to 日記と感想 2009年08月
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将来日記

    将来日記

    XXXXXXXXXXX    終末、復活、永遠の生命、再会(父、母、妻、
              子供、親戚、友人、集会の方々)
              復活と再会の確信はイエスの有体的復活の事実
    291103       結婚60年記念、ダイヤモンド婚
    261016       イカ成人
    251009       コフ成人
    250809       タワ成人
    241103       結婚55年記念。エメラルド婚
    230110       イハ20歳成人
    230713       タテ満80歳
    220728       KM成人
    200713       タテ誕生日満77歳喜寿
    191103       結婚50年記念。金婚
    18秋ごろ 木曜日 阿伎留病院森先生に胃カメラ申し込み
    180422(日)   杉並公会堂・武蔵野室内合奏団「英雄」
    171229    TM誕生日
    180224   14:30 トミ子、モーチァルト{レクイエム) 171220     KK誕生日
    171225(月)10:45 聖路加診察脳神経外科桑本医師
    171218(月)10:30 聖路加MRI
    171203(日)14:00 無教会浦和集会、助川光子講演
    171126(日)  兄光男、弟靖男と三人会。於・日本橋
    171119(日)15:00 秋川キリスト教会、後藤牧人講演会
    171115    TM誕生日
    171107(月) TI手術、聖路加 171105(日) 照男・トミ子集会感話、トミ子午後郡山にSS見舞い
    171103(金)13:00南原繁研究会学士会館
    171030(月)10:00 聖路加 桑本先生


民主党でも幸福にはなれない ++++++++ 所感

2009/08/31 05:23

090831(月)4時35分目覚め●朝の瞑想。「有体的復活信者」「民主党でも幸福にはなれない」「一番悲しいことは人格を否定されること」「つぐないの生涯」●これらは「話せば長くなる」のであとまわしにする。まず「WEB黒崎」の仕事にとりかかる。シドニー+福島+東京でネット連絡

【有体的復活信者】

過日久しぶりに会ったTK氏からメールを頂いた。「『有体的復活信者』に出あうと力が出ます」と。「有体的復活信者」とは私のことである。こう言われて光栄の限りである。同じキリスト信者であっても「有体的復活信者」との交わりは喜悦である。イマドキ有体的復活を信じていない牧師がいるから困るのだ。人生の最高の喜びは信者同士の「霊の交わりである」。なぜかそれは命の交わりだから。この世の肉の縁は時間とともに薄れゆく。疎遠になる。「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」というが兄弟は親がいなくなるとほとんど疎遠になるからこれまた「一世」だ。ところが「主にある交わり」は三世どころか、永世である。なぜか。永遠の生命を持つ間柄だから。

塚本訳 Ⅰヨハ1:3-4
1:3 わたし達が見たもの、また聞いたものを、あなた達にも告げる。あなた達もわたし達と(霊の)交わりを持つためである。しかしわたし達のこの交わりは、(他方においては)父(なる神)とその子イエス・キリストとの交わりである。
1:4 わたし達が(この手紙を)書くのは、(あなた達がわたし達との交わりに入り、)わたし達(が父と子と)の(交わりにおいてもっている)喜びが、完全なものとなるためである。

塚本訳 マタ 16:18
16:18 それでわたしもあなたに言おう。──あなたはペテロ[岩]、わたしはこの岩の上に、わたしの集会を建てる。黄泉の門[死の力]もこれに勝つことはできない。

塚本訳 ロマ 8:35
8:35 (このゆえに)だれがキリストの(わたし達を愛する)愛から、わたし達を引き離すことができるか。苦しみか、悩みか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。

【民主党でも幸福にはなれない】

民主党が過半数で圧勝。政権の交代になる。しかしこれで真の幸福はこない。どの政党のマニフェストもこの世の幸福。肉の喜びの充足。医療、子育て、教育、年金、・・・・・・しかしそれらがもし完全に充足で来たとしても「罪の赦しによる永遠の命」の神との交わりの幸福には及ばない。この世のこと(それは小事)も大切だがその充足だけでは真の幸福は得られない。

文語訳 マタ 16:26
16:26 人、全世界を贏くとも、己が生命を損せば、何の益あらん、又その生命の代に何を與へんや。


塚本訳 マタ 16:26
16:26 たとい全世界をもうけても、命を損するならば、その人は何を得するのだろう。それとも、人は(一度失った永遠の)命を受けもどす代価として、何か(神に)渡すことができるのだろうか。

【一番悲しいことは人格を否定されること】

人生で最も悲しいことは、この世的の不足ではない。健康の不足、学歴の不足、社会的地位の不足、家庭の不足、結婚の不足、子供の不足、経済の不足、寿命の不足、・・・不足、不足、不足、・・・・不満、不満、不満。しかしこれらのほとんどは人間の努力で回復できるものばかり。政権交替で補われるものもあるかもしれない。しかし人間の努力ではどうしよもなくて悲しいこと。それは「人格が否定されること」、「あいつは罪人だと嫌われること」「生まれや育ちが悪くて毛並みがよくないこと」「親の夫婦仲が悪くて家庭環境が暗い時」「毛並みの悪さで女性(男性)に振られるとき」「過去に傷を負ってしまったこと。取り返しのつかないことをしてしまったこと」「離婚してしまったとき」「神も仏も信じられないこと」「律法(道徳)を守れない自分を知ること」「自分がダメな人間であることを知ったとき」「悔いても悔いても赦された感じがしない時」・・・・・この深い宗教的な悲しみを救うのは誰か。罪人を救うキリスト。有体的復活のキリスト。今も生きて働くキリスト。キリストの霊の実在は一切の罪から清められる。

塚本訳 マタ 21:31
21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう。

塚本訳  マタ 9:13
9:13 『わたしは憐れみを好み、犠牲を好まない』という(神の言葉の)意味を、行って、勉強したがよかろう。わたしは正しい人を招きに来たのではない、罪人を招きに来たのである。」

【つぐないの生涯】

某牧師の記録。思わざる人を殺してしまい、死刑囚になった人。その牧師の導きで服役中に回心してキリストの十字架で救われた。死刑執行の日、牧師と看守たちに言った「長々お世話になりました。私はこれから父の身許にまいります。皆さま、これがお別れです。最後に一言祈らせてください。」。そして深く長い祈りをして立派な死に方をしたという。立会の親類縁者はなく、見送ったのは牧師一人であったという。人間は誰も最後は死刑が執行される身である。私の場合は順調ならばあと16年後。刻一刻とその日が近づく。そして「皆さまお別れです。私はこれから父の御許に参ります。長々お世話になりました」という日が必ず来るのだ。死は罪を清める。他人に犯した罪は何をもってしても、いかなる善行でもつぐなうことができない。死のみが罪をつぐなうことができる。死刑囚が心安らかに逝けたのは、罪なきイエスキリストが彼の代わりに贖罪の死を遂げてくださったことを知ったからだ。霊の実在、霊の示しでそれを実感したからだ。キリストは贖罪の死を遂げるためにこの世に来られたのだ。わたしは残る生涯、このような一人の囚人を見送る人になりたい。多くの人を見送る存在でなくてよい。一人でもよいのだ。有体的復活の希望を伝えられればよいのだ。それが私の「つぐないの生涯」だ。神よそのような身になさしめてください。

口語訳 ロマ
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

新改訳 ロマ 6:23
6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

塚本訳 ヨハ 3:16
3:16 そのゆえは、神はその独り子を賜わったほどにこの世を愛されたのである。これはその独り子を信ずる者が一人も滅びず、永遠の命を持つことができるためである。


塚本訳ガラ 1:4
1:4 キリストはわたし達の父なる神の御心にしたがい、わたし達を悪い現在の世から救いだそうとして、わたし達の罪のために自分を与え(て十字架につけ)られたのである。

 

 


 

 

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宝を地上に積むな ++++++++ 所感

2009/08/30 05:38

090830(日)4時半起床●朝の啓示「宝を地上に積むな」「集客でなく発信」●家に泥棒が侵入した形跡のあることがわかって苦しんでいることの「夢」で目覚めた●過日からセコム(火災、泥棒の侵入警戒)をやめるかどうか検討していたからだろうか。●今度家が焼けたらどうするか。私の案「老後二人だけの小さい家にしよう」。妻の案「家が焼けたら再建をするのはやめて土地を売却しましょう」。私は思った。人間はどうせ最後は肉体が焼かれるのだ。と。●今朝示された聖書はマタ6:19-20。今朝はここを勉強しよう。

塚本訳 マタ 6:19-20
6:19 (このように、何事も天の父上相手でなければならない。たとえば)あなたたちは衣魚や虫が食い、また泥坊が忍び込んで盗むこの地上に宝を積まず、
6:20 衣魚も虫も食わない、また泥坊が忍び込むことも盗むこともない天に、宝を積んでおきなさい。(そうでないと、心が天に向かないであろう。)

●まず翻訳比較。Jバイブルが早くて便利。コピーできる。そして自分で黙想する。

文語訳 マタ 6:19-20
6:19 なんぢら己がために財寶を地に積むな、ここは蟲と錆とが損ひ、盜人うがちて盜むなり。
6:20 なんぢら己がために財寶を天に積め、かしこは蟲と錆とが損はず、盜人うがちて盜まぬなり。


口語訳 マタ 6:19-20
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。


塚本訳  マタ 6:19-20
6:19 (このように、何事も天の父上相手でなければならない。たとえば)あなたたちは衣魚や虫が食い、また泥坊が忍び込んで盗むこの地上に宝を積まず、
6:20 衣魚も虫も食わない、また泥坊が忍び込むことも盗むこともない天に、宝を積んでおきなさい。(そうでないと、心が天に向かないであろう。)


新改訳 マタ 6:19-20
6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。


新共同 マタ 6:19-20
6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

●次に「泥坊」(塚本訳)について、Jバイブルで検索してみる。

検索 泥坊 [塚本訳] 新約

マタ  24: 43 [塚本訳

あなた達はこのことを知っているはずだ。──夜の何時に泥坊が来るとわかっておれば、家の主人は目を覚ましていて、みすみす家に忍び込ませはしないであろう。

ルカ   12: 33 [塚本訳

(ただ御国のために働けばよろしい。)持ち物を売って施しをしなさい。(すなわちそれによって)自分のために古び(て破れ)ることのない財布をつくり、泥坊が近づくことも、衣魚が食うこともない天に、使いつくすことのない宝をつんでおきなさい。

ルカ   12: 39 [塚本訳

あなた達はこのことを知っているはずだ。──何時に泥坊が来るとわかっておれば、家の主人は(目を覚ましていて、)みすみす家に忍び込ませはしないであろう。

ヨハ   10: 1 [塚本訳

アーメン、アーメン、あなた達に言う、羊の檻に入るのに、門を通らず、ほかの所を乗り越えてくる者は、泥坊である、強盗である。

ヨハ   10: 8 [塚本訳

(わたしより)前に来た者は皆(羊飼でなく、)泥坊であり、強盗である。羊は彼らの言うことを聞かなかった。

ヨハ   12: 6 [塚本訳

ユダがこう言ったのは、貧乏な人のためを考えたのではなく、(会計係であった)彼は泥坊で、あずかっている金箱の中に入るものをごまかしていたからであった。

Ⅰコリ  6: 10 [塚本訳

泥坊も、貪欲な者も、大酒飲み、罵る者、掠奪者も、神の国を相続することはない。

Ⅰペテ  4: 15 [塚本訳

君達のうち誰も人殺し、あるいは泥坊、あるいは悪者として、あるいはおせっかい屋として受難してはならない。

●これを読むとナルホド、地上の宝は盗まれやすいもので、流動的であり、もしなくなっても人生を決定的に破壊しないものであることを知る。

●次にマタイ6:19に関して世界最大の引照集である「TSK」を「SWORD」システムで引いてみよう。心に響くものをピックアップ。このシステムは導入がなかなか難しいので将来簡単に引けるように整備したい。

http://www.asahi-net.or.jp/~EJ2T-TKHS/bunshou/tsk.html

 口語訳 箴  11:4
11:4 宝は怒りの日に益なく、正義は人を救い出して、死を免れさせる。


口語訳 箴  23:5
23:5 あなたの目をそれにとめると、それはない、富はたちまち自ら翼を生じて、わしのように天に飛び去るからだ。


口語訳 伝  2:26
2:26 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。


口語訳 伝  5:10-14
5:10 金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。
5:11 財産が増せば、これを食う者も増す。その持ち主は目にそれを見るだけで、なんの益があるか。
5:12 働く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る。しかし飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない。
5:13 わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。すなわち、富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。
5:14 またその富は不幸な出来事によってうせ行くことである。それで、その人が子をもうけても、彼の手には何も残らない。


口語訳 ゼパ 1:18
1:18 彼らの銀も金も、主の怒りの日には彼らを救うことができない。全地は主のねたみの火にのまれる。主は地に住む人々をたちまち滅ぼし尽される。


口語訳 ルカ 12:21
12:21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。


口語訳 ルカ 18:24
18:24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。


口語訳 Ⅰテモ6:8-10
6:8 ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。
6:9 富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陷るのである。
6:10 金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。


口語訳 Ⅰテモ6:17
6:17 この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、


口語訳 ヘブ 13:5
13:5 金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。


口語訳 ヤコ 5:1-3
5:1 富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。
5:2 あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、
5:3 金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。


口語訳 Ⅰヨハ2:15-16
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。

●これだけ読むと「モーイイ、わかったわかった」という感じになる。富に執着するのは神に逆らうことだ。その代表的な言葉は次である。

塚本訳 マタ 6:24
6:24 (わたし達の心は天か地かに引かれる。)だれも(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。

●かってある集会でこれを話した。すると金儲けに一所懸命(らしい)男が、「それは俺のことを攻撃している」と思ったらしく(私はそんな気はさらさらなかったのだが)、以後私に反発してくる。神の言葉を取り次ぐ者の宿命。悲しい。

 ●上記TSKのうち伝道の書の次の言葉は深刻。

口語訳 伝  2:26
2:26 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。

●「集めることと積むこと」は罪人のすること。すると人類全員、キリスト信者全員が罪人。なぜか。人数を増やして神の国を建設しようとしているから。教会は「教勢」なるものを念頭に置いている。教会員の数で力を誇示する。無教会また同じ。生徒募集、寮生募集、顧客募集、みな同じ。

●福音の伝道は集客ではなく発信が目的。発信した結果を問わない。また期待しない。福音は説きっぱなしである。特に無教会は「牧会」なることをしない。牧会とは羊飼いが羊を導くことになぞらえている。(人間)牧師は教会員を羊だと認識しているとは失礼なことだ。

●福音は発信のしっぱなしだから、私のブログのように「覗き見自由」の形がよい。覗き見できるシステムがよい。ザアカイが木の上に上ってイエスを見たような形がよい。(ルカ19:1-10)。中には狂人や暴漢がいて襲いかかってくる者もいるが、それは聖書を説く者の宿命と思わなければならない。かって私を非難攻撃してしてきた人が何人かいるがその人たちを並べてみると、不思議な共通点がある。「宝を地上に積もう」としている人である。自分の宝を毀損されやしないかと思って「恐怖」から言ってくるのである。彼らに「神の守り」という安らぎがない。

●地上の宝の現実的なことは生活の安定である。特に将来の安定、教育費、家のローン、老後の安定。しかしそれは「金銭」を積んでいただけでは安定ではない。なぜか。金銭はなくなるものだからだ。

●親が子供に学歴を積むのも同じ心理。しかし「学歴」は人の守りとはならない。雑学知識を積むことも「守り」にならない。

●最後に我が国のバイブルワークス(世界的な聖書ソフト)であるWEB黒崎からマタイ6:19-24を見てみよう。

3-5 眼中に財産なし 6:19 - 6:34
3-5-イ 財産を地に積むな 6:19 - 6:24
(ルカ12:33、34)   

註解: 人は一方他人の毀誉褒貶(きよほうへん)により動かさるると同時に、他方財産に寄り頼みて神に寄り頼むことをしない。前者は人を偽善に導き後者は人をして憂慮に陥らしむる。偽善と憂慮がこの世の二大疾患である以上、キリストが、この二方面を戒められしことはこの病の根源に触れたものと言わなければならない。

6章19節 なんぢらおのがために財寶たからむな、ここはむしさびとがそこなひ、盜人ぬすびとうがちてぬすむなり。[引照]

註解: 神のためを思わず人のためを願わず天を忘れて、ただ己がために地上に財産を積むほど愚かなことはない。動物(蛆)も自然(錆)も人間(盗人)も、みな地上の財産を破滅に帰せしむることができる。またすべての財産はこの何れかの原因によって破壊せらるるに定まっている。

6章20節 なんぢらおのがために財寶たからてんめ、かしこはむしさびとがそこなはず、盜人ぬすびとうがちてぬすまぬなり。[引照]

註解: 天に財産を積むことは天の所において価値あるものを持つことである。そして天において価値あるものは神の嘉納し給うものより他にない、すなわち善行を行うことである(1テモ6:18、19)。神はこれを嘉納し給い、この嘉納の御心が最も貴き財産として己がために天に貯えられるであろう。この財産を毀損(きそん)し得るものはない。

6章21節 なんぢの財寶たからのあるところには、なんぢのこころもあるべし。[引照]

註解: 地に財産を積む者は地に愛着し、天に財産を貯える者の心は天の父の御心に注がれる。

6章22節 燈火ともしびなり。このゆゑなんぢただしくば、全身ぜんしんあかるからん。[引照]

註解: 口語訳「澄んでいれば」は、原語haplousの意味を尽くしていない。「純ならば」の方が適当であろう。
辞解
[目ただしくば] 原語haplousは善き意味における単純無雑を意味し、ここでは目に曇りなき事と、24節の一人の主人のみに仕える心、すなわち目が一人の主に向かって迷わないこととの双方に懸けている。人を迷わしむるものは目それ自身があしき場合と、目それ自身健全であっても多くのものに目を奪われて迷う場合と二つあり、この双方とも無き単純清浄なる状態が、このhaplousである。

6章23節 されどなんぢあしくば、全身ぜんしんくらからん。[引照]

註解: 燈火が暗夜に人を導くの用をなすと同じく人体にては、手にも足にもあらず目が人を導くの用をなしている。ゆえに目の善き人はその全身白日のごとく、目あしき人は全身暗夜の様である。
辞解
[あしくば] ponērosは邪悪の意。

もしなんぢうちひかりやみならば、そのやみいかばかりぞや。

註解: 心の目、心の燈火が明るくなければならない。神と財産とに兼事(かねづか)えんとするものは目ただしくある事ができず、全身を暗闇の中に置くのである。

6章24節 ひと二人ふたりしゅつかふることあたはず、あるひはこれをにくかれあいし、あるひはこれにしたしみかれかろしむべければなり。なんぢかみとみとにつかふることあたはず。[引照]

註解: 忠臣は二君に仕えず、しかるに神と富とに兼事えんとするキリスト者のいかに多きかを見よ、かれらは暗黒の中に迷わざるを得ないのは当然のことである。
要義1 [キリスト者と財産] キリスト者は二つの意味において財宝を超越しなければならない。その一つは財宝それ自身の性質より、その二は我らのこれに対する関係よりこの必要が起こってくるのである。すなわち第一は財宝はその性質のいかんを問わず破滅すべき性質を持っており、形あるものは必ず滅するの法則に支配せられているものなることを思うとき(Ⅰヨハ2:17)、我らかかる一時的なるものに心を奪われてはならない。また第二に我らの目的は、神に仕え、神を崇め奉ることである。もし我らの心が他のものに奪われるならば、我らは神を拝せず偶像を拝することとある(コロ3:5)。そして財宝は我らの心を奪う力が最も強いのであって、イエスが特に財宝を地に積むなと教え給い、我らの目を単純に神に向けよと勧め給うゆえんはここにあるのである。

要義2 [財宝の蓄財について] 「財宝を地に積むな」との教訓は我らに一銭の貯蓄をも許さない意味であろうか、銀行に預金し公債株券土地家屋を所有することは一つの罪悪であろうか。この聖句を解せんとする者はこの点をまじめに考えはければならぬ。(1)ある人はこれを単に我らにあまり地上の蓄財に熱心になることを戒めたものと解し、普通の蓄財、不慮の費用に対する準備等は差し支えないとの実際的意味に妥協せしめてこれを解釈している。しからざればこの言はあまりに窮屈に過ぎざると思うからである。しかしながらかかる不徹底の態度をもってしては人は信仰の単純さを持つことができない。信仰は妥協を許さない。この聖句には確かに更に徹底せる力があるはずである。(2)それゆえにカトリック教会においては社会を僧俗の二階級に分かち、俗界はこの聖句を遵守し難きゆえにこれを厳格に遵奉することを免し、ただ僧侶階級のみに無所有主義清貧主義を実行せしめ、かくして彼らをもって一層天国に近きものと思わしめていた。しかしながら人間にかかる二種の標準を置くことは主は認め給わなかった。罪は同じく何人にも罪であり、正義は同じく何人にも背義である。(3)ゆえにこの聖句は文字通りに遵奉すべきものでである。ただこれには「己がために」なる条件があるのであって、神がその創造し給える財宝を我らに托し給うとき、我らこれを最も適当に活用増殖貯蓄することは我らの任務である。これは「神のために」貯えるのであって、神がやがてその御旨のままに、これを用い給うのを待つのである。かかる意味において地上に財産を蓄える人と「己がために」これをなす人との間には、外見上明瞭なる差別を認め難い。けれども、神の目には常にこれは明瞭になっているのである。ゆえにこの教訓をもって財産を浪費しつくすべしとの意味に解してはならない。すべての財産は神のものである。そして我らは、神の守護の下にある以上己のために、自己の生活の憂慮よりこれを地上に貯えるの必要はない。しかしながら神に托せられし財宝を増殖し貯蓄してこれを浪費しないのは我らの義務である(マタ25:14-30)。ただ注意すべきことはこれをもって己の不信仰を掩(おお)う理由としてはならないことである。

●次にWEB黒崎からマタイ6:19の新共同訳引照を見てみよう。

新共同訳引照Web版 V2.0

マタイによる福音書6章19節


          ◆天に富を積みなさい

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
[→ネストレ引照]

  1. [節全体]

      箴言 23章4節 - 5節
      23章4節 富を得ようとして労するな/分別をもって、やめておくがよい。
      23章5節 目をそらすや否や、富は消え去る。鷲のように翼を生やして、天に飛び去る。

      テモテへの手紙一 6章17節
      6章17節 この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

      ヘブライ人への手紙 13章5節
      13章5節 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。

      ヤコブの手紙 5章1節 - 4節
                ◆富んでいる人たちに対して
      5章1節 富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。
      5章2節 あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、
      5章3節 金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。
      5章4節 御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。

●次にWEB黒崎からマタイ6:19のネストレの引照を見てみよう。

    ネストレ引照Web版 V2.0

    (NESTLE-ALAND27版による引照個所を新共同訳にて表示)

    マタイによる福音書6章19節

              ◆天に富を積みなさい

    「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。

    1. [(19-21)]

      ルカによる福音書 12章33節 - 34節
      12章33節 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
      12章34節 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

    2. [ --- ]

      ルカによる福音書 12章16節 - 21節
      12章16節 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
      12章17節 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
      12章18節 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
      12章19節 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
      12章20節 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
      12章21節 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

      イザヤ書 51章8節
      51章8節 彼らはしみに食われる衣/虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き/わたしの救いは代々に永らえる。

      ヤコブの手紙 5章2節 - 3節
      5章2節 あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、
      5章3節 金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

      ヨブ記 24章16節
      24章16節 暗黒に紛れて家々に忍び入り/日中は閉じこもって、光を避ける.

    3. ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    4. ●9:30妻と二人で家庭礼拝。讃美歌、祈り。今朝のブログ、上記を朗読45分。讃美歌、祈り。

    5.  
     

 

 

 

 

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思い通りにならない人生 ++++++++ 所感

2009/08/29 06:07

090829(土)朝の黙想「神の栄光をあらわす」とは何か。それは人生が思い通りにならない時に神御自身の栄光が現わされる」。●人類の最高傑作と言われる「ウェストミンスター小郷里問答書」(カルヴァン派の大遺産)の第一問。「人生の主たる目的は何ですか?」。その答えがすごい。「人生の主たる目的は神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶにあり」。●ヒルティも人生の目的は「神の栄光をあらわす」ことだと言っている●問題はその「神の栄光をあらわすす」とは何か、である。人生成功してこの世から賞賛されることが神の栄光を現すことなのだろうか。聖書的にはどうもそうではないらしい。●イエスの口から「栄光をあらわす」という言葉が発せられたのは、十字架でみじめな死に方をしなければならないことがわかった時のことである。ヨハ17:1

塚本訳 ヨハ 17:1
17:1 イエスはこれらのことを話されると、目を天に向けて(祈って)言われた、「お父様、いよいよ時が来ました。子があなたの栄光をあらわすために、どうか(子を十字架につけて、)子に栄光を与えてください。


新共同 ヨハ 17:1
17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。


文語訳  ヨハ 17:1
17:1 イエスこれらの事を語りはて、目を擧げ天を仰ぎて言ひ給ふ『父よ、時來れり、子が汝の榮光を顯さんために、汝の子の榮光を顯したまへ。

●イエスの「神の栄光概念」は人間の失敗を通してなされた。●人生を失敗したとき、思い通りの人生にならなかった時、その涙、呻き、悔恨の人生の破れから、その隙間から神の光が現れる。●人間イエスは何とか十字架の恐ろしい苦しみから逃れようと悶えた。そして次のように祈った。

塚本訳 マタ 26:38-39
26:38 それから彼らに言われる、「『心がめいって』『死にたいくらいだ。』ここをはなれずに、わたしと一しょに目を覚ましていてくれ。」
26:39 そしてなお少し(奥に)進んでいって、俯けに倒れ、祈って言われた、「お父様、出来ることなら、どうかこの杯がわたしの前を通りすぎますように。しかし、わたしの願いどおりでなく、お心のとおりになればよいのです。」

●このイエスの「願いどおりでなく」。という言葉は重い。われわれの人生も「願いどおり」にならないことが99%である。学歴、社会的地位、職業、結婚、伴侶、家庭、経済、健康、子供の成育、勤務先の経営、同僚、職場、勤務地、定年退職、老後生活、寿命、死亡原因。・・・・しかしこの「願いどおり」にならない「破れ」「失敗」の割れ目から神の光が漏れる。神の栄光の光があふれ出す。

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窓を開けると大きな太陽。思わず外に出て撮影。

神は良い者にも悪い者にも日を上らす。(マタイ5:43-45)

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破れた我が家にも日が当たる。贖われて罪が清められる。感謝。

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昨夜から長男の新一が来ている。デカイ靴だなーー。

●Jバイブルで詩篇から「足」に関するもので心に響くものをピックアップした。

口語訳 詩  25:15
25:15 わたしの目は常に主に向かっている。主はわたしの足を網から取り出されるからである。


口語訳 詩  31:8
31:8 わたしを敵の手にわたさず、わたしの足を広い所に立たせられたからです。


口語訳 詩  66:9
66:9 神はわれらを生きながらえさせ、われらの足のすべるのをゆるされない。口語訳 詩  91:11-13
91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。
91:12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
91:13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。


口語訳 詩  94:18
94:18 しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、主よ、あなたのいつくしみは/わたしをささえられました。


口語訳 詩  140:4
140:4 主よ、わたしを保って、悪しき人の手からのがれさせ、わたしを守って、わが足をつまずかせようとする/乱暴な人々からのがれさせてください。

●私の祈りで三人で朝食。新一は仕事のためにすぐ旅立った。後姿を見送る。●パソコン不調であせる。「WEB黒崎」が終わるまでなんとか壊れないでもらいたい

 

 

 


 

 

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攻撃するな。示されたことを言え。 ++++++++ 所感

2009/08/28 04:48

090828(金)4時15分目覚め●朝の啓示「攻撃するな。示された ことを言え」●窓を開けると美しい朝焼け。

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まだ夜が明けないが、神はまどろむことがない。

口語訳 詩  121:3-4
121:3 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
121:4 見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。

●朝の黙示である「示されたことを言え」に関して思い浮かぶ聖書。

塚本訳 マタ 10:27
10:27 わたしが暗闇で(こっそり)話すことを、(大胆に)明るみで言え。耳うちされたことを屋根の上で宣伝せよ。

塚本訳 ルカ 8:39
8:39 「家に帰って、神がどんなにえらいことをしてくださったかを、(みんなに)話してきかせなさい。」すると彼は行って、イエスがどんなにえらいことを自分にされたかを、町中に言いふらした。

塚本訳  ヨハ 9:25
9:25 彼が答えた、「罪人かどうか知りません。ただ、(もと)盲であったわたしが、いまは見えるという、この一つのことだけ知っています。」

塚本訳  ガラ 1:17
1:17 また、先輩の使徒たちに会いにエルサレムにのぼりもせず、アラビヤに行き、ダマスコに戻った。(このようにわたしの福音はキリストの啓示によるもので、人からのものではない。)

塚本訳 使  26:1-2
26:1 アグリッパがパウロに、「自分のために陳述しても差し支えない」と言うと、パウロは(演説家のように)手をのばした姿勢で弁明した。──
26:2 「アグリッパ王よ、わたしはユダヤ人に起訴されている一切のことについて、きょう王の前に弁明できる自分を仕合わせと思います。


塚本訳 使  26:8
26:8 (あなた方はイエスの復活を信ぜず、従って彼が約束の救世主であることを信じようとされませんけれども、)神が死人を生きかえらせるということが、あなた方にはなぜそんなに信じ難いことと思われるのでしょうか。


塚本訳 使  26:13
26:13 王よ、昼に、途中で、天から輝く太陽にもまさる光がさして、わたしと、同行の者たちとのまわりを照らすのを見ました。


塚本訳使  26:14
26:14 わたし達が皆地上に倒れると、ヘブライ語で、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。刺の棒は蹴っても無駄だ』とわたしに言う声を聞きました。


塚本訳 使  26:19-20
26:19 アグリッパ王よ、(こんな栄光ある職を受けたのです。)それゆえ、わたしはこの天からの示しにそむかず、
26:20 まずダマスコとエルサレムとの人たちに、ユダヤ全国に、それから異教人に、悔改めて神に帰り、悔改めにふさわしいわざをするようにと告げました。


塚本訳  使  26:21
26:21 そのためユダヤ人はわたしを宮でつかまえて、殺害しようと企てたのです。


塚本訳  使  26:22
26:22 しかし神の助けをこうむり、今日まで(こうして)立って、小さい者にも大きい者にも証しをしているのです。それも預言書とモーセ[聖書]とが、将来必ずおこると語った以外のことは、何も言いません。


塚本訳  使  26:23
26:23 すなわち、救世主は死なねばならないこと、彼は死人の中から最初に復活して、(イスラエルの)民にも異教人にも光を伝えねばならないことを…」


塚本訳 使  26:24
26:24 彼がこのように弁明したとき、フェストが大声で(それをさえぎって)言う、「パウロ、お前は気が狂っている。博学がお前を狂わせたのだ。」


塚本訳  使  26:25
26:25 パウロが言う、「フェスト閣下、気は狂っておりません。わたしは正気で真理の言葉を話しています。


塚本訳  使  26:26
26:26 (いま言った)これらのことは(アグリッパ)王がよく御承知だから、わたしも王に率直に話をしているのです。これらのことが何か王に隠れているとは信じ得ないからです。これは(公然エルサレムで行われ、決してこそこそと)片隅で行われたのではありません。


塚本訳 使  26:31
26:31 そして退場しながら話し合って言った、「あの男は何一つ死罪や監禁に当ることをしていない。」

塚本訳 使  18:15
18:15 問題が(宗教の)教義や、(救世主という)人物や、あなた達の律法に関するものなら、自分で始末したがよかろう。わたしはそんなことの裁判官になりたくない。」


塚本訳 使  25:19
25:19 この男に対しての問題は、何か彼らの宗教に関してと、死んだイエスとかいう者を、パウロ(というその囚人)が、(今も)生きていると主張したことに関してであった。

●クリスチャンが本業(福音証言、使徒伝承)を忘れて人権主義者やヒューマニストの尻馬に乗ったような言動をするからこの世から攻撃されるのだ。そのレベルで人間を、また社会を、道徳的に攻撃するから逆襲されるのだ。そうではない。自分が「罪赦されたこと」の恥をさらしで告白すればよいのだ。するとこの世の人は「あれは個人の宗教体験のことfだ。自分には関係のないことだ」(使徒18:15 25:19)と言って攻撃はしてこない。●塚本先生はあるとき茶飲み話で言ったという。「矢内原君は低空飛行しすぎたなー(だからこの世から撃たれたのだ)」●また別の茶飲み話の時にこうも言われたという「吉田(茂)は再軍備しない方が良かったのになー」。●クリスチャンは本業を忘れて社会問題にどっぷりつかってはいけない。社会問題は「小事」であるからこれに忠実でなければならないが、そればかりに気を取られてはいけない。塚本訳の次の敷衍は意味が深い。

塚本訳 ルカ 16:12-13
16:12 もし他人のもの[この世のこと]に忠実でなかったならば、だれがあなた達のもの[天のもの]をあなた達に与えようか。
16:13 しかし(この世のことはみな準備のためであるから、それに心を奪われてはならない。)いかなる僕も(同時に)二人の主人に仕えることは出来ない。こちらを憎んであちらを愛するか、こちらに親しんであちらを疎んじるか、どちらかである。あなた達は神と富とに仕えることは出来ない。」

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ラジオ体操の帰途。秋留台公園のコスモス。この秋限りの命だが美しく咲いている。人生もこれでよいのだ。遠くの山は奥多摩連山。

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この芙蓉、よくぞ我が家に咲いてくれた。この花もこの秋限りの短い命。この庭で命を閉じる。ありがとう、ありがとう。美しく咲いて慰めてくれている。ヒルティは人生の目標は「慰めの子」(使徒4:36-37)になることだと言っている。「慰めの子」になるには自らが人生の大悲劇に遭遇しなければならないのだ。そうでなければ同じ悲劇苦難の人を心から慰められないのだ。

塚本訳 使  4:36-37
4:36 ヨセフは使徒たちからバルナバ[訳すれば「慰めの子」]とも言われた、クプロ(島)生まれのレビ人であったが、
4:37 畑を持っていたので、売って、その金を持ってきて使徒たちの足元に置いた。

 口語訳 ヘブ 2:17-18
2:17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。
2:18 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。

●19:00 長男の新一が山梨の仕事の帰りにあきる野に来る。教会の話。東京聖書読者会の面々の様子を聞かれた●Jバイブル2008とギリシャ語ソフトなど数点を希望したので貸した。●39歳は働き盛り。健康に留意してほしい。

 

 

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失われた羊のところに行け! ++++++++ 所感

2009/08/27 06:21

090827(木)5時起床。朝の啓示「失われた羊の所に行け!」●窓を開けると久しぶりの太陽。思わず讃美歌24番を歌う。

讃美歌24番

1. ちち の かみ よ, よる は さり て,

   あらた なる あさ と なりぬ.

   われら は いま みまえ に いで て,

   みな おをあがむ.

 2. ばん ゆう の しゅ よ, みかお あおぐ

   しもべ ら を つよく なして,

   あまつ くに の つきぬ めぐみ を

   えさせ たまえ.

 3. みつ に まして ひとり の かみ,

   みすくい は ととき かな.

   みな の ひかり てり かがやき て,

   よ に あまね し.

 

●次にこの讃美歌のメロディー(次をクリック)を流して心で独唱。3人の方々のことを祈った。

 http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-024-nocte_surgentes_vigilemus_omnes.mid

 

[あきる野に秋の気配] 写真5枚

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久しぶりに秋留台公園にラジオ体操。

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秋留台公園の展望台より奥多摩連山を望む。秋の空だ。

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秋留台公園のコスモスの丘。コスモス大好き。可憐。色がパステルカラー。

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高い空。すごいなー。美しいなー。でもこの形は一瞬だ。人生のようだ。

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妻が、「今年は庭の芙蓉がよく咲いたわねー」という。花は潤い、癒し。人もこの花のように潤いや癒しの人でなければならないなー。

[失われた羊]とは何か。それを手元にあるツールで探究する。

ます「失われた羊」の言葉はどこにあるか。この探索は市販の「Jバイブル」がよい。約1万円。するとそれはマタイ10:6であることが瞬時に判明。コンコルダンスより早い。

 ●マタイ10:5-6 の翻訳比較

文語訳 マタ 10:5-6
10:5 イエスこの十二人を遣さんとて、命じて言ひたまふ、『異邦人の途にゆくな、又サマリヤ人の町に入るな。
10:6 むしろイスラエルの家の失せたる羊にゆけ。

 口語訳 マタ 10:5-6
10:5 イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。
10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。


塚本訳マタ 10:5-6
10:5 イエスはこの十二人に次のように命じて(伝道に)派遣された。──「(国を離れてはいけない。)異教人の所へ行くな、またサマリヤ人の町に入るな。
10:6 ただ、イスラエルの家のいなくなった羊(だけ)に行け。


新改訳 マタ 10:5-6
10:5 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。
10:6 イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。


新共同 マタ 10:5-6
10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。
10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。

●次に「失われた羊」にピンポイントを絞って「SWORD」というソフトで見てみよう。

http://www.asahi-net.or.jp/~EJ2T-TKHS/bunshou/tsk.html

この中で「lost」の部分の引照を見ると次の10か所が出てくる。これを読めば「心一杯胸一杯」。「モーイイ。わかった、わかった」という気持ちになる。聖書全巻の精神が読める。納得である。イエスの行為は旧約の預言であることもこれで十分に分かる。「聖書で聖書を読む」方法は間違いがない。人間の書いたつまらない註解書を読むより確実かつ時間の節約。経済的。世の聖書勉強者、註解書執筆者、翻訳者、説教者、伝道者はまず前提としてこの「SWORD]を全部読む作業が必須。

口語訳 マタ 18:10-11
18:10 あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。
18:11 〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕


口語訳 詩  119:176
119:176 わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください。わたしはあなたの戒めを忘れないからです。


口語訳 イザ 53:6
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。


口語訳 エレ 50:6
50:6 わたしの民は迷える羊の群れである、その牧者がこれをいざなって、山に踏み迷わせたので、山から丘へと行きめぐり、その休む所を忘れた。


口語訳 エレ 50:17
50:17 イスラエルは、ししに追われて散った羊である。初めにアッスリヤの王がこれを食い、そして今はついにバビロンの王ネブカデレザルがその骨をかじった。


口語訳 エゼ 34:6
34:6 わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。


口語訳 エゼ 34:8
34:8 主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。


口語訳 エゼ 34:16
34:16 わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。


口語訳 ルカ 15:3-10
15:3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、
15:4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
15:5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
15:6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
15:7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
15:8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。
15:9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。
15:10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。


口語訳 Ⅰペテ2:25
2:25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

●次に新改訳聖書の引照を見てみよう。次の一か所である。

新改訳 マタ 15:23-24
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。

このイエスの冷たさも解読のヒントである。

●次に新共同訳の引照を見てみよう。これは最新の「WEB黒崎」

http://stonepillow.dee.cc/ で見ることができる。二か所である。

新共同 エレ 50:6
50:6 わが民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ/山の中を行き巡らせた。彼らは山から丘へと歩き回り/自分の憩う場所を忘れた。


新共同 マタ 15:24
15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。

 ●次にネストレはどうか。これも「WEB黒崎」http://stonepillow.dee.cc/ で見ることができる。ネストレはマタイ10:6の引照がないのでその前の10:5を引くと次のものがヒントになった。これもパウロの「冷たさ」。しかしやむを得ない「冷たさ」。これも解読のヒント。日本では「縁なき衆生は度し難し」という。塩を播いて逃げろである。「自分は幸福だと思っている人間の所には行くな」という意味でもある。

新共同 使  13:46
13:46 そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。

●次に各国聖書の引照はどうか。これには拙HPの「聖書で聖書を読む(BbB)」 http://www.bbbible.com/  でみることができる。多くの引照の中から心にピンと来るものを掲載する。福音はこれを受け入れない人がいるから「仕方なく」失われた羊を目指すのであるが、そこでも受け入れられないかもしれないという「悲劇」がある。「失われた羊」であるイスラエルがそうであった。ついにイエスを殺した。福音を受け入れる「失われた羊」よいずこ!!

新共同 使  13:51
13:51 それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。


新共同 Ⅱペテ2:10
2:10 特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。


新共同 ユダ 1:7
1:7 ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。


口語訳 使  8:20
8:20 そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。


口語訳 使  18:6
18:6 しかし、彼らがこれに反抗してののしり続けたので、パウロは自分の上着を振りはらって、彼らに言った、「あなたがたの血は、あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない。今からわたしは異邦人の方に行く」

●最後に我が日本のバイブルワークスである。「WEB黒崎」のマタイ10:6をみてみよう。(http://stonepillow.dee.cc/40contents.htm)これは世界屈指の註解書である。。聖書中心、正統信仰、学問的、簡潔、明快、穏健、信仰の深さなどで類をみない。黒崎幸吉前人未到の労作。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

10章6節 むしろイスラエルのいへせたるひつじにゆけ。 [引照]

註解: 異邦人、およびユダヤ人と相和しなかったサマリヤ人を、弟子の伝道区域外に置くことを命じ給える所以は彼らを憎むからではなく、又軽視したのでもない。神の国は先ずユダヤ人に約束せられ、このユダヤ人を通して救いは万国民に及ぶべきはずであったからである。15:24。使13:46。イザ49:1-6。
辞解
[サマリヤ] ユダヤとガリラヤの間にあり歴史的理由よりユダヤ人等と不和の関係にあった。このことについてはヨハネ4:9註参照。「途」「町」「家」と次第に小区域を示し、小より始むべきことを示す。使1:8を見よ。

[イスラエルの家の失せたる羊] 神の選民でありながら、神の真理より離れ牧する者もなく誤謬の中に迷い入っている人々(9:36)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●[バッハ・カンタータ147番第一部第6曲「心と口と生きざまもて」から「主よ人の望みの喜びよ」]の音源のいいのがあった。全曲聴ける。これはアンサンブルバッハ(http://www.ebach.gr.jp/kaisetsu/bwv147.htm)2002.11のライブ録音。

http://www.ebach.gr.jp/data/BWV147_6.mp3

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無教会の新しい風 ++++++++ 所感

2009/08/26 05:59

090826(水)4時10分起床●「WEB黒崎」でメール会議。ことは公のことなので私からのメールを一部改変省略して下記に掲載する。

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〇〇様

在日無教会人(?)は派閥にどっぷりつかっていてタコ壺人間が多いのです。無教会はミッションによる派閥争いを嫌って出発した(内村「余はいかにして・・・」)のですが、あろうことかその無教会に先生ごとの派閥(教派)が誕生してしまいました。それには理由があります。最初の内村が「武士道を重んじた」からです。あるとき内村は塚本先生に「(このことは)武士道で決せよ」とまで言ったそうです。この日本的な「先生への忠誠」から純な信仰が生まれ、よい風習、礼儀が誕生してます。よい伝統であります。ところがこれには功罪があります。弟子たちの「いがみ合い」もあるのです。人間的な弱さです。「わが師尊し」の気持ちからです。それに(無教会の)先生といえども「人間」、知らず知らずのうちに弟子たちから「派閥」の領袖にさせられてしまったのです。その点黒崎はあまり「派閥」意識がありません。実態としてはどうか。無教会の複数の大先生の影響を受けられた方が多いのです。O先生は信仰は塚本先生ですが、矢内原+黒崎に影響を受けられました。M先生は戦時中に無教会の先生方の「お使い」をしながらその結束の固さに感ずるところがあったと言っておられます。最近では大先生が次々と召されていますので「先生べったり」「先生の親衛隊」的な雰囲気はなくなりつつあります。そのような時に「WEB黒崎」が無教会陣営のなかから誕生したことには深い意義があると思います。「新しい風」です。「WEB黒崎」は、無教会にとどまらず全キリスト教界に向けての「新しい風!」だということにもその使命の一面があるのではないでしょうか。神に負わされる使命はそれを負わされる本人には気がつかないことが多いものだと思います。本メールを書きながら私としてもこれからの新しい無教会の姿に関して「頭の整理」ができて感謝です。

 

高橋

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●13:30「WEB黒崎」でメールした。これも公のことが含まれるので、差し障りのあるところを削除改変して公開する。

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○○、□□様

かってOM先生が「(WEB黒崎の担当者)は手に職をもちながらやっている」ことを誉めてくださったことを思い出します。

手に職というのは「時間のあまりないのに」ということの他に「生活苦があるのに」ということも含まれると思います。

塚本先生は「聖書の勉強はそれと並行して『苦』(生活苦、病苦、人間関係苦など)がないと消化不良を起こす」と言われました。私はその『苦』こそが聖書を理解させてくれる力であると思っています。

マルコ5章の次の3か所のところでYT様が現在遭遇されておられる「苦」を思いました。

 

新共同 マコ 5:23

5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」

 

新共同 マコ 5:34

5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 

新共同 マコ 5:39-42

5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」

5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。

5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。

5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。

 

●「WEB黒崎の背後に(担当者)各人の『苦』あり!」です。ここにこそ「WEB黒崎」の隠れた価値があるのではないでしょうか。

 

 

高橋

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●終日「WEB黒崎」引照入力マルコ5章。●高橋三郎先生の「十字架の言」が終刊になったので御礼の手紙を書く●郵便局、図書館、コンビニ(拡大コピー)●15:30 季刊「無教会」8月夏号の巻頭言に寄稿した「泣くな!ほんとうの命が神によって与えられる」をホームページの「使徒伝承」にアップ。毎度ながら神経を使う。失敗も含めて41分もかかった。

 

 

 

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

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耐えられない痛みの時 ++++++++ 所感

2009/08/25 08:08

090825(火)3時目覚め。「耐えられない痛みの時」。●人生には心身ともに耐えられない痛みの時というものがある。その痛みにあるときにその意味を頭で考えることは「痩せ我慢」にすぎない。とにかくまずその「痛み」を取ることが先決。●母が肺癌で苦しんエいたとき集会の先輩達から「お母さんを楽にしてやりなさい。別にお母さんを殺すわけではない。」と言われた。母をホスピスに入ってもらったのはその後すぐであった。現在、ホスピス入院から死去までの期間は7~10日程度のはず。最期を心身ともに安らかに逝っていただくためにホスピスがある。●かって脳内出血で入院した聖路加国際病院で癌ドッグに入って検査しようとしたところ、母も弟も癌になったことを知った主治医は「ドッグで検査の必要はない。あなたは癌で死にます」と言った。問題は余命だ。願いは癌の激痛なく逝きたいことだ●かって「自分はイエス様の激痛を思うためにモルヒネを打たない」と言った人がいたが、あれは癌の激痛を知らない人の暇な戯言。●あの山本七平が癌の激痛の時、コンチンという痛み止めを「早くもっと打ってくれー」と医師に何度も哀願して「コンチン先生!、コンチン先生!」と叫んだ。人間、肉の激痛の時は耐えられないのが「普通」。あの矢内原先生も最後は癌の激痛に泣かれた。そのとき人間自身の「行為としての信仰」は癌の激痛の前に粉砕され信仰などどこかへ行ってしまうのだ。癌の激痛は人間の精神もおかしくする。●「耐えられない痛み」に関して聖書のあちこちを思う。

塚本訳 マタ 2:18
2:18 『声がラマに聞えた、──(ラケルの)』はげしい『わめきと、なげきの声である。ラケルはその子らのために泣くばかりで、慰められようとしない、子らがもういないので。』

●子供を失った母親の悲しみは深く、人間では慰められない。

塚本訳  ルカ 9:38-40
9:38 すると群衆の中のひとりの人がこう言って叫んだ、「先生、お願いです、伜に目をかけてやってください。独り息子です。
9:39 かわいそうに霊がつくと、灸にどなり出し、またひきつけさせて泡をふかせ、なかなか離れないで、すっかり弱らせてしまいます。
9:40 それで、霊を追い出すことをお弟子たちに願いましたが、お出来になりませんでした。」

●「我が息子、わが娘はおかしいのです。私には手に負えません。ひどい状態です。匙を投げます。何とかしてしてください」という呻きは。世に親が今しばし生きて行く理由。存在理由。尊い呻き。価値ある呻き。(ロマ8:26-27)

●人間、息子娘が病気(心の病、肉体の病)の時は親としてどうしようもない「心の痛み」(ロマ9:2)がある。懊悩である。呻きである。

塚本訳  ヨハ 11:3
11:3 マリヤとマルタとはイエスに使をやって、「主よ、大変です。あなたの可愛がっておられる人が病気です」と言わせた。

●「主よ大変です。身内の誰々が死にそうです。早く来てください。」イエスのところに集まった多くの人の願望。これでいいのだ。これでいいのだ。なりふり構わずのはしたなくみっともなく恥ずかしい態度でよいのだ。

塚本訳  Ⅱコリ12:7-9
12:7 そしてこれらの素晴らしい啓示があるので、わたしが高慢にならないようにと、わたしの肉に一つの刺が与えられた。悪魔の使いであって、これはわたしが高慢にならないようにと、わたしをうつものである。
12:8 この使について、それがわたしから手を引くようにと、三度まで主に願ったが、
12:9 主は(その都度)言われた、「わたしの恩恵はあなたに十分だ。力は弱さの中に完成されるのだから。」、それでわたしはキリストの力がわたしに住みついてくださるように、大喜びで、むしろ(自分の)弱いことを自慢しよう。

●パウロの肉体の痛みは何であったか謎。眼病か。パウロの手紙の最後にある自筆は大きかった。肉の病で不自由だったパウロ。その刺がパウロの信仰を鍛え、深くした。復活を望むに至らせた。

塚本訳  マコ 5:25-28
5:25 すると十二年も長血をわずらって、
5:26 大勢の医者からひどい目にあわされて、財産を皆使いはたして、なんの甲斐もなくて、かえってますます悪くなって、
5:27 イエスのことを聞いて、群衆にまじってついて来た女が、後ろからその着物にさわった。
5:28 「お召物にでもさわれば、なおるにちがいない」と思ったのである。

●これでいいのだ。これが信仰だ。「もしかしたら」でいいのだ。

口語訳 詩  50:15
50:15 悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。

●これだ。人生には「悩みの日」があるべきだ。なぜか。それによって神に思いが行くからだ。神に「ヘルプ!」の思いが湧くからだ。親が我が子に人生を「悩みなく、楽に」歩ませようとするのは「人の思いだ。それは真に子のためにならない。「子には苦労をさせよ」

口語訳 詩  121:1-2
121:1 わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
121:2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。

●金や境遇の変化で解消する「悩み」は浅い。何ものをもってしても楽にならない「悩み」。それは罪の悩みと死の悲しみ。それは神にのみ解決できること。

塚本訳  ルカ 15:11-17
15:11 また話された、「ある人に二人の息子があった。
15:12 『お父さん、財産の分け前を下さい』と弟が父に言った。父は身代を二人に分けてやった。
15:13 幾日もたたないうちに、弟は(分け前)全部をまとめて(金にかえ、)遠い国に行き、そこで放蕩に財産をまき散らした。
15:14 すべてを使いはたしたとき、その国にひどい飢饉があって、食べるにも困り果てた。
15:15 そこでその国のある人のところに行ってすがりつくと、畑にやって、豚を飼わせた。
15:16 彼はせめて豚の食う蝗豆で腹をふくらしたいと思ったが、(それすら)呉れようとする人はなかった。
15:17 ここで(はじめて)本心に立ち返って言った。──お父さんのところでは、あんなに大勢の雇人に食べ物があり余っているのに、(息子の)このわたしは、ここで飢え死にしようとしている。……

●これでいいのだ。これが普通の人間の道だ。恥ずかしくはない。恥ではない。

塚本訳  ルカ 16:22-24
16:22 やがて乞食は死んで、天使たちからアブラハムの懐につれて行かれ、金持も死んで葬られた。
16:23 金持は黄泉で苦しみながら、(ふと)目をあげると、はるか向こうにアブラハムとその懐にいるラザロとが見えたので、
16:24 声をあげて言った、『父アブラハムよ、どうかわたしをあわれと思ってラザロをよこし、指先を水にひたしてわたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの焔の中でもだえ苦しんでおります。』

●地獄での耐えられない苦しみの様。これでもいいのだ。これでもいいのだ。なぜか。その苦しみ、神に知られているから。

塚本訳 ロマ 8:28
8:28 そればかりではない。(わたし達の救いは次のことからも確かである。)わたし達が知っているように、神を愛する者、すなわち(神の)計画に応じて召された者には、すべてのことが救いに役立つのである。

●これは苦難が過ぎ去ったあとで知ること。試練や苦難の渦中にあるときはこの言葉は効き目がない。

塚本訳  ヘブ 12:11
12:11 あらゆる訓練(というもの)は、その当座は喜びとは見えず、かえって悲しみと見えるが、しかしあとで、それで鍛えた者に(まことの)義の実である平安を与えるのである。

●苦難は後で「川のような平安」がもたらされる。

新共同 Ⅱコリ7:10
7:10 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。

●これはアーメンである。悩みという悩みに無駄はない。神は無駄なことはしない。

●今朝、遠方の某氏からご身内が「(癌末期で日単位になって)間もなくでしょう」という御連絡。緊張が走った。こういう時は真に心から祈れる。痛みなく安らかに逝けるようにとの臨戦体制の祈りになれる。●信者でない御本人はこの段になって葬儀をキリスト教でと言われたという。私としては、ルカ23:42(下記)の罪人のドタンバの願いを思い起こし、これだけでご本人は神に救われたと思った。神に知られる者となったと思った。それで「おめでとうございます。(ご本人は)『凱旋準備』がなりました。万歳、感謝」とメールした。

塚本訳 ルカ 23:42-43
23:42 それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください。
23:43 「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽にはいることができる。」

●黒崎の引照入力●衆議院選挙の期日前投票に行く。●人間は営利企業の奴隷になると生きがいを失う。この世の仕事は来世への準備としてとらえるべきだ。目的であると空しさのみが襲いかかる。

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

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主の山に備えあり ++++++++ 所感

2009/08/24 09:02

090824(月)昨日の大島智夫講演「よみがえる黒崎幸吉の註解」の画面放影に関してマシン繋ぎこみが出来るかどうかどうか不安であったが、よく分かる人が来ていてくださって整えてくださった。
次の句を思う。

口語訳 創 22:14
22:14 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

塚本訳 マタ 6:8b

6:8 神はあなた達の父上である。求める前から、あなた達に必要なものをよく御承知である。

塚本訳マタ 6:32b
6:32 それは皆異教人のほしがるもの。あなた達の天の父上は、それが皆あなた達に必要なことをよく御承知である。

塚本訳 マタ 6:34
6:34 だから、あしたのことを心配するな。あしたはあしたが自分で心配する。一日の苦労はその日の分で沢山である。

●手紙4通で一日潰れた。手紙というのは精魂尽き果てる。●米国からの宣教師(在日40年)から聖書ソフト作成のためにWEB塚本の使用許可を求めてきたので契約書を交わした。契約書というのはWEB塚本を「聖書ソフト」などに搭載して販売する場合、高橋とは金銭の授受をしないという内容。この世の契約書と全く違う。●聖書が一旦出版社のものとなると使用許可がが難しくなる。出版社は営利がもくてきだから聖書といえども商売の道具にされてしまう。「WEB黒崎」が無料なのは強みだ。

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よみがえる黒崎幸吉の註解 ++++++++ 所感

2009/08/23 20:32

090823(日)4時半起床。●「黒崎註解」WEB会議●9:20妻と二人で家庭礼拝。「WEB黒崎」からマタイの「主の祈り」の所をコピーして朗読する●14:00大島智夫講演「よみがえる黒崎幸吉の註解」於今井館聖書講堂。大島智夫先生は情熱を込めて熱心に講演され、新しい時代が開けそうであると言われた、そしてスタッフの労を多とする言葉を述べてくださった。84歳の先生の御自身が講演されるこのような日を迎えられて感謝である。パソコンからプロジェクターでの放映も成功。

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大島智夫講演「よみがえる黒崎幸吉の註解」。於今井館聖書講堂

左から高橋トミ子、高橋照男、大島智夫

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御加祈ください!。隠れた祈りが報われる ++++++++ 所感

2009/08/22 06:14

090822(土)昨夜某氏からご身内が癌で余命少なくなった「(最後にでも救われるように)御加祈ください」とのご連絡。早速祈りはじめた。●今朝目覚めて再び祈る。実名をあげてはっきり神に祈る。それと同時に「本人に知られないように祈る」祈りは報われるという聖句が次々と浮かんできた。

●「隠れた祈りが報われる」


塚本訳 マタ 6:6
6:6 あなたが祈る時には、『奥座敷に入り、部屋をしめきった上で、』隠れた所においでになるあなたの父上に『祈れ。』そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。


塚本訳 マタ 6:18
6:18 これは断食をしていることを人に見せず、隠れた所においでになるあなたの父上に、見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう。


塚本訳 マタ 7:11
7:11 してみると、あなた達は悪い人間でありながらも、自分の子に善い物をやることを知っている。ましてあなた達の天の父上が、求める者に善い物を下さらないことがあるだろうか。


塚本訳 マ タ 7:12
7:12 だから、何事によらず自分にしてもらいたいと思うことを、あなた達もそのように人にしなさい。これが律法と預言書(と[聖書]の精神)である。 


塚本訳 ルカ 16:27-28
16:27 金持が言った、『父よ、それではお願いですから、ラザロをわたしの父の家にやってください。
16:28 わたしに五人の兄弟があります。彼らまでがこの苦しみの場所に来ないように、よく言って聞かせてください。』

 塚本訳 ヤコ 5:16
5:16 だから互いに罪を告白し、医されるため互いのために祈れ。義人の(熱心な)祈りは働くと大きな力がある。

●「敵のために祈るとりなしの祈りは報われる。」

塚本訳 マタ 5:43-47
5:43 あなた達は(昔の人がモーセから、)『隣の人を愛し、』敵を憎まねばならない、と命じられたことを聞いたであろう。
5:44 しかしわたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈れ。
5:45 あなた達が天の父上の子であることを示すためである。父上は悪人の上にも善人の上にも日をのぼらせ、正しい人にも正しくない人にも、雨をお降らしになるのだから。
5:46 自分を愛する者を愛したからとて、なんの褒美があろう。(人でなしと言われるあの)税金取りでも同じことをするではないか。
5:47 また兄弟にだけ親しくしたからとて、なんの特別なことをしたのだろう。異教人でも同じことをするではないか。

塚本訳  マコ 2:3-5
2:3 人々が一人の中風の者を、四人にかつがせてつれて来る。
2:4 群衆のためイエスのところにつれて行けないので、おいでになる所の(上の)屋根をはがして穴をあけ、中風の者を担架に寝かせたまま(イエスの前に)吊りおろす。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て(驚き)、中風の者に言われる、「子よ、いまあなたの罪は赦された。」


塚本訳 使  7:59-60
7:59 ステパノは打ち殺されながら、イエスの名を呼んで、「主イエス様、わたしの霊をお受けください」と祈り、
7:60 それからひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞこの罪をこの人たちに負わせないでください!」こう言って、彼は眠りについた。


塚本訳 ルカ 23:34
23:34 するとイエスは言われた、「お父様、あの人たちを赦してやってください、何をしているか知らずにいるのです。」『彼らは籤を引いて、』イエスの『着物を自分たちで分けた。』

塚本訳 ロマ 12:17-20
12:17 だれにも悪をもあって悪に報いず、どんな』人の前でも善をするように心がけよ。』
12:18 出来るなら、(少なくとも)あなた達の方では、どんな人とも仲良くせよ。
12:19 愛する者たちよ、自分で仕返しをするな、(裁きの日の神の)怒りにまかせよ。こう書いてあるではないか、「主は言われる、『仕返しはわたしのもの、』わたしが『報いをする』と。」
12:20 むしろ、『あなたの敵が飢えているなら、食べさせてやれ。渇いているなら、飲ませてやれ。こうするのはその頭に炭火を積むことであるから、(いつかは恥じて悔改める。)』

●故藤林益三先生は集会の最後の報告に小走りで登壇され「〇〇さんが危篤です。皆様御加祈ください」と話された。これぞエクレシアの本質と思った。先生は集会の方々の「祈りの力」に期待しておられた●しかし現代は通信手段が発達していて遠隔地でもこういう連絡はできる。エクレシアは物理的に一か所に固まっていなくてもよい●マタイ5:44に「自分を迫害する者のために祈れ」とあるから、自分を迫害する人が現れたら、(それは悲しく辛いことではあるが)その人は神の救いの射程距離内に入ったと思えば少しは心安らぐ。救うのは自分でなく神だから。彼は神に引き寄せられたのだと思えばよい。あるいはこの際私の血が流されてその人が救われるのかも知れない。それならば彼の救いを祈って来たこの私としても本望だ●ステパノが石で殺されるとき加害者の一人にあのパウロ(サウロ)がいた。(使徒7:58、8:1)復活のイエスがパウロに現れて彼を救い大伝道者に起こしたのは、殺されながらも祈ったステパノの「敵に対するとりなしの祈り」が報われたのだと思われる。ステパノは加害者の側にサウロが立っているのがチラッと見えたのではなかろうか●イエスは十字架に磔されたときローマの百卒長の顔がチラッと見えたのではあるまいか。人類で最初にイエスを神の子と告白したのは何と敵国ローマの兵隊であった。(マルコ15:39)●神はどんな不思議なことをされて人を救うか、人間には「最後の最後まで」分からないものだ。

●「信仰なき者の祈り」

作家の大江健三郎が東京女子大(ミッションスクール!)で「信仰なき者の祈り」と題して講演したとき、多くの生徒が涙を流した。大江夫人は「あなた。いいお嬢様達を泣かせたのはいけなかったことです」とたしなめたそうだ。このことがどうしても忘れられない。●人は誰でも幸福(シアワセ)を求めている。私も女子大で教えているのでそれがよくわかる。そして神が「いる」ものなら信じたいものだと思っている。しかし信じられないのだ。どうしても信ずるに至らないのだ。だから疑似宗教としてあらぬものを拝んでいるのだ。それは金、地位、愛、美、結婚、家、家庭、子供、団欒、健康、長寿、大往生。・・・・これらの幸福と思われる「幻を追及している」のだ。そこに「信仰なき者の祈り」がある。しかしそれは獲得してみて初めて分かることなのだが、「空しい」ということが分かるのだ。「何だこんなものだったのか」と思う。それでいいのだ、それでいいのだ。人生はこれらが「空しい」ことが分かって初めて真の幸福である「神との交わり」が分かるのだ。人生は失敗して真理がわかるのだ。「信仰はヤケクソだ」(三谷隆正)●17年前に亡くなった父に近所の人が「晋(シン)さん、(その人は父のことをそう呼んでいた)。神がいるものなら信じてみたい」と言った。父はそのとき「それでいいのだ。それでいいのだ」と言ったという。●人は「信じてみたい」と心密かに思っただけで神に救われるのではないか。(マルコ5:28)たとえそれが臨終の時であってもだ。そのあとの難しいことはなくても神は祝福するのではないか。●難しいこととは、回心、悔い改め、教理の勉強、聖書の勉強、信仰告白、洗礼、教会員となること。献金をすること。聖餐式にあずかること、、教会行事に参加すること・・・・・●こういうことを言うと教会主義の牧師は激怒する。しかし神はこのような教会主義を通さずに人を救う。それが聖書の言わんとすることだ。違うというなら教えていただきたい。

●終日「黒崎幸吉プロジェクト」引照入力●校閲者(妻)から第一テモテの校閲結果を受け取る●夕方から妻はモーツァルト「レクイエム」の練習に出かける●「WEB黒崎」の本体が全部入力されたので調べるの非常に便利である。早い。今後聖書の翻訳者は間違いなく99%このサイトを見に来る。なぜかというと文語訳のほかに4っつの翻訳(口語、塚本、新改訳、新共同)が一挙に並んで見られるからである。ロマ書で実験中。●すると新しい翻訳者はまずこのサイトで5つの訳を一気に見る。そのついでに正統信仰(無教会の本領、栄光)の黒崎の註解を見ることになる。また同じく無教会の遺産である塚本虎二の敷衍訳にも触れることにもなる●無教会の2大遺産は塚本の敷衍訳聖書と黒崎の新約聖書註解。●「WEB黒崎」を利用して、ロマ8:18 とロマ8:28 の翻訳比較を見る。血のにじむような翻訳である。5つの訳が並ぶとその迫力はすざまじいものである。

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盆踊りの音色に誘われて近くの公園に行く。よくもこんなに大勢の人が整然と踊れるものだと感心した。手拍子が夜空に木霊したとき、日本的なるものを感じた。妻は外国の曲(モーツァルト「レクイエム」)の練習に行っている。私のなかにはクラシック音楽を好む心と日本的なるものを好む心の両方が混在している。キリスト教の無教会主義は日本的なるものなんだなー。

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

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律法を守れない者の悩み ++++++++ 所感

2009/08/21 11:43

090821(金)4時50分起床●朝の黙想「律法を守れない者の悩み」●某氏がかって「高橋君、(いいことはわかっているんだが)それが出来ないんだよなー」と言った。これは深い真理を含んでいる。●まず「よいことはわかっている」という真理。

塚本訳 マタ 5:17-19
5:17 わたしが律法や預言書[聖書]を廃止するために来たと思ってはならない。廃止するどころか、成就するために来たのである。
5:18 アーメン、わたしは言う、天地が消え失せても、(そこに書かれている)すべてのことが実現するまでは、律法(と預言書)から、その一点一画といえども決して消え失せない。
5:19 だから、これらの掟の中で一番小さいものを一つでも破り、またそのように人に教える者は、天の国で一番小さい者となり、反対に、これを行ない、また(そのように人に)教える者は、天の国で一番大きい者となろう。

塚本訳 ロマ 7:7
7:7 それでは、どういうことになるのだろうか。律法(自体)が罪であろうか。もちろん、そうではない。(しかし罪と無関係ではない。)むしろ律法によらなければ、わたしは罪を知らなかった。なぜなら、律法が『(人のものを)欲しがってはならない』と言わなければ、わたしは欲を知らなかったであろう。

塚本訳 マコ 1:24
1:24 言った、「ナザレのイエス様、『放っておいてください。』わたしどもを滅ぼしに来られたにちがいない。あなたがだれだか、わたしにはわかっています。神の聖者(救世主)です。」


●人間に律法の命ずることはできない。律法は努力目標としては無理なものだ。罪とは人間の生まれつき備わっている煩悩ではない。宗教とはその煩悩の滅却ではない。罪の本質は神殺し、人殺しのことである。その深い罪から生まれるつきの人間は解放されないのだ。パウロはキリスト信者を迫害した。パウロは次のように呻く。

塚本訳  ロマ 7:21-23
7:21 だから、わたしが良いことをしたいと思えば、かならず悪いことがわたしに生まれるという法則があることを、発見する。
7:22 すなわち、(わたしの中に二つのわたしがあって、)内の人としてのわたしは神の律法を喜ぶが、
7:23 わたしの肢体にもう一つの(わたし、罪の)法則(を喜ぶ外の人としてのわたし)があり、(その神の律法を行おうとする)わたしの理性の法則と戦って、肢体にあるこの罪の法則の捕虜にすることを、経験するのである。

●これは煩悩の滅却の戦いではない。●律法を守れない者、守れなくて人生を失敗した人を神は愛した。それが福音。しかし守れない者、その為に人生を失敗してみじめになった人を「いじめる宗教者、道徳家がいた。神はそういう人を激しく怒る。イエスの次の言葉がそれである。

塚本訳マタ 23:1-4
23:1 それからイエスは群衆と弟子たちにむかって語られた、
23:2 「聖書学者とパリサイ人はいまモーセの(後継ぎとしてその)椅子に坐っている。(彼らにはモーセの権威がある。)
23:3 だからなんでも彼らがあなた達に言うことを行い、また守れ。しかし、そのすることを真似てはならない。あの人たちは言うだけで行わないのだから。
23:4 すなわち思い荷をたばねて人の肩にのせながら、自分では(担ってやるどころか、)指一本でこれを動かしてやろうともしない。

●終日「黒崎プロジェクト」引照入力

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秋留台公園の朝。大好きなコスモスが咲きだした。なぜ好きか。風にそよぐから。剛直ではないところがよい。信仰的だ。

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夕暮れの我が家。二人だけの生活になった。妻の作る夕食が待っている。感謝。神よ今宵も安らかに守り給え。禍から守り給え。

 

 


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われは我が罪を知る ++++++++ 所感

2009/08/20 06:11

090820(木)4時目覚め●朝の反省「われは我が罪を知る」●私は隣人に対し、「悪いことをしない」人でありたいと思い続けてきた。詩篇23:6や箴言31:12 のような存在であろうと思っていた。

新共同 詩 23:6
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。


新改訳 箴 31:12
31:12 彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない。

●ところが現実の私は違っていた。なかなかそういう人にはなれなかった。常に人を「攻撃」していた。「説教していた」「裁いていた」。だから皆から恐れられ嫌われ近づかないようにされた。詩篇31:11の通りであった。当然である。私は人の顔を見るとすぐ批判し攻撃していたからである。隣人は私のそばにいることを「ホッ」としなかった。好まなかった。

新改訳 詩 31:11
31:11 私は、敵対するすべての者から、非難されました。わけても、私の隣人から。私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。

●ところが私は詩篇23:6の「恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」を心に示されて初めて「わが罪を知った」。詩篇51:3が現実のものになった。ヨブ記13:23の言葉は過去形として私のものになった。神は私の罪を知らせてくださった。神は忍耐をもって赦してくださった。何十年もかかった。

文語訳 詩 51:3
われはわが愆(とが)を知る。わが罪はつねに我が前にあり

口語訳 ヨブ 13:23
13:23 わたしのよこしまと、わたしの罪がどれほどあるか。わたしのとがと罪とをわたしに知らせてください。

●「裁くな」というイエスの戒めは神により自分の罪が赦されて初めて人を裁かなくなる。それまではいくら「裁くな」と大脳皮質に言われてもそれは実行できなかった。イエスの山上の説教にあるおおくの戒めは神の愛により自分の罪が砕かれた者にして初めて実行可能である。それまでは実行不可能な道徳訓である。

塚本訳 マタ 7:1-5
7:1 (人を)裁くな、自分が(神に)裁かれないためである。
7:2 (人を)裁く裁きで、あなた達も裁かれ、(人を)量る量りで、あなた達も量られるからである。
7:3 なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気付かないのか。
7:4 また、どうして兄弟にむかって、『あなたの目の塵を取らせてくれ』と言うのか。そら、自分の目に梁があるではないか。
7:5 偽善者!まず自分の目の梁を取ってのけよ。その上で、兄弟の目の塵を(取ってやれるなら、)取ってやったらよかろう。

●人は罪を指摘されて罪を知るのではなく、罪を赦されて初めて自分の罪を知る。しかしこれは一生かかる。しかし、の晩年に、否、臨終のときにでもそれを知ったとすればその人の人生は大成功である。なぜか。「人生は神に帰ることによって始まり、そして終わる」からである。●年に一晩だけ咲く「月下美人」は翌朝はしぼんでいる。それでいいのだ。人生の最後の瞬間だけでも美しく咲けばそれだけで人生は成功なのだ。●人は神の赦しにより、自分の罪を知って初めて神の存在を知るものだ。人にそのことが起こるのは生涯の旅の果てである。●今まで私のことを忍耐してくださった神様、両親、兄弟、友人、隣人、諸先輩、信仰の友、家人に感謝。ありがとう。

●米国宣教師のR・B氏と「WEB塚本訳」の使用許可について●AT氏より「WEB塚本訳」の問い合わせ。 塚本訳の真価がますますあらわになってくる












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子孫への遺産.。人生を安らかに歩む道 ++++++++ 所感

2009/08/19 09:13

090819(水)4時50分目覚め●朝の啓示「子孫への遺産。人生を安らかに歩む道」●WEB黒崎の入力が全巻完成したので、興奮。約一年という奇跡的な速さ。万歳三唱である。祖国日本に真に貢献できる「日本版バイブルワークス」の誕生である。このプロジェクトに参加できたことは、私自身の人生においても「金字塔」である。感謝。●朝の啓示「人生を安らかに歩む道。子孫への遺産」を黙想する。

愛する子孫へ最も貢献できるのは彼らが真に困っていることを助けることである。

彼らが最も困っていること、またこれから困るであろうことは次の二つである。

①罪の咎め、良心の責め苦、過去の過ちの悔恨。

②死の悲しみと恐怖。

●この二点についてのみ助けたい。「それ以下」の病気、経済、環境、家庭などについての助けはだれかほかの人にやってもらう。私としても残り16年、時間がない。それよりも①②が真の幸福、真の安らぎの道であるからそれを優先して証言する。「それ以下」のことも大切ではあるが、それを得たとしても「真に安らげない」のでそれに時間を割くことは私自身の人生時間の使い方としては得策ではない。賢くない。一人で何もかもできない。では①②に関して真の解決はあるのか。それはマコトか。ある!。それは真実である。

●①の苦しみ懊悩は「十字架の啓示」で解放される。神の霊の臨在で楽になれる。しかし自分の罪に気がつかず、良心の痛みもない人には「救いを求める」気持ちが起こらないから、このことが「安らぎの道」だと言っても「馬の耳に念仏」。彼らが真に自己の罪に苦しみ抜いてなりふり構わず「藁をもすがる気持ち」で罪の赦しの平安の道を求めるようになるときまでは「何を言っても徒労」。逆に噛みつかれたり、時には殴りかかられそうになったりする。それは悪霊の業である。人間は自己の罪深さに早く目覚めなければならない。バッハは言う.

『おお、人よ、汝の罪の大いなるを嘆け』(BWV622) .

原曲はオルガンだが珍しいチェロの演奏を掲げる。次をクリックすると数秒後に始まる。一般の試聴盤は一分程度で消えるが、これは4分35秒全曲が聴ける!!。

 http://players.music-eclub.com/?action=player&sid[]=233670

 

●また罪人のわたしが十字架で救われた経験は、HPに掲載した次の証言を見ていただきたい。恥は人間に、栄光は神に。

 

http://www.asahi-net.or.jp/~EJ2T-TKHS/bunshou/kaishin.html

 

●②の「死の悲しみと恐怖」はイエスの有体的復活の使徒伝承を耳で聞いたり目で読んだりして、「胸が熱くなる」と、来世実在と有体的復活、そして永遠の生命が信じられるようになる。私のHPに掲載した次の証言を見ていただきたい。

http://www.asahi-net.or.jp/~EJ2T-TKHS/denshou/guno-sisukeikou.htm

●①と②からの救いの「証人」であることが子孫への遺産である。しかしいずれも神から霊が降らなければ真理の認識に至らないことである。大脳皮質への説得では子孫は信仰に至らず「安らぎの道」を見出せない●だから私としては証人としての言葉をブログを通して発信しておく。発信はしっぱなし。あとの面倒はみない。神任せである。ブログをオープンにしておく真の理由はここにある。わかる人にはわかる。わからない人には分からない。●ときどきブログ自体を批判して来る人がいる。風当たりが強い。そういう人間を類型化すると、妬み、恐怖、憎悪。中には私に暴力を振るおうとするトンデモナイ狂人も出現するから厳しい。悲しい。気の毒。●具体的な被害がないのに他人の言論を止めようとするのは表現の自由を妨害する罪で逆に告訴されても仕方がない。世の中には訴える人がいて初めて罪が発生する「親告罪」というものがある。私の知る限り「親告罪」は訴える方に問題がある。従って訴える人物の問題性が白日のもとにさらされて本人が恥をさらすことになる。正しいことは神が知っていてくださる●ブログの「覗き見」大歓迎。誰が神に導かれるかわからないからだ。私の場合、結果的にブログで知り合った人は素晴らしい人ばかりである。その交流は私も我が家にとっても絶大なる「益」であった。結婚、就職、集会、仕事の師との出会いなどなど。だからブログはやめるわけにはいかない●しかしブログで証言する私ととしては①②からの救いの道、安らぎの道の証言をしただけではいけない。ブログを「覗き見」するであろう人の上に神の霊が降ることを真に祈る。新約聖書の手紙類の最後にはそのほとんどが次のような祝福の祈りの言葉である。これは私の子孫への祈りでもある。

塚本訳Ⅱコリ13:13
13:13 主イエス・キリストの恩恵と、神の愛と、聖霊の交りとが、あなた達一同と共にあらんことを。

塚本訳ロマ 16:27
16:27 このただひとりの賢い神に、イエス・キリストによって、栄光、永遠より永遠にあらんことを、アーメン。


塚本訳Ⅰコリ16:23-24
16:23 主イエスの恩恵、あなた達と共にあらんことを。
16:24 わたしの愛はキリスト・イエスにおいてあなた達一同と共にある。

塚本訳ガラ 6:18
6:18 わたし達の主、イエス・キリストの恩恵、あなた達の霊と共にあらんことを、兄弟たちよ、アーメン。

 塚本訳エペ 6:24
6:24 われらの朽ちぬ栄光の主イエス・キリストを愛する凡ての者に恩恵あれ!

塚本訳ピリ 4:23
4:23 主イエス・キリストの恩恵、君達の霊とともにあらんことを。

塚本訳 コロ 4:18
4:18 これが私パウロの手による挨拶である。どうか私の縄目を記憶してもらいたい。恩恵君達と共にあらんことを!

塚本訳Ⅰテサ5:28
5:28 願わくは私達の主イエス・キリストの恩恵、君達と共にあらんことを!

塚本訳Ⅱテサ3:18
3:18 願わくは、私達の主イエス・キリストの恩恵、君達一同と共にあらんことを!

塚本訳Ⅱテモ4:22
4:22 主、君の霊と共に、恩恵、君達と共にあらんことを!

 塚本訳テト 3:15
3:15 私と一緒にいる者達皆から君に宜しく。信仰において私達を愛してくれる者たちによろしく。恩恵、君達凡てと共にあらんことを!

塚本訳ピレ 1:25
1:25 主イエス・キリストの恩恵、あなた達の霊と共にあらんことを。

塚本訳ヘブ 13:25
13:25 恩恵、あなた達一同と共にあらんことを。

 塚本訳Ⅱペテ3:4
3:4 言う、「彼の来臨の約束は何処にあるか、父祖たちが眠って以来、凡ての事が創造の初めからあった通りにしているではないか」と。

塚本訳黙  22:21
22:21 (願わくは、)主イエスの恩恵凡ての者と共にあらんことを!

 

●「藤林益三」(開成出版)の正誤表約400通を発送。これで藤林先生に関することはすべて終わった。さようなら藤林先生。長いことお世話になりました。ありがとうございました。先生に天国でお目にかかれるように残りの人生を信仰に固く歩みます。

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近所の空き地で子供たちが遊ぶ。人口減の今日、子供は宝だ。

遊べ、遊べ。遊びが勉強。知能の発達は遊びだ。

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親族とは別れよ ++++++++ 所感

2009/08/18 05:58

090818(火)3時30分目覚め。朝の啓示「親族とは分かれよ」●この関連聖句が次々と浮かぶ。私の人生の最後の試練、大波が来たか。

塚本訳 ヘブ 11:8
11:8 信仰によって、アブラハムは財産として戴くべき(カナンの)場所に『出てゆけ』とのお召しを受け、(素直に)言うことを聞いた。そしてどこへ行くともわからず、『出ていった』。

塚本訳 マタ 12:48
12:48 しかしイエスはそのことを知らせた者に、「わたしの母とはだれのことだ、わたしの兄弟とはだれのことだ」と答えて、

塚本訳  ルカ 5:4
5:4 話がすむと、シモンに言われた、「沖に漕ぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい。」

塚本訳 ヨハ 4:35
4:35 あなた達のあいだでは『刈入れの時の来るにはまだ四月』と言うではないか。しかしわたしは言う、目をあげて畑を見てごらん。(麦畑の間を押し寄せてくるあのスカルの人たちを!)畑は黄ばんで刈入れを待っている。

塚本訳 マコ 10:28-30
10:28 ペテロがイエスに、「でも、わたし達は(あの金持とちがいます。)この通り何もかもすてて、あなたの弟子になりました」と言い出した。
10:29 イエスは言われた、「アーメン、あなた達に言う、わたしのため、また福音のために、家や兄弟や姉妹や母や父や子や畑をすてた者で、
10:30 今、この世で──迫害のうちにおいてではあるが──百倍の家と兄弟と姉妹と母と子と畑とを、また来るべき世では永遠の命を受けない者は一人もない。

塚本訳 Ⅰコリ7:29
7:29 兄弟たちよ、わたしが言うのはこのことである。──時は迫った。(だから)今から後は、妻を持つ者は持っていない者のように、

新共同 創 22:2
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

新共同 創 22:7-9
22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。

塚本訳 ヘブ 11:17-19
11:17 信仰によって、『アブラハムは(神に)試されたとき、(燔祭として)イサクを捧げた。その独り子を』捧げようとしたのである。彼は(神の)約束を受け、
11:18 『イサクから生まれる者が、あなたの子孫となるべきである』と語られた者であった。
11:19 神は死人の中からでも生きかえらせる力があると考えたからであった。そのため(この信仰に対する報いとして、)彼はその子を(キリストの死と復活との)比喩として返してもらったのである。

●アブラハムやイエスやパウロがそうであったように親族から別れる時が来た。従ってブログの体裁を再考すべき時が来た。福音伝承の真剣勝負の「武器」となるべきだ。忘備録であってはならず、自分史は自慢史であってはならず、遊びや楽しみの記録であってはならない。恥と失敗と悩み悲しみからの救いの記録であるべきだ。その聖書的根拠は次の通り。

塚本訳  ルカ 8:39
8:39 「家に帰って、神がどんなにえらいことをしてくださったかを、(みんなに)話してきかせなさい。」すると彼は行って、イエスがどんなにえらいことを自分にされたかを、町中に言いふらした。

●終日「WEB黒崎」引照入力●「WEB黒崎」のロマ担当者から終了の連絡。これで全10巻の入力が完了、約一年は「現代の奇蹟(大島智夫)。感謝。残り、引照乳六があと5か月。●人間は神を知らない内はみな「狂人」である。悪霊に取りつかれているから常に「恐怖心」がある。

塚本訳 ヨハ 9:15
9:15 パリサイ人もふたたび、どうして見えるようになったかと尋ねた。彼がこたえた、「あの方が目に泥を塗ってくださったので、洗ったところ、こんなに見えるのです。」


塚本訳 エペ 2:8
2:8 然り、君達は恩恵の故に、信仰によって救われた者である。これは君達の力によるのでなく、神の賜物である。

●私はプログで多くの真の霊の交わりが得られたが、中には悪く見る人もいる。「勝手に考えろ」●かわいそうなのは人が悪く見える人間。自分が裁かれていることを知らない。彼らに共通なのは「この世的」であること。悲しいかな判で着いたように同じである。

塚本訳 マタ 7:1-2
7:1 (人を)裁くな、自分が(神に)裁かれないためである。
7:2 (人を)裁く裁きで、あなた達も裁かれ、(人を)量る量りで、あなた達も量られるからである。

●ブログを福音伝承の武器とするとますますこの世の勢力との戦いとなり、攻撃も激しくなるかもしれない。なぜか。「悪いことを悪い」というからだ。それを読んだ人間で「これは自分にあてつけに言っているのだ」と思う人間は逆上して狂人の如く襲いかかってくるものだ。

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夏の我が家。芙蓉の花は口紅のようだなー
























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人を殺して神を知る ++++++++ 所感

2009/08/17 06:25

090817(月)4時15分目覚め●朝の黙想。「神の存在が分かるのは罪の悩み」●その罪とは煩悩(人間に備わっている各種欲望・・・性欲、金銭欲、権力欲、遊興欲)ではない。罪とは神への傲慢と反抗である。その罪を匂わせるのが主人や親への反抗である。そしてそれがエスカレートして「アイツ早く死なないかなー」と心密かに思うことである。これ神の目から見ると完全に「殺人鬼」である。死刑である。●人間は誰でも心での「殺人鬼」である。だから旧約聖書はそのスタートにカインの殺人事件をあげている。(創世記4章)。カインは実際にそれを実行した●人間が「自分は殺人鬼」だという深い罪の自覚に悩まないうちは神は分からない。●あいつ早く死なないか。アイツ早く左遷させられないか。あのイヤな生徒早く卒業しないか。あいつ病気にならないか。あいつ天罰として不幸にならないか。いやな上司、主人、支配者、姑、舅、嫁、親類縁者よ早く死ね!・・・などと心密かに思う人間はそれだけで殺人鬼の匂いがする。自らのこの醜さに悩まない人間はまだ半人前。否人間ではなく禽獣●「アイツ早く死ね!」ということを心ではなく実際に「むき出しに」言ってしまったり、殺人を実行してしまう悲惨でみじめな人間がいる。しかしそのような人間の方が救いに早く到達する。悔い改めも早いからである。●人は殺人を犯して神を知る。殺人鬼の自覚で神を知る●人間、この殺人鬼の悩みから救われるには神の子イエスの十字架の贖罪になりふり構わず、はしたなく、恥でも、メンツを捨ててでもすがるしか方法がない。少なくとも私はそれで救われた。●某氏はかって言った。「あの人はなぜキリスト信者になったのかなー。一度聞いてみたい」と。しかしこれは「大脳皮質」で聞いても納得できない。自らが罪の自覚の懊悩苦脳の窒息しそうな生き地獄の苦悶に陥ってなりふり構わず「タスケテクレー」と叫ぶようになるまでは神の存在はわからない。かわいそうだが「アイツ早く死なないかなー」と心密かに思っていることへの神の激しい罰である。いたしかたない。この人生はそういうようになっている。●人間が人生のゴタゴタを通して自分の罪を知って慄き「タスケテクレー」とどうしようもなく叫ぶ時に初めて十字架の光が射してくる●親殺し、友人殺し、隣人殺し、家人殺し、子供殺し、愛人殺し、嫁姑殺し、主人殺し、隣国殺し、等すべての殺人の根は「神への反抗という神殺し」。具体的な人殺しは神殺しの実。なぜか。神がいなければ人殺しも赦されると思うから●夫婦の心が神によって一体になっていないとその隙間にサタンがニヤリと笑ってそこに入り込む。その隙間に「この世的罪悪」にまみれた子供が入り込むと家庭内が分裂し悲惨なことになる。そうなると家庭崩壊はまもなくである。●信者は神を信ずるが故に「この世人間」から自分の欲望遂行のために邪魔な奴だと思われ敬遠され心で殺される。それは恐ろしいことである。しかしそれで流される血が相手を救いに導く。「血は種子」である。殺される痛みは無駄には終わらない。

塚本訳Ⅰコリ15:58
15:58 だから、わたしの愛する兄弟たちよ、しっかりしておれ、動かずにおれ、いつも主の仕事にぬきんでよ。骨折りが主にあってむだにならないことを、あなた達は知っているのだから。

塚本訳  ロマ 8:18
8:18 (しかもこの苦しみは恐れることはない。)なぜなら、わたしはこう考える。今の世の苦しみは、わたし達に現われようとしている栄光(──キリストと一しょに神の国の相続人になる最後の日の大いなる光栄──)にくらべれば、言うに足りない。

塚本訳ロマ 8:28
8:28 そればかりではない。(わたし達の救いは次のことからも確かである。)わたし達が知っているように、神を愛する者、すなわち(神の)計画に応じて召された者には、すべてのことが救いに役立つのである。

塚本訳  マタ 10:35-36
10:35 わたしは子を『その父と、娘を母と、嫁を姑と』仲違いさせるために来たのだから。
10:36 『家族が自分の敵となろう。』

 ●私の家族、子供、その伴侶、孫、親類縁者のすべてが、気の毒ではあるが「殺人鬼の自覚」をする日が訪れて、神の恵みの救いにあずかれる日の来ますように●かわいい孫に向かって「お前は殺人鬼」だというのは忍びがたいが仕方がない。その自覚は人間が動物的存在から神に目覚める成長の過程なのだ。それなくして人間の真の成長はない。●殺人鬼の自覚が神を知る道、真の幸福への道●私の祈り。愛する家人、子供、孫、親類縁者の心に神の聖なる光が差し込んで、各自に罪の自覚と苦しみを与えて救いに導き、真の「幸福」を与えてくださいますように。その激しいどうしようもない苦しみは新しい霊の生みの苦しみ。●シェークスピアーの「オセロー」は主人公オセローがデスデモーナを誤解してその首を絞めて殺したが誤解して殺したのだとわかった時に自分の両手を見て震えおののく。●長い人生では各自がこの罪の自覚に震えおののく時が必ず来る。人生や家庭のゴタゴタを通してそういう場面がくる。それが人生の「定め」である。そういう悲惨な目に遭う人こそ「幸い」である。その人は神の祝福のうちにある。●「人間は人を殺して神を知る」これ聖書のテーマ。またドストエフスキーの「罪と罰」のテーマ●信者は不信者を常に殺している。「アイツは馬鹿な罪人だ。神に罰を受けるのは当然だ。不幸に遭うのはいい気味だ」と。信者はこれではいけない。信者がこう思っているうちは福音は伝わらない。イエスは次のように言う。

塚本訳 マタ 5:44-45
5:44 しかしわたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈れ。
5:45 あなた達が天の父上の子であることを示すためである。父上は悪人の上にも善人の上にも日をのぼらせ、正しい人にも正しくない人にも、雨をお降らしになるのだから。

[ 『おお、人よ、汝の罪の大いなるを嘆け』(BWV622)]

島田泉氏の文章を掲げる。抜粋。人は犠牲の死があっていつか神に目覚めるものだ。

バッハの二つのコラール
島田 泉
哲学者森有正はオルガンをこよなく愛した。礼拝堂でオルガンを弾くのが日課だったそうだ。彼がバッハについて語ったテレビ番組でそのことを知ったのだが、そこで彼は掛け替えのないものとして、コラール3曲を挙げた。『おお、人よ、汝の罪の大いなるを嘆け』(BWV622)、『バビロンの流れのほとりにて』(BWV653b)、『おお、汚れなき神の子羊』(BWV656)の三曲だ。そして、医者になる前のプロのオルガニストとしてのシュバイツァーの演奏を引き合いに出して、そのすばらしさを力説していた。
森有正の実直そのものの語り口に惹かれて、私は、二つ目の曲と同名の著書『バビロンの流れのほとりにて』と、盲目のオルガニスト、ヘルムート・ヴァルヒャのLPを買い求めた。教会の澄んだ空間に鳴り響くオルガンの音を聴きたくて、ステレオ録音のヴァルヒャを選んだのだ。こうして、森有正の宗教観を目をこすりこすり学びながら、バッハのコラールでその感覚を音楽的に「体験」することになったのだが、殊に、コラール『おお、人よ、汝の罪の大いなるを嘆け』は、「宗教的」感動に目覚めさせてくれた大切な作品のひとつになった。
ルター派教会の賛美歌である「コラール」は、ルター自身のものを含む、様々な作家の旋律を集めた曲集だ。多くの「バッハのコラール」は、これらの旋律を使った「バッハ編曲によるコラール」ということになる。コラール『おお、人よ、汝の罪の大いなるを嘆け』も、元はグライターという作者の手に成るものだ(1525)。ルター派は音楽を重視したということだが、教会に人を集めるため、誰にでも歌えるごく簡単な旋律の賛美歌を単旋律で歌わせていたらしい。和声を伴わない単旋律の音楽は、人それぞれの解釈を許容するものだ。バッハは賛美歌としてのコラールについて、自分の解釈を示そうとしたのだと思う。特に、コラール『おお、人よ、汝の罪の大いなるを嘆け』では、バッハはグライターの原曲にかなり手を入れていて、元の旋律線を残してはいるものの、原音は複数の音に分割・装飾され、和声についても、元の旋律から常識的に想定される和音ではなく、この歌に対するバッハ独自の解釈により99%「変曲」されていると言ってもよいほどだ。バッハのこのような変更は、その歌詞と旋律から受ける一般的な心象に対して、別の角度から光を当てるという、真に創造的な作業だったと思う。教会でこれらの曲に接した人々は「そういうことだったのか」と唸ったに違いない。
(中略)
 
今から15年ほど前だったか、70歳を越した父親が教会に通い始めたとき、『マタイ受難曲』とシュバイツァーによるバッハのオルガン曲集のレコードを贈ったことがあった。親父は私が贈ったレコードを愛してくれた。私の顔を見るといつもそれをかけてくれた。あるときシュバイツァーを聴かせてもらっていて驚いた。『マタイ受難曲』の第一部終曲、コラール『おお、人よ、汝の罪の大いなるを嘆け』に、シュバイツァーのオルガンによる同名のコラールの旋律が、合唱曲の一つの声部として埋めこめられていることに、遅ればせながら気づいたのだ。原旋律の編曲は、オルガンコラールの場合も合唱コラールの場合も、ともに大きなデフォルメを伴っていたため、また、以前はテンポや奏法の違いにより目立たなかったコラール旋律が、シュバイツァーの滔々とした演奏によって、『マタイ』のコラール旋律と私の中で重なったのだ。
それから10年ほどたって親父は病に倒れ、やがて帰らぬ人となった。告別の日、聖堂に葬儀の開始を知らせるオルガンが響く。その曲は、なんとあのバッハのコラール『おお、人よ、汝の罪の大いなるを嘆け』だった。そして、牧師の先生の祈祷と聖書朗読に続いて、賛美歌合唱。会衆により斉唱されたその賛美歌は、『マタイ受難曲』のまさにあのコラール『ああ、血と傷にまみれし御頭』だった。親父は、この二つのコラールを選んでいた。

●8:40 TK氏と電話懇談。昨日の会で質問時間に「塚本の戦争に対する姿勢の批判」が出た。この批判者に対してTK氏はイエスとパウロの例をひいてこの世のことは相対化すべきことを懇切丁寧に説何も発言しなかった。そして今朝TK氏に言った。「今日盛んに塚本の戦争に対する態度を批判する人間は戦時中に殺人兵器を研究したり、士官学校で殺人の方法を研究していた。そのとき塚本先生はひたすら聖書を説いていた。どっちが真に平和に貢献したかは神のみぞ知る。」と。しかしこのことは「この世の天国」を目指すこの世人間には「馬の耳に念仏」。並行線の不毛な論争。 ●どうしても名前を思い出せない人がいるので元職場の人事課に問い合わせる。●午後は郵便局、BK、コンビニ●季刊「無教会」の8月号が届く。私の巻頭言は長過ぎた。

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家庭の喜びを捨てよ ++++++++ 所感

2009/08/16 06:18

090816(日)5時半目覚め●朝の啓示「家庭の喜びを捨てよ」●人生の様々な悲惨に会えば会うほど「この世の楽しみ」から振りほどかれることが示唆される。その一つが家庭建設の喜びである。これは人間が追及するものとして当然のことであるが、実は最高の喜びではない。それはしばしば裏切られる。失う。●人間はこの世の争いによるゴタゴタを通して初めて目覚める。自分が心の闇に陥っている狂人であって、心が「らい病」であることを知る。そして「本当の幸福とは何か」。「本当の命とは何か」を求める。人生はそれから始まる。

塚本訳 Ⅰテモ6:19
6:19 かくして自分の未来のために善い資本を積んで、真の生命を捉えるように(命ぜよ。)

●、季刊「無教会」のテーマは「ほんとうの命とは」であって、その巻頭言を依頼されたが、この聖句があることをもっと早く知っていればよかった。●キリストに一心に帰依するためには普通一般常識の「幸福」を捨てさせられる。

塚本訳 ルカ 14:26
14:26 わたしの所に来て、その父と母と妻と子と兄弟と姉妹と、なおその上に、自分の命までも憎まない者は、だれもわたしの弟子になることは出来ない。

塚本訳 マタ 19:29
19:29 そしてわたしのために家や兄弟や姉妹や父や母や畑をすてた者は一人のこらず、(この世で)その幾倍を受け、また(来るべき世では)永遠の命をいただくのである。

塚本訳  マタ 10:34-38
10:34 地上に平和をもたらすためにわたしが来た、などと考えてはならない。平和ではない、剣を、(戦いを)もたらすために来たのである。
10:35 わたしは子を『その父と、娘を母と、嫁を姑と』仲違いさせるために来たのだから。
10:36 『家族が自分の敵となろう。』
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたし(の弟子たる)に適しない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたし(の弟子たる)に適しない。
10:38 また自分の十字架を取ってわたしのあとに従わない者は、わたし(の弟子たる)に適しない。

塚本訳  マタ 16:23-24
16:23 イエスは振り返って、ペテロに言われた、「引っ込んでろ、悪魔、この邪魔者!お前は神様のことを考えずに、人間のことを考えている!」
16:24 あとでイエスは弟子たちに言われた、「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、(まず)己れをすてて、自分の十字架を負い、それからわたしに従え。

●私の場合は無理やりに「家」(マタ19:29。火災)、「肉の命」(ルカ14:26、脳内出血で意識不明)、「妻、子」(マタ10:37、いさかい)。これらが突然襲いかかってきて、それはみじめで悲惨な状態になる。しかしそれは神が「ほんとうのいのち」とは何かを私に教えるために激しく殴りかかったものであった。その不幸は幸福への「門」である。家庭の幸福、子たくさん、孫だくさんの幸福は真の幸福ではない。男一匹そのようなことを幸福の目的としてはいけない。

【罪の自覚が希薄な人間】

●深い罪の自覚と懊悩が人を神に向かわせる。その罪の自覚は神の光によって己の醜さを照らし出されたときにおとづれる。それは人間の指摘では目的を達しない。ただ反抗して噛み裂くだけである。

塚本訳 マタ 7:6
7:6 (とはいえ、正しい判断は出来ねばならない。神に供えた肉など)神聖な物を犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。豚はそれを足で踏みつけ、向き直ってあなた達を噛み裂くかも知れない。

●人間は神を知るまではみな狂人であり、心のらい病者である。●しかし人生には望みがある。神を信じない人間にも「良心」というものがある。ヒルティはそのことを「この世には倫理的世界秩序というものがあることを固く信ぜよ」と言っている。それがこの悪の世を安らかにわたっていく手段であるという。そしてヒルティは言う「自分一個の人格的影響の努力を 放棄せよ」と。これは何か。「神は人生の悲惨さのすべてを御存知だ」ということである。

塚本訳 Ⅰコリ15:58
15:58 だから、わたしの愛する兄弟たちよ、しっかりしておれ、動かずにおれ、いつも主の仕事にぬきんでよ。骨折りが主にあってむだにならないことを、あなた達は知っているのだから。

[ 親告罪】

ネットで調べると次の通り。私の作成した図表を無断で使用された例がある。著者と編集長が示談金を持ってきたが受け取らずに赦した。この種のものは訴えがなければ罪にならない。これを「親告罪」という。それをネットで調べると次の通り。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●親告罪(しんこくざい)とは、告訴がなければ公訴を提起することができない犯罪をいう。告訴を欠く公訴は、訴訟条件を欠くものとして判決公訴棄却とされる。

親告罪のうち、犯人と被害者の間に一定の関係がある場合にかぎり親告罪となるものを相対的親告罪、それ以外の親告罪を絶対的親告罪という。前者の例としては親族間の窃盗刑法244条・親族相盗例)がある。

なお、公正取引委員会告発独禁法第96条1項)や、外国政府の請求(刑法第92条2項)がないと公訴を提起できない罪も親告罪と呼ぶことがある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●私たちと子供二人、そして孫4人で家庭礼拝。祈り、孫+私。讃美歌「主われを愛す」。創世記一章、創造の第一日目朗読。讃美歌「あましみず」。妻の祈り。●二家族が帰る。●14:00今井館へ妻と「歴史を学ぶ会」。内村鑑三と塚本虎二・・片山祐三、塚本先生の聖書改訳をめぐって・・藤本悦子。私もフロアーから質問した

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

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子供はパワー ++++++++ 所感

2009/08/15 06:06

090815(土)5時起床●朝の黙想。休むことなく動き回る孫たち(伊勢家三名の孫)に振り回されて思うこと。●母親の子育てというのは身体的にも精神的にも超重労働だなー●しかし子供たちが大きくなると親にとっては子供がパワーになる。●子育ての苦労は一瞬だ。「もう少し、もう少し」人生はあっという間だ。そのうち親を助ける「パワー」になる。●詩篇の次の句を思い出した。

新改訳 詩  127:3-5
127:3 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。
127:4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
127:5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。

●子供を「勇士の手にある矢」と表現したのは至言。わが国の戦国時代(室町~江戸初期)の武将毛利元就(1497-1571)に似たような逸話がある。

三本の矢

ある日、元就は三人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけた…というもの。これが有名な「三本の矢」の逸話である。

●では子供に恵まれない人はどうか。別に「神の栄光を現す」ように使命があるのではないかなー。イエス、パウロ、カント、ヴェートーヴェン、カトリックの司祭。・・・・・・・。●ヒルティは「人生観で最高のものは『神の栄光を現す』ということだという。神御自身がその人を通して、本人の意思にかかわらず「神の栄光」を表す。それは大抵苦難や不幸や悲しみを通して!!。 

●子供はパワーというが、こと宗教、芸術、文学、スポーツ、経営の世界では世襲はできない。その内容を伝授できない。その道で一芸をなした人の子供は親の栄光を継いでいないのが普通。ゲーテ、多くの伝道者や牧師、長島茂雄(!)。某超大手建設会社の息子は役員ではあるが経営能力がないため「冠婚葬祭専門」の役員。それに比べて鹿島建設の中興の祖であった鹿島守之助社長は男子が生まれなかったので、複数の娘に優秀な婿(石川、渥美など)を迎えて会社の経営を任せた。すると第10位から一躍第1位の会社になった。もし息子が生れて、その直系に経営を任せたら今日の隆盛はなかった。野村証券が隆盛なのは役員の子弟を入社させないことが原因。それは「血が汚れる」からだという。●元最高裁判所長官の藤林益三先生は「信仰は一代だ」と言われた。そうかもしれない。無教会の大先生の子弟はなぜか信仰に熱心ではない。これ生物学的真理かもしれない●マックスウェーバー研究の某学者は言う。「オートバイ屋の息子はオートバイに興味をもたない。なぜか。いつも家にオートバイがあるから。」と。●宗教の民ユダヤ民族は神の子イエスの福音を拒否して殺した。しかしこれも神の大計画のうち。(ロマ9-11章)。神の思いは人間の思いや心配よりも上だ。

塚本訳 Ⅰコリ1:24-25
1:24 (神に)召された者だけには、ユダヤ人、異教人の別なく、(これこそ)神の力、また神の知恵なるキリストを(説くのである)。
1:25 というのは、神の(業はどんなに)馬鹿なこと(に見えても、それ)は人よりも知恵があり、神の(業はどんなに)無力(に見えても、それ)は人よりも力があるからである。

●朝起きると孫がいる

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「オジーチャンおはようございます」。伊勢かなほ2歳10か月

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妻の真似をしてラジオ体操をする伊勢かなほ

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伊勢健太郎は1歳と1か月。スピードでハイハイする姿が面白い。ハイハイの仕方を教えるわけではないのになぜ出来るようになるのだろう。

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伊勢健太郎は1歳と1か月。つかまり立ちする。歩けるのはもうすぐだ。我が息子が歩けるようになった日、妻が手を叩いて歩かせて見せた日のこと思い出す。ついこの間のことのようだ。

●THさんから「塚本虎二先生記念会」のことで電話が来る。「思い出話はよくない」ということで意見が一致。「自然体、自然体」。記念会の類は「自然に生き、自然に消滅する」のが無理のない道。「預言者の碑を建てる」の愚をしてはならない。

新共同 マタ 23:29
23:29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。

●TM一家が来てくれた●午後は近くの秋留台公園に二家族の孫たちを水遊びに連れて行く。

 

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秋留台公園噴水池は夏になると子供の水遊び場になる。孫たちは大喜びであった。

 

 

 

 

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ワタシ美人にはなりません ++++++++ 所感

2009/08/14 06:02

090814(金)5時半目覚め●一人で泊まりに来ている孫の伊勢初音からいろいろ学ぶ。初音は野菜という野菜がほとんどが嫌いである。(トマト、キューリ、ナス、ピーマン)これでは母親が苦労するだろうと思って言った。

私「初音ちゃん。野菜食べると美人になれるよ」。

初音「ワタシ美人にはなりません」

私「初音ちゃん。野菜好きになるとお姫様になれるかもよ」

初音「ワタシ、お姫様にはなりません」

●なぜ説得に失敗したのかを考える。話がウソッポかったのではないだろうか。●パウロは「有体的復活」を説得するときどういう手法を使ったか。「みんなが出会った」と客観的事実を言った。

塚本訳 Ⅰコリ15:3-7
15:3 まえにわたしが(福音の)一番大切な事としてあなた達に伝えたのは、わたし自身(エルサレム集会から)受けついだのであるが、キリストが聖書(の預言)どおりにわたし達の罪のために死なれたこと、
15:4 葬られたこと、聖書どおりに三日目に復活しておられること、
15:5 またケパに、それから十二人(の弟子)に、御自分を現わされたことである。
15:6 そのあと、一度に五百人以上の兄弟に御自分を現わされた。そのうちの多数の者はいまでも生きてい(て、わたしが嘘を言っていないことを証明してくれ)る。もっともすでに眠った者もあるにはある。
15:7 そのあと(御兄弟の)ヤコブに、それから使徒一同に、御自分を現わされた。

●この孫娘が「年頃」になって、「美人になりたい」と思った時には、一生懸命に食べるようになるだろう。何事も本人がその気にならなければ傍からの「説得」「説教」「教訓」の類は効果がない。聖書的には次かもしれない。

口語訳 雅  2:7
2:7 エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。

●これは亡くなった父が家族親族の救いに私が悩んでいる時に私に話してくれた聖句である。父は妻(すなわち私の母)の救いと子供全員の救いを見ずに召された。しかし父の祈りは「神が知った」ものと思う。いつか、それはこの世でかあの世でか分からないが「祈りは聴かれる」ものと思う。なぜか。人類全員の救いは神御自身の願いであるから。全能の神は「私のあせり」をとっくに御存知で祈らずとも願いを聴いて下さるものと信ずる。

塚本訳 マタ 6:30-34
6:30 きょうは花咲き、あすは炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこんなに装ってくださるからには、ましてあなた達はなおさらのことではないか。信仰の小さい人たちよ!
6:31 だから、『何を食べよう』とか、『何を飲もう』とか、『何を着よう』とか言って、心配するな。
6:32 それは皆異教人のほしがるもの。あなた達の天の父上は、それが皆あなた達に必要なことをよく御承知である。
6:33 あなた達は何よりも、御国と、神に義とされることとを求めよ。そうすれば(食べ物や着物など)こんなものは皆、(求めずとも)つけたして与えられるであろう。
6:34 だから、あしたのことを心配するな。あしたはあしたが自分で心配する。一日の苦労はその日の分で沢山である。

●「雲のような証人」(ヘブ12:1)がいるのに信じようとしない人間を相手にするのは「人間の欲」からであるから、「時の来るまで」ひとまず離れた方が良い。人間の努力熱心だけでは無理なのだ。イエスは次のように言う。

塚本訳ルカ 16:27-31
16:27 金持が言った、『父よ、それではお願いですから、ラザロをわたしの父の家にやってください。
16:28 わたしに五人の兄弟があります。彼らまでがこの苦しみの場所に来ないように、よく言って聞かせてください。』
16:29 しかしアブラハムは言う、『(その必要はない。)彼らにはモーセ(律法)と預言書と[聖書]がある。その教えに従えばよろしい。』
16:30 彼が言った、『いいえ、父アブラハムよ、もしだれかが死人の中から行ってやれば、きっと悔改めます。』
16:31 しかしアブラハムは答えた、『モーセと預言書との教えに従わないようでは、たとえ死人の中から生き返る者があっても、その言うことを聞かないであろう。』」

●救いには「時」がある。順序がある。パウロはそう自分で自分を説得した。自分で自分を慰めた。そしてそれは本当のことだろう。

塚本訳 ロマ 11:25-28
11:25 兄弟たちよ、この秘密を知らずにいてもらいたくない、あなた達(異教人諸君)が、自分は賢い(からこの特権を得た)などとうぬぼれることのないために。一部のイスラエル人が頑なになって(キリストを信ぜずに)いるのは、異教人が(信仰に)入って定数に満ちるまでであり、
11:26 こうして(イスラエル人は異教人が妬ましくなり、悔改めて信仰に入り、)イスラエル人全部が救われる、ということである。(聖書に)書いてあるとおりである。『シオンから救済者が来て、ヤコブ(の子孫)から不信心を遠ざけるであろう。
11:27 ──これが彼らと立てる私の契約である、』『彼らの罪をわたしが取り除くその時に。』
11:28 (思えば不思議な神の計画である。)彼らは、福音の点から言えば、あなた達(の救い)のために(福音をしりぞけて神の)敵になっており、(神の)選びの点から言えば、先祖たち(に対する契約)のお蔭で(今もなお神に)愛される者である。

●今朝の食卓で

初音「ワタシ、かわいい水着を持ってきたの」

私「それじゃー写真に撮ってあげる」

初音「エーッ!!。それ男の子に見せないでよ」。

私(心の中で)「この子はませている。誰に似たのだろう。もう年頃になっているのかなー。」

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9:40初音を自転車に乗せて市民プールに行く。初音は一年生になったのでスライダーに乗れた。バタ足で7メートル泳げるようになった。

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プールの帰りに栗を取る。その昔、子供たちと栗を取った事を思い出した。あきる野は栗林が多い。

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プールから戻ると、中野から残りの伊勢一家が来てくれていた。

 

 

 

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体は神殿だから清く保て ++++++++ 所感

2009/08/13 19:50

090813(木)5時起床●コンビニに行って黒崎註解関係の拡大コピー。Ⅱテモ。●今日も終日外出

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竹橋の東京国立近代美術館(谷口吉郎設計)の「ゴーギャン展」に行く。満員。観賞者の顔顔ぶれを見てこれだけの知性の人がなぜキリスト教に耳をかさないのかなーと思った。しかし教会や集会を通さず「聖書」とそのものに接すれば感ずるところがあるだろうにと思った。日本人は識字率が高いし、勉強好きである。ゴーギャンの傑作である次の絵は黒山の人だかり。

photo

ゴーギャン

《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》 1897-98年 ボストン美術館所蔵品。

●ゴーギャンの画では「アスリカンの並木路・アルル」の紅葉がよかった。●常設展では川端龍子(日本画家)の「草炎」がよかった。私は日本人なんだなー。


「草炎」川端龍子Souenn

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竹橋のパレスサイドビル(毎日新聞社)は日建設計林昌二設計の 名建築

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パレスサイドビル玄関の庇はアールヌーボー調だが本格的なものではない。日本の番傘のイメージ。

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13:30国際基督教大学で「キリスト教性教育研究会」(富永國比古会長)。前の三人はその研究会に出席するカトリックのシスターたち。私は感想としてⅠコリ6:19を引き「体は霊が宿る神殿なのだからこれを汚してはならないのだ」と発言。純潔は「道徳的に説くよりも実利的に説くべきだ。つまりこの私の神殿を汚すな、という理由の方が効き目があるのではないか。身体、神殿、復活、食物これらの概念は共通。

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キリスト教性教育研究会富永國比古会長と。冨永先生は性の悩み、失敗で苦しみ傷ついた若い女性を救おうとされている。

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あきる野に戻ると夕暮れ。無条件に、理屈抜きに「ホッ」とする。

 

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今あるは誰かの苦しみによる ++++++++ 所感

2009/08/12 06:15

090812(水)5時目覚め●昨日港区芝増上寺で見た水子地蔵に圧倒されて様々なことを思いめぐらす。

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昨日(090811)、港区芝増上寺の水子地蔵。一体一体が別の顔で安らかに笑っている。この世に生をうけなかった薄幸の子供tたち。突き当りにあるのは観音様だろうか。

●そばにあった絵馬に書いてあった数々の言葉で忘れられないのは次の通り。「ゴメンね。ママより」「天国で会おうね」「その後私を大切にしてくれる人と出会えました」「次には絶対に生むよ。なにがなんでも幸せにして見せるよ」「あの時は本当にゴメンネ」「また来年会いにきますね。またね」

●これらの言葉を通して人生の厳粛さを思った。女性の懺悔の言葉が多い。このことからも難解な次の聖書の言葉が理解できる。

口語訳 Ⅰテモ2:15
2:15 しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。

●検索エンジンのヤフーで調べた。水子155万、水子供養74万。随分多い。実際の水子の数は数えきれないのであろう。生命を捨てた「良心の痛み」が供養する気持ちになるのだろう。「その後私を大切にしてくれる人と出会えました」と書いた女性の人生を想像した。失敗の人生の上に今の自分がある。あの私が殺した(名もなき)子供の犠牲の上に今の私の人生がある。「ゴメンね。ママより」は涙なくして読めない。人は生命の犠牲があって「人生を反省する」「人生を悔いる」「人生に目覚める」「人生をやり直そうとする」

●ローマの軍人はイエスを十字架で殺したとき、何かを感じた。イエスを神の子と初めて告白したのは何とこの異教人、しかも宗教家ではなく軍人。死は人を目覚めさせる。信仰に導く。

塚本訳 マタ 27:54
27:54 百卒長および一しょにイエスの見張りをしていた兵卒らは、地震とこれらの出来事とを見てすっかり恐ろしくなり、「この人は、確かに神の子であった」と言った。

●薄幸な水子の救いを祈っているのは観音様らしいが、キリスト教ではこのことをどう捉えるのか。子を殺した良心の痛みにキリスト教はどう答えるのか。・・・・そうだキリスト教では神自身が犠牲になるのだ。

塚本訳 ロマ 5:6-8
5:6 なぜなら、わたし達がまだ弱くあったとき、当時まだ不信心者の(わたし達の)ために、キリストは死んでくださったからである。
5:7 (驚くべき神の愛!人間の世界では、)義人のために命をすてる者はほとんどあるまい。善人のためならば、惜しげもなく命をすてる者が、あるいはあるかも知れない。
5:8 しかしわたし達が(義人でも善人でもなく、)まだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。このことによって、神はわたし達に対する愛をお示しになったのである。

●観音様は祈っているだけなのかもしれないが、イエスの父なる神は神御自身が犠牲死を遂げてくださった。驚くべき神の愛。贖罪の愛。

塚本訳 ロマ 5:6-8
5:6 なぜなら、わたし達がまだ弱くあったとき、当時まだ不信心者の(わたし達の)ために、キリストは死んでくださったからである。
5:7 (驚くべき神の愛!人間の世界では、)義人のために命をすてる者はほとんどあるまい。善人のためならば、惜しげもなく命をすてる者が、あるいはあるかも知れない。
5:8 しかしわたし達が(義人でも善人でもなく、)まだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。このことによって、神はわたし達に対する愛をお示しになったのである。

●今この私があるのは多く人の「苦」があってのこと。私を生む時苦しんだ母、私の生活を支えるために額に汗した父、私を苦労して教えた学校の先生、祈ることを教えてくださった牧師、神の導きと信じて私の顔を見ずに私のところに来てくれて苦しんでくれている妻、いたらぬ私のために悩み苦しんだ子供たち、経済不況の中を経営に苦労された社長、所長、理事長。私のまずい水準の低い話を25年j間も我慢して赦して聞き続けてくださった集会の方々。私の性格のまずさを赦してくれた友人、職場同僚、私の人生は多くの人の苦と赦しの上に立つ。感謝。

口語訳 Ⅰコリ15:10a
15:10 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである

●14:00 中野から孫の伊勢初音(小学校一年)が四泊五日の一人旅で来た。

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孫の伊勢初音はピアノを習っている。祖母(妻)の前で今日の練習。

初見で讃美歌を弾けるまでになって欲しい。

●孫の伊勢初音と都立秋留台公園に遊ぶ

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蜘蛛の巣に蝉がかかっているのを見て都会育ちの初音はびっくり。

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サッカー

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サッカー

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この犬の名前は「けんた」。この孫娘の弟の名前は「健太郎」だと教えたら 笑われた。

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この孫娘、天に向かって成長しますように。神の祝福がありますように。

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トラックを走ったら私よりも先に走った。あの子の母親(娘)も山をどんどん先に登ったものだなー。

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あきる野の夕暮れ。おばーちゃんが夕飯を作ってくれているから早く帰ろー。今日は疲れた。

●食前と寝る前に初音が祈った。「神様。ワタシは今寝ます。怖い夢を見ないようにしてください。地震とかが来ないよにしてください・・・・・・。アーメン」

 

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

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久しぶりに都心に出る ++++++++ 所感

2009/08/11 20:38

080911(火)今日は久しぶりに都心に出る。

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土岐善麿邸。ほっとする設計

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洋風ではなかなか良い設計

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仕事上の恩師である黒田隆氏を見舞う。88」歳、頭脳明晰、しかし半年前に御夫人を亡くされてすっかり落ち込んでおおられた。建築、宗教、霊魂、軍隊、脳 の話など延々2時間。お昼を御馳走になって辞去。

「高橋は自分の仕事(建築)に宗教を利用していると非難した人がいるうが、あの人はなにもわかっていない人だ」とおっしゃってくださった。私は建築(小事)を利用して天国に友人(神)を作るという人生観(ルカ16:9-13)で生きてきたのに私のことをそう見る人がいたのかと思ってがっくりであった。そういう「この世的人間」はどう思おうと勝手である。お話にならない。スーエイパス。「ご意見に任せる」だ。(マタ27:11)

黒田氏から「人間は敵がいれば伸びるのだ」と言われた。そしてルターが新約聖書を3か月という驚異的な速さで訳せたのは、ローマ法王という敵がいたからだということを確認し合った。全く敵のいない温厚な人はこの世に大したことをしていない証拠だと言ってくださった。イエスに敵あり。パウロに敵あり。

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増上寺の門。東京ではこれが最大か。

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15:00  積算協会でコストスクール評議委員会。内田祥哉先生、藤上先生、橋本真一氏、清水誠氏 松本伊佐男氏。プロジェクトマネジャーの職能について懇談。

帰途、東京タワーを撮影。

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墨田区に建設中のタワーはこれより高い。

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こういうのは外国人のデザイン。やはり落ち着かない。日本の建築は垂直と水平で直截なものがよい。

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増上寺幼稚園の入口の坂。なかなかよい雰囲気だ。こういう坂を登って登園する子供は心が豊かになる。

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増上寺にある水子地蔵。随分ある。右は絵馬。「ゴメンね。ママより」。「わたしのことをとても大切にしてくれる人と出会えました」というものがあって胸が締め付けられた。

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希望なるキリスト ++++++++ 所感

2009/08/10 06:58

090810(月)4時40分起床●朝の啓示「希望」●黒崎註解の引照を入力していて「希望なるキリスト」(Ⅰテモ1:1)という素晴らしい言葉に出あった。そこで「Jバイブル」で「希望」を検索し、心に響いたものを下記にコピーした。何度も涙が流れた。アーメン、アーメンである。新約聖書には「希望」という概念がこんなにあるとはびっくりであった。それは人間的な希望でない。神とキリストである。

検索 希望 [塚本訳] 新約

使    2: 26 [塚本訳

それゆえにわたしの心は楽しく、舌は(歌をうたって)喜んだ、そればかりか肉体も、(墓にあって)希望のゆえに安らうであろう、

使    23: 6 [塚本訳

そのときパウロは(役人の)一派はサドカイ人、一派はパリサイ人であるのを見て取り、法院で叫んだ、「兄弟の方々、わたしはパリサイ人で、しかもパリサイ人の子です。いま死人の復活の希望のために裁判されているのです。(わたしは復活のキリストを見たと言いますから。)」

使    24: 15 [塚本訳

(また)この人たち自身もいだいている(復活の希望、)正しい人と正しくない人との復活が来ようとしているという希望を、神に対して持っているのであります。

使    26: 6 [塚本訳

それで、今わたしが(こうして)ここに立って裁判を受けているのは、神がわたし達の先祖に与えられた(救世主の)約束に対して希望を持っているからです。

使    28: 20 [塚本訳

こんな訳で、わたしはあなた達に会って話したいと願ったのです。わたしは(神のお約束による)イスラエル人の希望のために、この鎖につながれているのですから。」

ロマ   5: 2 [塚本訳

そうだ、キリストにより、信仰で、わたし達はいまいるこの恩恵の状態に入ることができ、また(最後の日に)神の(子になることを信じて、その)栄光にあずかる希望を誇っているのである。

ロマ   5: 4 [塚本訳

忍耐は鍛錬を、鍛錬は希望を生むことを知っているからである。

ロマ   5: 5 [塚本訳

そしてこの『希望は(必ず実現して、わたし達を)失望させることはない。』神はわたし達に聖霊を授け、それによって愛をわたし達の心の中に(いつも豊かに)注いでいてくださるからである。

ロマ   12: 12 [塚本訳

希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈れ。

ロマ   15: 4 [塚本訳

なぜなら、(聖書に)前に書かれたほどのことはみな、(後の時代の)わたし達の教訓のために書かれたもので、わたし達が聖書のあたえる忍耐と慰めとをもって、希望を持ちつづけるためである。

ロマ   15: 13 [塚本訳

希望の源である神が、(彼を)信ずることにおいて来る無上の喜びと平安とであなた達を満たし、聖霊の力によって(豊かな)希望に溢れさせられんことを。

ロマ   12: 12 [塚本訳

希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈れ。

ロマ   15: 13 [塚本訳

希望の源である神が、(彼を)信ずることにおいて来る無上の喜びと平安とであなた達を満たし、聖霊の力によって(豊かな)希望に溢れさせられんことを。

Ⅰコリ  13: 13 [塚本訳

それゆえに、いつまでものこるものは信仰と希望と愛、この三つ。しかし、この中で一番大きいのは愛!

Ⅱコリ  3: 12 [塚本訳

わたし達はこんな(自信と)希望(と)を持っているのであるから、正正堂堂と振舞い、(福音の真理を説いて、)

Ⅱコリ  5: 1 [塚本訳

なぜ(こんな希望に生きることができるの)であろうか。もし地上の家であるわたし達のこのテント、(この肉体)がこわれるならば、天に、神の建てられた建物、(人間の)手で造らない永遠の家をいただいていることを、わたし達は知っているからである。

Ⅱコリ  10: 15 [塚本訳

わたし達は他人の仕事(の実)を(自分の手柄顔に)限度を越えて自慢するのではない。むしろこんな希望を持っている、(すなわち、)あなた達の信仰があなた達の中で成長し(て、もはやわたし達の必要がなくなっ)た暁には、(神に割り当てられた)わたし達の(職)分に応じて、最大限度にまで発展したいのである。

ガラ   5: 5 [塚本訳

(キリストを信ずる)わたし達は、御霊によって、信仰により、(最後の日に)義とされる希望をもって待っているからである。

エペ   1: 18 [塚本訳

また【君達の】心の目を明らかにして、神に召され(ることによって得)た希望の何であるか、『聖徒の受くる』光栄ある(天の)『相続財産』の富の何であるか、

エペ   4: 4 [塚本訳

(すなわち)一つの体、一つの霊──君達が(神に)召されたその召しもまた同じく一つの希望に至らんためである。

コロ   1: 23 [塚本訳

もし君達が(飽くまで)根強く堅く信仰に止まり、聞いた福音の希望から動かされることさえ無ければ!この福音は天の下の凡ての創造られたものに宣べ伝えられ、私パウロがその世話役となったのである。

コロ   1: 27 [塚本訳

神はこの奥義が異教人にとって如何ばかり大なる栄光の富であるかを知らせようと欲し給うたのである。そして奥義とは(取りも直さず)君達の中にい給うキリストのことであって、(これがまた)栄光の希望である。

Ⅰテサ  1: 3 [塚本訳

私達は私達の神また父の前に私達の主イエス・キリストによ(って君達が表してい)る、君達の信仰の働きと愛の労苦と希望の忍耐とを、絶えず思い出しているのである。

Ⅰテサ  2: 19 [塚本訳

何故(こんなにも君達に対して熱心であるか)と言うのか。(兄弟達よ、)私達の主イエスの来臨の時、その御前で私達の希望(であり)、喜び(であり)、誇りの冠(である者)は(一体)誰であるか。(他の人達と共に)君達もそうではないのか。

Ⅰテサ  4: 13 [塚本訳

兄弟達よ、(主に在って)眠った者のことを知っていて、希望の無い他の人々のように(徒らに)歎かないようにしてもらいたい。

Ⅰテサ  5: 8 [塚本訳

しかし私達は昼の者だから、信仰と愛の『鎧と、救いの』希望の『兜とに身を固め』て、白面でいようではないか。

Ⅱテサ  2: 16 [塚本訳

願わくは、私達の主イエス・キリスト彼自らと、私達を愛し、恩恵により永遠の慰めと善き希望を与え給うた私達の父なる神とが、

Ⅰテモ  4: 10 [塚本訳

私達の奮闘も努力も畢竟この生命の約束を目的としている──私達は凡ての人、特に信者の救い主である活ける神に希望を置いているのであるから!

テト   1: 2 [塚本訳

(何れも)永遠の生命の希望に基づくもので(あって、)欺き給わぬ神はこの生命を(与えんことを)永遠の昔において約束し給うた。

テト   2: 13 [塚本訳

幸福な希望と、大なる神及びわれらの救い主キリスト・イエスの栄光の顕現(によってその希望が満たされること)とを待ち望ませるのである。──

ヘブ   3: 6 [塚本訳

キリストは『神の家』の御子として忠実であった。そして(キリストを信ずる)わたし達は、そのキリストの家(の者)である。もしわたし達が(大胆な)信頼と、希望の誇りとを最後まで堅く守っているならば。

ヘブ   6: 19 [塚本訳

わたし達はこの希望を魂の安全かつ不動なる錨として持っており、(海の深所ならぬ『聖所の)幕の内に入るのである』。(わたし達の希望がいと高き天にまで達するのはこのためである。)

ヘブ   7: 19 [塚本訳

この律法は、(罪の赦しや神との和合などを)何一つ成しとげることが(でき)なかったからである。しかし他方では、(イエスによってレビの祭司職によるものに)まさった希望がもたらされ、わたし達はこの希望によって神に近づくのである。

ヘブ   10: 23 [塚本訳

また、わたし達は(洗礼のとき)告白した(主の再臨の)希望を、動かさずに守っていようではないか。──(これを)約束された方は忠実であるから。──

ヘブ   10: 24 [塚本訳

また、わたし達は愛と善い業とを励まし合うように互に心掛けようではないか。(堅い信仰と動かぬ希望と愛の励み、この三つこそ最も尊い神の賜物である。)

ヘブ   11: 1 [塚本訳

(では信仰とは何であるか。)信仰とは、希望することの実現であり、(目に)見ぬ事の確信である。

Ⅰペテ  1: 3 [塚本訳

讃美すべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神!彼は大なる憐憫により、イエス・キリストが死人の中から復活し給うたことをもって、私たちを活ける希望に新しく生み、

Ⅰペテ  1: 13 [塚本訳

だから君達の心の腰に帯をして、真面目で(あれ。そして)イエス・キリストの顕れ給う時君達に齎される恩恵に全き希望を置け。

Ⅰペテ  1: 21 [塚本訳

(そして)君達は彼によって、彼を死人の中から甦らせて栄光を給うた神を信ずる者となり、斯くして君達の信仰はまた神に対する希望となった。

●黒崎注解でシドニー+福島+東京でWEB会議。「もう少し。もう少し」。最後まで健康が保たれるようにと祈ぅた。これが私の今の「希望」である。

 

 

 

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信仰によって足るを知る ++++++++ 所感

2009/08/09 09:59

090809(日)4時起床●集会が夏休みなので妻と二人で家庭礼拝。その原稿を次のように作成した

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         家庭礼拝 2009.8.9 
高橋照男 高橋トミ子 讃美歌67、294

①感謝して受ければまずいものなし

新共同 Ⅰテモ4:1-3
4:1 しかし、"霊"は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。
4:2 このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、
4:3 結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。

塚本訳 Ⅰテモ4:1-3
4:1 しかし御霊は、後日(必ず)或る人々が虚言者どもの偽善に欺かれて迷いの霊と鬼の教えに心を奪われ、信仰から離れ落ちることを(予め)明らかに言い給う。
4:2 この虚言者どもは(私利や貪欲の奴隷となり、あたかも奴隷が額に焼印を押されるように)自分の良心に焼印を押され(ていながら、)
4:3 (口では禁欲を唱えてあるいは)結婚を禁じたり、(あるいは)食物を断たせたりしている──しかし食物は信じ且つ真理を知る者が感謝をもって頂くように神が創造り給うたものである。


②信仰によって足るを知る

新共同 Ⅰテモ4:7-9
4:7 俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。
4:8 体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。
4:9 この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。

塚本訳 Ⅰテモ4:7-9
4:7 信仰的でない、愚にもつかぬ昔話をはねつけよ。(人はともあれ、いよいよ)自分を鍛錬して敬虔となれ。
4:8 「(禁欲ごとき)体の鍛錬は益少ないが、敬虔は凡てに益がある。現世、来世の生命の約束を有つ」(という言があるが)、
4:9 この言は信ずべく、また無条件に承認さるべきである。

●4章8節の引照

新共同 Ⅰテモ6:6
6:6 もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。

口語訳 Ⅰテモ6:6
6:6 しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。

塚本訳 Ⅰテモ6:6
6:6 信心はたしかに大きな「金儲け」である──足るを知るなら!


③集会というのは聖書が朗読されるところ。

新共同 Ⅰテモ4:13
4:13 わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。

塚本訳 Ⅰテモ4:13
4:13 私が行くまで(集会で聖書を)朗読すること、勧めをすること、教えることに心を傾けよ。

●黒崎の解説
4章13節 わが到(いた)るまで、讀(よ)むこと勸(すす)むること教(をし)ふる事(こと)に心(こころ)を用(もち)ひよ。 [引照]
註解: 「読むこと」は集会において会衆の前で聖書を読むことでユダヤの会堂の習慣がキリスト教会に承継されていた。而してこの聖書を読むことに伴い、会衆に対する実際上の「勧め」が与えられ、また信仰上の諸問題に関する「教え」が為される。これがテモテの義務の忠信である故、パウロの到るまでこれに心を用うることが大切であること。

●これの引照はⅡテモ3:15

新共同 Ⅱテモ3:15
3:15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。


塚本訳 Ⅱテモ3:15
3:15 また(既に)子供の時から聖書を習ったことを知っているではないか。この聖書はキリスト・イエスの信仰による救いへの知恵を君に与えることが出来る。

●これの黒崎注解
3章15節 また幼(おさな)き時(とき)より聖(せい)なる書(ふみ)を識(し)りし事(こと)を知(し)ればなり。 [引照]
註解: 「知ればなり」は「知りて」と訳さるべき分詞で前節の「常に居れ」に懸る。彼は幼少の時より聖書すなわち今日の旧約聖書を教えられた。これがテモテの信仰の基礎を為しているのである。このことを考えてその学習し確信している処に常住しなければならない。
この書(ふみ)はキリスト・イエスを信(しん)ずる信仰(しんかう)によりて救(すくひ)に至(いた)らしむる知慧(ちゑ)を汝(なんぢ)に與(あた)へ得(う)るなり。
註解: 聖書の力を示す、この聖書はこれをイエス・キリストに在る信仰をもって学ぶ時、我らを慧くしえ救いに至らしめ得るものである。すなわちこの聖書は能力あり、我らを救いに至らしめ得るのであるが、唯その要件として我らはキリスト・イエスに在る信仰によらなければならない。


④ラスキン「Unto This Last」(この最後の者にも。)
高橋照男ホームページ 市場経済の次に来るのは「人格経済」より。

J・ラスキンの預言
理想的な経済社会の姿はこのような「人格」が存在する社会であると説いたのは、英国のJ・ラスキン(美術・建築・経済評論家1819-1900年)である。ラスキンはその著「Unto This Last」(この最後の者にも)において、新約聖書マタイ福音書20章1~16節のイエスの言葉に根拠を置き、少しの時間しか働けなかった「最後の者」(多分それは健康ではなかった弱者)にも、長時間働いた者(多分それは健康であった強者)にも同額の報酬を支払ったという葡萄畑の「長」の人格の存在を誉め、これが来るべき理想的な経済社会の姿であると説いた。筆者もラスキンの思想に賛成である。これが「人格経済」の根拠である。
しかしこの経済原理が広く世に行き渡るには、一人一人が現実に真の「人格」たる神という「長」に出会うことが必要である。現在、英国の国会議員が最も尊敬する経済思想家はJ・ラスキンであるという。英国健全なりと言うべきである。しかし、この思想が広く人類に根付くのはいつのことであろうか。


 「建築と積算」2003年3月号    2003.3.2


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女は子を産むことによって救われる ++++++++ 所感

2009/08/08 05:01

090808(土)3時半起床●窓を開けると朝焼け。思わず外に出て早朝散歩。4時40分

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まだ月が出ている

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五日市線。一番電車までまだ時間がある

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讃美歌66番を口ずさむ「聖なる聖なる聖なるかな」。メロディーは次をクリック。

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-066-holy_holy_holy_lord_god_almighty.mid

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4時40分。まだみんなが眠っている。讃美歌115番を思う。メロディーは次をクリック

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-115-o_little_town_of_bethlehem.mid

 

[女は子を産むことによって救われる]

●「女は子を産むことによって救われる」(Ⅰテモ2:15)。こういう難解な聖書の言葉は「貧しきものは幸いなり」の言葉と同じく、自らの人生体験を通して納得しなければならない。他人の解説を読んで納得してはならない。それがすばらしい解釈であればある程、それに感心するだけで自分の納得にならない危険がある。聖書は引照をたくさんひいて自分で読んで「アーソウカ」と納得しなければならない。まずこのⅠテモ2:15箇所の翻訳比較をしてみよう。

文語訳 Ⅰテモ2:15
2:15 然れど女もし愼みて信仰と愛と潔とに居らば、子を生むことに因りて救はるべし。


口語訳 Ⅰテモ2:15
2:15 しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。


新改訳 Ⅰテモ2:15
2:15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。


新共同 Ⅰテモ2:15
2:15 しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。


塚本訳  Ⅰテモ2:15
2:15 しかしもし婦人が慎みをもって信仰と愛と聖潔とを保っているならば、子を産むこと(、これを育てて母の務めを果たすこと)によって救われるであろう。(婦人は教会でなく家の中で働くべきである。)

●著者が誤解を招くようなことを言った背景にはワケがあるようだ。その前の部分を見てみよう。

塚本訳 Ⅰテモ2:9-14
2:9 同じく婦人達も身嗜みよく、貞淑と慎みをもって身を飾り、編んだ頭髪や金や真珠や高価な着物でなく、
2:10 神信心を告白する婦人に似つかわしい立派な業をもって身を飾ってもらいたい。
2:11 婦人は(教会ではただ)静かに聴き、絶対の服従をもって(道を)学ばねばならぬ。
2:12 (教会で)婦人が教えたり、男子の上に立ったりすることは許さない。ただ静かにして居れ。
2:13 (このことは天地創造の由来からでも、エデンの話を見ても明らかである。)何故なら、アダムがまず造られ、次いでエバが造られたのであり、
2:14 またアダムは惑わされず、女なる(エバ)が(蛇に)惑わされて罪に落ちたからである。

●これを読むと著者が嫌いな女性を念頭においていることが分かる。だから2:15だけを切り取って考えるとそれが独り歩きして特に現代においては非難攻撃される。政治家がこれだけを発言すれば政治生命を失う。私としてもこの部分を読むと、ハハーああいう人のことを言っているのななーと思い浮かぶ人がいる。

●では私の人生体験から独自の解釈をしてみよう。この解釈は2:13がポイント。男と女ははじめから創造されたその目的を発揮するように生きなければならない。創造の目的とは何か。

口語訳 創  2:18
2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

●女性は男性のアシスト、ヘルパーの為に造られた。これは本当か。トンデモナイといきり立つ女性は現代に多い。しかしこういう場面があった。かって女性の建設大臣が誕生したがその発言たるや、地に足のつかない「感情的」で滑稽なものばかりで少しも訴えなかった。またその感情的発言を取り巻きの官僚たちが役職柄「ハイハイ」と聴き従っているのを見て情けなく思った。こういうのを見ると「女性が国を牛耳ると国や家庭を滅ぼす」とう中国の故事を思う。また自分の地位保身のために心では「馬鹿な女よ。女性大臣よ」と思いつつも「ハイハイ」と盲従する取り巻き官僚の情けなさを思った。●しかし建設大臣は男ならばうまくいくのかと言えばそうでもない。●次に「生みの苦しみ」について

口語訳 創  3:16
3:16 つぎに女に言われた、/「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、/彼はあなたを治めるであろう」。

●「キリス教性教育研究会」(富永國比古会長)で次のようなすばらしい話を聞いた。カウンセラーの現場の声。「若い女性が軽はずみな行為で婚前に子を宿してしまった場合。胎児を10か月間お腹の中で育てているときに生命と創造の神秘を感じて人生を反省する」。●この発言などは「女は子を産むことによって救われる」ということの最もよい註解だ。私はその人に質問した。「ではその場合、男は反省するのか」と。満足な答えはなかったが、私は次の句を思った。

口語訳 創  3:17-19
3:17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
3:18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。
3:19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

●これは納得である。女は生みの苦しみ。子育ての苦しみ。男は労働の苦しみ。「汗は血の薬」とヒルティは言う。●男は稼ぎ、女は子育て。これが夫婦の分業のセオリーのようだ。●男は労働の苦しみで人生を考え、救いに導かれて行く●子育ては「女」。稼ぐのは「男」。それぞれに「苦」がある●「女」は生みの苦しみばかりでなく、子育ての苦労でも「救われる」と言いたい。なぜか。そこには男以上に隠れた「苦労」があfるからだ。

●では、子供が生まれない女性は救われないか。私の見るところ、夫に苦労(横暴、暴力、不倫、酒、ギャンブル、怠け)していることによって「救われる」。私は言う「女は夫で苦労すれば救われる。!!」●では夫もなく、子供にも恵まれない女性は救われにくいか。それには次の句を思う。●結婚などというこの世だけのことにかかわりあうことなく「主のために」専心身を捧げるように召されているのだ。

塚本訳 Ⅰコリ7:34-35
7:34 心が割れるのである。また独身の女と処女とは、身も霊もきよくあろうとして、主のこと(ばかり)に気をつかうが、結婚している女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、この世のことに気をつかうのである。
7:35 しかしこれはあなた達自身の利益のために言うのであって、(もちろん)罠に掛け(て束縛す)るのではなく、むしろあなた達が品位を保つため、かつまた、余念なく主のもとにあって動かされないためである。

塚本訳 ルカ 20:35-36
20:35 あの世にはいる資格を与えられて、死人の中から復活する者は、めとることもなく嫁ぐこともない。
20:36 復活によって生まれる彼らは、天使と同じであり、神の子であるので、もはや死ぬことが出来ない、(従って子を産む必要がない)からである。

●結論。女は子があってもなくてもそれなりの「人生苦」や悲しみがあって救われる。子が与えられるのは喜びではあるが、苦しみも多い。しかし、もっと大いなる喜びは救われて永遠の命を頂くことである。神との交わりに生きることである。次がそのことを言っている。ここに真の「喜び」とは何かが書かれている。

塚本訳 Ⅰヨハ1:3-4
1:3 わたし達が見たもの、また聞いたものを、あなた達にも告げる。あなた達もわたし達と(霊の)交わりを持つためである。しかしわたし達のこの交わりは、(他方においては)父(なる神)とその子イエス・キリストとの交わりである。
1:4 わたし達が(この手紙を)書くのは、(あなた達がわたし達との交わりに入り、)わたし達(が父と子と)の(交わりにおいてもっている)喜びが、完全なものとなるためである。

●午前中は「WEB黒崎」の作業●スェーデン宣教師のRon BarBer氏と塚本訳の件で電話懇談。日本語が達者なのには敬服。はるばるスェーデンから来られ、難しい日本語も習得されたその愛の心を尊敬する●コンビニ、図書館、郵便局、ホームセンター、田中三郎● コストスクールDVD、昨日は川勝平太、今日はジョン・ディキソンの講義を聞く。講師も受講生もかなり水準が高い●17:00トミ子はモーツァルト「レクイエム」の練習に出かける。


 

 

 

 

 

 

 

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神よ、あの家に光を射してください。 ++++++++ 所感

2009/08/07 10:47

090807(金)4時半起床。●朝の瞑想「神よ、あの家に光を射してください」●人が救われるのは神からの光が射し来る時である。人間の側から神に登るのではない。だから私としては神に向かって「あの人(家)にあなたが光を射してください」と祈ることきり方法がない。その人が悔いあらためて神に心を向けることは「百年河清を俟つ」ほどの無理なこと。神に祈った方が速いし決定的な効果がある。このことは聖書では次の所にある。

塚本訳  マタ 10:12-13
10:12 家に入ったらば、まず平安を祈れ。
10:13 もしその家が(その祈りをうけるのに)ふさわしければ、あなた達の(祈った)平安はかならずその家に臨み、もしふさわしくなければ、その平安はあなた達にもどってくる。(そしてあなた達のものとなるのである。)

●この12節の解説でよい引照は次である。

口語訳 Ⅱコリ5:20
5:20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。

●黒田隆しに電話。11日10時に訪問の約束●シドニー、福島とWEB会議。「黒崎幸吉註解の図像」。新しいことをやることは面白い。

 

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親や先祖の汚れに悩む者 ++++++++ 所感

2009/08/06 08:15

090806(木)4時起床●WEB黒崎註解でシドニー+福島+東京で遠隔会議●「WEB黒崎」に掲載するヘロデ家の系図問題でサロメについて調べる。●洗礼者ヨハネが首をはねられたのはヘロデヤの入れ悪知恵が娘の口に入れられた結果であることは聖書に記事がある。(マタイ14:1-12)、しかしその娘の名前がサロメであることは通念であっても、実は聖書にはない。根拠はヨセフスの「ユダヤ古代誌」(ⅩⅧ-136)である。それを調べた●ヘロデ家の系図の暗さ醜さぶりは目を覆うばかりである。聖書はその渦中に入り込んだ。洗礼者ヨハネもイエスも。●しかし現代においても大抵の家は「ヘロデ家」系図である。それは暗くて汚い。見られない。人に話せない。●かって私のルールを探ろうと系図を作りはじめたが、親戚の一人の非協力で完成しなかった。彼は口をつぐんだ。●現代人は誰しも「ヘロデ家」の系図と変わりはない。汚染された先祖の子孫である。●しかしそこに汚れた血を清めるさわやかな福音の風が吹く。●福音や信仰や聖書は難しいことはない。自分が汚れた家系から解放され清められるのだ。喜べ、親や先祖の汚れに悩む者。不運な星の下に生まれた者。清められて神の子になれる。

塚本訳ロマ 3:21-26
3:21 しかしながら今、律法に関係なく、神の義は現わされた。しかし律法と預言書と[聖書]によって(すでに)証しされているものである。
3:22 この神の義は、イエス・キリストを信ずる信仰(だけ)によって、これを信ずるすべての者にあたえられる。(すべてというのは、そこに人間的の)なんの差別もないからである。
3:23 なぜか。すべての人が罪を犯したため、いまだれ一人、(かつて持っていた)神の栄光をもたない。
3:24 (さりとて失った栄光を回復する力はないので、何一つ)代価を払わず、(ただ)神の恩恵によって、キリスト・イエスによるあがないの力で、(神に)義とされる(道が設けられた)のである。
3:25 すなわち神は御自分の義を示すために、宥めの供え物としてキリストを提供された。これはキリストの血でなされたものであり、(人は)信仰によ(ってこの恩恵にあずか)るのである。このことは──神が(長いあいだ)忍耐をもって過ぎし日に犯した罪を罰せずにおられたので──
3:26 今の世において、御自分の義を示そうとされたのである。すなわち御自分が義であること、またイエスを信ずる者を義とするお方であることを、(この世に)示されたのである。

●WEB黒崎のメンバーに送ったメール。

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○○様

「WEB黒崎」でⅠテモの引照入力作業中に教文館から『田川建三訳著「新約聖書」訳と註4、パウロ書簡その二/疑似パウロ書簡』が届いたので、Ⅰテモの所を読みふけりました。

まず田川が74歳でこれだけの大著(820ページ)を一年間で上梓するその力に敬服します。今まで年一冊のペースでこれだけのものを三冊仕上げ、あと三冊出版しようというのですから驚きです。田川はⅠテモは当然ながらパウロの作ではないとしています。黒崎はかなり疑いつつも一応パウロです。黒崎が65年も前に近代聖書学を取り入れる「学的」姿勢から「パウロの作」をまず疑っているその姿勢に敬服します。しかし無教会は語学の天才田川の応援団ではありますが、なぜか黒崎のようには権威がなく、信仰的栄養も伝わってきません。「学問と信仰の調和」ここに黒崎や塚本の本領があるものと解します。こんな時、「WEB黒崎」を世に問うのは意味があると解します次の聖書の箇所を思いました。

 

塚本訳マタ 7:28-29

7:28 イエスがこれらの話を終えられた時、一しょに聞いていた群衆はその教えに感心してしまった。

7:29 自分たちの聖書学者のようでなく、権威を持つ者のように教えられたからである。

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使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

 

 

 

 


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人生で最も楽しいこと ++++++++ 所感

2009/08/05 08:24

090805(水)5時半起床。●朝の黙示「この世で最も楽しいこと」。讃美歌403番●この世の楽しみは種々あるが、人をして神から離れさせる最も強力なものは、金、人間(特に異性)、地位権力。この三大デーモンが神への従順を阻む。人間がこのデーモンにひれ伏そうとするとき神や神を信じている人間は邪魔になる。そして神を殺す。神を信じている人間が邪魔になって迫害して殺す。●この世で一番楽しいことは神との交わり、神を信じている人との交わり。この交わりを知るとあの三大デーモンの魅力は色褪せる。また地縁、血縁、師縁等も色あせる●「親子は一世、夫婦はニ世、師(主従)は三世」と言われるが、神と、神を信ずる人間との交わりは永遠である。永遠の喜びである。●讃美歌403番は神と人との交わりが最高の喜びであることを歌っている。

  讃美歌403

1. かみ に よりて いつく しめる

   こころ の まじわり いと も たのし.

 2. ちち の まえ に せつ に いのらん,

   のぞみ も おそれ も とも に おなじ.

 3. とも に しのぶ うき なやみ も,

   ゆたけき めぐみ に やがて きえなん.

 4. わかるる とき かなし けれど,

   ふたたび あい みる さち や いかに.

 5. つみ と うれい なき みくに の

   つきせぬ むつび を よろこび またん.

●この讃美歌のメロディーは次をクリック。

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-307-how_sweet_the_melting_lay.mid

●聖書的には次の所だ

塚本訳Ⅰヨハ1:3-4
1:3 わたし達が見たもの、また聞いたものを、あなた達にも告げる。あなた達もわたし達と(霊の)交わりを持つためである。しかしわたし達のこの交わりは、(他方においては)父(なる神)とその子イエス・キリストとの交わりである。
1:4 わたし達が(この手紙を)書くのは、(あなた達がわたし達との交わりに入り、)わたし達(が父と子と)の(交わりにおいてもっている)喜びが、完全なものとなるためである。

●問題はこの「交わり」の内容である。教会の交わりは「義務的なお交わり」。これを嫌って教会を飛び出して無教会にくる人が多いが、無教会とても「信仰なきお交わり」集団、「先生懐かしのメロでディーを歌う集団」「知的遊び、ディレッタント集団、神学的遊び集団、イベントお祭り集団」になり下がった。これらは時間とともに自然消滅する。長続きしないことが神の罰。ほおっておくに限る●信者としての真の交わりは有体的復活を信じる人間の「命」の交わり。あるとき新幹線の中で携帯に電話があった。「私も墓が空になったことを信じます!」と。この方とは地上では様々な理由で離れているが「心の交わり」ができていて永遠である。●しかしこう言ってくる人は少ない。12人程度だ。しかし少なくてもよい。二人でもよい。数ではない内容だ。イエスは次のように言う。

塚本訳 マタ 18:19-20
18:19 なお、アーメン、わたしは言う、何事によらず、もしあなた達のうちの二人が心を一つにして地上で祈るならば、わたしの天の父上は(きっとその願いを)かなえてくださるだろう。
18:20 二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」

●その人の信仰が本物であり、真理であれば人は自然に集まってくる。ぶら下がってくる。なぜか。それは次の通りだ。

塚本訳 ヨハ 3:20-21
3:20 悪いことをしている者は皆、光を憎んで光に来ない。自分の行いが明るみに出されたくないのである。
3:21 これと反対に、真理を行っている者は、光に来る。自分の行いが神にあってなされたことを、現わしたいのである。」

●終日黒崎註解WEB化作業。ルカの校閲結果の反映。マルコの図像に関してWEB会議(シドニー+福島+東京)。これは面白い。

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

 




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汚れた系図 ++++++++ 所感

2009/08/04 08:56

090804(火)5時半起床。疲れがとれて朝のひらめき。


口語訳 イザ 40:28-31
40:28 あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。
40:29 弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
40:30 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。
40:31 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

●「黒崎註解」で図像の検討WEB会議(シドニー+福島+東京)。ヘロデ家の系図問題。その汚染ぶりはひどいものである。しかし人間誰でもその家系の汚染はひどいものである。イエスの系図も汚染されたいた。途中に3人の汚れた関係がある。関係どころかその関係で生まれた子供の子孫がキリスト。イエスの血統が汚れていたこと自体(マタイ冒頭の系図はそれを示す)が福音である。人間の価値は血筋ではない。血統ではない。系図ではない。神の霊によって生まれるかどうかである・

塚本訳  ヨハ 1:12-13
1:12 しかし受け入れた人々、すなわち、その名を(神の子であることを)信じた人には一人のこらず、神の子となる資格をお授けになった。
1:13 この人たちは、人間の血や、肉の欲望や、男の欲望によらず、神(の力)によって生まれたのである。

●終日黒崎プロジェクト校閲反映作業。妻は校閲作業●夕方BK、郵便局。切れた電球の取り換えを妻の手助けで行う。

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天は語りかける。

口語訳 詩  19:1-4
19:1 もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
19:2 この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
19:3 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
19:4 その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。

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夏の空

夏が来れば思い出す。はるかな尾瀬、遠い空。

今年は念願の尾瀬に行けてよかったなー。


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うしろ姿を見送る ++++++++ 所感

2009/08/03 07:09

090803(月)6時起床●昨夜寝る前に「百足(むかで)」が頭に落ちてきた。ぞっとして激しく叩いて殺した。こういうときは「生命の畏敬」を主張したA・シュヴァイツァーのことなど頭に入らない。彼は蚊も殺さなかったのだが。この私は「右の頬を打たれれば左を出せるだろうか」。心配だ。

塚本訳 マタ 5:38-39
5:38 あなた達は(昔の人がモーセから、)『目には目、歯には歯』──(人の目をつぶした者は自分の目で、人の歯を折った者は自分の歯で、つぐなわなければならない)と命じられたことを聞いたであろう。
5:39 しかしわたしはあなた達に言う、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打ったら、左をも向けよ。

●昨日、霊肉の故郷浦和を訪問した。今朝目覚めると御病気で弱られた関谷忍牧師のことを思った。私が人生を模索していた高校生の頃、私を愛し、神に祈ることを教えてくださり、救いに導いてくださった。しかしその後私は塚本虎二先生と無教会主義に出会い、教会主義にさんざん「悪たれ」をついて教会を離れた。お別れするとき、先生は私の姿が見えなくなるまで後姿を見送ってくださった。無教会主義になることを赦してくださった。MAさんは「場所は違っても、よい信仰を持ち続けてください」と言って祝福してくれたものだ。あれからほぼ50年。今日まで神に守られたのはあの教会の牧師と教会員の影の祈りがあったのだと思えて仕方がない。

塚本訳  マコ 10:20-23
10:20 その人が言った、「先生、それならみんな若い時から守っております。」
10:21 イエスは彼をじっと見て、かわいく思って言われた、「(よく守った。だが)一つ足りない。家に帰って、持っているものをみな売って、(その金を)貧乏な人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」
10:22 彼はこの言葉に顔をくもらせ、悲しそうにして立ち去った。大資産家であったのである。
10:23 イエスは(うしろ姿を見送っておられたが、)やがて見まわして、弟子たちに言われる、「物持ちが神の国に入るのは、なんとむずかしいことだろう。」

●塚本虎二訳の「(うしろ姿を見送っておられたが、)」は珠玉の敷衍である。塚本訳は伝道者訳であると言って塚本訳研究をのサイトを立ち上げたのは何と教会の能城一郎牧師である。この私も人から子供からさんざん「悪たれ」をつかれて攻撃され捨てられ離れられてもそのうしろ姿をじっと見送って祈らなければならない。●伝説によればイエスに背を向けて離れ去ったこの「大資産家」は後のパウロではなかったかという。あるいはそうなのかもしれない。イエスの隠れた祈りがあったのだ。●私も人の後姿を祈るそういう人になりたい。●終日「黒崎デジタル化プロジェクト」。大島先生の「伝道私信」(2009年7月号)を机の前に貼って励ましとしている。そこには「聖書を学ぶ者の喜び・・・甦った黒崎幸吉電子版新約聖書註解」というタイトルで次のように書かれている。「日本の無教会史に残る大事業」「全体の完成は指呼(しこ)の間である。」・・・今の私はこの言葉に励まされ体を打ち叩いて頑張っている。●夏バテ気味だが「黒崎プロジェクト」の完成まで倒れるわけにはいかない。空を打つような下らない戦いはしない。時間が惜しい。

塚本訳 Ⅰコリ9:26-27
9:26 わたしはそれゆえに、目標があいまいでないように走る。空を打たないように拳闘をする。
9:27 いや、自分の体を打ちたたいて征服する。人には(福音を)説きながら、自分では失格するようなことのないためである。

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夏の空だ。しかし日本全国はまだ梅雨があけていない。

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市役所に税金を納めた。市役所の4階から我が家を撮影。朱色の家の右の白い家。妻と暮らす終(つい)の住処だ。

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神は光、人間の心に光を射して神の存在を分からせる。パウロもそうであったなー。

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故郷浦和を訪問 ++++++++ 所感

2009/08/02 21:01

 090802(日)5時起床●黒崎スタッフと交信。3人寄れば文殊の知恵の実感。イエスは弟子を遣わすときは二人一組(マルコ6:7)、2人3人で祈ると祈りは聞かれる(マタ18:19-20)ともある。●恒例の年に一度の故郷浦和訪問。

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20歳までいた故郷浦和の街のたたずまい。

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16歳の時に受洗した日本ナザレン教団浦和教会。その年に無教会の塚本虎二に出会い、無教会主義者としての道を生きることになった。関谷牧師は赦してくださった。

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神に祈るという人間としての文化を感化してくださった方、関谷忍牧師と増田愛子さん。子供にも孫にも信仰が伝わりましたと感謝の言葉を述べた。こうして一年に一度お礼参りに伺うことにしている。愛餐会に残れと言われたので、貝沼さんと増田さんに挟まれて会食。増田さんには信仰のほかに音楽の感化も受けたことを感謝。

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私の生まれ育った家が建っていたのは左側の家の所。もう取り壊されている。近くのマンションに浦和教会員の土屋さん(旧姓清水さん)がおられたので立ち話。

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裏に回って育った家の庭を撮る。懐かしい樹木があった。

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私が生まれた中山医院。私を取りあげてくれたあのお産婆さんはもういないだろうなー。

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先輩の小田氏の家も建て替わっていた。立派な家だ。成功したのだろうか。前の家も西洋館の巨大な家で近づきにくかったものだ。

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JR浦和駅の東口は再開発ですっかり変わっていた。パルコが建っていた。浦島太郎だ。

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パルコ8階にある「さいたま市立中央図書館」。蔵書65万冊は立派。塚本虎二、ヒルティ、高橋照男を検索してみるとあった

●東秋留駅に着くと豪雨。モーツァルトのレクイエムを練習してきた妻と会う。

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