ができる、教会員になれる、献金できる、人に援助できる、お付き合いができる、おごれる、人を救えられる、子供に希望の道を行かせることができる、夫婦仲がよくなる、良い子供が育つ、自由になれる、刑務所から保釈される、示談金が払える、償いができる、慰謝料を払える、手切れ金を払える、国際平和も金で可能、健康食品を買える、長生きできる、痛まずに楽に死ねる、大往生できる・・・・・万事この世は金(カネ)次第。金(カネ)があれば人生幸福だ。平和だ。金(カネ)はないよりあったほうが良い。人生楽に渡れる。幸福=金だ。この世では金があればほとんどのものが手に入る。●ところが最も大切な「永遠の命」だけは金(カネ)で買えない。ここが難しいところ。では人間どうすればいいんだ。 永遠の命が金(カネ)では買えない聖書的根拠は次の通り。

塚本訳マタ 16:26
16:26 たとい全世界をもうけても、命を損するならば、その人は何を得するのだろう。それとも、人は(一度失った永遠の)命を受けもどす代価として、何か(神に)渡すことができるのだろうか

●「永遠の命」は金(カネ)を捨てるぐらいに自分の救いに「一生懸命に」になり、恩恵としてこれをただで頂くのが救いの道。ただではかたじけない。少しでもお支払いしたいなどという「勝気」の気持ちが少しでもあるうちは人間救われない。その聖書的根拠は次の通り。


塚本訳  ロマ 3:24
3:24 (さりとて失った栄光を回復する力はないので、何一つ)代価を払わず、(ただ)神の恩恵によって、キリスト・イエスによるあがないの力で、(神に)義とされる(道が設けられた)のである。

塚本訳マタ 20:28
20:28 人の子(わたし)が来たのも仕えさせるためではない。仕えるため、多くの人のあがない金としてその命を与えるためである。」

●永遠の命を頂くには金(カネ)が邪魔である。ここが「難しいのだ。その聖書的根拠は次の通り。

塚本訳  マコ 10:21-23
10:21 イエスは彼をじっと見て、かわいく思って言われた、「(よく守った。だが)一つ足りない。家に帰って、持っているものをみな売って、(その金を)貧乏な人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」
10:22 彼はこの言葉に顔をくもらせ、悲しそうにして立ち去った。大資産家であったのである。
10:23 イエスは(うしろ姿を見送っておられたが、)やがて見まわして、弟子たちに言われる、「物持ちが神の国に入るのは、なんとむずかしいことだろう。」

塚本訳  マタ 6:24
6:24 (わたし達の心は天か地かに引かれる。)だれも(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない

●この永遠の命を頂くとどうなるか。欲望が削がれて仙人のようになるのか。NO!。この世が自分のものになるからこの世を正しく愛せる。この世に正しく逆戻りして生きる。金で得ようとしていたすべてものが得られる。紳士にもなれる、美人にもなれる。最後は死をも突破できる喜びが得られる。その聖書的根拠は次の通り。

塚本訳 Ⅰコリ3:22
3:22 パウロでもアポロでもケパでも、世界でも命でも死でも、現在起こっていることでも将来起こることでも、万物はあなた達のものである。

●永遠の命を頂いてこの世の普通の仕事をすることがプロテスタント、無教会者の生き方だ。その聖書的根拠はは次の通りだ。


塚本訳 ルカ 16:9-13
16:9 それでわたしもあなた達に言う、あなた達も(この番頭に見習い、今のうちにこの世の)不正な富を利用して、(天に)友人[神]をつくっておけ。そうすれば富がなくなる時、その友人が永遠の住居に迎えてくださるであろう。
16:10 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。
16:11 だから、もし(この世の)不正な富に忠実でなかったならば、だれが(天の)まことの富をあなた達にまかせようか。
16:12 もし他人のもの[この世のこと]に忠実でなかったならば、だれがあなた達のもの[天のもの]をあなた達に与えようか。
16:13 しかし(この世のことはみな準備のためであるから、それに心を奪われてはならない。)いかなる僕も(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。」

●クリスチャンになりたてのワカイモンに告ぐ。牧師や長老からマタイ最後の次の言葉を根拠に「世界の果て」にまで伝道せよ、と踊らされてはいけない。「世界の果て」とは今自分が置かれているこの場所、この職業、この職場、この家庭、この教会、この集会が「世界の果て」なのだ。

塚本訳 マタ 28:19-20
28:19 それゆえに、行ってすべての国の人を(わたしの)弟子にせよ、父と子と聖霊の名で洗礼を授け、
28:20 わたしがあなた達に命じたことを皆守るように教えながら。安心せよ、世の終りまでいつもわたしがあなた達と一しょにいるのだから。」

●黒崎幸吉註解デジタル化プロジェクト。今日からルカの引照●妻は月本昭男先生の旧約講義。新宿●図書館CD、抜歯した隣の歯が痛いので山川歯科。

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

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誰が救われるのか ++++++++ 所感

2009/06/08 08:52

090608(月)5時起床●朝の啓示「誰が救われるのか」「救われる者は少ないか」「本人が一生懸命に求めなければならない」。●関連聖句が浮かんだので列挙する。●で感話を書く

塚本訳  ヨハ 3:8
3:8 風[プニューマ]は心のままに吹く。その音は聞えるが、どこから来てどこに行くか、あなたは知らない。霊[プニューマ]によって生れる者も皆、そのとおりである。」

●「こころのままに」とは何か。救いは神の側の絶対主権。人間の側で「これこれ」をすれば「律法を守れば」救われるというのではない。

塚本訳 ヨハ 14:22-23
14:22 イスカリオテでない方のユダが言う、「主よ、いったいどういうわけで、わたし達だけに御自分を現わし、この世(の人)にはそうしようとされないのですか。」
14:23 イエスは答えられた、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。するとわたしの父上はその人を愛され、わたし達は(父上もわたしも)、その人のところに行って、同居するであろう。

●「求めてこなければ答えない」ということか。これは救いだ。どんな人間でも「求めれば」救われるのだ。その可能性があるのだ。書類選考で落とされることはないのだ。

塚本訳ルカ 11:13
11:13 してみると、あなた達は悪い人間でありながらも、自分の子に善い物をやることを知っている。まして天の父上が、求める者に聖霊(という善いもの)を下さらないことがあるだろうか。」

●「悪い人間でありながらでも」というところが「救いだ」。救われるのは生まれる前から決まっているというカルヴァンの神学は冷たい。救いは神の絶対主権によるという意味では分かるが。「求める者」には神は考えを変える。われわれには僅かでも救いの道が残されている。神の決定を祈りで覆すことができる。イエスとカルヴァンは違う。

塚本訳 ルカ 13:24
13:24 「全力を尽くして(今すぐ)狭い戸口から入りなさい。あなた達に言う、(あとになって)入ろうとしても、入れない者が多いのだから。

●だから今すぐ一生懸命に求めよということだ。貯金をはたいて買えということだ。

塚本訳  マタ 13:44
13:44 天の国は畑に隠されていた宝に似ている。人がそれを見つけると、(またそこに)隠しておいて喜んで立ち去り、持っているものをみな売って、その畑を買うのである。

塚本訳 ルカ 18:22-23
18:22 イエスは聞いて言われた、「もう一つ欠けている。持っているものをことごとく売って、(その金を)貧乏な人に分けてやりなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」
18:23 彼はこれを聞き、しょげてしまった。非常な金持であったのである。

●本人が救いを求める気を起こさないときは救われないか。周囲の熱心な祈りで救われる。

塚本訳マコ 2:3-5
2:3 人々が一人の中風の者を、四人にかつがせてつれて来る。
2:4 群衆のためイエスのところにつれて行けないので、おいでになる所の(上の)屋根をはがして穴をあけ、中風の者を担架に寝かせたまま(イエスの前に)吊りおろす。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て(驚き)、中風の者に言われる、「子よ、いまあなたの罪は赦された。」

●4節、「イエスはその人たちの信仰を見て(驚き)、とあるから、これは周囲の祈りが聴かれるちうことである。

塚本訳  使  16:31
16:31 二人が言った、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われる。」

●なぜ「家族も」救われるのか。自動的にか、感化によるからか、違うかもしれない。きっと祈りが聴かれるからだと思う。

●うれしい情報に返メール。人生の喜び●「足利事件」で17年ぶりで釈放された男。「検察と警察は謝りに来い」と言っている。これはいけない。人には知られない「罪」で17年間、獄に入れられていたのだと思え。それを釈放されたのだから、関係者を赦すべきだ。第一に真犯人に代わって17年、牢屋にいたのだ。神の子イエスは人間という「真犯人」に代わって死んでくださったのだ。今回釈放された人がクリスチャンだったらどうだろう。「謝り来い」とは言えないだろう。●昨日の集会での感話「死の悲しみと復活の喜び」をHP使徒伝承にアップロード。毎度のことながら神経を使う。2-30分はかかる。

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

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惜しいと思わない人生 ++++++++ 所感

2009/06/07 06:05

090607(日)4時15分起床●朝の黙想「惜しいと思わない人生」。復活の福音、死の悲しみを突破できる使徒伝承、永遠の命の喜びが与えられる福音、この使徒伝承に残りの17年を使い果たせればこの人生惜しくはない。惜しいとは思わない。たとえその成果が目に見える形で得られなくても、
神に託されたことは言う。証しする。叫ぶ。

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秋留台公園運動場で陸上競技会。孤独なランナー

新改訳 使  20:24
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

塚本訳  使  21:13
21:13 その時パウロは答えた、「あなた達は泣いて、わたしの心をくじいて、どうしようというのか。わたしは主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることはもちろん、死ぬことさえも覚悟しているのだ。」

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妻と集会に行く。久しぶりに晴れたあきる野。

●1000集会は、宮崎、丹野(十字軍)、高橋(ヨハネ8:30-59 死の悲しみと復活の喜び)●14:00黒崎幸吉記念会。司会・小舘義彦(登戸学寮寮長)、挨拶・大島智夫(登戸学寮理事長)、奏楽・大島恵美(理事長夫人)。講演、第一席、奥田信夫(登戸学寮OB、愛農高校校長)。第二席、大山綱夫(「内村鑑三研究」編集委員)

●大島理事長と奥田氏から「WEB黒崎」のこと、大山氏からは黒崎註解に世話になったことが触れられた。●帰途はWEB黒崎入力協力者の小島拓人氏と懇談。

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WEB黒崎註解入力協力者、小島拓人氏(右)と。 今井館にて



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泣くな! 本当の命が与えられる ++++++++ 所感

2009/06/06 09:10

090606(土)4時半目覚め。●朝の黙想「泣くな!本当の命が与えられる」●冷水で洗顔して気合いを入れて「ブログ」を書く。つまらない批判はやめよう。枯れ木に栄養剤を注入するような行為はコスト対効果の問題として考えなければならない。残り時間は少ない。

●新約聖書の本質を現すのはヨハネ3:16であると言われてきた。

文語訳  ヨハ 3:16
3:16 それ神はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の生命を得んためなり。

●これよりもっと短く言え、となったら次か。

文語訳  黙 5:5
5:5 長老の一人われに言ふ『泣くな、視よ、ユダの族の獅子・ダビデの萌蘗、すでに勝を得て巻物とその七つの封印とを開き得るなり。

これはつまり

「泣くな! イエスは復活されたのだ」と短く言える。あるいは「その涙、私は知った」とも言える。

「女性が泣く時」

女性は「いのち」を失う時に泣く。女性は「いのち」の母なのだ。


塚本訳  マタ 2:18
2:18 『声がラマに聞えた、──(ラケルの)』はげしい『わめきと、なげきの声である。ラケルはその子らのために泣くばかりで、慰められようとしない、子らがもういないので。』

●女が子供を失った時は誰からも慰められようとしない。かって一人息子(私の親友)のS君を失った御母堂を御自宅にお伺いした。遺体のそばで私にとりすがられて号泣された。長い間背中をなぜたが止まらなかった。私はまだ温かみのあるS君に向かって言った「S君。起きな。時間だよ」。一緒に仕事をしていた時、よくこのように呼びかけたものだ。御母堂はその晩電話がかかってきても首を左右に振って出ようとされなかった。そのときこの句を思い出した。 S君の夫人は偉かった。S君亡きあと長いこと御母堂の面倒を見られた。その御母堂も一昨年逝かれた。人生は短い。


塚本訳  ルカ 7:12-14
7:12 町の門の近くに来られると、ちょうど、ある独り息子が死んで、(棺が)舁き出されるところであった。母は寡婦であった。町の人が大勢その母に付添っていた。
7:13 主は母を見て不憫に思い、「そんなに泣くでない」と言って、
7:14 近寄って棺に手をかけ──担いでいる者は立ち止まった──「若者よ、あなたに言う、起きよ!」と言われた。

●「そんなに泣くでない」という塚本訳は心に沁みる。イエスはなぜ「泣くでない」と言えたのか、「よみがえらせる」実力があったからだ。しかし我々にはその能力はない。しかいそのイエス自身が十字架の贖いの業を遂げて今も永遠にここに生きておらおられる。それが慰めだ。

塚本訳 ヨハ 11:32-34
11:32 マリヤはイエスのおられる所に来ると、イエスを見るなり、足もとにひれ伏して言った、「主よ、あなたがここにいてくださったら、わたしの・・わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 イエスはマリヤが泣き、一しょに来たユダヤ人たちも泣くのを見ると、(その不信仰を)心に憤り、かつ興奮して、
11:34 (マルタとマリヤに)言われた、「どこにラザロを納めたか。」二人が言う、「主よ、来て、御覧ください。」

●これはラザロの死による兄弟の涙。イエスは「女の涙」に弱かった。このときもラザロをよみがえらせる奇跡をおこなった。 塚本訳「私の・・私の」の「・・・」はしゃくりあげている様子である。

口語訳 マタ 9:23-25
9:23 それからイエスは司の家に着き、笛吹きどもや騒いでいる群衆を見て言われた。
9:24 「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。
9:25 しかし、群衆を外へ出したのち、イエスは内へはいって、少女の手をお取りになると、少女は起きあがった。

●かって大切なお嬢様を亡くされた御母堂に「少女は死んだのではない。眠っているだけである」というこの句を書いてお慰めした。すると大変慰められたというお手紙を頂いた。死は眠りだ。神の子イエスがそう言われるのだ間違いない。確かめるわけにはいかないから信ずるのみだ。

文語訳  ルカ 23:28
23:28 イエス振反りて女たちに言ひ給ふ『エルサレムの娘よ、わが爲に泣くな、ただ己がため、己が子のために泣け。

●男どもにいたぶられているイエスの姿を見て泣いたのは「女性」である。しかしその女性たちに向かって「我が為に泣くな」と言ったとは、神の子イエスにでなければできないことだ。 神はこのイエスをよみがえらせて「勝利」したのだ。

「男が泣く時」

「女性が泣く時」に比べて「男が泣く時」はすこし質が違う。それは人生失敗の涙、罪の悔いの涙。だからあえて「男性が泣く時」と言わずに「男が泣く時」と書く。

塚本訳 ルカ 15:16-17
15:16 彼はせめて豚の食う蝗豆で腹をふくらしたいと思ったが、(それすら)呉れようとする人はなかった。
15:17 ここで(はじめて)本心に立ち返って言った。──お父さんのところでは、あんなに大勢の雇人に食べ物があり余っているのに、(息子の)このわたしは、ここで飢え死にしようとしている。……

●男の失敗の涙。17節最後の塚本訳には「・・・・」がある。ギリシャ語の原本にはないから塚本虎二の思い入れ。「・・・・」は泣いている姿だ。この男「金で失敗(ルカ15:14)」「きたない女で失敗(ルカ15:30)」。人生ズタズタである。しかし人ごとではない。私の親戚にいる。よくある話だ。嫌ってはいけない。福音はこういう人が目的である。

塚本訳 ルカ 22:60-62
22:60 しかしペテロは言った、「君、あなたの言っていることはわからない。」するとたちまち、まだその言葉の終らぬうちに、鶏が鳴いた。
22:61 主が振り向いて、じっとペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう(今夜)、鶏が鳴く前に、わたしを三度、知らないと言う」と言われた主の言葉を思い出し、
22:62 外に出ていって、さめざめと泣いた。

●人生には「保身」のために「おれは関係ない」と裏切ることがある。塚本訳の「じっとペテロを見つめられた」の「じっと」と「さめざめ泣いた」は名訳。「じっと見つめた」イエスの目はきっと「赦しの目」だったのだ。怒りの目ではなかったのだ。だからペテロは「さめざめと泣いた」のだ。

塚本訳  ヨハ 13:30
13:30 ユダはパンを食べると、すぐ出て行った。夜であった。──(そとは丸い月がかがやいていたが、ユダの心は真暗であった。)

●括弧内の塚本敷衍は「夜であった」からの文学的読み込み。いささか勇み足だが気持はよくわかる。良心の痛みなのだ。心で泣いたのだ。

塚本訳 マタ 27:3-5
27:3 その時イエスを売ったユダは、イエスの判決が決まったのを見て後悔し、(受け取ったシケル)銀貨三十枚を大祭司連、長老たちに返して、
27:4 「罪もない(人の)血を売って、悪いことをした」と言った。彼らが答えた、「われわれの知ったことではない。お前が自分で始末しろ!」
27:5 ユダは銀貨を宮に投げ込んで去り、行って首をくくった。

●ユダは「後悔」したとあるから泣いたに違いない。これで神に赦されたのだ。しかし首をくくった。このことをイエスが知ったかどうかは聖書には書いてない。おそらく捕らえられていたのでその情報は耳に入らなかったであろう。もし知ったとしたら泣いて言うにちがいない「私はお前を赦していたのに。ユダの馬鹿、馬鹿、馬鹿!」と。

塚本訳  使  22:4
22:4 わたしはこの(キリストの)道を迫害し、男女の別なく(信者を)しばって牢に入れ、殺すことをも辞さなかったのであります。

●ロマ書などにあるパウロの深い罪責観は、頭だけのきれいごとではなかった。具体的な「殺人行為」であった。だから自分に復活のイエスが現れてくださり罪が赦されたことを知ったときキリストの愛を知った。パウロは「泣いた」とは聖書のどこにも書いてないが、パウロ書簡全体がイエスへの感謝の涙である。十字架の贖罪の信仰は殺人鬼パウロにして初めてその深い意味がわかったのだ。

塚本訳ルカ 23:41-43
23:41 おれ達は自分でしたことの報いを受けるのだから当り前だが、このお方は何一つ、道にはずれたことをなさらなかったのだ。」
23:42 それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください。
23:43 「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽にはいることができる。」

●この強盗、人生の土壇場で悔いた。おそらく涙と鼻水でぐしゃぐしゃであったろう。しかし十字架に縛られていたのでそれを拭うことはできなかった。拭おうとする人もいなかったのだろう。親兄弟もだれもいなかったに違いない。大失敗の人生。その涙。けれどもイエスは彼を受け入れた。そして人類で一番早くパラダイスに入ったのは実にこの人生の失敗者、敗残者であった。

塚本訳  ルカ 19:41
19:41 いよいよ(エルサレムが)近くなって(はじめて)都が見えると、イエスは都(に臨もうとしている裁き)を思い、声をあげて泣きだされた。

●イエスも泣かれた。しかし前述ルカ23:38と同じく、自分のためではなく相手を思っての涙であった。尊い涙。神の子の涙。

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秋留台公園運動場で陸上競技会。パウロを思った。

新改訳 使  20:24
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

新改訳 Ⅰコリ9:26
9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

新改訳 Ⅰコリ9:27
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。


新改訳 ピリ 3:14
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

塚本訳 ヘブ 12:1
12:1 それゆえ、わたし達も、こんなに雲のような(大勢の)証人に囲まれているのであるから、(信仰の障害となる)すべての煩わしさと、すぐにからみつく罪とをぬぎすてて、わたし達の前に置かれている競走を、忍耐をもって走ろうではないか。





















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本当の命とは ++++++++ 所感

2009/06/05 09:25

090605(金)4時半起床●夜半、2-3度目が覚めて聖句を書きとめる。季刊「無教会」も「ほんとうの命とは」の素案

塚本訳マタ 7:14
7:14 命にいたる門はなんと狭く、道は細く、それを見つける者の少ないことであろう!


塚本訳ヨハ 14:6
14:6 イエスは言われる、「わたしが道である。また真理であり、命である。(手段であると同時に目的であるから。)わたしを通らずには、だれも父上の所に行くことはできない。


塚本訳 エペ 2:14
2:14 何故なら、彼(キリスト)が私達の』平和』であって、(今まで離反していたイスラエルと異教人の)両者を一つにし、(その仲を割いていた)仕切りの籬なる敵意を取り除け給うたからである。すなわちその肉で、

口語訳 創  6:2-3
6:2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。
6:3 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。

塚本訳Ⅰコリ15:55
15:55 『死よ、どこに、お前の勝利は。死よ、どこに、お前の剣は』。

●9:30 池谷医院、定期健診、それから7日感話の準備

●16:00 山川歯科

●「本当の命とは」朝の追加

塚本訳 マタ 10:39
10:39 (十字架を避けてこの世の)命を得る者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を得るであろう。


 塚本訳 マタ 16:25
16:25 (十字架を避けてこの世の)命を救おうと思う者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を得るのだから。


 塚本訳マタ 16:26
16:26 たとい全世界をもうけても、命を損するならば、その人は何を得するのだろう。それとも、人は(一度失った永遠の)命を受けもどす代価として、何か(神に)渡すことができるのだろうか。


塚本訳マタ 18:8-9
18:8 (だから)もし手か足があなたを罪にいざなうなら、切り取って捨てよ。両手両足があって永遠の火の中に投げ込まれるよりも、片手片足で(永遠の)命に入る方が仕合わせである。
18:9 もしまた目があなたを罪にいざなうなら、くじり出して捨てよ。両目があって火の地獄に投げ込まれるよりも、片目で(永遠の)命に入る方が仕合わせである。


塚本訳マタ 19:16
19:16 するとそこに、ひとりの人がイエスの所に来て言った、「先生、永遠の命を得るには、どんなよいことをすればよいでしょうか。」


塚本訳マタ 19:29
19:29 そしてわたしのために家や兄弟や姉妹や父や母や畑をすてた者は一人のこらず、(この世で)その幾倍を受け、また(来るべき世では)永遠の命をいただくのである

 

 

 

 

 

 

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尾瀬を歩く ++++++++ 所感

2009/06/04 06:34

090604(木)4時半起床●今日は尾瀬へのバス小旅行●大島智夫先生の「伝道私信」2009.6月号の巻頭言はアーメンである。次のことを信じるかどうかがクリスチャンの信仰の「リトマス試験紙」だという。

塚本訳  コロ 1:14-17
1:14 私達は彼において贖罪すなわち罪の赦しを持っているのである。
1:15 (まことに)彼は見えざる神の御像、凡て創造られた物の(前に生まれた)長子であり給う。
1:16 万物は彼において創造られたからである。(然り、)天上のものも地上のものも、見ゆるものも見えぬものも、また(あらゆる天使達、すなわち)「王座」も「支配者」も「権威」も「権力」も、万物ことごとく彼によって、また彼のために創造られた。
1:17 そして彼は万物より先にあり給う。且つ万物は彼によって存在する。

●そしてその関連聖句として次を上げておられる。これは実に新約聖書全編を貫く根幹中の根幹である。

塚本訳ヨハ 1:1-4
1:1 (世の)始めに、(すでに)言葉はおられた。言葉は神とともにおられた。言葉は神であった。
1:2 この方は(世の)始めに神とともにおられた。
1:3 一切のものはこの方によって出来た。出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの一つもない。
1:4 この方は命をもち、この命が人の光であった。

塚本訳ピリ 2:6-8
2:6 彼は(先には)神の姿であり給うたが、神と等しくあることを棄て難いことと思わず、
2:7 かえって自分を空しうして人と同じ形になり、奴隷の姿を取り給うたのである。そして人の様で現れた彼は、
2:8 自ら謙り、死に至るまで、(然り、)十字架の死に至るまで(父なる神に)従順であり給うた。

新改訳 Ⅰテモ3:16
3:16 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

口語訳 黙  1:5
1:5 また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、

●そして最後に次のようにまとめておられる。アーメンアーメンである。

「我らの救い主、主イエス・キリストが三位一体の子なる神として父なる神とともに宇宙創造に関与され、万物を支配される方であり続けた事を固く信じて疑いません」

●私(高橋)が「イエスの墓が空になったことは史実」「復活は霊の体の有体的復活」ということを言っても頭に入らない人(クリスチャンと称する社会派、遊び人、教会成長主義者、人権主義者、地上の平和第一主義者、)はクリスチャンなのかなーと感じるのと同じである。これ私のリトマス試験紙である。しかしこの三位一体は霊で分かるものであって大脳皮質ではわからないことなのだ。我が国のキリスト教の盛衰はここにかかっている。

●7:20クラブツーリズムの日帰りバス旅行。 秋川駅出発。関越で3時間半で尾瀬につくとは驚き。高速道路のありがたさ。

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日光国立公園から2007年に分離独立して「尾瀬国立公園」となる。ハイキングはここ鳩待峠(標高1591m)から出発。

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「山ノ鼻」までの1時間を石段と木道を歩く。妻の後姿。

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木道の両側に水芭蕉が群生

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水芭蕉を接写。水芭蕉の美しさはその「白」にある。

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水芭蕉の群生。生物は群れるところにその美しさがある。

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「山ノ鼻(標高1400m)」に到着。昼食。これからいよいよ尾瀬ケ原の本格的な湿原に入る

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尾瀬ケ原の広大な湿原。後方は至仏(しぶつ)山(2228m)。残雪の右端は「暴れ馬」だそうだ。

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尾瀬ケ原を歩く。遠方は燧(ひうち)ケ岳(2346m)。僅かの時間晴れた。

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水芭蕉の大群生。見事な美しさであった。蛙が鳴いていた。ここに棲む蛙はシアワセだなーと思う。

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白根葵(しらねあおい)の花。妻が好きだという。尾瀬の植物は900種類あるという。

●19:00 帰宅。曇りの予想が晴れ間も出て天気に恵まれたよいハイキングであった。尾瀬に日帰りで行けるとは思えなかった。神の造り給える自然の美しさに触れることが出来て感謝。●尾瀬は日本最大の高層湿原。この約半分は㈱東京電力の所有。木道の補修に毎年一億円投資。維持管理費は持ち出しだと聞いた。企業がよい働きをしている例。企業は全部「悪」ではない。

 

 

 

 


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復活の喜び ++++++++ 所感

2009/06/03 07:46

090603(水)4時半起床●朝の黙示「復活の喜び」●メール2通●6:30公園でラジオ体操

「イエスの復活に出会った人に共通のことは喜び」

塚本訳 ルカ 24:38-41
24:38 彼らに言われた、「なにをうろたえるのか。なぜ心に疑いを起すのか。
24:39 わたしの手と足とを見てごらん。だれでもない、わたしだよ!さわってごらん、幽霊には肉も骨もないが、わたしには、それがあるのがわかるから。」
24:40 [無シ]
24:41 喜びのあまり、彼らがまだ信じられずに怪しんでいると、「ここに何か食べるものがあるか」と言われた。

 塚本訳 ヨハ 16:21-22
16:21 女が子を産む時には、女の(宿命の)時が到来したので悲しみがあるけれども、子が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはや(お産の)苦しみを覚えていない。
16:22 だから、(同じく)あなた達にも今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなた達に会うのだから、(その時)あなた達の心は喜ぶであろう。そしてあなた達からその喜びを奪う者はだれもない。

add 2 ヨハ 20:1-2
20:1 (翌々日、すなわち)週の初めの日(日曜日)の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に来てみると、墓(の入口)から石がのけてあった。
20:2 そこでシモン・ペテロと、イエスが可愛がっておられたもう一人の弟子との所に走って行って言う、「主を墓から取っていった者があります。どこに置いたのかわかりません。」

 塚本訳 マタ 28:8-10
28:8 女たちは恐ろしいが、また嬉しくてたまらず、(中には入らずに)急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった。
28:9 するとイエスがぱったり彼らに出合って、「お早う」と言われた。女たちは進み寄り、その足を抱いておがんだ。
28:10 するとイエスは女たちに言われる、「恐れることはない。行ってわたしの兄弟たち[弟子たち]に、ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのだから。」

塚本訳 ヨハ 20:19-20
20:19 その日すなわち週の初めの日の晩であった。ユダヤ人を恐れて、弟子たちのおる部屋の戸には(皆)鍵がかけてあったのに、イエスが(どこからともなく)はいって来て(彼らの)真中に進み出て、「平安あれ」と言われた。
20:20 そしてそう言いながら、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

「復活の喜びは何に例えられるか」

●待ち望んでいた人に出会える瞬間

ベルリンフィルハーモニーが来日して、指揮者カラヤンが登場した時の瞬間。日比谷公会堂。

●木造建築の棟上げの日。

頭で考えていたことが、目の前に物理的に見え出す瞬間。ドキドキする。私が有体的復活を強調するのは建築士の職業と関係があるとはTK氏の指摘。イエスも復活の体を建物だと言っている(ヨハネ2:20-21)。英訳聖書で復活のことは「起こす」。復活は神が起こすこと。建築用語で柱梁を組み立てる「建て方」のことをエレクションという

●播いた種が芽になってでてくる不思議を見るとき。

内村鑑三は復活は神学者よりも農業者の方が容易に信じられるという。なぜか。毎日復活を目の当たりに見ているからだ。

●子や孫が生まれるとき。

軽はずみなことで妊娠してしまった女性も胎児を10か月育てているうちに生命の神秘に厳粛になり、人生を真面目に生きようと反省するようになるという。(これ富永國比古会長キリスト教性教育研究会にて聞く)。男の方は稼がなきゃいけないと思って汗をかいて重労働する。すると思想も健全になるであろう。「汗は血の薬」(ヒルティ)。神は人間の軽はずみな行為も赦して、その結果を利用して人を救いに導くものだ。私の家を建てた大工さんに聞いた話。「暴走族であった若者が弟子入りに来る事がある。『そいつに女ができて子供でもできっと、モーレツに働くようになる。元暴走族だっただけあってその真剣さは半端ではない」。これでいいんだ。これでいいんだ。子供の誕生は神の赦し、神の祝福なのだ。

●退院の日

脳内出血で一か月入院して退院した日。大好きな入道雲が出ていた夏の日。アー生きられるということは何と素晴らしいことかと喜んだ。人の命は100%(99%ではない)神が握っておられることを病気で知った。大なる収穫であった。看護婦に聞いた。「弱って入ってきた人が元気になって退院する姿を見ることが喜びなのです」と。

●「胸が熱くなるとき」

イエスの墓が空になったことをまともに信じている人の本を読んでいた時に急に胸が熱くなった。それは使徒伝承を担った人であった。復活伝承の連鎖であった。

●この地上のことですらこのささやかな喜びがあるのだから、終末の日に「神の子イエス」と出会えるということはどんなにか大きな喜びであろうか。

 塚本訳 Ⅰペテ1:8
1:8 君達は彼を(目のあたり)見たことはないが、(これを)愛し、今も見ることは出来ないが、(これを)信じて、(既にかの日の)輝きに満ちた、言語に絶する喜悦を喜んでいる。

●妻は夫人の聖書勉強会で千駄ヶ谷まで。●14:30山川歯科、抜歯のあといの消毒。痛みが取れた。●明日の尾瀬小旅行の準備

使徒伝承 「黒崎幸吉著 注解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/ 

 

 

 

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ヘンテコリンな奴 ++++++++ 所感

2009/06/02 06:26

090601(火)5時半起床●朝の黙想「アブラハムが生まれる前からわたしはいたのだ」。

塚本訳 ヨハ 8:58-59
8:58 イエスは言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、アブラハムが生まれる前から、わたしはいたのだ。」
8:59 すると彼らは、(自分を神と同じにすると言って、)石を取ってイエスに投げつけようとしたが、イエスは身を隠して、宮から出てゆかれた。

●終戦直後に「自分こそ正統の皇位継承者だ」と名乗る熊沢という男が現れた。それを世間は「熊沢天皇」と言った。イエスが「自分はアブラハムが生まれる前からいたのだ」と言った時ユダヤ人から殺されそうになったのは当然である。いわば「熊沢天皇」のような発言だったからである。●ローマ人は皇帝を「主」とあがめていた。これに対してクリスチャンたちは「イエスが主」と言っていたのであるから迫害されたのは当然である。

塚本訳  ガラ 4:29
4:29 しかしその時、肉によって生まれた者(イシマエル)が御霊によって生まれた者(イサク)を迫害したように、今も同じである。(地上のエルサレムの子らが天のエルサレムの子らを迫害する。)

●イエスは今も生きておられると信じているクリスチャンは「熊沢天皇」を信じているようなものだから「おかしなヤツ」と思われるのは当然である。●なぜそのようなヘンテコリンなことを信じられるか。それは「御霊」の働きである。●クリスチャンは万事この世から「評判がよく」なければならないが(使徒10:22、16:2, 22:12)、その信じている内容はこの世の人には全く理解できないヘンテコリンなことである。

塚本訳 Ⅰコリ2:14
2:14 しかし(御霊を持たない)生まれながらの人間は、神の霊から出てくることを受け入れない。彼にはそれが馬鹿なことなのである。またそれを理解することも出来ない。(霊のことは)霊的に判断されねばならないからである。

●かって私たち夫婦は親戚筋の者から「あの二人は変な奴」だとあろうことか私たちのいない時に「実家」で言われた。「変」で結構。クリスチャンは「変な奴だ」と言われるまでは本物ではない。もっとも言われても仕方がないようなこの世的な配慮に欠けたことがあったかららしい。自戒。そこまで言われなくても「あの人は変わっている人だ」と言われるようになったら本物になった証拠。喜ばなくてはいけない。聖書的には次である。

塚本訳 ヤコ 1:2-3
1:2 わが兄弟達よ、種々な試練に遭った時には、(それを)無上の喜びと思え。
1:3 信仰の試験に及第することが忍耐を生み出すことを、君達は知っているのだから。

塚本訳 使  5:40-41
5:40 使徒たちを呼びいれて(鞭で)打ち、(今後決して)イエスの名を使って話をしてはならないと命令して、釈放した。
5:41 さて、彼らは御名のために恥を受けるに足る者とされたことを喜びながら、法院から出ていった。

塚本訳  マタ 5:11
5:11 わたしゆえに罵られたり、迫害されたり、あらん限りの根も葉もない悪口を言われたりする時、あなた達は幸いである。

●クリスチャンは信じている内容はヘンテコリンなことだが、外面は人間的にも社会的にも「評判」がよくなければならない。●ヘンテコリンんなことを信じているからこの世的なこと(それは小事)に一生懸命になれるのだ。この世の人はその秘儀を知らない。●音楽、建築、皆同じ、この内面の秘儀なしによい音楽もよい建築も生まれない。演奏できない。建築できない。●信者でもない二期会合唱団の歌う讃美歌は聴けない。蝋細工のようで命がない。喉で歌っている。「違いが分かる」。●終日「黒崎プロジェクト」●14:30 右下奥歯抜歯。抜いた歯を見せてもらったが根が深く、地上の3倍も遭ったのにびっくり。●福島の三男の恵から田植えの写真。二人の子供たちも手伝っている。植物、生育、食の実物教育は恵まれている。

 

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死の悲しみと復活の希望.。その喜び ++++++++ 所感

2009/06/01 06:20

平均余命17年(生命保険会社統計)、6200日、15万時間。この時間をすべてキリスト教の使徒伝承の連鎖に捧げる。死の悲しみを克服する「復活の希望の喜び」の伝承。自分のため、人のため。

090601(月)4時半起床●朝の黙想「死の悲しみと復活の希望」●昨日、某氏から塚本虎二訳新約聖書CDの要望があったので早速コピー、送付準備をした。よい翻訳を探していたという。神は思わぬ時に思わぬ人を「起こす」。感謝。その来信メールは貴重なので一部を公開する。一部改変。文中「顧問」とあるのは旧職場の私の役職

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(前文省略)

最近、聖書を信じるという以前に、物語としてよむ習慣ができてきました。

ただ、田川建三さんの影響もあり、なかなか良い訳がみつかりませんでした。

その時、顧問の塚本虎二訳新約聖書(私家版)をみて、これならば田川さんの本を読みながらでも、納得できる良い訳なのではと思うようになりました。

そこでお願い事なのですが、

(以下省略)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●新約聖書の塚本虎二訳をHPに公開したのが10年前。今日、素人の方から「よい訳」だと認識された応答があったのは感謝で深い喜びである。HPは無駄ではなかった。HPの効果あり。次の聖句を思う。

塚本訳  Ⅰコリ15:58
15:58 だから、わたしの愛する兄弟たちよ、しっかりしておれ、動かずにおれ、いつも主の仕事にぬきんでよ。骨折りが主にあってむだにならないことを、あなた達は知っているのだから。


口語訳 伝  11:1
11:1 あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。


口語訳 詩  126:5-6
126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

「死の悲しみと復活の希望。その喜び」

●死の悲しみは、現在とても楽しいことをしている時や今日一日が楽しかったときの後に来るものだ。「死んでしまったら今のような、今日のような楽しみ喜びは味わえないのか」。そう思うところに死の悲しみが襲ってくる。●有限なる人間の宿命としての死の悲しみ。「人生の残酷さ」で最大のものである。神は人間にそんな「残酷な」ことをなぜ与えるか。

NO!。そこに「復活の希望の喜び」を与えられた。これなくして人生はつまらない、淋しい、残酷である。●ではその「復活の希望の喜び」はどうしたら得られるのか。永遠の命の喜びは生きているうちにどうしたら得られるのか。答えは簡単、本人が「一生懸命」になって求めれば必ず与えられる。その聖書的根拠は次の通り。

塚本訳 マタ 7:7-11
7:7 (ほしいものはなんでも天の父上に)求めよ、きっと与えられる。さがせ、きっと見つかる。戸をたたけ、きっとあけていただける。
7:8 だれであろうと、求める者は受け、さがす者は見つけ、戸をたたく者はあけていただけるのだから。
7:9 あなた達のうちには、自分の子がパンを求めるのに、石をやる者がだれかあるだろうか。
7:10 また魚を求めるのに、蛇をやる者があるだろうか。
7:11 してみると、あなた達は悪い人間でありながらも、自分の子に善い物をやることを知っている。ましてあなた達の天の父上が、求める者に善い物を下さらないことがあるだろうか。

塚本訳  ルカ 11:10-13
11:10 だれであろうと、求める者は受け、さがす者は見つけ、戸をたたく者はあけていただけるのだから。
11:11 あなた達のうちのどんなお父さんでも、子が魚を求めるのに、魚の代りに蛇をやるだろうか。
11:12 また卵を求めるのに、蝎をやるだろうか。
11:13 してみると、あなた達は悪い人間でありながらも、自分の子に善い物をやることを知っている。まして天の父上が、求める者に聖霊(という善いもの)を下さらないことがあるだろうか。」

塚本訳 ルカ 13:24
13:24 「全力を尽くして(今すぐ)狭い戸口から入りなさい。あなた達に言う、(あとになって)入ろうとしても、入れない者が多いのだから。

塚本訳 マタ 19:16-22
19:16 するとそこに、ひとりの人がイエスの所に来て言った、「先生、永遠の命を得るには、どんなよいことをすればよいでしょうか。」
19:17 イエスは言われた、「なぜ善いことについってわたしに尋ねるのか。善いお方はただ一人(神)である。(永遠の)命に入りたければ、(神の)掟を守りなさい。」
19:18 「どの掟を」と彼が言う。イエスはこたえられた、「『殺してはならない、姦淫をしてはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてはならない、
19:19 父と母とを敬え、』また『隣の人を自分のように愛せよ。』」
19:20 青年が言う、「それならみんな守っております。まだ何か足りないでしょうか。」
19:21 イエスは言われた、「完全になりたければ、家に帰って持ち物を売って、(その金を)貧乏な人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しそうにして立ち去った。大資産家であったのである。

塚本訳マタ 13:44
13:44 天の国は畑に隠されていた宝に似ている。人がそれを見つけると、(またそこに)隠しておいて喜んで立ち去り、持っているものをみな売って、その畑を買うのである。

●たとえ本人が「一生懸命にならなくても」・・それはこの私を嫌いに思って、救いを求めなかった場合でも。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、私に躓いて救いを求めなかった場合でも、・・・・周囲の祈りで救われる例が福音書には多数ある。その記事があることは救いだ。

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都立秋留台公園にある良い設計の門。門の向こうに木がある。

「狭き門より入れ」「私が羊への門である」

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庭の露。植物は水分をたっぷり含んで夏の日照りに備える。

●コンビニで「黒崎註解デジタル化プロジェクト」の資料拡大コピー。ルカ。●図書館で4日に日帰りバス旅行で初めて行く「尾瀬」の本を4冊借りる。CD4枚借りる。●次回感話の準備「死の悲しみと復活の希望」

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奥多摩連山に夕日。

 

讃美歌535番「今日をも送りぬ。主につかえて」

1. きょう を も おくりぬ, しゅ に つかえて,

   よ の ひかげ うつれど も,

   あまつ いのち ひ に ひ に

   ちかく ぞ ある

 (Refrain)

   みむね かしこみ

   いそしめる み に,

   いこい を つぐる

   あした の かね.

2. きょ うを も おくりぬ, しゅ に つかえて,

   みめぐみ を よ に つたえ,

   みな の さかえ かたる は

   たのしき かな.

3. いか に さち なる わが つとめ や.

   なやみ に も のぞみ あり,

   しゅ よ, みむね に かなわば,

   あす も つくさん.

●この詩は素晴らしい。来世での復活を望む人の今日一日の感謝の祈り。特に最後の「主よ、みむねにかなわば、あすもつくさん」は人生を神に任せきった平安な人生観だ。

 

 

 

 

 

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