to 日記と感想 2009年09月
Top | RSS | Admin

2009.08 « 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 » 2009.10


将来日記

    将来日記

    XXXXXXXXXXX    終末、復活、永遠の生命、再会(父、母、妻、
              子供、親戚、友人、集会の方々)
              復活と再会の確信はイエスの有体的復活の事実
    291103       結婚60年記念、ダイヤモンド婚
    261016       イカ成人
    251009       コフ成人
    250809       タワ成人
    241103       結婚55年記念。エメラルド婚
    230110       イハ20歳成人
    230713       タテ満80歳
    220728       KM成人
    200713       タテ誕生日満77歳喜寿
    191103       結婚50年記念。金婚
    18秋ごろ 木曜日 阿伎留病院森先生に胃カメラ申し込み
    171229    TM誕生日
    171220     KK誕生日
    171115    TM誕生日
    171016     IK誕生日
    171009     KH誕生日
    1709頃      聖路加約センターに2018年のMRI予約3か月前に聖路加に行く
    170831     芝浦工業会年会費支払締切
    170824(木)12:10キララホールエントランスコンサート、マリンバ
    170822     KS命日
    170817(木)11:30 キリスト教性教育研究会、ナザレ修道会、富永國比古
    170813     KT命日
    170813(日)10:30ナザレン教会浦和教会
    170813(日)14:00比企紀和君
    170812(土)14:00お江戸こらりあーず演奏会、文京シビックホール
    170809     TW誕生日
    170809(水)17:16初音吹奏楽、府中の森芸術劇場ドリームホール
    170808(火)0930池谷医院
    170801     TH誕生日
    170728     TI誕生日 KM誕生日
    170723      IK誕生日
    170713      TT誕生日
    170708(土)14:00在宅医療説明会(キララホール)
    170707(金)10:00池谷医院
    170706      TM誕生日
    170702(日) 集会感話
    170701      TT誕生日
    170630(金)12:20キララホールエントランスコンサート
    170628      IY誕生日
    170627(火)11:00 能城牧師来訪
    170625)日)10:10トミ子集会感話
    170625(日)14:00茅ヶ崎金子邸
    170618(日)15:00今井館総会
    170611(日)14:00武蔵野室内アンサンブル。ブラームス3番他。キララホール


薄幸な青年に告ぐ ++++++++ 所感

2009/09/30 05:55

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

090930(水)4時半目覚め。朝の黙想「気の毒な青年の幸福とは」●昨日、電話懇談した青年は、今まで出会った青年の中で最高に不幸な人である。一人息子であるが、御両親には先立たれ、天涯孤独。それに重い病が二つも重なっている。幸い御両親が残された不動産があるのでその収入があるものの、なんともまー不幸である。彼を援助するにはどうすればよいのか。それを黙想する。

塚本訳  使  3:1-6
3:1 さて昼の三時の祈りの時間に、ペテロとヨハネとが宮に上ろうとすると、
3:2 (ちょうどその時、)母の胎内からの足なえの男がかつがれて来た。彼は宮に入る人たちに施しを乞うため、宮の、いわゆる「美しい門」に毎日置かれたが、
3:3 (いま)ペテロとヨハネとが宮に入って行くところを見て、しきりに施しをもらいたいと頼んだ。
3:4 ペテロは、ヨハネと一緒に、その人に目をとめて言った、「わたし達(の顔)を見なさい。」
3:5 彼が何かもらうことを予期して二人を見つめていると、
3:6 ペテロが言った、「金銀は持っていない。わたしの持っているもの、それをやろう。──ナザレ人イエス・キリストの名で歩きなさい!」

●金銭的に援助しようにも年金暮らしのこの身では十分な援助はできない。医療の能力はないので病気を直せない。しかし一つある。「有体的復活」の希望の喜びである。これなら与えられる。伝承できる。

文語訳  使  3:6
3:6 ペテロ言ふ『金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に與ふ、ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め』

●ペテロとヨハネにこう言われたこの不幸な「足なえ」はどうなったか。

塚本訳  使  3:7-11
3:7 そして右手でつかんで起こすと、たちどころに足と踝とが強くなり、
3:8 踊り上がって立って、歩きまわった。そして彼らと一緒に宮に入っていった、歩きまわりながら、踊りながら、神を讃美しながら。
3:9 民衆はことごとく、その人が歩きまわったり、神を讃美したりするのを見て、
3:10 これが宮の美しい門のわきに坐っていて、施しを乞うていた者だと気がつくと、その身に起こったことに、ただ驚き呆れるばかりであった。
3:11 (喜びのあまり)その人がペテロとヨハネとにすがりついているので、人々が皆びっくりして、いわゆるソロモンの回廊にいた二人の所へかけ集まってきた。

●この「母の胎内からの足なえ」は肉体の病は直ったが、いずれは「死ぬ」。死という大不幸が襲ってくる。だから彼にとっては歩けるようになっても人間として真の幸福には至らない。人間として根本的な幸福は「永遠の生命、有体的復活」の希望と、その保障としての霊の臨在を頂くことである。●これ現実逃避ではない。この世的幸福が充足してもそれが真の幸福ではないのだ。●祈る、昨日の薄幸な青年が、不幸を通じて本当の命、本当の幸福を得られることを。その時彼は言うであろう。「自分はこの世には不幸であったが、それは真の幸福のために必要であった」と。

●彼の不幸は神が知っている。私以上に造り主なる神が心配していてくださる。

塚本訳 ヨハ 10:14
10:14 わたしが良い羊飼である。わたしはわたしの羊を知っており、わたしの羊もわたしを知っている。


塚本訳  ヨハ 10:27
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞きわける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。


塚本訳  Ⅰコリ13:12
13:12 わたし達はいまは(何事も)鏡でおぼろに見ているが、(完全なものが来る)その時には、顔と顔と相対してみるのである。いまはわたしは部分的に知っているが、その時には、(今神に)知りつくされているからそのようにわたしも知りつくすであろう。

口語訳 詩  139:2
139:2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。

●「薄幸な青年よ。神の恩恵によってこの世でもi今よりいくらかの幸福、そして真の幸福たる有体的復活の希望の喜びにいつか出会ってくれ」。神は君の不幸のほどをよく御存知だ。真の幸福である命の泉に出会ってくれ。讃美歌353番が君の唇に上る日の来る事を願う。信じる。自殺してはいけない。救いの道はある。

讃美歌353

 1. いずみ と あふるる いのち の いのち よ,

   あさひ と かがやく ひかり の ひかりよ.

 2. この よ の あたうる さち より のがれて,

   こよなき きみ へ と わが み は あこがる.

 3. きみ こそ とこよ に かわらぬ よろこび,

   くめども つきせぬ めぐみ の もと なれ.

 4. みかお を あおげば, うれい は さりゆき,

   みうで に たよれば, ちから は わき いず.

 5. しゅイエスよ, たえせず わが み に ともない,

   ひかり の みち お ば あゆませ たまえ や.

●この讃美歌のメロディーは次をクリック。一人で歌ってくれ給え。

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-353-jesu_dulcis_memoria.mid

●終日「WEB黒崎」引照Ⅰコリ14章入力。「異言よりも預言」の方が尊いことを学ぶ。●黒崎の註解により預言とは説教のことだと納得。●夕闇せまるころ、散歩をしたが、昨日からの天涯孤独の青年のことを思って泣けて仕方がなかった。人生とはなぜこんなに悲しいことがあるのだろう。それでも彼は新しい人脈ができたようで、一条の光が見えた。感謝。●こういう不幸な方のことを思うと「終末」を必死に祈りたくなる。終末がくれば万物更生。涙がぬぐわれる。

新共同 黙  21:3-5
21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

 

 

 

 

 

 

 

スポンサーサイト
トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


「家族に嫌われし時」 ++++++++ 所感

2009/09/29 05:59

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090929(火)5時起床●朝の黙想「家族に嫌われし時」。最近、愛する家族との確執に悩む複数の方々に出会って、それが信者故の特有の悲劇であることを知り、神のなさる残酷な「不思議な手段」に思いを馳せた。●内村鑑三の名著「キリスト信徒のなぐさめ」は次の6章から成る。第1章、愛する者の失せし時。第2章、国人に捨てられし時。第3章、キリスト教会に捨てられし時。第4章、事業に失敗せし時。第5章、貧に迫りし時。第6章、不治の病にかかりし時●私は高校生の時に家庭の貧困に遭遇し、第5章の「貧に迫りし時」に涙を拭われた経験がある。●内村の著作は多いが、ただ一つを挙げよと言われればこの小著である。わずか61ページである。(岩波文庫、青119-1)●教文館版の内村鑑三「信仰著作全集」の筆頭にこれが収められたのは名編集である。●内村の著作でなぜこの小著がナンバーワンか。それは内村の頭ではな「血涙」のインクで書かれたものだからである。●ここには信者に襲いかかる悩み悲しみ悲劇が書かれている。信者はこれらによって「信仰が深まる」のだと慰められるとはいえ、それにしても「信者の道」は辛く悲しい。●それは仕方がないとしても、キリスト信徒には「家族に嫌われる」という不思議なる大悲劇もある。●内村がこのことを取り上げなかったのはなぜか。内村自身、弟の達三郎との確執はひどかった。原因は病弱だった達三郎に対する母親の溺愛であったといわれる。このことは内村はあまり書かず、全集からもよく読み取れない。あまりに身近なこと、いわば「家の恥」のことだったので書けなかったのだろう●デキタ女性でも母になるとある一人の子供に偏愛、溺愛するために兄弟間で確執が起こるのは世の常。旧約のりべカがそうである。(創世記25-27章)●内村の「キリスト信徒のなぐさめ」には当然第7章に「家族に嫌われし時」があってもよいのであるが、書いていない。書くと身内のことをバラスことになるので出来なかったのではあるまいか。●そこで不肖この私が、信者に襲いかかる不思議ともいえる「信者が家族に嫌われる」現象の「聖書的根拠」を取り上げてみよう。もし内村がこれを第7章で書くとしたら「家族に嫌われ時」とでもするであろう。

新共同 創  25:27-28
25:27 二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。
25:28 イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。


新共同 創  27:41-44
27:41 エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」
27:42 ところが、上の息子エサウのこの言葉が母リベカの耳に入った。彼女は人をやって、下の息子のヤコブを呼び寄せて言った。「大変です。エサウ兄さんがお前を殺して恨みを晴らそうとしています。
27:43 わたしの子よ。今、わたしの言うことをよく聞き、急いでハランに、わたしの兄ラバンの所へ逃げて行きなさい。
27:44 そして、お兄さんの怒りが治まるまで、しばらく伯父さんの所に置いてもらいなさい。

新共同 創  37:3-5
37:3 イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。
37:4 兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。
37:5 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。

●聖書は冒頭の創世記から家族内の愛憎劇である。決してきれいなことばかりが書かれているわけではない。

塚本訳  マタ 3:16-17
3:16 イエスは洗礼を受けて、すぐ水から上がられた。すると、みるみる天が開けて、神の御霊が鳩のように自分の上に下って来るのを御覧になった。
3:17 するとその時、「これは(いま)わたしの『最愛の子、』『わたしの心にかなった』」と言う声が天から出た。

塚本訳 マタ 27:18
27:18 ピラトは人々が妬みからイエスを引き渡したことを知っていたのである。

塚本訳 マタ 27:41-43
27:41 同じように大祭司連も、聖書学者、長老と一しょに、こう言ってなぶった、
27:42 「あの男、人は救ったが、自分は救えない。イスラエルの王様じゃないか。今すぐ十字架から下りてくるがよい。そうしたら信じてやるのに!
27:43 『彼は神にたよっている。神が可愛がっておられるなら、』今すぐ『救ってくださろう』だ。『わたしは神の子だ』と言ったから。」

●イエスが殺されたのは職業宗教家たちの「妬み」であった 。表向きは「律法を破る者」という理由であったが、その深層心理は「妬み」。


塚本訳 マコ 13:12-13
13:12 また兄弟は兄弟を、父は子を、殺すために(裁判所に)引き渡し、『子は親にさからい立って』これを殺すであろう。
13:13 あなた達はわたしの弟子であるために皆から憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる。


塚本訳 マタ 10:34-37
10:34 地上に平和をもたらすためにわたしが来た、などと考えてはならない。平和ではない、剣を、(戦いを)もたらすために来たのである。
10:35 わたしは子を『その父と、娘を母と、嫁を姑と』仲違いさせるために来たのだから。
10:36 『家族が自分の敵となろう。』
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたし(の弟子たる)に適しない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたし(の弟子たる)に適しない。

塚本訳 マコ 3:21
3:21 身内の者たちが(イエスの様子を)聞いて(ナザレからカペナウムへ)取りおさえに出てきた。「気が狂っている」と思ったのである。

●「平和の宗教」と思われるキリスト教の内実は分裂と戦いの連続。これはつまるところ神とサタンとの白兵戦。キリスト者の家庭はその最前線。殉教の死はまず家庭に始まる。安易にキリスト教徒にはなるものではない。なまじ信仰に熱心になると「家族別れ」が起こる。親は子に捨てられる。子は親に捨てられる。誰がこの悲劇に耐えられようか。


塚本訳 Ⅰコリ7:15-16
7:15 しかし不信者の夫(なり妻なり)が別れるなら、別れさせよ。こんな場合に、兄弟なり姉妹なり(つまり信者)は(結婚に奴隷として)束縛されてはいない。神は平和な生活へあなた達をお召しになったのである。(無理があるのは、御心ではない。)
7:16 なぜか。妻よ、夫を(信仰に導いて)救うことができるかどうか、どうしてわかるのか。また夫よ、妻を救うことができるかどうか、どうしてわかるのか。

●これもまた何と冷たい言葉か。「出て行くなら勝手に出て行かせよ。引きとめるな」という冷酷なパウロの言葉。パウロははじめから独身か。だからこんなことを言えたのか。ペテロは信者の妻を連れて歩いたらしいが(Ⅰコリ9:5)、では最初の妻はどうしたのか。家に捨ててきた最初の妻が信者になったのか。これらは不明。

●愛する子供との確執に悩む夫人に私は言った。「あなたの信仰がホンモノだからそうなるのです」と。この世半分信仰半分の男は家庭内平和が第一だから紛争はおきない。これエクレシア内でも同じこと。「仲良くしていれば信仰が堕落していても見て見ぬふりをしていた方がよい」というのは全体を腐らす。

塚本訳  Ⅰコリ15:33
15:33 迷わされてはならない。(復活の信仰のない人との交際に注意せよ。)悪い交際は良い習慣をこわす。(と詩人も言っている。)

●これは激しい言葉だ。復活(当然のことながら有体的復活)を信じていない自称信者とは交際するなというのである。信者と言っても警戒しなければならない。

塚本訳  マタ 16:6
16:6 するとイエスは弟子たちに、「パリサイ人の(パン種)とサドカイ人のパン種に注意し、警戒せよ」と言われた。

●その他、聖書以外で家庭内分裂の文学はたくさんある。バンヤン「天路歴程」の冒頭。アンドレジイドの「狭き門」。●また古代ローマの殉教者ヴィクトリアは兄の説得を振り切って殉教する。こういうことはあまり表に出ないから知られていないが、キリスト信者の当然の普通の現象である。

 ●クリスチャンならだれでも同じだというわけではない。吟味して付きあわなければならない。特に有体的復活や三位一体を信じない信者とは仲良くしてはいけない。次の塚本訳の敷衍は激しい。ここでいう「復活の信仰」とは当然のことながら「有体的復活」のこと。

 

塚本訳Ⅰコリ15:33

15:33 迷わされてはならない。(復活の信仰のない人との交際に注意せよ。)悪い交際は良い習慣をこわす。(と詩人も言っている。)

 

●キリスト教各派が持つ「信条」は無教会者にとっては窮屈、不自由なものである。無教会はこれを嫌って「文字になった正統信仰」を排除してきたが、たらいの湯を流して有体的復活、三位一体という赤子まで流す「愚」をやってしまった。●教会は教勢を気にし、無教会は集会の維持継続に汲々としているのは、人間が本来持っている「勢力争い」の罪。神の国は人間の勢力欲によってはもたらされない。神の国は「一粒の麦の犠牲」によってもたらされた。●「無教会」を「無境界」と読み替える人が多くなったが、こういう人の信仰は決まって「有体的復活の信仰でなくてもよい。三位一体を信じなくてもよい」と信仰がぼやけて堕落しているから付き合ってはならない。塚本訳Ⅰコリ15:33)

●悲惨、お気の毒な人生の方と電話。電話を切ってから深い溜息が何度も出た。何によってお慰めできるか、「有体的復活」の基部きりない。再臨による万物後世きり希望きりない。パウロは言う。

塚本訳 ロマ 8:18
8:18 (しかもこの苦しみは恐れることはない。)なぜなら、わたしはこう考える。今の世の苦しみは、わたし達に現われようとしている栄光(──キリストと一しょに神の国の相続人になる最後の日の大いなる光栄──)にくらべれば、言うに足りない。


塚本訳 ロマ 8:22-24
8:22 わたし達が知っているように、全創造物は(かの日から)今まで、一しょになって呻き、一しょになって産みの苦しみをしている。(父なる神がこの  呻きに耳を傾けられないことがあろうか。)
8:23 しかし(苦しんでいるのは)創造物だけではない。わたし達自身も、(神の子にされた証拠として)御霊なる初穂を持っているので、このわたし達自身も、自分(のみじめな姿)をかえりみて、呻きながら、(正式に神の)子にされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである。
8:24 なぜなら、わたし達は(最後の日に救いが完成されるという)望みをもって、救われているからである。目に見ることのできる望みは望みではない。人はいま現に見ているものを、なんでその上望む必要があろうか。

 

 

 

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


有体的復活の保証書 ++++++++ 所感

2009/09/28 06:03

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

090928(月)5時起床。●朝の黙想(devotion)。「神の祝福」●讃美歌204番を歌う。(http://www.asahi-net.or.jp/~ej2t-tkhs/bunshou/sanbika.html )で検索できる。讃美歌を全曲入力してくださった無名の方に感謝。

 

 讃美歌 294

1. みめぐみ ゆたけき しゅ の て に ひかれて,

   この よ の たびじ を あゆむ ぞ うれしき.

 

(Refrain)

   たえ なる みめぐみ に ひ ひ に うけ つつ,

   みあと を ゆく こそ こよなき さち なれ.

 

2. さびしき のべ に も, にぎわう さと にも,

   しゅ とも に いまして われ を ぞ みちびく.

 3. けわしき やまじ も, おぐらき たにま も,

   しゅ の て に すがりて やすけく すぎ まし.

 4. よ の たび はて なば, し の かわなみ を も,

   おそれず こえ ゆかん, みたすけ たのみて.

●メロディーは次から検索すれば歌詞をみながら独唱できる。讃美歌を全曲入力してくださった無名の方に感謝。

http://moclin.jp/hymnal/index.html

●朝の黙想。神の祝福とは何か。Jバイブルやコンコルダンスに頼らず頭に思い浮かぶまま実例を見てみよう。こういう方が消化がよい。まず、神の祝福があってこの世的に豊になった例。この世的に豊かになるとき、それは神の祝福が降っていると思うのは万人が素直に思うことだ。

新共同 ヨブ 42:12-16
42:12 主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。
42:13 彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、
42:14 長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。
42:15 ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。
42:16 ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。

●ヨブはその生涯が悲惨であった。、ひどい病気になり、子や財産も失った。たのみとする奥さんからは「神を呪って死んだ方がましでしょう」(ヨブ2:9)とまで言われた。「何でコンナ奴と結婚したのだろう。俺としたことが一生の不作であった。今更離縁するわけにはいかない」と思ったに違いない。その奥さんはどうしたか。偉い。きっとその後も黙々とヨブのために「ご飯」をつくっていたに違いない。そのことは聖書に書いてはないが、ヨブの所に慰めにくる友人の数が多いことから想像できる。茶菓で接待をしたに違いない。ヨブは病気だったから出来なかったに違いない。しかしヨブは人生の最後に「祝福」された(42:12)。財産を回復された(42:12)。子供もまた授かった(42:13-14)。これ後妻の子供だろうか。あの黙々とご飯を作ったであろう奥さんは先に死んだのか。晩年にヨブは10人の子供を与えられ、その娘は美人であった。国中で一番であった。そして子孫繁栄して長寿であった。(42:16)。このヨブ記はハッピーエンドであるが、実はこの最後の部分は後の人の加筆であるとも言われる。チャイコフスキーの白鳥の湖の結末もハッピーエンドであるが、原作は「死」で終わる悲劇。人生がこの世限りなら、人間ハッピーエンドで終わりたい。それが素直な感情だ。

●しかし新約聖書を読めば神に帰依する人間の最後はハッピーエンドではない。イエスは家人から気が狂った」と言われ(マルコ3:21)、パウロ結婚しようとしようと思えばできたのだろうに「独身の方がよい」と思って結婚しなかった(Ⅰコリ9:5、Ⅰコリ7:38)。イエスの弟子たちも、無理やり(マルコ1:16-20)「神に従わされた」ために、家も仕事も財産も失った。そのボヤキは次にみられる。

塚本訳  マタ 19:27-28
19:27 その時、ペテロが口を出してイエスに言った、「でも、わたし達は(あの金持とちがいます。)この通り何もかもすてて、あなたの弟子になりました。わたし達にはいったいなんの褒美があるのでしょうか。」
19:28 イエスが彼らに言われた、「アーメン、わたしは言う、新しい世界が生まれて、人の子(わたし)が栄光の座につく時には、わたしの弟子になったあなた達十二人も十二の王座について、イスラエル(の民)の十二族を支配するのである。

●12:28のイエスの慰めは慰めにならない。「貰ってみなきゃーわからない」。それに愛する家人が地獄にいて自分だけが幸福になるのは真の幸福ではない。

●ではイエスもパウロも何が真の幸福だと言っているのか。それは有体的復活の永遠の生命。これさえ把握すればこの世的にはどんなに悲惨であっても、人生ハッピーエンドである。

塚本訳 ルカ 12:19-21
12:19 それからわたしの魂に言おう。──おい魂、お前には長年分の財産が沢山しまってある。(もう大丈夫。)さあ休んで、食べて、飲んで、楽しみなさい、と。』
12:20 しかし神はその人に、『愚か者、今夜お前の魂は取り上げられるのだ。するとお前が準備したものは、だれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために(地上に)宝を積んで、神のところで富んでいない者はみな、このとおりである。」

塚本訳マコ 10:29-30
10:29 イエスは言われた、「アーメン、あなた達に言う、わたしのため、また福音のために、家や兄弟や姉妹や母や父や子や畑をすてた者で、
10:30 今、この世で──迫害のうちにおいてではあるが──百倍の家と兄弟と姉妹と母と子と畑とを、また来るべき世では永遠の命を受けない者は一人もない。


塚本訳 ルカ 20:34-36
20:34 イエスは言われた、「この世の人はめとり嫁ぐけれども、
20:35 あの世にはいる資格を与えられて、死人の中から復活する者は、めとることもなく嫁ぐこともない。
20:36 復活によって生まれる彼らは、天使と同じであり、神の子であるので、もはや死ぬことが出来ない、(従って子を産む必要がない)からである。

●これらイエスの慰め、またパウロの「希望」は本当か。「頂いてみなければわからない」のが正直な気持ちである。「口先だけのことではあるまいか」。それに対してパウロは生きているうちに頂ける「聖霊」がその約束のチケット、手形であるとエペソ書の著者は言うのだ

塚本訳 エペ 1:13-14
1:13 このキリストにおいて君達(異教人)もまた、真理の言すなわち君達の救いの福音を聴いたので──このキリストにおいて君達もまた、信ずることにより約束の聖霊をもって封印されたのであるが、
1:14 この聖霊こそ(実は)私達が神の王国を相続することの担保であり、私達を贖って神の所有とするのであって、(凡ては)神の栄光が讃美されんためである。


新共同 エペ 1:13-14
1:13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
1:14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

●神の恩恵によって頂ける「聖霊」こそ、この世の富や子孫に勝る喜びであり、有体的復活の担保、保証書、手形、チケットである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


与える喜び ++++++++ 所感

2009/09/27 05:11

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

090927(日)3時45分目覚め●朝の黙想「与える喜び」●聖句思いつくまま。

新改訳 伝  11:1
11:1 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。

●隠れた祈りが聴かれるとイエスは言った。それは無駄にならない。ロングフェローの「矢と歌」を思う。空に向かって放った矢が見えなくなったが「ずっと後の日になって」それが高い木のてっぺんに刺さっているのを見つけた。という内容。気にかけている「アノ人」はついにその生涯において「救い」とは無縁かもしれない。しかし私の「隠れた祈り」は神に聞き届けられて「ずっと後の日になって」、・・・それは私の死後、・・・彼に救いが実現するであろう。そのとき隠れた祈りは無題に終わらなかったことを知るであろう。

口語訳 Ⅰコリ15:58
15:58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

●「全力を注いで」ということは、人生の時間も財産もすべて捧げてという意味。それは「ムダにならない」から。この人生観は世の人には理解できない。馬鹿な奴に見える。ナニ、イエスもパウロも、パスカルもシュヴァイツァーもジャンヌダークも「この世の人」から不思議がられたのだ。

塚本訳  ロマ 12:1
12:1 (このように、神は偉大な計画によって人類を一人のこらず救おうとしておられるのであって、救いは確かである。)だから、兄弟たちよ、わたしは神のこの慈悲を指してあなた達に勧める。あなた達の体を(感謝のしるしとして神に)捧げよ。この生きた聖なる犠牲こそ、神のお気に入るものであり、(霊なる神を拝むにふさわしい、)あなた達の霊的な礼拝である。(あなた達の礼拝は動物を供えるような不合理なものでなく、全心全霊をささげる合理的な礼拝でなければならならない)

●塚本訳の「犠牲」という語に引きつけられる。私の残りの生涯は「自分の楽しみ」に生きるものであってはならない。「犠牲」の生涯でなければならない。

新改訳 使  20:35
20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

●「受けるよりも与えるほうが幸いである」とはなぜか。与えることによる喜びが大きいからだ。これは体験して初めて分かるものだ。過日(25日)聖路加病院で出会った二期会の歌手ホ・チさんはホスピスでボランティアで歌を歌っておられる。「無報酬からくる喜び」について意見が一致。集会のフ・ユさんは収入が月に5万円。過日人に貸したお金が5千円余計に戻ってきたがその5千円を独立学園に寄付されたという。なぜそんな「もったいないこと」をするのかと凡人は思う。

●福島県で有機農業を営んでいる三男のブログ(http://chitata.blogspot.com/ )に次のような言葉があった。

「生命を終える作物もあれば、これから芽生える生命もある。不思議な繰り返し」。

●これに刺激されてJバイブルで「季節」とヒットして調べ感想を書いて送った。以下はその感想メール。

(メール内容)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

K君

090926 繰り返し 拝見しました。

Jバイブルで「季節」をヒットして心に響いたものをコピーしました。は私の感想。

 

 

    28: 12 [新共同

 

恵みの倉である天を開いて、季節ごとにあなたの土地に雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。あなたはそれゆえ、多くの国民に貸すようになるが、あなたが貸してもらうことはないであろう。

 

●「季節」があることは天地創造の神の計画、掟、摂理、人はその「繰り返し」で仕事を覚える。建築の世界ではこれを「習熟」という。「習熟度係数」という数値があり、それが高まると作業に無駄がなくなって半分の時間で出来る。

 

 

エゼ   34: 26 [新共同

 

わたしは、彼らとわたしの丘の周囲に祝福を与え、季節に従って雨を降らせる。それは祝福の雨となる。

 

●「雨が祝福」とはまた深い言葉

 

 

ゼカ   10: 1 [新共同

 

春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ/すべての人に野の草を与えられる。

 

●これなどは実際に農作業をやっていると納得するのでしょう。

 

 

マタ   21: 41 [新共同

 

彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」

 

●季節と収穫と収入と納税。これ密接な関係があるが、すべて神が知っていてくださる。心配してくださる。

 

 

マコ   11: 13 [新共同

 

そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。

 

 

●何事も「時」がある。このことは伝道の書(コヘレトの言葉)の多く出てくる。建築ではコンクリートが固まるのに時間がかかる。

 

 

使    14: 17 [新共同

 

しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」

 

●この「実りの季節」という言葉も素晴らしい。

 

 

口語訳 詩  126:5-6

126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。

126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

 

●ここに季節という語はないが「収獲の喜び」があります。

 

 

文語訳 ヨハ 12:24

12:24 誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。

 

●K君の言葉「生命を終える作物もあれば、これから芽生える生命もある。不思議な繰り返し」。に大いに関係するイエスの言葉。この不思議な生命現象に接することができる農業者は幸いです。

内村鑑三は「復活は神学者にはなかなか信じられないが、農業者はこれを容易に信じられる」と言っていますが、ほんとうのことだろうと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(送信メール終わり)

●東京聖書読者会に妻と出席。長島、小寺(マタイ一章)、横田(ブルガリア旅行のはなし)。●ブルガリアの宗教はほとんどがブルガリア正教でカトリックとプロテスタントは少数であるという。信仰はお国柄である。それぞれの国民に「しっくりいく」向き向きのキリスト教がある。ブルガリア人に無教会を説いても通じない。●日本でブfルガリアと言えば琴欧州とヨーグルトで有名●863年にブルガリアのギリシャ人がモラビアに布教したということを初めて知った。モラビア派のルーツか。

 

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


苦しい夢を見る ++++++++ 所感

2009/09/26 05:07

 

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

090926(土)、ふと目を覚ますと強盗が家の中を物色、かねてから用意してあった先に金属片の付いた長い棒を必死に振り回して捕える。すると強盗は素直にテーブルに座る。妻は台所に行ってリンゴをむき始める。私は何でそんなことをするのかと言って大喧嘩。強盗は反省の言葉を述べ始める。私は体を震わせて「罪には代償が必要だ」と説教しているところで苦しい夢が覚めた。4時。●何でこんな夢を見させられたかを黙想。①ヒルティは「本当に清められていれば見る夢も清い」とどこかで言っている。「お前はまだまだ」と神に言われた感じ。②妻の態度はイエスが罪人と一緒に食事をした「心」。(ルカ15:1-2)③神は、人は一人でいるのはよくないので「助け手」を造ろうと思って女性が創られた(創世記2:18)。妻が演じた行為はこの「助け手」の役割。この人(女性)と結婚できてよかった。 私(男性)にないものをこの人(女性)は持っている。真の意味で私を「助けて」くれる。これ結婚の本質。

新共同 創  2:22-24
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

④「罪には代償が必要だ」と説教した私はパウロの神学を言っているだけ。それは単なる「救いの説明」。その神学を振り回しても人は責められるだけで救われない。それは大脳皮質の概念⑤ビクトルユーゴーの「レ・ミゼラブル」は、教会の銀の食器を盗んだジャンバルジャンが神父の「赦し」で彼の人生が変わったというストーリー。⑥私はまだ到底あの神父のようにはなれていないなーと反省。⑦ヒルティに「現代の聖徒」があった。また読んでみたい。私はまだ死ねない。デキてないから「召される」のは程遠い。

●「WEB黒崎」協力者との交信で交わしたメール。公的なことなので公開する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇〇様

感想です。

 

新共同 Ⅰコリ10:13

10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 

●人間にとってどうしても耐えられない苦しみは、罪の自覚の懊悩と死の恐怖。その耐えがたき苦しみから真実な神は十字架の救いと有体的復活の示しで人類をその絶対的苦痛から救ってくださったのだと感じています。内村の言葉に「キリスト・イエスを救い主と仰ぎて癒しがたき悲痛あるなし」があります。キリストに「逃れる道」がある。「逃れる道はキリスト」。

そして究極は有体的復活による永遠の命、ここに万人が希求している永遠の喜びがある。そこに入れるように「十字架による罪の清めがある」。このことを必死に伝えようとしたパウロに倣いたくあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(メールおわり)

●あきる野の秋の花三題

resize1134.jpg 

コスモス大好き。信仰者のようだから。風ママ、神ママに動く。

resize1135.jpg 

一度通り過ぎたが、戻って撮影。集団でいるところが小エクレシアのようだ。

resize1136.jpg 

彼岸花。背景は我が家。この花、季節を忘れないのが不思議。神は「時」を支配する。終末の「時」も支配する。掌握されておられる。

●妻は夕方からモーツァルト「レクイエム」の練習に出かける。

●左手がしびれる。まずい。脳の関係か。

 




 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


死の悲しみの克服 ++++++++ 所感

2009/09/25 06:03

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090925(金)4:30目覚め●朝の黙想。「死の悲しみの克服」

塚本訳  ルカ 18:18-22
18:18 ひとりの(最高法院の)役人が尋ねた、「善い先生、何をすれば永遠の命がいただけるでしょうか。」
18:19 イエスは言われた、「なぜわたしを『善い』と言うのか。神お一人のほかに、だれも善い者はない。
18:20 (するべきことは神の掟を守ることだけで、)掟はあなたが知っている通り。──『姦淫をしてはならない、殺してはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてはならない、父と母とを敬え。』(ただこれだけである。)」
18:21 その人が言った、「それならみんな若い時から守っております。」
18:22 イエスは聞いて言われた、「もう一つ欠けている。持っているものをことごとく売って、(その金を)貧乏な人に分けてやりなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」

●18節。「何をすれば永遠の命が得られるか」。これ生きとし生けるものの究極の切なる願いである。生物は「死ぬまい死ぬまい」と思って生きている。人間社会の文化文明はことごとくこのこと。医療、軍事、安全、環境、経済、愛、家庭の建設、子孫繁栄、建築、平和、大往生、長寿、。しかし何をやっても究極は「死」。永遠の生命は得られない。だからこの役人が発した答えは正しい。「何をすればよいのか」。「どうすればよいのか」

●これに対するイエスの答えは22節。「持っているものを捨てよ」。これは何か。これができない。せっかく獲得したものは手放せない。なぜか。そこに楽しみがあるから。しかし「永遠の生命と引き換え」ならどうか。それならできそうだ。イエスはそれを言った。一心に神に帰依せよ。二心はいけない。そして次が大切。捨てただけではいけない。貧しい人に施しただけではいけない。イエスの弟子になれということらしい。イエスに「入門」することが大切。出家の心、家出の心が大切。

●音楽家たちはなぜウィーンに集まったか。これという音楽家はみなウィーンに集まった。2007年にウィーンを訪れた時にその原因を探りたかった。同行の音楽家の「それは優秀な音楽家が集まっていたから」の一言で氷解。原因はわかった。人であった、優秀な人物が群がった。それだけのことであった。ウィーンの風景や自然環境ではなく「人」であった。その意味でイエスが「私の弟子になれ」と言った意味が分かる。何事かを習得しようとしたら、その「メッカ」に行かなければならない。塾に入門しなければならない。そこで何年か修行しなければならない。大工が一人前になるのは7年かかる。7年目を年季明けという。同じくキリスト教に入門して修行しようという「一心」のこころが大切。ゴルフ、趣味、をやっていてプラス信仰もだというのでは「弟子になる資格」はない。だから「よく集会を休む人間」は「持っているもの」を捨てていない人間。救いとは無縁である。何事かを会得しようと思ったら最高に「優秀な先生」のところに入門しなければならない。優秀な先生はどこにいるか。評判である。人気ではない。自分の気持ちにピタリ会う先生でもいけない。内外を問わず神学大学を卒業した先生、必ずしも信仰ということに優秀ではない。それは大体「頭や知識」が肥大していて「しっくり」こない。ピンと来ない。胸が熱くならない。キリスト教の学歴を尊く思い、それを喜ぶ信者もまた信仰が薄い。社会的地位の高い人に群がる信者も信仰が薄い。

●私の経験的持論。キリスト教の蔵書量の多い人、キリスト教雑学の多い人、平和運動、皇室批判に熱心な人、教会の教勢、集会の維持継続に熱心な人は信仰が薄い。そこに「救い」は見当たらない。「キリストの香り」がしない。十字架と有体的復活の使徒伝承がない。熱心に見えるが実は「何もしていない」のと同じ。キリスト教の顔に泥を塗るだけだから「信者」の看板を降ろした方がよい。やめた方がよい。変な先生、変な教会、変な集会には行くな。短い一生、貴重な時間だ。自分がダメになるからそういうところには行くな。

●優秀な先生、救いの門はどこにあるか。イエスは言う。

文語訳 マタ 7:7-11
7:7 求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。
7:8 すべて求むる者は得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。
7:9 汝等のうち、誰かその子パンを求めんに石を與へ、
7:10 魚を求めんに蛇を與へんや。
7:11 さらば、汝ら惡しき者ながら、善き賜物をその子らに與ふるを知る。まして天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜はざらんや。


塚本訳  マタ 7:7-11
7:7 (ほしいものはなんでも天の父上に)求めよ、きっと与えられる。さがせ、きっと見つかる。戸をたたけ、きっとあけていただける。
7:8 だれであろうと、求める者は受け、さがす者は見つけ、戸をたたく者はあけていただけるのだから。
7:9 あなた達のうちには、自分の子がパンを求めるのに、石をやる者がだれかあるだろうか。
7:10 また魚を求めるのに、蛇をやる者があるだろうか。
7:11 してみると、あなた達は悪い人間でありながらも、自分の子に善い物をやることを知っている。ましてあなた達の天の父上が、求める者に善い物を下さらないことがあるだろうか。

●10:20 聖路加国際病院、9年前の脳内出血の予後検査でMRI検査をする。ドイツ、シーメンス社の最新鋭機。聞くと20億円したという。●入口の焼き芋屋の鈴木さんがいないので、病院の古い人に聞いたところ、2年ほど前から店を出していないという。どうされたのだろう。人生はお世話になった人にお礼も言えないで別れるということもあるのだなー●12:00聖路加国際病院のトイスラー礼拝堂で「お昼のコンサート」。ソプラノ和泉聡子(藤原歌劇団)とメゾソプラノ堀知恵子(二期会)が良かった。●帰途、東京駅までのバスで堀千恵子さんと御一緒、音楽談義は楽しかった。ヘンデル・メサイアのアルト独唱をやったことがあるという。

resize1130.jpg 

9年前、職場で脳内出血で倒れ、意識不明のまま救急車で担ぎ込まれた聖路加国際病院。頭蓋骨を割らずに「保存療法」で処置をしてくれた。一命を取り留めてくれた病院に感謝。

resize1131.jpg 

聖路加国際病院、トイスラー記念礼拝堂。表にある池に陽の光が当たって、その反射光が天井に写る仕掛け。波の影で光がゆらゆらと揺れている。ここで昼のコンサートが行われた。上田憲明チャプレンに挨拶。

resize1133.jpg 

 16:00都心から自然の多いあきる野に戻るとほっとする。しかし2時間は遠い。疲れる。都心にはなるべくで出かけないようにしなければならない。

●疲れて、「WEB黒崎」の打ち込みが出来なかった。●夕食の祈り、「WEB黒崎が終了するまで私たちの健康をお支えください」

 

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


説教するな。宥めの供え物たれ ++++++++ 所感

2009/09/24 05:57

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

090924(木)4時目覚め●朝の啓示「説教するな。宥めの供え物たれ」。浮かんできた聖句。

塚本訳マタ 11:11
11:11 アーメン、わたしは言う、女の産んだ者の中に、洗礼者ヨハネより大きい者はまだ出たことがない。しかし天の国で一番小さい者でも、彼より大きい。

塚本訳マタ 23:2-3
23:2 「聖書学者とパリサイ人はいまモーセの(後継ぎとしてその)椅子に坐っている。(彼らにはモーセの権威がある。)
23:3 だからなんでも彼らがあなた達に言うことを行い、また守れ。しかし、そのすることを真似てはならない。あの人たちは言うだけで行わないのだから。

●洗礼者ヨハネも聖書学者も「人間」。それは説教するひと。天の国の者にされた人はそれではいけない。


塚本訳ロマ 3:25
3:25 すなわち神は御自分の義を示すために、宥めの供え物としてキリストを提供された。これはキリストの血でなされたものであり、(人は)信仰によ(ってこの恩恵にあずか)るのである。このことは──神が(長いあいだ)忍耐をもって過ぎし日に犯した罪を罰せずにおられたので──

 塚本訳ロマ 12:1
12:1 (このように、神は偉大な計画によって人類を一人のこらず救おうとしておられるのであって、救いは確かである。)だから、兄弟たちよ、わたしは神のこの慈悲を指してあなた達に勧める。あなた達の体を(感謝のしるしとして神に)捧げよ。この生きた聖なる犠牲こそ、神のお気に入るものであり、(霊なる神を拝むにふさわしい、)あなた達の霊的な礼拝である。(あなた達の礼拝は動物を供えるような不合理なものでなく、全心全霊をささげる合理的な礼拝でなければならならない)


塚本訳 ルカ 23:34
23:34 するとイエスは言われた、「お父様、あの人たちを赦してやってください、何をしているか知らずにいるのです。」『彼らは籤を引いて、』イエスの『着物を自分たちで分けた。』


塚本訳 使  7:59-60
7:59 ステパノは打ち殺されながら、イエスの名を呼んで、「主イエス様、わたしの霊をお受けください」と祈り、
7:60 それからひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞこの罪をこの人たちに負わせないでください!」こう言って、彼は眠りについた。


新共同 ヨブ 1:5
1:5 この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。

●天の国の者は「説教しない」。宥めの供え物として生きる。


 塚本訳ヤコ 5:16
5:16 だから互いに罪を告白し、医されるため互いのために祈れ。義人の(熱心な)祈りは働くと大きな力がある。


新共同 Ⅰコリ15:58
15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。


塚本訳黙  2:9
2:9 私はお前(が私の名のために受けた、また受けつつある数々)の患難と、(またお前の)貧しさとを知っている──しかし(貧しいのはただ外見だけであって、神の前では)お前は(一番)富んでいる(のである。)──また、(自分で)自分をユダヤ人であると称え(て誇り)ながら、(その実、決して真の)ユダヤ人でなく、むしろサタンの会堂に属する者達からの罵詈を(お前が受けていることを、)私は知っている。(お前が今日までよくこれに耐えて来たことを私は褒める。)

●宥めの供え物としての自分の祈りは「聴かれるか」どうかわからない。生きているうちにその成果は見られない。けれども「決して無駄に」終わらないと聖書に書いてある。神は「涙」を知っている。

resize1121.jpg 

久しぶりにきれいな朝、思わず表に飛び出して撮影。讃美歌90番を歌う。

讃美歌90番

1. ここ も かみ の みくに なれば,

   あめ つち, みうた を うたい かわし,

   いわ に, きぎ に, そら に, うみ に,

   たえなる みわざ ぞ, あらわれたる.

2. ここ も かみ の みくに なれば,

   とり の ね, はな の か, しゅ を ば たたえ,

   あさひ, ゆうひ, はえ に はえて,

   そよ ふく かぜ さえ かみ を かたる.

3. ここ も かみ の みくに なれば,

   よこしま しばし は とき おをう とも,

   しゅ の みむね の やや に なりて,

   あめ つち つい に は ひとつ と ならん.

●メロディーは次をクリック

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-090-this_is_my_faters_world.mid

 

resize1122.jpg 

朝日に思う

文語訳 マタ 5:43-47
5:43 「なんぢの隣を愛し、なんぢの仇を憎むべし」と云へることあるを汝等きけり。
5:44 されど我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。
5:45 これ天にいます汝らの父の子とならん爲なり。天の父は、その日を惡しき者のうへにも、善き者のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも正しからぬ者にも降らせ給ふなり。
5:46 なんぢら己を愛する者を愛すとも何の報をか得べき、取税人も然するにあらずや。
5:47 兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、異邦人も然するにあらずや。

●14:30 妻と二人で自転車で秋川霊園に父母の墓参。

resize1123.jpg 

父1992年召天87歳、母2004年召天88歳 

「復活の朝、また会う日まで」。花を捧げてくれた人がいる。誰だろう。

resize1124.jpg 

昨日は秋分。今日は霊園がすいている。気持ちのよい秋の日。亡き両親に子供と孫のことを報告。

resize1125.jpg 

こういう墓もあった。復活を固く信じて逝った幸いな人だ。

resize1126.jpg 

墓参の帰り。妻の後姿を写す。妻には長生きして、子や孫の相談相手になってほしいと思う。

妻には認知症にならないでほしい。それには「面倒を見続ける」私という存在が必要らしい。「面倒を見る人」がいなくなると認知症になりやすいらしい。

resize1127.jpg 

こういう墓もある。これもキリスト信者だが、数は少ない。

resize1128.jpg 

平井川の夕暮れ。私たちの人生も夕暮れが近いが。有体的復活を思えば「サーこれからだ」

resize1129.jpg 

あきる野は秋の色。冬の前の秋のよい一日であった。あと何回だろうか。ノー!。復活だ。有体的復活だ。永遠の命だ。証拠は?。イエスの有体的復活の「使徒伝承」。その歴史的伝承の連鎖を信じる。

 

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


死は有体的復活への門 ++++++++ 所感

2009/09/23 08:02

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090923(水)秋分の日。3時半起床。「WEB黒崎」引照入力、Ⅰコリ8章、13節と短いので朝飯前に完了。●公園でラジオ体操●次回感話の骨子を構想。

①死は有体的復活へのへの門

②有体的復活の体は「建物」に譬えられる

③塚本虎二の「有体的復活」観

④有体的復活を信ずる人の応答の不思議

●「有体的復活」の信仰を頂けば、この世限りの人生観が根本からひっくり返される。「死もまた益」となる。

WEB黒崎ピリピ1:21

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1章21節 われにとりて、くるはキリストなり、ぬるもまたえきな(ればな)り。[引照]

口語訳わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。
塚本訳何故なら、私にとって生きることはキリスト(を生きること、彼が私に生き給うことである。否、彼が私の生命)である。そして死ぬることは(完全にキリストと共に生きることであるから、私にはむしろ)利益である。
新改訳私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
前田訳わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことも益です。
新共同わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

註解: 前節に「生くるにも死ぬるにも」とあり、すなわちパウロの願いは生きんことにあらず、さらばとてまた死することにもあらず、唯キリストが崇めらるることの一事のみであることを述べたのに対し、その説明としてパウロの死生観ともいうべきものを叙ぶ。パウロにとりては生きているということはキリストであり、キリストが彼に乗り移ったことであるという。この境地においてはもはや人格的対立を克服して人格的融合一致の極致に達している。然らば死は如何、パウロは死もまた益なり結構なことであるという(その理由は23節を見よ)。生死何れも結構なりとする以上、もはや彼にはいわゆる生死の問題はない。なおパウロは「生くるはキリストのため」とか「生くるはキリストに在りて」とか言わざることに注意すべし。これらよりも以上の境地なり。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●次回感話の原稿●妻は北区の「ホクトピア」にオペラ観賞。ヘンデル「オットーネ」。帰宅は22:00頃

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


死は永遠の生命への門 ++++++++ 所感

2009/09/22 09:30

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

090922(火)5時起床。国民の休日。黙想「死は永遠の生命への門」。癌の手術をされたHY氏が過日の集会で私の耳元に囁いた。「死は次の世への門だ。心配していない」と。●折しも次回感話のテキストはヨハネ10:1-21。その中の9節には、「門」という言葉がある。そこで「門」に注目して黙想。まず、{WEB黒崎」を見てみよう。

(WEB黒崎引用)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

10章9節 われもんなり、おほよそわれによりてものすくはれ、かつ出入いでいりをなし、くさべし。[引照]

口語訳わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
塚本訳(また、)わたしが(羊の出入りするための)門である。わたしを通って入る者(羊)は救われる。(いつもこの門を)入ったり出たりして、牧草を得るであろう。
新改訳わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
前田訳わたしは門である。わたしを通って入るものは救われ、出入りして牧草を得よう。
新共同わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。

註解: キリストは羊の門に在し給う。盗人、強盗は羊を喰わんがために他より入り来るのであって、従って羊を自由に檻より出さない。ゆえに羊は檻より出入りして草を食うことができず、檻の中に束縛せられる。これは律法主義と、教権主義に束縛せられているパリサイ人およびその主義の犠牲となっている信者を意味する。その反対にキリストの門より入る者、すなわち信仰によりてキリストに頼る者は、これによりて救われて義とせられ、而して彼との間の親密なる霊的交通に生くることができ(「出入し」とはこの状態をいう。使1:21)、従って形式、制度、教権に束縛せられず、また霊の糧(草)を豊かに喰うことができる。すなわちイエスの門よりてのみ羊は真の生命を得ることができる。

●新共同訳の引照

ヨハネによる福音書 14章6節
14章6節 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 ●ネストレの引照

詩篇 118章20節
118章20節 これは主の城門/主に従う人々はここを入る。

  1. 民数記 27章17節
    27章17節 彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」

●次に「Jバイブル」で「門」をヒット。心に響くものをピックアップしてみよう。

マタ   7: 7 [口語

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

マタ   7: 8 [口語

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

マタ   7: 13 [口語

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。

マタ   7: 14 [口語

命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

ヨハ   10: 2 [口語

門からはいる者は、羊の羊飼である。

ヨハ   10: 3 [口語

門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。

ヨハ   10: 7 [口語

そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。

使    3: 2 [口語

生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。

使    14: 27 [口語

彼らは到着早々、教会の人々を呼び集めて、神が彼らと共にいてして下さった数々のこと、また信仰の門を異邦人に開いて下さったことなどを、報告した。

コロ   4: 3 [口語

同時にわたしたちのためにも、神が御言のために門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように(わたしは、実は、そのために獄につながれているのである)、

黙    21: 25 [口語

都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。

黙    22: 14 [口語

いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。

 

●上記のうち使徒14:27に「信仰の門」という言葉がある。人は救いを求めるために「教会の門」を叩く。これは非常に大切なこと。「入門する心」がないと人は救われない。●人生航路で一番楽なのは次の道である。とヒルティは「眠られぬ夜のために」の最後に付けられた小論で言う。私は高校生の頃に「この道」を歩みたいと思ったものである。ヒルティはイザヤ書を引用する。結論は「開かれた門を通って導かれていく人生」(典拠失念)観が「幸福」であるというのである。。

口語訳 イザ 46:4
46:4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。

口語訳 イザ 27:5
27:5 それを望まないなら、わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」。

口語訳 イザ 30:21
30:21 また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。

口語訳 イザ 32:18
32:18 わが民は平和の家におり、安らかなすみかにおり、静かな休み所におる。

口語訳 イザ 40:29-31
40:29 弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
40:30 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。
40:31 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

口語訳 イザ 41:11
41:11 見よ、あなたにむかって怒る者はみな、はじて、あわてふためき、あなたと争う者は滅びて無に帰する。

口語訳 イザ 41:16
41:16 あなたがあおげば風はこれを巻き去り、つむじ風がこれを吹き散らす。あなたは主によって喜び/イスラエルの聖者によって誇る。

口語訳 イザ 43:18-19
43:18 「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。
43:19 見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。

口語訳 イザ 46:11
46:11 わたしは東から猛禽を招き、遠い国からわが計りごとを行う人を招く。わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。

口語訳 イザ 51:22-23
51:22 あなたの主、おのが民の訴えを弁護される/あなたの神、主はこう言われる、「見よ、わたしはよろめかす杯を/あなたの手から取り除き、わが憤りの大杯を取り除いた。あなたは再びこれを飲むことはない。
51:23 わたしはこれをあなたを悩ます者の手におく。彼らはさきにあなたにむかって言った、『身をかがめよ、われわれは越えていこう』と。そしてあなたはその背を地のようにし、ちまたのようにして、彼らの越えていくにまかせた」。

口語訳 イザ 54:14
54:14 あなたは義をもって堅く立ち、しえたげから遠ざかって恐れることはない。また恐怖から遠ざかる、それはあなたに近づくことがないからである。

口語訳 イザ 54:17
54:17 すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない。すべてあなたに逆らい立って、争い訴える舌は、あなたに説き破られる。これが主のしもべらの受ける嗣業であり、また彼らがわたしから受ける義である」と/主は言われる。

口語訳 イザ 58:11
58:11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。

口語訳 イザ 62:3-5
62:3 また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、あなたの神の手にある王の冠となる。
62:4 あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。主はあなたを喜ばれ、あなたの地は配偶を得るからである。
62:5 若い者が処女をめとるように/あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように/あなたの神はあなたを喜ばれる。

口語訳 イザ 66:23-24
66:23 「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と/主は言われる。
66:24 「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。

●口語訳 イザ 66:13-14
66:13 母のその子を慰めるように、わたしもあなたがたを慰める。あなたがたはエルサレムで慰めを得る。
66:14 あなたがたは見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように栄える。主の手はそのしもべらと共にあり、その憤りはその敵にむかっていることを知る。

●そしてこれを引用した後でヒルティは言う。「さらば選べ」と。つまり人間の頭で戦々恐々として戦って歩く道か、それともイザヤ書に書かれているように神に導かれて「安らかに」歩く道のどちらかをと。●神を信じる者にとって「死は永遠の生命への開かれた門」である。

resize1117.jpg 

6:30孫たちとラジオ体操。子供は大人の真似をする。健太郎はまだ歩けない。かなほの食前の祈り「神様これから食べます。アーメン」。初音「神様、アーメン」。これは手抜きの祈りだが、祈りは長くするなとイエスは言った。(マタ6:7-8)

resize1118.jpg 

敬老の日、一泊二日の孫rたちの来訪。ありがとう。

resize1119.jpg 

9:15東秋留駅に見送る。さようなら孫たち、「また会う日まで」。走り去る電車。神の祝福が末長くこの一家の上にありますように。

 

 


 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


「有体的復活」の反応伝承連鎖 ++++++++ 所感

2009/09/21 05:43

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

090921(月)3時半起床。●朝の黙想「有体的復活の反応連鎖伝承」が教会の本質。黄泉の力もこれを壊すことはできない。●「有体的復活」の言葉には少数ではあるが各地から「アーメン」との呼応がある。これは実に不思議な現象である。むずかしい頭だけの教会論ではなく、理屈抜きにここに「教会の本質」を見る。この関係は死もこれを壊さないという感じがする。●聖書的根拠が浮かぶのは次の通りである。

塚本訳 マタ 16:16-18
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたは救世主、生ける神の子であります!」
16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。
16:18 それでわたしもあなたに言おう。──あなたはペテロ[岩]、わたしはこの岩の上に、わたしの集会を建てる。黄泉の門[死の力]もこれに勝つことはできない。


塚本訳 ロマ 8:36-39
8:36 こう書いてある。──『あなた[神]のためにわたし達は一日中死の危険にさらされている、わたし達は屠られる羊のように考えられた。』
8:37 (もちろん、引き離すことのできるものはない。)そればかりか、わたし達を愛して(十字架につけられて)くださった方により、これらすべての(苦難の)中にあって、わたし達は悠々と勝つことができる。
8:38 なぜなら、わたしは確信している、死んでも命でも、天使でも支配(天使)でも、現在起こっていることでも将来起こることでも、権力(天使)でも、
8:39 高い所のものでも低い所のものでも、その他どんな創造物でも、わたし達の主キリスト・イエスによる神の愛から、わたし達を引き離すことはできない。

●「有体的復活」の使徒伝承なき教会、集会は何にその存在意義を求めているか。それは思想、運動、社会批判、娯楽、音楽、建物、組織、人物、・・・・・・これらは本物ではないから永続性がない。続かないことが神の「審判」である。ひどいのになると、信仰はそっちのけで「ただ仲良く集まっていればよい」というものや共産党か社民党の政治運動となんら変わらない集団もある。そういう暇人集会には神第一の真面目な信仰者は来るはずはない。そういう集団は老齢自然消滅によることが神のジャッジである。●キリストのエクレシアはメンバーの老齢化で消滅するものであろうか。メンバーの老齢化が進んでも「有体的復活」の信仰の連鎖伝承は滅んではならない。このことをスイスの神学者エミール・ブルンナーに見てみよう

(1998教文館・ブルンナー著作集第4巻・近藤勝彦、大村修文訳)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●宗教改革の教会も、新約聖書においてエクレシアと呼ばれているものの再発見から生じ、このエクレシアを再建しようと試みたのであるが、その目標に達しなかった。(P120)

●われわれプロテスタント信徒の承認しなければならない第一のことは、このローマ教会が何百年もの間、人類に聖書的福音を伝える唯一のチャンネルであった事実である。・・・・すべての後のキリスト教世界のために聖書を保持し、聖書を翻訳し、その内容を説教と教育と典礼により、またとりわけ造形美術によって西洋の諸国民に知らしめたのは、同じくこのカトリック教会であった。(P121)

●新約聖書のエクレシアの理念によって規定されている全く固有の現象は、日本における無教会、つまりキリスト教的な非教会運動である。・・・・それは組織としては最小限のままにあり続け、個々の集会の組織的関連はなく、伝統的な形態での洗礼も聖餐もない。ただ霊に満たされた指導者によって生き生きと解釈された聖書の言葉だけが、エクレシアの根拠として承認される。連続性を保証するためのいかなる準備対策も存在しない。・・・無教会の人々が彼らの中に新約聖書的なエクレシアがその日本的形態を取ったと考えることは理解できる。確かにここには教会形成についてついては非常にわずかしか痕跡を残していない。組織は全く神学者ではないがしかし根本的に聖書に通じその解釈者である個々の指導者たちの権威、誰でも認めている霊的な権威の中に存在している。この運動の存続はどのように守られるかという問いを投げかけるならば、答えはこうである。それについては神が心配してくださるであろう。これまでもそうなさったように。個々のグループがただ完全に自立的であるだけでなく、組織的関連のないままにそうである限り、教会化の危険はわずかであり、即自的に存在する荒廃と分裂の危機も今までのところ現れて来ていない(P157・・・・ブルンナーは本書を1960年に執筆。それから無教会の実態は変わった・・・高橋註)

●使徒たちはキリストの啓示の目撃者であり、原証人である。教会はこの原始キリスト教的エクレシアと歴史的連続性にあるときにのみ使徒的である。・・・・・そしてこの信仰に従ってキリスト者であることに彼が到達するのは、ただあの歴史的連鎖を媒介としてである。その連鎖は、イエスから原証人として使徒たちを通り、この原証人の上に建てられた教会を通って彼にまで降ってくる。使徒性という特性は、教会概念に即して決定的にこの歴史的契機を強調しようとする。(P160)

●P162-163に書かれている「継承」についての高橋の要約。・・・・使徒的継承は中味の継承であるべきなのにカトリックはそれを司教という政治的、現世的、職業的継承としている。プロテスタント教会は使徒伝承を「聖書信仰」と取り違えてしまって重荷になっている。(P162ー163)

●道具的制度(教会、集会のこと・・・・高橋註)の多数性(多様性・・・高橋註)は、最初から悪とみなされるべきではなく、一つの目的のためにさまざまな手段として、同じ程度にまたより一層の正当さをもって積極的に評価され得るであろう。それらは一つの軍隊の中でそれぞれそれら独自の機能方法をもっているさまざまな兵科に譬えることができよう。彼らは『別れて行軍するが、合同して戦う』のであり、一人の『首領』(ツヴィングリ)の下で彼らのやり方でその命令に従順であるとし、特に和解についてのよき知らせをこの世にしらしめようと努力している。・・・・・日本の無教会運動(運動と捉えていることが問題・・・・・高橋註)のような形成物でさえ、非常に実り豊かな奉仕が認められ得るであろう。というのは、そこでもまたあの一人の救済者の使信が中心をなしているからである。(P173)

●教会の抽象的な教えの言葉ではなく、その背後にキリストの兄弟関係の現実が存在している霊に満たされた証しの言葉が、生きた信仰を作りだすことができる。ただキリスト者たちと彼らの兄弟関係の生活の証言だけが、そしてとりわけ自分たちの信仰のために死ぬ証人たちの備えが、なぜキリスト教が急速に伝播したのかを理解可能にする。このことを古代教会もまた知っていた。そしてこのことを『殉教者ノ血ガ教会ノ種デアル』という言葉に定着させたのである。(P185)

●言葉の証しと行いの証しは互いに密接な関係にある。それゆえまた教えるエクレシアと愛するエクレシアも互いに密接な関係にある。それゆえ「人はエクレシアを通してのみ信仰に至る」という命題と「人は信仰を通してのみエクレシアに至る」という両方の命題とも正しい。(P185)

●主はエクレシアの証しの言葉を用い、それによって御自身の自己伝達の仕事を継続する。エクレシアはそのようにして神の国を建て、人間の間に神の支配を樹立するための道具、神の手にある手段となる。エクレシアはそれゆえこの意味において目的のための手段であって自己目的ではない。というのは、目的は完成された神の国であるからである。しかし同時にエクレシアはただ単に目的のための手段ではない。そうではなくそれは≺キリストノ体≻として神の自己現在化であることによって自己目的でもある。(P186-187)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1998教文館・ブルンナー著作集第4巻 引用終わり。

●愛子が子供3人連れて里がえり。●近くの林で孫にドングリ拾いをさせる。

 resize1115.jpg

近くの林でドングリ拾い。左から伊勢かなほ、伊勢健太郎、伊勢愛子、伊勢初音

resize1116.jpg 

伊勢健太郎(一歳と二か月)は階段を登れるようになった。まだ危ないので母親が手で支える。

●12:40 小寺利男氏が塚本訳コリントを受け取りに来られた。私不在●14:00内村鑑三研究会。今井館。「内村鑑三の福音釈義に見られる女性観・・・・絹川久子(フェミニスト神学と宣教センター)」「内村鑑三と非戦論・・・・吉馴(よしなれ)明子(恵恵女学園)」●絹川さんの水も漏らさぬ発表振りにに舌を巻いた。「無教会を去った」理由も話された。無教会には枠ができていて自分(絹川)はそこからはみ出したのだという。休み時間に絹川さんと懇談。頭のよい人はすぐ分離する。ただ絹川さんの聖書釈義を伺って「へー、そうも読めるのかなー」というのが感想。彼女は彼女、私は私。聖書釈義は各自の自由。それが無教会●絹川さんは塚本虎二に信仰を学んだ方で、塚本集会に出席の多くの人がギリシャ語で聖書を読むのに刺激されたという。米国へ留学2回。フェミニズム神学は米国で裏付けを取られたという●帰途は所沢の山本さんと渋谷まで。

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


福音を待っている人の所に行け ++++++++ 所感

2009/09/20 06:28

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

09013(日)5時半、苦しい夢を見て、目覚め。「夢でよかった」。●手帳に書き忘れたので、この世の仕事(それは小事、社会的義務)と、キリスト教の集まりでの話とがぶつかってしまっていた。この世の仕事の方を選択したら、Y氏から「高橋さんの話を聞こうと思ってキリスト教の集まりに行こうと思っていた」と文句を言われた。という苦しい夢。●このとき、「この世を捨てよ、不義理せよ」というのは「捨てる、主に忠誠を果たせということに意味があるのではなく、「福音を待っている人」がいるのだからそれを第一にせよという意味であることを教えられた。●その関連聖句がパラパラと浮かんだ。こういうとき「Jバイブル」という聖書ソフトは便利。記憶にある単語から聖書の箇所を検索できる。

塚本訳 マタ 10:5-6
10:5 イエスはこの十二人に次のように命じて(伝道に)派遣された。──「(国を離れてはいけない。)異教人の所へ行くな、またサマリヤ人の町に入るな。
10:6 ただ、イスラエルの家のいなくなった羊(だけ)に行け。


塚本訳 マタ 15:23-24
15:23 しかしイエスは一言も答えられなかった。弟子たちが来て、願って言った、「願いをかなえてやって、(早く)この女を追い払ってください。どなりながらついて来ますから。」
15:24 イエスは答えられた、「わたしはイスラエルの家のいなくなった羊だけにしか、遣わされていない。」

塚本訳 マタ 9:11-12
9:11 パリサイ人はこれを見て、弟子たちに言った、「なぜあなた達の先生は、税金取りや罪人と一しょに食事をするのか。」
9:12 聞いて言われた、「丈夫な者に医者はいらない、医者のいるのは病人である。

塚本訳 ルカ 12:51-53
12:51 あなた達は、地上に平和をもたらすためにわたしが来たと思うのか。そうではない、わたしは言う、平和どころか、内輪割れ以外の何ものでもない。
12:52 今からのち、一軒の家で五人が割れて、三人対二人、二人対三人に
12:53 割れるからである。父対息子』息子対父、』母対娘』娘対母、』姑対嫁』嫁対姑』!」

口語訳 マタ 6:33
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

 塚本訳 マコ 10:29-30
10:29 イエスは言われた、「アーメン、あなた達に言う、わたしのため、また福音のために、家や兄弟や姉妹や母や父や子や畑をすてた者で、
10:30 今、この世で──迫害のうちにおいてではあるが──百倍の家と兄弟と姉妹と母と子と畑とを、また来るべき世では永遠の命を受けない者は一人もない。

塚本訳 ルカ 18:29-30
18:29 彼らに言われた、「アーメン、わたしは言う、神の国のために家や妻や兄弟や親や子を捨てた者で、
18:30 この世でその幾倍を、また来るべき世では永遠の命を受けない者は一人もない。」

塚本訳 Ⅰテモ5:8
5:8 自分の身内の者、特に家族を顧みないなら、その人は信仰を棄てたので、不信者よりも悪い。

口語訳 創  12:1
12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。

新共同 創  22:1-2
22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

●古代ローマの殉教者ヴィクトリアが信仰の故に捕えられた時、肉親の兄が言った。「ローマ皇帝が主です。とただそれだけ言えばよい。自分の命を大切にして老いた両親に孝養をつくしなさい」。こう言われるとき(それは人間常識)普通の人間は神か孝養かで迷ってグラっとくるのが普通。ヴィクトリアは「私の主はイエス・キリストです」と言って殉教した。涙を振り払って肉親を捨てたこういう小さい人の戦いがあってキリスト教は大ローマ帝国に勝利した。●主のために母を捨てれば母は救われる。主のために子供を捨てれば子供は救われる。なぜか。わたしに代わって主が母のため子のために働いてくださるからだ。●さらば涙を振り払い、「達者で暮らせ」と心に念じ、私に代わって働いてくださる神の約束を信じて行こう。●「失われた羊(だけ)」に行こう。●塚本訳の敷衍の(だけ)の意味は重い。なぜか。彼らは救いの言葉を必死に待っているのだ。求めているのだ。健康(だと思っている)人は福音を受け入れない。かえってこれを馬鹿にする。嫌う。避ける。

塚本訳 マタ 10:5-6
10:5 イエスはこの十二人に次のように命じて(伝道に)派遣された。──「(国を離れてはいけない。)異教人の所へ行くな、またサマリヤ人の町に入るな。
10:6 ただ、イスラエルの家のいなくなった羊(だけ)に行け。

●妻と集会に行く。●集会は宮崎、高木、望月●開会前に本年6月に癌の手術をされて生還された隣席のHY氏が「死は生への門である」という貴重な信仰告白をしてくださった。●終了後、MA氏、YM氏と集会のあり方で懇談。人も集会にも寿命がある。自然消滅、自然崩壊する。建築家が死ぬとその設計事務所は解散するのが自然。キリストの集会はどうか。復活のキリストの命があるときのみ継続する。もし「有体的復活」「三位一体」を信じないようでは継続する「種」がない。枯れ木になる。無教会集会の本質は「聖書中心」「聖書は何を言っているか」を学ぶ会。●昼食は6人。懇親懇談●あきる野に戻って孫がどんぐりと松ぼっくりが欲しいというので家の近くで採集した。●妻はモーツァルトレクイエムの練習。

resize1113.jpg 

妻と集会に出かける。奥多摩連山とブロッコリーの畑が見送ってくれる。

resize1114.jpg 

家の近くの林。孫の初音がどんぐりと松ぼっくりが欲しいというので採集した。ドングリがたくさんとれてうれしい。初音が喜ぶだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


「有体的復活」を信じる者の喜び ++++++++ 所感

2009/09/19 05:43

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090919(土)5時起床●目覚めに次回感話の構想が与えられる。「有体的復活を信じる者の喜び」●その骨子

●「泣くな!、ほんとうのいのちが神によって与えられる」・・季刊「無教会」巻頭言

●「イエスの有体的復活」に出会った人に湧きあがった喜び。・・・使徒伝承の源流

●塚本虎二の「有体的復活」の信仰。・・・学問的考察の真実性。

●家屋の焼失と脳内出血意識不明によって与えられた「有体的復活」の信仰・・・「天国の家は焼けない」

●「有体的復活」は連鎖反応を呼ぶという不思議な現象・・・嬉しい応答

●建築士として有体的復活と建物の関係を考える・・・体は神の霊が宿る神殿

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


出よ!「有体的復活信者」 ++++++++ 所感

2009/09/18 06:24

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

090918(金)4時目覚め。朝風呂で黙想●「不思議なる仲間」●私自身の不思議なる仲間は次の3種類。

①クラシック音楽が好きな仲間。②クリスチャンの仲間。それも無教会主義の仲間 ③クリスチャンでも「有体的復活」を信じる仲間。

③について黙想。この仲間は物理的に近くない。地域限定ではない。極少ない人数。この世の姿がわからない。逢った事もない人がいる。その職業、地位、家庭、前歴、学歴、姿形、持病、経済、所属教派を知らない。おそらくかなり「みじめ」。この方たちは肉体的に死んでも生きているような感じがする。●これを「有体的復活信者」の仲間、(有体的復活を信じる仲間)と呼ぶ。この方たちは、不思議に有体的復活の信仰告白を御連絡下さる。これは実に不思議なる現象である。●初代キリスト教徒(多くは有体的復活の信者)がこの世のローマ帝国の迫害に遭ってライオンの餌食にされるとき、震えながら抱き合っていた。しかしその平安な死顔をみたネロは叫ぶ「何だこの顔は!」と。(映画「クウォヴァディス」)。彼らは「有体的復活」を固く信じていたので平安な死顔であったのだ。次の世があると信じていたのだ。●神の恩恵によって、出よ!「有体的復活信者」。物理的には会えない。勢力は造らない。有体的復活を固く信じて心で抱き合い、どんな苦難や迫害に遭っても励まし合って生き抜き、死のうではないか。●信者に向かって「有体的復活を信じなければならない」と言っても効果はない。それは神の恩恵によって与えられるものであって、勉強や信じるという努力では得られないものだからだ。

resize1109.jpg 

窓を開けるとこの景色。讃美歌24番を歌う。

讃美歌24番

1. ちち の かみ よ, よる は さり て,

   あらた なる あさ と なりぬ.

   われら は いま みまえ に いで て,

   みな を あがむ.

 2. ばん ゆう の しゅ よ, みかお あおぐ

   しもべ ら を つよく なして,

   あまつ くに の つきぬ めぐみ を

   えさせ たまえ.

 3. みつ に まして ひとり の かみ,

   みすくい はとうとき かな.

   みな の ひかり てり かがやき て,

   よ に あまね し.

 

●メロディーは次をクリック

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-024-nocte_surgentes_vigilemus_omnes.mid

resize1111.jpg 

大好きなコスモスが天に向かって叫んでいる。ハレルヤ、ハレルヤ。

resize1112.jpg 

この雲はバロック音楽のようだ。詩篇19編を思う。

新共同 詩  19:5
19:5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。

 

●終日「WEB黒崎」引照入力。●昼食の時、妻に「あなたは子供や孫の相談相手のために長生きしてほしい。私としてはあなたが認知症にはならないように力を尽くしたい」と話した。●妻は体操(自彊術)

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


血で保釈金を支払ってくださった ++++++++ 所感

2009/09/17 05:20

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090917(木)3時目覚め。朝の黙想。「保釈を請求する人」●覚せい剤取締法違反罪で起訴されていた高相裕一被告(41、女優酒井法子の夫)は保釈保証金500万円を東京地裁に納付して保釈された。●金を積めば拘留が解かれる仕組みには昔から興味があったので調べてみた●保釈はそれで罪が消えるのではなく裁判が終わるまで逃亡の恐れがないことを認められる場合に保釈金(正式には保釈保証金という)を支払えば留置から解かれるということである。裁判が終わればその金銭は返される。その金額どれくらいなのか。それは拘留されている人間が持っている全財産程度。だから大金持ちは保釈金の額が多い。ライブドア堀江被告の場合は3億円であった。ただし死刑に当たるような重い罪はいくら金を積んでも保釈されない●興味があるのは、この保釈金を支払う人は誰でもよいというわけではないらしい。●法律では次のようになっている。

「保釈請求権者(勾留されている被告人、弁護人、法定代理人、保佐人、配偶者、直系の親族、兄弟姉妹)から請求があった場合は、裁判所は保釈を許さなければならない。」(刑事訴訟法89条)

●これを読むと、保釈が請求できるのは拘留されている人間に近い人である。「赤の他人」ではだめらしい●ここで聖書の句を思った。

塚本訳 ロマ 5:7-8
5:7 (驚くべき神の愛!人間の世界では、)義人のために命をすてる者はほとんどあるまい。善人のためならば、惜しげもなく命をすてる者が、あるいはあるかも知れない。
5:8 しかしわたし達が(義人でも善人でもなく、)まだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。このことによって、神はわたし達に対する愛をお示しになったのである。

塚本訳 エペ 2:13
2:13 しかしながら今やキリスト・イエスに在って、かつては『遠く』あった君達が、キリストの血によって『近く』なったのである。

塚本訳ガラ 1:4
1:4 キリストはわたし達の父なる神の御心にしたがい、わたし達を悪い現在の世から救いだそうとして、わたし達の罪のために自分を与え(て十字架につけ)られたのである。

塚本訳 ロマ 3:24
3:24 (さりとて失った栄光を回復する力はないので、何一つ)代価を払わず、(ただ)神の恩恵によって、キリスト・イエスによるあがないの力で、(神に)義とされる(道が設けられた)のである。

塚本訳 マタ 20:28
20:28 人の子(わたし)が来たのも仕えさせるためではない。仕えるため、多くの人のあがない金としてその命を与えるためである。」 


●神は私にとって、遠い存在であった。キリストは身内でなく「赤の他人」であったのに、血を流して私を赦してサタンの拘留から解放してくださった。●神は死刑に相当するような重い罪でも赦して釈放してくださる。「絶対恩恵による無条件の罪の赦し」。これがキリスト教の本質。しかも仮出所でなく、永久出所。そして過去を一切清めて、有体的復活の永遠の命を下さる。「赤の他人の」キリストは私の保釈を神に請求するために血を流して死んでくださった。身代りになってくださった。血で保釈金を支払ってくださった●高相被告は刑務所を出るとき、「すべて私が悪かったのです」と言った。私はこれで彼の罪は神に赦されたと思った。彼の保釈金は父親が支払ったという。

 

resize1105.jpg 

秋の空は高い。バッハ「高き空より我は来たりぬ」を思う。これは讃美歌101番になっている。

讃美歌101

1. いずこ の いえ に も めでたき おとずれ

   つたうる ため とて あめ より くだりぬ.

 2. マリア の みこ なる ちいさき イエス こそ,

   みくに に この よ に つきせぬ よろこび.

 3. かみ なる イエス こそ つみ とが きよむる

   きず なき こひつじ, すくい の きみ なれ.

 4. よく こそ まし けれ とうときイエス きみ,

   いかなる もの もて きみ を ば もてなさん.

 5. こころ の ふしど の ちり を ば はらいぬ,

   あいする イエス きみ しずか に いね ませ.

 6. まぶね の そば にて マリア が うたえる

   みうた に あわせて われら も しゅ を ほめん.

 

●メロディーは次をクリック。

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-101-vom_himmel_hoch_da_komm_ich_her.mid

●14:30 秋のあきる野を2時間歩き、市役所、コンビニ、郵便局、歯科

resize1108.jpg 

秋のあきる野を2時間歩く。

 

 

 





トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


「失敗の子育て」の意味 ++++++++ 所感

2009/09/16 05:54

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090916(水)4時半起床。某氏から「種を播くときには気が抜けない」という便りをいただいた。そこに種播き人である神の心を垣間見たので返メールした。「子育て」ということに共通のことだと思うので公開する。少し改変。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇〇様

 

 

(前略)

さて本日のブログで「種まく人の心」というものを学びました。そこに神の心を垣間見ました。

貴君の言葉「苗の出来がその後の成育を大きく左右するので気が抜けない」。

これは「コツ」を覚えてきた人の言葉です。

イエスは「種まきの譬」で次のように言っています。

 

塚本訳 マコ 4:3-9

4:3 「聞け、種まく人が種まきに出かけた。

4:4 まく時に、あるものは道ばたに落ちた。鳥が来て食ってしまった。

4:5 またあるものは土の多くない岩地に落ちた。土が深くないため、すぐ芽を出したが、

4:6 日が出ると焼けて、(しっかりした)根がないので枯れてしまった。

4:7 またあるものは茨の(根が張っている)中に落ちた。茨が伸びてきて押えつけたので、みのらなかった。

4:8 またあるものは良い地に落ちた。伸びて育ってみのって、三十倍、六十倍、百倍の実がなった。」

4:9 そして「耳の聞える者は聞け」と言われた。

 

●「種播く人の心は神の心」です。人は誰でも播く時は「よく育って」欲しいと願うものですが、よく育つのは全部ではない。ですからこのマルコ4:3-9に神の「悲哀」というものを見ます。神ですら失敗する!。うまく育たないものがある。悲哀がある。溜息がある。悩みがある。●子供の生育も幼児のうち、あとは神が育てます。しかし中には「こんなはずじゃーなかったのになー」と思う育ち方もあります。「悲哀」です。●しかし貴君の今日の言葉「気が抜けない」で、神は最初の種播きですべての種を「気を抜」かないで播いたのだなー、祈りながら播いたのだなーということを学びました。●だからその後「こんなはずじゃーなかったのになー」と思うように育った人間をも神としては「自分が播いた種」なので慈しんで救うのだと思いました。●次の句(マタ21:31)は「まずく育った人間」の方を神は先に救うという神の子にして初めて言える言葉です。●「失敗の子育ての意味」は何か。神が「子育てはあんた(人間)ではだめだったのだ。嘆くな、泣くな。責任は播いた私(神)にある。私(神)が救う」ということを親に悟らせ、慰めることではないでしょうか。

 

塚本訳 マタ 21:31

21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●終日「WEB黒崎」引照入力。●妻は今井館へ「ウィークデーの集い」●アマゾンに本の出品方法を聞く。残り時間が少ないので不要な本は処分する必要がある。●来月の感話準備。「塚本虎二の『有体的復活』の信仰」。再臨も有体的である。これが正統信仰。●夕食の時、妻から今日の報告を聞く

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


神は愛児の目を覚ます ++++++++ 所感

2009/09/15 06:47

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090915(火)朝の黙想。「神は愛児の目を覚ます」●このテーマで聖書の思いつくままをあげてみよう。

口語訳 雅  2:7
2:7 エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。

●肉親の救いについて思い悩んでいたときに、17年前に召された父はこのところの「愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。」を示してくれた。父の祈りもここにあったのだ。父も十字架を負った。悩み苦しんだ。私もそれに続こう。衣鉢を継ごう。

塚本訳ヨハ 11:10-11
11:10 しかし夜歩けば、つまづく。その人の中に(心を照らす)光がないからである。」
11:11 こう話して、またそのあとで言われる、「わたし達の友人ラザロが眠った。目をさましに行ってやろう。」

●イエスの死生観は「死は眠り」。神は死んだ人間に「個別に声をかけて、」(ラザロ出てこい!。ヨハ11:43)目覚ます。今朝はこの「11:10に感ずるところがあった。生まれつきの人間は(心を照らす)光がないのだ。

塚本訳 使  9:3-5
9:3 ところが進んでいってダマスコに近づくと、突然、天から光がさして彼のまわりを照らした。
9:4 彼は地上に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と言う声を聞いた。
9:5 サウロが言った、「主よ、あなたはどなたですか。」彼がいわれた、「わたしだ、あなたが迫害しているイエスだ。

●どんなに神を避け、信者を嫌い、信仰や救いや聖書を嫌い、あるときは殴りかかろうとした問題児(パウロは問題児であった)の人間でも、「神は愛子」の目を覚ます。それまでは人間がいかなる努力をしても無理。なぜか。それは神の仕事の分野だから。人間は神の仕事の分野を奪ってはならない。神の栄光があがらない。信者は負けて殺(や)れて血を流すようになって、神の道具になり、相手は救われる。初代キリスト教が急速に暗黒のローマ帝国に広まった原因は「伝道」「説教」「勉強」ではなかった。信者が流した「血」である。後世の歴史家は言う「血は種子であった」と。現代でも信者は「楽をして遊んでいては」福音は伝えられない。苦しんで十字架を負わなければならない。

●讃美歌496番は神が愛する子を今でも目覚めさせると歌った素晴らしいものである。神は人をこの世に誕生させ、御自分を分からせるために霊に目覚めさせ、肉体の死をもって御自分の懐に眠らせ、時が来れば「名を呼んで」目覚めさせ、今度は有体的復活をもって永遠に生きるものとさせられる。それはなぜか。「愛児を」をこよなく愛されるからである。「神は罪と死の眠りから愛児を目覚めさせる」。特に3節が心を打つ。人間はみな「冬枯れのさま」である。しかし神の愛は「いとし子、即ち愛児」を「いまなお目覚めさせる」というのだ。然り、アーメン。

讃美歌496番

1・. うるわし の しらゆり ささやきぬ むかし を

   イエス きみ の はか より いで まし し むかし を.

 (Refrain)

   うるわし の しらゆり ささやきぬ むかし を,

   ゆり の はな, ゆり の はな, ささやきぬ むかし を

 2. はる に あう はな ゆり ゆめじ より めさめて,

   かぎり なき いのち に さき いずる すがた よ.

 3. ふゆがれ の さま より ゆり しろき はなの に,

   いとしご を みかみ は さまし たもう いま なお

●この讃美歌のメロディーは次をクリック。

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-496-beautiful_lilies_white_as_the_snow.mid

●ハイドンのオラトリオ「四季」から春の第2曲「来よ、のどけき春」を鑑賞。アンタル・ドラティ+ロイヤルフィル。素晴らしい。もしオーケストラを指揮させてくれるならこれだ。春は復活、天地は神を称える。

●検索エンジンで「ハイドン 四季 春 試聴」と打てば、あのカラヤン+ベルリンフィル+ベルリンドイツオペラの試聴盤(約30秒)が無料で聴ける。

●終日「WEB黒崎」。市役所、コンビニ●妻と家庭内経済問題の懇談。どうしても支払わなければならないものからの順番を決める。「市民としての義務、神の国と神に義とされること、不義理をしてはいけない人間関係、遊びは最後」

 


 

 

 


 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


「お父さん。ネズミよ!」 ++++++++ 所感

2009/09/14 08:30

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090914(月)。明け方、隣に寝ている妻から「お父さん。ネズミよ!」とつつかれて、目が覚める。天井にネズミの走る音がするという。●女性は「物音に怯える」。妻を残して先に死ねないと思った。(大袈裟か)。聖書を思う。

新共同 Ⅰテモ5:3
5:3 身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。

●目が覚めたおかげで、寝床で黙想。 

●イエスは女性の味方であった。

マタ   9: 22 文語訳

イエスふりかへり、女を見て言ひたまふ『娘よ、心安かれ、汝の信仰なんぢを救へり』女この時より救はれたり。

マコ   5: 34 文語訳

イエス言ひ給ふ『娘よ、なんぢの信仰なんぢを救へり、安らかに往け、病いえて健かになれ』

ルカ   7: 50 文語訳

ここにイエス女に言ひ給ふ『なんぢの信仰なんぢを救へり、安らかに往け』

●「聖書は自分で読め」「引照は自分で探せ」

塚本虎二先生の雑誌「聖書知識」の広告にあった「聖書一巻一人でまじめに聖書を学ぶ人のために」に魅せられるごとく惹かれた。「引照というのは自分で探すのが一番よい」(旧約学者・左近淑).聖書は牧師や大先生に読んでもらってそれを聴きに行くのが教会であったり集会であるから信者に力がつかない。無教会の某大先生が御病気で講壇を降りられたら5人程度があろうことかカトリックに走った。日本を去った人もいた。彼らは何の「無教会」であったのか。引照も人が探したものを読んでも栄養にならない。少なくても自分で納得するものを探すのがよい。そのための補助として多くの引照を提示する「下働き」が必要だ。私はそれをやって、日本の信者を強くしたい。

●聖書勉強は「霊の実在」が前提

塚本虎二先生の聖書講義は300人程度の聴衆がいた。先生亡きあと私は、その「講演テープを聴く会」に出席したが、その聴衆は何と数名。この宗教現象は何を物語るか。あの300名の聴衆は聖書を勉強をしに行ったのではなく、その時代に生きる「先生」という人間を通して流れ来る霊の実在に触れに行ったのである。大切なのは文字よりも霊の実在。それがないところ、聖書も、引照も、先生の著作も意味をなさない。解明できない。文字ではなく霊である。聖書には次のようにある。

ロマ   7: 6 塚本訳

しかし今は縛られていた律法に対して死に、律法から解かれたので、(律法の)古い文字によらず、(福音の)新しい霊において(神に)仕えるのである。

Ⅱコリ  3: 6 塚本訳

神はわたし達に、新しい契約のための世話役、(すなわち古い契約にある律法の)文字のためではなく、(神の)霊のための世話役たる能力をお与えになったのである。文字は殺すが、霊は命を与えるからである。

●ところが世の中には聖書を読まないで逆に霊のことばかりに熱中したり、歌やイベントやお祭りごとに熱心な信者がいる。●キリスト教は「お国柄」が大切。日本は「一人で聖書を読む」というお国柄が咲いた。それが無教会主義である。

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


若き日に造り主をおぼえよ ++++++++ 所感

2009/09/13 05:18

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090913(日)3時15分起床。睡眠5時間。しかし22時から2時までの間を熟睡したので十分。●朝の啓示「汝の若き日に汝の造り主をおぼえよ」。

●この言葉は私の子供たちの聖書の裏扉に墨で書いた句である。今これを私は孫たちに言いたい。これが私の「信仰の遺産」(岩下壮一)である。

口語訳 伝  12:1
12:1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、

●そして今、私は親になった子供たちに言いたい。子供たちを「造り主を知る」人間に育てよ。そうでないと子供は悪魔にさらわれて「悪魔の子」になる●そしてこの年齢(66歳)になった今では、この句の後半に目が行く。「年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」。●老年の楽しみは何か。それもまた神との交わりである。そして来世での有体的復活を固く信じて死ぬ。これが「幸福」の道だ。●私の「若き日に」この「幸福の人生観」に導いてくれた、両親、浦和教会、塚本虎二、内村鑑三、カールヒルティ、無教会集会の方々、妻に感謝する。●「孫たちに幸あれ」。ヒルティの幸福論Ⅲにこの論文がある。私が同名の論文を書くとしたら伝道の書12:1だ。

●10:00東京聖書読者会後期開始。●私のブログを見て初めて来られた母子の方が私を「先生」と呼ぶので、「この集会には信仰の先生 はいません。私は普通のオジサンです。神様のみが先生で、皆平等です。」と言ったら目がキラッと光った。●しかし先生がいないということは間違うと無責任主義になるから注意しなければならない●「この集会は来る者を拒まず、去る者を負わず」であること、「教会や集会は人それぞれに向き向きがある」ということを話した。●また、この集会は「お金」がかからない。会場整理費として一回300円だけで、教会のような献金、牧師を支える「月定献金」もない。 

●ご身内の告別式をされたYT氏にメール。死と生にかかわることなので公開する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

YT様

霊とまことの告別式、お疲れさまでした。

故人は主の懐でYT兄に感謝されつつ眠っておられることでしょう。

有体的復活の朝まで「いましばし」。「また会う日まで」です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


「主にありて」という言葉 ++++++++ 所感

2009/09/12 05:06

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090912(土)4時15分起床●朝の黙想「『主にありて』」という言葉」。●長く生きて(といってもまだ66歳だが)、一番美しい言葉は「主にありて」という言葉だと思っている。●かってJバイブルの開発者である能城一郎牧師から伺った話。「Jバイブルの利用者から難しい問い合わせが来た場合、回答の最後に『主にありて』という言葉を添えるとその後スムーズに行く」。●人間関係で「主にありて」という感情ほど、胸を高鳴らせるものはない。なぜか。それは永遠の生命の交わりだからである。この世に生きるときにこの「主にある」という関係ほど神秘的なものはない。それは「世にも不思議な関係」である。長続きする.●今日、日本の離婚率は37%と恐るべき率。原因は簡単。「好き」という感情の関係が土台だからである。それは3次元人間の動物的、生物的なものだからである。その感情は某女曰く「二年で冷めてしまう」ものである。多くの例をみてこれは真理である。「好き」の感情が2年で冷めるどうなるか。あとは判でついたようなお決まりコースになる。人生の喜びを求めてまたぞろ違う「好き」な相手を探し求める。「好き」という喜びに人生の幸福があると思っているからだ。そして不倫と浮気で家庭が真っ暗。離婚。悩むのは伴侶と子供たち。●この点、無教会の先達が恋愛御法度を教えてくださったのは「異常なる」「非人間的」なることであったが、正解である●なぜか。「好きな人間がいる」ことが「幸福」だと思っている人生観の破壊である。そこに真の幸福はない。今どき、こんなことを言うと堅物の頑迷固陋なオヤジとと批判されるに決まっている。では離婚率37%の現実をどうする。犠牲者は「罪もない」幼児だ。その心をズタズタに傷つけている。その人生をだいなしにしている。気の毒。この現実をどう防ぐのか。●若き日にある結婚式に招かれた時のこと。茶話会の段になって今は亡き無教会のSS大先輩が「賢き妻は主より賜る」(箴言19:;14)とスピーチされた。そのとき傍に座っていた私の目をなぜかチラッと見られた。

文語訳 箴言19:4

「賢き妻はエホバより賜(たま)うものなり。

口語訳 箴  19:14
19:14 家と富とは先祖からうけつぐもの、賢い妻は主から賜わるものである。

新共同 箴  19:14
19:14 家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの。

●これで私の人生は決した。妻も職業も境遇も勤め先も子供も、然り親も、然り「十字架も」。これみんな「賜るもの」「頂くもの」である。重いからと言ってはねのけてはいけない。これが私のその後の人生観の根本になった。

塚本訳  マタ 16:24-25
16:24 あとでイエスは弟子たちに言われた、「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、(まず)己れをすてて、自分の十字架を負い、それからわたしに従え。
16:25 (十字架を避けてこの世の)命を救おうと思う者は(永遠の)命を失い、わたしのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を得るのだから。

●恋愛(それは2年で冷める)で知りあった人が結婚式(だけ)を無教会の故S先生に頼んだ時のこと。S先生は(おそらく)塚本先生の「結婚と信仰」を渡されて、いったんその恋愛関係を神に戻せと迫ったらしい。すると一方の女性が、その「本」を目の前で床に叩きつけたという。案の定その結婚は不成立。もし結婚に至っても土台が「恋愛感情」だからその家庭は間もなく崩れたであろう。そして離婚の部類に入ったであろう。●恋愛が悪いのではない。「恋愛も真理だ」(TS氏が私に諭してくださった言葉)。しかし恋愛による相手よりもまず「主にある」という方が先。そうでないと人生の真の土台が築けないのだ。

塚本訳  マタ 7:26-27
7:26 また、わたしの話を聞くだけでそれを行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
7:27 雨が降って、大水が出て、風が吹いて、その家にうちつけると、倒れてしまった。ひどい倒れ方であった。」


口語訳 詩  127:1
127:1 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。

●そして「死」。これも「主にありて」死ぬ。これが真の幸福。然り「死」も「賜る」ものである。頂くものである。その時期はわからない。早い人も遅い人もいる。人間、長寿が幸福ではない。人生は「主にありての死」が「幸福」である。このことを聖書は次のように言う。

文語訳 黙  14:13
14:13 我また天より聲ありて『書き記せ「今よりのち主にありて死ぬる死人は幸福なり」御靈も言ひたまふ「然り、彼等はその勞役を止めて息まん。その業これに隨ふなり」』と言ふを聞けり。


塚本訳黙  14:13
14:13 また私は天から声が(こう)言うのを聞いた、「書け、『今から後主にあって死ぬる死人は幸福である。』」御霊も言い給う、「然り、彼らはその労苦を休息む(ことが出来る)であろう。その(為した)業が彼らに随いて行くのであるから!」と。


口語訳 黙  14:13
14:13 またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。


新共同 黙  14:13
14:13 また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」"霊"も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」

●私の人生観。よいものは「向うからやってくる」。妻(しかし不完全・不満)、子供(しかし不完全・不満・我が「身から出た錆」とは言え我が子ながら嘆かわしい。情けない。子供の存在が試練だと言われても非常に辛い。)、財産(しかし常に不足・不満)、肉親(父、母、兄弟、嫁、姑、舅、親戚・・・しかし不満)、集会(しかし不完全、不満.)、教会(牧師・長老・信徒・・・・しかし不完全・不満・・・牧師は常に信徒が不満、信徒は常に牧師が不満)、職場(常に不満。給料、地位、職場、左遷)、職場(常に不完全・不満)、仕事(3K。きつい汚い、危険)、然り「不幸」(なぜこの私が)、然り「病気」(なぜこの私に)、然り「いやな奴」(なぜこんな人がそばにいるのか)、しかり「余命の時間」(不足・不満)、「死の時」(痛みの不満)。しかしこれらはみんな「賜る」もの。与えられるもの。神はすべて御存知。最後に向こうから来るもので神の霊による「救い」がある。これは完全で不満なし。聖書は次のように言う。

口語訳 詩  19:8-10
19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
19:10 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。

 

●以上で今朝の説教(?)は終わり。今日一日も「主にありて」生きましょう。

resize1104.jpg 

窓からみる朝日。太陽の陽は善い者にも悪い者にも等しく注がれる。人間にはこれが求められるが、なかなかできない。

文語訳  マタ 5:43-48
5:43 「なんぢの隣を愛し、なんぢの仇を憎むべし」と云へることあるを汝等きけり。
5:44 されど我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。
5:45 これ天にいます汝らの父の子とならん爲なり。天の父は、その日を惡しき者のうへにも、善き者のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも正しからぬ者にも降らせ給ふなり。
5:46 なんぢら己を愛する者を愛すとも何の報をか得べき、取税人も然するにあらずや。
5:47 兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、異邦人も然するにあらずや。
5:48 さらば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ。

 

●「WEB黒崎」の共労者であるYT氏から。小生のブログ9月9日にうれしいコメントが入っていることを示唆されたので下記に掲げる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Comment

ブログ愛読させて頂いております。
WEB黒崎」作成の労に感謝致します。

私の教会の牧師先生が黒崎註解を1冊お持ちで、拝見させて頂きましたが、非常に文字が小さく読みづらい。

このように利用しやすい形にして頂いて、本当に有難いです。

有体的復活は福音の要です。

これを言わなければ何も言わないに等しい。

どうか主が高橋先生のお働きをお用いくださいますように。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●このコメントの主は全く分からない。だからブログで言います。私は「先生」ではありません。そう言われると困ります。私は罪人、イエス・キリストの血潮で清められ、有体的復活の希望を賜っただけの不完全人間。私に近づくとつまずきます。 近寄らないでください。

●古代では、ライ病の人間は遠くから人間が近づいてくると「私はらい病、私はらい病。近づくな。」と大声で叫んだ。私もそれと同じ。

●それにしても「有体的復活」の信仰には心ある人の「応答」がある。どこの誰ともわからない。「御心にかなう人々」(ルカ2:14)であることは確か。「琴線に触れる」とはこのことだ。この方たちと勢力を作ろうとは思わない。ただ天の国で結ばれているのだ。この関係は聖書的には次だ。

塚本訳マタ 18:20
18:20 二人、三人、わたしの名によって集まっている所には、わたしがいつもその真中にいるのだから。」

塚本訳 マタ 16:17-18
16:17 するとイエスは(喜んで)ペテロに答えられた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。これをあなたに示したのは血肉([人間]の知恵)でなく、わたしの天の父上だから。
16:18 それでわたしもあなたに言おう。──あなたはペテロ[岩]、わたしはこの岩の上に、わたしの集会を建てる。黄泉の門[死の力]もこれに勝つことはできない。

塚本訳  ロマ 8:38-39
8:38 なぜなら、わたしは確信している、死んでも命でも、天使でも支配(天使)でも、現在起こっていることでも将来起こることでも、権力(天使)でも、
8:39 高い所のものでも低い所のものでも、その他どんな創造物でも、わたし達の主キリスト・イエスによる神の愛から、わたし達を引き離すことはできない。

●終日「WEB黒崎」の校閲処理、マルコ。●妻は夕方から「モーツァルト・レクイエム」の練習。

 

 

 

 

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


「もしかしたら」の信仰 ++++++++ 所感

2009/09/11 05:33

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090911(金)4時15分目覚め。●朝の黙想「粘り勝ちの信仰」。昨夜TY氏から義弟が臨終の床、それも息を引き取るときについに信仰告白をされた事を伺い、、YT氏の「粘りの信仰」に学んだ。それに関連する聖書を連想する。

文語訳 Ⅱコリ4:8
4:8 われら四方より患難を受くれども窮せず、爲ん方つくれども希望を失はず、

塚本訳Ⅱコリ4:8
4:8 わたし達はあらゆることで悩まされる、しかし行き詰まらない。当惑する、しかし絶望しない。


新共同 Ⅱコリ4:8
4:8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、


口語訳 Ⅱコリ4:8
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。

●文語訳の「爲(せ)ん方つくれども希望を失はず」は苦難の人生を歩む時の忘れてはならない言葉だ。人間は最後の最後まで分からないから「希望」を失ってはならないことを学ぶ。人生「追い詰められての信仰」でよいのだ。臨終ドタンバでの信仰でよいのだ。苦しき時の神頼みで良いのだ。それでよいのだ。それがよいのだ。研究勉強の結果の信仰ではいけないのだ。

塚本訳  ルカ 23:42-43
23:42 それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください。
23:43 「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽にはいることができる。」

●これ強盗の最後の最後の「かすかな望み」。これでよいのだ。この強盗はこの一言で人生は成功。この一瞬のために神を信じない傲慢の故の惨めで嫌われた失敗の人生があったのだ。


塚本訳ルカ 15:13-14
15:13 幾日もたたないうちに、弟は(分け前)全部をまとめて(金にかえ、)遠い国に行き、そこで放蕩に財産をまき散らした。
15:14 すべてを使いはたしたとき、その国にひどい飢饉があって、食べるにも困り果てた。

●人間はどんなに苦しい目に遭っても信仰には至らない。苦難は信仰を産まない。「アイツの信じているキリスト教にだけは頭を下げない」と思うのかもしれない。しかし人生は苦しくて苦しくて「どうしようもなくなる」ことがある。かっては頭が良くて鼻を高くしていた栄光の時もあった。しかし今はこんなみじめな姿になった。悲しい悔しい、俺に人生はこんなはずではなかった。その時人間は「目が覚める」。「その時歴史は動いた」(NHKTV番組)である。苦しみが人をして信仰に追いやるのではない。苦しみをを通して「目が覚める」ことが尊いのだ。心の扉は「その時」内側から開けられる。「その時」までその扉は外側からこじ開けられない。

塚本訳 マタ 17:19-20
17:19 あとで弟子たちは人のいない時にイエスの所に来て言った、「なぜわたし達には悪鬼を追い出せなかったのでしょうか。」
17:20 彼らに言われた、「信仰が無いからだ。アーメン、わたしは言う、もしあなた達に芥子粒ほどでも信仰があれば、この山に向かい『ここからあそこに移れ』と言えば移り、あなた達に出来ないことは一つもない。」

●この「芥子粒ほど」の信仰とは、そんなに高級なものではない。「もしかしたら」「ダメでもともと=ダメモト」の精神である。それは次でもある。

塚本訳 マタ 9:18-25
9:18 こう話しておられると、そこに一人の(礼拝堂の)役人が進み出て、しきりに願って言った、「わたしの娘がたったいま死にました。それでも、どうか行って、手をのせてやってください。そうすれば生き返りますから。」
9:19 イエスは立ち上がって彼について行かれた、弟子たちも一しょに。
9:20 するとそこに、十二年も長血にかかっていた女が近寄ってきて、後ろからイエスの上着の裾にさわった。
9:21 「お召物にさわるだけでも、なおるにちがいない」と、ひそかに思ったのである。
9:22 イエスは振り向いて、女を見ながら言われた、「娘よ、安心しなさい、あなたの信仰がなおした。」するとちょうどその時から、女はなおった。
9:23 やがてイエスは役人の家に着いて、笛吹き男と騒いでいる群衆とを見ると、
9:24 言われた、「あちらに行っておれ。少女は死んだのではない、眠っているのだから。」人々はあざ笑っていた。
9:25 群衆が外に出されると、イエスは(部屋に)入っていって少女の手をお取りになった。すると少女は起き上がった。

●この苦難の人生の二人に共通なことは「もしかしたら」の気持である。メンツを捨てて頭を下げている。追い詰められた人生。苦難は信仰を産まない。しかしその時、「もしかしたら」、とあそこに救いがあるかもしれないと思わせる存在が「エクレシア」である。「エクレシア」は人生ズタズタになって転がりこんでくる瀕死の人間を受け入れるところだ。 ●人生で最も苦しいのは自己の罪の自覚の時。この自分が真っ黒であることの発見。その時の懊悩は窒息の苦しみ。そのとき人間は叫ぶ。「助けてくれー!」と、そのとき「つける薬」はないと思う。だから絶望。神は存在するか。キリストは神か神の子か、はたまた人間か、宗教はみな同じではないか、教会か無教会か、聖書は神の言葉か、などなど、研究に研究を重ねているうちは救われない。自己の罪の自覚という懊悩に「ギブアップ」する時に神は目をかけてくださる。光を射してくださる。●19:30 集会の87歳の長老FB氏にお見舞いの電話。氏は本年6月に胃癌を手術をされて半分切除。しかし回復されて旅行もされ、本日戻られた。癌細胞はまだ残っているらしいが御本人はいたって「朗らか」。この事実は百千の説教や聖書講義に勝って説得力がある。

 

 

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


自分を捨てれば楽になる ++++++++ 所感

2009/09/10 05:56

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090910(木)4時、朝の啓示「自分を捨てよ」●イエスは次のように言う。

新共同 マタ 16:24
16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。


塚本訳  マタ 16:24
16:24 あとでイエスは弟子たちに言われた、「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、(まず)己れをすてて、自分の十字架を負い、それからわたしに従え。

●このことについて黙想する。
●人間としては塚本訳敷衍の(まず)ができない。生物は等しく(まず)自分が生きのびたいと思う。生物はみんな「死ぬまい。死ぬまい」と思って走り回ったり、逃げ回っている。ゴキブリは逃げ足が速い。だから人間世界でも戦争が起こる。戦争はやまない。思想・道徳・平和運動では戦争はやまない。
●新約聖書には「自分」という語が611回も出てくるのに驚く。とにかく生物界、市場経済は「自分」が生き延びるための営みである。これが人間の歴史である。
●だから「自分を捨てる」ということは生物として生まれてきた以上本能に反することなので実行不可能である。この世だけの三次元の世界ではありえないことである。それは不自然なことである。
●しかし新約聖書にはこの「実行不可能」な命令が種々ある。「自分を捨てよ」のほかに「復讐するな」「敵を愛せ」「明日のことは心配するな」「各種煩悩を捨てよ」。これみな生物としての「自殺行為」である。
●これが実行可能になるのはなにか別の原理がこなければならない。それは4次元からの光が射して来て4次元人間になるときに「できそうに思える」「実行可能」のように思える。4次元人間への命令だと思えば少しは納得である。
●「神」の存在を身に感じれば「復讐するな」「敵を愛せ」「明日のことは心配するな」「各種煩悩を捨てよ」はできそうな気がしてくる。なぜか。自分が滅んでも神がいますという望みがあるからである。復讐は神がするから「右の頬を殴られたら左の頬を出す」ことができそうだ。
●自分を捨てれば楽になる。そのときイエスの次の言葉は納得である。

口語訳 マタ 11:28-30
11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

●自分を捨てれば神の働きがこの世に現れる。これがキリスト信者の生き方である。この道は3次元人間には全く理解できないので「おかしな奴だ」と思われるのは当然である。この世では4次元人間と3次元人間の思想の戦いになる。人生観が異なるので仕方がない。このことは次のようである。

口語訳 Ⅰペテ4:4
4:4 今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。

新改訳 Ⅰペテ4:4
4:4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。

新共同 Ⅰペテ4:4
4:4 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。

塚本訳Ⅰペテ4:4
4:4 (しかしかつては共にこれらのふしだらな生活をしていた)彼ら(異教人達)は、君達が(最早)同じ放蕩(生活)の流れに共に身を投じないので、そのことを(驚き)異しみ、(君達を譏るばかりか、遂に)主と神とを冒涜する。

●現にこの私たち夫婦の事をあろうことか親戚筋に向かって「あの二人はおかしな奴らだ」と語った肉親がいる。また「あの馬鹿が」と言った者もいる。光栄である。私たち4次元人間の生き方が3次元世界の人間には分からないことの証明である。3次元人間に4次元の人間の言動が分からないのは当然だ。彼らは一次元足りないのだ!。
●だから神抜きの平和運動は徒労。キリスト信者が共産党や社民党と変わらない「平和運動」をやっているのは信仰者の堕落である。3次元信者にはヨハ 18:36 の言葉が理解できない。3次元信者は4次元信者がこの世の平和に努力しないので「怠慢」に思える。しかし3次元信者に言いたい。信者なら3次元にとどまっていては「怠慢」である。それは一次元足りない人間である。信者と称するなら4次元信者になれ。

塚本訳 ヨハ 18:36
18:36 イエスが答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであったら、わたしの手下の者たちが、わたしをユダヤ人に渡すまいとして戦ったはずである。しかし実際のところ、わたしの国はこの世のものではない。」


●南原繁が3次元の吉田茂に「曲学亜世」と言われたり、矢内原忠雄が3次元のみの東大から追われたのは当然のこと。慨嘆しても始まらない。追放されること自体に深い意味がない。それは4次元人間が3次元人間に理解されなかったことの当然の証明。●かって大きな相続問題に「建築士」としてかかわったときのこと。法律の大家であるFE先生に「問題解決の道は兄弟のうちの一人が『自分はいらないよ』と言いだせば解決する」と教えられた。 しかし全員が3次元人間の場合にはそれは「解決不可能」。 解決してもそれは無理な妥協。兄弟間に傷が残るだけで平和はこない。
●自分を捨てれば神が働く。そして当の自分は楽になる。 神の栄光があらわれる。イエスはゲッセマネで次のように祈った。人間イエスの苦闘の祈りだ。4次元に生きる信者は人間としての苦脳がある。だからその生涯がみなこの祈りだ。この祈りは必ず神が聴いていてくださる。

塚本訳 マタ 26:38-39
26:38 それから彼らに言われる、「『心がめいって』『死にたいくらいだ。』ここをはなれずに、わたしと一しょに目を覚ましていてくれ。」
26:39 そしてなお少し(奥に)進んでいって、俯けに倒れ、祈って言われた、「お父様、出来ることなら、どうかこの杯がわたしの前を通りすぎますように。しかし、わたしの願いどおりでなく、お心のとおりになればよいのです。」

●HP「使徒伝承」の部(下記)に「黒崎幸吉著 注解新約聖書WEB版」を載せた。これでこの部も「画竜点睛」だ。

http://www.asahi-net.or.jp/~EJ2T-TKHS/denshou/index.html

resize1101.jpg 

窓を明けると、「オッ、朝日だ」

resize1102.jpg 

公園でラジオ体操。秋の秋留台運動場。

resize1103.jpg 

秋留台公園のコスモスの丘、遠景は大岳山

●20:00YT氏から電話。かねてより私の祈りの内にあったHR氏が臨終の床でYT氏の必死の祈りに応えて「信仰告白」をして午前10時45分に召されたとのこと。万歳!。凱旋だ。YT氏の最後まで希望を失わない粘りの熱意に打たれた。次の句を思った。

文語訳  Ⅱコリ4:8
4:8 われら四方より患難を受くれども窮せず、爲ん方つくれども希望を失はず、

 

 








トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


「WEB黒崎」は新しい ++++++++ 所感

2009/09/09 07:14

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090909(水)4時目覚め。朝の啓示「永遠の生命のありかを伝承せよ。それが子孫、祖国への愛だ」「神の子の不朽の愛」●「WEB黒崎」の作成同労者にメール。内容は公的なことなので公開する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇〇様 

 

マルコの結尾について黒崎と田川の見解の違いに興味を持ちました。

マルコの本体は16章8節まで。そのあとの9節以下は他の文書からの寄せ集めであることは素人の私でも一読して感じられます。これを、「いやマルコ自身が書いたもので本体部分である」と主張する「伝統的、保守的」教会主義に対しては近代聖書学(文献批評学)がこれを打ち破りました。学問の勝利です。この学問的読み方は黒崎のスタンスで、塚本、黒崎に代表される無教会の聖書の読み方の方法です。学問に土台を置く田川も当然その立場です。ところが田川はそのあとがいけない。正統信仰まで捨ててしまった。いわば「タライの湯を流して赤子まで流す」の愚をやってしまった感じです。その実例を次にみます。

 

マルコ16:1-8 の「空の墓」の物語の註解で黒崎は言います

 

「イエスの墓の空虚なりし事実はイエスの復活の有力なる証拠である。」(黒崎マルコ166の註解)

 

私は10年ぐらう前に「空の墓」は史実か?。という勉強をかなり突っ込んでいたしました。数十冊の本を読みましたが、「史実」だとする見解の本を読んだとき、急に胸が熱くなり、「有体的復活」を信じられるようになった経験をしました。その「史実だ!」とする人の代表の一人が黒崎でした。あれだけ新しい学問をやっていた黒崎にして「墓が空であったというのは史実」の認識。私はここに学問と信仰の麗しき調和を感じました。塚本も同じです。

 

ところが、ここのところ田川は「作り話」であるとかたずけています。(作品社・田川建三「新約聖書・訳と註1」(P487 9行)。困った、困った、トンデモナイ。一緒にはなれないなーという感じです。これは田川の師であるトロクメも同じです(教文館・「受難物語の起源」トロクメ著、98.144.148.151.160)。こういうのを読むと頭はスッキリしますが胸は熱くならず、有体的復活の信仰には至りません。こういう学者の扇動によって「使徒伝承」は途切れています。この見地から黒崎は正しく「使徒伝承」を継承しています。大島智夫著「伝道私信」(2009.7のP6)によれば「黒崎はもう古い」という声があるそうですが、こと「空の墓」の解釈では古くない。古くないどころか「新しい」「古びない」。従って「WEB黒崎」は教会、無教会を問わず「御心にかなう人々」(ルカ214)に受け入れられ、読まれ、継承されるものであると信じます。ここに「WEB黒崎}は現代においてよみがえり、使徒伝承の役割を果たす「器」であることを信じます。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●過日、「高校生クイズ」というTVを見た。三人一組でチームを作り。難問を早く解くもの。博覧強記ぞろいにびっくり。22時を突破して最後まで見てしまった。「モーセが」と問題が読まれた段階で「ボタンが押された。わたしは「十戒」だと思ったが、正解は「シナイ山」。これをあてた。悔しいが、どうやら学校に「クイズ研究会」なるものがあって、訓練しているらしい。しかし「E=MC二乗を使って地球は何年後に滅びるかを計算せよ」という問題もその場で計算して24億年と答えたのにはびっくり。●決勝戦で敗れた鹿児島「ラサール高校」のチームリーダーが「リーダーにふさわしくなかった」と泣き崩れたのが印象に残った●「ふさわしくなかった」と言えばこの私。集会に若い人が来ない。25年間も!。子供には躓かれる。「枯れたいちじくの木」である。神に言われる「何で土地をくたびれさせておくことができようか。切ってしまえ」「無益な僕よ」と。(ルカ13:6-7)●「ふさわしくない者」の自覚について。私の尊敬するカトリックのヘルマン・ホイヴェレス神父は、あるとき広大な麦畑を見て、「これは自分の故郷(ドイツ)の風景に似ている。刈り入れ人(神)が来て大鎌を振るう時、この私は『無益な僕、ふさわしくない者よ』と言われて刈りとられて捨てられるのかもしれない」と謙遜な詩を書いていた。●その神父の弟はドイツの自動車会社の社長。「兄さん。車でも買いなさい」と言って何度送金してきても、そのたびに貧しい人に分けてしまった。神父は一度も祖国に帰ることなく異教の地の日本に骨をうずめた。

トラックバック(1) | コメント(1) | top▲


生活は低く思いは高く ++++++++ 所感

2009/09/08 07:04

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

090908(火)6時起床●新しい出発をした「若き家庭」の夫妻に二日にわたってメールと手紙。抜粋して公表する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●9月6日のメール

「スモールイズベスト」また「スモールビギニング」とも言います。凡人や俗人はすぐ大きくしたり収入の増大を考えます。

生活も小さい方が良いです。私の知るYMさんは80歳を超えてまだ現役の社長。なぜか。世の中の逆を行って絶対に会社を大きくしないということだから長続きしているのだそうです。細々だがつぶれないのです。信用があるのです。某大企業の子会社です。

貴家庭も細々の生活を目指して、疲れないように。スモール、スモールです。

●9月7日のレター

小さい生活」が神に祝されます。「生活は低く、思いは高く」と言ったのは確か詩人のワーズワースだったと思います。御一家の上に神の祝福が末長く豊にありますように、妻と毎夕祈っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●私が所属していた建築設計事務所の役員は、「大きな仕事と小さな仕事が目の前にあったら、小さい方を選ぶ」と言った。その時私は「こりゃーホンモノだ」と思った。●音楽・思想・宗教界でコレと思う働きをした人は経済的にはそんなに豊かではなかった。●金の増大を目指す人に見るべき人なし。それは俗人凡人が多い●大教会に純粋な信仰者少ない。●無教会では「先生大好き信者」「有名人大好き信者」「学者先生大好き信者」「学歴大好き信者」「偉い人大好き信者」「蔵書量や大脳皮質の雑学知識を誇る信者」に信仰の篤い人は少ない。なぜか。この世的なことを信仰の支えとしているからである。自然崩壊がその報酬。「見て過ぎよ」(ダンテ)。●上記の「若き家庭」に今朝もメール。一部を公開する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○○様

聖書で「手伝う」という言葉を思い起こすと、神がアダムに「ふさわしい助け手」を造ろう言ったことを思い起こします。

 

口語訳 創  2:18

2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

 

●そして箴言3110-31には「ユダヤ人理想の妻」が書かれています。私は特にその12節と25節が好きです。

 

口語訳 箴  31:12

31:12 彼女は生きながらえている間、その夫のために良いことをして、悪いことをしない。

 

 

口語訳 箴  31:25

31:25 力と気品とは彼女の着物である、そして後の日を笑っている。

 

●この「ユダヤ人理想の妻」はラスキンのうながしで女子大(環境デザイン学科)で講義します。ラスキンは貧しい生活の中にも芸術に関心のある婦人の姿を誉めているのです。13節、22節、24節。

 

 

口語訳 箴  31:13

31:13 彼女は羊の毛や亜麻を求めて、手ずから望みのように、それを仕上げる。

 

口語訳 箴  31:22

31:22 彼女は自分のために美しいしとねを作り、亜麻布と紫布とをもってその着物とする。

 

口語訳 箴  31:24

31:24 彼女は亜麻布の着物をつくって、それを売り、帯をつくって商人に渡す。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●婚姻件数のうち、37%がその後の離婚件数。この恐るべき数値の前に、政治も経済も勤労もない。人生がめちゃくちゃになるからだ。私の親類縁者にも多いから人ごとではない。至近弾が頻発である。●離婚家庭に育つ子供の心の傷は甚大。ダークな性格になる。●これを防ぐにはどうしたらよいか。なまじの道徳教育、修身教育、常識では効果がない。神の助けにすがらなければならない●子供に家庭崩壊の悲劇なき「よき将来」を願って「よい学校」に入れようとするのは世の常であるが、効果なし。●幼児の時期から神の存在を教える環境、雰囲気をセットしておくのがよい。それには親自身が求道して信仰を持たなければならない。そういうことをしないで子供を育てた場合。かわいい子供は悪魔の餌食となって禽獣に等しき恐ろしい子供に育つ。それは判でついたように決定的なことである。なぜか。「神などあるものか」という人生観は神の存在が自分の欲望貫徹に「邪魔」だから神を踏みにじる。私はそれを身近に見させられているから辛い。●しかしありがたいことに、神はそのように歩いてズタズタになった人を先に救う。キリスト教は「絶対恩恵の無条件の罪の救い」の宗教である。●終日「WEB黒崎」引照の入力。マルコの終わりが面白く、田川建三を読んだが、有体的復活を信じられない聖書学者の惨めな解説。禍なるかな有体的復活を信じられない聖書学者よ。よくぞ聖書で飯を食ってきたものよ。田川のような学者は教会の保身的ドグマからの解放には力がるが、残念ながら「信仰」がない。

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


人生は呻きの連続だ ++++++++ 所感

2009/09/07 06:27

 使徒伝承 

「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

   http://stonepillow.dee.cc/

 

090907(月)夜半午前2時半に目覚めてそのまま寝つけず、床の中で4時半まで黙想「人生は呻きの連続だ」。

塚本訳  ロマ 8:22
8:22 わたし達が知っているように、全創造物は(かの日から)今まで、一しょになって呻き、一しょになって産みの苦しみをしている。(父なる神がこの  呻きに耳を傾けられないことがあろうか。)

●この呻きについて黙想する。

「とりなしの祈り」

●身代わりの祈りは聴かれる。ステパノの祈りは聴かれてパウロが救われた。イエスの祈りは聴かれてローマの隊長が救われた。(使徒7:60 ルカ23:34)

「家族の救いの呻き」

●身内のことを祈るようにと「家族制度」というものがあるのではないか。特に身内が病気になるとその悩みは大きい。特に身内の癌。そこに「祈り」が生じる。「祈る」ことを教えるために神は「家庭」を持たすのではないか。(使徒16:31)

「祖国の救いの祈り」

●イエスも、パウロも、身内を超えて同胞のために祈った。偉い人間だ。(ルカ19:41-44、ロマ9:2-4)

「女性の苦、」

●女性の苦は出産と男に支配されること(創世記3:16)。それに子供を失った時の苦は大きい。(マタ2:18)

「男の苦」

●労働の苦、妻子を養う苦(創世記3:17-19 詩篇90:10)

「家庭の苦」

●家庭内不和(マタ10:35-36) 離婚問題(Ⅰコリ7:10-24)

「両親が離婚の子供。親の罪を負う子供」

●婚姻件数の37%が離婚(2006年)。国家滅亡の兆し。家庭崩壊で放り出された子供は心に傷を負うので成育はよくない。気の毒。なんとか救いたい。(詩篇27:10)●子供のためにも夫婦は離婚してはいけない。鉄則である。(マタ19:6)●夫婦が離婚した場合、その禍は一族郎党孫子まで三~四代に及ぶ。家庭がダークである。(出20:5)

「悪く誤解される悩み」

●よかれと思ってやっても、妬み、恨み、邪推などから誤解されて非難される。(マタ5:11-12)

「仕える苦労」

●いやな上司、牧師、建築主、組織、に仕えなければならない時の苦。(マタ16:24)●しかしいつか神はその苦から解放してくださる(Ⅰコリ7:15)●イスラエルは暴君パロから解放されたのが出エジプト(詩篇106:9-10)

「隠れて流す涙、隠れた祈り」

●祈りは隠れた祈りが尊い、涙を隠して祈る。(マタ6:5-6 マタ6:16-18)●いやな奴、苦手な奴のことは密かに祈る(マタ5:43-48 ロマ12:20)

「エクレシアの悩み、呻き」

エクレシアは地のもの、それは常に欠点、欠陥、破れがある。牧師や先生を批判攻撃してはいけない。同信の友を批判してはいけない。それはいつもあまりにも不完全なのである。(コロ1:24)

「被造物の呻き」

●人生は、これすべて呻きの連続(Ⅱコリ7:10 ロマ8:18 ロマ8:22)

結論!「人生に呻きがあるのは有体的復活がある証拠」

●人生、むやみやたらに呻きはない。呻きはその先に栄光の希望があるため。(ロマ8:23-24)

塚本訳  ロマ 8:23-24
8:23 しかし(苦しんでいるのは)創造物だけではない。わたし達自身も、(神の子にされた証拠として)御霊なる初穂を持っているので、このわたし達自身も、自分(のみじめな姿)をかえりみて、呻きながら、(正式に神の)子にされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである。
8:24 なぜなら、わたし達は(最後の日に救いが完成されるという)望みをもって、救われているからである。目に見ることのできる望みは望みではない。人はいま現に見ているものを、なんでその上望む必要があろうか。

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


神の子の血のみが罪を清める ++++++++ 所感

2009/09/06 06:22

090906(日)朝の啓示「神の子の血のみが罪を清める」●キリスト教がキリスト教である所以は「イエスキリストの流された血による罪の清め」。これがキリスト教2千年の牢固たる真理●しかし「血が罪を清める」とは心霊世界のこと。なぜそうなるのかは理性に説明できない。ただ実験的体験的事実。合理的な説明ができないところが「もどかしい」。●キリストが二千年前に流された血がどうして今のこの私の犯した罪を清められるか。「血」、それは心霊上の概念。それをこの世の物質的なことに置き換えて、洗礼聖餐に結び付けるから、世の中の人は分からないのだ。それは職業宗教家たちの「保身術」。キリスト教を商売としている人間の「メシの種」。キリスト教の分かりにくさの一つはここにある。●洗礼の水(HO)が罪を清めることはない。聖餐式のパン(それは小麦粉)がキリストの体であることはない。聖餐式の葡萄酒(それはアルコール)がキリストの血ではない。それは表徴にすぎない。それを受けることがあたかも救いの条件であるかのように説く教会主義の罪は重い。受けてもよいが救いの効力はないことを認識すべきだ。下記の言葉がキリストに遡っても遡らなくても、神の霊の付与(それが霊の洗礼マタ3:11)という実在には変わらない。

文語訳 マタ 26:27-28
26:27 また酒杯をとりて謝し、彼らに與へて言ひ給ふ『なんぢら皆この酒杯より飲め。
26:28 これは契約のわが血なり、多くの人のために、罪の赦を得させんとて流す所のものなり。

口語訳 マタ 26:27-28
26:27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。
26:28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

塚本訳  マタ 26:27-28
26:27 また杯を取り、(神に)感謝したのち、彼らに渡して言われた、「皆この杯から飲みなさい。
26:28 これは多くの人の罪を赦されるために流す、わたしの『約束の血』であるから。

新改訳 マタ 26:27-28
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

新共同 マタ 26:27-28
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

●聖餐式について「WEB黒崎」で黒崎の見解を見てみよう。

マタイ26:30 要義2

要義2 [聖餐式について] 聖餐式に与ることによりて、我らのために肉を割き血を流して、御自身を我らに与え給えるキリストを記念することができるのであって、キリストによりて罪を贖われ救に入れられしキリスト者にとりては、その最も愛し奉るキリストを追憶し、その再び来り給うを待つことほどその心をよろこばすものはない。ゆえに聖餐式は単にこれを一片の儀式たらしめずして、心よりキリストを記念しつつこれを行うことによってその真の意義を発揮するのである。信仰により心よりキリストの体と血とを受くる時、パンと葡萄酒との性質に関する歴史上の多くの論争は無用に帰してしまうのであって(Ⅰコリ11:6の要義参照)、我らはかかる論争の世界を超越して直接にキリストを追憶記念するのが聖餐の真の目的である。「我が記念として之を行へ」(Ⅰコリ11:24、25)なる命令は福音書にこれを見出すことができない(ルカ22:14-23の付記参照)。けれどもイエスが聖餐を過越の食に対立すべきものたらしめ給いし意味は、明らかにこれを感得し得るのであって、この意味においてイエスは無言の命令を発し給えるものと解することができる。ただしこの命令は、これが形式的反覆を命じ給えるものにあらざることは、イエスの全態度よりこれを推定することができる。

●次に黒崎でⅠコリ11:26 の要義を見てみよう

11章26節 なんぢこのパンをしょくし、この酒杯さかづきむごとに、しゅしめしてきたりたまふときにまでおよぶなり。 [引照]

註解: 聖餐は主の死の標徴である、主はその死によりて体を我らに与えその宝血を流し給うた。今は神の右に在し、やがて再び来り給うまで我ら其の現臨在を見る事が出来ない。故に聖餐によりて彼の見ゆべき臨在に代らしめ、再び来り給うまで之を行うのである。主再び来り給う時は父の国に於て新しき宴会が開かれるであろう(マタ26:29)。故に聖晩餐に於て主の死を示さず、主を思い起さなかつたならば其の聖晩餐は無意義である。

11章27節 さればよろしきにかなはずしてしゅのパンをしょくし、しゅ酒杯さかづきものは、しゅからだとををかすなり。 [引照]

註解: 「宜しきに適わず」とは種々の意味に解せられて居るけれども茲では主の十字架の贖罪の死を示さず、又再び来り給う主を憶わずして飲食する事を云うのである。即ち自ら罪を悔改めて主の救を信じ其の主を切に念い其の来り給うを待つ心なしに之に与る者を云う。かかる者は主の体と血に対し冒涜を行うのであつて恐るべき事である。コリントの信徒は之を宴楽の会とする事によりて聖餐を涜した。今日も諸教会に於て種々の意味に於て宜しきに適わない聖餐が行われて居ることは悲しむべき事である。

 

要義1 [聖餐について]主の晩餐の記事は聖書に四ケ所に記されて居る(マタ26:26-28。マコ14:22-24。ルカ22:19、20及び此処)。其中此のパウロの記事が最古である事に注意しなければならない。マタ、マコはは相類似し、ルカ、Iコリは相類似して居る。▲ただ注意すべき事は「我が記念のために之を行え」と命じ給うた様に録されているのはIコリ11:24、25のみである事である。尚ルカ22:19、20註及び補註参照。
ユダヤ人は永年の間過越の祝を行い、羔を屠り其の肉を食い、又其の儀式に際し祝福の酒杯を全家族にて飲む習慣があつた。此のユダヤ人の過越はキリストの十字架の型であつて、キリストは自ら此の事を意識し給い、自ら過越の羔として屠られ給い(5:7)其の死によりて人類を罪のエジプトより救い出し、其の血によりて罪より贖い出して、罪の赦しの新なる契約を立て給い、此のパンと葡萄酒とを以てユダヤ人の過越の祝に代らしめたのである。故に聖餐は過越の祝の継続ではなく、又之と並立すべきものでもない、過越の祝は型であつて之がキリストによりて実現して全く其の必要を失い、之に代つて我らのために十字架に釘きて血を流して我らを罪より救出し給えるキリストを憶い彼を記念する聖晩餐が行わるるに至つたのである。
聖餐がギリシヤに於ては愛餐アガパイ Agapai と共に行われて居つた事は前述の通りである。是が終には種々の弊害が生じたので愛餐と分離し遂に愛餐は消滅して聖餐のみ一の儀式として残つたのである。
聖書によれば聖餐は主が「かく行え」と命じ給えるものであつた。併し乍ら是も他の凡てと同じく律法ではない、若し聖餐そのものが主の体と血とを犯す如き場合に於ては之に与つて審判を受けるよりも之に与らない事が却て主の御旨である。

 

要義2 [聖餐の意義]「是れ我肉なり是れ我血なり」との主の御言に対し、古来教義上種々の解釈が行われた。カトリック教会に於ては司祭の祝祷によりてパン及び葡萄酒が変質してキリストの肉及血でとなるものとの解釈を採り、ルーテルは聖餐のパンと葡萄酒は信仰に取つては事実キリストの肉及血である事を主張し、又ツイングリは反対に此の二者はキリストの肉と血を表徴するものなる事を唱え、カルビンはルーテとツイングリの中間の説を取り、パンと酒は主の肉と血を表示するに過ぎないけれども、キリストの体は同時に霊的に之に伴う事を主張して居る。是等の差異の生ずる所以は、各人の信仰の諸相の差別より生ずるのであつて、我ら聖書によりて示されしまま聖餐に与る事によりて主の死を示し主を記念する事を以て足れりとすべきである。此の解釈の差を以て宗派分立の原因とする事は甚だしき無用の事と云わなければならぬ。

要義3 [宜しきに適わざる聖餐参加]Iコリの場合に於ては罪を懐きつつ之を悔改むる事をせず、聖餐の真意を没却して、之を理解せずして自己の快楽の為に飲食する如き方法を以て聖餐を行つたので、パウロは之を戒めたのである。併し乍ら其の他にも尚種々の方法を以て主の体と血とを犯ず事が出来るのであつて、例えばキリストの贖罪の死を信ぜざる場合、又は罪をいだきて之を告白懺悔せざる場合等は勿論宜しきに適わない。其他聖餐夫自身としても自己の教会に属せざる理由を以て、聖餐を拒む如きは聖餐其ものが罪の心を以て行われて居るのであり、又教理上の些細なる差異より聖餐に与らず又与らしめざる如きも宜しきに適わざるものである事は明かである。何となればキリストの死を示し之によりて罪の赦されし事を信じ、彼を主と仰ぎて彼を記念せんとする者が聖餐に与り得ざる理由が無いからである。其の他相互の間に愛なしに行わる場合もキリストの体の一致を欠くのであつて、之を犯すものである等種々の相に於て宜しきに適わない行為となり得るのである、故に「自ら顧み」且つ「御体を弁える」事が是非必要である。

●次に黒崎でルカ22:19-20 をみてみよう。

22章19節 またパンをしゃしてさき、弟子でしたちにあたへてたまふ『これはなんぢらのためあたふるからだなり。記念きねんとしてこれおこなへ』[引照]

22章20節 夕餐ゆふげののち酒杯さかづきをもしかしてたまふ『この酒杯さかづきは、なんぢらのためながによりてつるあたらしき契約けいやくなり。[引照]

註解: 19節の中に「イエス言い給ふ『これ我が體なり』」までがイエスの言として録され、それ以下(邦訳「汝らの為に與ふる」もこの中に含まる)および20節が全く欠けている写本がある。おそらくこれが正しい原本であろう(S1、M0、W2、Z0)。19節bおよび20節はⅠコリ11:23-25による後代の挿入であろう。1946年発行の米国の公認新訳版はこの19b-20節を欄外に移している。従って福音書中にはイエスが聖餐式を制定し給うたことはないこととなった。附記参照。

22章21節 されどよ、われもの、われととも食卓しょくたくうへにあり、[引照]

附記1 [17-20節について]この部分は多くの写本の間に混乱があり、(1)17、18節を19節の後に置くもの、(2)17、18節を全く除いてあるもの、(3)19、20a「夕餐の後」、17、20b「この酒杯は・・・・」18の順序によるもの、(4)19b「汝らの為に与ふる所のものなり、我が記念として・・・・」および20を全く欠いているもの、および(5)現行訳のごときものである。この混乱の原因はマタイおよびマルコと異なり酒杯が前後二回用いられており、しかもパンよりも先に置かれており、かつ第一の酒杯には「我が血」としての解釈が加えられていないからであろう。これらの混乱の中おそらく(4)が原形であったのを、他の福音書のごとく聖餐式的形体を添えるためにⅠコリ11:23-25より借用してここに挿入したのが現行訳の原本(5)であり、その場合生じた酒杯の重複を防ぐために、変更を加えたのが(1)(2)(3)であろうとする学説が最も真に近い(Z0、M0、W2)。もしこの推測が正しいとすればルカはこの場合イエスの死の切迫感を中心に、彼自身の攻究した資料によって記載したのであって、極めて意義深き記録であると言わなければならない。事実イエスがその切迫せる死を前にして、聖餐式と称えらるるごとき儀式を制定したというようなことは、甚だ真実に遠い考え方である。勿論弟子たちの間に聖餐式が儀式として確立された原因は、この最後の晩餐が弟子たちの心に与えた印象によることは疑いないことであるが、イエスがそれを制定したと考えることは、少なくとも福音書の記事からはこれを断定する材料はない。殊に注意を要することは一九四六年に発行された米国の Revised Standard Version(最新公定改訳)はこの(4)と同じく19節bと20節とを本文より除いて欄外に移していることである。

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


信仰なき者の運命 ++++++++ 所感

2009/09/05 10:02

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

 

090905(土)公園でラジオ体操。●朝の黙想「信仰なき人の運命は」・・聖書に聞く。これが次回10月4日感話後半のテーマ●そのスケッチ。骨子。

①キリストを信じなければ絶対に救われない。

塚本訳  ヨハ 10:7-8
10:7 そこでイエスはまた話された、「アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしが羊への門である。(羊飼はわたしを通らずに、羊に近づくことはできない。)
10:8 (わたしより)前に来た者は皆(羊飼でなく、)泥坊であり、強盗である。羊は彼らの言うことを聞かなかった。

塚本訳 ヨハ 10:9
10:9 (また、)わたしが(羊の出入りするための)門である。わたしを通って入る者(羊)は救われる。(いつもこの門を)入ったり出たりして、牧草を得るであろう。

 塚本訳 使  4:11-12
4:11 この方は、(聖書にある)『大工の』あなた方から』投げ捨てられ、隅の土台石になった石』です。
4:12 この方のほかのだれによっても救いはない。天下ひろしといえども、わたし達が救われるべき名はこれ以外、人間に与えられていないからです。」

塚本訳 ヨハ 14:6
14:6 イエスは言われる、「わたしが道である。また真理であり、命である。(手段であると同時に目的であるから。)わたしを通らずには、だれも父上の所に行くことはできない。

 

 塚本訳 ヨハ 6:35

私が命のパン

私が世の光

私が命の水

 

②信仰のあることが救いの条件

新共同 マタ 8:10
8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

新共同 マタ 8:13
8:13 そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

新共同 マタ 9:22
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。

新共同 マタ 9:29
9:29 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、

新共同 マタ 15:28
15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

新共同 マコ 5:34
5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

新共同 マコ 10:52
10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

新共同 ルカ 7:50
7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

新共同 ルカ 8:48
8:48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

新共同 ルカ 17:19
17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

新共同 ルカ 18:42
18:42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」

新共同 使  3:16
3:16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

新共同 使  16:31
16:31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

新共同 ロマ 10:9
10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。

 

③本人に信仰がなくても、周囲の熱心な祈りで神は救う

塚本訳  マコ 2:2-5
2:2 もはや門口にも場所がないほど、大勢の人が集まってきた。この人たちに御言葉を語っておられると、
2:3 人々が一人の中風の者を、四人にかつがせてつれて来る。
2:4 群衆のためイエスのところにつれて行けないので、おいでになる所の(上の)屋根をはがして穴をあけ、中風の者を担架に寝かせたまま(イエスの前に)吊りおろす。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て(驚き)、中風の者に言われる、「子よ、いまあなたの罪は赦された。」

 

④誰が救われるかは人間でなく神の側の判断

新共同 使  14:9-10
14:9 この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、
14:10 「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。


新共同 エペ 2:8
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

塚本訳 マタ 9:28-29
9:28 そして家にかえられると、盲人たちがそばに来たので、イエスが言われる、「わたしにそれが出来ると信じるのか。」「はい、主よ」と二人がこたえる。
9:29 そこで彼らの目にさわり、「あなた達の信仰のとおりに成れ」と言われると、


塚本訳 ルカ 5:20
5:20 イエスはその人たちの信仰を見て(驚き、中風の者に)言われた、「君、あなたの罪は赦されている。」


 塚本訳 使  3:4
3:4 ペテロは、ヨハネと一緒に、その人に目をとめて言った、「わたし達(の顔)を見なさい。」

 

⑤人間は最後まで誰が救われるのかはわからない。救いは人間が決定できない。だから楽観も悲観もしてはいけない。 

塚本訳 マタ 19:29-30
19:29 そしてわたしのために家や兄弟や姉妹や父や母や畑をすてた者は一人のこらず、(この世で)その幾倍を受け、また(来るべき世では)永遠の命をいただくのである。
19:30 しかし(決して油断をしてはならない。)一番の者が最後になり、最後の者が一番になることが多い。

 塚本訳 マタ 21:31
21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう。

 塚本訳 ルカ 23:42-43
23:42 それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください。
23:43 「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽にはいることができる。」


 塚本訳 ヨハ 21:21-22
21:21 ペテロはその人を見て、イエスに言う、「主よ、あの人はどうなるのでしょうか。」
21:22 イエスが言われる、「たといわたしが今度来るまで、あの人を生かしておきたいと思っても、それはあなたの知ったことではない。あなたは(ただ)わたしについて来ればよろしい。」

resize1099.jpg 

秋留台公園にある門。来月の集会感話は「羊の門」

塚本訳 ヨハ 10:7-10
10:7 そこでイエスはまた話された、「アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしが羊への門である。(羊飼はわたしを通らずに、羊に近づくことはできない。)
10:8 (わたしより)前に来た者は皆(羊飼でなく、)泥坊であり、強盗である。羊は彼らの言うことを聞かなかった。
10:9 (また、)わたしが(羊の出入りするための)門である。わたしを通って入る者(羊)は救われる。(いつもこの門を)入ったり出たりして、牧草を得るであろう。
10:10 泥棒が来るのは、ただ(羊を)盗み、殺し、滅ぼすだけのためである。わたしは(羊に)命を持たせるため、あり余るほど(の命を)持たせるために来たのである。

resize1100.jpg 

あきる野の秋の空。過ごしやすい季節になった。

●バッハカンタータ140番「目覚めよと物見らの呼ぶ声す」を鑑賞。●バッハは今に語る。神を信じない者らよ「目覚めよ」と。●終日{WEB黒崎」の引照入力。妻は校閲の仕事●夜は妻とテレビで「心に残る日本の歌」を見たが、特に40歳以降のものはほとんど分からなかった。仕事や集会のことで忙しくなったからである。

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


「かわいい子には旅をさせよ」を考える ++++++++ 所感

2009/09/04 08:06

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

090904(金)朝の黙想。「かわいい子には旅をさせよ」の聖書的実例。●過日、親の心配をよそに「人生の旅を決行した人物」がそれなりに「自分の道」を歩んでいることを知った。そのとき「かわいい子には旅をさせよ」という日本の格言を思った。格言は実人生の真理を言っているから胸が打たれる●「この格言の意味は辞書に次のようにあった。「人間はさまざまな苦労を経なければ、一人前にならないのはむかしも今も同じ。親もとから離れて、遠くへ修行に出て他人の飯を食ってくると、はじめて親のありがた味もわかり、人間も完成されます」と辞書にあった。これ活人生の真理であろう。●では「かわいい子には旅をさせよ」の聖書的実例はあるのかを探ってみる。

塚本訳  ルカ 15:11-13
15:11 また話された、「ある人に二人の息子があった。
15:12 『お父さん、財産の分け前を下さい』と弟が父に言った。父は身代を二人に分けてやった。
15:13 幾日もたたないうちに、弟は(分け前)全部をまとめて(金にかえ、)遠い国に行き、そこで放蕩に財産をまき散らした。

●ここには父親と息子の活劇があったはずだ。父は家を出て行く息子の後姿を窓からみていたに違いない。男一匹、子供の一人や二人に家出されたり殴られたりしなければ一人前の親にはなれない。男にはなれない。またそのように親に不義理をするようになるのが子供として健全に成長している証拠だ。それが自然現象だ。

塚本訳 マタ 21:29-31
21:29 長男は『いやです』と答えたが、あとで後悔して出かけた。
21:30 つぎに次男の所に行って同じように言うと、こちらは、『お父さん、承知しました』と答えたが、行かなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう。

●これはルカの「放蕩息子の次男」とは逆で長男が「よし」とされているが、写本によっては長男と次男が逆になっていて面倒。しかし言わんとするところははじめは「反抗していたが後で心を入れ替えたということ。この譬でも息子が「いやです」と言った時に父親は「カッ」となったに違いない。活劇の一つもやったにちがいない。

●パウロはどうか。はじめはユダヤ教に熱心であってキリスト信者を迫害したところは神から見れば「いやです」といった息子であった。が、しかしパウロは後に大回心。

●人生には父親が二人いる。肉の父と神なる霊の父である。肉の父は心配して子供を自分の考えに縛りつけようとするが、神なる父は子供を肉の父から引き離して御自分の手で育てたもう。肉の父は言いたい。「では責任をとっていただきましょうか」と。●結果はどうか。肉の父より上手に導き育ててくださる。罪の悔い改めをさせる。信仰を持たせてくださる。

塚本訳  マタ 19:5
19:5 また、『それゆえに人は父と母とをすてて妻に結びつき、二人は一体となる』と言われたことを、あなた達は読んだことがないのか。

●子供は親の意にそわない人と結ばれるのが世の常である。塚本訳の「父と母をすてて」の訳は強い。

●聖書は「神はかわいい子には旅をさせる」の精神で貫かれている。●肉の父親より偉大な父なる神が天にいて導いて下さる。このことを深く信じることが「かわいい子には旅をさせよ」の信仰的解釈である。

●神は愛するものを掻き裂き、「ひどい、信じられない」苦難に遭遇させられる。残酷である。しかしそれは子の信仰の羽根を強くするためにわざと巣から追い出すことなのだという。申32:11.。なぜか。子の成長を真に思うからである。これは日本の「獅子の子落とし」に似ている。

新改訳 申  32:10-12
32:10 主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。
32:11 わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。
32:12 ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。

●この申命記32:11の解説で最高のものは次の塚本先生の「苦難と神の愛」であった。拙HPより転載。

http://www.asahi-net.or.jp/~EJ2T-TKHS/bunshou/kunann.htm

●肉の親は外敵から子供を守ろうとして巣から出さない。出そうとしない。これは賢い方法ではない。自分より賢く大きな父なる神はいます。すべてを御存知でいて下さる。(自戒)

●マタイ受難曲をメンゲルベルグとガーディナーで鑑賞。いずれも一部分。●もし自分の罪ということに悩まない人間がいたら、人間として話にならない。ましてや聖書や救いの話には到底至らない。聖書やキリスト教や救いの道は説けない。水を飲もうとしない馬には水を飲ませることは困難。建築設計は依頼してくる人にのみ設計ができる。本人がその気にならなければ救いは無理。逆に向き直って噛みつかれるだけだ。

口語訳 マタ 7:6
7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

●その人に会うと3~4日気分が悪くなるという人がいるものだ。自分がいたらないものだと反省して努力してもよくならない。そういうことがもう数年も続いているとしたら今後もむりだから、残念ではあるが別れるきりしょうがない。こういう時は「ジェントリー(紳士的に)」に去るべきだ。聖書には次のようにある。無理はいけない。

新共同 Ⅰコリ7:15
7:15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。

塚本訳Ⅰコリ7:15
7:15 しかし不信者の夫(なり妻なり)が別れるなら、別れさせよ。こんな場合に、兄弟なり姉妹なり(つまり信者)は(結婚に奴隷として)束縛されてはいない。神は平和な生活へあなた達をお召しになったのである。(無理があるのは、御心ではない。)

 

 

 

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


この世限りのもの、永遠なるもの ++++++++ 所感

2009/09/03 05:33

090903(木)4時目覚め。目覚めるという不思議さとありがたさ。「主よ今日もあなたのために働かせてください」と祈る。●昨夜は故郷浦和の原山中学吹奏楽部の名指揮者故川崎哲也先生記念コンサート企画のことでHMさんから電話。川崎先生の令妹新島依子さんと打ち合わせ。言いだしたのは川崎門下で現在ベルリンドイツオペラ首席オーボエ奏者の渡辺克也氏。川崎先生との出会いは50年も前のことだが、今もって多くの人から慕われる「先生の人格」というものの不思議を思う。しかしそれは「音楽の喜び」というもののつながりであって、永遠なるものではない。同じく、内村鑑三、塚本虎二という「人格」も「永遠なるもの」ではない。それは「懐かしいこと」ではあるが、いつかは忘却の彼方に消え去るこの世限りのものである。「永遠なるもの」、それは神の命、イエス・キリストの命。

新共同 ヘブ 13:8
13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

●天国では結婚生活はないとある(ルカ20:34-36)が、この世での夫婦、親子、兄弟の関係もこの世限りの言わば「小事」であって「永遠なるもの」ではない。このことをどう考えたらよいのか。それは次の聖句の応用問題だと思う。この世の関係、特に血縁関係は多くのしがらみがあって悩みが多い。しかしこの「小事」に悩まされて生きるそのこと自体に「天に宝を積む」(マタ6:20)「天に友人(神)をつくっておく」(塚本訳ルカ16:9))チャンスが用意されているのではないか。外にでかけていって何か善行をして「天に宝を積む」のではない。今目の前にある家族、家庭、兄弟のことで悩み抜くこと、無理に悩み(十字架)を負わされること、そのこと自体が天に宝を積む機会を与えられていることなのだ。 悩むときに祈る祈り、呻く呻き(ロマ8:26-30)それが「天に宝を積む」ことであり、「天に友人(神)をつくっておく」ことになるのだ。

塚本訳 ルカ 20:34-36
20:34 イエスは言われた、「この世の人はめとり嫁ぐけれども、
20:35 あの世にはいる資格を与えられて、死人の中から復活する者は、めとることもなく嫁ぐこともない。
20:36 復活によって生まれる彼らは、天使と同じであり、神の子であるので、もはや死ぬことが出来ない、(従って子を産む必要がない)からである。

新共同 マタ 6:20
6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

塚本訳ルカ 16:9-11
16:9 それでわたしもあなた達に言う、あなた達も(この番頭に見習い、今のうちにこの世の)不正な富を利用して、(天に)友人[神]をつくっておけ。そうすれば富がなくなる時、その友人が永遠の住居に迎えてくださるであろう。
16:10 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。
16:11 だから、もし(この世の)不正な富に忠実でなかったならば、だれが(天の)まことの富をあなた達にまかせようか。

塚本訳 ロマ 8:26-30
8:26 しかし(創造物やわたし達神の子が苦しんでいると)同じように、御霊も、弱いわたし達を助けてくださる。すなわち、(神のみ心にかなうには)どう何を祈るべきかわからないので、御霊自身が、無言の呻きをもって(わたし達の祈りを神に)執り成してくださるのである。
8:27 しかし(人の)心を見抜くお方[神]は、御霊が何を求めているか、すなわち、御霊が神の御心にかなうように聖徒たちのために執り成しておられることを、(もちろん)御存じである。
8:28 そればかりではない。(わたし達の救いは次のことからも確かである。)わたし達が知っているように、神を愛する者、すなわち(神の)計画に応じて召された者には、すべてのことが救いに役立つのである。
8:29 というのは、神は(世の始まる前に)あらかじめお選びになった人たちをば御子(キリスト)と同じ姿にすることを、あらかじめお定めになったからである。──これは(こうして出来た)多くの兄弟たちの中で、彼を長男にするためである。──
8:30 そして(時が来ると)あらかじめお定めになった人たちを召し、お召しになった人たちを義とし、義とした人たちには栄光をお与えになるだろう。

 

resize1098.jpg 

讃美歌353番を心で歌う。もし会えるものならこの讃美歌の作者に会ってみたい。しかし意外に苦難で不幸の一生だったのかもしれない。知らなくても良いのかもしれない。塚本虎二先生の雑誌「聖書知識」の読者は4000人。そのほとんどが先生に一度も会うことなく、お礼を言うこともなく天国に旅立った。先生もそれをよしとされた。否、その方が良いと言われた。天に宝を積むとはこのことだ。お礼は天国で頂ける。クリスチャンはこの世で尊敬されて慕われたりお礼を言われない方がよいのだ。(マタ6:1 マル12:39 ルカ16:15 ロマ8:18 ルカ22:25-26)

 讃美歌353

1. いずみ と あふるる いのち の いのち よ,

   あさひ と かがやく ひかり の ひかりよ.

 2. この よ の あたうる さち より のがれて,

   こよなき きみ へ と わが み は あこがる.

 3. きみ こそ とこよ に かわらぬ よろこび,

   くめども つきせぬ めぐみ の もと なれ.

 4. みかお を  あおげば, うれい は さりゆき,

   みうで に たよれば, ちから は わき いず.

 5. しゅイエスよ, たえせず わが み に ともない,

   ひかり の みち を ば あゆませ たまえ や.

●このメロディーは次をクリック

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-353-jesu_dulcis_memoria.mid

●午前中は「WEB黒崎」引照入力。午後は図書館。鬼頭梓著「建築家の自由」を借りる。鬼頭梓氏は無教会のクリスチャン。元日本建築家協会会長。一度パーティでお会いしたが、ジェントルマンであった。故人。コンビニでコピー。●YT氏からうれしいメール。「かわいい子には旅をさせよ」は真理だ。

 

 


トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


ブラームスはお好き? ++++++++ 所感

2009/09/02 05:42

090902(水)

使徒伝承 「黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版」

       http://stonepillow.dee.cc/

●4時目覚め。●朝の啓示「喜びの共有者との出会い」●短い人生で「喜びの共有者との出会い」は楽しいものである。それは「心が通う」ものである。話が弾む。その相手に建築設計を依頼されると熱が入ってうまくいく。その第一は「信仰の友」第二は「音楽の友」。この2種類には共通点がある。二人の外に「喜びの源泉」があることだ。「信仰の友」の場合は神、霊の命、特に「有体的復活」を信ずる人(そうでない信者は思想的に斬り合いになるから心穏やかではない)。第二の「音楽の友」も不思議に心が通うものである。特に同じ作曲家や曲が好きだとすると「心が通う」。サガンに「ブラームスはお好き?」という題名の小節があった(読んでない)。これは素晴らしい「言葉」だ。この小説は「さよならをもう一度」という映画になり、そのバックにブラームスの交響曲第三番から第三楽章が流れるという(観てない)。下記サイトはその3楽章を全部聴ける。最後までスクロールして▶をクリック。

http://www.voiceblog.jp/andotowa/234241.html

 

●しかしこの曲は悲しい、淋しい。そして「寂しさの共有」は長続きしない。日本人のブラームス好みの心理は「千の風になって」がはやったのに似ている。それは「悲しみの共有」である。それは「オーノー」である。真の喜びはない。このことはかって集会で話した。(下記サイト)

http://www.asahi-net.or.jp/~EJ2T-TKHS/denshou/sennnokaze.html

●永遠に続き、滅びない喜びは「神との交わり」、そして「神を信ずる者との交わり」。その消息は第一ヨハネに出ている。

塚本訳  Ⅰヨハ1:3-4
1:3 わたし達が見たもの、また聞いたものを、あなた達にも告げる。あなた達もわたし達と(霊の)交わりを持つためである。しかしわたし達のこの交わりは、(他方においては)父(なる神)とその子イエス・キリストとの交わりである。
1:4 わたし達が(この手紙を)書くのは、(あなた達がわたし達との交わりに入り、)わたし達(が父と子と)の(交わりにおいてもっている)喜びが、完全なものとなるためである。

●「使徒信条」に「聖徒の交わり」を信ず。というくだりがあるのはこのことである。●中学校の時からの「音楽の友」で(彼の結婚式には妻と共に呼ばれた)共助会のクリスチャンであったO君の住まい(浦和)を設計した時は楽しかった。CD4000枚を収納する棚、ものすごいオーディオ装置を置く場所、防音の窓、設計に熱が入った。しかしそのO君は還暦を待たずして逝った。私が葬儀を行ったが「O君、早すぎるじゃーないか」と言ったところで絶句した。膨大な音楽テープの遺品が御遺族から送られてきた。そのテープを見るとO君を思い出すのだが、彼は今神の懐に眠っている。「死は眠り」だ。彼の葬儀を司ったときのことは「O君、さようなら『また会う日まで』」に書いた。下記サイトを出して2001.7.9までスクロールすると出る。

http://www.asahi-net.or.jp/~EJ2T-TKHS/bunshou/shoku.htm

●神との交わり、神を信ずる者との交わりの喜びは次の讃美歌403番によく表れている。これ人生のうちで考えられうる最高の喜びである。それは音楽の友よりも、夫婦とのまた子供との交わりよりも深く、そして長続きするものである。

讃美歌403番

1. かみ に よりて いつく しめる

   こころ の まじわり いと も たのし.

2. ちち の まえ に せつ に いのらん,

   のぞみ も おそれ も とも に おなじ.

3. とも に しのぶ うき なやみ も,

   ゆたけき めぐみ に やがて きえなん.

4. わかるる とき かなし けれど,

   ふたたび あい みる さち や いかに.

5. つみ と うれい なき みくに の

   つきせぬ むつび を よろこび またん.

●この曲のメロディーは次をクリック

http://www.moclin.jp/hymnal/midi/hymn_1-307-how_sweet_the_melting_lay.mid

●終日「WEB黒崎」引照入力。●妻は中野駅で愛子。婦人の読書会(塚本虎二著作集)、ゴーギャン展。・・・夕食時に報告を聞くのが楽しみだ。●HEさんから「探していたT先生の原稿」が見つかった御連絡●故郷浦和の原山中学吹奏楽部の名指揮者川崎哲也先生記念コンサートのことでHMさんから電話。50年も前のことだが、今もって多くの人から慕われる「先生の人格」というものがあることの不思議を思う。しかしそれは「音楽の喜び」というもののつながりであって、永遠なるものではない。同じく、内村鑑三、塚本虎二という「人格」も「永遠なるもの」ではない。いつかは忘却の彼方に消え去る。「永遠なるもの」、それは神の命、イエス・キリストの命。

新共同 ヘブ 13:8
13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

 

 

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲


離婚の罪は神が償い清める ++++++++ 所感

2009/09/01 05:07

66歳2か月。平均余命16年(生命保険会社統計)、5800日、14万時間。この時間をすべてキリスト教使徒伝承の連鎖に捧げる。罪と死の悲しみを克服する「十字架の贖罪の福音と復活の希望の喜び」の伝承。自分のため、気の毒な人のため。

090901(火)4時45分目覚め●朝の黙想「離婚の罪は神が償い清める」「死んでお詫びする心」「どうしても守れない律法」「永遠の生命を求める心」「聖書を説く者の危険」●これらは「話せば長くなる」から、まず「WEB黒崎」の引照入力をする。しばらくはこれが先にやるべき日課だ。マタ6:33「まずはじめに神の国と神に義とされることとを求めよ」。

●「WEB黒崎」引照入力、妻はその校閲。イオンで買い物、プリンターインク、コピー用紙、カセットテープ。ゆき皮膚科、池谷医院定期健診、血圧正常。●外壁のカビの除去。近くの窓から棒の先に付けたモップで拭くもきれいならない。木部も新規に塗装せずひなびたままにする方針なので白壁も汚れたままのほうが良いと判断。身体も建物も「自然に生き、自然に死ぬ」のが良い。ひなびた家というのもまた日本的なるものだ。

【離婚の罪は神が償い清める】

某氏へのメール。一部改変。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○○様。

マルコ1011-12(下記)にぶつかり、私の親族のことを考えて深刻になりました。二種類の翻訳を掲げます。

 

新共同 マコ 10:11-12

10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。

10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 

 

新改訳 マコ 10:11-12

10:11 そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。

10:12 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」

 

●ここの所は新改訳で明快です。ですから翻訳比較は有効です。新改訳の「前の妻に対して」の訳で意味がよく通じます。つまり姦淫とは人の心を痛める相手を中心に考えることだとわかりました。そうでないと新共同訳の「妻に対して姦通の罪を犯すことになる」の意味が良く分からないのです。

 

 

●さてそうなると現在の日本は離婚だらけ。今の世界にこの聖句を説くのは危険です。迫害されます。しかし聖書はこう言っているということで正面から説かないと聖書の真理を「薄める」ことになります。この聖句の前に日本は全滅です。傷だらけです。「離婚は罪」。深刻です。●トマスモアは主君ヘンリー8世の離婚にカトリック教徒の立場から反対したため王の逆鱗に触れ処刑されました。わたしはこのトマスモアの態度を尊敬します。主君といえども「離婚」にはガンとして賛成をしなかったわけです。そこで英国はカトリックを捨て、英国国教会を独自に建てたわけですが、英国が疲弊したのはそれからだと私は見ます。いかに身近な者といえども離婚にはガンとして首を縦に振らない事にクリスチャンの戦いの厳しさがあります。●しかし厳しいだけでよいのか。この問題をめぐって今年集会で「彼女を記念しなさい」と題して話しました(下記サイト)。「離婚や姦淫の罪は神が償い清める」ということが結論です。もしお時間があれば御一瞥いただければ幸いです。私自身の心の整理のためにまとめたものです。

http://www.asahi-net.or.jp/~EJ2T-TKHS/denshou/kinen.htm

 

 

高橋

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

resize1096.jpg 

台風の去った朝。何かを語りかけてくるようだ。

resize1097.jpg 

台風11号一過の朝。丹沢方面を望む

 

 

トラックバック(0) | コメント(0) | top▲




| Top |
0814